2009年12月24日木曜日

ライオンの歴史家

『風神帖』(池澤夏樹・みすず書房)から。▼アフリカの諺に「ライオンが自分たちの中から歴史家を生み出さないかぎり、狩の歴史は狩人の栄光に奉仕する」と言う。十二月二十四日(木)

2009年10月11日日曜日

第三のイタリア

『創造都市への挑戦』(佐々木雅幸・岩波書店)から。▼産業空洞化に苦しむ日本を地域から立て直すモデルとして、イタリアの中小企業が注目されている。なかでもボローニャを中心に、フィレンツェ、ヴェネチアという三つの都市を含む中部イタリアである。従来、イタリアの経済発展はミラノ、トリノ、ジェノバの三角地帯を中心とする北部イタリアの大企業が優勢な地帯と、パーリ、ターラントなど石油コンビナートなどの工業誘致を経験した南部イタリアの工場地帯であった。だが、1970年代の二度のオイルショック以降、イタリア半島の中部に位置し、中小零細企業の集積したトスカーナ州、エミリア・ロマーニャ州、ベネト州、マルケ州を中心とする「第三のイタリア」と呼ばれる地域の経済発展が注目されている。たとえば、ヴェネチアに近いトレヴィーゾにはベネトン三兄弟により、婦人服や子供服の分野で急激に成長したベネトンがあり、フィレンツェ周辺にはプラートという織物の世界的な産業地区があり、また、ボローニャ周辺には機械工業が集積し、スポーツカーのフェラーリの部品を製造する中小企業群や、ドゥカーティというレース用のオートバイメーカーや、各種のパッケージング機械メーカーなどがあり、大量生産ではなくて特徴のある高品質の製品を生み出している。グローバル競争の中で生き抜いている。▼ボローニャの街づくりについては、井上ひさしの『ボローニャ紀行』が、職人と大学とポルティコの街として伝えている。さすが文筆家です。すっきり巧みに描くものです。十月十一日(日)

読書、散歩、お茶、静寂。

『ヘンリ・ライクロフトの私記』(ギッシング・平井正穂/岩波文庫)から。おもに静寂と読書と散歩の話です。▼私の家は申し分のない家である。この上なく幸せなことに、これまた同じくらい申し分のない家政婦に恵まれることができた。声の低い、動作のてきぱきした女で、分別に富んだ年配でもあり、私の必要とするあらゆるサービスをさっさとやってくれる健康で器用な人である。それにありがたいことに彼女は少しも寂しがりやではない。彼女は朝早く起きる。私が朝食をとる頃には、食事の支度のほかは一切が片付いている。瀬戸物のカチャカチャいう音でさえ、私はめったに聞いたことがない。ドアや窓を閉める音にいたっては一度も聞いたことがない。なんという祝福された静寂であろうか。▼「人間とは自らの不幸を嘆く愚痴多き動物なり」この言葉の出典がどこか、私はよく知らない。しかし自分を憐れむという贅沢がなければ、人生なんていうものは堪えられない場合がかなりあると思う。▼私は新しい生活へ入っていったのだ。それまで私は植物や花のことはほとんど気にもとめていなかったが、今やあらゆる花に、あらゆる路傍の草木に、深く心をひかれる。歩きながら多くの草木を摘んだが、明日にも参考書を買って、その名前を確かめようと考え、独りで悦にいっている私であった。▼平和ないこいの一夜があければ、ゆうゆうと起き、いかにも老境に近い男にふさわしくゆっくりと身じまいをし、今日も一日じゅう本がよめる、静かに本がよめるといういい気持になりながら階下に降りてゆく。▼春を私は充分に楽しんだであろうか。私に自由がもたらされた日以来、四度も新春を迎えた。そしてスミレが散りバラが咲く頃になると、この天の賜物をせっかく身近にありながら、充分味わうことがなかったのではないか、といつも不安に思うのだ。牧場に行けば行けたのに、多くの時間を読書に費やしてしまったりした。えられた効果は結局おなじであったかどうか。半信半疑で、私はわが心の言い訳に耳を傾けるのである。▼一日の生活の中でもっともいれしい瞬間の一つは、午後の散歩から少し疲れて帰り、靴をスリッパにかえ、外出着をよれよれのゆったりしたいつもの普段着にかえ、深い、ふわふわした肘掛け椅子に腰をかけて、お茶のくるのを待つあの瞬間である。が一番くつろいだ気持になるのは、おそらくお茶を飲んでいる間であろう。最初の一杯にはいかに大きな慰めを覚え、次の一杯にはいかにしみじみした味わいを覚えることか。肌寒い雨の中を散歩した後なぞ、一杯のお茶のもたらすしみじみした温かさはなんと素晴らしいものか。▼時がたつのが早いと思うようになるのは、われわれが人生に慣れ親しんだ結果である。中年を過ぎると、人はあまり学ぶこともなくなるし、また期待することもなくなる。今日は昨日と同じようなものだし、また明日の日とも同じようなものだろう。ただ心か肉体に苦しみがあるときには、ふだんなんということもない一時間一時間が長いものと感じられよう。一日を愉快に過ごすことだ。さすれば、てきめんに、一日も一瞬の短さに縮まるであろう。十月十一日(日)

じゃがいも通信(第一号)


2009年9月22日火曜日

漢字の始原

『白川静』(松岡正剛・平凡社新書)から。▼中国の神話は非体系的だったので、古代ギリシャのように神々の論理がつくりにくかった。けれども、どんな民族の原始社会も神話的なるものからはじまっているのですから、古代中国の社会や観念の原型や類型をみるには、神話体系に匹敵するものを探さなければならなかった。ではどうするか。ひとつはそれでもなお神話の断片を集めていくことですが、それだけをやっていくのでは神話のつくりなおしになりかねない。この方法は、ヨーロッパの文化人類学が試みてきたもので、たとえばレヴィ・ストロースは「ブリコラージュ」といって、神話はそもそも各時代で「修繕」されつづけてきたのだから、現代の学問や思想もそのブリコラージュに取り組むべきだと主張したのです。▼でも、こういうやりかたは、そもそもミュトス(神話)やロゴス(言葉)が論理をともなっていた、ギリシャ・ヨーロッパ的なものには適用できるかもしれないけれど、どうも東洋にはあてはめられないのではないか。おそらく白川さんはレヴィ・ストロース構造主義と自分の方法とを比較したことなどなかったとおもいますが、かりにあったとしても、きっと結果としては、そう考えただろうと予想されます。かくて白川さんが注目したのは、まず祭祀です。次に習俗、もうひとつが歌謡だったのです。▼こうして白川さんは日本の古代歌謡(『万葉集』)と中国の古代歌謡(『詩経』)を、文字学的な目と民族学的な目の両方をもって、読み解いていきました。そして、これまで『万葉集』の鑑賞などで、自然の美しさを感嘆しているから叙情歌だとか、孤独な誰かが亡くなった心境を詠んでいるから挽歌だとか説明されてきた多くの詩歌には、実のところは、古代共同体の祭祀や秘密にかかわる強力な呪能があらわされているのではないか。そこには、たんに印象詠歌ではなく「呪能の発揚」という必然がひそんでいるのではないか。そう解読していったのです。九月二十二日(火)

2009年9月19日土曜日

土建国家60年

『道路をどうするか』(五十嵐敬喜・小川明雄/岩波新書)から。▼1953年に「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」が議員立法で成立した。ここでなによりも指摘したいのは、道路整備五カ年計画は建設大臣が策定し、同僚議員で構成する閣議で決定すれば成立するという点である。これだけ大規模な全国計画は、旧ソ連でも現在の中国でも形式的であれ国会に相当する国家機関で議決されている。それが日本では、国権の最高機関である国会が無視され、「道路の暴走」が続く。▼さらにこの法律の第三条では、従来一般財源だった揮発油税を、自動的に道路五カ年計画に充当することにした。さらに途中で財源を二倍にする暫定税率まで登場して今日まで続いている。道路利権に群がる政官業は打ち出の小槌を手にしたのである。▼もしも、道路特定財源が暫定税率ととともに一般財源化されていたら、前後日本の財政や国あり方を歪めてきた「土建国家」を卒業できたのである。国と地方分で六兆円近い一般財源ができれば、福祉や教育に回し、また高速道路やバイパス建設に圧迫されてきた生活道路を優先的に整備できただろう。▼道路から生活への選択を急がねば。九月十九日(土)

2009年9月18日金曜日

依代と神輿

『神仏たちの秘密』(松岡正剛・春秋社)から。▼日本の古典芸能や武芸百般はいつもこの「間」に体で向かっているんです。日本のリズムはそもそも間拍子です。しかも、拍子に表と裏がある。「いちとぉ、にいとぉ、さんとぉ」というように、打ったところがリズムではなく、「とぉ」と打って上げたところに表の間と裏の間が入る。これを能楽ではコミとも言う。▼私は母から、「お客さんにお茶を出すときには、湯呑茶碗をテーブルに置いて、そのあとちょっと手を添えて勧めなさいね」ということを教わりました。茶碗を動かさなくてもいいから、「どうぞ」と言いながらちょっと手を添える。このように、すでにそこにある何かに、もう一度赴いて「どうぞ」というふうに手を添えるかどうかというところに、日本の方法の何かがあるんです。▼日本の神というのは、実体をもっていません。ごくまれに神像をつくることはありますが、それは仏教の影響であとから作られたものであって、めったにつくらない。そのかわりエージェント、代りをするものはいっぱいある。その代表的なものは木ですが、岩や山も依代(よりしろ)になる。何もなければ柱のようなものを立てて、それを依代にします。これが各地のお祭りにたつ梵天(ぼんてん)とか左義長(さぎちょう)です。依代が決まると、そこに界を結び、御幣(みてぐら)を飾り、注連縄を張る。そして結界を印すための四囲四方の目印の木を決める。結界の境目に立てる木なので、これを境木(さかき)という。いまは「榊」と書きますが、じつはこの漢字は中国にはないもので、日本の国字です。日本はこういう漢字をもっと作った方がいいですね。例えば「峠」とか「裃(かみしも)」という字も国字です。とてもわかりやすい、編集的でおもしろい字です。このように境木が結ばれると、この結界の全体もまた「代」になります。そこで、ここに屋根をかけると「屋代」になる。これがのちに「社(やしろ)」になり神社になるわけです。あるいは、車輪を付けて依代全体を台として持ち上げると、祭りの山車や鉾になる。それを人間が担ぐようにすれば、それは神輿になります。九月十八日(金)

2009年9月17日木曜日

宿題をちゃんとしよう

『ゲーテさん こんばんは』(池内紀・集英社文庫)から。▼ゲーテは日ごろ、ごくつましい生活をしていた。生前つくられた彫像の一つは、身につけたフロックコートが左前になっている。ボタンのつくところが反対だ。彫刻家がまちがったとされているが、そうは思わない。以前、人々がよくしたように、色がはげると、仕立屋にたのんで服を裏返しにしてもらう。色ぐあいは新着だが、ボタン穴はかえられない。▼ゲーテが壮年期には、フランスでは、ナポレオンが格調高いナポレオン法典を掲げて王座についた。プロシアではどうだったか。フリートリヒ・ヴィルヘルム三世は四十年あまりの在位にあって、もっぱら「ビア樽とビア樽のような奥方」を愛しているほか、とりたてて何もしなかった。大国プロシアにして、このありさまである。ほかの小国は、おして知るべしである。老人と小官僚がのさばっていて、若い才能の入る余地がない。むしろ才あればあるだけ排除され、冷遇される。詩人ヘルダーリンは狂気に陥り、シラーは吹けば飛ぶような小新聞に寄稿して、ようやく息をついていた。ゲーテがありついたのは、ワイマールという小国の執政官だった。才あって世にいれられない者たちの精神生活を支えたものは「内的世界」であった。外の世界と縁を切って、内部の世界にとじこもる。ドイツの文学や思想にくり返しいわれる観念性のはじまりである。▼ゲーテの最後の病床での言葉は「もっと光を」である。天井の低い小部屋で、窓が小さかったのでそう呟いたのだろう。その病床につく十日前の知人の孫へ一文を認めている。それが絶筆文となる。「戸口を掃除しよう。すると町はきれいだ。宿題をちゃんとしよう。するとすべて安心だ」。九月 十七日(木)

2009年9月16日水曜日

楽器と屈折

『オーケストラ・楽器別人間学』(茂木大輔。新潮文庫)から。▼楽器演奏者のすべては、直接自分の肉体を使って表現する歌い手、ダンサーなどにくらべ、はるかに性格的には複雑で屈折しており、あまり開放的で率直な性格とは言えない。思ったこともストレートには言えず、もってまわってウジウジと、ものすごくむずかいしい言い方をしたりする。また、どうしても道具のよしあしにこだわったり、だいじにしたり、集めたり、その手入れをすることが日常になるため、インドアでおたく的な、暗い一面があるのではないか。▼もし、生まれ変わることができたなら、今度は、ジャズミュージシャンになりたい。とくにピアノ。渋い表情でメンバー全員の動向をうかがいながら、さりげなくサウンドを作っていくのがカッコイイ。▼楽器適正クイズでは、私の場合はクラリネットがよいのでは、という結果でした。九月十六(水)

2009年9月13日日曜日

「財政赤字」真っ赤なウソ2 (410)

▼「消費税は多く消費するほど多く負担するのだから公平な税制」は本当でしょうか。所得額を基準に考えれば、話はまるで違います。お金持ちほど収入の中から消費に回す比率は小さくなりますから、その意味で消費税は不公平な税制といえます。社会保障費の財源が足りないのであれば、法人税の見直しです。それでも消費税に拘るのであれば、生活必需品にはかからないようにするなど今の消費税の制度を改革すべきです。欧州の消費税率は20%前後で高いですが、日本のように買う物すべてに一律の消費税ではなく、品目により税率が違います。必要度の高いものほど税率が低くなっているのです。▼日本は低所得者に厳しく、高所得者には優しい税制を採っていますから、この不公平をなくすには金融資産課税の導入し、所得を再分配したらいいのです。「そんな金、オレ払わねえよ」と渋るなら、ジョナサン・スイフトの『ガリバー旅行記』を話したらいいのです。ある日、主人公のガリバーが旅した国は、「小人国」でした。その国の社会システムは、とてもユニークでした。長いヒゲを蓄え、温厚な風貌の国王がガリバーに語りかけます。「ガリバー君。この国では、美徳に高い評価が付くんじゃよ。書を読む、謙虚で思いやりのある人、一芸に秀でた人、いつも笑顔を絶やさない人、人望のある人など、じゃよ。この国では、そういう人物に高い税金がかかるんじゃ、それは名誉と尊敬の象徴じゃからな。キミ、自信があるかな?」。ガリバー君、「うーん」とうなりました(オレにはそんな豊かな人間性はないなあ)。すると、国王は話を続けます。「そうそう、この国では金持ちは一番嫌われておるな。だからワシもホラ、粗末な服を着てビンボーを楽しんでおるのよ」。ということで、税金は「愛」と「知」にたっぷりとかかるのでした。そしてたくさんの税金を支払う人ほど幸福になる権利があるのでした。日本もそんな国にすればよいのです。▼田中角栄の『日本列島改造論』というのは、日本国民全体のことを考えた、いい発想でした。ただ、金を流す手段として公共事業をやるだけやってしまった後は、たとえば森を守るためにお金を使いましょうとか、文化振興のためにお金を使いましょうという風に発想を転換しなければいけなかたったのに、それが出来ず失敗した。地方の道路やダムなど、どうしても必要な社会資本がかなりの部分整備されていたのに、単に工事が必要だからと公共事業を続けていたら、環境が破壊されてしまうからです。▼老後を考えたら、住宅は買った方がよい。2004年の年金制度改革で、夫婦二人の専業主婦世帯のモデル年金支給額は、月額23万3千円から最終的に15%減らされることになりました。つまり年金月額が20万円を切るわけです。この収入で家賃を10万円払えば、生活費は10万円を切ってしまいます。これでは老後の生活は成り立ちません。郊外の駅から離れた中古マンションを買うというのも一つの手です。通勤の必要がなくなるのですから、環境のよい場所を見つけて、ゆったりと暮らせばよいのです。「トカイナカ」「チカイナカ」暮らしです。▼トカイナカ、わるくない。九月十三日(日)

「財政赤字」真っ赤なウソ1

『大不況!!年収120万円時代を生きる』(森永卓郎・あうん)から▼経済力で世界1、2位のアメリカと日本が、貧困率でも世界1、2位。OECD(経済協力開発機構)が2006年7月に発表した「対日経済審査報告書」では、所得格差の拡大が日本の経済成長に与える悪影響に懸念を示しています。その審査項目の一つに「相対的貧困率」があります。これは国民を所得順に並べて、真ん中の順位(中位数)の半分しか所得がない人(貧困層)に比率のことです。中位の年収が500万円だとしたら、250万円以下の所得層がどれだけいるかということです。日本はアメリカの13.7%に次いで13.5%と、ワースト2位にランクです。ちなみにイタリアでさえ11.5%、フランス6.0%、最も低いチェコは3.8%でした。このことについて、OECDは、「コスト削減でパートやアルバイトなど賃金の安い非正社員を増やしたことが、所得の二極分化を助長させた」と断罪しています。▼生活支援と景気対策のリョウニラミの定額給付金は、思い切って一人当たり30万円バラ撒いて欲しかった。4人世帯なら120万円ですから、これなら車や大型テレビなどの高額商品も買うでしょう。財源は十分あります。これに必要な予算は40兆円足らずですから、埋蔵金だけでも対応できますし、足りなければ政府紙幣を発行すればよいだけです。過去に繰り返された恐慌発生のメカニズムは、資本家が所得を独占して勤労者(庶民)に分配せず、設備投資に回して生産性を上げる。でもそれが供給過多を生み、商品が売れず価格が暴落してデフレになる。従業員は賃下げに遭い、あるいは雇用が失われる、というパターンです。▼国の債務残高は838兆円とされていますが、これは国債と政府借入金と政府短期証券を合計したものです。その中には、国の借金とは違う性格のものが二つ含まれています。一つは、財投債(財政投融資資金特別会計国債)ですが、財政投融資制度の廃止にともない、政府系金融機関などの財政機関は、自ら債券を発行して資金を調達することが原則になりました。ところが財政機関に信用力がないので、自ら債券を発行すると高い金利を払わなければならず、そこで、国が代わりに国債を発行して資金調達をして、その資金を財政機関に貸し付けています。もちろん、その資金は、最終的に政府に返されるのですから、国が抱える借金などではありません。そしてもう一つは、政府短期証券ですが、これは政府の短期の資金繰りに当てられるもので、言ってみれば繋ぎ資金に過ぎません。ですから、長期の財政状況を判断するためには、この二つを除いた額を「長期債務残高」とすべきなのです。この二つを除けば、実質的な長期債務はむしろ減っています。これが財政赤字のカラクリなのです。政府・財務相が力説する財政破綻説は眉唾ものです。▼真っ赤なウソです。九月十三日(日)

2009年9月12日土曜日

傭兵

『13歳のハローワーク』(村上龍・幻冬舎)から。▼いろいろな「好き」を入口に514種の職業を紹介。派遣、起業、資格など、雇用の現状をすべて網羅した仕事の百科全書ですが、そこには、こんな職業が紹介されていて目を引きました。「何も好きなことがない、とがっかりした子供のための特別編」に普通はいけないこととされる「ケンカが好き」「戦争が好き」なら、「傭兵(ようへい)」という職業を案内している。「外国の軍隊に雇われて働く兵士。フランスの外人部隊が世界的によく知られている。フランス外人部隊の場合、20歳から40歳の男子で、国籍は問われない。偽名での申し込みも可能だが、指紋でインターポール・国際警察に手配されていないかチェックされる。もちろん犯罪者が紛れ込むのを防ぐためだ。訓練は過酷を極め、フランス語のトレーニングもある。武器の扱いを覚えるために日本の暴力団員が応募することもあるらしいが、たいていはフランス語のトレーニングに付いていけず挫折するという。拷問を受けたり、重傷を負ったり、死んだりしてもいっさい文句は言わない、ということが記してある契約書にサインしたのちに入隊する。フランス軍の海外出兵時に、先兵として投入される。近年は、アフリカの紛争・内乱への参加が多く、多くの傭兵が、部族間抗争に巻き込まれ、目をくり抜かれたり、耳をそぎ落とされたり、性器を切り落とされたり、内臓をライオンやハゲタカに食べさせられたり、残忍な方法で拷問されたあと、殺されている」。▼使い捨ての傭兵。九月十二日(土)

2009年8月28日金曜日

「三四郎」をヨム2

▼(つづき)僕が採用している「テクスト論」は「作者」に関するデータを使わない。その不自由さが、学生のテクストの読み方に様々な工夫をさせ、さらには方法論を育むのである。ちょうど中学入試の算数が、方程式を使えばあっさり解ける問題をあえて方程式を使わせずに解かせることで子供の頭を鍛え上げるように、である。想像力は不自由さから生まれるという逆説を、僕は信じている。たとえば、手を使うことを禁じたサッカーが足の芸術を生み出したように。▼近代国文学演習Ⅰでは、一年かけて夏目漱石の『三四郎』を読むことにしていた。一年を通して『三四郎』の作者夏目漱石には言及しないというルールも作った。たとえば、『漱石全集』から『三四郎』に関係ありそうなところを引き抜いてきて『三四郎』を論じることは、研究でも現実に行われている。しかし、これでは作者から解釈コードを貰って『三四郎』を読んで済ませることになる。学生が「自分の力」で小説を読むということは、そういうことではない。自分で解釈コードを探し、その解釈コードを使って目の前の得体の知れない小説テクストを「自分の言葉」で語り直すことが、「自分の力」で読むことなのだ。学生にはそれを学んでもらいたいと思った。この「語り直し」のことを、僕は「翻訳」と呼んでいる。それは「自分の読み」を形にすることである。しかも、小説テクストは、小説テクストをそれとは異なる言葉の体系に「翻訳」することで、はじめて「自分の読み」を他人に伝えることができる。それが、読みの「個性」を他人に認めさせることではないのか。これは、知的なコミュニケーション能力を身につけることだと言っていい。だから、教育にはぜひ必要な過程なのである。しかし、小説テクストは多様だ。したがって、大学では解釈のコードをできるだけ多く身につける練習をする必要がある。その手助けをするのが、僕の仕事だ。小説のテクストの自分なりの翻訳という方法は、世界というテクストを自分の解釈コードを使って自分の言葉に「翻訳」することで、それを他人に伝える知的なコミュニケーションに応用可能だ。また、世界を自分のコードで解釈することは、自分なりの世界観を持つということである。それが個性というものである。その個性が、社会の中で自分の「商品価値」になるのではないだろうか。八月二十八日(金)

「三四郎」をヨム1

『三四郎』(夏目漱石・岩波文庫)から。▼美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上に卸した。その時三四郎はこの女にはとても叶わないというような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた。「迷子」女は三四郎を見たままでこの一言を繰返した。三四郎は答えなかった。「迷子の英訳を知っていらしって」三四郎は知るとも、知らぬともええ得ぬほどに、この問いを予期していなかった。「教えてあげましょうか」「ええ」「迷える羊(ストレイシープ)―解って?」三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である。…「馬券で中(あて)るは、心の中を中るより六ずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中て見ようとなさらない呑気な方だのに」。▼『学生と読む『三四郎』』(石原千秋・新潮選書)から。▼フロイトに教わるまでもなく、「冗談」は多くの場合「本音」である。▼真っ当な文科系の大学生になるためには、大学図書館はもちろんのこと、書店が好きにならなければならない。図書館は「過去の本」がある場所で、書店は「現在の本」がある場所だからである。▼社会人が学び直すことは、いわばそれまでの自分の生き方の否定につながるともいえる。逆にいえば、自己否定にならないような学び方では充分に学んだことにはならないのである。小説にはたくさんのことが書き込んであるのに、登場人物の「気持ち」や「心情」を読み込む読み方しか出来ないでいる。目の前に表れている言葉を素通りしてしまうのだ。▼一つの所にじっとしていられない。まるで、「焼けたトタン屋根の上の猫」である。▼掃除はごみの移動にすぎない。締め切りのある仕事は、すべて雑用である。▼僕の長年の経験からすると、頭のいい学生が必ずしも文章が書けるとは限らないが、文章が書ける学生は間違いなく頭がいい。▼繰り返すが、『三四郎』の隠された物語は美禰子と野々宮との別れだった。三四郎は「お邪魔虫」だったようなところがある。しかし美禰子は自分に恋していると勘違いしていた三四郎には、美禰子の方が変化しているように見えてしまう。もっと言えば、三四郎から見れば、美禰子が三四郎を裏切ったように見えてしまう。それを、美禰子と野々宮との関係から捉え直して論じれば、『三四郎』の演習は終わりを迎えることができる。つまり、『三四郎』の演習は、主人公三四郎をどこまで突き放してみることができるかに掛っていると言える。それは、それまで「主人公」にしか感情移入してこなかった学生にとっては、新しい「体験」だ。そういう体験を通して、彼等は小説を読める「大学生」になるのである。▼「その時僕が女に、あなたは画だと云うと、女が僕に、あなたは詩だと云った」。八月二十八日(金)

2009年8月11日火曜日

まち美学5

▼記憶に残る空間。ケビン・リンチは『都市のイメージ』で、イメージの構成要素は、パス(路地)、エッジ(縁)、デストリク(地区)ト、ノード(結節)、ランドマーク(目印)の五つを挙げている。奥野健夫は『文学の原風景』で、作家も自己形成空間としての「原風景」についてふれ、「生まれてから七、八歳頃までの田舎の家や遊び場や家族や友達などの環境によって無意識のうちに、土着性の強い原風景が形成される」とする。作家でいえば、太宰治の津軽、坂口安吾の新潟、室生犀星の加賀金沢、佐藤春雄の紀州熊野のような風土性豊かな自己形成空間の中で、強烈な原風景をもった人々には、それが文学の原点にもなり作品に表れてくる。一方、三島由紀夫は、自己形成期に自然や風景を知らなかったが、日本の古典や西洋の小説で架空の原風景をつくりあげたという。彼が松を指してあれは何という木かとドナルド・キーンに尋ねたとう挿話がある。▼都市の居住環境で、重要な人間形成期に必要として考えられるものは、大樹である。大樹には多年の風雪に耐えて樹齢を重ねてきたある種の威厳や気品のようなものがあり、また多年同一の場所に停止しながら生存していることから、沈着、忍耐、不羈のような特性やら、動物のような自ら行動できない植物の宿命としての、受容性、客観性のようものを感ずる。▼まず、第一に、「街並みの美学」を成立させるためには、「内部」と「外部」の空間領域について、はっきりとした領域意識をもつことである。すなわち、自分の家の外までを「内部化」して考えられること、あるいは、自分の家の中までを「外部化」して考えられること、二つの領域について空間を同視して考えられること、または、空間を統一して考えられることが肝要である。▼建築基準法第65条では、防火地域または準防火地域で外壁が耐火構造なら、その外壁を隣地境界に接して設けることができるが、普通の住宅地においては、民法第234条によって境界線より50センチ以上離すことが必要である。そこで民法を改正して、コート・ハウスやテラス・ハウスのようにパーティ・ウォール(境界の壁を共有)を建て、この隣地境界線の両側に空いた50センチずつを道路側にもっていって、道路沿いに1メートルの前庭をつくってみる。前面道路内部化である。塀はこの1メートル以内には建てないようにすれば、住宅地は見違えるようになる。▼また、大学、植物園など巨大な公共空間においては、道路沿いに直に塀を建てず、5~10メートル後退させ、そこを芝生・花壇・ベンチ・屋外照明などを設け、緑の遊歩道とする。さらに、電柱の地中化で第二次輪郭線を減少させたり、路上に置かれるもの(街灯、ベンチ、くずかご、標識、案内板、郵便ポスト、公衆電話など)の第二次輪郭線に影響のあるものを、景観上すっきりしたデザインとして「街並みの美学」に貢献してもらう。▼日本でも、まだやれることはある。八月十一日(火)

まち美学4

▼イタリアやギリシャの組積造の建築では、外壁(第一次輪郭線)が街並みを決定しているのに対し、香港・韓国・日本は建物の外壁の袖看板(第二次輪郭線)が街並みとなっている。日本人画家もパリを描くと絵になるが、日本の街並みは絵にならないという。「第一次輪郭線」は秩序と構造がはっきりして描きよいのに対して、「第二次輪郭線」は無秩序で構造化されていないため、絵にならないからであろう。第二次輪郭線をできるだけ少なくすることによって街並みを整えることが大事である。具体としては、①都心の主要道路を広くし、建築の第一次輪郭線を見やすくする。②歩道の幅を3メートル以上にすれば、建物の第一次輪郭線が視野に入りやすくなる。③第一次輪郭線を遮蔽する第二次輪郭線、特に袖看板を極力制限する。▼都市景観における魅力の一つに、見下ろす「俯瞰景」がある。モンマルトルの丘、横浜・神戸の「港の見える丘」は、見る人と街並みとを緊密に結びつけてくれる。特に函館山から望んだときの夜景は感銘できるが、あの俯角10度の円弧がちょうど函館の市街地と港の海面とをかかえこんで、まさに「眼下に広がる」というものである。都市の街並みにおいて、坂のある街、階段のある街、丘のある街、港の見える丘は、それぞれ心に焼きつく印象を人々に与えてくれる。できるだけ俯瞰景をふやすことである。しかも、景観として優れたものになるためには俯角10度である。▼小さな空間こそ。私はたった二畳ほどの小さな書斎を屋根裏にもっている。手をのばせば眼鏡も煙草も原稿用紙も本も、なんでも必要なものを簡単に取ることができる。この小さな部屋に入ると、不思議と気が落ち着いて仕事がはかどるのである。屋根裏部屋は、大体において天井が斜めで低く、小さな出窓がちょこんと開いている。最上階に位置するせいか、外界から遮断されていてなんともいえない安心感がある。ベッドに横たわりながら斜めの天井に貼ってある写真やモットーを眺めていると安らぎを覚えるのである。こんな「小さな空間」には、自分の城としてのプライバシーや庇護性があるのである。▼そこは、自分だけで考えたり行動できる「蛸壺の空間」である。小さな空間とは、自己をみつめることであり、そこから遥か遠くの大空を眺めながら、けし粒のように消えてゆく小鳥に身を託したりする。イマージュの世界では、小さくなることと遠くにゆくこととは同じなのである。一人になりたい、旅に出たい、見知らぬ遠い国に行きたい、と思うとき、人々はこの「小さな空間」を、求めている時に違いない。一人になりたいのでる。八月十一日(火)

まち美学3

▼ヴェネチアの知り合いのイタリア人とその子供を連れて、サン・マルコ広場に出たことがある。子供たちは喜々として、あの舗装の模様沿いに鬼ごっこをしたりして、しばし遊んだ後、いよいよ寝る時間になって広場の脇の住まいに帰ると、子供たちは二階の方に向かって「ボナ・ノッテ」と大声で叫ぶ。一斉にそのあたりの窓という窓が開いて、沢山の顔がその子供たちに「おやすみ」の挨拶を交わすのである。街を住民の皆で静かにみはっているのが実感としてわかった。さしずめ日本なら京都の町家の近隣意識であろう。「おもて」で遊ぶ子供たちは格子ごしに母親の領域にある。また「おもて」で行われる日常の行事、掃除、植木の手入れ、水撒きをはじめ、祭事その他はここに育ってゆく子供たちの社会教育の場としても重要であった。▼碁盤目に配置された道路に沿って建物を配置すると、すべて「出隅み」空間となり、人々を押し出すような非情な都市空間となる。その逆に、「入り隅み」の空間では、人々を包み込むような温かいまとまりのある都市空間を生み出す。日本の場合、イタリアの広場のような「入り隅み」空間が苦手だが、できないことはない。建物のセットバック(前面後退)である。できれば反対側の建物も同様に後退させる。前面空地を広場(⇒六花亭)とできれば、街並みが整う。▼サンクン・ガーデン(低い庭)技法の先駆事例は、NYのロックフェラー・センター。この低い広場は冬はアイス・スケート場となり、その他の時期は野外レストランになり、大勢の街を歩いている人々はこのあたりにとどまり、下の広場の活動を手すりにもたれながら眺めるのである。街路に単に交通という機能以外に、とどまったり、話したり、眺めたり、食べたり、スポーツしたりする機能が与えられると、街が急に活気を取り戻すのである(⇒釧路のサンクン・ガーデン)。この技法は、敷地の一部を低くし閉鎖空間をつくることによって、屋外でありながら室内のようない「入り隅み」空間をつくることにある。▼コートハウスの提案。もし三十坪の敷地に延三十坪の総二階を建てれば、十五坪の屋外空間ができる。この建て方を西欧ではコートハウスと呼んでいる。この十五坪の庭のうち、三坪を道路と家との間に割りあて、街並みを美しくするために花や植物を植える。残りの十二坪の本庭には二坪のダイニング・テラス、六坪の雑木林、二坪のサウナ小屋、二坪の作業場にすることができる。日本ではこのような連続住宅を「長屋」と呼んだり、京都では「町家」と呼んでいるが、街並みの美化をするために前庭をとるところが少し異なる。また、もし一軒から一坪を供出すれば、五十件で五十坪の自家用公園か共同の駐車場をつくることもできる。八月十一日(火)

2009年8月10日月曜日

まち美学2

▼イタリア・トスカーナ地方の街、例えばアッシジ。教会と井戸を取り囲んだこの広場には、不思議なことに樹木がなく、この広場を規定している周辺の石造建築の脚もとまでしっかりした石の舗装がなされている。イタリア人は世界でもっとも広いリビングルームをもっているといわれてように、この広場は街の人々のもっとも広いリビングルームの延長である。人々は一日何回となくこの広場に出て、語ったり休んだり子供を遊ばせたりするのみならず、日曜の礼拝には街の社交場ともなるのである。このような城壁に囲まれた一軒の建築ともいうべき都市の内部に繰り広げられた見慣れない街並みは、日本人にとっては異質のものであろう。「境界」を意識して境界から内部に向かって求心的に秩序を整えていくこれらの都市と、「境界」を意識しないで外部に向かって遠心的にアーバン・スプロールしていくわが国の都市と、都市の空間秩序を創造していく際に二つの異なった方向があるのではないかと思い至るのである。▼当初は一階の家が多く、その後の人口増加に対応して、二階、三階を増築してゆく。この点が石造の特質である。その場合、二階や三階の玄関に到達するための屋外階段がつくられ、それがこの街の特色をなしているし、またこの屋外階段の美しさが街の誇りであるともいわれている。道路の上にもアーチやヴォールトをかけて家を増築する。その結果、城壁の内部には、まるで一軒の大きな家のような「内的秩序」のある街ができあがる。市民の意識としては、自分達の家も城壁の内側の街は、足袋はだしで歩けるような、大きな屋敷のような「内的秩序」の街である。イタリア人はここを靴をはいて屋外も屋内も歩く。▼ボローニアの柱廊(ポルティコ延長40キロ⇒日本は酒田市の雁木)は気候上有用であるばかりか、市民はこの回廊を一日中往き来している。正午および夕暮時に、たくさんの人々がこの回廊をぐるぐる歩き回る。その時友達にまったく出会わないことなどは不可能だといえる。イタリア人にとって街路は生活の一部であり、愛着のあらわれである。▼このことは、街路のみならず、都市のオープン・スペースとして、イタリア人は人々の出会いの場としての人為的な広場(ピアッツァ)をつくってきたし、イギリス人は人々の出会わない休息の場所としての自然的な公園(パーク)をつくってきた。わが国では、外部空間には無関心であり、芸術的に優れた室内空間はあっても、公共的に優れた街路空間やオープン・スペースを芸術的につくることでは見劣りがする。八月十日(月)

2009年8月6日木曜日

まち美学1

『街並みの美学』(芦原義信・岩波現代文庫)から。▼ロンドン郊外の二戸連続建て住宅の戸境壁は厚さ70センチ。ドイツの住宅では内と外を隔てる外壁の厚さが49センチ、部屋を区画する間仕切り壁で24センチが標準。壁が占める面積が家の総面積の約20%もある。▼兼好法師が述べているように、住まいは仮の宿りであり、その造りようは夏を旨とすべきである。すなわち、夏の通風のため南北に大きく開口し、自然と連帯し、春の若草、夏の夕涼み、秋の名月、冬の雪に親しむことを第一に考えるべきであるとしている。▼「真壁(しんかべ)造り」(⇔構造材を壁の中に隠すのは「大壁造」)の家においては、建具はすべて柱と柱の間に納まっているため、障子も襖も厚さがせいぜい3センチ程度であり、軽く滑りのよいことが上等の普請であることを意味している。指一本でもするすると開けられ襖は、単に視覚的に見えないあるいは見ないという約束の上に成立した間仕切りであり、西欧で見られるような重々しく締まる個室の厚い堅牢な扉とは、本質的に異なるのである。わが国の気候からいうと、夏は高温多湿であり、家のたたずまいとしては、第一に床下の通風が大切であり、そのためにはこの軸組構造は最適であり、後に述べる石や煉瓦を積む組積造では、地面と接する部分を開けると上部の荷重が地面に伝えられなく家全体が崩壊するために不適当である。高温多湿の夏を凌ぐのには、冷房のない時代には自然の通風が第一であった。柱と柱の間は、本来大きな開口部であるため、この「真壁造り」は夏の生活に最適であった。では冬の生活はどうであったろうか。石造や煉瓦造の家のように家全体の熱容量の大きいものに比べて、壁が薄く開口部の大きい和風住宅では熱容量がきわめて小さく、外の寒さは直ちに内の寒さに通ずる。このような熱容量の小さな家の内部を温めることは、外の自然を温めるほどに愚かなことであった。和風住宅では、火鉢、いろり、こたつのような直接的な方法が一番賢明である。また、炊きたてのご飯、たぎる味噌汁、熱燗の酒で体内より体を温め、厚着をしてその熱を失わないようにすることである。▼逆に、熱容量の大きい石や煉瓦の家では、床や壁がいったん冷えはじめるとどんどん体熱を奪われる。部屋全体が温められて床や壁が温まってくれば、体熱を奪われることなく冬を楽に過ごすことができる。木造の真壁造りは床下通風のある高床式家屋であり、熱容量の小さい家屋である。熱伝導率の小さい畳敷きの家屋では、靴を脱いで座る生活や床面にじかに布団を敷いて寝るようなことが当然の帰結である。一方、西欧の組積造の家のように大地に接し熱伝導率の畳より大きい石畳の床では、身体と床面を離すことが必要であり、靴をはいたままの椅子式の生活や、脚のある寝台に寝るような生活が当然の帰結であったと考えられる。また、わが国の畳は断熱性に富むほかに吸湿性があるため、就寝中の布団の下に蓄積される水分を吸収できる。その点、石畳は吸湿性がないたから脚つきの寝台を使わないわけにはいかなったとも言えるのである。▼わが国のような湿潤地帯では「壁」を否定するような方向で、西欧の乾燥地帯では「壁」を肯定するような方向で、住まいと人間との係わりあいが歴史的に続いてきた。そして今日のような鉄骨や鉄筋コンクリートの近代建築をつくれるような工業化の時代にも、この事実は底流として存在し、その街並みの形式にも強い影響があることを否定することはできないのである。八月六日(木)

2009年7月9日木曜日

生命のデフォルト2 (400)

▼不細工な仕上がり。生命の基本仕様はまず割れ目をつくり、そこに入り口(出口ともいえる)を持つ細い管を2本用意した。ミュラー管とウォルフ管である。二つの管は並んでいる。もし発生プログラムが基本仕様のままであれば、ミュラー管が成長し、膣、子宮、卵管という一連の生殖器になる。かたや、発生プログラムの途中にSRY(sex-determining region Y)が挿入され、そこからカスタマイズが進行するとすれば、ミュラー管は抑制因子によって萎縮し、かわりに男性ホルモンの促進作用によってウォルフ管が成長を始める。ウォルフ管は、割れ目の開口部に近い順に、射精管、精嚢、輸精管、精巣上体という一連の生殖器になる。そして不要となった割れ目を閉じ合わせ始める。しかしこのカスタマイズのプロセスでひとつだけ不都合なことが生じる。それは精子を放出する開口部が出口を失ってしまうことだ。また、尿の出口もうしなってしまうではないか。▼尿路の形成についてもまた、女性の構造を見ると生命の基本仕様がわかる。ミュラー管は膣、子宮、卵管を作る。ミュラー管と並行してそのすぐ上を走っているウォルフ管。これは男性では精管になるが、女性にとっては無用のものとなる。しかしひとつだけ用途がある。それが尿路の形成だ。尿路が合流したウォルフ管の出口。女性ではここが割れ目になって外界に通じる。今、男性化のカスタマイズはこの割れ目を肛門の側から縫い合わせて膣口を閉じた。左右の大陰唇を閉じ合わせて玉袋を作った。そして今はウォルフ管の出口ごと縫い合わせ作業を進めていこうとしている。▼しかしそのとき一つだけ配慮が行われた。完全に縫い合わせると、尿も、そして精子も外へ放出することができない。それゆえ縫い合わせる際、尿と精子が通過できる細い空洞を残しながら割れ目を閉じていったのである。このとき使われた左右の組織は、女性器でいえば小陰唇の部分である。小陰唇はやわらかい海綿状の組織でできている。その網目の毛細血管に血液が流れ込めば海綿は膨潤して大きくなる。内部に細い通路を残しながら小陰唇を全部左右に縫い合わせると最後に三角形の突起に行き当たる。小陰唇を合一した棹は最後にその頂にこの三角形の突起をドーム状に拾い上げて載せてから、その下側に通路の口をあけた。テストステロンの作用がこれらに参画するすべての細胞の増殖を促進し、一連の造形を太く、長くした。これで完成である。▼男性諸君、今一度、自分の持ち物の形状を仔細に点検してみよう。棹に当たる部分はあたかも「たらこ」のような紡錘形の海綿組織を左右から寄せ合わせたようになっている。鬼頭の部分もそうだ。こけしの頭の真ん中に穴をうがったような単純な半球状ではない。まさに爬虫類の頭部のように上側は丸く底面は平たい。そして尿道はその底面の中央をあたかも左右に寄せたような浅い通路を通って開口しているのだ。この不思議にも精妙な形状はすべて、女から男へのカスタマイズの明々白々な軌跡そのものなのである。▼男性は、生命の基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものである。だから、ところどころに急場しのぎの、不細工な仕上がり具合になっているところがある。実際、女性の身体にはすべてのものが備わっており、男性の身体はそれを取捨選択しかつ改変したものにすぎない。基本仕様として備わっていたミュラー管とウォルフ管。男性はミュラー管を敢えて殺し、ウォルフ管を促成して生殖器官とした。それに付随して様々な小細工を行った。かくて尿の通り道が、精液の通り道を借用することになった。ついでに精子を子宮に送り込むための発射台が、放尿のための棹にも使われるようになった。女性は何も無理なことはしない。ミュラー管がそのまま育ち生殖器官となる。女性は何かを殺すこともしない。女性の身体にはいまでもウォルフ管の痕跡が残っている。▼アダムがイブを作ったのではない。イブがアダムをつくり出したのである。▼自然は、加速を感じる知覚、加速覚を生物に与えた。ジェットコースターがまさに落下せんとするとき、その落下感を受け止める感覚。これを私は、人間が持つ六番目の知覚として速覚と呼びたい。より正確にいえば加速覚。進化とは、言葉のほんとうの意味において、生物の連鎖ということである。生殖行為と快感が結びついたのは進化の必然である。そして、きわめてありていにいえば、できそこないの生き物である男たちの唯一の生の報償として、射精感が加速覚と結合することが選ばれたのである。七月九日(木)

2009年7月8日水曜日

生命のデフォルト1

『できそこないの男たち』(福岡伸一・光文社新書)から。▼トポロジー的にいってみれば、消化管は、ちょうどチクワの穴のようなものだ。口、食道、胃、小腸、大腸、肛門と連なるのは、身体の中心を突き抜ける中空の穴である。空間的には外部とつながっている。私たちが食べたものは、口から入り胃や腸に達するが、この時点ではまだ本当の意味では、食物は身体の「内部」に入ったわけではない。外部である消化管内消化され、低分子化された栄養素が消化管壁を透過して体内の血液中に入ったとき、初めて食べ物は身体の「内部」、すなわちチクワの身の部分に入ったことになる。▼生命の基本仕様(デフォルト)。子宮の奥の暗がりの中で受精が成立したら、受精卵はXXかXYにかかわらず、生命の基本仕様にしたがって展開する。受精卵は分裂して二つに、さらに分裂して四つに、八つにと倍々に増える。瞬く間に細胞は膨大な数となり、球状の細胞塊となる。やがてボールの皮の一部が内側にめり込む。U字形にめり込んだ皮はやがて向こう側に達する。そこに口が開く。最初に侵入が始まった部位が肛門となる。ミクロなチクワの誕生である。▼受精後、6週間ほどが経過すると生き物は1センチほどの大きさになる。さらに1週間経つと急に人らしくなる。頭が丸くなりそれを支える首ができる。手足が伸びる。体長は2センチになる。仮にもしこの時点で、不謹慎ながらも、太ももの間をのぞき見ることができたとしたら、染色体がXXであろうかXYであろうと、そこには同じものが見える。割れ目。これを見たらおそらくおしなべて皆こう思うだろう。ああ、この子は女の子だと。そうそのとおり。すべての胎児は染色体の型に関係なく、受精後約7週間までは同じ道を行く。生命の基本仕様。それは女である。このあと、基本仕様のプログラム進行に何ら干渉が働くことがなければ、割れ目は立派な女性の生殖器となる。▼基本仕様によれば、まず割れ目から細い陥入路(ミュラー管)が奥へと延びる。このミュラー管は、細胞分裂によって入り口の部分は膣に変化し、奥に行くにしたがって広がりつつ、子宮、そして卵管を作り上げる。卵管の一番奥には原始生殖細胞が鎮座し、それが卵子をつくり出す場所、卵巣となる。割れ目の中央にできた膣口の上に、腎臓へ伸びる尿道が開口する。さらに上方の舳先(へさき)には尖った陰核が作り出され、割れ目は舟形の、より割れ目らしい形となる。これが生命の発生プログラムにおけるデフォルト=基本仕様なのだ。▼では、もしこの子が男の子になろうと思うなら、まずしなければならない変更点は何か?それは何はともあれ、割れ目をとじ合わせることである。睾丸を含む陰嚢を持ち上げてみると、肛門から上に向かって一筋の縫い跡がある。それは陰嚢の袋の真ん中を通過してペニスの付け根に帆を張り、ペニスの裏側までまっすぐに続いている。俗にこれは、「蟻の門渡り(とわたり)」と呼ばれる細いすじである。男の子は早いうちからこのすじの存在に気づいている。知ってはいるけれど、なぜこんな線がこんなところについているのか、そのことについて、思いをめぐらせた少年はどれくらいいるだろうか。蟻が一列に並んで渡らなければならないほど狭い通路、そう名づけられたこのすじこそが、生命の基本仕様に介入してカスタマイズがかけられたことを示す、まごうことなき痕跡なのである。では誰が一体、カスタマイズを行ったのか。SRY(sex-determining region Y)である。▼プログラム開始後、約7週間目に、WT-1というタンパク質のスイッチがオンになり、SRY遺伝子のスイッチもオンになる。SRYの指令を受けた別の実行部隊は、膣が開口する必要のなくなった割れ目を閉じ合わせる作業を行う。肛門に近い側から細胞と細胞の接着によってたどたどしく縫い合わせが始まる。蟻の門渡りはこのような営みの痕跡として存在するのである。▼SRYの指令は他方でテストステロンという男性ホルモンを作り出す。胎児の生殖器にはミュラー管に並行してウォルフ管があるが、このウォルフ管がテストステロンにさらされると分化・成長を始めて、精巣上体、輸精管、精嚢など精子の輸送を行う管を形成することになる。ウォルフ管の奥の終点には原始生殖細胞が位置する。何ごともなければこの細胞は卵細胞になるはずだった。ところがテストステロンのシャワーを浴びることによって、ここでも原始生殖細胞はデフォルトからカスタマイズのわき道を歩むことになる。すなわち精子細胞を作り出す精巣となる。デフォルトでは原始生殖細胞は左右に分かれた卵管の奥に安住するはずだった。が、精巣に変わると徐々に下降することになる。▼下降した精巣は、割れ目を閉じ合わせてできたところまで下がる。その部分はちょうど女性器の割れ目にあった左右の大陰唇を縫い合わせてできた、だぶつきのある袋状の場所である。こうして陰嚢が出来上がる。陰嚢の中央には縫合痕がある。男の子の赤ちゃんが生まれるとすぐに看護師は左右の指先でそっと赤ちゃんの陰嚢を探る。ちゃんと精巣が下降して収まるべき場所に収まっているかどうかを確かめるためだ。七月八日(水)

2009年6月21日日曜日

シカゴ学派の席巻2

▼世界の為替市場で取引される年間300兆ドル、1日当たり1小ドルにも上る資金移動の、実に90%以上が投機を目的とする短期の取引なのです。貿易などの決済に本当に必要なドルはいくらかというと、8兆ドルあれば足りるといいます。にもかかわらず、300兆ドルという余剰マネーが自己増殖を狙って世界を駆け回っている。この短期資金の移動を抑制することで、世界経済はより安定し、実体経済を中心とした姿にかわっていくはずだというのが、トービン税の基本的な考えです。▼アメリカでは、サブプライムローンによって低所得者層に到底返済できない借金を負わせ、住宅を買わせていました。それによって住宅の値段はどんどん上がっていく。値段が上がっているうちはいいのです。購入価格との差額を元手に、クレジットカードを作り、それでまた消費をする(中国と日本はそこに輸出する)。そうしてこうした借金自体を証券化し、小口化し、他の金融商品と組み合わせ、日本を含む世界中の金機機関と政府に売っていました。つまり、世界中に借金をすることで、アメリカは消費の宴に酔い、それによって世界経済は維持されていた。見た目は派手だが、近づいてみると何もない、蜃気楼のような宴です。▼このサイクルが行き詰まったことで、すべて辻褄があわなくなってしまった。アメリカのGDPのうち、工業、建設業など価値創造する産業の占める割合は、23%しかありません(2005年)。他はサービス産業、いってみれば形のないものです。蜃気楼が蜃気楼であるうちは、この経済システムは維持されますが、実はそこには何もないということに気づいたとき、このシステムは破綻するのです。この過程でさらに重要なのは、マネー自体が収縮していくということです。▼マネーは信用によって膨張する。信用を失ったとき、一気に収縮する。つまり、今回の危機が深刻なのは、もう頼りにできるマネー自体が消えてなくなってしまったということです。その証拠に、原油から、穀物から、不動産から、証券から、債券から、世界中のあらゆるものの値段が08年9月を境に落ちている。マネーは逃げたのではなく、蒸発していったのです。つまり、いくら規制を取っ払って外資、つまりマネーを呼び込もうとしても、マネーはどこにもない。これが今回の危機の実相です。▼私はかねて、F(フーズ・食糧)、E(エネルギー)、C(ケア)の地域自給圏(アウタルキー)を形成を、ひとつの理想としてきました。もともと地元に豊かにあるものを、輸送エネルギーを使ってまで海外から運んでくるという社会は、どこか間違っている、歪んでいると感じます。六月二十一日(日)

2009年6月20日土曜日

シカゴ学派の席巻1

『悪夢のサイクル・ネオリベラリズム循環』(内橋克人・文春文庫)から。▼100万ドル以上の資産をもつ日本の富裕層は年々増え続け、今日では141万人。世界の富裕層の16.2%(メリルリンチ調)。一方で、かつては中流の暮らしを楽しんでいた家族は中流から脱落し、ギリギリの生活をしている。▼ケインズ学派とシカゴ学派の争い。ケインズが唱えた公共政策とは、資本家や大企業がその優越的な力で市場をほしいままに利用することを政府が規制し、不況に対しては政府が財政投資と公共事業によって雇用を確保することでその悪影響を緩和し、累進課税を強化し社会福祉を充実することで、富者から貧者への富の再配分をおこなう、といったものです(⇒ルーズベルトのニューディール政策)。しかし、ケインジアンが困ったのは、失業率とインフレの関係でした。失業率を低下させようとすればインフレが発生し、インフレを抑制しようとすれば失業率が高くなるというトレードオフの関係でした。これを「フィリップス曲線と呼びます。この曲線によれば、インフレ率が上がれば、失業率が下がるはずなのに、70年代は必ずしもそうならず、失業率も上昇した。しかし、シカゴ学派のミルトン・フリードマンは違いました。インフレを退治するためには、貨幣の供給量を減らすしかないと考えました。公共事業や福祉事業による需要創出効果は無駄である、というこの考え方をマネタリズムとも呼びます。規制はいらない、フリーマーケットにしろ、という新自由主義(ネオリベラリズム)たちの主張であり、この新古典派経済学はレーガン政権の主軸になります。▼しかしこのネオリベラリズム・サイクル(新自由主義経済循環、佐野誠新潟大教授)では、ケインズのいう一定のサイクルでの需給調整が起こらず、一般的な意味での景気循環とはならない。つまり自由化によって、海外からの資金が集まりバブルが起きるのです。このバブルがくせもので、企業だけでなく自治体も国も借金をしまくるわけです。経済が膨張していますから借金をしてもすぐに返せると考え、財政規律がゆるみます。そしてバブルがはじけます。このとき、資本は一斉に海外に逃避し、国、自治体、銀行、企業は一挙に不良債権をかかえます。そしてリストラを始めるのです。このときに、さまざまな規制緩和などの「改革」がされます。そして国や自治体、その国の価値が、安く評価されるときをねらって、一気に海外資金がなだれこむ。この繰り返しが果てもなく続くということなのです。その過程では、弱小企業の淘汰、雇用の喪失、貧富の差の拡大、外資の進出などが起こり、人心は荒廃します。日本は、ネオリベラリズム・サイクルがちょうど一巡しようとしているところなのです。六月二十日(土)

2009年6月2日火曜日

ユダヤ人の受難

『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹・文春新書)から。▼「ユダヤ人」というシニフィアン(意味するもの)を発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。▼ユダヤ人問題は私たちの社会に構造的にビルトインされているので、ユダヤ人問題は終わらないだろう。▼ユダヤ人はなぜ知性的なのか。ひとつは、ユダヤ人が反ユダヤ主義者に「捕食」されないために、ビジネスマインドや学術的才能を「やむなく」選択的に向上させていった。サバンナの草食動物が肉食獣に捕食されないために視力や脚力を発達させたのと同様に。もうひとつは、民族的に固有の聖史的宿命ゆえに彼らが習得し涵養せざるを得なかった特異な思考の仕方の効果である。歴史を超えて、あらゆる時代、あらゆる場所でユダヤ人は迫害されてきた。第二次大戦のホロコースト受難でも神から見捨てられた。ユダヤ人は非ユダヤ人より世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならなかった。神はそのためにユダヤ人を選ばれからである。レヴィナスはそう考えた。だから受難はユダヤ人にとって信仰の頂点をなす根源的状況なのであり、受難という事実を通じてユダヤ人はその成熟を果たすことになる。▼ユダヤ的思考の特異性とは「知性的な」ものであり、ユダヤ人に対する欲望とユダヤ人に対する憎悪はそういうことに継起している。サルトルには申し訳ないけど、ユダヤ人をつくり出したのは反ユダヤ主義者ではない。やはりユダヤ人が反ユダヤ主義者を作り出したのである。この行程を逆から見ると、反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎むのは、それがユダヤ人に対する欲望を亢進させるもっとも効果的な方法だからという理路がみえてくる。▼ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは「遠き神」についての弁神論を語り終える。この屈折した弁神論は、フロイトの「トーテム宗教」ときれいに天地が逆転した構造になっている。▼どうしてこのような文明的なスケールの断絶が古代の中東で生じてしまったのか。私たちに分かっているのは、このような不思議な思考習慣を民族的規模で継承してきた社会集団がかつて存在し、今も存在し、おそらくこれからも存在するだろうということだけである。六月二日(火)

2009年5月20日水曜日

陰翳の日本

『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎・中公文庫)から。▼京都や奈良の寺院に行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難味を感じる。茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れていて、青葉の匂や苔の匂のしてくるような植え込みの陰に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持ちは、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられている。繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻(うな)りさえ耳につくような静けさとが、必須の条件なのである。▼日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。しかも鳥打帽子のように出来るだけ鍔(つば)を小さくし、日光の直射を近々と軒端に受ける。けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろいろの関係があるのであろう。たとえば煉瓦やガラスやセメントのようなものを使わないところから、横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋より明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくああなったのでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生まれているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないという風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。我々は、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を通してほんのり明るく忍び込むようにする。我々の座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。我々は、この力のない、わびしい、果敢(はか)ない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。▼金蒔絵や僧侶の金襴の袈裟は、蝋燭や燈明の薄暗いところでなら、底光りと幽玄がある。近ごろは明るすぎる。五月二十日(水)

2009年5月2日土曜日

一葉・音読

『日本語が滅びるとき-英語の世紀の中で』(水村美苗・筑摩書房)から。▼みたび、くり返すが、日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。日本近代文学が生まれたときとは、日本語が四方の気運を一気に集め、もっとも気概もあれば才能もある人たちが文学を書いていたときだからである。子供のころあれだけ濃度の高い文章に触れたら、今巷に漫然と流通している文章がいかに安易なものか肌でわかるようになるはずである。大人になり、たとえ優れたバイリンガルになろうと、そこへと戻ってゆきたく思う、懐かしくもあれば憧憬の的でもある言葉の故郷ができるはずである。具体的には、翻訳や詩歌も含めた日本近代文学の古典を次々と読ませる。しかも、最初の一行から最後の一行まで読ませる。高等学校を終えるころには、樋口一葉の『たけくらべ』ぐらいは「原文」で読ませる。うすぼんやりとしかわからなくともよいから、なにしろ、読ませる。あの一葉の天の恩寵のような文脈に脈打つ気韻やリズムを朧気ながらでも身体全体で感じとらせる。だが、そうした努力にもかかわらず、英語はますます普遍語となり、国語が滅びていく。日本語もフランス語もドイツ語も。▼科学は、「ヒトがいかに生まれてきたか」を解明しても、「ヒトはいかに生きるべきか」という問いに答えを与えてはくれない。そもそもそのような問いを発するのを可能にするのが文学なのである。もし答えがないとすれば、答えの不在そのものを指し示すのも文学なのである。いくら科学が栄えようと、文学が終わることはない。▼ケヴィン・ケリーの描く情報の理想郷とは。シュメール語が記された粘土板から今まで、人類は最低三千二百万冊の本、七億五千万の記事やエッセイ、二千五百万の歌、五億枚の画像、五十万本の映画、三百万本のビデオやテレビ番組や短編映画、そして一千億のホームページを「出版」した。これらの全部の資料は、現在さまざまな図書館や記録保管所に収められている。完璧にデジタル化されれば、すべてが(今の技術では)五十ペタバイトのハードデスクに圧縮することができる。今日、五十ペタバイトを収納するには、小さな町の図書館ぐらいの建物が必要である。明日の技術では、ipodにすべて入り込んでしまうだろう。そのとき、すべての図書館を一つに収めた図書館が、あなたのハンドバックや財布の中に入り込んでしまうのである。▼しかし、いったいぜんたい、何語でこの大図書館にアクセスするのであろうか。五月二日(土)

2009年4月18日土曜日

獄中ノート六十二冊

『獄中記』(佐藤優・岩波書店)から。▼独房生活も二カ月になると、廊下を歩く職員の鍵束の音を聞くだけで、自分の独房の扉が開けられるのかどうかがだいたいわかるようになります。死刑囚にとっては、この鍵束の音が何よりも脅威だと思います。▼それにしても語学の勉強に着手すると時間があっというまに過ぎていく。ドイツ語の辞書読みのみならず、『岩波国語辞典』も通読して、漢字練習をしておくというのも日本語力向上のために役立つと思う。▼外に出て、将来家を建てることになったら、東京拘置所の独房そっくりに小部屋を作り、思索と集中学習用の特別室にしたいと考えています。それくらい現在の生活を気に入っているということです。▼書籍の差し入れと文房具、コーヒー、食料品の購入が担保されるならば、あと二・三年この生活が続いても十分平気である。集中して勉強できる環境が保障されるのはよいことで、過去十五年の研究の遅れを取り戻すべく全力を尽くそう。▼外交の世界(特に秘密外交の世界)では、経済合理性では測れない世界があります。例えば、日本はエリツィン大統領と北方領土問題の突破口を切り開こうとしているが、同大統領に健康不安がある場合は、主治医治(ターゲット)と人脈を作って情報を得ることはとても重要になります。ターゲットと人脈ができても医師の口の堅さはどこの国でも一緒なので、この先の情報入手は深い知恵を働かす必要があります。このためには特別の便宜供与も必要になれば、接待にカネもかかります。どの程度が適切かは、工作担当者にしかわからないのです。「この工作を行う」ということが組織によって決定されれば、基本的に青天井で工作費が出るというのがこの世界の常識です。もちろん、他国の元首の健康状態を探るというのは表には出せない話なので、このような努力も闇の中に隠しておかなくてはなりません。しかしエリツィンが引退してしまえば、このような工作は意味がなくなります。結果としては、この工作に費やされたカネと努力は無駄になるわけです。「庶民の常識」から見るならば「税金の無駄遣い」ということになります。秘密外交上の工作などというのはこのようなことの繰り返しなのです。しかし、このような、作業なしに外交交渉を日本に有利な方向に導くことはできません。その時点で必要であった工作が、後から「庶民の常識」で断罪されるのでは、誰も秘密外交には従事しません。従って、このような「断罪」から秘密工作に従事する外交官を守るのが「政治」の役目なのです。しかし、今回は「政治」がわれわれを潰すことにした訳ですから、私の側ではなす術がないのです。▼国策捜査は必要な場合もあります。しかし、今回の外務省絡みの国策捜査の結果、日本の外交官は事務次官や主管局長、会計課長の決裁を得ても背任で逮捕、起訴されるわけですから、誰もリスクをおかす企画はもとより、日常業務もできるだけ縮小するようになります。仕事をしないならば、引っかけられることはないからです。問題はこの不作為がいかに国民の利益を毀損することになるかです。▼情報活動、それも諜報(インテリジェンス)に関与する業務については、外務省の器では少々不安な部分があった。活動を担保するためには政治サイドの支援が不可欠であった。政治と外務省の「ちょうつがい」役をつとめることが私には期待されていた。さらに、組織運営上のカネの問題や、内部抗争についてはチームメンバーには基本的に関与させず、私が個人的にリスクを負担した。▼この権力闘争が、日本国家システムのパラダイム転換期に発生したため、私の事件は歴史的性格を帯びることになりました。私は歴代の内閣総理大臣の命令に従って、鈴木宗男さん、東郷和彦さんたちとともに日本の国益のために日露平和条約交渉という難しい任務を遂行していました。▼人間の活動において、道具は決定的に重要である。同じ人間でもハンマーで刺身を作ることはできないし、包丁で論文を書くことはできず、万年筆で犬小屋を作ることはできない。それに暴力装置の利用を射程に収めると、「汚い手法できれいな目標を実現する」という問題設定が出てくる。▼間抜けた兵隊がいれば、戦争でいつか弾に当たるだけだが、隊長が間抜けだと部隊が全滅する。また、一人の人間によって勝つことはできないが、一人の人間によって戦争に負けることはよくある。▼フーコーが『監獄の誕生』の中で分析しているが、独房でたいていの人間は従順な人間に改造され、多くの場合、世界観まで変わってしまう。死刑囚も例外ではない。ほとんどの死刑囚が死を恐れない(同時に過去の犯罪についても一切反省しない)人間に造りかえられ、比較的平穏に処刑されていくのだと思う。死刑囚が前非を悔いるというのは、外の世界の人々が信じたがっている「物語」に過ぎないと僕は思う。▼獄中生活では、断片的なメモはいくつも作り(ノートはB5判六十二冊六千頁)、学術書も二百冊を読んだが、まとまった著述活動はしなかった。どうせ外に出てから全面的にやり直すことになるので、獄中ではあえて原稿の基になる断片的なメモ作りに活動を抑制したというのが正直なところである。▼検察との取引を避けたいがため著者は保釈請求をしなかったそうだ。512日間の拘置所生活。四月十八日(土)

2009年3月31日火曜日

四コマ漫画の序破急

『知の編集術』(松岡正剛・講談社現代新書)から。▼日本語の「すみません」は「澄みません」あるいは「済みません」である。その場の空気を乱して澄まなくなったという意味でもあるし、やるべきことが済んでいないという意味でもある。「さよなら」は「左様ならば失礼つかまつる」が原形で、それが「さようならば→さよなら」と省略されていった。▼二十一世紀は「主題の時代」ではなく「方法の時代」になるだろうと考えている。つまり二十世紀においてだいたいの主題は出尽くしたが、その展開が意外にも難題をたくさん抱えていることがわかった。たとえば平和、教育問題、安全保障、経済協力、環境保全、飢餓脱出など。しかし、事態は決してうまくは進んでこなかった。それゆえ、おそらく問題は「主題」にあるのではない。きっと、問題の解決の糸口はいくつもの主題を結びつける「あいだ」にあって、その「あいだ」を見出す「方法」こそが大事になっているはずなのだ。▼要約編集の場合には、ある量の情報内容をできるだけ短く集約してみる。自分なりに重点が拾えたら、これらを並べ直す。これは「関係づける」ということである。重点をそのまま放っておかないで、多少とも並べ直す。編集術ではそのことが重要になる。▼私はマンガ家を編集術の先生としてたいへん尊敬している。コマ割りのしかた、絵の描き方、ストーリー展開のうまさ、いろいろ尊敬しているが、それらを学ぶには、四コママンガに取り組むのが一番いいだろう。なにしろそこには起承転結がある。世阿弥はこれを「序破急」という三段階にしているが、こういうしくみを「スクリプト」といい、なかで四コママンガやミステリーやサスペンスのように読者をちょっとひっかける伏線に注目したつくりかたを「プロット」(罠)という。▼植田まさし『かりあげクン』(双葉社)の四コマを使って編集稽古ができる。まず、誰かに吹き出しのセリフを白地にしてもらったら、そこに自分なりのセリフを入れる。四コマなので起承転結を必要とする。しかも笑わせなければいけない。が、どこで笑わせるかは、必ずしもオチでとは限らない。伏線が重要になる。三月三十一日(火)

2009年3月22日日曜日

雨夜の品定め

『大塚ひかり全訳・源氏物語1』(ちくま文庫)から。▼桐壷/桐壷の更衣は桐壷帝に愛され、皇子を出産。ミカドの過度な寵愛により他妃に妬まれ、いじめられ、ストレスと衰弱死。皇子は源氏に降下。十二歳で左大臣の葵の上(16)の婿になるが、継母藤壺(17)を慕う。世人は彼を“光る源氏”と呼ぶ。▼帚木(ははきぎ)/「雨夜の品定め」で中流の女に興味をもつ。残りの第一巻には空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花の宴、葵、賢木(さかき)まで。▼いつかはたぶん。が、このたびの現代語訳を手に取ることに。三月二十二日(日)

2009年3月17日火曜日

キレギレの時間とバラバラな空間 (390)

▼吉阪隆正『地域とデザイン』(勁草書房)から。▼ブラジリアが+印を出発としたことに、その将来に現在の多くの都市の困難を内包してしまったように思う。私だったら+印のかわりに○印をつけてそこから出発しただろう。▼銀座は八丁である。それより先は京橋。英米系でも二分の一マイルが限界としている。メートル法なら800メートル。これは歩行とのかかわりだ。普通の歩行速度は時速4キロ、それだと800メートルは12分である。ぶらぶら歩きで半分の速度で進めば24分、約半時間、往復して1時間というところだ。もし真ん中にいれば、端まで15分。その15分は普通に歩けば7分半、急げば5分。つまり5分が至近距離で、15分が近距離ということになる。それは気分の変わらないうちに目的地まで到達できるということである。▼中国の鄭州の並木が思い切って枝を張っているのは、電線にふれないように、途中でY字型に枝が伸びるように仕立てている。▼キレギレの時間とバラバラな空間。分業と移動の成立。ヨーロッパの音楽では、音符をつくり、一定の間隔をきめる。何らかの感情を出すのに、他の人々とは違いがあるが、とにかくしの一定時間の中で合わせようとする。東洋の音楽はこうではなく、伸ばしたければ声を伸ばして、その伸ばし方のうまさを競ったり、それが音楽のよさとして評価されたりした。そうするとテンポは伸びたり縮んだりで、違った人とハーモニーをつくるのはむずかしでしょう。ヨーロッパでは、同じ時間の中で大勢の人が協力し合って音楽をつくる中で、このキレギレになった時間をつなぎ合わせる訓練をしたのではないでしょうか。▼ル・コルビジェがはじめてアメリカ大陸を訪問したとき、既に直径100キロ以上に伸び拡がったニューヨーク、シカゴを見て、大変な浪費だと叫んだ。税金の半分はこの伸び拡がった世界の維持に支払われていると。それは鉄道で、道路で、その上を走る機関で、それを維持するための投資で、といった物的なものばかりでなく、その広範囲を往復しなければならない人々の、生活時間の浪費でもあると。人生は24時間の連続だ。その24時間の内で出来ないことは一生かかってもできない。通勤を強制された人々は、それだけの時間を失う。しかも労働にさく時間の半分は、この強制移動をまかなうための無駄なのだ。多くの人と物とを移動するため。そして、そこからは風が生じるだけであると。三月十七日(火)

2009年3月13日金曜日

覚醒と紙障子

『アジアの旅―風景と文化』(ディエス・デル・コラール/未来社/1967)から。▼日本の家屋で眼を覚ますと、睡眠と覚醒との間の移行が西洋の日常よりはるかに穏やかなように思われる。大抵の場合、曙の光が紙障子の広窓を通して侵入しながら、目覚めさせる役を引き受けているのである。眠っている者は、いきなり猪突にではなく、むしろ網膜の底を愛撫しながら、次第に光のよろこびの前に身支度をさせていくような微かな照射のおかげで、気づくともなく徐々に目覚めていくのである。日本人はかくて、日の出のその初めから日と一体となる。▼遮光カーテンの場合、ドンと光が飛び込み目が眩む。思わずカーテンを閉じる。こんどは恐るおそる少し開いて、光量を抑える。なんてことをしていたアラスカの旅を思い出した。緯度の高いところは圧倒的に遮光カーテンですね。寝不足になちゃいますから。三月六日(金)

2009年3月6日金曜日

cojiki-08

よかったね2.. 2
よかったね1 (380) 2
粘菌クマグス... 3
美人投票の経済... 3
壊れるアフリカ.. 3
侵略の手口... 4
vibaじぶんち.. 4
ダークサイト.. 5
rentier. 6
小津の魔法... 6
sentimental journey. 7
盆踊りはだれと踊っているのか (370) 7
フロイトの苦手な〈母娘関係〉. 7
土器は足し算... 8
心身バラバラ極意2.. 8
心身バラバラ極意1.. 8
笑いの詐欺... 9
解けない... 9
文楽知らずして... 10
執筆生活... 10
低所得社会を生きる.. 10
まちづくり先駆 (360) 11
富田玲子の世界... 11
金子勝の視点... 12
日英無常... 12
池田清彦の「生きる」2.. 13
池田清彦の「生きる」1.. 13
kaigo(2). 14
kaigo(1). 14
細胞の内部では... 15
いずれ地球は凍える.. 15
人生ミスマッチ (350) 16
お金ちょっぴり、時間たっぷり3.. 16
お金ちょっぴり、時間たっぷり2.. 17
お金ちょっぴり、時間たっぷり1(347) 17


よかったね2
▼人類は葬礼という習慣をもつことによって他の霊長類と分かれた。ではなぜ、葬礼を行うのか?理由はひとつしかない。それは葬礼をしないと死者が「死なない」からだ。死者は生物学的に死んでも、私たちのまわりにとどまる。私たちは、死者の使った道具にその「魂魄」を感じ、死者のいた部屋に入ると、その気配を感じ、死者に祈ると、その声がきこえる。私たちは死者の祟りで苦しめられ、死者の気づかいで護られる。旧石器時代に、私たちの祖先は死者と生者のあいだに境界線を引くために葬礼の制度をつくった。▼死者という概念を私たちの祖先がつくりだしたのは、死んだ人間は「モノ」ではないという人間特有の幽かな感覚を基盤にして、「他者」という概念を導出するためではなかったか。「他者」という概念をもつものだけが共同体を構築することができ、「他者」を感知できるものだけが交換や分業や欲望や言語を創出することができるからである。▼親子や夫婦の関係のほんとうの価値は、「楽しい時代」にどれほどハッピーだったかではなく、「あまりぱっとしない時代」にどう支え合ったかに基づいて考量される。政治運動だってある意味それと同じである。落ち目のときに誰がどんなふうにその運動に付き合い、誰がどんなきちんと「葬式」を出したかということは運動の価値に決定的に関与するのである。▼原理主義者は「リソースは無限である」ということを前提にして、至純にして最高のものを求める。機能主義者は「閉じられた世界、有限の時間、限られた資源」の中で、相対的に「よりましなもの」を求める。どちらがよりよい生き方であるかは決しがたい。けれども、無人島に漂着したとき、どちらが生き延びる確率が高いかはすぐわかる。▼私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくら身体の動きがなめらかか、そういったさまざまな基準にもとづいて、私は人間を「格づけ」している。▼「女性的なもの」の本質は「無償の贈与」である。見返りを求めない贈物のことである。ユダヤ神秘主義の創造説話によると、神の最初の行動は「おのれ自身のうちに退去し、そこに空間を作った」ことである。つまり、神さまが席を立って、その空席に「はい、どうぞ」と被創造物を贈ったことによって天地は始まったと教える。レヴィナスはこの「女性的なもの=神的なもの」のうちに、人間と社会性、つまり共生のチャンスを根源的に基礎づける「倫理の最初の一撃」を見いだした。しかし、この「無償の贈与」という考想はいまのフェミニズムからずいぶん遠いものであるように私には思われる。▼むかし原理主義、いま機能主義。十二月二十日(土)

よかったね1 (380)
『こんな日本でよかったね-構造主義的日本論』(内田樹・バジリコ)から。▼私が二十二歳の時に書き飛ばしたアジビラの主張のほとんどに一片の共感も覚えもなかった。にもかかわず「人を挑発する仕方」、措辞の選択、語調やリズム感は、まぎれもなく私のものであるが、それが伝える「メッセージ」は、当の私でさえ覚えていないくらいだから、たぶんそこらで聴いた誰かの話の受け売りである。ということは、そういう「言い方」こそが私にとっては一次的なものであり、「言いたいこと」、コンテンツの方が副次的、派生的なものだということになる。▼強い言葉があり、響きのよい言葉があり、身体にしみこむ言葉あり、脈拍が早くなる言葉があり、頬が紅潮する言葉があり、癒しをもたらす言葉がる。現に、そうやって読み手書き手の身体を動かしてしまうのが「言葉の力」である。たくみな「言葉づかい」になるためには、子どものときからそのような「力のある言葉」を浴び続けることだけが重要なのである。その経験を通じて、はじめて「諧調」とは何か、「響き」とは何か、「論理性」とは何か、「抒情」とは何かということが実感としてわかるようになる。論理的な文章は「気持ちがよい」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」から、わかるのである。それを判定するのは身体的な感覚である。それは幼いころから美しい音楽を浴びるように聴いてきた子どもが演奏の半音のずれを「不快な音」として聴き咎めてしまうのと同じである。論理性を身につけるためには、論理の運びが美しい文章を浴びるように読む以外に手だてはない。「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する。国語教育とは畢竟それだけのことである。▼創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。それが言葉の力である。▼カランによれば、私たちが語るとき私たちの中で語っているのは他者の言葉であり、私が他者の言葉を読んでいると思っているとき、私たちは自分で自分宛に書いた手紙を逆向きに読んでいるにすぎない。▼母国語運用というのは、平たく言えば、ひとつの語を口にするたびに、それに続くことのできる語の膨大なリストが出現し、その中の最適の一つを選んだ瞬間に、それに続くべき語の膨大なリストが出現する、というプロセスにおける「リストの長さ」と「分岐点の細かさ」のことである。「海の香りが…」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。分岐点のないストックフレーズだと、ある語の次に予想通りの語が続くということが数回繰り返されると、私たちはその話者とのコミュニケーションを継続したいという欲望を致命的に殺がれる。「もう、わかったよ。キミの言いたいことは」というのはそういうときに出る言葉である。▼ストックフレーズを大量に暗記し適切なタイミングで再生することと、言語を通じて自分の思考や感情を造形してゆくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プログラムに身を投じることは、どちらも巧みにある言語を操ることだけれど、実はまったく別のことである。十二月七日(日)

粘菌クマグス
『クマグスの森・南方熊楠の見た宇宙』(松居竜五・とんぼの本/新潮社)から。▼熊楠は、生物を個別の現象としてではなく全体として理解しようとしていた。「諸草木相互の関係ははなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出て来たりおることに御座候(川村竹治宛書簡、1911年11月19日付)」と書く熊楠は、生態系という新しい概念をきわめて正確にとらえ、日本で初めて本格的に生態学を取り上げることにつながった。▼熊楠の神道とはタブーの体系であるという考え方は、神社合祀反対運動の理論的な背景となった。小さな神社や祠こそが、そのまわりに人間がタブーによって立ち入ることのできない神の領域を作り出し、結果的に人の手が入らない「神林」を作り上げ、自然と人間の関係を調和させていると熊楠はいう。▼和漢三才図会を筆写し、毘沙門天の申し子と言われた少年時代。フロリダ、キューバを放浪、孫文と交わり、殴打事件を起こす外遊時代。帰朝後も、神社合祀反対運動、ミナカテルラ菌の発見、昭和天皇への御進講などエピソードは途方もない。▼このクマグス案内に『森のバロック』(中沢新一・講談社学術文庫)はどうだろうか。十一月十七二日(月)

美人投票の経済
『閉塞経済』(金子勝・ちくま新書)から。▼どの経済学の教科書にもバブルは正面から取り上げていないが、ケインズだけは『一般理論』のなかで「美人投票論」を提起している。たとえば美人投票をやって、一位の人に投票した人には何か懸賞が当たるとします。すると、自分の好みの美人に投票するわけではなく、「みんなが美人だと思う人」に投票するようになる。つまり、「この人ならみんなが美人だと思うだろう」という予測のもとに、その人に投票するので、票が集中するのです。美人を株や土地に置き換えると、「みんなが土地や株の値段が上がるだろう」と思うと、そこに向かってみんながお金を投資する。すると、みんながお金を投資してそれを買おうとするから、価格がますます上がってもうかるので、ますます土地や株の需要が増える。▼バブルが繰り返される理路と、マクロ経済をよく理解させてもらえる書です。十一月九日(日)

壊れるアフリカ
『アフリカ・レポート』(松本仁一・岩波新書)から。▼指導者は、「敵」をつくり出すことで自分への不満をすりかえる。アフリカでよくみかける構図だ。ルワンダの大虐殺もジンバブエの経済崩壊も、そうして起きた。ルワンダはフツ族85%、ツチ族15%。で、1973年にフツ族の国防大臣がクーデターで政権を握ると、絶対多数を背景に独裁を続ける。90年代に入り政府有力者の腐敗に不満が高まる。それに対し政権側はラジオなどで「悪いのはわれわれではない、ツチだ」とする宣伝を開始。大統領の飛行機が何者かに撃墜されると、宣伝にあおられた部族憎悪が一気に噴き出し、大虐殺につながった。ジンバブエでも「1300万人の国民は苦しい生活を続けているが、見てみろ、人口の1%にも満たない白人が全農地の20%を所有し、あんな裕福な生活を楽しんでいる。お前たちが苦しいのは政府のせいじゃない、あいつらのせいだ」と宣伝・扇動した。ムカベ政権は、白人農場を接取したが、その農場から大量の失業者を生み出し、経済は崩壊した。▼アフリカは多部族国家がほとんどだ。選挙は出身部族の人口比で決まってしまう。国益より部族益が優先される。ジンバブエのムガベ大統領は人口8割を占めるショナ族の出身だ。ショナ族に有利な政策をとっていれば選挙に敗れることもない。政権は長期化し、腐敗する。国づくりは放置され、指導者が私物化した巨額の公金は海外の銀行に蓄財され、国内の市場に出回らない。蓄財した金が社会資本として回転しないため、経済の進展もない。さらに利権を握るグループと、排除されたグループとの対立が激化する。2007年末のケニアの大統領選挙では、それが部族間憎悪となり、殺し合いにまで発展した。▼現代アフリカの最大の問題は、先進国の無関心や、当事者国の累積債務などではない。「公の欠如」なのだ。それが部族対立、民族対立を生み出している。水や電力、警官や教師の確保といった公共政策に向かわない、このことが問題なのだ。▼中国には2億人の余剰労働者があふれ、国外脱出をうかがっている。しかも、入り込む余地のない先進国でなく、政府が自国の経済を保護しようとしていないアフリカに向かって流れ込んでいる。それにアフリカの中国人は商売がうまい。黒人商人は、売れ筋をつかんだ場合でも、在庫が切れるまで注文しない。次の商品が届くまで時間があき、売れ筋が変わってしまう。決定的なのは、商品を安く仕入れるルートをもっていないことだ。中国本土の生産現場と直結する中国人卸商とは、はじめから大きな違いがある。卸売りの分野では、中国商人の天下は続くだろう。▼アフリカの指導者たちは、勤勉な勤労者を育てるよりも、利権目当てで外国企業の進出を優先させた。中国商人も入り込んできた。国家指導者がうまい汁を吸っている間に、アフリカの富は国民に行きわたることなく、他者に奪われていく。▼壊れていくアフリカであるが、光るものもある。ジンバブエの農業NGO「ORAP」である。農業の事業資金は政府に頼らず、自分たちで稼ぎ出し、生産と販路を決定していく。その事業方式は隣国にも影響を与え始めた。十一月三日(月)

侵略の手口
『反米大陸』(伊藤千尋・集英社新書)から。▼米国の領土拡大の先兵となったのが海兵隊だ。海軍は海上で戦闘するが、海兵隊は海軍の艦艇で運ばれて敵地に上陸し、陸上で戦う。日本では江戸幕府に開港を迫ったペリー提督の船に乗り込んでいた海兵隊200人がその途中に琉球に上陸し、首里城を占領した。だが、海兵隊がもっとも多く出動したのは中南米だ。最初は1806年、当時スペイン領のメキシコで、その後は手近なカリブ海はもちろん、1832年には「アメリカ市民の生命と財産の保護」を理由に、アルゼンチン沖のフォークランド諸島に上陸している。帝国主義時代に入った20世紀初頭には、武力介入が増え、とくに運河をねらった中南米のニカラグアとパナマ、カリブ海の通商権をねらってのドミニカやキューバ、ハイチへの上陸、占領など、毎年どこかの国を侵略した。中南米だけでも150回近くも出動している。▼アメリカの侵略と軍事介入の手口。①アメリカに都合の悪い政権を非難する。その口実は共産主義、あるいはテロリスト、悪の枢軸、民族浄化などのキャッチコピーだ。②反政府放送局を設けて、謀略宣伝を流す。③アメリカの言うなりになる兵士を集めて、傭兵として反政府ゲリラを組織し、自分の手は汚さずに気に入らない政権をつぶす。兵士の多くは元の独裁政権の軍人だ。指導者にはアメリカ人、あるいはアメリカで訓練された軍人を充てる。④ゲリラに周辺から侵攻させる。ゲリラの兵力が少なく頼りないときは、米軍が軍事顧問団として支援する。⑤領土の一部を占拠すると、アメリカの言うことに従う人を代表にして、傀儡政権を樹立させ、その政権からアメリカに支援要請させる。⑥その要請に応える形で海兵隊が出動し、武力で制圧する。▼中南米がたどってきた「反米」、日本がたどってきた「従米」。十月二十七日(月)

vibaじぶんち
内田樹のブログから。▼そのあと6、7回パリに来ているが、いずれも語学研修の付き添いであり、日程の最後の頃にはつねに疲弊し果てており、早く日本に帰って、「viva じぶんち」でごろごろしたいと涙ぐむ。今回も同じ。別にパリに文句があるわけではない。これがハワイでも、バリでも同じである。私に1週間以上海外旅行をさせることに無理がある。地上に3分間しかいられないウルトラマンと同じく、私も「じぶんち」を離れては長く生きていられない人間なのである。しかし、幸いに今の自分には「仕事」という逃げ道がある。ipod でモーツァルトを聴きながら、Mac Book Air のキーボードを叩き、心に浮かぶよしなしごとを書き連ねてゆけば、いつのまにか日は暮れている。▼自分の家にいれば幸せなのである。朝、大学に行くのが面倒だなあと思うこともしばしばある。むろん大学が嫌いなわけではない。行けば行ったで、楽しいのである。しかし、それも我が家でごろごろしている幸福には比較すべくもない。ごろごろと掃除をし、ごろごろと洗濯をし、ごろごろとアイロンをかけ、ごろごろと本を読み、ごろごろとご飯を作り、ごろごろと仕事をし、ごろごろと酒を飲み、ごろごろと映画を見て、ごろごろと漫画を読みつつ眠りに就く。「ごろごろと昼寝をし」というのが抜けているのではないかと疑問に思われる方もおられるであろうが、上記の文中の「ごろごろ」は擬態語ではなく、総じて「昼寝をしつつ」という意味なのである。私はほんとうに「昼寝をしながら飯を作る」というようなことをするのである(蕎麦をゆでている間にソファーで3分間のまどろみ…というように)。アイロンかけはさすがに危険があるので昼寝は避けているが、「縫い物」などの場合は、しばしば途中でふと気づくと、手に針を持ったまま眠っている。世間の人は私のことをハイパーアクティヴな人間のように思いなしているが、実は私は「ハイパーごろごろ」の人なのである。この「ごろごろ」の間に、私は夢を見、よしなき想像をめぐらせ、半睡半覚の夢幻境にある。私が「変わったことを言う人間」だと思われている理由の過半は、実は私が「半睡半覚の夢幻境」において得たアイディアをそのまま紙に書いているからなのである。「現実から離脱する」ことが現実を解析する上できわめて重要であると信じる点で、私は荘子に深く同意するものである。▼そうなのである。十月二十二日(水)

ダークサイト
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(内田樹・角川文庫)から。▼権力や威信には必ずその「ダークサイド」がついて回ります。余禄があり、インサイダー情報があり、収賄のチャンスがあります。そういう部分込みで社会ポストというものはあるわけです。▼漱石の小説は、そのほとんどすべて連載小説でした。新聞連載ですから、毎回読みきりでオチがないといけません。そういう制約の中で、『虞美人草』『それから』『こころ』などの傑作が生まれたわけです。無条件より制約を受けた方が創作意欲が湧くというのは人間の場合にはあるのです。それに、定型があるものの方が「飽きない」のです。▼仮に本が一冊もなく、全部の情報がパソコンに入っているとしたら、自分自身の知的なストックってどれくらいあるのか、ほんとうのところ確信が持てなくなるのではないでしょうか。だけど、本棚に何百冊かずらっと並んでいると、毎日何とはなしに、ほんの背表紙と顔を合わせることになります。そうすると、マルクスとかフロイトとかサルトルとかいう文字をみるたびに、ああ自分はこういう本を読んで大きくなってきたんだよな、という自分の精神史を確認できます。自分自身の知的なポジションとか、発達プロセスをビジュアルに確認できます。▼ある著者の愛読者というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて本を買うんだと思います。志ん生の落語を聴きに来る人は、「前に聴いたのと同じの」を聴きにくるわけです。「まくら」が同じだと言って喜び、「落ち」が同じだと言って喜ぶ。現に、志ん生が「まっ、ここはあたしに任しておいて下さい」というと会場はわっと湧きます。音楽も麻薬みたいなもので、同じ曲想の音楽を何度も聴きたいんです。同一のものが微妙な差異を含みつつ反復することのうちに快楽があるわけです。同じものの反復服用が快感なんですね。▼「できるけど、やらない」というのが「らしさ」の節度であり、そこからにじんでくるものが、「身の程をわきまえている」人間だけが醸し出す「品格」というものなのです。自分のありのままをむき出しにするという作法は、その人にどれほどの才能があろうと能力があろうと、「はしたない」ふるまいです。▼他人に対して優しくするにはいろいろなやり方がありますが、「ほっっといてあげる」というのは、その中でも一番難しい接し方です。でも、適切なしかたで「ほっといてもらう」ことほど人間にとって心休まることはないのです。ほんとうに親しい人たちの間では、ときに「何もしない」ということが貴重な贈り物になることもあるのです。でも、こういうことには、「コミュニケーションとは贈与である」という、ものごとの基本が分かっていないと、なかなか理解が及ばないでしょうね。▼身も蓋もない言い方をすれば、人間は期待していたよりバカだったのです。「もう制約をしないから、これからは自分の好きな生き方をしてごらん」と言ったら、みんなお互いの顔色を窺い出して、お互いを真似し始めたのです。人間の欲望は本質的に他人の欲望を模倣するものです。変態で猟奇的な犯罪も、先行する犯罪を「コピー」している。人間は自由であればいいのですが、うっかり自由にしてしまうと、人間のあり方が全部同じになってしまいます。多様性を確保するためには、固体を一人ひとり好き勝手にさせておく方がいいのか、それともある程度の固体をひとまとめにして「型」で縛る方がいいのか。「オリジナルな欲望」というものが存在しないから、誰かの欲望を模倣し、誰かに自分の欲望を模倣されるというかたちでしかコミュニケーションを立ち上げることができないからです。これが自由と制約をめぐるすべての問題の起源にある人間的事実です。十月十二日(日)

rentier
『街場の現代思想』(内田樹・文春文庫)から。▼酒井順子『負け犬の遠吠え』は、フランスのrentier(ランティエ/国債による金利生活者)を連想させた。ヨーロッパではデカルトの時代から1914年までは、貨幣価値がほとんど変わらなかった。ということは、先祖の誰かが小金をためて、それでアパルトマンと国債を買って遺産として残すと、相続人は、贅沢さえ云わなければ、無為徒食することができた。そういう人々がフランスだけで何十万人か存在した。仕事をしないでひねもす肘掛椅子で妄想に耽っている。なにしろ彼らは暇である。しかたがないので、本を読んだり、散歩をしたり、劇場やサロンを訪れたり、哲学や芸術を論じたり、殺人事件の犯人を推理したりして生涯を終えるのである。もちろん結婚なんかしない。せいぜい同性の友人とルームシェアするくらいである。ホームズとワトソンのように。しかるに、このランティエこそヨーロッパにおける近代文化の創造者であり、批評者であり、享受者だったのである。▼それも当然である。新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆくとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのような冒険に嬉々としてつきあう人間は「扶養家族がいない」「定職がない」「好奇心が強い」「教養がある」などの条件をクリアしなければならない。「ねえ、来週から北極に犬橇(そり)で出かけるんだけど、隊員が一人足りないんだ」「あ、オレいく」というようなことがすらっと言える人間はなかなかいない。ブルジョアジーは金儲けに忙しく、労働者たちはその日暮らしと革命の準備で、そんな「お遊び」につきあっている暇はない。残念ながら、このランティエという遊民たちは1914-18年の第一次世界大戦によって社会階層としては消滅した。インフレのせいで金利では生活できなくなってしまったからである。彼らはやむなく「サラリーマン」というものになり、世界からホームズたちは消えてしまった。▼「ありあまる時間と小金の欠如」という理由から、今日の人々に「ランティエ」的生き方を禁じている。これが現代の文化的衰退の大きな原因であることはどなたにもお分かりいただけるであろう。しかし、ここに「負け犬」という新しい社会階層が登場したのである。彼女たちは「パラサイト」であるか一人暮らしか、同性の友人とルームシェアしているか、とにかく「扶養家族」というものに縛られていない。職業についても男性サラリーマンに比べて、はるかに流動性が高く、「定職」というものに縛られていない。扶養家族がなく、定職への固着がなく、ある程度の生活資源が確保されていると、人間は必ず「文化的」になる。「衣食足りて礼節を知る」いうが、「時間と小金」があると人間は、学問とか芸術とか冒険というものに惹きつけられてゆくものなのである。▼人間の体はリアルタイムで動いているのではない。ちょうどリールが釣り糸を巻き込むように、「未来」が「現在」を巻き取るような仕方で動くのである。私たちは、輪郭の鮮明な「未来像」をいわば「青写真」に見立てて、その下絵のとおりに時間をトレースしてゆく。だからネガティブな未来像を繰り返し想像する習慣のある人間は、その想像の実現に向かってまっすぐ突き進んでゆくことになる。▼強く念じたことは必然する。それに暇と小金です。十月五日(金)

小津の魔法
『大人は愉しい』(内田樹・鈴木晶/ちくま文庫)から。▼ところで、暮れからお正月にかけて、日本のテレビ全局が小津安二郎全作品「だけ」を一週間ぶっつづけで朝から晩まで放映する、ということをしたらどうなるでしょう。それしか見るものがないし、ちょっと見始めると面白くってもう止まらないので、全日本人が一週間のあいだ、朝から晩まで小津漬けになってしまうんです。そして休みが明けて学校や会社に行くと、みんな小津安二郎の映画の中みたいなしゃべり方になっているんです。若い男は佐田啓二みたいに前髪をかきあげながら「いやあ」と微笑み、若い女は原節子みたに「ふふふ、そうですかしら?」と問いかけ、おじさんたちは笠智衆みたいに「やあ、どうも」と帽子を脱ぎ、おばさんたちは杉村春子みたいにぱたぱた走り回るのです。日本人全員の「小津化」、すてきだと思いません?▼小津ごっこ、いいですね。では、さっそく。九月十七日(水)

sentimental journey
『感傷教育』(武谷牧子・日本経済新聞出版社)から。▼今でも思い出せば、何か喚いてその辺を駆け回りたくなるほど格好の悪い出来事だが、その類の不細工なことを、和久井は彼女の前で数え切れないほどしてしまった。多分、彼女は、誰よりも多くの和久井の恥部を見ているだろう。肉体的にも、精神的にも未熟な部分を、彼女には洗いざらい見せてしまい、彼女から泣かれたり、笑われたり、怒られたり、愛されたり、いろんな喧嘩をして、謝ったり謝られたり、仲直りした。和久井も怒ったし、泣いたし、笑ったし、慰めたし慰められたし、愛したし、愛された。あんな四年間は、最初で最後だろう。学生だったから、学問的な意味で学んだし、知識量は確実に増えた。でも、彼女との生活で醸成されていった感傷教育は、和久井により多くを与え、より深くを学ばせた。喧嘩もたくさんした。▼柴田翔『されど我らが日々』は40年前。九月十六日(火)

盆踊りはだれと踊っているのか (370)
『古代から来た未来人 折口信夫』(中沢新一・ちくまプリマー新書)から。▼柳田國男が共同体に同質な一体感をもたらす霊を求めていたのにたいして、折口信夫はそれと反対のことを考えていた。折口は神観念のおおもとにあるのは、共同体の「外」からやってきて、共同体になにか強烈に異質な体験をもたらす精霊の活動であるにちがいない、と考えたのである。そこから折口の「まれびと」の思想は、生まれたのだ。▼芸能者は死者たちの息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命であるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる、「まれびと」としての性格を持つことになったのだ。折口は村々に残された古い芸能のかたちを深く探求しながら、芸能者の原像を描き出そうとした。▼そのような「芸能者の原像」を「鬼」があざやかに表現している。鬼は共同体の外からやってきて、死の息吹を生者の世界に吹きかけ、そこに病や不幸をもたらすこともある。しかし、荒々しい霊力を全身から放ちながら出現してくる鬼の存在を間近に感じるとき、共同体の人々は、自分たちの世界に若々しい力が吹き込まれ、病気や消耗から立ち直って、再び健康な霊力にみたされ、生命のよみがえりを得ることができたように感ずるのである。▼『死者の書』では、そうやって死霊の世界が生者の世界に、有無を言わさぬ力をもって迫ってくるのである。小説は古代社会の末期を舞台としている。古代人の世界では、生者と死者はおたがいがごく身近なところにいた。縄文人たちは自分たちの村を円環状につくり、その真ん中にできた広場に、死者を埋葬していた。昼間は広場に立ち入ることを慎んでいた人たちが、夜になると広場に集まり、死者を埋葬した上で、踊るのである。踊りのステップに合わせて、地中から死霊が立ち現れてきて、生者といっしょになって踊りだす。いまの盆踊りの原型である。▼その昔「やっぱり柳田國男とオリクチノブオだね」と訳知りにいったら、そのノブオって誰、と失笑を買った。九月一日(月)

フロイトの苦手な〈母娘関係〉
『シズコさん』(佐野洋子・新潮社)から。▼叔母には社会という認識がないのだ。世間どまりで、何より家族を愛していた。そしてそこには、悪意など一かけらもないのだった。▼母は愚痴をこぼしたし、人の悪口も云ったが、しょぼくれた母を見たことはない。体が頑強であったように、精神もタフで荒っぽかった。子供の話をしみじみ聞くことはなかったから、子供は母と話をしなくなった。しかし他人の話はしみじみ聞いたからこそ、人にも好かれたし、便りにもされていた。家族とは非情な集団である。他人を家族のように知りすぎたら、友人も知人も消滅するだろう。▼ああ、世の中にないものはない。ごくふつうの人が少しずつ狂人なのだ。少しずつ狂人の人が、ふつうなのだ。

土器は足し算
『情報の歴史を読む』(松岡正剛・NTT出版)から。▼なぜ、日本は土器文化に執着したのか。これは謎です。石器は「削る文化」です。石をどんどん削って道具にする。鋭く強い道具ができますが、いったん壊れるとつかえません。これにたいして土器は土を盛りあげ、ふくらます。加除修正も自由です。たしか木村重信さんだったと思いますが、「石器は引き算型、土器は足し算型」といっていたかと思います。このような土器を日本人は一万年にわたって愛用した。いや、縄文以降も愛用し、さらに茶の湯の文化というまったく独自な文化を確立して以降のいまもなお、日常生活でも、芸術生活においても、われわれは「やきもの」に執着し、その「用の美」を尊んでいる。▼世界では「やきもの」よりも銀器や金属器やガラス食器を愛用している国々のほうが多いのです。韓国料理を食べにいくと、ロースやカルビがのっているお皿も冷麺が入っているボールも箸もスプーンもみんな金物ですね。日本では金属器でごはんを食べる人はめったにいない。それでも日本も明治時代になると、福沢諭吉がなんとかして洋食器の導入をはかるんですが、そしてわれわれも洋食器に慣れてしまってもいるのですが、けれどもどこか心の底では「やきもの」派なのです。▼土の器、それに木の器を加えたい。八月二十六日(火)

心身バラバラ極意2
▼『兵法家伝書』には、弓を射るときは、弓を射ようと思うな、と説明している。言い換えれば「弓を射る」という一つの動作を、ふたつに切り分けなさいということである。つまり、「弓を射る」という身体の動きと「弓を射る」という心の動きをリンクしてはいけないということである。不安や恐怖を身体能力の低下に結びつける回路は技法的に切断できる。伝書は「心と体はばらばらに使え」「精神と身体を切り離せ」と教えている。心と身体がばらばらに動けば、心がいくらマイナス思考をしても、運動能力に悪い影響を及ぼさない。この状態を伝書は「木人花鳥に対するが如し」というメタファーを使って説明する。目の動き、形の動き、足の動きなど、身体の徴候が「いまから攻撃します」という合図を出してから動いたのでは、物理的にどんなに早い動きも捕捉され、回避され、反撃されてしまう。だから武道では、絶対に身体的な動きの前に予備動作を行ってはならない。ごく日常的な身体の動きがなめらかに連続しているうちに、予告なしに、動きの質が「いきなり」変化する。これが「無拍子の動き」なのである。▼私の荷物は他人に担いでもらい、他人の荷物は私が担ぐ。これが、burden sharing である。多くの人は、他人の荷物は重たく、自分の荷物は軽い、と思っている。それは違う。逆である。自分の荷物は重たいが、他人の荷物は軽い。レヴィ=ストロースがそう言っている。「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることはできない」とも言っている。この先生はつねに明晰な人です。だから、楽になりたかったら、自分の荷物を放り出して、他人の荷物を担げばいいのです。▼霊的、というのはその人個体の生命を超えたものに価値を見出すということだと思います。宇宙のなかのあなた、人類の歴史におけるあなたを意識する、ということが霊的である、ということでしょう。「人生五十年」という閉じられた時間のなかに自分の存在を限定しないで、もっと、時間、空間的に個体を超えた広がりを持った生命のあり方を想定しているんだと思います。DNAなどもそうですが、人間は個体であると同時に、脈々とつながっている存在でもあるわけです。ある長いリンクのなかの一片なわけです。その長い流れのなかで自分はいったい何なのか、どういう価値があるのかを考えるということでしょう。人間元気がでるのは「死んだらおしまい」という物語ではなくて、「君は死ぬ前も死んだ後も、ずっと連続しているし、死んだ後も他者とつながってるんだよ」っていう物語ですからね。サッカーでいうと、皆がゴールする必要はないわけです。いいアシストをすれば、次に誰かがゴールを決めてくれる。そのことを「自分に関係ない」と思うか、ともに喜べるかが分かれ目ですね。そういうパッサーとしての位置づけを喜んで受け入れるようになることが「霊性を高める」ことだと思います。自分の個体の生命の枠を超えて、自分自身の位置づけや意味を考える、そういう習慣ってなかなかないと思うんですが、とても大切なことだと思います。▼自分の荷物も、他人の荷物もさほど担がずにきてしまった。八月十八日(月)


心身バラバラ極意1
『私の身体は頭がいい』(内田樹・文春文庫)から。▼ですから中枢的な運動はダメなのです。武術的な身体運用とは「現場処理」する身体です。仕事をする身体部位だけが仕事をして、とりあえず用がない部位は「じゃあ、ひまだから別の仕事でもすっか」というばらけた働きをすると、その身体が「何をしょうとしているのか」ということが予測できなくなります。身体を中枢的に統御せず、個別的に仕事をしてもらう、ということが大切だ。おおわくの指示だけ出しておいて、「あとは、現場でよろしく」ということになると、現場には一種の「自己完結」性が求められます。それが「群雄割拠」的身体図式とおらずなるわけです。これまで中央の指示に従ってツリー状に組織されていた身体各部が、「地方自治」的、「軍閥割拠」的にランダムな動きをするようになります。▼「絶対的な稽古」というのは、いわば「交響楽に身を委ね、それに乗って演奏する」ような身体の使い方を学ぶことである。誰がどの音を演奏しているのかというようなことはどうでもよろしい。奏者の仕事は、「結界」に入ってくる楽音に「乗る」ことだけである。それは「反撃する」でもないし、「防御する」でもないし、「躱(かわす)」でもないし、「捌(さば)く」でもない。応じてはいるけれど、囚われてはいない。聴き取ってはいるけれども、固執してはいない。楽音に合わせて、自在に先を取り、拍子を合わせ、気が向けば裏に入る。そういう自在な応接は、「宇宙的な和音」のなかに「私」も「敵」も、すべてが、かけがいのないファクターとして含まれているというふうに考想することによってしか達成できないのである。私たちがめざしているのは、この「絶対的な稽古」である。そのためには、剣や杖を稽古することはたいへんに効果的なのである。▼澤庵禅師の武道の極意を説いた『不動智神抄録』でこう論じている。「〈止まる〉とは、なにごとによらずあることに意識が固着することである。あなたの武芸に関連して言うと、打ち込んでくる刀を見て、それに合わせて反撃しようとすると、相手の刀に意識が固着して、自分の動きが相手に筒抜けになってしまい、切られてしまう。これを〈止まる〉というのである」。意識が身体に局所的に徴候化することが武道においては絶対の禁忌であることは、これでお分かり頂けると思う。▼武道の身体所作の奥義をもっと知りたい。何か掴めそうです。八月十二日(火)


笑いの詐欺
『必笑小咄のテクニック』(米原万理・集英社新書)から。▼劇評家が演出家に。「昨晩は君の演出した舞台を見たせいで、夜は一睡もできなかったよ」「うれしいことを言ってくれるね。シニックな君の心をそこまで揺さぶったとはねえ」「いやあ、劇場でぐっすり眠れたおかげなんだけどね」。お気付きのとおり、オチを演出するためには、つまり落とすためには、先に持ち上げなくてはならないのだ。▼小咄で相手を倒す。落語のオチとは話法が違う。八月七日(木)

解けない
『脳と日本人』(松岡正剛×茂木健一郎・文芸春秋社)から。▼そこには中心と周辺と異界があって、そして、ヒアとゼアが川一本とか山一つで分離されていて、そのどこかに異界が想定されていたんですね。最初は自分たちのムラやクニがヒアで、その外側はすべてゼアでした。能の橋掛りの向こうが異界になっているような、そういう構造ですね。異界すら理想化したんですね。仏教では、死後に理想の国が待っているという願いをこめて、浄土を想定した。その浄土も東西南北があるとされていて、東には薬師如来のいる瑠璃光浄土、西には阿弥陀如来のいる極楽浄土、北には弥勒菩薩の浄土、南には釈迦如来の浄土が想定されていたんです。浄土だって多様だったんです。そして、そのような浄土に行くことを「往生」といった。▼いま、ぼくは「菩薩」にひっかかっているのです。菩薩は悟りをひらかない、如来にならない仏様なんです。自分ではゴールまで行かないで、他人のためにウエイティングしているんですね。▼わからないんだよね。だいたい民族と言語と国民国家がずれあっているわけです。それにもかかわらず、その一方で国際連盟や国際連合のようなオーバーステートが、国家を平等な一票の単位にしながら、主導権をとる安保理事国のような数か国だけは残したわけね。それが自由民主主義の象徴になっている。そういうことと、アダム・スミスが言うような「見えざる自由な手」によって、資本がうまく需要と供給のバランスをとれるということで、自由資本主義が大手をふってグローバル・スタンダードになっている。この程度の国民国家と、金融の横暴を許容している程度の資本主義とが完全に結びつくという理由が理解できないんですね。▼日本には、たとえば、野坂昭如『骨餓身峠死人葛』だとか中上健次『枯木灘』とか、そういう物語に「いるのにいないとされた人間たち」が出てくるわけです。もともとカフカの文学がそういうものでしたよね。そういう物語や小説が、近代国家の矛盾を言い当てていると批評したいところですが、ぼくは、現代国家が抱えている問題は、その程度では解けないと思っているので、お手上げなのです。でも、何か大きな「まちがい」があるのはあきらかです。▼そうです。解けません。七月二十九日(火)

文楽知らずして
『誰も知らない 世界と日本のまちがい』(松岡正剛・春秋社)から。▼中国・明の時代の鄭芝龍(ていしりゅう)と鄭成功(ていせいこう)、この波瀾万丈の親子の顛末をみごとに描いたのが、近松門左衛門の超名作『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』です。国姓爺とは鄭成功のことですね。芝居のなかでは「和唐内(わとうない)」という名前になっている。日本とアジアの関係の意味が、そして近松の日本論が、とてもよくわかります。見ていない人は日本人のモグリです。近松は、人形浄瑠璃を創造したことでもすごいし、大阪弁で戯曲を成立させたこともすごい。私は文楽(人形浄瑠璃)を世界で最も高度な芸術だと思っているんですが、とくにそれをナラティヴィティ(物語構造性)として陶冶しきった近松に最高の賞賛を贈りたいと思っています。▼私は、日本人のモグリです。七月十三日(日)

執筆生活
『そうか、君はもういないのか』(城山三郎・新潮社)を読んだ河瀬直美の文から。▼「茅ヶ崎で執筆活動に専念する日々を過ごしていた時間のことが鮮明だ。原稿に向き合って水泳と午睡をはさむだけの単調な日々。訪ねる人もなければ出かけることもない。そんな中で城山さんの作品は生まれでる」。▼単調な日々と作品。そうか、そうだったんだ。七月九日(水)

低所得社会を生きる
『年収崩壊』(森永卓郎・角川新書)から。▼結局、構造改革で何が起こったかと言えば、大企業が従業員をどんどん非正社員に置き換え、中小下請け企業への発注単価を引き下げ、利益を増やし、その利益を使って役員報酬や株主への配当を増やした。その結果、中小企業は出口のない不況に追い込まれ、すでに働く人の三人に一人を超えた非正社員は、年収100万円台という低所得を強いられている。▼ヨーロッパの労働時間が短いもう一つの理由は、そもそも彼らが長時間労働を好まないからです。いかに人生を楽しむかとうことを真剣に考えた結果、彼らがたどり着いたのが、「なにもしないでボーッとしていることこそ、最大の幸福なのだ」という結論でした。パリのカフェには、カフェオレ一杯で、ただ道行く人を眺めている中高年がたくさんいます。実はそうした時間の使い方こそが、最高の贅沢なのです。▼ヨーロッパのサラリーマンの標準年収は300万円程度です。ただ、彼らはそれ以上を望んでいません。それで十分に暮らしていけるからです。成功への夢を追いかけ、明日に向かって走り続けるアメリカ型と、貧しいながらもゆったりと夕日のなかでうたた寝するヨーロッパ型。知り合いのギリシャ人は言う。「ギリシャは貧乏だけど、ほとんどの人が、おいしい料理とおいしい酒とステキな恋人をもっている。これ以上働いて、いったい何が欲しいと言うんだい」。▼お金持ちは働いて稼いだ人ではなく、お金に働かせて稼いだ人なのです。欧米ではお金持ちは働かないというのが常識です。日本では稀でしたが、格差社会に入ってからは増えてきています。▼定期預金は、セブン銀行・ソニー銀行・イーバンク銀行や信金などのキャンペーンによる高金利銀行へ短期運用、5年満期の固定金利型個人向け国債、主要国のソブリン債への分散投資としての投資信託、老後資金の安定のための分散した株式投資などあり。▼私が携わった高齢者生活の調査の経験では、いつまでも元気で生き生きと老後を過ごしている高齢者の特徴は、自分の活躍できる場、あるいは自分を必要としてくれる場を持っていることです。会社で培った人間関係は驚くほど早く消え去ってしまします。定年後には定年後の人間関係を築かなくてはいけないのです。定年後にどのような場を築くのかは、その人の人生観に依存します。自分でビジネスを立ち上げたい、田舎暮らしをしてみたい、ミニコミ誌をやりたい、大学に入り直したい、海外に留学したいなど。お金のかからない生きがいであればよいのですが、たいていのことにはまとまった資金が必要になります。だから、まず定年後にやることの資金計画を作るべきなのです。ある程度の退職金の額があるなら、預貯金、株式、債券、外貨に分散投資して、公的年金で生活費が不足するようになった場合に、少しずつそのとき有利なものを売っていくというのが効率がいいでしょうが、ただある程度の金融知識は要ります。▼勝ち組はプール付きの豪邸に住んでいるかもしれませんが、プールサイドでゆったりと本を読む暇などはまったくないのです。最初から勝ち組になろうなどと思わなければ、年収300万円あれば、人並みに食事はできるし、普通の服も着られ、家電製品もひととお揃えることができる。マイカーも持てる。何が勝ち組と違うかといえば、見得の部分が違うだけです。勝ち組は高級スポーツカーに乗りますが、負け組みは大衆車に乗る。勝ち組は高級スーツですが、負け組みは紳士服の量販店で買う。勝ち組はシステムキッチンですが、負け組みは流し台。それだけのことです。▼節約は、住宅費、生命保険、教育費、電話代、自動車関係費、電気代などで工夫すべし。スモールビジネスや趣味で小遣い稼ぎをし、トカイナカ(都会と田舎)生活。▼私はシンクタンクの研究員時代、多くの高齢者の方々と話をしてきました。そのなかで痛感したことは、定年後の幸福を決めるのは、お金よりも生涯を通じてやることを持っているかどうかだということでした。なんでも構いません。自分が生きがいを感じて、自分を必要としてくれる場を持つことが、幸せな定年後を迎えるために必要なのです。▼それにしても、ここにきて資源と食料の双子の高騰は、著者のいう低所得社会をも崩壊させるのだろうか。七月二日(水)

まちづくり先駆 (360)
『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)から。▼日常の中に楽しみを、そして人生の目的を見つけること。商店街へ出かけてうんと買いものをしたり、遊園地へ行ったり、温泉やなんとかランドへ出かけたり、そういう非日常の方法でしか楽しむことができないのは、少しおかしいのではないか。ただし、日常の中に人生を見つけるには、みんなでそれを叶えてくれる街をつくらねばならない。別にいえば、一が家族、二が友だち、三がわが街、この三つの中にしか人生はない。トレヴィーゾで過ごした一週間でそう教わって、そこで、とりわけ積極的に街づくりをしているボローニャに行き着いた。▼さっそくボアリーニ氏は仲間と組んでフィルム修復のための組合会社「チネテカ」をつくりました。なにかあるとすぐ組合会社をつくる。この組合会社のことを社会的協同組合と言うときもあるが、これも「ボローニャ方式」の秘訣の一つです。組合会社にはいくつもの特典があります。一人立ちするまでは税金を納めなくてもよろしい。市や県や国からの援助がある。銀行や企業などの財団から堂々と資金援助を仰ぐことができる。このへんの事情をもっとくわしいのが、岡本義行『イタリアの中小企業戦略』(三田出版会)。▼この本はボローニャ紀行ではあるが、ボローニャのまちづくり読本でもある。ということで再訪できたらなあ。六月二十一日(土)

富田玲子の世界
『小さな建築』(みすず書房・富田玲子)から。▼大学に招かれて話をする機会があると、私は学生たちに、「若いうちにできるだけいろいろな空間を体験したほうがいいですよ。そして、いいなあ、嫌だなと率直に感じるクセをつけてください。いいなあと思ったら、どうしていいのかをつきとめてください。いつも巻尺をもっていて、その空間の高さや広さを、窓の位置や大きさを測るクセをつけましょう。それがどんな材料でできているかを見て、触ってください。これは私が学生時代にできなかったから勧めるんですよ」とお話しします。▼吉阪隆正先生の奥さん・ふく夫人は、先生に劣らずユニークな方でした。主婦がする家事は一切なさりません。それでも三人の子どもたちからはとても尊敬されていました。子どもたちの友人の人生相談にものってあげて、家族だけに愛情を向けた人ではなかったのです。「玲子ちゃん、仕事が終わったらいらっしゃい。きょうはご馳走なのよ」といって、缶詰の大和煮を缶ごと出してくださいます。▼象設計集団の仲間たちは、各地に広がっています。神戸の「いるか設計集団」、鹿児島の「アトリエ・熊」などです。それを動物たちが集まった動物園「チーム・ズー」と呼んでいます。もしも動物園の設計を依頼されたら、みんなで全体計画をつくっていきながら、それぞれの事務所が自分の名称と同じ動物の小屋を設計することができたらいいなと思っています。▼施主だった富田玲子さんからの年賀状がすごいんですよ。「今年はどこを直しましょうか」って書いてあるんです。完成させる気がない建築家がいるんだと最初は本当に驚きました。友人も「象に設計を頼むと孫の代までつきあうことになるんだよ」とも云われました。▼当方は、富田玲子さんの旦那さん林泰義さんから、おだやかな、しかしあきらめない「まちづくり」を教えていただきました。五月十一日(日)

金子勝の視点
『戦後の終わり』(金子勝・筑摩書房)から。▼投機が繰りかえされる現象はカジノ資本主義。株価や地価は将来の収益を見込んで決まるので、しばしば実体経済と乖離する。過剰なマネーは投機マネーとなって頻繁にバブルを引き起こす。株価や地価はなぜ上がるのか。それは、みんなが上がると思うからである。では、なぜ株価や地価は下がるのか。それは、みんかが下がると思うからである。言い換えてみよう。神はなぜ存在するのか。みんなが、神はいると信じているからだ。それは、かつてマルクスが批判したフォイエルバッハの世界こそが正しいといっているかのようだ。▼農業の安全性と効率性。宮崎県都農町の三輪晋氏の土づくりの話から。病害虫に強く、連作障害にならない、微生物が活性化しやすい土づくりには、まずは浅い耕耘(こううん)である。通常は20~30センチを掘り下げるところを、わずか10センチしか掘らない。そこに完全には熟成していない大量の堆肥、生ゴミを資源化した菌体肥料グリーンガイヤ、そして緑肥を混ぜた有機肥料を施肥する。そうすると微生物の働きが活性化して、土が団粒状になり、縦根より栄養分を吸収する上根(毛細根)が発達する。そして微生物(土着菌)が窒素を分解してアミノ酸、ビタミン、ミネラルなど副資材を作ってくれる。深く掘らないので機械も傷まない。土中にはたっぷりマイナスイオンが残る。深く掘った土地に熟成しない堆肥をまくと、微生物の分解に伴って土中で熱が発生して根が腐ってしまう。あるいは縦根ばかり伸びて背が大きくなる割に実がよくならない。さらに月の満ち欠け(月齢)に合わせて窒素を投入する。▼監視社会化の動きは「国境」や「入国」だけに限らない。都市内部でも、駅前商店街、学校、集合住宅など至る所に監視カメラが張りめぐらされている。さらに、空港や都市に設置された監視カメラと顔認証システムが一体化して、住民基本台帳ネットワークに、自動改札機とICカード、GPS(全地球方位測定システム)機能付きの携帯電話などが結びつけば、監視する側が個人情報をくまなく掌握できる、ハイテク監視システムができあがってしまうのだ。問題は、いつのまにか多くの人々が監視する側の目線に立って、監視されることを受け入れてゆくのである。そうした事例は、町々における自警団の組織化にも現れている。▼今の日本社会(2005年末)は持続可能でない数字で埋め尽くされている。国の借金残高は約703兆円、地方の長期債務は約200兆円、フリーターは400万人、出生率も1.29に落ち、まもなく人口が急激に減少する。▼現天皇は靖国神社を参拝せず、日の丸・君が代を強制しないようにと発言し、第二次大戦の激戦地サイパンを訪問した際にも、韓国人や沖縄出身の戦死者の墓参りをした。気がつけば、皇室が憲法改正の最後の歯止めになっている。何という歴史の皮肉であろうか。▼『市場』(金子勝・岩波書店)では「ウエーバーとマルクス再論」と「市場原理主義の暴走」を熟読し、市場を見つめると、氏の反グローバリズムとセフティネットへの考えがわかる。四月十七日(木)

日英無常
『遥かなるケンブリッジ』(藤原正彦・新潮文庫)から。▼まず、ジョーク。無人島に男二人と女一人が漂着した。男たちがイタリア人なら殺し合いになる。フランス人なら一人は夫、一人は愛人となってうまくやる。イギリス人なら、紹介されるまで口をきかないから何も起こらない。そして日本人なら東京本社にファクスを送り、どうすべきか問い合わせる。▼イギリス文化は、土着のケルト文化を包含したアングロサクソン文化と、ルネッサンス期に頂点に達したラテン文化との結合である。アングロサクソンはゲルマン民族であり、その特徴は、長く暗い冬を体現した文化である。それはドイツ人気質を最も表すと言われる「ニーベルンゲンの歌」に見られるような、過酷な宿命感の文化である。この二つの潮流がぶつかって成立したのが英語である。シェイクスピアは、この二種類の語彙を状況に応じて使い分ける名人だった。彼の作品には、悲劇であれ喜劇であれ、涙と笑いが、厳しさと優しさが、明と暗が同居している。そしてこれらを結合させるのがユーモアであった。そのシェイクスピアの影響は、イギリス人の五臓六腑に染みわたっている。▼彼らのユーモアは、単なる滑稽感覚とは異なり、人生の不条理や悲哀を鋭く嗅ぎとりながらも、それを「淀みに浮かぶ泡沫」と突き放し、笑い飛ばすことで、陰気な悲観主義に沈むのを斥(しりぞ)けようというのである。「いったん自らを状況の外へ置く」姿勢で、「対象にのめりこまずまず距離を置く」という余裕からそれが生まれる。そのことは、究極的には無常感に通ずる。イギリス人の大部分は一応キリスト教ということになっているが、実際には無宗教に近い。教義というものに対する距離感覚は、プロテスタントにもカトリックにもつかず、中道のイギリス国教会を作ったことにも表れている。▼イギリスに独裁者が出現したことがないのは、他のヨーロッパ諸国と比べてめだつが、やはり独裁者につきものの教義に対する距離感覚と言えまいか。イギリス政治の一貫した特色である現実主義は、理念とかイデオロギーに対する距離感覚と言えるし、哲学におけるイギリス経験論は、原理とか原則に対する距離感覚と説明できるのではないか。それは葬式にも表れている。柩が運び込まれ、全員で賛美歌を合唱し、牧師が故人の徳を讃えるくらいで、ものの二十分くらいで終わるらしい。つまり溢れる涙をこらえ痩せ我慢をしている訳です。▼出世競争はイギリスでは流行らない。そんな競争に巻き込まれて自分を失うくらいなら、地位や名声はなくとも、田舎で趣味に生きていた方がまだましと考える。「俗悪な勝者より優雅な敗者」を選ぶのである。競争に距離を置くから、ワーカホリックなイギリス人というのはめったにいない。▼イギリス人は何もかも見てしまった人々である。食料や衣料への出費は切り詰めているが、精神的余裕の中に、静かな喜びを見出している。不便な田舎の家の裏庭で、樹木や草花の小さな変化に大自然を感じ、屋根裏を引っかき回して探し出した、曽祖父の用いた家具に歴史を感じながら、自分を大切にした日々を送っている。もちろん悲しみや淋しさを胸一杯に抱えてはいるが、人前ではそれをユーモアで笑い飛ばす。シェイクスピアの「片目に喜び、片目に涙」である。▼日本は、イギリスのいつか歩いた道を歩んでいる。イギリスは、日本のいつか歩むであろう道を歩んでいる。それは、ずっと以前に、日本人が歩いていた道にも似ている。四月一日(火)


池田清彦の「生きる」2
『正しく生きるとはどういうことか』(池田清彦・新潮文庫)から。▼今から一万年前がまだ狩猟採集民だった頃、世界の総人口は四百万~五百万人くらいであった。人々は五十人程の集団で定住をせずに暮らしていたらしい。寿命は極めて短かったが、階級はなく基本的に人々は平等だった。人々はアニミズムを信じていた。すなわちすべての自然物に霊魂が宿り、自らも自然物の一部であると信じていた。従って死後の世界は約束され、死の恐怖はさしてなかったと思われる。現在でもマレーシアのムゾーのセマイ族は、男は主に狩猟に従事し、女は山菜取りに従事している。セマイ族は森を大切にし、森の多様性を充分活用している。豊かな森の恩恵をうけ、一日に三~四時間しか働かない。現代人は一日に何時間働けば気がすむのか。善く生きるためには、金沢城のヒキガエルたちのように、なるべく働かないでボーッとしていることが大事だと私は思う。不必要に働くのはちっとも優雅じゃない。大体エコロジカルじゃない。しかし、私を含め、大部分の人はバカなので、人生に目標を立てて、頑張ったりしないと善く生きられないのである。悲しいことである。▼飢えと病気がなければ狩猟採集民やセマイ族の生活はユートピアのような世界である。しかし、それが崩れる。人類は農耕を発明した。肉や魚は腐ってしまうから貯蔵向きでないが、穀物は簡単に貯蔵できる。貯蔵した穀物は、社会全体にとっては富である。この富をめぐって人々の思惑は錯綜する。力の強い者、権謀術数にたけた者は富をより多く蓄え、ここに貧富の差が生まれた。戦争が起こり、敗れれば奴隷が発生した。軍隊もできた。農耕技術の発明は貧富の差と階級と小規模な国家を生み出した。こうなると狩猟採集民の人たちが不幸だったといえるだろうか。▼縄文時代の気分はまだ私には残っていた。三月十五日(土)

池田清彦の「生きる」1
『他人と深く関わらずに生きるには』(池田清彦・新潮文庫)から。▼ボランティアはしない方がカッコいい。ボランティアで老人ホームを慰問している人たちは、どこかのホールを借りて有料で演奏会をして義理以外で入場してくれる人がいるかどうか、一度考えてみたらいい。ほとんどお客さんが来ないようであれば、今度老人ホームに行く時は、ただではなく老人たちにお金を払って見て頂くようにしましょうね。ボランティアする方は楽しいかもしれないが、される方は迷惑ということもあるのだ。自分の楽しみのために人に迷惑をかけてはいけないのである。▼退屈のすすめ。私が自宅で朝早く目が覚める。夏であれば、四時過ぎにほんのり空が白み始めたところで、まずカラスが啼く。耳を澄ましていると、カラスは二羽か三羽いて、飛びながら啼いているらしい。しばらくすると、ヒグラシがカナカナと鳴く。それを合図にひとしきりヒグラシの大合唱になる。雀が啼き出し、新聞配達がやってくる。そういった自然の営みに耳をそば立てて、私もまた自然の中のささやかな一員であることを実感する。退屈とは何とぜいたくな楽しみであることか。誰ともつき合わなくとも、お金がなくとも、人生の最高のぜいたくを味わうことができるのである。試してみなければ損ではないか。▼究極の不況対策。所得税をやめて消費税を二十~三十パーセントにする。それと消費財を買ったお金をすべて例外なく必要経費として認めればよい。この波及効果は本書百十一ページに。原則平等が保たれている限り、自分一世代で稼いだ所得に累進課税は間違っている。大金持ちに対する税を極大にしなければならないのは、世代を継続する相続税と贈与税であって、所得税ではない。公正な競争で得た所得に対して税をかけるのは間違っている。稼いだ金を消費する段階で税をかけるべきである。税金は、相続税と贈与税と消費税のみというのが一番合理的なのである。原則平等と結果平等をはきちがえてはいけない。▼税の考え方はこれでいいし、すっきりしている。三月八日(日)

kaigo(2)
▼『老人介護じいさん・ばあさんの愛しかた』(三好春樹・新潮文庫)から。▼老人介護現場の法則。年をとって手足が不自由になり、誰かの介護が必要になったとしよう。ヘルパーや寮母とうまくやっていける度合は、体の重さに反比例し、人柄に比例する。つまり、体重が少なくて人柄がよければ一番いい条件だ。体重は重いわ人柄もよくないわ、となるとこれは大変である。▼ナイチンゲールの『病院覚書』に「病気の多くは、それも致命的な病気の多くは病院内でつくられる」とある。これを彼女は“病院病”と名づけていた。▼車イスを使うためには段差が障害になると思われている。しかし、車イスは一段だけあれば、30センチを超える段差でもたった一人の介助で降りたり上がったりできるのである。コツさえ知っていれば、スロープなんか使うよりはるかに簡単でしかも安全である。▼そうなんです。ここで、隣気のおばあちゃんを乗っけた、介護タクシーのオジサンの車イスの扱いをメモしておきます。まず段差を上がるコツは、段差のある所まで前輪を持って行き後輪の所にある棒に足を掛け前輪を浮かせる。その後、後輪を段差の所まで持って行き後輪を上げる。降りる時のコツは、段差に対して後向きの状態にして、後タイヤをゆっくりと降ろし、その際に膝の部分のチョット脇を車椅子に乗った方の背中を支える。この“膝のチョット脇”っていうのがポイントで、背中に膝をあてがうのは車椅子の方に安心感を与える。それに膝を正面から背中に当てると痛いので、チョット脇です。▼若さから解放され、老いを獲得することを、土屋賢二は『われ笑う、ゆえにわれあり』(文藝春秋社)で云う(孫引)。まず、美的観点からみて、老人の方が優れている。年をとると動きに無駄がなくなる。場合によっては必要最小限の動きもしなくなるほどである。抑制のきいた、極度まで無駄を排した動きは能の美しさを思わせるものがある。無駄がきりつめられるのは動作だけではない。精神面でも無駄がなくなり、余計なことをいつまでもだらだらと覚えているということがなくなる。例えばさっきまで自分が話していたこととか、ひとの名前とか、自宅の電話番号とか、自分の名前とかいった、覚えるに値しないことを忘れるようになるのである。意識を適当に不明瞭にしたいときも酒の力を借りることはない。そのままでかなり朦朧としてくるのだ。▼介護した話はギョウサンありますが、された側の話はまだ聞いていません。まーっそのうち体験することになるのですが。二月二十三日(土)

kaigo(1)
『母の介護』(坪内ミキ子・新潮新書)から。▼あまりの辛さに「お願いだから、夜だけでもおむつをして!」と、ためしに水を紙おむつに吸わせて見せながら泣いて懇願すると、「お願いだから、それだけはやめて!」と母も涙で懇願し返してくる。お互いに相手の気持ちを慮(おもんぱか)るゆとりはなく、我が身の辛さだけを相手に判らせようと喚(わめ)き合っていた。▼ある時、N先生の勧めで「エンシュア・リキッド」という、経腸栄養剤を補助食品として使ってみた。一缶二百五十ミリリットルで二百五十キロカロリー分の栄養があり、バニラ味やコーヒー味がある。これを、一日三缶を目安に「栄養水」と称して飲んでもらう。試しに飲んでみたが、決しておいしいものではない。これも拒否されたらどうなっていたか判らなかったが、幸い大した文句も云わず欠かさず飲んでくれたので助かった。以来、最後までこの「エンシュア・リキッド」が母の命を支えてくれることになる。▼病室の母は、「さみしい。帰らないで」「体全部が苦しい」「もう充分生きた」「ここで、一生すごすの?」などと云いだし、気持が落ち込んでいくのがよく判る。あまり「死にたい、死にたい」を連発するので持て余し、ドクターに話したところ、「老人の死にたいは、“おはよう” と同じようなものですよ。一種の挨拶だと思えばいいんですよ」と言われ、なるほどと笑ってしまった。▼両親揃って昔の話をすることが少なく、年寄り特有の「昔はこうだった」的な愚痴もあまり聞いたことがない。後ろを振り向くことがあまりないのである。いつも前を向いて生きてきた人生だったのだろう。だから、母の場合と同じで、父も「前」に広がるものに望みがないと悟った時、一生懸命生きてみせるといった気力を失ってしまったのだろうと思う。母はその絶望感に「攻撃」の形をとって抵抗したけれど、父は「無」になることで自分を納得させようとしたのかもしれない。遺言としての書状には、「葬式いらず、墓いらず、すべてを無に帰してくれ」書いたりしていたのである。うず高く積まれていた蔵書はそれまでに殆ど自分で処分していたし、もとより財産はないし、希望どおり「無」ではあった。「ばあさんをよろしくたのむ」と書いた手紙と、日記と写真だけが残った。▼点滴がとれただけで病人から抜け出せるのだろうか。しっかりしてきたのは嬉しいが、その分注文も半端ではなくなってきて、「お水」「足さすって」「肩が寒い」「腰が痛い」「向きを変えて」「甘いもの何かない?」と人使いがさらに荒くなった。私のいる四時間余の間で一回も椅子に座れない日もしょっちゅうだった。▼歳をとると赤ん坊に戻る、とよく云われるが、なるほど、おむつをあてがい、食べ物を食べさせ、身体を拭き、爪を切ってあげて、耳、鼻も掃除してあげ、こうした世話は、赤ちゃんにするそれと何ら変わらない。食事だって、ミルクから離乳食へ、を逆行しているようなものだ。それ故には、ともすると世話をする方が赤ちゃん扱いをしてしまうのである。「おくすりですよー。あーんてお口をあけてください」。たしかにやさしい響きではあるけれど、云われた方は嬉しくはないだろう。▼母も辛いだろうけれど、会話もなく、することといったら下の世話と食事の世話、身体を拭き、目やにや鼻クソをとり爪を切り、褥瘡(じょくそう)予防に体位を一、二時間ごとに変えることばかり。ちょっとベッドの側を離れると、その時だけは目を開けて「側に居てくれるっていったじゃないの」とご機嫌が悪いのだから、外の空気を吸って束の間の気晴らしをしたいと思ってもできない。ヘルパーさんの仕事も辛抱強くなければ続かない職業である。▼映画『蕨野行』の方は、江戸時代の村の飢饉窮乏が舞台で、60歳になった老人は村を離れ山暮らしとなり、やがて絶えるというものでした。二月十七日(日)

細胞の内部では
『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一・講談社現代新書)から。▼DNAは単なる文字列ではなく、AとT、CとGの対構造をとっている。この二本のDNA鎖はペアリングしながら、さらにラセン構造になっている。これは生物学的にどのような意味を持つのだろうか。それは情報の安定を担保するということにつきる。DNAは紫外線や酸化的なストレスを受けていて、配列が壊れることがある。ATAAという部分的な配列がなくなったとしても、相補的なもう一方の鎖にTATTとう構造が保存されていれば、自動的に穴を埋めることができる。事実、DNAは日常的に損傷を受けており、日常的に修復がなされている。そしてこの構造が自己複製されていく。生命の自己複製システムである。これは三十八億年前からずっと行われてきた。▼膵臓は大きく分けると二つの働きをしている。ひとつは大量の消化酵素を生産して消化器官に送り出す作業(外分泌)、もうひとつは血糖値を監視してそれを調節するホルモン(インシュリン)を血液中に送り出す作業(内分泌)である。でもこれは実際、このようにさらりと説明できるほど簡単なことではない。なぜなら細胞は、細胞膜というしなやかできわめて薄く、しかしとても丈夫なバリアーで覆われた球体であり、これによって外部環境から防御している。それゆえ、細胞の内部から外部へ物質が分泌されるためにはきわめて精巧なメカニズムが働いているに違いない。それが「内部の内部は外部」という動きである。本書200ページの図解はナットクできる。▼ということで、せっかく生きているのだから、生物と宇宙と歴史は知っておきたい。二月九日(土)

いずれ地球は凍える
内田樹のブログから。▼池田清彦さんによると、二酸化炭素の排出が急激に増加したのは、1940年から70年までであるが、この時期に気温は低下している。温暖化の主因はむしろ太陽の活動の変化にあるのではないかと池田さんは書いていた。たしかに地球の温度にいちばん関係があるのは太陽活動である。太陽は63億年後には赤色巨星段階に入り、膨張を開始する。水星と金星はこの段階で太陽に呑み込まれて消滅する。一度縮んだあと、また膨張を始め、最終的には現在の200倍にまで膨張し、その外層は地球軌道に近づく。このとき地球にまだ人類がいたとして、「温暖化」などと悠長なことは言ってはおれないであろう。そのあとは白色矮星となって、何十億年かかけて冷えてゆく。最終的には地球はたいへん寒い状態になる。なにしろ太陽がもうないんだから。地質学的なスケールで考えても、現在は「間氷期」である。地球は氷期と間氷期を交互に経験する。最後の氷期が終わったのが、約1万年前。黙っていても、いずれ次の氷期が訪れて、骨が凍えるほど地球は寒くなる。そのときには海岸線がはるか遠くに退き、陸の大部分は氷に覆われ、動植物種も激減するであろう。だから、私は温暖化にはそれほど怯えることもないのではないかと思っている。地球寒冷化よりずっとましだと思う。▼また池田さんは、「二十五歳でリベラルでない者は情熱が足りない。三十五歳でコンサヴァティブでない者は知恵が足りない」と言ったのはチャーチルだが、そのコンサヴァティブ(保守)とは、現行のシステムをすぐに変えようとしないで、ダマシダマシ使う大人の知恵のことだと付加えている。▼以上は内田さんを通じての孫引きですが、その池田清彦さんが書いた『新しい生物学の教科書』(新潮文庫)から。知られる限り最古のサピエンスの化石は南アフリカから出土した26万年前のものであり、最古のネアンデルタール人の化石はスペイン出土の30万年前のものだ。ミトコンドリアDNAの解析から、現生人類とネアンデルタール人の分岐年代は60万年前と推定されており、すべての現代人の共通祖先は14万年前と推定されている。すなわち、すべての現代人は14万年前のアフリカを起源とし、エレクトスやネアンデルタール人は現代人に連なることなく絶滅したと思われる。サピエンスがアフリカを出たのは10万年前ごろと推定されている。現代人を特徴づけるのは、ネオテニー(幼形成熟)と脳の巨大化と前頭葉の発達であるが、これらは自然選択ではなく、発生システムの変更により生じたのではないか。▼ともかく、いま地球温暖化が取りざたされているが、いずれ骨が凍えるほど寒くなる。二月三日(日)

人生ミスマッチ (350)
▼内田樹のブログから。▼人生はミスマッチである。私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでもけっこう幸福に生きることができる。チェーホフの『可愛い女』はどんな配偶者とでもそこそこ幸福になることのできる「可愛い女」のキュートな生涯を描いている。チェーホフが看破したとおり、私たちには誰でもどのような環境でもけっこう楽しく暮らせる能力が備わっているのである。それでいいじゃないか。「自分のオリジナルにしてユニークな適性」や、「その適性にジャストフィットした仕事」の探求に時間とエネルギーをすり減らす暇があったら、「どんな仕事でも楽しくこなせて、どんな相手とでも楽しく暮らせる」汎用性の高い能力の開発に資源を投入する方がはるかに有益であると私は思う。▼と、私も思う。一月二十五日(金)

お金ちょっぴり、時間たっぷり3
▼ある朝ぽっくりを願っても、そうは問屋が卸さない。どんなにPPKを願っても、人間の生き死にに予定どおりはない。人間のような大型動物はゆっくり死ぬ。小鳥やハムスターなどの小動物のように、ある朝突然冷たくなっていたということが少ない。まず足腰が立たなくなり、寝返りがうてなくなり、食べられなくなり、嚥下障害がはじまり、そして呼吸障害が起きて死に至る。このプロセスをゆるゆるとたどるのが人間の死で、そうなれば寝たきり期間は避けられない。たとえ要介護度5になっても生きていられる社会に生まれたことを、なぜ喜ぶ代わりに、呪わなければならないのだろう。▼介護を受ける作法と技法。プロのヘルパーさんはこちらの基準に合わせようと気をつかってくれるが、結局、ヘルパーさんの基準にこちらが合わせるほうがスムーズにいく。▼ユーモアと感謝を忘れない。介護されるのはつらいものだ。でも自分をつきはなして第三者的に観察することも大事だ。「へえー、麻痺した脚ってこんなに重いんだ」とか「これが自分の手とはねえ」とか。ユーモアとは、自分を現実からひきはなす、「ずらし」の精神から生まれる。そうなれば介護者と要介護者はいっしょに笑える。▼未来に投資する楽しみ。歴史学者の脇田晴子さんは、自分の受け取る年金の一部をあてて、女性史学賞を創設した。夫も子どもいて、京都にりっぱなご自宅のある脇田さんは生活に困らない。自分で審査委員を指名し、自分で顕彰した若い歴史学者が育つのを生きている間に目にできる。なるほど、こういう手もあるのか、と感心した。▼残すと困るものもある。歴史家の色川大吉さんが「自分史」いうことばを発明して以来、ブームになった。自分史は「自慢史」ともいわれ、自分の人生を粉飾決算する誘惑にうちかつのはむずかしい。ペットも困るし、パソコンや携帯のメモリは要注意である。じゃ、人間は死んで何を残すか。それは、ひとは死んで、残ったものに記憶を残す。そして記憶というものは、それをもったひとが生きているあいだは残るが、そのひとたちの死とともにかならず消えてなくなる運命にある。▼監察医が語る理想の死。死体を検視解剖する監察医長の小島原は、「孤独死~ニーチェに学ぶ」で、高齢者にアドバイスしている。①生を受けたものは死を待っている人。よって独居者は急変の際早期発見されるよう万策を尽くすべし。②皆に看取られる死が最上とは限らない。死は所詮ひとりで成し遂げるものである。③孤独をおそれるなかれ。たくさんの経験を重ねてきた老人は大なり小なり個性的である。自分のために生きると決意したら世の目は気にするな。④巷にあふれる「孤独死」にいわれなき恐怖を感じるなかれ。実際の死は苦しくないし、孤独も感じない。⑤健康法などを頼るな。ひとは死ぬときには死ぬ。ひとの死は常に偶然にゆだねられなければならない。▼死んだら葬式である。旅立ちの支度だから、どこか遠くの国へ旅行に行くように、あれこれ楽しく準備すればよい。私はバッハの音楽のファンだから、マタイ受難曲かヨハネ受難曲でも流してもらえればそれでよい。▼ひとは生きてきたように死ぬ。一月十九日(土)

お金ちょっぴり、時間たっぷり2
▼孤独とのつきあい方。可処分時間が長い、時間持ちのひとの調査でわかったこと。①時間はひとり「では」つぶれない。②時間はひとり「でには」つぶれない。時間をつぶすには、いっしょに時間をつぶしてくれる相手と、時間をつぶすためのノウハウがいる、ということだった。つぶし方がわからないのに目の前にひろがるヒマな時間は、ひとによっては地獄になる。▼ひとり暮らしにいくらかかるか。社会保険料や光熱・通信費は欠かせないから、現金のない暮らしは考えられないが、それを入れても寒冷地で月5万円で暮らしているひとをわたしは知っている。省エネのパッシブソーラーハウスで、寝室付きのワンルーム住宅。家庭菜園があり貯蔵食品も自家製。▼ケア付き住宅は、食事がついて1ヵ月12~15万円程度。つまり高齢シングルの年金の範囲で暮らせるように設定してある。ぜいたくをしたいと思わなければこれでやっていける。ピンの方でも月額30万円程度で、ちがいは、部屋の大きさや設備の豪華さ、食事の質くらい。▼年金はいくらもらえるか。勤続40年の標準的なサラリーマンが受け取る年金の予想額は約23万3千円(2007年度)。専業主婦の妻は、夫が死亡したときに夫の年金の4分の3にあたる遺族年金を受け取れる。熟年離婚の場合は、婚姻年数に応じて、上限は夫の厚生年金部分の2分の1まで。というわけで妻の受領額は、死別なら月額12万5千円、離別なら11万7千年。▼ゆとりをどう捻出するか。おひとりさまの暮らしにかかるおカネは、年金プラスアルファのゆとりだ、ということがだいたいわかってきた。その「ゆとり」も月に数万円。そんなにとんでもない額ではない。といはいえ、高齢の女に仕事はないが、たいがいのおひとりさまは、他人に教えることのできる特技のひとつやふたつはもっているものだ。お茶やお花の先生をするとか、毎週、公民館で俳句教室の講師をつとめるとか、近所の子どもの勉強を見るとか、週末ビジネスでも月に数万円は入る。それに元気なら、自分より高齢者のお世話を週に数時間するとか、配食サービスの有償ボランティアをするとか、年齢を問わないコミュニティ・ビジネスはいろいろある。一月十二日(土)

お金ちょっぴり、時間たっぷり1(347)
『おひとりさまの老後』(上野千鶴子・法研)から。▼ひとり暮らしの経験のある男性は一般に家事能力が高く、自然にカラダが動くので、家事分担がうまくいく。また、中高年男性のひとり世帯率も上昇しており、ひとり世帯は、未婚者のものだけではない。▼個室を経験した身体は、もとのように雑魚寝へは戻れない。個室で育った若いカップルは、新婚のときから夫婦べつべつに個室を持っているひとたちもいる。▼実際にはメディアがあおりたてるほど、日本では凶悪犯罪や殺人事件が増えているわけではない。自分の身のまわりで起きたわけでもないのにむやみに怖がってもしかたがない。調査によると、新聞をよく読むひとほど世の中に対する不安感が強いことがわかっている。▼ひとり暮らしの基本のキは、ひとりでいることに耐性があること。わたしの仕事は基本的に、「読む」と「書く」の座業。昔風にいえば、錺(かざり)職人や版画の彫師のような居職(いじょく)である。ラジオをかけっぱなしにしたり、音楽を聴きながら仕事をするひともいるが、わたしにはかえって邪魔になる。しーんとした、だれもいない空間で好きなことに集中できる時間ほど、至福の時間はない。ひとり暮らしの達人は、ひとりでいることだけでなく、ほかのひととつながることにおいても達人だ。ひとりでいることの快楽だけでなく、不安もよく知っているからだ。▼友人にはメンテナンスがいる。必要なときに駆けつけてくれ、自分を支えてくれ、慰めてくれ、経験を分かちあってくれるからこそ、友である。だからこそ、友人をつくるには努力もいるし、メンテナンスもいる。メンテナンスがいらないのが、家族と思っている向きもあるようだが、これはカンちがい。家族のメンテナンスを怠ってきたからこそ、男は家庭に居場所を失ったのだ。ほうっておいても保(も)つような関係は、関係とはいわない。無関係、というのだ。▼いっしょにいて楽しいひとは?と書くより、「いっしょにいてキモチがよい」と言ったほうがよいかもしれない。寡黙だったり、おだやかだったり、他人の話をよく聞いたり、要所でぴりりと反応を入れたりするひとが、キモチよい。要は、きちんと相手の話を聞いてコミュニケーションがとれるということ。一方的に自分の話ばかりするひとはきらわれる。自慢話、他人の過去の詮索好き、説教癖のあるひとは、はやがて外される。▼恋の決め手はカオか、コトバか。インターネットが変えた異性の魅力とは、ルックスはいまいちだが、チャットのおもしろい子が選ばれる。▼ベッドメイトよりテーブルメイト。しかもメシがうまくなる相手と少人数で。いっしょに食べるなら、おしゃべりのおもしろい、気の置けないひとたちと5~6人までの食卓を囲みたい。ひとつのテーブルで全員が話題を共有できるのはこの程度。▼女同士の食卓に男は呼ばない。男が来ると食卓の話題が変わるからだ。元気のいい男ならそいつの自慢話を、元気のない男ならそいつのグチを聞かされるはめになる。▼本当に大切な友人はたくさんはいらない。近くにいなくてもよい。自分の理解者だと思える友人がこの世のどこかにいて、いつでも手をふれば応えてくれる。そう思えるのは、どんなに幸せなことか。老いるとは、こういう友人がひとり、またひとりとこの世を去るさみしさかもしれない。一月五日(土)

cojiki-07

引算の絵、一瞬の絵... 2
市民政治理論の再論... 2
土を喰う.. 3
読書術免許皆伝... 3
あっち側... 4
砂糖壷に落ちたアリ (340) 4
from must to want 2. 4
from must to want 1. 5
漢江とセーヌ3.. 6
漢江とセーヌ2.. 6
漢江とセーヌ1.. 7
世界の涙の総量2.. 7
世界の涙の総量1.. 8
眼の喜び... 9
儲けの裏側で... 9
八万時間7 (330) 9
八万時間6.. 10
八万時間5.. 11
八万時間4.. 11
八万時間3.. 12
八万時間2.. 12
八万時間1.. 13
還暦の晴々... 13
虎の肩こり.. 14
家族5.. 14
家族4.. 15
家族3 (320) 15
家族2.. 16
家族1.. 17
はい、泳げません... 17
人は人に会って人になる.. 18
仏教の系譜5.. 19
仏教の系譜4.. 19
仏教の系譜3.. 19
仏教の系譜2.. 20
仏教の系譜1. 21
昭和史・戦後編... 21
世界の見方5 (310) 22
世界の見方4.. 22
世界の見方3.. 23
世界の見方2.. 23
世界の見方1.. 23
海からの贈物... 24
日本の見方2.. 24
日本の見方1.. 25
雨の日は、だいどこ。.. 25
赤い本の森... 26
龍馬と直行 (300) 26
アイヌ民族を知る(序). 27
博物館づくり.. 28
合作... 29
古代狂4.. 30
古代狂3.. 30
古代狂2.. 31
古代狂1 (293) 32

引算の絵、一瞬の絵
『フェルメール全点踏破の旅』(朽木ゆり子・集英社新書)から。▼引き算の絵。《窓辺で手紙を読む女》では、この絵の右側の手前、テーブルの上にはワイングラスが描かれていたのですが、彼はカーテンを描くことでそれを塗りつぶしてしまった。ともかく、この絵ではかなりいろんな引き算をして、要素を少なくしています。カーテンを描いたことで、見る者との間に距離ができ、絵に奥行きが加わりました。同時に、見ている私たちが部屋の中にいるように感じる錯覚を作り出した。これはデルフトの画家がよく使った手法です。このようにフェルメールはいろいろ工夫して、自分のスタイルを作り出そうとしていた。▼次は、『日本にある世界の名画入門』(赤瀬川源平・知恵の森文庫)から。▲ボナール「ヴェルノン付近の風景」(ブリジストン美術館)。筆触は画家の表現であり息づかいである。描写のための筆のタッチは、それ自体が表現となって表にあらわれてきて、ついにはタッチそのものを見せる抽象絵画となり、絵具そのもの、素材そのものを展示する抽象芸術へとなっていく。ボナールの絵はまだ、そんなことになっていないが、印象派の時代に後発したことで、描写感覚がすでに崩壊したところが見えるところがスリリングである。自然の風景を借りて、そのうえで色の遊びの方を楽しんでいる。▲次は一瞬一回性の絵。ミロ「パイプを吸う男」(富山県立近代美術館)。日本の書は、漢字のモトが象形文字で、正しくは表意文字のため、一文字の書でも風景を見るように見ていられる。ミロの絵は書ではない。絵である。でも絵を文字のように描くというか、文字を絵のように描くというか、書くと描くとを入れ替えて重ねて混ぜ合わせたような、つまり漢字の「書」の独特の感覚がキャンパスにしるされている、というふうに見える。ミロの絵は絵が文字のようになりかけている。そのうえさらに、一期一会という書の中でもっとも大切にされる感覚が生きている。スピード感のある絵筆のタッチは、書の筆跡に通じている。水墨画の筆がすでに書に通じるように、タッチが際立ってくるということは、一期一会への接近である。なぞらない、戻らない、一瞬の感覚、一回性の美しさ。十二月二十九日(土)

市民政治理論の再論
『市民・自治体・政治-再論・人間型としての市民』(松下圭一・公人の友社)から。この本は2007年6月20日、北海道地方自治研究所による公開講演からのもので、『現代政治*発想と回想』が最後の著作だったはずなのだが。でも、感謝。▼市民活動の自立後は、政党についての「指導」ないし「前衛」という言葉もなくなります。その後は、市民たちが政党を創出あるいは選択する時代にはいり、政党へのムラ型支持あるいは利害型支持という「組織票」が順次底抜けとなり、崩壊しつつあるとみるべきでしょう。いわゆる「無党派」票問題がこれです。この市民政治では、市民にとっての政党とは、政府選択についての「媒体」という、いわばツカイステの「道具」にすぎなくなるわけです。▼今日の都市型社会における市民と政治・行政との緊張のなかに、市民政治への転換をみたい。①市民行政と職員行政は反比例、②職員行政再編が市民課題、③市民の文化情報水準、専門・政策能力の上昇、④市民起点の政策・制度づくり、⑤市民主権からくる自治体の位置づけ変化、⑥職員の給与は市民の税金から、⑦国・自治体の人事再編と市民責任、⑧市民への責任は法務・財務で。以上八点に要約できるが、私たち市民はすでに、国家の受益者ではなくなっている。国家自体が未熟な政治家と、劣化した官僚による可謬の、さらに日本では借金づけの政府にすぎません。自治体も同型です。ここでの不可欠の視点は、第一に、政治・行政の情報の整理・公開がなければ、市民・政治家は全体展望をもつ発想・立論ができません。第二に、政治行政の内部にいる官僚・職員も情報の整理・公開がみずからできないため、全体構造についてその論点がわからず、市民参加の衝撃がなければ、自己改革にもとりくめないという事態です。▼市民という問題設定は、地域・自治体に限らず、国・国際機構をふくめて、今日の都市型社会でいかに政治主体としての市民、ついで制度主体としての三レベル(自治体・国・国際機構)の政府を設定するかという、基本の問いにつながります。市民自治・自治体政府という発想を起点に、都市型社会における地域特性をもつシビル・ミニマムの公共整備という文明史的新課題から、市民⇒自治体⇒国というかたちで、現代の自治体の政府性を位置づけます。これは日本では二〇〇〇年の分権法でスタートします。▼ここで、日本の大衆ドラマ「水戸黄門」を想起してください。今日の日本の人々、つまり庶民の政治発想の原型そのものがここにあります。日常生活ないし政治・行政に問題があっても、日本の庶民たちは問題解決の能力を持ちません。悪代官や悪徳商人がいても、また泥棒やばくち打ちがいても、日本の庶民はみずから問題解決するという政治熟度をもっていない。つまり自治能力を欠いた受動市民だったのです。今日でも、日本の政治家、ついて官僚をふくむ公務員は、市民からの批判・参画による政治訓練をあまりうけていないため、オカミとしてイバルだけで、その政治未熟、行政劣化が続きます。これに比して、アメリカの大衆ドラマ「西部劇」では、原住民への弾圧という半面はありますが、白人内部では未熟ではあっても「問題解決」の自治能力を示します。政府が遠くにある西部開拓地では、広場や教会にあつまって、失敗をふくめて、みずから議論・決定をしているではありませんか。J・S・ミルが、アメリカ人は「いつでも、どこでも政府をつくる」といった理由です。くわえてヨーロッパでも、中世におけるマグナ・カルタの制度や暴君放伐論、またロビン・フッド、ウイリアム・テルなどの抵抗、さらには近代市民革命をめぐる今日の市民性につながる、ゆたかな大衆ドラマをもちます。日本ではオカミとしての水戸黄門がたまたまやってきて、官僚のスケサン・カクサン、最近のテレビでは忍者という特殊部隊すらつかって、上からの問題解決となります。黄門がこないところは、永遠に問題解決できず、東洋専制ともいうべき忍従の日々が続くのみです。日本も、近代欧米の影響から自由民権、大正デモクラシーの記憶はあるものの、中世の惣村・惣町の一揆をふくめ、ひろく誇りある自治の歴史つまり記憶がうすく、大衆ドラマもせいぜい「」鼠小僧」「大塩平八郎」などにとどまります。都市型社会の今日でも、未来にむかって自治の伝統を、私たち自身がかたちづくることが急務になっているというべきでしょう。▼著者が市民政治理論を世に問うてから半世紀ですが、まだ自治体の市民自治は路半ば。十二月二十二日(土)

土を喰う
『キラリと、おしゃれ』(津端英子、津端修一・ミネルバ書房)から。▼楽しみを与え、生命を与えるのは細部です。キッチン・ガーデンでの百二十種の栽培をベースに、各地の産物を追加している。よつば牛乳(北海道/牛乳、バター、ナチュラルチーズ)、角長醤油(和歌山県湯浅町)、本田味噌(京都市)、山政(静岡県焼津市/鰹節)、小松養蜂園(石川県小松市)など五十種類。▼はぶ茶は整腸剤で排泄機能が活発になる。お年寄りの「うさぎのうんこ」を解消する特効ドリンク。四月にタネをまくが、一㍍ぐらいに伸びるので間隔は広め。手入れは一切不要。一人年間五本あればよい。収穫は十月で、青い鞘が金茶色になって熟したら刈取り。十分に乾燥させから実をとり出す。ティースプーン一杯で、土瓶で二回いれて、普通の湯飲み茶碗で十杯は飲める。ということで、はぶ茶のタネは著者からいただいているので08年栽培する予定。増えれば近所におすそわけ。▼そうそう、つばた家には、電子レンジがないんです。ん、ということは。▼ということで、著者おすすめの『土を喰う日々-わが精進十二ヵ月』(水上勉、新潮文庫)を読んでみます。十二月十五日(土)

読書術免許皆伝
『千夜千冊虎の巻』(松岡正剛・求龍堂)から。▼再読にこそ読書の醍醐味がある。読書法の極意は、本をノートの様につかうこと。そのほかには「暗号解読法」「目次読書法」「マーキング読書法」「要約的読書法」「図解読書法」「類書読書法」がある。▼松岡正剛が一番身につまされた本は『婉という女』。著者の大原富枝は死ぬ間際に言う。私が書く作品はあくまで負の世界に生きて徹するものばかりです。なぜ中途半端な幸福などを書く必要がありますか。人間は、そして女性は、最初から負を背負って生きてきて、負を埋めるために生きているものなのです。十二月八日(土)

あっち側
『信じない人のための宗教講義』(中村圭志・みすず書房)から。▼神学論争で三位一体とは、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、そして精霊なる神が一体のものだとし、キリストが神であると同時に人間でもあることが確認されました。図像的に神をコカコーラの缶に例えると、父、子、精霊は缶の上面、底面、側面です。すなわち三位一体です。この缶をテーブルの上に立てます。テーブルは人間世界で、広い面上に救いを求める衆生がうごめいている。そこに神(コーラの缶)が出現した。缶の底面と机の接触面がイエス・キリストです。この底面は子なる神として神に属しますが、この面は机の面でもありますから、人間にも属します。この境界面にあるキリストは、シンボルでもなく絵物語の人物でもなく、歴史的人物であることによって救済のリアルな根拠が示されます。キリストは人間であり、かつ神であった。ここに信仰の要訣がある。▼西洋人は神さまを信じているが、日本人は西洋人を信じていると、皮肉る人もいる。▼そもそも私たちの思考には、こっち側の日常世界に対して、あっち側の宗教世界を想定しようという精神的誘惑を断りきれないところがあります。ちなみに病者や老人が向かう死の手前ではもはや収支決算が合わない時点というものが来る。それゆえ、死の先の世界を目標とする論理回路がなければ、死の確実に見えている人間をポジティブに生かしてあげることができない。十二月一日(土)

砂糖壷に落ちたアリ (340)
『読書の腕前』(岡崎武志・光文社新書)から。▼「教養とはつまるところ、自分ひとりでも時間をつぶせる、ということだ」。そう書いたのは中島らも(『固いおとうふ』)で、たったひとりで自分の内面を深めるのは「読書」以外ない。▼「やなぎたんぽぽ属のことで私は多忙をきわめている」と、これはギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫)の一節。イギリスの作家が、二〇世紀初頭に、南イングランドの田園地帯で、散歩と読書に費やす日々を、ライクロフトという初老の男性の手記というかたち著した自伝的作品である。およそ読書人と呼ばれる人の本棚に、これがないことはありえない。ところで何故花の名前のことで忙しいのか。「私は散歩の途中で合うすべての花の一つ一つ名指して呼べるようになりたい。それも特にそのものの固有の名前で呼んでやりたいのだ」。▼本を読むために旅に出る。片岡義男『日常術・片岡義男本読み術・私生活の充実』(晶文社)では、「新幹線のなかで読んで、到着した町のホテルで読んで、町を散歩して、そして歩いているとかならず雰囲気のいいコーヒーショップがみつかるので、ここでまた読んで。どうしてこんなに楽しいんだろう、と不思議な気持になるほど、これは楽しいですよ。感動というものを体で感じますよ」。国内なら夏の終わりの高知、あるいは京都。海外ならハワイ。どこか見知らぬ土地で本を読む贅沢。▼同世代を意識する。ロアルド・ダールに『あなたに似た人』という短編があるが、本を読む場合でも、あなたに似た人を探すのがいい。まずは、同じ時代を併走してきた人が書いたものは実感がともなうし、同世代人として、まるで自分が書いたもののように錯覚すらする。▼本の本では、ぼくらはカルチャー探偵団編『活字中毒養成ギプス』(角川文庫)、丸谷才一編『ポケットの本・机の本』(新潮社)。大人になると、夜空を見上げることをしなくなる人には、チェット・レイモ『夜の魂・天文学逍遥』(山下知夫訳・工作社)を。十一月二十五日(土)

from must to want 2
▼サバイバーとしての定期の点検項目は、リンパ球数(比率)、体重、体温、腫瘍マーカー、肝機能、体調変化です。▼3大療法だけでは再発転移。西洋医学の標準治療となっている3大療法(手術・放射線・抗がん剤)はがん細胞を直接体内から取り除くことを目的としていますが、しかしこのような治療法を受けても、実に半数以上の方が数年以内になくなっています。原因は再発と転移です。しかも転移と再発は多くが3年以内、そしてほとんどが5年以内に起こります。つまり、まず3年間、そして5年間、集中してしっかりとベース治療を行いながら、時には中医薬や適切なサプリメントを用いて環境整備していけば、かなりの確率で転移と再発が抑えられるはずです。▼がん治療に精通した医師は皆無。診断学が進んだために早期発見による治療成績が一見上がったようにみえるのですが、中期以降に進行したがんに対しては、治療成績はまったく変わっていません。具体的にはがんの死亡率、がんの5年死亡率に改善はみられません。がん治療の専門家が育っていないということです。一番の問題は、肝心の医師が、がんは治ると思っていないことです。だから、何があっても治療にこだわるという姿勢がないのです。おそらくは、ベース治療で免疫力を高め治った人を見たことがないからです。ここに3大療法の西洋医学だけでなく、補完代替療法にも精通している、がん治療専門医が求められる理由です。今の専門医は抗がん剤の専門医にすぎません。▼倦怠感(しんどい)は、肝機能の低下、低栄養、腎機能の低下、脱水、甲状腺機能の低下、うつなどが原因となります。これには中医薬の補剤(十全大補湯、六君子湯、補中益気湯、人参養栄湯など)、アミノ酸、ビタミン、ミネラル、CoQ10、甲状腺ホルモンなどが有効です。また、特に抗がん剤や放射線治療を受けたがん患者のほとんどは、虚証(陰嘘:自己治癒力の物質的な基礎やエネルギー源が不足している状態)を呈しているので、六味地黄などを補うのもいいと思います。▼サバイバーになるための環境整備(ベース治療)は、水分しっかり摂取、酸素しっかり摂取、栄養(ビタミン、ミネラル、ファイトケミカル、タンパク質)しっかり摂取、栄養しっかり吸収(腸内免疫高める)、栄養の全身血行(体を温める、筋肉運動、乾布摩擦、爪もみ、温冷浴)、カロリー少なく(糖分・脂肪少なく)、塩分少なく、結合組織(コラーゲン~マルチビタミン、ビタミンC、プロリン、リジン摂取)、生命エネルギー高める(気功、中医薬摂取、気持安定、サバイバーとコミュニケーション、しっかり睡眠)、がすべてです。十一月十八日(日)

from must to want 1
『死の宣告からの生還』(岡本裕・講談社α新書)から。▼まずは自分を自由にしてあげることが大切です。こうしなければいけない、こうあるべきだ、という生き方はストレスを溜め込みます。他人が設けた壁よりも自分で作った壁の方が、ストレスは大きく、しかもなかなか取り除くことが困難になる。私たち医師から見ても、がん患者の多くは、責任感が強く、頑張り屋で、とてもいい人たちなのです。がん患者さんと話していても、言葉の端はしに、しなくては、であるべき、ねばならない、などが多く登場します。つまりこれはMUSTにとらわれ、責任感の強い、番張り屋さんの発想であることがわかります。しかしサバイバー全員がMUST(ねばならない)の考え方をWANT(したい)に変えています。再発移転を防ぐためは、心の持ち方がとても大切ですから、少しは自分を中心にした生活(人生)を考えてくださいとアドバイスをしています。がんは3大療法(切除・放射線・抗がん剤)だけでは直らない。自己の免疫力を高めるほかには手立てがないのです。▼腫瘍の有無、大きさ、転移のあるなしにかかわず、食べて動けて眠れる人は、がんに負けないのです。▼運動。体を動かすと免疫力が高まる。できるだけ毎日6千歩(一時間)以上歩くことが望ましい。体にいいことはもちろんですが、脳内からいいホルモン(エンドルフィン)が分泌される。新しい発想、着想は、瞑想しているときより、むしろ歩いている時の方が多い。▼がん患者の多くは自律神経のバランスを崩しているので、爪もみや自律神経免疫療法を用いてバランスを戻しておくことが治療への大前提になります。旅や楽器演奏とか、何かに夢中になると、交感神経が優位になり、その後には副交感神経が優位になる時期が続き、結果としてリンパ球が上昇、NK活性が高まります。▼全身血行。栄養をしっかり摂っていても、全身血流が滞っていては元も子もありません。血の巡りです。運動やマッサージなどで筋肉を動かし、自律神経のバランスを最適に保っておくことです。特に手の先、足の先が冷えていないかをチェックすることです。常に手の先、足の先が温かければいいのですが、そうでなければ爪もみ、ふくらはぎマッサージ、温冷浴などをこまめに行うことが必要です。▼体重。とにかく体重減少の下げ止まりが肝心です。体重をキープし治癒力を温存することです。体重は意外に病勢のバロメーターになりますので、経時的なチェックが大事です。▼たいていのがん患者さんは、3大がん治療が終わって、元の生活に戻りますが、これはだめです。がんになりやすい元の仕事環境や生活に戻らず、免疫力を高める生活に切り替えることなのです。おそらく防御システムが健全に作動していたと思われる、数年から十数年前に戻ることです。ここを勘違いしている方が、医師を含めて多いのです。患者さんは手術が完了したから、完全に元に戻った、したがって生活習慣や仕事も手術前のままでいいという勘違いです。十一月十七日(土)

漢江とセーヌ3
▼フランス人は運転席に座ったとたん、ラテン系の血がいっそう騒ぐのか、その運転はせっかちで敏捷だ。混んでいても道は譲らないし、未熟なドライバーを見ても、赤信号に引っかかっても、トラックが前にいても、口をついて出るのは「この野郎!」だ。ほとんど条件反射のように口から飛び出す。▼フランス語を勉強するなら公園のおばあさん。黙って隣に座りなさい。ほんの十分もしないうちに友だちになれるだろう。フランス人は同じ年のおばあさんと友達になろうとしない。この点は韓国のおばあさんとは違うところだ。自分が年老いていく悲しみを忘れたいのに、同じ年頃のおばあさんと友達になったら忘れることができないからだ。しかもベンチに座っているおばあさんにズボン姿はない。なぜか。おばあさんではない、という主張であり宣言なのだ。だからおばあさんは必ずスカートをはき、正装して街に出る。たとえ行き先が市場と公園しかなくても。▼野山をさらさらと流れる小川の澄んだ水。フランスでそれを探そうとして、妻と私はずいぶん歩き回った。だが、無駄足だった。フランスでは、野と山と水が、調和を成してはいなかった。野は野。山は山。それぞれ独立しており、野からは山が見えず、山は野を抱いていない。野は広いが水は濁っていた。フランス人は理知的かつ率直で、正義と粋を愛することを知る人々と、その徳目を挙げることはできようが、半面、人間の奥深いところにある香気はあまり感じられない。このことは、身土不二(人間の体と大地は一体)の観点から理解できるだろうか。▼韓国の英語公用語化論。これは国民の生活の中で、継続的に英語を強制しない限りその実現可能性はない。そのためには動員体制が必須となる。これまで韓国で英語教育のために注いできた努力と時間を、その結果と比較してみれば、すぐ理解できる話だ。日本帝国主義が朝鮮人に日本語を強制したのと同じように。現在地球上で、アングロサクソン系の国以外で英語を公用語としているのは、過去にイギリスとアメリカの植民地だった国だけだという事実もこのことを示している。「私は朝鮮語があまりできませんが、英語はできます」と言えるようになるまで、いったい何年かかるだろうか。五十年、あるいは百年。その間にアメリカ主導の世界体制から、例えば中国主導の体制になったらどうするのか。あるいは中国が英語を公用語にするとでも。それは考えられない話だ。中華のことをまったく知らない者のセリフだ。▼私たちがよく使う左右という政治用語は、フランス革命直前にルイ十六世が召集した一般会議に由来すると言われている。貴族、カトリック聖職者、市民の三階級が集まったので三部会とも呼ばれているこの一般会議で、貴族と聖職者は王の右側に、市民階級は王の左側に座ったところから始まった。▼トレランスはデモクラシーよりも重要なものだ。私たちがしばしば十八世紀のフランス啓蒙主義者と呼ぶモンテスキュー、ルソー、ボルテールは、みなトレランスの概念を打ちたて発展させた人たちだ。十一月十日(土)

漢江とセーヌ2
▼美術教師の哲学。なぜ美術の時間に石膏のデザインをやらないのかを尋ねた。石膏像をみてデザインさせると、価値観を画一化させる恐れがありますし、一つの対象にすると互いに描いたものを比べて、優劣を競うのはいいことではありません。だいたい、三十人の子どもが一つの死んだ生物を眺める姿は美しくありません。フランスには哲学教育の伝統があるため、最高の知性が高校の哲学教師になっている。ボーボワールやサルトルも、みな高等師範卒で高校哲学の教師の経験がある。▼韓国のテレビは連続ドラマと各種ショー番組だが、フランスでは連続ドラマはほとんどなく、ショー番組が少ない。そのかわり様々な討論番組と時事ドキュメンタリーが多い。政治家たちの討論は、「政治は芸術だ」という言葉を実感させてくれる。彼らの明瞭な話術、修辞法、正確な発音、そして瞬間的な機知を見るのは、視聴者の楽しみの一つである。▼フランス人から見たら韓国人はみな歌手だ。フランス人はシャンソンを好んで聴くが、いざ歌ってみろと言われると、みな逃げ出す。ほとんどの人が、歌のひとつも歌えない。いわゆる十八番すらない哀れな人たちなのだ。「ラ・マルセイエーズ(フランス国家)」を歌うときも、みんなもじもじするばかりだ。だからフランス人の宴会や会合で歌う姿は全く見られない。討論とおしゃべりばかりだ。▼フランス人は他人の生活に関心がなく、また他人が自分の私生活に関心を持つのを大変嫌う。こう言うと、おそらく韓国のご夫人方の中には、「では、フランスのご婦人はどんなおしゃべりをしているのかしら」と疑問に思う人もいるだろう。もちろんフランスのご婦人方もおしゃべりする。マドモアゼルは一番おしゃべりだ。他人の私生活のことでなければ、いったい何をしゃべっているのだろう。私生活のことを除く、残りの全部だ。政治、社会、経済、文化、旅行、料理、テレビ、音楽、美術、教育、経験など。話題は無尽蔵だ。例えば、あなたの友だちが昨夜、ドミンゴ、カレーラス、パヴァロッティの三大テノールを鑑賞したとしよう。あなたはその音楽会の顛末の一切を、微にいり細にわたり聞かされることだろう。音楽会の演奏時間より、話の方が長くなるかもしれない。しかも話は家を出たところから始まり、帰宅するところまで続く。ただ一つだけタブーがある。ベルトより下の話は避けることです。▼ヨーロッパの気候が悪いのは、メキシコ暖流の湿気を含んだ偏西風の影響による。フランスも南部の地中海沿岸を除いて、いつも灰色の空を眺めなければならない。ヨーロッパ人が復活祭を待ち望むのは、復活祭そのものより、その時期から天気がよくなるからだ。そして五月から九月までは天気がよく、十月からはどんよりした曇り空が翌年四月まで連日続く。特に冬は零下五度を下回ることはあまりないが、湿度が高いので骨まで染み入る寒さを感じる。フランス人はこうした天気の影響で、夏には明朗で親切だが、冬になると沈鬱な顔で、むっつりと黙り込む。十一月三日(土)

漢江とセーヌ1
『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』(洪世和ホン・セ・ファ/みすず書房)から。パリでただ一人の韓国人タクシー運転手となり、祖国とフランスをみた。▼イギリスは帝国であり、ドイツは民族であり、フランスは個人である。フランス人に民族はない。個人が重要なのであって、誰の血を受け継いだかは重要ではない。国外で生まれた者であっても、五年以上の学校教育を受けてフランスの社会の一員になると宣言すれば、フランス人になれる。要するに、ドイツではドイツ人がドイツ社会を作っているが、フランスではフランス社会がフランス人を作っているのだ。▼すなわち賞とはもらう人のためにあるのではなく、与える人のためのものだ。賞による統治マネジメント。▼オペラ座の鱒養殖と養蜂。マルタンはパリのオペラ座で働く電気技術者だが、その下に地下水が流れているのに眼をつけ、その地下水で鱒を飼っている。マルタンと同じ職場で働くジャン・ピエールは、同僚の奇抜な副業に興味を持ち、羨んだが、かといって同業になろうとするような人間ではなかった。フランス人の個性はそんなことを容認しない。他の建物の地下で鱒を飼うこともできるが、それもまたフランス人の個性と折り合わない。彼にアイデアが浮かんだ。二ヵ月の間、自分で本を読んだり、他からの助言を求めた末、蜜蜂の巣箱を二つ、オペラ座の屋根に据えつけた。しばらくすると、数万匹の蜂が巣をつくり、パリ市内のあちこちの公園やアパルトマンのバルコニーに咲く花から、蜜を運び始めた。屋根の上の副業から、ついに蜜が産出された。大気汚染の酷い都心で良い蜜がとれるはずがないという当初の予想を覆して、その味と品質は抜群との判定を受けた。そして「パリの蜜」という商標で、パリの最高級の食料品店フォションに出荷された。彼は調子に乗って、オペラ座から一キロほど離れたコメディ・フランセーズの屋根にも巣箱を置いた。ともかくパリ市民は、マルタンやジャン・ピエールのおかげで、そしてトレランスを示した劇場管理者のおかげで、無味乾燥な都市生活のなかに生きる楽しみを見出すことができた。その上、パリの真ん中に地下水が流れており、良質な蜜がとれるほどパリに花が多いということを、あわせて知ることができたのである。韓国なら追従する人があるかもしれないが、許容する施設管理者を探すのが難しいだろう。十月二十七日(土)

世界の涙の総量2
▼脳出血で倒れたとき、私は何より自由に歩けるようになりたかった。右手で箸を使い、字を書けるようになりたかった。正直、思いの大半はそのことに占められ、改憲の動きも自衛隊の派兵についても病前ほどには意識しなくなった。「政治の幅は常に生活の幅より狭い」。しかし、さはさりながら、やはり歴史の大きくうねり曲がっているのを感じないではいられない。先日、内視鏡の写真を見せられた。赤茶けた腫瘍がいつの間にか全容を捉え切れないほど膨れていた。おそらく政治の癌もそうなのだ。生活の幅より狭いはずなのに、政治は生活を脅かしつつある。もう楽園には帰れない。▼麻原を除くサリン事件の被告たち個々人に、私はいわゆる狂気など微塵も感じたことがない。法廷での挙措、発言に見るもの、それは凡庸な、あまりに凡庸な世界観と一本調子の生真面目さなのであった。その像は、事件の当日うち倒れた被害者らを跨いで職場へと急いだ良民、すなわち通勤者の群れに重なる。▼生産、労働、刻苦精励、終身雇用、労組、年功序列といった価値が退潮し、消費資本主義ともギャンブル資本主義とも呼ばれる資本の全域制覇の時代を迎えた。▼マネーゲームの勝者など、いうところの「勝ち組」を讃えるこの社会には、上部の指示に逆らってでも貧者や弱者の側に立つ自由な「私」の数は明らかに減ってきている。そして、ファシズムはかつての装いを一変して、あくまでも優しく道理にかなっているかのごとく日々を振舞っているのである。▼審問。では問う。脳出血に癌。二年以内に相次いでお前を襲った二つの災厄を、お前は内心、不当、理不尽と思っているのではないか。そう問われれば、こう答えたい。ずっと前から体調不良だったし、やっぱり来たか、という思いだ。無論大いにがっかりはしたけれども狼狽はしなかった。▼今度はご丁寧に癌まで患った。何という大ばか者だろう。私はロボトミー手術でも受けて、伊豆かどこかの陽当たりのいい別荘地あたりでニコニコ笑いながら余生を生きればよかったのだ。無農薬野菜を食い、コレステロールと塩分の取りすぎに注意して、血圧コントロールを徹底し、ラブラドール・レトリバーを飼い、庭でゴーヤを育て、朝はヘンデル、夕にはバッハを聴き、有事法制が採択されようが、バクダッドが爆撃されようが、どこ吹く風と、誰に対しても笑顔を絶やさず、憲法改正の動きには「困ったものです。この国はこれからどうなるのでしょう」くらいは空々しくいってみせ、早寝早起きと犬連れの散歩を励行、定期健康診断をしっかり受けて、眠剤がわりに『失われたときを求めて』を一日たった三十頁だけは読んでうとうとと眠りにつくような日々をなぜ送れなかったのだろう。昼下がりには楽器の個人レッスンを受けるのも悪くはない。それがどうだ。私は何一つ自分を変えることができなかった。多分、自己蕩尽型だったのだろう。▼娘が自宅の柿の木で縊死した、あの大人しいクリスチャンの父がいった。「日常のな、日常の皮を一枚ペロリと剥げば、大抵の人間はだな、ち、ち、血まみれなんだよ」。十月二十日(土)

世界の涙の総量1
『審問』(辺見庸・毎日新聞社)から。▼死の実感と制度の殺人。刑場の1メートル四方といわれる鉄の踏み板がいきなりバーンと二つに割れ、つないだ麻縄がぴんと張りつめて、頚骨をこなごなに砕く音。瞬間、脚は宙でヒクヒクと痙攣し、まるでおかしな空中ダンスを踊るようになるといいます。▼二〇〇四年夏、ぼくは三つ目の病院を退院しました。ものみな白々と晒しつくすような娑婆の陽光にぼくは怖じ怯みました。たかだか数ヵ月の不在だったのに、世界のすべてが一変してしまったように見え、もはやぼくの居場所はなくなったとさえ感じました。娑婆の時間には一貫した継起的流れがなぜかなくなり、ただ意味もなく、何かが消えたり生じたりしているようで、その忙しさが譬えようもなく下等なものに思われました。▼ぼくは残りの生を一人の老いた身体障害者として私小説ふうに生きればいいのでしょうか。あくまでも静かに、謙虚に、恥ながら隠棲し、世界について大言壮語せず、悪態をつかず、毒づかず。そして、これまでに果たそうとしてできなかったささやかな夢の一つか二つ、たとえば極寒の地にダイアモンド・ダストを見に行くとかを、残り少なくなった生の間に秘やかに果たして、薄い笑いを浮かべてひとり逝くこと。▼脳溢血で倒れて入院していたころ、私と一緒につらいリハビリをしていた五十歳代とおぼしい男がある日突然、声を絞りだすようにして独りごちた。怪しい呂律だったが「こうまで苦労して生きていく価値があるのかなあ」と聞こえた。言葉が耳朶(じだ)に残り、いつしか私も同じような独り言を呟くようになった。この世の中に頑張る意味ってあるのかなあ。生き続ける労苦が周りの風景とつり合わなくなってきた、何だか甲斐がないな、という気分がため息をつかせるのである。▼おそらく人倫の基本がかつてなく揺らいでいる。旧式の価値体系は資本に食い破られたけれど、新しい価値観が人の魂を安息に導いているとは到底言いがたい。正気だった世界に透明な狂気が入りこんできて、狂気が正気を僭称するようになった。この世には生きる真の価値があるのか、と訝る内心の声は老若を問わずこれからも減りはしないだろう。「世界の涙の総量は不変だ」。ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に出てくる台詞だ。昔はうなずいて読んだものだ。いま、そうだろうか、と首を傾げる。世界の涙の総量は増えつづけているかもしれない。▼万物の商品化。労働、教育、福祉、医療、冠婚葬祭、スポーツ、臓器、遺伝子、精子、血液、セックス、安全、癒し、障害者・老人介護。金銭に置き換えられないものを見つけるのは至難の業だ。では、物語、理想、夢、正義といった心的価値はどうだろうか。まさかここまでは万物商品化の力は及ぶまい、と判じるとしたら楽観的にすぎよう。モノの商品化をあらかた終えた現在では、コンテンツ産業の隆盛に見られるとおり、心的価値こそ資本主義の生き残りをかけた商品化のターゲットになっている。いわば意識または無意識の商品化だ。映像だろうが活字だろうが、あらゆる種類の物語をオン・デマンドで端末に配信するビジネスはもはや目新しくない。十月十三日(土)

眼の喜び
『スクラップ・ギャラリー』(金井美恵子・平凡社)から。▼マルセル・デュシャンは、マチスの絵について「マチスの色彩は、その場では把まえようがありません。あれは透明で、推察するに、ごく薄い色彩です。しかし、あなたが彼の絵の前を立ち去った後になって、はじめて、絵があなたを把えて離さなくなることがわかるでしょう」。あの眼をひきつけてやまない色彩と、色彩のなかに出現する曲線の形づくる平面の魅力はいったい何なのか。『赤いアトリエ』でも『桃色のアトリエ』でも、アトリエに置かれた、家具や彫刻や布やマットや絵は、キャンバスという平面の中で、もう一つの様々な平面を幾重にも形づくる窓=絵画として、類まれな色彩の喜びを、見る者にほとんど肉体的に感じさせずにはおかない。▼宗教画や歴史画に描かれている説明的な背景が後に風景画としてのジャンルを形成するように、静物画も人間や神格といった中心の主題に対する、いわば辺境に位置していた「物」が独立して一枚のタブロオとして成立することになるのだが、それは西洋の絵画史の通説では、カラバッジョにはじまる。宗教画の食卓の上のパンやブドウ酒や、ギリシャ神話を題材とした歴史画の、丸焼きにされた鶏肉や官能的な若者の姿をしたバッカスや少年と共に描かれた、カゴに盛られた果物は、やがて、キリストもバッカスも少年も描かれていない、あの死んだ自然であるカラバッジョの『果物かご』となるのだ。▼高橋由一『豆腐と油揚げ』、谷川潾次郎『乾魚』。日用品の置かれた空間の静かさこそが主題であるかのように、選ばれた物たちは「死せる自然」ではなく、はっきりと「静かな生」を穏やかに息づかせる構図。しかし、それにしても、これはいったい何なのだろう。『豆腐と油揚げ』の豆腐と油揚げ、『乾魚』の茶碗と汁椀と箸と丸干しイワシ。不思議な印象が、後々まで残る。十月六日(土)

儲けの裏側で
『偽装請負』(朝日新聞特別報道チーム・朝日新書)から。▼企業側においしいシステム。メーカーが、ある製品を低コストで生産したいとする。以前であれば、低賃金のパートか期間工を雇い入れたが、近年はもっといい方法を見つけた。まず人材サービス会社(=請負会社)と請負契約を結ぶ。契約の主たる内容は、期日まで製品を完成させ、納入することだ。従来の下請けならば自前の工場で製品をつくり、発注元に納めるところだが、偽装請負の場合は、自前の設備などいらない。請負会社がするのは人を集め、メーカーに送り込むだけ。あとはメーカーにまかせっきりだ。請負労働者が働く場所はメーカーの工場内。細かい指示は、メーカーの正社員が出す。偽装請負が違法とはしらない請負労働者は、この指示・命令に従うほかない。こうしてメーカーは雇用の義務や安全の責任を負わず、請負労働者を手足のように使って、低コストで自社製品の製造を続けるわけだ。その偽装請負の実態は、労働者派遣そのものだ。▼偽装請負が蔓延した理由は、本当の請負にはコストがかかるからだ。適正な請負では、人を募集し、技術を教えて、製造装置も自前でそろえる必要がある。当然、派遣に比べ、費用や時間がかかることになる。これに対し、偽装請負はずっと簡単だ。技術はメーカーから教えてもらい、生産設備も借りればいい。社会保険に加入させず、人材サービス会社側の費用負担を浮かすこともできる。メーカーは本当の請負に必要なコストを人材会社に払いたくない。偽装請負はいいとこ取りができる。▼なぜ、偽装請負に陥るのか。工場で社員の大量リストラが結果的に偽装請負を拡大している。リストラの穴埋めに請負労働者を投入する。社員と請負労働者が混在する。これでは偽装請負そのものなので、混在状態を解消するため、請負会社にラインを任せる。だが今度は、請負会社が仕事に習熟していないため、ラインがうまく機能せず、やむを得ず社員が指揮命令する。こうして偽装請負は、なるべくして拡大していった。▼これが勝ち組企業の、儲けの裏側ということです。十月一日(月)

八万時間7 (330)
▼特別養護老人ホームでは、袋のシール貼りなど数百円の内職を試みたり、希望者を募って厨房に入ってもらう。おしゃべりが好きな入所者には広報担当の役割を与え、施設見学者の案内役をつとめてもらう。あるいは入所者に呼びかけて、隣接するグループホームにおけるボランティアを募り、配膳や話し相手になってもらう。周囲によろこばれる役割は、その人を活気づかせる。福祉介護施設での上げ膳据え膳は、手足を退化させるだけとなる。寝たきりになると起き上がれなくなる。▼九十七歳ではあるが、大阪府高槻市内のマンションでひとり暮らしをしている男性がいた。ひとり暮らしで大切なことは「明日にたのしみをもつこと」という。図書館の日、洗濯の日、外食の日、病院の日など、一週間の予定を組む。さらに来週は食事会、来月は旅行、正月は孫たちと戯れるという具合に、先々のたのしみをもつようにしている。私があったころはパソコンの練習もはじめていた。「牛歩より遅い歩み。いかがなりますやら」と言って笑っていた。繰り返し言う。「やはり自由の方がいいですな。ひとりならひとりの自由がある。それがいい」と。その後、この男性は大往生をされた。▼最後のイメージ。地方の放送局のアナウンサーは、幼いころから絵を描いたり、鑑賞するのが好きで、局内でも絵画サークルをつくっていた。在職中、ヨーロッパ一周の絵画鑑賞ツアーに参加したものの、移動また移動の駆け足旅行であり、不満だけが残った。ゆっくり世界の美術館をめぐり歩く、という夢を年金の範囲内でやってのけるにはどうすればいいのか。夢を暖めているうちに、道が拓けてきた。日本の住まいを五年間という期限つきで貸し、ポルトガルにアパートを借り、そこを拠点にしてフランスやスペインへと旅すれば旅費は安くあがる。日本で得る家賃からポルトガルの家賃を引くと、現地で言葉を教えてくれる「家庭教師」兼「よろずコンサルタント」の女子大生を雇うことができた。こうしてヨーロッパのみならず、アメリカ、ロシア、エジプト、モロッコ、ブラジルへと飛び、世界二十七ヵ所、七十一都市を旅し、百二十七ヵ所の美術館を訪れている。たとえば南仏にはシャガール美術館、マチス美術館、シェレ美術館などがあり、そこから地中海沿いにわずかばかり電車に乗れば、レジェ美術館、ピカソ美術館などがある。だれに急かされることもなく、こころゆくまで泰西名画をその眼にやきつけた。「世界の名画は自分のものと思っています。それらは世界各地の美術館に預けてある。預けっぱなしではいかんので、いっぺん観ておこうという考えで動きまわりました」「いつかお迎えがくる。そのとき、私は頭の中に焼きつけたコレクションを鑑賞しながら、やすらかな境地で逝きたい」。身をゆだねる最後のイメージが描けたならば、気持は落ちつき、以後の活動も清々しいものになる。日々、心おきなくわが道を突きすすんでいける。九月二十九日(土)

八万時間6
▼多病息災その二。六十歳をすぎてからパソコン操作を習い、短歌づくりやインターネットによる交信を楽しむようになった女性がいる。この女性は四十九歳から「脊髄小脳変成症」という疾病とつきあってきた。しだいに運動機能が奪われていき、ついには歩行困難、言語困難、書字困難になる難病である。医師から「歩行はあと一年」と言われたのは五十三歳のとき。以来、毎朝五時から四キロ以上を歩くよう心がけてきた。医学からも見放されたことにより、自己流の発想によって納得のいくまでトレーニングを試みるしかなかった。歩くと気力も横溢し、翌年からは生まれて初めてのピアノにも挑み、バイエルの練習もする。二時間のピアノレッスンと七キロの歩行が日課となり、さらに水泳もはじめた。この女性が六十七歳のとき、私は広島市内の自宅を訪ねた。その後、病状は進行し、屋外の歩行は介助者なしでは不可能になっていた。しかし自宅内では手すりにつかまり、懸命に自力で歩いていた。医師によると「寝たきりになっていても、なんらふしぎでない」という状態を克服していた。歩くのは困難であっても、上半身はまだ大丈夫ということで、腕立て伏せに取りくんでいた。テレビで九十歳ながら腕立て伏せを百回、二百回をこなす男性を紹介され刺激された。ならばと自分も試みる。最初は床を転げまわっているばかりで一回もできない。どうにか五回できるまで十日間を要した。三ヵ月後には連続七十回、五ヵ月後には百回を超え、私が合ったときは五百回をやってのけた。「一、二、三…」と声をあげて体を上下させる姿を見て、私も驚くしかなかった。これほどまでに腕立て伏せにこだわったのは、パソコン操作をするために腕力を鍛えておくのがいいと考えたからである。すでに字を書くのが困難になり、本を読んでも胸をうった言葉を書きとめられず、好きだった読書も甲斐のないものになっていた。ところが病院の作業療法でパソコン操作を習得して、ふたたび書くよろこびを取りもどした。そして短歌も詠むようになった。いつまでも表現活動をしていたいという動機があって、腕立て伏せに挑戦したのである。九月二十二日(土)

八万時間5
▼六十歳をすぎて仕事や扶養義務から解き放たれると、なかには生きる張りを失ったかのように、気力まで萎えてしまう人たちがいる。そのようなとき、どこかに仕舞いこんでいた古酒の瓶を取りだし、静かに味わってみると、自分がどのように生きてきたかが確認できる。忘れ物を取りもどしにも行ける。▼新たな出会いを面白がりたいのであれば、定年後も個人名刺をつくるのがいい。「日本百名山挑戦中」と刷り込んでいる人もいたが、そうすることで自分を律しているのだろうし、初対面の人に話題を提供しているようでもあった。ここ数年、ホームページのURLやメールアドレスを強調するような名刺も多い。創作折り紙の教室を開設した元家電メーカーの技術者は、「折り紙で楽しみましょう」とか、歩行によって健康を取り戻したテレビ局の元管理職は「一日一万歩」でした。▼未来の共有。たとえば生命保険会社の元支社長が川崎市内に児童図書館を開設した。若い母親たちがボランティアとして協力している。主婦による研究グループ、成人学級講座、手づくり人形劇などが盛んに催されるなど、多くの人たちと未来を共有できることになった。独居老人や高齢者宅に手すりや段差解消のリフォームを行うNPOグループにも「土日であれば手伝います」と言って、大学生や現役サラリーマンが参加してきた事例もある。これから先、老いてから自分たちが安心して暮らせる地域にしたいという思いが、世代を超えて響きあった。趣味であれ、地域活動であれ、学びであれ、自分たちの活動に未来の共有という要素があるのかどうか、ぜひとも確認しておきたい。▼多病息災その一。定年の直前、通勤途上で倒れて「肥大型閉塞性心筋症」と診断された計算機メーカーの管理職は、不意の発作を恐れるあまり、再就職を断念して自宅中心のライフスタイルを構築していった。まずは慶応大学通信課程の文学部でフランス語を学ぶ。慶応の通信課程は、勉学がきびしく、卒業にこぎつける者はごくわずかにすぎない。文学部を卒業すると、つづいて法学部政治学科の通信教育を受けた。同時に自宅から歩いて通える東京経済大学の聴講生にもなり、「地域文化論」や「言語学」を受講した。さらにフランス語、ドイツ語、中国語の検定試験にも挑んだ。そうして地域社会では、ボランティアの日本語教師をつとめ、中国、韓国、ブラジルなど五十名以上の外国人に教える。九月十五日(土)

八万時間4
▼主夫の快楽。元商社マンは、定年後に時間を持て余したこともあって、はじめて台所をじっくり見つめ、未知の世界に吸い込まれていった。それからというもの、料理学校にも通い、料理を趣味にしている。在職中、家事など見向きもしなかったワンマン亭主が、定年後は主夫として妻を支える。めずらしい事例ではない。大阪府下にすむ元教師七十四歳の夫は、五年ほど前から妻がパーキンソン病を患ったことにより、スーパーでの買い物や調理に励むようになった。料理の本は二、三十冊買いこみ、イタリア料理にも挑む。料理だけでなく、大工仕事も行う。妻は緑内障も患い、左目を失明したこともあって、家の中でよく転ぶ。そのため廊下や階段、浴室などに手すりをつけ、室内の段差もなくした。▼妻の情報力。定年退職者を取材して気づかされるのは、妻がもたらす情報によって、新天地を拓く夫が数多くいるという事実である。妻は地域社会のあれこれやだけでなく、夫の性格や資質、潜在的な願望という情報も把握している。さらにいえば、妻の情報には、企業社会で利潤や効率を追求してきた夫に、それまでの価値観を見直させる発想が込められている。耳を傾けたい。▼旧・清水市の市民たちが創りだした「清見潟(きよみがた)大学」という市民大学講座は、二十年以上つづいている。百四十以上の講座が開講され、三千人以上の市民が受講する。運営はすべて市民。運営の中心となるのは「市民教授」たちである。「学ぶのも生きがいならば、教えるのも生きがい」という考えのもと、一般市民から教授を公募する。資格は必要ない。自分が教えたいこと(科目)にたいして、その講座に十名の受講者があればその講座は成立する。正真正銘の大学教授であっても、その講座に十名の受講者があつまらなければ、ここでは教授になれない。教授は講義だけでなく、塾生の名簿作成・管理、受講料の集金、修了証書の発行など、いっさいの事務もおこなう。人気のある講座のひとつに、五十歳以上の初心者にピアノを教える教室がある。このピアノ教室だけでも、毎年十数講座を設けている。楽器メーカーが真似て全国展開をしているが、あくまで嚆矢はこの「清見潟大学塾」である。この市民講座は、地元銀行員の役員、総合電気メーカーのもと技術者、ガス会社の元役員という、ほんのわずかな人たちによって企画された。これまで私が取材してきた数多くの地域活動についていえることは、まずは一人でいいから同士を得ることである。どんなに大きな活動グループでもその中核はほんの一握りである。二人だけだったという事例もめずらしくない。九月八日(土)

八万時間3
▼遅咲きの才能。それまで電気工事の仕事を請け負ってきた男性は、八十歳をすぎても働きつづけ、同世代の仲間たちから羨ましがられていた。当人はいたって元気だったのだが、先に妻が倒れた。男性は八十四歳のとき仕事をやめて妻の介護に取りくんだ。長くつづく逆境のなかでも、男性は胸をはずませていた。妻の介護をしながらも、一日二時間ほどであれば家を空けられるとわかり、近くの公民館で催される「万葉集」の講座を受講することにした。かねてから和歌には興味はあったが、このように学ぶことはなかったという。自宅にいても四千五百首の歌を繰りかえし読むようになる。そうするうちに歌のなかに動物が登場すると、カードに書きこみ、ノートの整理するように心がけた。こうして本邦初の『万葉集・動物索引』を自費で出版した。生まれて初めて八十八歳にして上梓した自著であった。つづいてすべての枕詞を拾いあげて、八十九歳のときに『万葉集・枕詞総覧』を、さらに『古今和歌集』『新古今和歌集』にまで手をひろげて、九十歳のときに『枕詞総覧第二集』を編み、そして記紀・万葉から中世までの歌集を網羅し、九十三歳のときに大作『枕詞辞典』の刊行・発売にこぎつけた。まさしく超高齢化時代の星である。▼電鉄会社の元管理職は、わずかでも英語を使ってマイペースの旅をしたいという、淡い夢を描いていた。しかし語学力といえば、テレビやラジオの英会話講座を受講しても理解がおよばず、投げだすありさまであった。このような自分に適した学習方法として思いついたのが、嫁いだ娘が残していった中学校の英語教科書を書き写すことである。わかってもわからなくても、ともあれ筆写する。一週間で三年分の教科書がノート一冊に収まった。これは何度も繰りかえして、英語を体に沁みこませていった。そうして六十四歳からは、ホームステイをしながらニュージーランドの語学学校にまず半年間だけ通う。その後、オーストラリア、カナダと、毎年のように半年ほどの留学をおこなう。七十歳にして二度目のオーストラリア留学に出かけたとき、現地の元中学教師と知り合った。知日家で日本語を勉強している。お互いリタイア組ということで意気投合し、相手は英和辞典、自分は和英辞典を持参し、元教師のジープでビクトリア州の奥地まで十一日間、二千キロの旅をした。「エクスチェンジ(交換)旅行」の実現である。九月一日(土)

八万時間2
▼生来、手先が器用で、工芸を趣味にしてきた市役所の職員は、退職後に自宅の一室で耳掻きを製作して、販売することを思い立った。インターネットで「耳掻き」を検索すると、数千件もの情報があって、熱い意見交換がなされている。耳を掻くことに無常のよろこびをおぼえ、マニアックといえるほどにこだわる人たちがいかに多いかを知った。こういう人たちにむけて、丁寧にこしらえた「マイ耳掻き」を提供すれば、迎えられると考えた。ネットで呼びかければ、買い手はつくと思われた。その作品を手始めに退職記念として友人・知人に贈ると、口コミで評判が伝わり、ホームページを立ち上げる以前に注文が殺到した。▼そもそもは敷地内に柚子の木が七本あったので、その実を削って市販の七味唐辛子に混ぜてみた。いっそう風味が増し、友人たちに贈ると評判もいい。以後、そのほかの材料にもこるようになり、七味唐辛子研究が趣味になった。そして定年後のささやかなビジネスにしようと考えた。ネット販売を見込んで、妻にはパソコン講座を受講させた。しかしインターネットを活用する以前に、販売ルートは妻の人脈から拓け、高速道路のサービスエリアなどに置いてもらえるようになった。▼浮世の雑音に惑わされることなく、好きなとき好きな場所で心ゆくまで絵筆をとる。そのためにはバイクで旅をする「スケッチ・ツーリング」が性分に合った。退職のとき家族がオフロードバイクを贈ってくれた。しかし使ってみると座席の位置が高くて、足がつかずバランスが崩れる。あるとき長野県を旅し、自分にふさわしいバイクを見つけた。起伏のはげしいこの町を、郵便局員がホンダのスーパーカブで快走している。蕎麦屋などが出前を届けるときに使う大衆的なバイクである。郵便局員は「安定感があり、エンジンは丈夫、山にも登れますよ」と言っていた。こうしてスーパーカブが旅の必需品になった。▼私のようなスポーツとは無縁できた者が心強く思うのは、この女性は還暦をすぎて卓球をはじめたことである。卓球にはまり、夢中になってラケットを振りつづけている。二〇〇六年現在、九十五歳で「世界ベテラン卓球選手権」にも出場して「世界一」を維持しつづけている。六十歳から新たな趣味に挑み、それによって「世界一」になるなんて、だれも思っていない。八月二十五日(土)

八万時間1
『定年後』(加藤仁・岩波新書)から。▼八万時間という財産。この数字を知ると、だれもがはっとさせられる。二十歳から働きはじめて六十歳で定年を迎えたとする、それまでの労働時間の総計は二千時間(年間労働時間)×四十年間=八万時間になる。この八万時間の報酬としてマイホームの購入、子育て、社内の昇進昇格をやってのけたことになる。では、定年後のんびりと過ごすことにする。睡眠や食事、入浴の時間を差し引くと、一日の余暇時間は平均して十一時間以上もある。八十歳まで生きるとすれば十一時間×三百六十五日×二十年間=八万三百時間である。これは会社で働いた時間とおなじ。この八万時間によって、これからは何を得ようとするのか。お金はちょっぴり、時間はたっぷり。八万時間はそれぞれの人生を熟成させるために設けられたと思いたい。▼サラリーマン時代はリハーサル、その後の人生が本番。お役に立てるなら何でもしたい。▼趣味三昧に飽き、もの足りなさをおぼえたJRの元駅長は、ふとしたきっかけから独居老人宅や高齢夫婦の家に、実費で手すりをつける日曜大工ボランティアの活動にのめりこんでいった。当初のプランを修正して本物になる。▼サラリーマン時代は、スケールの大きな仕事をこなし、成果をおさめたにしても、会社の看板や職場のシステムに支えられてのことであると承知している。しかし定年後は、自分の才覚によって、自分のできる・やりたい計画を押しすすめた。サラリーマン時代とは異なり、つねに「自己責任」のリスクがつきまとう。すべてを自分で仕切る。そのかわり責任を負う。だからこそ力が発揮できる。サラリーマン時代には味わえなかったロマンと快感がそこにある。▼「好きなこと」を見つけるには、自分自身とあくなき対話を重ねるしかない。▼自信とは、たったひとりで困ったり、悩んだりする体験を乗りこえることによって生まれる。大勢で神輿を担ぐようにして、なにかを為したにしても、そのよろこびがどれほど自信につながるのか。定年後は組織を離れたひとりの人間として再出発することになる。そのときものを言うのが、個人的な体験の蓄積であると、私は数多くの定年退職者を取材して教えられた。▼資格は、足の裏についた米粒にたとえられる。取らないと気持が悪いし、取っても食えないということである。▼新聞の折り込み広告やタウン誌に眼を通すと、二、三ヶ月間とか半年間とか、さらには週一日だけとか、短期間だけ手伝ってほしいという「スポット就労」とも呼ぶべき再就職先がかなりあることを知った。正社員やフルタイム就労にこだわると、絶望的な境地に追いやられる。それよりも、さながらネットサーフィンをする感覚でスポット就労を繰りかえして報酬を得ると、心労もなく、まだまだ自身に潜む「現役」も実感できる。八月十八日(土)

還暦の晴々
『先達のご意見』(酒井順子・文春文庫)から。▼心の深いところで、縫い物とか編み物って、セックスと同じなんだってね。穴に針を出し入れするじゃない。出し入れと言えば、私は刺繍が好きなんです。精神的に辛いときに、単純作業に集中すると、一瞬忘れられるというのがあって。たぶん世界中の女の人は、報われない思いだの恨みだのを一針一針に込めながら縫い物をしているのではないか。だからキルト展に行ったりすると、それは女の恨みつらみの集大成なのだろうなと思う。▼男性にも「負け犬」はいるはずなのに、自分を客観視できないから、『負け犬の遠吠え』は書けない。本当に負け犬根性が染み込んで、手当たりしだい人を噛みまくるか、オタクのように最初から勝ち負け関係ないところで生きているか。なんで女性だけは独身だと、「結婚しないの」って問い詰められないといけないのだろう。▼源氏がよく言いますね。女を口説くとき「こうなるのも前世からの定め」、別れるときも「別れなければならぬもの前世の定め」って。▼田辺聖子の、かもかのおっちゃんが「朝ごはんだけはちゃんと食べさせたってくれ。朝ごはん食べると、大人は不倫せえへんし、子どもは非行せえへんのじゃ」って言うから、朝ごはんだけはね。▼結婚もそうかもしれない。勢いで何もわからないうちにしてしまうか、すべてわかってからするか、両極端なんじゃないかって最近思うんです。今の時代、結婚したらすごく大変なんじゃないか、負担が増えるんじゃないかと、つい腰が引けるという感じなんですよね。昔より「結婚しなさい」という社会的な圧力が格段に減っていますし。▼観てないですね。ドラマ自体をまったく観ない。生活の中にストーリーを必要としない、というのは私の一つの敗因のような気もしますが。▼上坂冬子はいう。私の経験で言うと、女は五十歳すぎるまで結婚願望は衰えませんよ。もしかしたらダメかもしれないと実感したのは還暦を迎えたころで、七十をすぎたら日本晴れ。ここまでくれば、迷いも期待も、ついでに可愛げも愛想もなくなって晴れ晴れします。還暦すぎれば迷いも期待もなくなって懊悩から抜け出すわよ。▼皆様のお言葉を杖として、これからも人生流浪の旅を続けていきたいと思います。八月十一日(土)

虎の肩こり
『銀齢の果て』(筒井康隆・新潮社)から。筒井ワールドは、団塊世代が背負うだろう老人バトルへと踏み込む。▼厚生労働省の中央人口調節機構の処刑担当官で斉木と申します。ご承知のように二年前から全国で実施されております老人相互処刑制度、つまり俗にシルバー・バトルと言われておりますこの殺し合いは、今や爆発的に増大した老人人口を調節し、ひとりが平均七人の老人を養わねばならぬという若者の負担を軽減し、それによって破綻寸前の国民年金制度を維持し、同時に、少子化を相対的解消に至らしめるためのものです。とのご託宣どおり相互処刑が始まる。鎌をもったバアサンがごつい。▼つぎは『壊れかた指南』(筒井康隆・文芸春秋社)の「虎の肩こり」から。わしがのう、先年、インドへ言ったときのことじゃがのう。密林の中をひとりで歩いておると、突然、虎が出てきおってのう。わしに襲いかかってきおったのじゃ。虎はわしを組み敷いて、わしの喉笛を噛もうとしおった。わしゃ、そうはさせじと、下から虎の肩を両手で突っ張った。その時じゃ。わしのいつもの癖が出てのう。いや何。肩を凝らしておる人を見ると、つい、揉んでしまう癖じゃよ。虎の肩が凝っておったので、つい、二、三回、ぐいぐいと揉んでやったのじゃ。すると虎のやつ、心地よげに眼を細めよってのう、もっとやってくれというように、そのままじっとしておるのじゃ。で、わしはさらに揉んでやったが、下からじゃと、どうも揉みにくい。「えらい凝っとるのう」と、わしは虎に言うた。「もっと揉んでやるから、腹ばいになりなさい。そしたら貴公の背中に乗って、肩を揉んでやろう」。虎がおとなしく腹ばいになりおったので、わしはその背中にまたがって、ぐいぐいと力を込めて揉んでやった。虎の生活というのも、なかなか肩が凝るものらしい。凝りに凝りに凝っておった。力まかせにぐいぐいと揉んでやると、虎は眼を細めて、猫みたいにごろごろと喉を鳴らしておったがのう。しかし何しろ虎は、どでかいからだをしておる上、肩凝りも並たいていものではない。わしも先を急ぐ身じゃ。ではこれにて、と、虎と別れようとしたが、虎は猫のように行儀よくすわって、じっとわしの顔を見つめおる。もっと揉んでほしいらしいのじゃ。「そんなら、わしを背中に乗せて、この先の町までつれて行け」と、わしは虎に言うた。「道中、首のうしろを指圧してやろう」。虎はわしを背中に乗せて、歩き出した。わしは虎の首根っこのあたりを、力をこめて押さえてやった。そのうち、わしは町に着いた。町は大騒ぎじゃったぞ。インドの和藤内じゃと言うてな。日本の新聞にも載った筈じゃがのう。八月四日(土)

家族5
▼私も社会主義圏に行ったとき、団地を見ました。まさに労働者住宅、家畜小屋です。実に見事に、何の粉飾もなくむき出しの姿で労働者住宅が林立しているのが社会主義圏で、資本主義圏はそれをパッケージデザインで粉飾して労働者の欲望の対象にしましたが、理屈は同じことです。結局は自分の一生を抵当に入れた社畜すなわち労働奴隷でしょう。働かされているのに、自発的に働いているとカン違いしているだけで。住宅の価格の設定の仕方が生涯賃金とちょうどうまくバランスがとれるようになっていて、何という巧妙な装置であろうかと思いました。日本にも隈研吾さんの「一生を抵当にいれて、持ち家を取得する」住宅私有本位制資本主義という卓抜な命名がありますが、そういうことです。▼八〇年代の家族論で出てきたのは、家族の個人化という議論でした。独立した個人の集合からなる家族という概念は一時期トレンドでした。特に近代的自我の確立とか、個の自立とか言われましたが、私は早い時期から、自立、自立っていいすぎると「ジリツ神経失調症」になるよ、といってきました。すべてが個別化した果てには、個人化したセル、つまりワンルーム・プラス公共施設があればそれでいいのか。そうじゃあるまと思います。セックスなんて特定のパートナーに限定される必要はありませんから、必ずしも家の中でやる必要はない。隠すべきはセックスではないわけです。「私」の領域に、封じこめられたものは実は育児・介護、つまり再生産機能です。子どもや老人という依存的な存在を抱えこまなければ、家族は個族的存在でありえます。夫婦だって別居した二つの単身世帯だってかまわない。となると最後に残る問題は、依存的な弱者をどうするかということだけです。人が共に暮らさなければならない意味は、最後にはもうそこだけという話です。▼家族という単位が自己充足していたら、その家族がさらに集まる意味なんかどこにもない。家族が破綻しているからこそ、その家族が集まることに意味があるのではないかという逆説もありますが。▼近代家族というものは、それがスタートした時点から「積みすぎた箱舟」だった。ココロは出帆したときから、座礁が運命づけられていた。家族は昨日今日、機能不全になったわけではなく、かつてだって機能していたとはいえません。▼計画学の「計画」というのは、社会主義の思想ですよね。市場原理というのは計画をギブアップした人たちが思いついた、自動制御のメカニズムですよね。計画というものは、必ずや現実によって裏切られ、うまくいかないものです。▼戦後の持ち家政策の中では、住宅の価格設定が、誰かの陰謀ではないかと思うくらいよくできていますよね。年収の三倍から五倍で、金利を入れると生涯賃金の約三分の一くらい。ローンを払いおわるまでは、絶対会社をやめられない。家族を解散できない。実にうまくできたシステムだと思います。▼私たちはいろいろな予測をする時に、見えない未来に網をかけるよりも、現実のなかにすでに登場している変化の芽を見抜くように努力します。戦略的なターゲットを設定して、マクロな市場調査ではなくて「パイロット・サーベイ」をやる。▼つくり手にとってはハコは完成したときが終わりだが、住み手にとってはそれからが始まりである。しかし、住宅の住み手と住み方が、ここにきて急速に変化してきた。七月二十八日(土)

家族4
▼住宅の中の夫婦寝室そしてダブルベッドというのは、一夫一婦制とセックスは絶対一致の、西欧的な近代家族の規範の中心にあった。それが日本の住宅の場合は洋風化しているようですが、夫婦寝室では、西欧化というコードに従えばダブルベッドでなければならないのに、その普及率は低い。狭くてもツイン型なのです。そこには家族のタテマエと現実のズレがあり、タテマエでは夫婦はセックスをしなければならない。ところが現実では日本の夫婦の結びつきの中心にセックスはない。妥協策として「寝室空間は共有、ベッドは分離」というツイン型の解決になったのではないかという仮説をもっています。▼夫婦別寝室になると、いろんなことを自覚的にやらなきゃいけなくなることの一つにセックスがあります。それまでは勢いとか成り行きでできたものが手続きと同意が必要になる。具体的には頻度が減るそうです。▼コミュニティの原形は家族ですが、その家族は破綻しています。「気の合わん隣と仲良うせんでもええやろう」「家族やからというても仲良うせんでもええやろう」という話までいきます。介護保険制度は、家族が仲良くなくても成立するシステムです。▼住宅の作品よりモデルをつくってほしい思う理由は、介護保険でこれからどんどん他人が家の中に入ってくる。そのとき家の仕様が標準化され、だれでも使えないと困る。最近の住宅はまさに装置で、分厚いマニュアルを読まないと風呂ひとつ入れない。これではお年寄りは住めません。スイッチの位置や空間配置など、だれが来ても推測できるようにしないと他人は入れません。だから私は建築家に個性的な住宅なんか作ってほしくないのです。▼マンションの住人は、財産コミュニティという考え方をしている。居住者は、過去も経験も人生観も共有していない。共有しているのは財産としてのマンションだけなのだが、これを廊下を街路と考えて、ラボやオフィスの機能を廊下に面したり、お年寄りのグループホーム的なものを、廊下に面する側に配置したり、その奥に個室があるような配置の住宅設計は考えられないのか。▼社会学ではソシオグラムという社会関係図がありますが、同じマンションのネットワークをみますと、必ずしも階段室同士とか、同じ住戸の単位ではつながっていない。住居の近接とは別の原理で選択されています。これを「選択的コミュニティ」と呼びたい。地域という言葉は誤解されやすいので、これを使わずにすむ方法として「選択縁」を考えた。七月二十一日(土)

家族3 (320)
▼パラサイトシングルがなぜ結婚しないかというと、結婚するとソンだから。そのココロは、男はお金の自由を失い、女は時間の自由を失う。▼近代家族を入れる居住空間を考えると、食寝分離、すなわち近代住宅の中でセックスの空間をいかに確保するか。近代住宅のモデル、nLDKは、家族の人数マイナス1であると。ここに近代家族を入れるハコの謎があります。つまり、マイナス1というのは夫婦同寝室が前提となっていて、現実に夫婦の間にセックスがあろうがなかろうが、規範としてやってますと外に示す必要があった。性別分離、食寝分離という、性に対して意識的な空間デザインが西山卯三の悲願だったわけです。しかしそれも解体してきたと。住宅という空間が、セックスと必ずしも結びつく必要がなくなってきた。その機能がアウトソーシング化してきたといってもいい。▼個室群住居の極限的な形態は、寮とか刑務所です。つまり独房、つまりシングルセルにパブリックスペースが直接つながっているというタイプです。それに対して、「イエスの箱舟」的な暮らし方のスタイルがあります。雑魚寝型というか、コミューン型ですね。シングルセルになればなったで、パブリックとプライベートが直接むき出しに接するホテル型ではなく、寮の共用キッチンのようなコモンの空間に対するニーズは高まるでしょうし、その集団が、家族である必然性はなくなるでしょう。▼家族が多様化し標準世帯が少数化していることからも、住宅の選択肢がもっと増えていい。実際には高齢者世帯や単身者世帯が多いのだから。建築家の世界には作家主義、作品主義があるが、住宅のモデルに個性なんかなくていい。家族の拡大期にだけ対応するのではなく、家族の縮小期にも対応するモデルをつくっていただきたい。住宅は今も、食って、寝て、育てる場所としか考えられていない。それだけでなく、生産のための空間、さまざまな作業場であるとか工房の機能、ラボ機能を含むものであってほしい。今や女性向けの就労機会が近くに組み込まれていないようなニュータウンには誰も引っ越してきません。なぜかというと、どこに住むかを決めるのは主として妻がもっているからです。パートタイムのような就労形態をとる女性は、通勤時間がだいたい三十分までで、職住の近接を組み込まないと、ニュータウンに居住者が入ってくれない。また、標準世帯が少数化したということは、育児・介護の機能は住宅の内部にとどめることができなくなったということを意味します。介護保険は介護の社会化を実現しました。つまりコモンの空間に育児・介護の機能を組み込まざるを得ません。いいかえれば、住宅というユニットは、もはやユニットとして完結しないということです。そのようなコモンの空間は、もはや地縁ではなく、選択縁とならざるを得ないのです。七月十四日(土)

家族2
▼私は今、田舎暮らしの定年退職後の移住者の方たちとおつきあいしているんですが、「娑婆じゃ何をしていらしたかは存じませんが」という感じなんです。昔こんな仕事をやっていましたという人は嫌われます。おつきはいは、今、一緒にいて気持いいかどうかだけが大事。▼婚姻は、自分の身体の性的使用権を排他的に相手に独占させるという契約です。しかも終身契約ですね。第三者が使用した場合、財産権の侵犯になる。民法上の賠償責任が生じる。ですから、これは性のモノ化。できない約束はしない。私はそのために結婚しなかったのです。▼女性の場合、「男にもてたい」という下心を失った時点で「おばさん」化し、かえってのびのびと生きていけます。男性の場合は、「おやじおばさん」のモデルはもうあります。たとえば永六輔さん、天野祐吉さんなんか、いい感じですし、ああなると、かえってもてるんです。▼私たちの世代はまだカップルに対する幻想が強かったですが、今の若い子にはそれがない。最初から茶飲み友達。セックスに対する考え方もずいぶん違ってきました。マスターベーションも、「相手のあるセックスの代替物ではない」と認められるようになってきた。性交が自己と他者身体との関係なら、マスターベーションは自己と自己身体との関係ですから別なものです。だから、異性間の性交ばかりを特権的なものにしなくてもいいのです。▼家族になることや子どもをもつことは趣味としてあっていいが、規範であってはおかしい。▼八〇年代半ばに夫婦別寝室の流れが顕在化しはじめた。子育てを終えた四〇代以上の人たちは、子どもが出ていった後の空き部屋を、妻が寝室にしたり、あるいは夫の書斎にソファベッドを持ちこみ棲みつく。年配の夫婦の別寝室化は、だいたい妻からの要求です。家庭内別居で婚姻は継続、そこまでして関係に執着する理由は、妻は「食べていけない」から、夫の側は老後の「みとり保障」がほしいからです。▼「家族である」ことは二四時間営業です。それに対して「家族をする」ことはパートタイム、サムタイム(時々)でしかない。男性は、通勤途中は市民、会社では会社員、不倫をしていれば男、と二四時間のうち人格が分割されています。今は女性も同じで、専業主婦でも「サムタイム・ミセス」、一歩外にでれば「ライク・ア・シングル」(独身のように)。家族全員が虚構を演じているわけです。▼少子化と子ども部屋のおかげで、他人との距離をおく子どもが育ってきた。ひとりっ子どうしの結婚が増えると、「結婚したいが同居したくない」という空間感覚をもつのは不思議じゃない。密着してセックスする関係より、最初から「茶飲み友達」。結婚はこれまでのように生活保障ではなく、「癒し」としての要求はあると思う。親世代が考えていた結婚の姿、「身も心も」の一体化とはだいぶ違いますが、それでいいじゃないですか。同寝室や同居が夫婦の条件でなくてもいい。七月七日(土)

家族1
『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(上野千鶴子・平凡社)から。▼二〇世紀は「家族の世紀」だったかもしれない。だが、家族を中心に自分の人生設計を立てることは、超高齢社会には間尺に合わなくなってきた。家族の世紀とは、子どもをたくさん産んで親業にあけくれているあいだに一生が終わり、配偶者に先立たれあとの長い老後などを考えなくてもすんだ人口学的近代の過渡期にだけ、成立した現象だといってもよい。このところ少子化の原因探しのなかで、若者の晩婚化・非婚化が注目されている。三〇代前半で女性の非婚率は三割近く、男性は四割。四〇代になっても非婚男性は二割近くいる。これにシングル・アゲインが加わる。生涯非婚者は人口の二割近くなるだろうという予測されるが、逆にいえば、それまでの「全員結婚社会」が異常だったともいえる。▼わたしはずっとシングルで子どもも産まなかったが、三〇代も終わりに近づくとそれまで子育てで離れていた友人たちが、泊りがけで温泉旅行をしようと寄ってくるようになった。五〇代にもなると、夫に死別離別した友人たちが、海外旅行に誘いをかけてくるようになった。日本には「後家楽」ということばがあるが、夫のいないひとり身の女はわが世の春だ。▼シングルは孤独、という思いこみはうそだ。家族とつき合わない分だけ、友人たちと深いつながりをもっている。老後は不安、も正しくない。子どもの数がひとりやふたりでは、老後の不安は子どもがいてもいなくても同じ。なまじ子どもに頼ると、かえって子どもの生活を破壊し、親子関係がこじれるもとになる。いずれにしても、いつかはシングル、になるのが誰の人生にとっても避けられないなら、シングルを基本にした人生と社会システムの構築が求められよう。そう考えれば、年金や税制の世帯単位制は、いかにも時代遅れである。家族給型の賃金制度も、不合理である。七月二日(月)

はい、泳げません
『はい、泳げません』(高橋秀実・新潮社)から。▼泳ぎのこつ。水をかこうとしないで下さい。水をかかずに押さえるんです。水を押さえて、体重移動で前に進むんです。▼息継ぎのこつ。息は吐くことが大切です。吐き切れれば吸えます。つまり呼吸とは収支でなく賃貸なのです。吸うは借り入れで、吐くは返済。ちょっと借りて、きれいに完済する。重要なのは、必ず完済してから借りること。完済せずに借り増しすると雪だるま式に借金がふくらみ、身動きができなくなります。それに呼吸は、腕が伸びて胸が開けば勝手に息が入り、胸を閉じれば勝手に出て行きます。▼体がだるい、肩が凝ってなどと不調に感じているくらいの方が、水中では軽くなれる。体調万全でやる気を出して無駄な力と水しぶきで皆に迷惑をかけるより、力を抜いてきれいに泳いだらいい。200mを超えたあたりで、スイマーズ・ハイになる。大脳から麻薬物質が分泌されるらしい。恍惚状態ですね。▼泳がないで下さい。泳ごうとするから、手足がどうした、息継ぎがどうした、あれもこれもと焦るのです。伸びるだけでいいんです。手の指先、肘、腰、膝、足首、つま先。これらが全部伸びると一本の線になります。こうすると水の抵抗がなくなり、壁をちょんと蹴るだけでプールの半分は進みます。それじゃ、立ったまま両腕を前へ伸ばして下さい。もっと伸ばして。はい、力を抜いて。腕はだらんと「く」の字になった。それをそのまま後ろに伸ばせばいいです。テキストなどを読むと「腕を曲げS字状に動かす」と書かれているが、曲げる必要はない。いったん伸びれば、力を抜いた途端に勝手に腕は曲がるのです。足も同じです。蹴らなくていいんです。足ではつま先だけが下を向いている。それをどうするかと言えば、力を抜いて膝を少し落としてやると、つま先は水面上でまっすぐ後ろに向きます。でも今度は膝が曲がってしまうので、またまっすぐに伸ばさなくてはいけません。そこで膝をまっすぐに伸ばすと、足全体が下向きに沈んでしまいます。横から見ると「へ」の字になるんです。こうなると腰が曲がってしまいますね。ですから今度は、腰をまっすぐに伸ばす。人の体は完全にまっすぐには伸びない。そこでたるみをリレーするように「まっすぐになろう」とするのです。そうすると足さばきはムチのようにしなって、美しくなる。要するに水泳とは、何もせず力を抜き、伸びる、伸びるだけです。▼ところでなぜ、これだけの原理で前に進むのだろうか。それはジャンプと同じなんです。陸上でジャンプする時、いったん体を曲げ、力を抜いてから体を思いっきり伸ばすでしょう。そうすれば高く飛べる。それと同じ原理です。水の中でジャンプするんです。向こう岸に向かって飛ぶ。一回で飛べればいいが、それは無理なので何回か飛ぶ。飛んだら縮んでまた飛ぶ。これを両腕同時、両足同時にやるのが平泳ぎで、左右交互がクロールということです。▼足は動かさない。揃えようとして体を動かしているうちに、ちょっと開いちゃいますね。そうしたら閉じればいいんです。体が左右に揺れていれば、角度が変わるので蹴っているのと同じことになるのです。もう何もしないで上半身だけ、ゆっくり伸びる、伸びるを繰りかえす。すると、足の方がふわっと浮いてくる。ゆらゆら、ワカメのようにゆらゆらしてくる。揺りかごにいるようで眠気がこみ上げる。ああ楽ちん。このふりに合わせて腕を交互に後ろへ送ってやればいい。水泳ってたのしい。▼取れないコップが取れる。腕を伸ばしても腕の長さ以上には伸びない。体をひねると取れる。脇の下から腰にかけて張っている筋肉、外腹斜筋を伸ばす。わずかながら届かないコップは、届かない反対の肩を引くと、体が開いて、さらに3cmは伸びる。もちろん息もしやすい。これが水泳です。力は入れない。脇を伸ばして体をひねる。これが水中で力を生むんです。▼一般に水泳は、腕を伸ばし、肩を回し、足で蹴って進むものと考えられている。しかし、桂コーチによれば、それらは見た目の結果にすぎない。全身の力を抜き、脇を交互に伸ばしながら体をひねる。これを繰りかえせば、結果は自ずと表れる。きれいな泳ぎですねと人に言われたら、こう答えればいいんです。いや、泳いでません。伸びてるだけですよ。▼プールは晴れ舞台なのです。速さではなく、美しさを競演するのです。六月二十五日(月)

人は人に会って人になる
『吉本隆明「食」を語る』(宇田川悟・朝日新聞社)から。▼名訳だと言われているものはたいてい一人で訳したもので、そうじゃないものは下訳してもらったのを集めたもの。だから小林秀雄のランボオの訳は名訳だと言われる。田村隆一みたいに大胆な人は「原作より良けりゃいいんだよ」って言う人もいる。▼僕らでも、テレビを観ていて歌い手の人なんか出てくると、この人は音痴なんだけどいつでも本気でやっているなっていうのと、そうじゃない注文がきたときだけやってるなというのは、なんとなくわかりますね。物書きも同じで、ちょっと入院したりして帰ってくると、もうなんとなく全部億劫だみたいになっちゃって、もとに近いだけ回復するだけで大変です。こういうのって文芸もそうだけど、才能の問題じゃないと思いますね。才能は瞬間的な働きはするんだけど、それが長く持続するっていうことは考えられない。逆に、持続できたらあんまり才能がどうだっていうことは意味がないっていうふうになっていく。才能の問題で言えば、文学の便利なところは、誰でも十年書いていれば一人前になります。これは才能には関係なく、一般論として言えます。それと、初期に書いたものというのが物を言ってくるんです。初期に書いたものは誰だって幼稚なわけですけれど、要するに書いている内容が大事なわけで、大事なことを書いている。文学と違って文芸は手を動かすことが大事なんです。毎日手を動かしていれば、間違いなく一丁前の作家になります。▼自分が年とってからなんとなく分かるんですが、お年寄りが寺みたいなところによく参るとか、縁日に熱心に行くというのは、今年もまた来られたな、まだ生きているなって、そういう感じじゃないかと思います。ここに来られたというのがひとつの目安になって、また来年も来られたらいいなみたいなことでしょうかね。▼フランスでいうとミッシェル・フーコーの考え方、日本で言えば親鸞の考え方ですが、老いまでは自分のものだけど、死は別もの、人のもんだ、自分のものじゃないっていう考え方ですね。生きてる間は生きるための算段をするのが妥当でしょう。▼散歩っていうのも、やっぱり日本人は苦手なんです。花見なら行くんですが、なんの目的もなしにふらふら歩くってのは苦手なんです。初めて近代的な西欧並みの意味の散策を始めたのは、国木田独歩なんですよ。『武蔵野』なんて、そこら辺りの郊外の町を歩いて人の庭に入ってみたりとか。そういうのをやった初めての人ですね。▼さて話は変わって、藤原新也は二十年間のあいだに四度ほど四国巡りをした。それは寺巡りではあるが、実は人との出会いによって学ぶことが巡りの意味のようにも思えるという。「流人の世は出会いかもしれない。人は人に会って人になる」。六月十七日(日)

仏教の系譜5
▼浄土、日蓮と並んで、鎌倉時代のもうひとつの仏教が禅です。禅は中国の宗の時代に発達し、道教と結びついて独自な仏教を育てた。禅はどういう教えかというと、個人が仏になる。仏像に彫った仏さんは本当の仏さんじゃない、仏は自分である。すごいことを言ったものです。空海も自分は大日如来であると言いました。一木一草の中に大日如来がいるとすれば、自分の中にもいる。だからいろんな修行をして大日如来と一体になるのが密教の悟りです。しかし禅ではもっと端的で、仏というのは客観的に存在するものではない。だから寺院もいらない。仏像もいらない。仏というのは自分である。自分が仏になる。そのためにはどうしたらいいか。お寺にいくと、羅漢さんというのがあるでしょう。どれも個性的な、けったいな顔をしている。みな、違う顔をしている。一緒ではいけないんです。羅漢は禅の悟りをひらいた自由人なんです。自分が羅漢さんみたいな個性的な自由人になる。それが禅の仏教です。▼そういう人間になるには、二つの方法がある。ひとつは公案です。師匠が弟子に、いろいろ公案を出して、弟子がそれに応える。同じ答えを出したら落第です。人の真似じゃだめで、独自の答えを出す。そこでとっさに師匠を驚かすようなことを言うと、「おまえは悟りをひらいた」ということになる。だから禅問答というのは、落語なんかではちんぷんかんぷんということになっている。もう一つの方法は座禅です。座禅をしている人の姿は、釈迦と同じ姿です。釈迦と同じ姿で瞑想することで釈迦そのものになる。これが座禅の精神です。▼鎌倉時代の禅は栄西(えいさい)が始めた臨済宗です。栄西の臨済宗は鎌倉武士と貴族の間に流行った。臨済宗では、自分が一切の執着を捨てて仏になることを目指します。人間は本当に無である。その無にめざめたら、覚悟ができ、勇気が出る。だから鎌倉武士たちは臨済宗を愛した。道元が始めた曹洞禅(そうとうぜん)は、室町時代に農村へ浸透していって、檀家がいちばん多い。浄土真宗に匹敵するくらいの力をもっている。▼以上が、うめはらおじいちゃんの中学校での仏教授業でした。六月十六日(土)

仏教の系譜4
▼法然は、賢い人か金持ちしか極楽へ行けないというのは、仏教の平等精神に悖(もと)ると考え、いろいろ経典を調べたところ、唐の時代、七世紀の僧で善導が「南無阿弥陀仏」といえばよろしいと言っているのを見だした。しかも誰でも極楽上に行ける凡夫往生を教えとした。女人も悪人も往生できます。そうして法然の浄土教はいっきに広がります。知恩院とか百万遍にある知恩寺が浄土宗の本山です。法然にはすぐれた弟子が多くいますが、なかでも個性的な弟子として親鸞がいた。▼ところがその親鸞はあえて、戒律は必要ないということで肉食妻帯に踏み切ったんです。それまではお坊さんの奥さんのことを隠語で大黒さまといったり、お酒のことを般若湯(はんにゃとう)と言ったりしていた。親鸞は流罪体験から得た深い思想を詩的に漢語や和語で表現しています。親鸞は親しみやすく、おそらく日本でいちばん人気のある仏教者でしょう。九十歳まで生きました。唯円という弟子が、親鸞の言行録をまとめたのが『歎異抄』です。親鸞の女系のひ孫に覚如(かくにょ)という人がでて、本願寺教団をたてた。その後、室町時代に覚如の子孫の蓮如によってさらに大教団になった。本山はみなさんご存知の、東本願寺と西本願寺です。▼日本の仏教を始めたのが聖徳太子です。それを受けついだのが最澄。聖徳太子と最澄の仏教は法華経中心の仏教です。法華というのは蓮の花です。人間は煩悩をもっていながら、美しい蓮の花のような悟りの花を咲かせることができる。そういうことを説いた教典です。この法華経を根本の経典するのが天台宗ですね。日蓮はその天台宗の本山、比叡山延暦寺で学んだ。それなのにいまは法華経の信仰が衰えてしまった。そしてあらぬ宗教が出てきている。いちばん悪いのは浄土教だ。空海の密教も悪い。新しく興った禅も悪い。日蓮は、法華経の信仰に戻らなくちゃならないと、法然を批判します。日蓮は、法然の「南無阿弥陀仏」の念仏のかわりに「南無妙法蓮華経」ととなえるお題目を信仰の中心においた。そしてお題目をとなえるには、うちわ太鼓というのを、ドンドンドンとたたく。景気がよく元気がでる。浄土教では念仏をやるときは鉦(かね)をたたきます。いずれにしても親鸞は法然の影響下にありますね。六月九日(土)

仏教の系譜3
▼関東では、不動信仰が強く、関西はどちらかというと観音さまの信仰が盛んです。観音さんはやさしい、苦しんでいる人を救う仏さんですが、不動さんは外の悪い奴と内の煩悩を退治する厳しい仏さんです。▼東寺の講堂の仏像はぜんぶ木彫です。日本の仏像は平安時代になってからは、ほとんど木彫仏になった。奈良時代には、金銅仏という銅でつくり金メッキした仏像、あるいは乾漆仏(かんしつぶつ)という漆を固めてつくった仏像。それから塑像、泥でつくった仏像が多くつくられた。石像もたくさんありますが、平安時代には仏像はほとんど木彫仏になり、その後もほとんど木彫仏です。これは木の文化と仏教が結びついたということです。木はもともと聖なるもので、そこには神さまがいるというのが昔からの日本の信仰です。それと仏教が結びついて、木でつくった仏像が信仰の中心になる。これは神と仏が結びついた、つまり神仏が習合したことを意味します。▼空海の思想は深い、隠れた教えとしての密教で、曼荼羅を崇拝します。曼荼羅は図形で思想を把握するというものの元祖といっていいと思います。思想を表現するには時間と空間の二つの相で表現することがありますが、空間表現が胎蔵界曼荼羅、時間的な表現が金剛界曼荼羅。あるいは女性的な表現が胎蔵界、男性的な表現が金剛界という解釈もあります。曼荼羅というのは仏さんが集まっているんですが、世界を調和的に考える。東洋の思想は、世界を闘争的に考えない。密教の思想は闘争があることは認めながら、世界を調和的に考える。調和がいちばん大事だという思想を、曼荼羅は持っているわけです。▼曼荼羅の真ん中にいるのは大日如来です。これは宇宙の本質です。ところが密教では、人間もまたひとつの宇宙で、大日如来が宇宙の真ん中にいるが、自分自身の中にも小宇宙がある。密というのがそうですが、密を人間はみなもっている。だから自分が目覚めたならば大日如来と一体化できる。そういう考え方ですね。みなさんばかりじゃなくて、虫にも草にも大日如来がいる。世界はすべて大日如来の表れ。特に平安時代には、不動明王が大日如来の表れとして、不動信仰が流行したんです。▼密教において、もうひとつ大事なのが即身成仏という考え方です。自分は大日如来と同じだ。自分の中に大日如来がいるから、自分が大日如来一体になることができる。密教では加持祈祷をします。加持祈祷で大日如来の力が自分の力になり、そこで人間は大きな能力を発揮することができる。雨というのは稲作農業にとってもっとも必要なもので、空海はしばしば雨降りの祈りをした。祈雨は密教の大事な行事です。空海は雨を降らす天才であったんだと私は思っています。六月二日(土)

仏教の系譜2
▼平安京の大通りは朱雀大路ですが、その南の門が羅城門で、その門の脇に東寺と西寺(さいじ)という都をまもる寺がつくられた。この東寺をつくるのを嵯峨天皇は空海に任せた。空海は彼独自の思想を表現するように仏像を配置した講堂をつくった。講堂には二十一体の仏さんがありますが、これは四つのグループに分かれます。まず如来。如来というのは仏さま、悟りをひらいた人間です。次が菩薩。菩薩というのは、これから悟りをひらく、いわば如来の候補者ですね。それから明王。これは如来や菩薩を守る仏です。最後に天部(てんぶ)ですが、これは多くは仏教以前のバラモン教の神さまが仏教のなかに入ったものです。▼まず、如来はどういう形をしているか。如来には釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来などがあります。如来は形を見れば分かります。髪の毛が天パーマで、体には装飾具を一切つけていない。悟りをひらいた人間は装飾具をつける必要がない、裸のままでよろしいというのが如来さまです。ところが大日如来は、王様の冠をかぶっている。そして天衣(てんい)を着たり、いろいろ装飾具をまとっている。これは密教が現世(げんぜ)肯定だからです。もともと仏教は、現世を否定していましたが、最後に肯定をするようになった。それが真言密教だった。その中心仏がマハ毘盧舎那仏、つまり大日如来です。▼如来がどういう如来であるかを知るには指の形をみればよろしいのです。それを印といいます。掌(てのひら)を外にして右手をあげ、左手も掌を外にして前に突きだしている。これは与願施無畏(よがんせむい)という印で、右手は「お前は苦しんでいるけれども、大丈夫だ」と、よしよしとなだめる形の施無畏印、つまり無畏(むい)、畏れのない状態を与える印です。左手は、あなたにこれをあげましょうと、ものを与える形での与願印です。こういう手の形をしている仏があったら、お釈迦さまと思えばいい。▼両手を前で組んで、掌に薬壷を載せているのは薬師如来です。阿弥陀如来は両手の親指と人差指でそれぞれ丸をつくっているんです。これには三種類あって、この丸をつくった両指を前で組み合わせたものを常印(じょういん)という。これは阿弥陀さまが瞑想している姿をしめす。そして両手を上にあげる形は阿弥陀さまが説法している姿をしめす。右手を上に上げ、左手を下にさげた姿は来迎印といって、阿弥陀さまが往来する人間を極楽浄土にいまお迎えにきた姿をしめす。このような阿弥陀如来は、法然、親鸞などによる浄土宗、浄土真宗のお寺のご本尊に多いのです。大日如来で、左手の人差指をあげて、それを右手でつつむ忍術使いのような印は、智拳印(ちけんいん)といい、智の力をあらわす形です。これは金剛界の大日如来の印です。しかしもうひとつの胎蔵界の大日如来の印は右手の指と左手の指とを丸く組み合わせる印です。▼菩薩には、観音菩薩、勢至(せいし)菩薩、地蔵菩薩、普賢(ふげん)菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩。菩薩は如来とちがって、ふつうの人間の姿をして装飾具をつけています。明王は、日本では圧倒的に不動明王の信仰が盛んです。如来や菩薩を守る仏なので、大変こわい顔をしています。天部には、四方を守る四天王があります。多聞天(たもんてん)、持国天(じこくてん)、広目天(こうもくてん)、増長天(ぞうちょうてん)です。それに帝釈天とか梵天とか、バラモン教で崇拝されている神が仏教に入ってきたものもある。そのほか弁天とか大黒とか、福の神も天部に属します。五月二十六日(土)

仏教の系譜1
『梅原猛の授業・仏教』(朝日文庫)から。▼仏教の四つの教えは、精進、禅定、正語、忍辱。やさしい言葉でいえば「こつこつ努力をする」「集中力を養う」「正直であれ」「辱めに耐えろ」。この四つがあれば、人生は生きていけます。▼聖徳太子の仏教の中心は法華経という経典です。この法華経がその後、日本の仏教の中心になっていく。のちに、最澄が聖徳太子の思想を受けついで、法華経を中心とした天台仏教の宗派を建てます。この天台仏教の本拠地が比叡山延暦寺です。この天台宗のなかから鎌倉時代に日蓮という僧がでて日蓮宗を開きます。日蓮宗も新しい法華経信仰の宗派です。もうひとり、奈良時代の仏教者として忘れられないのが行基です。行基はその弟子たちと旅をしながら、道をつくったり、橋をかけたり、あるいは宿舎や病院を建てる。もちろんお寺も建てて仏像をつくる。聖徳太子が支配者を仏教の信者にしたのに対して、行基は仏教を民衆の底辺にまで広げた。ですから、上からの仏教布教者が聖徳太子、下からの仏教布教者が行基。この二人によって、仏教が国教になったわけです。さらに平安時代には、最澄と空海の二人が聖徳太子と行基の仕事を受けついで、日本仏教を確固たるものにしたのです。▼最澄の天台宗は、法華経を中心とする仏教宗派で、天台は隋の仏教です。なお、華厳は唐の仏教ですから、中国の時代的順序でいえば天台、華厳ということになるんですが、日本では逆で、華厳仏教が奈良時代で、平安になって、天台仏教が盛んになった。▼天台宗は法華経を中心としますが、その法華経は小乗と大乗を統一する天台一乗論という教説をもつ仏教です。この統一ということでは、後にできた華厳仏教の方がはっきりしていて、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を本尊にします。この毘盧舎那仏をもうひとつ発展させたのが大日如来を本尊とする密教です。毘盧舎那は宇宙の中心に存在する仏です。華厳仏教は釈迦を本尊としますが、その釈迦は歴史的釈迦ではなく永遠の釈迦で、世界を統一するとういう性格をもっているんです。それは日本を統一する朝廷のイメージとも重なります。法華経にはもうひとつの意味があります。法華というのは蓮の花ですね。大乗仏教の象徴は蓮の花です。蓮池というのは、きたない泥の池ですね。泥の池から出ながら実に美しい。清浄な花を咲かせる。それが法華、すなわち蓮の花です。煩悩即菩提というのが大乗仏教の思想ですが、その大乗仏教の思想の比喩として法華すなわち蓮の花がもちいられるのです。五月十九日(土)

昭和史・戦後編
『昭和史1945-1989』(半藤一利・平凡社)から。憲法草案、GHQの動き、東京裁判など、資料を読み込んで、語っている様子がよい。▼戦前が軍部主導なら、戦後のスタイルは何か。といえばそれは官僚統制システムといっていい。つまり国の経済的運営(早く言えば商売)を個人の自由なものとせず、すべて官僚が決めるやり方です。官僚がグランドデザインを描き、アメとムチを駆使して実現していくというやり方で、これが見事に働いたんですね。実は昭和14年(1939)の、軍事大国を目指した国家総動員体制がこれと同じです。このときの十八番とした政策です。国家の経済方針を各企業や個人には任せず官僚がグランドデザインと具体的な政策をつくり、それを国会にもっていき、与野党に根回しをして国会で法案として成立させ、それを再び官僚が取り戻して企業にやらせるシステムなわけです。ただし、上からの強権的なものではありません。戦争中は若干それはありましたが、もともと官僚は上手に、必ず自分たちのつくった政策が実現できるよう、予算をつくっておいて誘導するのです。されにそれをうまくリードしながら、国家資金である税金の補助や優遇税制を用意しておいて企業にやらせるのです。しかも、企業がやりたいといってくるのを許可、認可する許認可制もしっかり確立しておく。要するに、法的にうまく按配して国家全体を官僚たちが考えていくかたちになっていたのです。▼このシステムは高度成長時代とくに有効に機能し、国家の経済をうんと大きくした原動力であったといってもいいでしょう。もっとも非常に優秀な官僚が多く、たとえば「もはや戦後ではない」の経済白書をつくった後藤誉之助(よのすけ)さん、池田さんとともに月給二倍論の下村治さん、元外務大臣の大来佐武郎さん、大蔵事務次官などを経て日銀総裁にもなった森永貞一郎さんなどで、熱意があり、強権的にではなく、話し合いによる誘導で政策を運営したのです。五月十二日(土)

世界の見方5 (310)
▼武士は貴族にはなれません。武士の出自は東国や西国の田舎で、都人である貴族の「みやび」(雅び)というものが身についていない。「あわれ」の感覚は知ってはいても、貴族のように「もののあわれ」を詠じたり、なかなか上手な文芸にしたりすることはできない。平清盛のように貴族の雅を強引に権力と財力でものにしようとした武士は、結局笑いものにされてしまう。そこで武士たちは「あわれ」を「あっぱれ」というふうに破裂音をつかって言い替えることによって、貴族の美意識を武士の美意識にしていったんですね。▼、『万葉集』や『古今和歌集』は春と秋の歌で、冬の歌はほとんどなかったのですが、室町時代の連歌師である心敬は「冬の美」を発見した。あえて何もない冬に、すべてのものが枯れ果てたモノクロームの風物のなかに、日本の極上の美があるということを見出していったわけです。心敬は「氷が一番美しい」というんですからね。こんな美意識は当時世界中のどこにもなかったといっていいでしょう。▼利休と織部のちがいを、私は「ルネッサンスの利休」、「バロックの織部」と説明しています。長次郎の茶碗がまさにそうなのですが、利休の茶は正円の世界です。一つの焦点です。これに対して織部のほうは、ゆがみやひずみをもった楕円の世界です。まさに「バロッコ」(ゆがんだ真珠)です。しかも当時日本に入ってきていた南蛮文化やキリスト教文化の影響を受けたものもかなりあって、まさに世界と日本が、一つの茶碗のなかに拮抗しあっていたんです。こういうふうに利休と織部をくらべてみると、日本文化がつねに弥生型と縄文型とか、公家型と武家型とか、都会型の「みやび」と田園型の「ひなび」とか、たえず対照的に発展してきた。まさに日本はいつも「漢」と「和」の両立に匹敵するような、「和」のアマテラスと「荒」のスサノオに象徴されるような、そういう二つの軸で動いてきたんです。秀吉は利休を切腹させ、織部もまた徳川との軋轢の仲で、無実の罪を引き受けて、何の申し開きもせず切腹してしまいます。それにしても職人や茶人が、権力者を恐れさすほどに新しい価値観を持ち出し、そのことによって命を失うこともあったのです。▼このころの文化は当時の政治や経済を震撼させるほどの力をもっていいたということになります。五月五日(土)

世界の見方4
▼現在の天体物理学や物質科学では、ビッグパン理論が支配していて、宇宙の始まりは、最初のたった三分間で現在の宇宙の基本をつくったというふうになっている。▼イエス・キリストはなぞだらけだが、タキトゥスというローマの歴史家の『年代記』のなかにたった一行だけ、イエスが西暦三〇年前後に処刑されたということだけ記されていて、それだけは史実だと言われていますが、それ以外のことについては、まったくはっきりたことはわからない。後年のパウロの編集によって書き換わっていく。▼1947年イスラエルの死海から、偶然にユダヤ教のエッセネ派のなぞを解く聖書の写本や巻物や文書が大量に発見された。この死海文書は紀元前二世紀から一世紀くらいの間に書かれた文書だということがわかり、世界中が大さわぎになった。もし本当にそうなら、キリストが生きていた時期に重なる。しかし死海文書はなぜかキリスト教の根幹をゆるがすことなるのか、思惑でまだ集散しつづけている。▲ユダヤ教には救世主(メシア)への期待と信仰が、キリスト教以前から芽生えている。そのことは死海文書が裏付けてもいる。ただしユダヤ教では、救世主はまだこの世に現れていないのだと考えています。そこがキリスト教と大きな違いになる。キリスト教は、イエスこそが神によってこの世に遣わされた救世主であるとしましたからね。このようにキリスト教を編集したのは、イエスと同じころに生まれたユダヤ人の、あのパウロです。イエスが批判していたパリサイ派の信徒でした。ところがあるとき、パウロの夢のなかにイエスが出てきて、その神々しさにすっかり回心してしまった。そこでキリスト(=救世主)はイエスであること、イエスは死んでから三日後に蘇ったことを、それは父なる神がイエスの贖罪を正しいあり方として認めた証拠なのだと、パウロは強調していくことになります。▼このロジックが人々の共感を得て、大ヒットした。四月二十八日(土)

世界の見方3
▼ゴーダマ・シッダルタは菩提樹の下でブッダ(大吾した者、覚醒した者)になった。では、ブッダは何を悟ったのでしょうか。悟りというとすべてがわかったことと思うかもしれませんが、そうじゃないんです。意外なことに、人間の苦しみを空じるということに気がついたんです。「苦」というものを捨てるのではない。「苦」を受け入れて、しかもそれを「空」というものにしてしまう。「ある」ということと「ない」ということを両方いっしょに受け入れてしまう、そのような方法を悟ったわけです。こういう方法的なめざめを、「縁起」といいます。苦しいことがプラスに転化していく、ネガティブなものがポジティブに変化していく、そのような機会を生かしていく見方のことです。だから「縁が起きる」と書いて縁起といいます。▼ブッダはさらに、人間が知るべき真理として、四つのことをあげます。「一切皆苦」、この世の中はすべて苦しみなのだ。「諸行無常」、物事は常に次々に変化し、無常である。「諸法無我」、無常なものに欲望をもったり執着しない。「涅槃寂静」、静かにして、いろいろなことに迷わない。ということを、まず自分の苦行の仲間だった五人の修行者たちに説法した。これを「初転法輪(しょてんぽうりん)」という。この教えがたちまち広がり、ブッダの考え方に帰依する者が増えていくのです。そうそう、キリスト教は説教で、仏教は説法ですよ。間違わないように。▼やがて中国では儒教と道教という二つの思想や宗教をもちながらも、さらにそこに仏教を再編集しながら、独自の発展をする。このような中国の仏教が朝鮮半島をへて日本に入ってくる。その日本でまた独自の再編集をしていくことになるのです。四月二十一日(土)

世界の見方2
▼ヒトは、ヒトザル(類人猿)からヒトになるとき、直立二足歩行が始まった。この直立歩行過程でヒトは「三つの脳」をもってしまった。というのは進化途中で、残忍で攻撃的な「ワニの脳」、狡猾な「ネズミの脳」を十分に処理しきらないまま残して、その上に理性的な「ヒトの脳」をつくっていった。なぜこんなことになったのか。おそらくヒトザルからヒトになったとき、急ぎすぎたと思うんですね。これは仮説ですが、何か急激な環境変化がおこって、進化を急ぐ必要に迫られたのでしょう。たとえば草原がなくなるとか、強力な外敵あらわれた。環境温度も激変したのでしょう。そこでヒトは急いで立ちあがってしまい、その結果、発情期を失い、未熟児を生んで育児期間を長くし、しかも三つの脳を矛盾したまま持ちつづけることになってしまったんでしょう。しかし一方で、ヒトが理性の脳によって、本能のままにふるまおうとするワニやネズミの脳をコントロールしようとしたことから、人間の文化の歴史が始まります。理性の脳を維持しつづけようとするところから、宗教が誕生してきます。仏教では煩悩を断ちなさいということを教えますが、これはまさに、ワニとネズミの脳を抑えなさいということですね。ユダヤ教もキリスト教も、さらにその前の原始宗教も、欲望を抑えたり鎮めたりするための仕組みになっています。▲人間文化史の一番最初に出てきたものが宗教で、そのあとに舞踊や哲学や建築が生まれ、四番目くらいに文芸が出てきますが、こういうものが出てきた背景には、つねに理性の脳がいかに本能の脳の暴走を抑えるか、どのように鎮めるかという闘いがあったと見ていいと思います。▲それから、二足歩行をしたことによって性器が隠れてしまい、われわれは発情期をしらせることが困難になってしまった。男女がお互いのセクシャルな気分をどうやって確認するのかが大問題になり、そこからコミュニケーションの道具としての言語が発達していった。四月十四日(土)

世界の見方1
『17歳のための世界と日本の見方』(松岡正剛・春秋社)から。▼まず、起源。生命のおおもとは、高分子でできたタンパク質ですね。この原始の生命体はアミノ酸の分子の配列によって成り立っていて、その分子配列、すなわち分子情報を何度もコピーすることによって生命が維持されていくというしくみになっています。いわゆる遺伝子の配列です。では、その生命のおおもとの高分子のルーツはどこから来たかというと、いまの生物化学では、宇宙からやってきたとうことがほぼ定説になりつつあります。地球の半分以上がまだドロドロのスープ状だったようなころに、宇宙からウィルスのような情報体がやってきて、その情報が海辺の粘土質のようなものに転写されることによって、最初の生命が誕生したと考えられています。もうちょっと正確にいえば、宇宙からの情報体としてのマザー・プログラムのようなものがやってきて、地球のどこかに生命プログラムの原型みたいなものを残したと言えるでしょう。この最初の原始生命状態をRNAワールドといいます。そのワールドに、いつしかDNAという核酸の動向が生まれてくるんですね。ここでDNAを中心にRNAがこれを助けた原始生命体、すなわち原始生命情報体ができてくる。▲ここから先はなんとなく知っているでしょうが、やがて原始生命体に生体膜ができて細胞ができあがるんですね。その細胞にはDNAが入ってきて、今度はそのDNAが自分と同じものをつくりだすということを始めるわけです。ところが、何度も情報コピーをするうちにコピーミスがおこる。こうして、ちょっとずつ違った情報の組み合わせをもつ生命体が誕生していきます。こういう生命体を決定していた最大のものは遺伝情報で、その中核を担っているのがDNAです。この遺伝情報のコピーにいくつものフォーメーションがおこることで、さまざまな新規の生物が誕生しました。▲でも、これだけで生物は形成できません。生殖機能や新陳代謝が確立していって、次に生命情報の進化にとって重要な役割をもつようになったのが、神経系です。昆虫にも神経系はありますね。この神経系が発達することで、生命の外側の情報をとりこみ、判断し、環境に適応していくという能力が発達していく。やがてこの神経系がさらに進化して、さあ、どうなるんですか。そうですね、「脳」になっていきます。生命という情報体に、いよいよ「脳」という情報の中央管理センターが登場するわけです。こうして、だいたい今から七千万年くらい前に最初の霊長類が誕生し、そのあとさらに四千万年くらいたって、やっと私たちの遠い遠い祖先と呼べるようなヒトザル(類人猿)が生まれます。▼そもそもというか、起源を辿ることは飽きない。尽きもしない。四月七日(土)

海からの贈物
『新編漂着物辞典』(石井忠・海鳥社)から。▼玄界灘に暮らす著者は、南からの黒潮にのって漂着物が届くのをまつ。友人からは「とうとうお前は海のバタヤになってしもうたなア」。▼漂着物には、貝殻、ウニ・カニ・クラゲなどの海洋動物、海藻、魚類、怪獣や海鳥の死骸、種子や果実、流木、軽石、鉱物などの自然物がある。また、ペットボトル、使い捨てライター、空き缶、ガラス瓶、サンダル、ボール、おもちゃ、ビニールシート、魚網、浮き、電球、タイヤなどの人工物も普通に見られる。台風の後にはココヤシやゴバンノアシのような南方系の果実がたどり着く。また、海底火山の爆発で飛び散った軽石が、海流に乗ってはるか遠くまで運ばれることもある。▼タカラガイといえば、シプレアモニタ、すなわちキイロダカラやハナビラダカラは「貝貨」として著名である。柳田国男の「海上の道」につながる。柳田国男が若い時分に三河の伊良湖岬に椰子の実の漂着したのを実見し、そこから着想したことは、南島にたどりついた中国の人たちが、島でタカラガイを見つけ、一旦大陸へ戻り、再びイネなどを持って渡来したというものである。文化は南から北へ、小さな島から大きな島へと渡っていく。柳田の「海上の道」である。▼近ごろは韓国製品の漂着が多いそうです。醤油ビンとか貯金箱などもある。北海道に住んでいるなら、『北海道の漂着物』(鈴木明彦・道新マイブック)を。BCしようといったら、それは Beachcombing のことです。四月一日(日)

日本の見方2
▼神風思想や神国思想に拍車をかけたのは後醍醐天皇だが、その失脚と蒙古襲来をきっかけにして、一大勢力となった神本仏迹のシステムがまわりまわって「神国日本」の管理が武家政権の手に移っていく。その流れは、信長から家康にいたるまで変わらない。武家政権が天皇に対して強い態度に出られたのには、こうした事情もありました。これは「日本という方法」としても看過できません。こうして神風と神国の思想は、長いあいだにわたって日本人の心に残っていくことになったのです。歴史の中でもこの〝神威のカード〟を持とうとしますが、平清盛や足利義満は成功しませんでした。信長や秀吉もそういう野望をもっていたけれど、カードを出しそこねています。それが幕末維新で「玉(天皇)」こそが日本のシステムの命運を左右する〝神威のカード〟だというふうに変わったのです。さらに昭和の軍部による「天皇の統帥権」というカードの乱用になっていく。このとき日本は自信を持ちすぎて失敗しました。▼一神教社会と多神教社会ではそのジャッジ・スタイルに大きな違いがある。モーセ、イエス、マホメットはいずれも砂漠型の風土が背景で、熱砂の砂漠では道に迷ったら右に行くか左に行くかは決定的なジャッジになりかねない。右に行ってオアシスがあれば生き延びられるとしたら、左に行けば熱死が待っているのです。このときたくさんの意見が乱れとんでいたのでは結論が出ない。多神教ではいられない。砂漠型の宗教に唯一絶対の一神教が生じるのは当然で、二者択一で、二分法的な一神教社会のジャッジ・スタイルをつくっていった。▼他方これに対してガンジスの森に芽生えたヒンドウ教や仏教は多神多仏的になりました。これは森には雨季があっていたずらに動けないこと、森の四方八方にはさまざまな現象や情報の多様性があります。森林型の日々には拙速や浅慮は禁物です。周囲のたくさんの情報をマンダラ的に組み合わせる必要がある。アジア的な森林型の環境に、ヨーガや座禅やマンダラが生まれたのも当然だったのです。焦らず時機を待って熟考。ただ日本の神々は四季のウツロイをもった風土のため、砂漠ともガンジスの森とも違い、四季の変化のちょっとした変化にも注意深くなり、それらの変化のそれぞれに神仏を想定することになります。しかも、どこかにでんと居続けている主神的なるものではなく、何かの機会にやってくる来訪神なのです。▼本居宣長をどうみればいいか。言語研究に打ち込んだだけなのか。宣長は古代日本人の頭の中にあったことを書きとめた万葉仮名が羅列された『古事記』を、全四十四巻、三十五年をかけて『古事記伝』として日本語で再生したのです。▼というように著者は、本居宣長(古学)、内村鑑三(二つのJ)、西田幾太郎(絶対矛盾自己同一)、北一輝(統帥権干犯)、司馬遼太郎(異胎の国)に、日本という方法を探っていきます。三月二十四日(土)

日本の見方1
『日本という方法』(松岡正剛・NHKブックス)から。▼日本はたしかに一途なところはあるのですが、多様な国です。信仰や宗教の面からみても、多神で多仏です。▼中国・朝鮮半島・倭の関係は一蓮托生で、新羅の統一が日本を自立させたのです。『古事記』や『日本書紀』には、まだ天皇も日本国のことも記載はないが、日本列島の統一がはかられつつあるとき、朝鮮半島では新羅が勢力をのばし、唐の力を借りて、百済を征服しようとした。百済は日本に(まだ倭というべきですが)援護を頼んできた。ここに激突したのが663年の白村江(はくそんこう)の海戦です。しかし唐・新羅連合軍に負けます。新羅は勢いで高句麗を撃ち、ここに朝鮮半島を統一してしまいます。そしてその瞬間に「倭」はついに「日本」になったのです。外圧が日本を自立させたのです。新羅と日本はほぼ同時に成立したのです。『旧唐書』に「日本国は倭国の別種なり」とある。この「日本」を制したのが天武天皇(大海人皇子)でした。▼しかしこの時期(万葉時代)には日本の自立にいくつかの問題がありました。それは、日本語(倭語)を表記すべき文字がまったく確定していなかったことです。すでに漢字は「漢委奴国王」の金印このかた、中国と朝鮮半島から少しずつ入っていたのですが、その漢字をどのように使うかはさっぱりわかっていなかった。日本が東アジア社会で自立して国内を統一するには、文字を持たないわけにはいきません。それがなければ法もつくれないし、記録もできない。文書を交付することもできない。ではどうするか。漢字を使うのが一番てっとりばやいのですが、その漢字を中国語として使うのか、それを皆が読めるのか。問題はそこにありました。▼それゆえ太安万侶(おおのやすまろ)らは日本人(倭人)の言葉を万葉仮名や和化漢文で表記して、それを見た者はそこからかつての日本人が語り継いできた言葉の世界(神話、説話、詩歌)が蘇るようにしたのです。この「日本という方法」が画期的だったのです。▼このあたりは、『日本語の歴史』(山口仲美・岩波新書)に詳しい。三月十七日(土)

雨の日は、だいどこ。
『雨の日はソファで散歩』(種村季弘・筑摩書房)は、のんべえ達の話が、いいねえ。さて、私が社会人になった1970年代初めのころ『男のだいどこ』(荻昌弘・光文社文庫で復刻)で自慢していた、山手線大塚駅近くの居酒屋にいったことがある。今もあるだろうか。そんなこんなで、二読からの書き抜きを。▼私自身、何が食いもののたのしみか、といえば、全国を旅して、東京にくらべ地方の人々はどんなに安上がりにうまいものを食ってるか、を知ることと、“うまい料理”を食わされたあとは、何とかそれを、自宅でヒョウセツ盗用できないか、と、せまい台所で工夫をかさねることくらいだ、といっていいのである。▼飛騨の高山へ行くと、特産の味噌を朴(ホオ)の葉で焼くための、いわば一人用の小型七輪を売っている。この七輪に小さく炭をおこし、かけた金網の上へ、酒でぬらした昆布を一枚しいて、そこへ、生ガキや蛤の剥身をのせる。これはうまいぞウ。いわゆる「松前焼」である。やがてじくじく音がたちはじめるころには、貝へ昆布の味と香りがしみ、醤油で食うだけですばらしい味になる。昆布が熱でかわきかけたら、さらにちょっと酒でしめしてやる。真冬の夜、ひとりか、あるいは差しで酌みかわすとき、これほどムードのでるサカナはないとさえおもう。▼こういう単純な食いものや食いかたを、ひとつひとつ他人様からおそわり、ぬすみ、いちばん簡単なところから、じわじわとたのしみのレパートリーをひろげてゆくこと。私のやりかたはそれだけである。近ごろの醤油はマズくなったといえば、ああ、うちでは昆布の切れっ端を投げ込んでおきます。というように必ずだれかがヒントをおしえてくださる。それをおぼえておいて、あとは昆布を日高のにするか利尻のにするか、そこはこちらの好みと工夫である。▼素朴なジャガイモ料理といえば、スイス風ロスティである。ジャガイモをおろし金で千切りにして、水にさらす。にぎって水をきり、バターと塩、コショウを適宜いれて、電子レンジへほうりこむ。ホカホカに軟化したのを、フライパンにバターいっぱいしいて、ホットケーキ風に焼き上げる。それだけ。これにビーフシチューをかけると、うまいぞゥ。オラアこげな山盛りが好ぎさ。▼肉にしがみついている肉のうまさは、これは人間より舌の肥えた犬、猫でも目の色がかわるほどでね。肉屋で250グラムくらいの骨付き肉を人数分スライスしてもらい、照焼きチョップにする。醤油と酒・砂糖、あるいは代わりにみりんを適宜まぜあわせ、トンガラシをかなり多量にいれてタレをつくる。これに豚肉を一晩漬ける。あとはオーブンでじっくり一時間かけて焼き上げるだけ。茶褐色に焼きあがって弓なりにそりかえった250グラムのチョップは、豪放な味わいだ。元気が出るぞ。▼沢煮鍋は、老若向きの寄せ鍋だ。豚肉の千切りを熱湯に通したやつで、薄焼卵の千切り、あと野菜だが、ネギ、ニンジン、タケノコ、シイタケ、ウド、三つ葉、セロリ、ゴボウ、モヤシなど。細いのはそのまま、細くないのは、つまり全部千切りにして、これを鶏骨(がら)スープと醤油・みりん・酒でとったうすい煮汁に、サッとなげこむ。煮すぎず早めに汁ごとおタマでしゃくいあげて、コショウをふる。味と歯ごたえ、和風のごとく、洋風のごとく、はなはだ栄養のバランスよろしき一鍋である。この沢煮鍋は昔、猟師が干し野菜をもって狩場にはいり、獲物とともに、沢で煮たことに由来する。▼気力は眼に出る。生活は顔に出る。年齢は肩に出る。教養は声に出る。これは土門拳の言い草だが、うまいものがあると、猫が出てくる。二月二十五日(日)

赤い本の森
『松岡正剛千夜千冊/第八巻・書物たちの記譜』(求龍堂)から。▼千夜千冊の読書案内をしてみて、やっと体感できたことがある。読書というもの、初読だけでは三分の一か五分の一しかその書物とは付き合っていないとうことだ。勘違いしていたことも少なくない。それが再読でアラインメントがおこる。身につまされたことであった。書いてみなければ読んでいなかったことになる、ということを何度も突き付けられたのだ。読書の渦中のトレース体験やそのとき沸きあがった意識のサーカスをあとから思い出して綴っていくという作業は、必ずしも易しいことではないのだが、その綴りかたひとつで読書体験が右にも左にも曲がっていく。それがひいては著者を歪めることになる。自戒させられた。そんなこともあって、読まれた方々がどう感じたかは知らないが、ぼくとしては著者の内容をまずは直裁に伝えることだけはできるかぎり守った。▼ということで、まずは、別冊の八巻の読書方法とかは読んだので、あと残るは七巻。赤色装丁で、いずれも広辞苑のように分厚い。二月十七日(土)

龍馬と直行 (300)
土佐と蝦夷に生きた列島のつわもの。▼知りませんでした。この十勝原野に生きた坂本直行の祖父が坂本直寛で、その叔父さんが龍馬であることを。このたび、高知に里帰りする「お帰り!直行さん」という、反骨の農民画家展の企画力に脱帽です。また、幕末と維新の精神がこの北辺の地にも及んでいることを、この企画展が明かします。▼さて、直行さんは地元ではどんな人だったのか。私のこどもの頃、1950年代ですが、同じ開拓農民の親父が直行さんのことを「ノーミンドーメイノトーシ((農民同盟の闘士)」といっていました。その気風というか気骨を気に入っている様子は、こども心にも読みとれました。うちの親父は絵のことよりも、そのことの方に力が入っていました。後年、私が直行さんの絵に接したのは、地元のお菓子屋さんの包み紙でした。地元のひとは皆そのようです。▼「原野に昇る月」という月下雪原の絵。十勝平野の人たちなら、この絵をじっと見ながら、語らず月下独酌するでしょう。北辺の環境に順応し、いや耐えつつも、気概をもつ。夜半の雪原、静まりかえる中の絵であります。それに、満月は明るく少しの黄みをもち、農耕馬の鼻息がわずかに感じられます。馬橇(ばそり)の上の農民は、寄り合いの帰りであろうか。背を曲げつつも、凍結した風景の中に彼の口を覆う手拭いから、かすかな息を感じるではないか。北辺の生きもの、馬と農民が、画面左から右へ確かに動いている。辺境に生きています。若者は北に向かい、ご年配は南に向かう、という人もいます。▼直行さんが描いた日高山脈は、二千メートル級の山々が百四十キロメートルにわたってつらなる、北海道の背骨で、ここで東北海道と西北海道を分けます。風景も人物も変わります。二つの大陸プレートがぶつかり合い、八百度℃の熱を帯びながら山として成長したあと、氷河に覆われます。その後、森が育ち、固有の動植物が住むようになり、やがて維新後に北をめざす人たちがやってきます。日高の山並みは、直行さんの志の高さでもあります(高知県立坂本竜馬記念館「記念館だより」07年1月第60号寄稿)。二月三日(土)

アイヌ民族を知る(序)
『アイヌ文化の基礎知識』(アイヌ民族博物館監修・草風館)から。▼ことば~身近なアイヌ語には、ラッコ、トナカイ(樺太アイヌ語)、シシャモ(柳の葉の意)など。北海道の地名に名残がある。▼日本史に登場~神武天皇やヤマトタケルの記事は伝説だが、『古事記』『日本書紀』が書かれた8世紀初めころの蝦夷(えみし)に対するシサム(和人)認識からみて、少なくともこの頃にアイヌの人々の存在が日本史に登場とみていい。▼シサム(和人)との戦い~1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起。▼アイヌ文化の起源~北海道では0世紀頃に続縄文文化、7世紀に擦文文化、平行して5世紀にオホーツク文化、14世紀にアイヌ文化が成立。▼狩猟の知恵~クマ猟では冬ごもりをねらう。穴を丸太で塞ぎ、トリカブトの毒矢でしとめる。シカ猟では鹿笛でおびき寄せたり、崖から追い落として捕まえる。サケ猟は道具(マレク:突き鉤)かカゴの仕掛けでとる。▼装う~獣皮衣はクマ・シカ・アザラシ・ラッコなどを利用。樹皮衣(アツトウシ)はオヒョウ・ハルニレで、幹の皮を下からはぎ上げ、流水でさらし、天日に干してから、糸に紡ぐ。木綿衣は本州との交易で手に入れた木綿の古裂でつくるが、四種類のアイヌ文様がうつくしい。▼食べる~シカなど獣類、カモなど鳥類、アザラシなど海獣類、ニシンなど魚類、サケ・マスなど川魚と、ギョウジャニンニクなど山菜、ヒエ・アワ・イナキビなど栽培作物などの食料があった。毎日の食べ物では「オハウ」が一般的。ギョウジャニンニクなどの山菜やイモ・ダイコンなどの野菜、鳥獣肉や魚肉を鍋で煮て塩や獣・魚油を入れて味付けした鍋物。家の外の高床式保存庫には、2・3年分の保存食が常備されていた。保存方法は炉の煙り干しによって乾燥させていた。▼住まう~チセは寄棟造りで、柱は腐りにくいハシドイ・カシワを使い、壁や屋根はカヤ・ヨシ・ササで葺いていた。コタン(集落)の人たちが総出で建てる。▼チセの暮らし・シキタリ~狩猟は男、家事・栽培は女の役割。チセでは男は猟具の手入れやイナウなど信仰用具つくり、女は着物・茣蓙つくりや食事の支度、子供たちは水汲みや子守などの手伝いをしていた。チセは三つの座がある。入り口から炉に向かい左がシソ(右座)、右がハリキソ(左座)、正面奥がロルンソ(上座)。シソは上手が主人、下手が主婦の座。ハリキソは子供、来訪者の座。ロルンソは神々の通り道で神聖な場所。徳人でなければ座ることができなかった。▼信仰~アイヌの人々にとって、人間のまわりに存在する多くの事象にはすべて「魂」が宿っているものと考えられている。ですから動物や植物などは、天上の神の国からある使命を担って舞い降りてきて、この地上に住んでいると考えられた。▼カムイノミ~豊かな自然のいたるところに、それぞれこの世でつとめを担った神々に感謝し、その庇護と生活の糧を得るために、イナウ(木幣)やサケ(酒)、ハル(食料)を捧げながら神に祈ることをカムイノミ(神への祈り)という。▼祈り用具~祈るとき、人間は立てられたイナウ(木幣、ヤナギをマキリ/小刀で薄く削る)に対し、左手で酒の入ったトウキ(杯)をもち、右手でイクパスイ(酒捧箆、彫刻を施す)をもち、この先に酒をつけ、それをイナウに軽く触れるようにつけながら祈り言葉を唱える。そうすると人間の言葉はイクパスイに伝わり、イクパスイはその言葉をイナウに伝え、イナウは、次のイナウを従え、人間の言葉と供物を伴って神の国に向かう。人の目に見えずとも、鳥の姿になって向かうのだといいます。▼クマ祭り~アイヌ語でいうとイオマンテ、「熊の霊送り」のこと。クマは神の国からやってきてこの世でクマの形に化身し、訪れた食料の神です。そのクマを捕獲し解体する段階で、魂は肉体から離れる。その魂をコタンや家の客人として招き入れる。客人を稲の上坐側に安置し、コタンの人々が集まり酒宴をくりひろげ、ユカラや舞踊をおこない、その客人を数日にわたって手厚くもてなす。その後、丹念に彫刻した矢や、きれいに削り上げたイナウ、多くの食料や酒、太刀などの土産品をたくさん持たせ、自分たちのコタンを訪問してくれたことへの謝辞とまたの再訪を願う長老の祈り言葉とともに、客人の親・兄弟が住まう神の国に旅立たせるのです。▼コタン~一つのコタン(むら)が一つのエカシイキリ(祖父の系統)でかたまる「自然コタン」、和人との交易上からできた「強制コタン」がある。イウオルは資源調達の場。▼誕生~子供は生まれてもすぐ名前はつけない。早くから名前をつけると、悪い神様に名前を覚えられ悪さをされるので、固有の名前は少し大きくなって抵抗力がついてから、その子供のしぐさや癖などの特徴をもとにして名前がつけられた。▼歌と踊り~コタンの平和のため、多くのまつりごとを通して、神への感謝の踊りがおこなわれた。「ウポポ(座り歌)「リムセ(踊り歌)」を基本として、多くは集団で踊られます。▼楽器~ムックリ(口琴)、トンコリ(竪琴)、太鼓、拍子木、草笛、鹿笛(狩猟道具)などがある。▼口承文芸~ユカラは、英雄叙事詩といわれ、拍子木で炉縁を叩きながら、節をつけて語られる冒険物語です。長いものは三日三晩のものもある。聞く人たちも拍子木で調子をとり、語りの合間に「ヘッ、ホッ」などの掛け声を巧みに入れながら、語る人とともに物語のなかに参加します。一月二十七日(土)

博物館づくり
『博物館を楽しむ-琵琶湖博物館ものがたり』(川那部浩哉編著・岩波ジュニア新書)から。▼博物館の展示交流員は観覧券を販売するとともに、館内の案内をおこなう。⇒展示交流員という名は体をあらわす。旭山動物園は飼育展示係という名で、いまがある。▼博物館を劇場にたとえると、展示室はまさに表舞台で、主役である展示と、脇役である展示交流員や学芸職員、観衆である来館者と向かい合ったなかで、一つの話が進行する舞台です。そしてもう一つ、来館者がふだんは見ることのできない仕事場としての「研究室」といった、舞台裏も見てもらうことにした。⇒当館ではリウカ、埋文センターで実験進行中。▼古い住宅の再現展示では、来館者が「即席の解説員」に早変わりする。座敷には「感想ノート」が置いてあり、二年間で四五冊が貯まる。⇒感想ノートは混交玉石だが参考にはなる。▼琵琶湖の環境展示では、ホタルやタンポポなどの住民参加型調査の紹介、学芸員の環境に対する考えの展示、観覧者の意見を絵馬のように貼り付け展示する「オピニオン・コーナー」の設置をした。⇒意見提言の掲示板は可能だが。▼博物館の中の水族展示室では、実物展示の情報は大事であり、また飼育している者にとっては「「飼育員ではなくて、生きもの展示員」と思うようになった。見ているだけ楽しい博物館。⇒たとえば小さくとも淡水魚などの生きもの展示は惹きつけられる。▼「デスカバリー・ルーム(発見の部屋)」は、小さな展示室で、就学前の子供たちに博物館への興味をもってもらい「何かを発見」してもらうことをねらった。ドキドキ・ワクワクのあふれた展示空間のため「おばあちゃんの台所」「石の下/水の中の生きもの」など18ばかりの展示物を工夫した。「中の人たちが楽しくなければ、外の人たちを楽しませることはできない」と館長も館員も考えていた。⇒発見のドキドキ・わくわくは、リニューアルの際のヒントにならないか。▼琵琶湖博物館では、展示交流員(30名いるが有償ボランティアあるいは有給職員かは不明)が中心になって、あらゆる場所で説明はもちろん、いろんな質問にも答えています。そのほかにも情報利用室の一角に「質問コーナー」があり、館長・副館長を含めた三十名以上の学芸員が毎日交代でそこに座っています。そこでは専門外の質問に対しても、原則としてその日の担当者が対応するのが基本です。なぜかというと、専門の学芸員は野外調査でいなかったり、研究室で手を離せないこともあります。それに「質問されたら直ちに答えるのではなく、来館者が自分で調べるのを手伝う」のが、博物館の基本だと思うからです。あくまでもサポートです。でも、わからない場合は、後日とか、他の研究機関にお願いして調べることもあります。⇒質問コーナーは、人手不足からいまは無理だが、自ら調べられる場所はどこに、どのように。▼平日の午後二時には、「フロア・トーク」が始まる。展示室あるいは野外の特定の場所で学芸職員が話をします。⇒スポット・ガイドの可能性。▼質問は、博物館にとって貴重な情報資料です。開館してからほぼ三年半に、二千件あまりの質問と回答が蓄積された。その一部はデーターベース化され、一部はホームページでも見ることができる。ネットを使っての質問も受けている。※「博物館」という名を使ったのは、福沢諭吉の『西洋事情』(1866年刊で二十万部以上のベストセラー本)であり、それまでは、「百物館」「物品館」「博物所」などと呼ばれていた。⇒Q&AをHPに。▼地域住民のエネルギーでつくりあげた博物館には、山形県の「大井沢自然博物館」、長野県の「大町山岳博物館」(動物園が付属)、「大阪市自然史博物館」などがある。現在の博物館は、日本博物館協会がまとめた名簿に載っているものだけでも、その数およそ四千五百館。最近の博物館は、特徴を明快に打ち出しているものが増えている。また利用者のための博物館として、「参加型博物館」とか「ハンズ・オン展示」が流行で、「教えてあげる」から「利用者が楽しみながら主体的に学ぶのをてつだう」という場へ、大きく変わりつつある。⇒当館の特徴を対話型博物館に。あるいは長靴(野外)とエプロン(ワークショップ/作業講習会)の行動型博物館とか。▼海外の博物館では、イギリスの「大英博物館」「自然史博物館」、フランスの「国立自然史博物館」がその研究蓄積を誇るが、アメリカの博物館は「来館者が楽しむ場をつくる」ことに重点をおいており、「新しい展示手法を開発せずにおくものか」との、迫力ある取り組みが多い。⇒我が館の新しい展示手法はどんなものが考えられるか。▼博物館は、「博物館とは、利用者と博物館員とが協力し、研究、観察会などの交流活動、情報の発信、資料の収集と整理、展示などの諸活動を総合的におこなっていく機関である」と定義したい(著者)。⇒博物館は、利用者と博物館員との共同作業で動かす、ということでは同感。▼展示には、生物や人間の生活や道具の使い方など状況を再現する「生態展示」があり、これはジオラマや原寸復元、環境映像などが主になる。そのほか、分布模型・解説映像・図解パネルなどによる「しくみ展示」があり、時間的・空間的な広がりや概念的な情報を表現。また個々の資料情報を知らせる「分類展示」がある。それらを主題ごとに、たとえば生態展示から、しくみ展示へ、そして分類展示へと導き、生態展示に戻って総合的な理解を深めるといった、来館者の動線を検討しておかなくてはならない。⇒生態・しくみ・分類などの展示方法の組合せは、リニューアルの際にもう一度。▼「びわこ・ミュージアムスクール」は、学校の博物館利用をもっと本格的にするための実験をした。まず、小中高のそれぞれ一校にモデル校になってもらい、博物館専属の教員と学芸職員がそれぞれの学校へ出向いて事前学習をこない、それに基づいて生徒が自分で調べる主題を決め、本を調べたり地域の人々に聞いたり、博物館に来て体験学習したりし、最後に学校で発表をするという、流れです。⇒学校の博物館利用プログラムは道半ば。▼博物館には、常設の展示のほかに、「企画展示」「フィールド観察会」「博物館裏側探検」「博物館講座」や、周囲の自然を観察したり実験室で実験・実習する「ミュージアム観察会」、土曜日ごとの小中学生対象の「体験学習会」などがある。⇒博物館の増幅プログラムに手間をかければ、それだけ人気がでる。▼サンフランシスコの科学技術展示でがんばっている「エクスポラトリウム」の入場券には「六ヶ月有効」とあり、何度も繰り返し訪れることができる。⇒年間パスポートとのからみもあり、規則改正ものだが、こんなやり方もある。▼国外の姉妹博物館との提携で、展示・交流・資料交換を考えている。提携先のフランス国立自然史博物館での、アフリカのサバンナと北氷洋の展示は圧巻であり、その全体としての美しさは息を飲むほど。⇒たとえば長野県の「大町山岳博物館」との交流とか、美しい展示の追求。▼博物館はほんの入口にすぎない。ほんとうの博物館は野外にあるのです。琵琶湖を中心とする自然と人間との関係、すなわち人々の暮らし、歴史的に成立してきたこれ自体こそが、ほんとうの意味で「ほんものの博物館」なのです。⇒ほんとうの博物館は外にある。一月二十日(土)

合作
『憲法九条を世界遺産に』(太田光・中沢新一/集英社新書)から。▼自国の憲法は自分の国でと、よく言います。でも、この国は日米合作の平和憲法のもと、日本人は曲がりなりにも、いろんな拡大解釈をしながらも維持してきた。ですから少なくとも憲法を変えてしまう時代の一員ではありたくない。▼いいものというのは、たいがい合作でできたものだという事実を、忘れちゃいけない。たとえば日本人は仏教をいい思想だというけれど、あれは日本人がつくったものではなく、アジア人の合作した合同作品です。インドで生まれたけれど、もともとブッダ自身はヒマラヤの麓に住むモンゴロイドだったし、そのあともいろんな民族のもとに伝わって、チベットへ、中国へ、東南アジアへ、そして日本へと伝わって、多様な国々で合作された。その仏教が東の果てにたどり着いて日本仏教として展開していった。それはもう珍品中の珍品で、合作の極限にあらわれた特異体質みたいなものです。アジア人の合作としての仏教が、東の果ての岬のようなところで、突然変異をとげて、ほかの誰も言わなかったような珍しい仏教をつくりだした。その仏教を日本人は大事に守ってきた。今さら、あれはインドからきたものだからダメだとか、中国人が途中で漢文のお経を入れたからダメだなんて、誰も考えないでしょう。それを考えると、日本人だけでつくったものでないことが、逆にあの憲法の価値になっているんじゃないでしょうか。日本人だけでつくったのなら、あそこまでのものはできなかっただろうしね。▼子供のときは、自然のままですから、感受性は鋭いんですが、四十歳ぐらいから劣化していきます。ところが、それから十年ちょっと経ってみると、今の方が感受性が鋭くなっている。その理由は、死者との対話というか、語られずに消えてしまったものを蘇らせる努力を、自分の中で繰り返してきたからかなとも思います。生きている人たちとばかり付き合っていると、感受性は鈍くなってくる。今いる人といると年を取り、死んだ者とともにいようとすると、生命のよみがえりを感じます。▼日本語も合作。『日本語の歴史』(山口仲美・岩波新書)からは、奈良時代の漢字との出会いから万葉仮名、平安時代での日本語の誕生、江戸時代の今につながる話し言葉といったことが、ていねいな言い回しで語られる。いい本でした。井上ひさしの『国語元年』(中公文庫)はこの次に。一月十五日(月)

古代狂4
▼オーストラリア編。文明はどこでも大きな建造物だった。ピラミッドも、ペルセポリスも、アンコール・ワットも、石を切り出して運んで積み上げるという原理の実現だった。それを背後から支えているのが農業の生産性であり、統治機構だった。オーストラリアにはそういうものはなかった。アボリジニは文明を築かなかった。にもかかわらず、この岩絵に見るように、精神の内部において彼らが生み出したもの豊かさは文明の産物に劣るものではない。移動生活は彼らにモノへの依存を許さなかった。言い換えれば彼らは移動生活のおかげでモノから解放されて、純粋に精神だけの暮らしを営むことができた。家族で背負えるだけの財産で生きてきた。その成果として「ブッシュ・ポテト・ドリーミング」のような絵がある。彼らは石を刻んで運ぶことをせず、自ら石のところへ行って絵を描いた。文明が石を積み、ピラミッドを造り、都市を営みながら長い道をたどってようやく到着した地点に、アボリジニの人々はずっと先に来て待っていた。遅かったね、とにこにこしている。岩に描かれた女たちは幸福に見える。愉快に踊っているように見える。幸福が生きることの目的だとしたら、文明とはいったい何だったのか。何のために我々は石を積んだのか。▲エアズ・ロック。砂漠の真ん中に孤立してある岩山。アボリジニにとっては聖地で、彼らの言葉で「ウルル」という。クフ王のピラミッドは一周一キロだが、このウルルは一周十キロ。高さ三百四十八メートルで高さも三倍。そして、人間が作ったものでないからこそ、こちらの方がより強く聖性を帯びている。つまりピラミッドの方が模作なのだ。古代エジプト人はまだ見ぬウルルに憧れた。世界のすべての遺跡はウルルの模造品である。何年もかけて遺跡の一つ一つ見てきたけれども、ウルルの前にはすべてが相対化される気がした。もう旅はやめようかと男は思った。▲聖山には登られるものと麓から仰がれるものがある。日本の修験者は富士山や白山、羽黒山や御嶽山に登った。しかしチベット密教の信者はカイラス山には登らない。巡礼として遠いこの霊峰を目指し、その周囲を巡るだけで心満ちて帰路につく。アボリジニもウルルに登るのは、できればやめてほしいという意思を遠慮がちに表明している。▼イギリス編。ロンドンに行き、大英博物館に通って、展示品に惚れこみ、何百年か何千年か前にその品が作られた土地を訪れる。たくさんの旅をしたが、そろそろこの旅を終わりにしようかと男は思った。一月九日(火)

古代狂3
▼韓国編。新羅時代の石仏は、その衣装の襞がエレガントで、これはガンダーラ美術の影響だろうが、もとを辿ればヘレニズムを介して古典期ギリシャの彫刻に行き着く。韓の寺には色がある。諸神の像も屋根を支える木組みも派手な色に彩色されている。宗教はどこでも官能の魅力で信徒を誘う。カトリックならばミサで人気のある僧は顔がよくて声がよいと決まっている。聖歌隊はそのまま天使の歌声のように聞こえる。さらに香を焚いて善男善女を別世界へ誘う。その点で仏教とて例外ではなく、理性より官能の方に一歩だけ近いところにあることを僧たちが知らないはずはない。ヒンドゥー教などは、女神たちは丸い乳房を突き出して肉体の魅力を誇示している。初期のインド仏教はそれを借りていた。建物や像を色あざやかに塗るくらいは当然のことだっただろう。しかし日本の寺には色がない。五体投地もない。チベットの人々が仏への思いのかぎりを込めて行う姿勢である。だが、それはこの朝鮮半島までしか来なかった。列島には渡らなかった。それに朝鮮半島の人々は何かきっかけがあるとすぐに踊りはじめるが、列島の人はめったなことでは踊らない。どうも列島と半島では、人々のふるまいについて抑制のレベルが違う。半島と列島では異民族との接触の量が違う。陸つづきの隣に強い勢力があれば、その影響は拒めない。その中で半島の人々は自分は何者であるかを声高に表明しながら生きてきた。言いたいことは言うし、踊りたいときは踊る。▼メキシコ編。マヤ文明は、アステカと同様、民族としての存続への不安は強かった。世界はいつ終焉するかわからない。ともかく神に人命を捧げて、なだめて、明日の糧を確保する。死によって生をあがなう。この文明圏にはサイズの小さい王国がいくつもあって、それぞれに栄え、互いに争って、勝ったり負けたり。そのたびに生ずる捕虜が人身御供となる。血と苦痛にまみれた社会だが、その一方、人の精神はそこまで柔軟なのかという気もする。新大陸では人々は循環する歴史という思想に縛られた。かつて悪いことが起こり、それが間もなく再現される。循環史観というのはつまりそう信じることである。これでは人は絶滅の恐怖と共に生きるしかない。本当にわれわれは未来に向かって開かれた存在なのか。すべては既に決まっているのではないか。9・11はその徴の一つではないか。▼イギリス・ケルト編。考古学から言えば、ケルト人が来た証拠はほとんどない。言ってみれば、日本に弥生人は来なかったのと同じ。稲作と鉄器の使用は伝わったが、それは文化だけが伝わったのであって、大量の移住者が来たわけではない。しかし、いまさらあれは間違いでしたとは言いにくい。多くの人の誇りの土台をはずしてしまうようなものだ。おまけにアイルランド人などは移住先で苦労して地位を獲得した。その労苦に際してはケルトの子孫だという誇りが支えになった。そういう人に向かって、ご先祖様は優秀なケルト人ではなく普通の新石器・青銅器時代以来の住民でした、あるいはもっと遡る先住民でしたとは言いにくい。だから最近の考古学の常識と一般社会の常識の間には大きなずれがあった。しかし学問的に見るかぎり、イギリス諸島にケルト人はいなかったのだ。一月八日(月)

古代狂2
▼イラン編。ペルシャの神話というのはどれも借り物、まがい物、よせあつめという印象なのだ。非常に実務的な、散文的な人々だったのだろう。実用的な文化を好む人たち。ギリシャ人のような創造者ではなく、ローマ人のような統合者。密度の高い小国ではなく拡散したペルシャ帝国。排他の原理ではなく、取り込みないし吸収。現代でいえばフランスではなくアメリカ。この二つの原理が競い合って、人類をここまで連れてきた。▼カナダ編。文化は人が住むすべてのところにあるが、文明は都会を中心に集権的に分布する。中央の文明が地方の文化を押さえ込む。カナダ先住民のポトラッチを禁止し、アイヌの人々に鮭漁を禁止した。男は大英博物館を基点とする旅でいくつもの滅びた文明を見てきた。文明は滅びれば遺跡しか残さないが、文化はその土地の環境に合わせてしなやかに変わり、それによって生きる人々と共に生き延びる。バンクーバー・アイランドの海では、遠大な生命の連鎖が見えた。氷の海から植物プランクトンが湧き、それを食べる動物プランクトンが増え、オキアミ、ニシンあるいはサケあるいはハリバットあるいはタラがそれを食って、その上にカワウソやトドやウミスズメやクジラやヒトがいる。そういう自然の恵みを表現したいという意図が、最終的にあの大英博物館のトーテムポールを作り出した。人は自然から文化を紡ぐ。▼イラク編。都市が興る条件を考えてみた。まず食料の供給がなければならない。すなわち安定した大規模な農業が必要になる。そのためには水。その水を畑に引くための灌漑施設。その前提として、灌漑が可能なほど平らな土地。そこが砂漠のように乾いていることは農業にとってはかえって有利だったのではないか。乾いているから一般の植物は繁茂していない。つまり伐採や開墾をする必要がない。水がないから植物がないのであって、灌漑で水を導入すれば植物は育つ。しかも米ほど水を必要としない小麦であった。穫れた小麦がみなパンになる。飢えはない。この条件はエジプトとメソポタミアはよく似ている。▲シュメールはすばらしい。今は広漠たるウルの遺跡に立っていてもそれはわかる。シュメール人は、文字を発明し、行政と政治のシステムを作り、法や正義や教育、医療などを創造した。そのすべてが文献によって今に伝わっている。かくて四千年を費やして人は文明を量的には拡大したが、質の方は根本的に変わっていない。今も人はアッシリア人のように好戦的であるし、身辺に美しい細工物を飾って暮らしを楽しみ、手に入るかぎりの食材をさまざまに調理して食べている。やはり、過去は現在であるのだ。▲ウルの古代の墓の前に座って、男は当時としてはこの上もなく豪奢だったはずの葬礼を思い浮かべた。この墓からは豪華な副葬品ばかりか、六名の兵士と六十八名の侍女の遺骸が取り巻いていた。彼女たちは死を自分の運命と信じて悠然とこの墓所に入ったらしい。死は暴力的にではなく、致死量のアヘンかハシシュを自ら服用することで穏やかに訪れた。華やかな衣装をまとった数千人の臣民が葬列に従ったことだろうし、だからこそ侍女たちは従容として死に向かうことができた。供物の類も国の威信をかけて贅沢なものだっただろう。葬礼を準備したのは文明の力である。集中のためのシステムが作られ、多くの富がウルに集まった。耕作ではなく思索のための時間を持つ階級が生まれた。その思索の中から、組織的な宗教や哲学が誕生し、都市に住む民を覆う精神的な構造体が作られ、最後には最も高位の侍女たちを死の方へそっと促すほどの力を持った。▲素焼きの壷に水を入れておくと、しみ出す水が蒸発して熱を奪い、中の水は冷たくなる。砂漠の知恵。一月七日(日)

古代狂1 (293)
『パレオマニア-大英博物館からの13の旅』(池澤夏樹・集英社インターナショナル)から。▼ギリシャ編。作品に署名をするようになってから、美術はつまらなくなった。男が近世・近代・現代に惹かれないのはそのせいらしい。中世のものもあまり関心を惹かない。なんと言っても古代。人々がまだ荒魂(あらたま)をいだいていたころ。▼エジプト編。近代になってダムをつくったことでエジプトはナイル川沿いの自然農法を放棄した。その代わりにダムが生み出す電力で化学肥料を作るという新しい方策を採った。そうでなくては養えないほど人口が増えたのだ。アスワン・ハイ・ダムは現代のピラミッドと呼ばれたが、しかし現代エジプトはいかなる聖遺物も生み出していない。エジプトだけでなく、どこの国も三千年の後に見るに価する神殿を造ろうとはしていない。百年後だって怪しいものだ。人間はその日暮らしに堕した。エジプトの象形文字は、グラフィック・デザインとして完璧の域に達している。漢字と同じく具体物を写して抽象化されたのに、漢字よりずっと具体的なレベルで留まる。鳥などは一目瞭然。ヒエログリフは美しい。読めなくても見ていて気持ちがいい。すなわち文字である以上にデザイン。エジプト古代文化の遺物全体がアーティストではなくグラフィックデザイナーの仕事の成果ではないか。石と象形文字は、芸術家ではなく、職人の世界だ。だから万人にわかりやすく、単純で美しい。ピラミッドほど単純で美しいデザインはない。やはり古代にすべては完成していたのだと改めて思う。あとの歴史は繰り返しと拡大に過ぎない。▼インド編。インドでは、樹があればその下には人がいる。というよりも、この日射しでは木の下以外に人のいられる場所はない。ところで都会の生活ではどこか不安感を払拭できない。その不安感が、単なる豊年祈願を超えた、複雑な、高度に哲学的な宗教を生んだ。仏教を育てたのは古代インドの商人階級だった。人生は苦であるという仏教の基本思想、最後の審判が待っているというキリスト教やイスラム教の基本思想の根源にはこの不安がある。土から遠くなった分だけ彼ら都市の民は神や仏を必要とするようになり、必然的に神と仏に近くなった。そこから精密な教理を備えた世界宗教が生まれる。キリスト教が誕生したのはユダヤだが、結局はローマの市民があそこまで育てた。文明とはすなわち都市化であり、都市の民の不安こそがすぐれた宗教文化を生む。農民にはそんなものはもともとなくてもよかった。シャカの浮彫にも見られるが、ギリシャ様式が仏像に影響し、薄い布の襞によって肉体感を表現するようになった。インド人は古代から肉体が好きだった。男と女の仲が好きだった。それを隠さなかった。彫刻にも表した。それに対して、仏像はまるで違う原理を持ち込んだ。肉体を超える精神性を、しかも彫刻という本来最も肉体に近い手段で、表現しようとした。そしてそれに成功した。あの不思議な、禁欲の原理と極端な官能性が一つのフレームに並ぶという造形が生み出された。しかし中国人は官能が嫌いだったから、仏教のその部分を捨ててしまった。日本に渡ってきたのも官能なき仏教だった。寺に裸の女はいらないということになった。まあ、東アジア人の体格は、インド人と異なって、彫刻として官能を表現するのには向いていないのかもしれないが。一月六日(土)