2009年3月6日金曜日

cojiki-07

引算の絵、一瞬の絵... 2
市民政治理論の再論... 2
土を喰う.. 3
読書術免許皆伝... 3
あっち側... 4
砂糖壷に落ちたアリ (340) 4
from must to want 2. 4
from must to want 1. 5
漢江とセーヌ3.. 6
漢江とセーヌ2.. 6
漢江とセーヌ1.. 7
世界の涙の総量2.. 7
世界の涙の総量1.. 8
眼の喜び... 9
儲けの裏側で... 9
八万時間7 (330) 9
八万時間6.. 10
八万時間5.. 11
八万時間4.. 11
八万時間3.. 12
八万時間2.. 12
八万時間1.. 13
還暦の晴々... 13
虎の肩こり.. 14
家族5.. 14
家族4.. 15
家族3 (320) 15
家族2.. 16
家族1.. 17
はい、泳げません... 17
人は人に会って人になる.. 18
仏教の系譜5.. 19
仏教の系譜4.. 19
仏教の系譜3.. 19
仏教の系譜2.. 20
仏教の系譜1. 21
昭和史・戦後編... 21
世界の見方5 (310) 22
世界の見方4.. 22
世界の見方3.. 23
世界の見方2.. 23
世界の見方1.. 23
海からの贈物... 24
日本の見方2.. 24
日本の見方1.. 25
雨の日は、だいどこ。.. 25
赤い本の森... 26
龍馬と直行 (300) 26
アイヌ民族を知る(序). 27
博物館づくり.. 28
合作... 29
古代狂4.. 30
古代狂3.. 30
古代狂2.. 31
古代狂1 (293) 32

引算の絵、一瞬の絵
『フェルメール全点踏破の旅』(朽木ゆり子・集英社新書)から。▼引き算の絵。《窓辺で手紙を読む女》では、この絵の右側の手前、テーブルの上にはワイングラスが描かれていたのですが、彼はカーテンを描くことでそれを塗りつぶしてしまった。ともかく、この絵ではかなりいろんな引き算をして、要素を少なくしています。カーテンを描いたことで、見る者との間に距離ができ、絵に奥行きが加わりました。同時に、見ている私たちが部屋の中にいるように感じる錯覚を作り出した。これはデルフトの画家がよく使った手法です。このようにフェルメールはいろいろ工夫して、自分のスタイルを作り出そうとしていた。▼次は、『日本にある世界の名画入門』(赤瀬川源平・知恵の森文庫)から。▲ボナール「ヴェルノン付近の風景」(ブリジストン美術館)。筆触は画家の表現であり息づかいである。描写のための筆のタッチは、それ自体が表現となって表にあらわれてきて、ついにはタッチそのものを見せる抽象絵画となり、絵具そのもの、素材そのものを展示する抽象芸術へとなっていく。ボナールの絵はまだ、そんなことになっていないが、印象派の時代に後発したことで、描写感覚がすでに崩壊したところが見えるところがスリリングである。自然の風景を借りて、そのうえで色の遊びの方を楽しんでいる。▲次は一瞬一回性の絵。ミロ「パイプを吸う男」(富山県立近代美術館)。日本の書は、漢字のモトが象形文字で、正しくは表意文字のため、一文字の書でも風景を見るように見ていられる。ミロの絵は書ではない。絵である。でも絵を文字のように描くというか、文字を絵のように描くというか、書くと描くとを入れ替えて重ねて混ぜ合わせたような、つまり漢字の「書」の独特の感覚がキャンパスにしるされている、というふうに見える。ミロの絵は絵が文字のようになりかけている。そのうえさらに、一期一会という書の中でもっとも大切にされる感覚が生きている。スピード感のある絵筆のタッチは、書の筆跡に通じている。水墨画の筆がすでに書に通じるように、タッチが際立ってくるということは、一期一会への接近である。なぞらない、戻らない、一瞬の感覚、一回性の美しさ。十二月二十九日(土)

市民政治理論の再論
『市民・自治体・政治-再論・人間型としての市民』(松下圭一・公人の友社)から。この本は2007年6月20日、北海道地方自治研究所による公開講演からのもので、『現代政治*発想と回想』が最後の著作だったはずなのだが。でも、感謝。▼市民活動の自立後は、政党についての「指導」ないし「前衛」という言葉もなくなります。その後は、市民たちが政党を創出あるいは選択する時代にはいり、政党へのムラ型支持あるいは利害型支持という「組織票」が順次底抜けとなり、崩壊しつつあるとみるべきでしょう。いわゆる「無党派」票問題がこれです。この市民政治では、市民にとっての政党とは、政府選択についての「媒体」という、いわばツカイステの「道具」にすぎなくなるわけです。▼今日の都市型社会における市民と政治・行政との緊張のなかに、市民政治への転換をみたい。①市民行政と職員行政は反比例、②職員行政再編が市民課題、③市民の文化情報水準、専門・政策能力の上昇、④市民起点の政策・制度づくり、⑤市民主権からくる自治体の位置づけ変化、⑥職員の給与は市民の税金から、⑦国・自治体の人事再編と市民責任、⑧市民への責任は法務・財務で。以上八点に要約できるが、私たち市民はすでに、国家の受益者ではなくなっている。国家自体が未熟な政治家と、劣化した官僚による可謬の、さらに日本では借金づけの政府にすぎません。自治体も同型です。ここでの不可欠の視点は、第一に、政治・行政の情報の整理・公開がなければ、市民・政治家は全体展望をもつ発想・立論ができません。第二に、政治行政の内部にいる官僚・職員も情報の整理・公開がみずからできないため、全体構造についてその論点がわからず、市民参加の衝撃がなければ、自己改革にもとりくめないという事態です。▼市民という問題設定は、地域・自治体に限らず、国・国際機構をふくめて、今日の都市型社会でいかに政治主体としての市民、ついで制度主体としての三レベル(自治体・国・国際機構)の政府を設定するかという、基本の問いにつながります。市民自治・自治体政府という発想を起点に、都市型社会における地域特性をもつシビル・ミニマムの公共整備という文明史的新課題から、市民⇒自治体⇒国というかたちで、現代の自治体の政府性を位置づけます。これは日本では二〇〇〇年の分権法でスタートします。▼ここで、日本の大衆ドラマ「水戸黄門」を想起してください。今日の日本の人々、つまり庶民の政治発想の原型そのものがここにあります。日常生活ないし政治・行政に問題があっても、日本の庶民たちは問題解決の能力を持ちません。悪代官や悪徳商人がいても、また泥棒やばくち打ちがいても、日本の庶民はみずから問題解決するという政治熟度をもっていない。つまり自治能力を欠いた受動市民だったのです。今日でも、日本の政治家、ついて官僚をふくむ公務員は、市民からの批判・参画による政治訓練をあまりうけていないため、オカミとしてイバルだけで、その政治未熟、行政劣化が続きます。これに比して、アメリカの大衆ドラマ「西部劇」では、原住民への弾圧という半面はありますが、白人内部では未熟ではあっても「問題解決」の自治能力を示します。政府が遠くにある西部開拓地では、広場や教会にあつまって、失敗をふくめて、みずから議論・決定をしているではありませんか。J・S・ミルが、アメリカ人は「いつでも、どこでも政府をつくる」といった理由です。くわえてヨーロッパでも、中世におけるマグナ・カルタの制度や暴君放伐論、またロビン・フッド、ウイリアム・テルなどの抵抗、さらには近代市民革命をめぐる今日の市民性につながる、ゆたかな大衆ドラマをもちます。日本ではオカミとしての水戸黄門がたまたまやってきて、官僚のスケサン・カクサン、最近のテレビでは忍者という特殊部隊すらつかって、上からの問題解決となります。黄門がこないところは、永遠に問題解決できず、東洋専制ともいうべき忍従の日々が続くのみです。日本も、近代欧米の影響から自由民権、大正デモクラシーの記憶はあるものの、中世の惣村・惣町の一揆をふくめ、ひろく誇りある自治の歴史つまり記憶がうすく、大衆ドラマもせいぜい「」鼠小僧」「大塩平八郎」などにとどまります。都市型社会の今日でも、未来にむかって自治の伝統を、私たち自身がかたちづくることが急務になっているというべきでしょう。▼著者が市民政治理論を世に問うてから半世紀ですが、まだ自治体の市民自治は路半ば。十二月二十二日(土)

土を喰う
『キラリと、おしゃれ』(津端英子、津端修一・ミネルバ書房)から。▼楽しみを与え、生命を与えるのは細部です。キッチン・ガーデンでの百二十種の栽培をベースに、各地の産物を追加している。よつば牛乳(北海道/牛乳、バター、ナチュラルチーズ)、角長醤油(和歌山県湯浅町)、本田味噌(京都市)、山政(静岡県焼津市/鰹節)、小松養蜂園(石川県小松市)など五十種類。▼はぶ茶は整腸剤で排泄機能が活発になる。お年寄りの「うさぎのうんこ」を解消する特効ドリンク。四月にタネをまくが、一㍍ぐらいに伸びるので間隔は広め。手入れは一切不要。一人年間五本あればよい。収穫は十月で、青い鞘が金茶色になって熟したら刈取り。十分に乾燥させから実をとり出す。ティースプーン一杯で、土瓶で二回いれて、普通の湯飲み茶碗で十杯は飲める。ということで、はぶ茶のタネは著者からいただいているので08年栽培する予定。増えれば近所におすそわけ。▼そうそう、つばた家には、電子レンジがないんです。ん、ということは。▼ということで、著者おすすめの『土を喰う日々-わが精進十二ヵ月』(水上勉、新潮文庫)を読んでみます。十二月十五日(土)

読書術免許皆伝
『千夜千冊虎の巻』(松岡正剛・求龍堂)から。▼再読にこそ読書の醍醐味がある。読書法の極意は、本をノートの様につかうこと。そのほかには「暗号解読法」「目次読書法」「マーキング読書法」「要約的読書法」「図解読書法」「類書読書法」がある。▼松岡正剛が一番身につまされた本は『婉という女』。著者の大原富枝は死ぬ間際に言う。私が書く作品はあくまで負の世界に生きて徹するものばかりです。なぜ中途半端な幸福などを書く必要がありますか。人間は、そして女性は、最初から負を背負って生きてきて、負を埋めるために生きているものなのです。十二月八日(土)

あっち側
『信じない人のための宗教講義』(中村圭志・みすず書房)から。▼神学論争で三位一体とは、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、そして精霊なる神が一体のものだとし、キリストが神であると同時に人間でもあることが確認されました。図像的に神をコカコーラの缶に例えると、父、子、精霊は缶の上面、底面、側面です。すなわち三位一体です。この缶をテーブルの上に立てます。テーブルは人間世界で、広い面上に救いを求める衆生がうごめいている。そこに神(コーラの缶)が出現した。缶の底面と机の接触面がイエス・キリストです。この底面は子なる神として神に属しますが、この面は机の面でもありますから、人間にも属します。この境界面にあるキリストは、シンボルでもなく絵物語の人物でもなく、歴史的人物であることによって救済のリアルな根拠が示されます。キリストは人間であり、かつ神であった。ここに信仰の要訣がある。▼西洋人は神さまを信じているが、日本人は西洋人を信じていると、皮肉る人もいる。▼そもそも私たちの思考には、こっち側の日常世界に対して、あっち側の宗教世界を想定しようという精神的誘惑を断りきれないところがあります。ちなみに病者や老人が向かう死の手前ではもはや収支決算が合わない時点というものが来る。それゆえ、死の先の世界を目標とする論理回路がなければ、死の確実に見えている人間をポジティブに生かしてあげることができない。十二月一日(土)

砂糖壷に落ちたアリ (340)
『読書の腕前』(岡崎武志・光文社新書)から。▼「教養とはつまるところ、自分ひとりでも時間をつぶせる、ということだ」。そう書いたのは中島らも(『固いおとうふ』)で、たったひとりで自分の内面を深めるのは「読書」以外ない。▼「やなぎたんぽぽ属のことで私は多忙をきわめている」と、これはギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫)の一節。イギリスの作家が、二〇世紀初頭に、南イングランドの田園地帯で、散歩と読書に費やす日々を、ライクロフトという初老の男性の手記というかたち著した自伝的作品である。およそ読書人と呼ばれる人の本棚に、これがないことはありえない。ところで何故花の名前のことで忙しいのか。「私は散歩の途中で合うすべての花の一つ一つ名指して呼べるようになりたい。それも特にそのものの固有の名前で呼んでやりたいのだ」。▼本を読むために旅に出る。片岡義男『日常術・片岡義男本読み術・私生活の充実』(晶文社)では、「新幹線のなかで読んで、到着した町のホテルで読んで、町を散歩して、そして歩いているとかならず雰囲気のいいコーヒーショップがみつかるので、ここでまた読んで。どうしてこんなに楽しいんだろう、と不思議な気持になるほど、これは楽しいですよ。感動というものを体で感じますよ」。国内なら夏の終わりの高知、あるいは京都。海外ならハワイ。どこか見知らぬ土地で本を読む贅沢。▼同世代を意識する。ロアルド・ダールに『あなたに似た人』という短編があるが、本を読む場合でも、あなたに似た人を探すのがいい。まずは、同じ時代を併走してきた人が書いたものは実感がともなうし、同世代人として、まるで自分が書いたもののように錯覚すらする。▼本の本では、ぼくらはカルチャー探偵団編『活字中毒養成ギプス』(角川文庫)、丸谷才一編『ポケットの本・机の本』(新潮社)。大人になると、夜空を見上げることをしなくなる人には、チェット・レイモ『夜の魂・天文学逍遥』(山下知夫訳・工作社)を。十一月二十五日(土)

from must to want 2
▼サバイバーとしての定期の点検項目は、リンパ球数(比率)、体重、体温、腫瘍マーカー、肝機能、体調変化です。▼3大療法だけでは再発転移。西洋医学の標準治療となっている3大療法(手術・放射線・抗がん剤)はがん細胞を直接体内から取り除くことを目的としていますが、しかしこのような治療法を受けても、実に半数以上の方が数年以内になくなっています。原因は再発と転移です。しかも転移と再発は多くが3年以内、そしてほとんどが5年以内に起こります。つまり、まず3年間、そして5年間、集中してしっかりとベース治療を行いながら、時には中医薬や適切なサプリメントを用いて環境整備していけば、かなりの確率で転移と再発が抑えられるはずです。▼がん治療に精通した医師は皆無。診断学が進んだために早期発見による治療成績が一見上がったようにみえるのですが、中期以降に進行したがんに対しては、治療成績はまったく変わっていません。具体的にはがんの死亡率、がんの5年死亡率に改善はみられません。がん治療の専門家が育っていないということです。一番の問題は、肝心の医師が、がんは治ると思っていないことです。だから、何があっても治療にこだわるという姿勢がないのです。おそらくは、ベース治療で免疫力を高め治った人を見たことがないからです。ここに3大療法の西洋医学だけでなく、補完代替療法にも精通している、がん治療専門医が求められる理由です。今の専門医は抗がん剤の専門医にすぎません。▼倦怠感(しんどい)は、肝機能の低下、低栄養、腎機能の低下、脱水、甲状腺機能の低下、うつなどが原因となります。これには中医薬の補剤(十全大補湯、六君子湯、補中益気湯、人参養栄湯など)、アミノ酸、ビタミン、ミネラル、CoQ10、甲状腺ホルモンなどが有効です。また、特に抗がん剤や放射線治療を受けたがん患者のほとんどは、虚証(陰嘘:自己治癒力の物質的な基礎やエネルギー源が不足している状態)を呈しているので、六味地黄などを補うのもいいと思います。▼サバイバーになるための環境整備(ベース治療)は、水分しっかり摂取、酸素しっかり摂取、栄養(ビタミン、ミネラル、ファイトケミカル、タンパク質)しっかり摂取、栄養しっかり吸収(腸内免疫高める)、栄養の全身血行(体を温める、筋肉運動、乾布摩擦、爪もみ、温冷浴)、カロリー少なく(糖分・脂肪少なく)、塩分少なく、結合組織(コラーゲン~マルチビタミン、ビタミンC、プロリン、リジン摂取)、生命エネルギー高める(気功、中医薬摂取、気持安定、サバイバーとコミュニケーション、しっかり睡眠)、がすべてです。十一月十八日(日)

from must to want 1
『死の宣告からの生還』(岡本裕・講談社α新書)から。▼まずは自分を自由にしてあげることが大切です。こうしなければいけない、こうあるべきだ、という生き方はストレスを溜め込みます。他人が設けた壁よりも自分で作った壁の方が、ストレスは大きく、しかもなかなか取り除くことが困難になる。私たち医師から見ても、がん患者の多くは、責任感が強く、頑張り屋で、とてもいい人たちなのです。がん患者さんと話していても、言葉の端はしに、しなくては、であるべき、ねばならない、などが多く登場します。つまりこれはMUSTにとらわれ、責任感の強い、番張り屋さんの発想であることがわかります。しかしサバイバー全員がMUST(ねばならない)の考え方をWANT(したい)に変えています。再発移転を防ぐためは、心の持ち方がとても大切ですから、少しは自分を中心にした生活(人生)を考えてくださいとアドバイスをしています。がんは3大療法(切除・放射線・抗がん剤)だけでは直らない。自己の免疫力を高めるほかには手立てがないのです。▼腫瘍の有無、大きさ、転移のあるなしにかかわず、食べて動けて眠れる人は、がんに負けないのです。▼運動。体を動かすと免疫力が高まる。できるだけ毎日6千歩(一時間)以上歩くことが望ましい。体にいいことはもちろんですが、脳内からいいホルモン(エンドルフィン)が分泌される。新しい発想、着想は、瞑想しているときより、むしろ歩いている時の方が多い。▼がん患者の多くは自律神経のバランスを崩しているので、爪もみや自律神経免疫療法を用いてバランスを戻しておくことが治療への大前提になります。旅や楽器演奏とか、何かに夢中になると、交感神経が優位になり、その後には副交感神経が優位になる時期が続き、結果としてリンパ球が上昇、NK活性が高まります。▼全身血行。栄養をしっかり摂っていても、全身血流が滞っていては元も子もありません。血の巡りです。運動やマッサージなどで筋肉を動かし、自律神経のバランスを最適に保っておくことです。特に手の先、足の先が冷えていないかをチェックすることです。常に手の先、足の先が温かければいいのですが、そうでなければ爪もみ、ふくらはぎマッサージ、温冷浴などをこまめに行うことが必要です。▼体重。とにかく体重減少の下げ止まりが肝心です。体重をキープし治癒力を温存することです。体重は意外に病勢のバロメーターになりますので、経時的なチェックが大事です。▼たいていのがん患者さんは、3大がん治療が終わって、元の生活に戻りますが、これはだめです。がんになりやすい元の仕事環境や生活に戻らず、免疫力を高める生活に切り替えることなのです。おそらく防御システムが健全に作動していたと思われる、数年から十数年前に戻ることです。ここを勘違いしている方が、医師を含めて多いのです。患者さんは手術が完了したから、完全に元に戻った、したがって生活習慣や仕事も手術前のままでいいという勘違いです。十一月十七日(土)

漢江とセーヌ3
▼フランス人は運転席に座ったとたん、ラテン系の血がいっそう騒ぐのか、その運転はせっかちで敏捷だ。混んでいても道は譲らないし、未熟なドライバーを見ても、赤信号に引っかかっても、トラックが前にいても、口をついて出るのは「この野郎!」だ。ほとんど条件反射のように口から飛び出す。▼フランス語を勉強するなら公園のおばあさん。黙って隣に座りなさい。ほんの十分もしないうちに友だちになれるだろう。フランス人は同じ年のおばあさんと友達になろうとしない。この点は韓国のおばあさんとは違うところだ。自分が年老いていく悲しみを忘れたいのに、同じ年頃のおばあさんと友達になったら忘れることができないからだ。しかもベンチに座っているおばあさんにズボン姿はない。なぜか。おばあさんではない、という主張であり宣言なのだ。だからおばあさんは必ずスカートをはき、正装して街に出る。たとえ行き先が市場と公園しかなくても。▼野山をさらさらと流れる小川の澄んだ水。フランスでそれを探そうとして、妻と私はずいぶん歩き回った。だが、無駄足だった。フランスでは、野と山と水が、調和を成してはいなかった。野は野。山は山。それぞれ独立しており、野からは山が見えず、山は野を抱いていない。野は広いが水は濁っていた。フランス人は理知的かつ率直で、正義と粋を愛することを知る人々と、その徳目を挙げることはできようが、半面、人間の奥深いところにある香気はあまり感じられない。このことは、身土不二(人間の体と大地は一体)の観点から理解できるだろうか。▼韓国の英語公用語化論。これは国民の生活の中で、継続的に英語を強制しない限りその実現可能性はない。そのためには動員体制が必須となる。これまで韓国で英語教育のために注いできた努力と時間を、その結果と比較してみれば、すぐ理解できる話だ。日本帝国主義が朝鮮人に日本語を強制したのと同じように。現在地球上で、アングロサクソン系の国以外で英語を公用語としているのは、過去にイギリスとアメリカの植民地だった国だけだという事実もこのことを示している。「私は朝鮮語があまりできませんが、英語はできます」と言えるようになるまで、いったい何年かかるだろうか。五十年、あるいは百年。その間にアメリカ主導の世界体制から、例えば中国主導の体制になったらどうするのか。あるいは中国が英語を公用語にするとでも。それは考えられない話だ。中華のことをまったく知らない者のセリフだ。▼私たちがよく使う左右という政治用語は、フランス革命直前にルイ十六世が召集した一般会議に由来すると言われている。貴族、カトリック聖職者、市民の三階級が集まったので三部会とも呼ばれているこの一般会議で、貴族と聖職者は王の右側に、市民階級は王の左側に座ったところから始まった。▼トレランスはデモクラシーよりも重要なものだ。私たちがしばしば十八世紀のフランス啓蒙主義者と呼ぶモンテスキュー、ルソー、ボルテールは、みなトレランスの概念を打ちたて発展させた人たちだ。十一月十日(土)

漢江とセーヌ2
▼美術教師の哲学。なぜ美術の時間に石膏のデザインをやらないのかを尋ねた。石膏像をみてデザインさせると、価値観を画一化させる恐れがありますし、一つの対象にすると互いに描いたものを比べて、優劣を競うのはいいことではありません。だいたい、三十人の子どもが一つの死んだ生物を眺める姿は美しくありません。フランスには哲学教育の伝統があるため、最高の知性が高校の哲学教師になっている。ボーボワールやサルトルも、みな高等師範卒で高校哲学の教師の経験がある。▼韓国のテレビは連続ドラマと各種ショー番組だが、フランスでは連続ドラマはほとんどなく、ショー番組が少ない。そのかわり様々な討論番組と時事ドキュメンタリーが多い。政治家たちの討論は、「政治は芸術だ」という言葉を実感させてくれる。彼らの明瞭な話術、修辞法、正確な発音、そして瞬間的な機知を見るのは、視聴者の楽しみの一つである。▼フランス人から見たら韓国人はみな歌手だ。フランス人はシャンソンを好んで聴くが、いざ歌ってみろと言われると、みな逃げ出す。ほとんどの人が、歌のひとつも歌えない。いわゆる十八番すらない哀れな人たちなのだ。「ラ・マルセイエーズ(フランス国家)」を歌うときも、みんなもじもじするばかりだ。だからフランス人の宴会や会合で歌う姿は全く見られない。討論とおしゃべりばかりだ。▼フランス人は他人の生活に関心がなく、また他人が自分の私生活に関心を持つのを大変嫌う。こう言うと、おそらく韓国のご夫人方の中には、「では、フランスのご婦人はどんなおしゃべりをしているのかしら」と疑問に思う人もいるだろう。もちろんフランスのご婦人方もおしゃべりする。マドモアゼルは一番おしゃべりだ。他人の私生活のことでなければ、いったい何をしゃべっているのだろう。私生活のことを除く、残りの全部だ。政治、社会、経済、文化、旅行、料理、テレビ、音楽、美術、教育、経験など。話題は無尽蔵だ。例えば、あなたの友だちが昨夜、ドミンゴ、カレーラス、パヴァロッティの三大テノールを鑑賞したとしよう。あなたはその音楽会の顛末の一切を、微にいり細にわたり聞かされることだろう。音楽会の演奏時間より、話の方が長くなるかもしれない。しかも話は家を出たところから始まり、帰宅するところまで続く。ただ一つだけタブーがある。ベルトより下の話は避けることです。▼ヨーロッパの気候が悪いのは、メキシコ暖流の湿気を含んだ偏西風の影響による。フランスも南部の地中海沿岸を除いて、いつも灰色の空を眺めなければならない。ヨーロッパ人が復活祭を待ち望むのは、復活祭そのものより、その時期から天気がよくなるからだ。そして五月から九月までは天気がよく、十月からはどんよりした曇り空が翌年四月まで連日続く。特に冬は零下五度を下回ることはあまりないが、湿度が高いので骨まで染み入る寒さを感じる。フランス人はこうした天気の影響で、夏には明朗で親切だが、冬になると沈鬱な顔で、むっつりと黙り込む。十一月三日(土)

漢江とセーヌ1
『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』(洪世和ホン・セ・ファ/みすず書房)から。パリでただ一人の韓国人タクシー運転手となり、祖国とフランスをみた。▼イギリスは帝国であり、ドイツは民族であり、フランスは個人である。フランス人に民族はない。個人が重要なのであって、誰の血を受け継いだかは重要ではない。国外で生まれた者であっても、五年以上の学校教育を受けてフランスの社会の一員になると宣言すれば、フランス人になれる。要するに、ドイツではドイツ人がドイツ社会を作っているが、フランスではフランス社会がフランス人を作っているのだ。▼すなわち賞とはもらう人のためにあるのではなく、与える人のためのものだ。賞による統治マネジメント。▼オペラ座の鱒養殖と養蜂。マルタンはパリのオペラ座で働く電気技術者だが、その下に地下水が流れているのに眼をつけ、その地下水で鱒を飼っている。マルタンと同じ職場で働くジャン・ピエールは、同僚の奇抜な副業に興味を持ち、羨んだが、かといって同業になろうとするような人間ではなかった。フランス人の個性はそんなことを容認しない。他の建物の地下で鱒を飼うこともできるが、それもまたフランス人の個性と折り合わない。彼にアイデアが浮かんだ。二ヵ月の間、自分で本を読んだり、他からの助言を求めた末、蜜蜂の巣箱を二つ、オペラ座の屋根に据えつけた。しばらくすると、数万匹の蜂が巣をつくり、パリ市内のあちこちの公園やアパルトマンのバルコニーに咲く花から、蜜を運び始めた。屋根の上の副業から、ついに蜜が産出された。大気汚染の酷い都心で良い蜜がとれるはずがないという当初の予想を覆して、その味と品質は抜群との判定を受けた。そして「パリの蜜」という商標で、パリの最高級の食料品店フォションに出荷された。彼は調子に乗って、オペラ座から一キロほど離れたコメディ・フランセーズの屋根にも巣箱を置いた。ともかくパリ市民は、マルタンやジャン・ピエールのおかげで、そしてトレランスを示した劇場管理者のおかげで、無味乾燥な都市生活のなかに生きる楽しみを見出すことができた。その上、パリの真ん中に地下水が流れており、良質な蜜がとれるほどパリに花が多いということを、あわせて知ることができたのである。韓国なら追従する人があるかもしれないが、許容する施設管理者を探すのが難しいだろう。十月二十七日(土)

世界の涙の総量2
▼脳出血で倒れたとき、私は何より自由に歩けるようになりたかった。右手で箸を使い、字を書けるようになりたかった。正直、思いの大半はそのことに占められ、改憲の動きも自衛隊の派兵についても病前ほどには意識しなくなった。「政治の幅は常に生活の幅より狭い」。しかし、さはさりながら、やはり歴史の大きくうねり曲がっているのを感じないではいられない。先日、内視鏡の写真を見せられた。赤茶けた腫瘍がいつの間にか全容を捉え切れないほど膨れていた。おそらく政治の癌もそうなのだ。生活の幅より狭いはずなのに、政治は生活を脅かしつつある。もう楽園には帰れない。▼麻原を除くサリン事件の被告たち個々人に、私はいわゆる狂気など微塵も感じたことがない。法廷での挙措、発言に見るもの、それは凡庸な、あまりに凡庸な世界観と一本調子の生真面目さなのであった。その像は、事件の当日うち倒れた被害者らを跨いで職場へと急いだ良民、すなわち通勤者の群れに重なる。▼生産、労働、刻苦精励、終身雇用、労組、年功序列といった価値が退潮し、消費資本主義ともギャンブル資本主義とも呼ばれる資本の全域制覇の時代を迎えた。▼マネーゲームの勝者など、いうところの「勝ち組」を讃えるこの社会には、上部の指示に逆らってでも貧者や弱者の側に立つ自由な「私」の数は明らかに減ってきている。そして、ファシズムはかつての装いを一変して、あくまでも優しく道理にかなっているかのごとく日々を振舞っているのである。▼審問。では問う。脳出血に癌。二年以内に相次いでお前を襲った二つの災厄を、お前は内心、不当、理不尽と思っているのではないか。そう問われれば、こう答えたい。ずっと前から体調不良だったし、やっぱり来たか、という思いだ。無論大いにがっかりはしたけれども狼狽はしなかった。▼今度はご丁寧に癌まで患った。何という大ばか者だろう。私はロボトミー手術でも受けて、伊豆かどこかの陽当たりのいい別荘地あたりでニコニコ笑いながら余生を生きればよかったのだ。無農薬野菜を食い、コレステロールと塩分の取りすぎに注意して、血圧コントロールを徹底し、ラブラドール・レトリバーを飼い、庭でゴーヤを育て、朝はヘンデル、夕にはバッハを聴き、有事法制が採択されようが、バクダッドが爆撃されようが、どこ吹く風と、誰に対しても笑顔を絶やさず、憲法改正の動きには「困ったものです。この国はこれからどうなるのでしょう」くらいは空々しくいってみせ、早寝早起きと犬連れの散歩を励行、定期健康診断をしっかり受けて、眠剤がわりに『失われたときを求めて』を一日たった三十頁だけは読んでうとうとと眠りにつくような日々をなぜ送れなかったのだろう。昼下がりには楽器の個人レッスンを受けるのも悪くはない。それがどうだ。私は何一つ自分を変えることができなかった。多分、自己蕩尽型だったのだろう。▼娘が自宅の柿の木で縊死した、あの大人しいクリスチャンの父がいった。「日常のな、日常の皮を一枚ペロリと剥げば、大抵の人間はだな、ち、ち、血まみれなんだよ」。十月二十日(土)

世界の涙の総量1
『審問』(辺見庸・毎日新聞社)から。▼死の実感と制度の殺人。刑場の1メートル四方といわれる鉄の踏み板がいきなりバーンと二つに割れ、つないだ麻縄がぴんと張りつめて、頚骨をこなごなに砕く音。瞬間、脚は宙でヒクヒクと痙攣し、まるでおかしな空中ダンスを踊るようになるといいます。▼二〇〇四年夏、ぼくは三つ目の病院を退院しました。ものみな白々と晒しつくすような娑婆の陽光にぼくは怖じ怯みました。たかだか数ヵ月の不在だったのに、世界のすべてが一変してしまったように見え、もはやぼくの居場所はなくなったとさえ感じました。娑婆の時間には一貫した継起的流れがなぜかなくなり、ただ意味もなく、何かが消えたり生じたりしているようで、その忙しさが譬えようもなく下等なものに思われました。▼ぼくは残りの生を一人の老いた身体障害者として私小説ふうに生きればいいのでしょうか。あくまでも静かに、謙虚に、恥ながら隠棲し、世界について大言壮語せず、悪態をつかず、毒づかず。そして、これまでに果たそうとしてできなかったささやかな夢の一つか二つ、たとえば極寒の地にダイアモンド・ダストを見に行くとかを、残り少なくなった生の間に秘やかに果たして、薄い笑いを浮かべてひとり逝くこと。▼脳溢血で倒れて入院していたころ、私と一緒につらいリハビリをしていた五十歳代とおぼしい男がある日突然、声を絞りだすようにして独りごちた。怪しい呂律だったが「こうまで苦労して生きていく価値があるのかなあ」と聞こえた。言葉が耳朶(じだ)に残り、いつしか私も同じような独り言を呟くようになった。この世の中に頑張る意味ってあるのかなあ。生き続ける労苦が周りの風景とつり合わなくなってきた、何だか甲斐がないな、という気分がため息をつかせるのである。▼おそらく人倫の基本がかつてなく揺らいでいる。旧式の価値体系は資本に食い破られたけれど、新しい価値観が人の魂を安息に導いているとは到底言いがたい。正気だった世界に透明な狂気が入りこんできて、狂気が正気を僭称するようになった。この世には生きる真の価値があるのか、と訝る内心の声は老若を問わずこれからも減りはしないだろう。「世界の涙の総量は不変だ」。ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に出てくる台詞だ。昔はうなずいて読んだものだ。いま、そうだろうか、と首を傾げる。世界の涙の総量は増えつづけているかもしれない。▼万物の商品化。労働、教育、福祉、医療、冠婚葬祭、スポーツ、臓器、遺伝子、精子、血液、セックス、安全、癒し、障害者・老人介護。金銭に置き換えられないものを見つけるのは至難の業だ。では、物語、理想、夢、正義といった心的価値はどうだろうか。まさかここまでは万物商品化の力は及ぶまい、と判じるとしたら楽観的にすぎよう。モノの商品化をあらかた終えた現在では、コンテンツ産業の隆盛に見られるとおり、心的価値こそ資本主義の生き残りをかけた商品化のターゲットになっている。いわば意識または無意識の商品化だ。映像だろうが活字だろうが、あらゆる種類の物語をオン・デマンドで端末に配信するビジネスはもはや目新しくない。十月十三日(土)

眼の喜び
『スクラップ・ギャラリー』(金井美恵子・平凡社)から。▼マルセル・デュシャンは、マチスの絵について「マチスの色彩は、その場では把まえようがありません。あれは透明で、推察するに、ごく薄い色彩です。しかし、あなたが彼の絵の前を立ち去った後になって、はじめて、絵があなたを把えて離さなくなることがわかるでしょう」。あの眼をひきつけてやまない色彩と、色彩のなかに出現する曲線の形づくる平面の魅力はいったい何なのか。『赤いアトリエ』でも『桃色のアトリエ』でも、アトリエに置かれた、家具や彫刻や布やマットや絵は、キャンバスという平面の中で、もう一つの様々な平面を幾重にも形づくる窓=絵画として、類まれな色彩の喜びを、見る者にほとんど肉体的に感じさせずにはおかない。▼宗教画や歴史画に描かれている説明的な背景が後に風景画としてのジャンルを形成するように、静物画も人間や神格といった中心の主題に対する、いわば辺境に位置していた「物」が独立して一枚のタブロオとして成立することになるのだが、それは西洋の絵画史の通説では、カラバッジョにはじまる。宗教画の食卓の上のパンやブドウ酒や、ギリシャ神話を題材とした歴史画の、丸焼きにされた鶏肉や官能的な若者の姿をしたバッカスや少年と共に描かれた、カゴに盛られた果物は、やがて、キリストもバッカスも少年も描かれていない、あの死んだ自然であるカラバッジョの『果物かご』となるのだ。▼高橋由一『豆腐と油揚げ』、谷川潾次郎『乾魚』。日用品の置かれた空間の静かさこそが主題であるかのように、選ばれた物たちは「死せる自然」ではなく、はっきりと「静かな生」を穏やかに息づかせる構図。しかし、それにしても、これはいったい何なのだろう。『豆腐と油揚げ』の豆腐と油揚げ、『乾魚』の茶碗と汁椀と箸と丸干しイワシ。不思議な印象が、後々まで残る。十月六日(土)

儲けの裏側で
『偽装請負』(朝日新聞特別報道チーム・朝日新書)から。▼企業側においしいシステム。メーカーが、ある製品を低コストで生産したいとする。以前であれば、低賃金のパートか期間工を雇い入れたが、近年はもっといい方法を見つけた。まず人材サービス会社(=請負会社)と請負契約を結ぶ。契約の主たる内容は、期日まで製品を完成させ、納入することだ。従来の下請けならば自前の工場で製品をつくり、発注元に納めるところだが、偽装請負の場合は、自前の設備などいらない。請負会社がするのは人を集め、メーカーに送り込むだけ。あとはメーカーにまかせっきりだ。請負労働者が働く場所はメーカーの工場内。細かい指示は、メーカーの正社員が出す。偽装請負が違法とはしらない請負労働者は、この指示・命令に従うほかない。こうしてメーカーは雇用の義務や安全の責任を負わず、請負労働者を手足のように使って、低コストで自社製品の製造を続けるわけだ。その偽装請負の実態は、労働者派遣そのものだ。▼偽装請負が蔓延した理由は、本当の請負にはコストがかかるからだ。適正な請負では、人を募集し、技術を教えて、製造装置も自前でそろえる必要がある。当然、派遣に比べ、費用や時間がかかることになる。これに対し、偽装請負はずっと簡単だ。技術はメーカーから教えてもらい、生産設備も借りればいい。社会保険に加入させず、人材サービス会社側の費用負担を浮かすこともできる。メーカーは本当の請負に必要なコストを人材会社に払いたくない。偽装請負はいいとこ取りができる。▼なぜ、偽装請負に陥るのか。工場で社員の大量リストラが結果的に偽装請負を拡大している。リストラの穴埋めに請負労働者を投入する。社員と請負労働者が混在する。これでは偽装請負そのものなので、混在状態を解消するため、請負会社にラインを任せる。だが今度は、請負会社が仕事に習熟していないため、ラインがうまく機能せず、やむを得ず社員が指揮命令する。こうして偽装請負は、なるべくして拡大していった。▼これが勝ち組企業の、儲けの裏側ということです。十月一日(月)

八万時間7 (330)
▼特別養護老人ホームでは、袋のシール貼りなど数百円の内職を試みたり、希望者を募って厨房に入ってもらう。おしゃべりが好きな入所者には広報担当の役割を与え、施設見学者の案内役をつとめてもらう。あるいは入所者に呼びかけて、隣接するグループホームにおけるボランティアを募り、配膳や話し相手になってもらう。周囲によろこばれる役割は、その人を活気づかせる。福祉介護施設での上げ膳据え膳は、手足を退化させるだけとなる。寝たきりになると起き上がれなくなる。▼九十七歳ではあるが、大阪府高槻市内のマンションでひとり暮らしをしている男性がいた。ひとり暮らしで大切なことは「明日にたのしみをもつこと」という。図書館の日、洗濯の日、外食の日、病院の日など、一週間の予定を組む。さらに来週は食事会、来月は旅行、正月は孫たちと戯れるという具合に、先々のたのしみをもつようにしている。私があったころはパソコンの練習もはじめていた。「牛歩より遅い歩み。いかがなりますやら」と言って笑っていた。繰り返し言う。「やはり自由の方がいいですな。ひとりならひとりの自由がある。それがいい」と。その後、この男性は大往生をされた。▼最後のイメージ。地方の放送局のアナウンサーは、幼いころから絵を描いたり、鑑賞するのが好きで、局内でも絵画サークルをつくっていた。在職中、ヨーロッパ一周の絵画鑑賞ツアーに参加したものの、移動また移動の駆け足旅行であり、不満だけが残った。ゆっくり世界の美術館をめぐり歩く、という夢を年金の範囲内でやってのけるにはどうすればいいのか。夢を暖めているうちに、道が拓けてきた。日本の住まいを五年間という期限つきで貸し、ポルトガルにアパートを借り、そこを拠点にしてフランスやスペインへと旅すれば旅費は安くあがる。日本で得る家賃からポルトガルの家賃を引くと、現地で言葉を教えてくれる「家庭教師」兼「よろずコンサルタント」の女子大生を雇うことができた。こうしてヨーロッパのみならず、アメリカ、ロシア、エジプト、モロッコ、ブラジルへと飛び、世界二十七ヵ所、七十一都市を旅し、百二十七ヵ所の美術館を訪れている。たとえば南仏にはシャガール美術館、マチス美術館、シェレ美術館などがあり、そこから地中海沿いにわずかばかり電車に乗れば、レジェ美術館、ピカソ美術館などがある。だれに急かされることもなく、こころゆくまで泰西名画をその眼にやきつけた。「世界の名画は自分のものと思っています。それらは世界各地の美術館に預けてある。預けっぱなしではいかんので、いっぺん観ておこうという考えで動きまわりました」「いつかお迎えがくる。そのとき、私は頭の中に焼きつけたコレクションを鑑賞しながら、やすらかな境地で逝きたい」。身をゆだねる最後のイメージが描けたならば、気持は落ちつき、以後の活動も清々しいものになる。日々、心おきなくわが道を突きすすんでいける。九月二十九日(土)

八万時間6
▼多病息災その二。六十歳をすぎてからパソコン操作を習い、短歌づくりやインターネットによる交信を楽しむようになった女性がいる。この女性は四十九歳から「脊髄小脳変成症」という疾病とつきあってきた。しだいに運動機能が奪われていき、ついには歩行困難、言語困難、書字困難になる難病である。医師から「歩行はあと一年」と言われたのは五十三歳のとき。以来、毎朝五時から四キロ以上を歩くよう心がけてきた。医学からも見放されたことにより、自己流の発想によって納得のいくまでトレーニングを試みるしかなかった。歩くと気力も横溢し、翌年からは生まれて初めてのピアノにも挑み、バイエルの練習もする。二時間のピアノレッスンと七キロの歩行が日課となり、さらに水泳もはじめた。この女性が六十七歳のとき、私は広島市内の自宅を訪ねた。その後、病状は進行し、屋外の歩行は介助者なしでは不可能になっていた。しかし自宅内では手すりにつかまり、懸命に自力で歩いていた。医師によると「寝たきりになっていても、なんらふしぎでない」という状態を克服していた。歩くのは困難であっても、上半身はまだ大丈夫ということで、腕立て伏せに取りくんでいた。テレビで九十歳ながら腕立て伏せを百回、二百回をこなす男性を紹介され刺激された。ならばと自分も試みる。最初は床を転げまわっているばかりで一回もできない。どうにか五回できるまで十日間を要した。三ヵ月後には連続七十回、五ヵ月後には百回を超え、私が合ったときは五百回をやってのけた。「一、二、三…」と声をあげて体を上下させる姿を見て、私も驚くしかなかった。これほどまでに腕立て伏せにこだわったのは、パソコン操作をするために腕力を鍛えておくのがいいと考えたからである。すでに字を書くのが困難になり、本を読んでも胸をうった言葉を書きとめられず、好きだった読書も甲斐のないものになっていた。ところが病院の作業療法でパソコン操作を習得して、ふたたび書くよろこびを取りもどした。そして短歌も詠むようになった。いつまでも表現活動をしていたいという動機があって、腕立て伏せに挑戦したのである。九月二十二日(土)

八万時間5
▼六十歳をすぎて仕事や扶養義務から解き放たれると、なかには生きる張りを失ったかのように、気力まで萎えてしまう人たちがいる。そのようなとき、どこかに仕舞いこんでいた古酒の瓶を取りだし、静かに味わってみると、自分がどのように生きてきたかが確認できる。忘れ物を取りもどしにも行ける。▼新たな出会いを面白がりたいのであれば、定年後も個人名刺をつくるのがいい。「日本百名山挑戦中」と刷り込んでいる人もいたが、そうすることで自分を律しているのだろうし、初対面の人に話題を提供しているようでもあった。ここ数年、ホームページのURLやメールアドレスを強調するような名刺も多い。創作折り紙の教室を開設した元家電メーカーの技術者は、「折り紙で楽しみましょう」とか、歩行によって健康を取り戻したテレビ局の元管理職は「一日一万歩」でした。▼未来の共有。たとえば生命保険会社の元支社長が川崎市内に児童図書館を開設した。若い母親たちがボランティアとして協力している。主婦による研究グループ、成人学級講座、手づくり人形劇などが盛んに催されるなど、多くの人たちと未来を共有できることになった。独居老人や高齢者宅に手すりや段差解消のリフォームを行うNPOグループにも「土日であれば手伝います」と言って、大学生や現役サラリーマンが参加してきた事例もある。これから先、老いてから自分たちが安心して暮らせる地域にしたいという思いが、世代を超えて響きあった。趣味であれ、地域活動であれ、学びであれ、自分たちの活動に未来の共有という要素があるのかどうか、ぜひとも確認しておきたい。▼多病息災その一。定年の直前、通勤途上で倒れて「肥大型閉塞性心筋症」と診断された計算機メーカーの管理職は、不意の発作を恐れるあまり、再就職を断念して自宅中心のライフスタイルを構築していった。まずは慶応大学通信課程の文学部でフランス語を学ぶ。慶応の通信課程は、勉学がきびしく、卒業にこぎつける者はごくわずかにすぎない。文学部を卒業すると、つづいて法学部政治学科の通信教育を受けた。同時に自宅から歩いて通える東京経済大学の聴講生にもなり、「地域文化論」や「言語学」を受講した。さらにフランス語、ドイツ語、中国語の検定試験にも挑んだ。そうして地域社会では、ボランティアの日本語教師をつとめ、中国、韓国、ブラジルなど五十名以上の外国人に教える。九月十五日(土)

八万時間4
▼主夫の快楽。元商社マンは、定年後に時間を持て余したこともあって、はじめて台所をじっくり見つめ、未知の世界に吸い込まれていった。それからというもの、料理学校にも通い、料理を趣味にしている。在職中、家事など見向きもしなかったワンマン亭主が、定年後は主夫として妻を支える。めずらしい事例ではない。大阪府下にすむ元教師七十四歳の夫は、五年ほど前から妻がパーキンソン病を患ったことにより、スーパーでの買い物や調理に励むようになった。料理の本は二、三十冊買いこみ、イタリア料理にも挑む。料理だけでなく、大工仕事も行う。妻は緑内障も患い、左目を失明したこともあって、家の中でよく転ぶ。そのため廊下や階段、浴室などに手すりをつけ、室内の段差もなくした。▼妻の情報力。定年退職者を取材して気づかされるのは、妻がもたらす情報によって、新天地を拓く夫が数多くいるという事実である。妻は地域社会のあれこれやだけでなく、夫の性格や資質、潜在的な願望という情報も把握している。さらにいえば、妻の情報には、企業社会で利潤や効率を追求してきた夫に、それまでの価値観を見直させる発想が込められている。耳を傾けたい。▼旧・清水市の市民たちが創りだした「清見潟(きよみがた)大学」という市民大学講座は、二十年以上つづいている。百四十以上の講座が開講され、三千人以上の市民が受講する。運営はすべて市民。運営の中心となるのは「市民教授」たちである。「学ぶのも生きがいならば、教えるのも生きがい」という考えのもと、一般市民から教授を公募する。資格は必要ない。自分が教えたいこと(科目)にたいして、その講座に十名の受講者があればその講座は成立する。正真正銘の大学教授であっても、その講座に十名の受講者があつまらなければ、ここでは教授になれない。教授は講義だけでなく、塾生の名簿作成・管理、受講料の集金、修了証書の発行など、いっさいの事務もおこなう。人気のある講座のひとつに、五十歳以上の初心者にピアノを教える教室がある。このピアノ教室だけでも、毎年十数講座を設けている。楽器メーカーが真似て全国展開をしているが、あくまで嚆矢はこの「清見潟大学塾」である。この市民講座は、地元銀行員の役員、総合電気メーカーのもと技術者、ガス会社の元役員という、ほんのわずかな人たちによって企画された。これまで私が取材してきた数多くの地域活動についていえることは、まずは一人でいいから同士を得ることである。どんなに大きな活動グループでもその中核はほんの一握りである。二人だけだったという事例もめずらしくない。九月八日(土)

八万時間3
▼遅咲きの才能。それまで電気工事の仕事を請け負ってきた男性は、八十歳をすぎても働きつづけ、同世代の仲間たちから羨ましがられていた。当人はいたって元気だったのだが、先に妻が倒れた。男性は八十四歳のとき仕事をやめて妻の介護に取りくんだ。長くつづく逆境のなかでも、男性は胸をはずませていた。妻の介護をしながらも、一日二時間ほどであれば家を空けられるとわかり、近くの公民館で催される「万葉集」の講座を受講することにした。かねてから和歌には興味はあったが、このように学ぶことはなかったという。自宅にいても四千五百首の歌を繰りかえし読むようになる。そうするうちに歌のなかに動物が登場すると、カードに書きこみ、ノートの整理するように心がけた。こうして本邦初の『万葉集・動物索引』を自費で出版した。生まれて初めて八十八歳にして上梓した自著であった。つづいてすべての枕詞を拾いあげて、八十九歳のときに『万葉集・枕詞総覧』を、さらに『古今和歌集』『新古今和歌集』にまで手をひろげて、九十歳のときに『枕詞総覧第二集』を編み、そして記紀・万葉から中世までの歌集を網羅し、九十三歳のときに大作『枕詞辞典』の刊行・発売にこぎつけた。まさしく超高齢化時代の星である。▼電鉄会社の元管理職は、わずかでも英語を使ってマイペースの旅をしたいという、淡い夢を描いていた。しかし語学力といえば、テレビやラジオの英会話講座を受講しても理解がおよばず、投げだすありさまであった。このような自分に適した学習方法として思いついたのが、嫁いだ娘が残していった中学校の英語教科書を書き写すことである。わかってもわからなくても、ともあれ筆写する。一週間で三年分の教科書がノート一冊に収まった。これは何度も繰りかえして、英語を体に沁みこませていった。そうして六十四歳からは、ホームステイをしながらニュージーランドの語学学校にまず半年間だけ通う。その後、オーストラリア、カナダと、毎年のように半年ほどの留学をおこなう。七十歳にして二度目のオーストラリア留学に出かけたとき、現地の元中学教師と知り合った。知日家で日本語を勉強している。お互いリタイア組ということで意気投合し、相手は英和辞典、自分は和英辞典を持参し、元教師のジープでビクトリア州の奥地まで十一日間、二千キロの旅をした。「エクスチェンジ(交換)旅行」の実現である。九月一日(土)

八万時間2
▼生来、手先が器用で、工芸を趣味にしてきた市役所の職員は、退職後に自宅の一室で耳掻きを製作して、販売することを思い立った。インターネットで「耳掻き」を検索すると、数千件もの情報があって、熱い意見交換がなされている。耳を掻くことに無常のよろこびをおぼえ、マニアックといえるほどにこだわる人たちがいかに多いかを知った。こういう人たちにむけて、丁寧にこしらえた「マイ耳掻き」を提供すれば、迎えられると考えた。ネットで呼びかければ、買い手はつくと思われた。その作品を手始めに退職記念として友人・知人に贈ると、口コミで評判が伝わり、ホームページを立ち上げる以前に注文が殺到した。▼そもそもは敷地内に柚子の木が七本あったので、その実を削って市販の七味唐辛子に混ぜてみた。いっそう風味が増し、友人たちに贈ると評判もいい。以後、そのほかの材料にもこるようになり、七味唐辛子研究が趣味になった。そして定年後のささやかなビジネスにしようと考えた。ネット販売を見込んで、妻にはパソコン講座を受講させた。しかしインターネットを活用する以前に、販売ルートは妻の人脈から拓け、高速道路のサービスエリアなどに置いてもらえるようになった。▼浮世の雑音に惑わされることなく、好きなとき好きな場所で心ゆくまで絵筆をとる。そのためにはバイクで旅をする「スケッチ・ツーリング」が性分に合った。退職のとき家族がオフロードバイクを贈ってくれた。しかし使ってみると座席の位置が高くて、足がつかずバランスが崩れる。あるとき長野県を旅し、自分にふさわしいバイクを見つけた。起伏のはげしいこの町を、郵便局員がホンダのスーパーカブで快走している。蕎麦屋などが出前を届けるときに使う大衆的なバイクである。郵便局員は「安定感があり、エンジンは丈夫、山にも登れますよ」と言っていた。こうしてスーパーカブが旅の必需品になった。▼私のようなスポーツとは無縁できた者が心強く思うのは、この女性は還暦をすぎて卓球をはじめたことである。卓球にはまり、夢中になってラケットを振りつづけている。二〇〇六年現在、九十五歳で「世界ベテラン卓球選手権」にも出場して「世界一」を維持しつづけている。六十歳から新たな趣味に挑み、それによって「世界一」になるなんて、だれも思っていない。八月二十五日(土)

八万時間1
『定年後』(加藤仁・岩波新書)から。▼八万時間という財産。この数字を知ると、だれもがはっとさせられる。二十歳から働きはじめて六十歳で定年を迎えたとする、それまでの労働時間の総計は二千時間(年間労働時間)×四十年間=八万時間になる。この八万時間の報酬としてマイホームの購入、子育て、社内の昇進昇格をやってのけたことになる。では、定年後のんびりと過ごすことにする。睡眠や食事、入浴の時間を差し引くと、一日の余暇時間は平均して十一時間以上もある。八十歳まで生きるとすれば十一時間×三百六十五日×二十年間=八万三百時間である。これは会社で働いた時間とおなじ。この八万時間によって、これからは何を得ようとするのか。お金はちょっぴり、時間はたっぷり。八万時間はそれぞれの人生を熟成させるために設けられたと思いたい。▼サラリーマン時代はリハーサル、その後の人生が本番。お役に立てるなら何でもしたい。▼趣味三昧に飽き、もの足りなさをおぼえたJRの元駅長は、ふとしたきっかけから独居老人宅や高齢夫婦の家に、実費で手すりをつける日曜大工ボランティアの活動にのめりこんでいった。当初のプランを修正して本物になる。▼サラリーマン時代は、スケールの大きな仕事をこなし、成果をおさめたにしても、会社の看板や職場のシステムに支えられてのことであると承知している。しかし定年後は、自分の才覚によって、自分のできる・やりたい計画を押しすすめた。サラリーマン時代とは異なり、つねに「自己責任」のリスクがつきまとう。すべてを自分で仕切る。そのかわり責任を負う。だからこそ力が発揮できる。サラリーマン時代には味わえなかったロマンと快感がそこにある。▼「好きなこと」を見つけるには、自分自身とあくなき対話を重ねるしかない。▼自信とは、たったひとりで困ったり、悩んだりする体験を乗りこえることによって生まれる。大勢で神輿を担ぐようにして、なにかを為したにしても、そのよろこびがどれほど自信につながるのか。定年後は組織を離れたひとりの人間として再出発することになる。そのときものを言うのが、個人的な体験の蓄積であると、私は数多くの定年退職者を取材して教えられた。▼資格は、足の裏についた米粒にたとえられる。取らないと気持が悪いし、取っても食えないということである。▼新聞の折り込み広告やタウン誌に眼を通すと、二、三ヶ月間とか半年間とか、さらには週一日だけとか、短期間だけ手伝ってほしいという「スポット就労」とも呼ぶべき再就職先がかなりあることを知った。正社員やフルタイム就労にこだわると、絶望的な境地に追いやられる。それよりも、さながらネットサーフィンをする感覚でスポット就労を繰りかえして報酬を得ると、心労もなく、まだまだ自身に潜む「現役」も実感できる。八月十八日(土)

還暦の晴々
『先達のご意見』(酒井順子・文春文庫)から。▼心の深いところで、縫い物とか編み物って、セックスと同じなんだってね。穴に針を出し入れするじゃない。出し入れと言えば、私は刺繍が好きなんです。精神的に辛いときに、単純作業に集中すると、一瞬忘れられるというのがあって。たぶん世界中の女の人は、報われない思いだの恨みだのを一針一針に込めながら縫い物をしているのではないか。だからキルト展に行ったりすると、それは女の恨みつらみの集大成なのだろうなと思う。▼男性にも「負け犬」はいるはずなのに、自分を客観視できないから、『負け犬の遠吠え』は書けない。本当に負け犬根性が染み込んで、手当たりしだい人を噛みまくるか、オタクのように最初から勝ち負け関係ないところで生きているか。なんで女性だけは独身だと、「結婚しないの」って問い詰められないといけないのだろう。▼源氏がよく言いますね。女を口説くとき「こうなるのも前世からの定め」、別れるときも「別れなければならぬもの前世の定め」って。▼田辺聖子の、かもかのおっちゃんが「朝ごはんだけはちゃんと食べさせたってくれ。朝ごはん食べると、大人は不倫せえへんし、子どもは非行せえへんのじゃ」って言うから、朝ごはんだけはね。▼結婚もそうかもしれない。勢いで何もわからないうちにしてしまうか、すべてわかってからするか、両極端なんじゃないかって最近思うんです。今の時代、結婚したらすごく大変なんじゃないか、負担が増えるんじゃないかと、つい腰が引けるという感じなんですよね。昔より「結婚しなさい」という社会的な圧力が格段に減っていますし。▼観てないですね。ドラマ自体をまったく観ない。生活の中にストーリーを必要としない、というのは私の一つの敗因のような気もしますが。▼上坂冬子はいう。私の経験で言うと、女は五十歳すぎるまで結婚願望は衰えませんよ。もしかしたらダメかもしれないと実感したのは還暦を迎えたころで、七十をすぎたら日本晴れ。ここまでくれば、迷いも期待も、ついでに可愛げも愛想もなくなって晴れ晴れします。還暦すぎれば迷いも期待もなくなって懊悩から抜け出すわよ。▼皆様のお言葉を杖として、これからも人生流浪の旅を続けていきたいと思います。八月十一日(土)

虎の肩こり
『銀齢の果て』(筒井康隆・新潮社)から。筒井ワールドは、団塊世代が背負うだろう老人バトルへと踏み込む。▼厚生労働省の中央人口調節機構の処刑担当官で斉木と申します。ご承知のように二年前から全国で実施されております老人相互処刑制度、つまり俗にシルバー・バトルと言われておりますこの殺し合いは、今や爆発的に増大した老人人口を調節し、ひとりが平均七人の老人を養わねばならぬという若者の負担を軽減し、それによって破綻寸前の国民年金制度を維持し、同時に、少子化を相対的解消に至らしめるためのものです。とのご託宣どおり相互処刑が始まる。鎌をもったバアサンがごつい。▼つぎは『壊れかた指南』(筒井康隆・文芸春秋社)の「虎の肩こり」から。わしがのう、先年、インドへ言ったときのことじゃがのう。密林の中をひとりで歩いておると、突然、虎が出てきおってのう。わしに襲いかかってきおったのじゃ。虎はわしを組み敷いて、わしの喉笛を噛もうとしおった。わしゃ、そうはさせじと、下から虎の肩を両手で突っ張った。その時じゃ。わしのいつもの癖が出てのう。いや何。肩を凝らしておる人を見ると、つい、揉んでしまう癖じゃよ。虎の肩が凝っておったので、つい、二、三回、ぐいぐいと揉んでやったのじゃ。すると虎のやつ、心地よげに眼を細めよってのう、もっとやってくれというように、そのままじっとしておるのじゃ。で、わしはさらに揉んでやったが、下からじゃと、どうも揉みにくい。「えらい凝っとるのう」と、わしは虎に言うた。「もっと揉んでやるから、腹ばいになりなさい。そしたら貴公の背中に乗って、肩を揉んでやろう」。虎がおとなしく腹ばいになりおったので、わしはその背中にまたがって、ぐいぐいと力を込めて揉んでやった。虎の生活というのも、なかなか肩が凝るものらしい。凝りに凝りに凝っておった。力まかせにぐいぐいと揉んでやると、虎は眼を細めて、猫みたいにごろごろと喉を鳴らしておったがのう。しかし何しろ虎は、どでかいからだをしておる上、肩凝りも並たいていものではない。わしも先を急ぐ身じゃ。ではこれにて、と、虎と別れようとしたが、虎は猫のように行儀よくすわって、じっとわしの顔を見つめおる。もっと揉んでほしいらしいのじゃ。「そんなら、わしを背中に乗せて、この先の町までつれて行け」と、わしは虎に言うた。「道中、首のうしろを指圧してやろう」。虎はわしを背中に乗せて、歩き出した。わしは虎の首根っこのあたりを、力をこめて押さえてやった。そのうち、わしは町に着いた。町は大騒ぎじゃったぞ。インドの和藤内じゃと言うてな。日本の新聞にも載った筈じゃがのう。八月四日(土)

家族5
▼私も社会主義圏に行ったとき、団地を見ました。まさに労働者住宅、家畜小屋です。実に見事に、何の粉飾もなくむき出しの姿で労働者住宅が林立しているのが社会主義圏で、資本主義圏はそれをパッケージデザインで粉飾して労働者の欲望の対象にしましたが、理屈は同じことです。結局は自分の一生を抵当に入れた社畜すなわち労働奴隷でしょう。働かされているのに、自発的に働いているとカン違いしているだけで。住宅の価格の設定の仕方が生涯賃金とちょうどうまくバランスがとれるようになっていて、何という巧妙な装置であろうかと思いました。日本にも隈研吾さんの「一生を抵当にいれて、持ち家を取得する」住宅私有本位制資本主義という卓抜な命名がありますが、そういうことです。▼八〇年代の家族論で出てきたのは、家族の個人化という議論でした。独立した個人の集合からなる家族という概念は一時期トレンドでした。特に近代的自我の確立とか、個の自立とか言われましたが、私は早い時期から、自立、自立っていいすぎると「ジリツ神経失調症」になるよ、といってきました。すべてが個別化した果てには、個人化したセル、つまりワンルーム・プラス公共施設があればそれでいいのか。そうじゃあるまと思います。セックスなんて特定のパートナーに限定される必要はありませんから、必ずしも家の中でやる必要はない。隠すべきはセックスではないわけです。「私」の領域に、封じこめられたものは実は育児・介護、つまり再生産機能です。子どもや老人という依存的な存在を抱えこまなければ、家族は個族的存在でありえます。夫婦だって別居した二つの単身世帯だってかまわない。となると最後に残る問題は、依存的な弱者をどうするかということだけです。人が共に暮らさなければならない意味は、最後にはもうそこだけという話です。▼家族という単位が自己充足していたら、その家族がさらに集まる意味なんかどこにもない。家族が破綻しているからこそ、その家族が集まることに意味があるのではないかという逆説もありますが。▼近代家族というものは、それがスタートした時点から「積みすぎた箱舟」だった。ココロは出帆したときから、座礁が運命づけられていた。家族は昨日今日、機能不全になったわけではなく、かつてだって機能していたとはいえません。▼計画学の「計画」というのは、社会主義の思想ですよね。市場原理というのは計画をギブアップした人たちが思いついた、自動制御のメカニズムですよね。計画というものは、必ずや現実によって裏切られ、うまくいかないものです。▼戦後の持ち家政策の中では、住宅の価格設定が、誰かの陰謀ではないかと思うくらいよくできていますよね。年収の三倍から五倍で、金利を入れると生涯賃金の約三分の一くらい。ローンを払いおわるまでは、絶対会社をやめられない。家族を解散できない。実にうまくできたシステムだと思います。▼私たちはいろいろな予測をする時に、見えない未来に網をかけるよりも、現実のなかにすでに登場している変化の芽を見抜くように努力します。戦略的なターゲットを設定して、マクロな市場調査ではなくて「パイロット・サーベイ」をやる。▼つくり手にとってはハコは完成したときが終わりだが、住み手にとってはそれからが始まりである。しかし、住宅の住み手と住み方が、ここにきて急速に変化してきた。七月二十八日(土)

家族4
▼住宅の中の夫婦寝室そしてダブルベッドというのは、一夫一婦制とセックスは絶対一致の、西欧的な近代家族の規範の中心にあった。それが日本の住宅の場合は洋風化しているようですが、夫婦寝室では、西欧化というコードに従えばダブルベッドでなければならないのに、その普及率は低い。狭くてもツイン型なのです。そこには家族のタテマエと現実のズレがあり、タテマエでは夫婦はセックスをしなければならない。ところが現実では日本の夫婦の結びつきの中心にセックスはない。妥協策として「寝室空間は共有、ベッドは分離」というツイン型の解決になったのではないかという仮説をもっています。▼夫婦別寝室になると、いろんなことを自覚的にやらなきゃいけなくなることの一つにセックスがあります。それまでは勢いとか成り行きでできたものが手続きと同意が必要になる。具体的には頻度が減るそうです。▼コミュニティの原形は家族ですが、その家族は破綻しています。「気の合わん隣と仲良うせんでもええやろう」「家族やからというても仲良うせんでもええやろう」という話までいきます。介護保険制度は、家族が仲良くなくても成立するシステムです。▼住宅の作品よりモデルをつくってほしい思う理由は、介護保険でこれからどんどん他人が家の中に入ってくる。そのとき家の仕様が標準化され、だれでも使えないと困る。最近の住宅はまさに装置で、分厚いマニュアルを読まないと風呂ひとつ入れない。これではお年寄りは住めません。スイッチの位置や空間配置など、だれが来ても推測できるようにしないと他人は入れません。だから私は建築家に個性的な住宅なんか作ってほしくないのです。▼マンションの住人は、財産コミュニティという考え方をしている。居住者は、過去も経験も人生観も共有していない。共有しているのは財産としてのマンションだけなのだが、これを廊下を街路と考えて、ラボやオフィスの機能を廊下に面したり、お年寄りのグループホーム的なものを、廊下に面する側に配置したり、その奥に個室があるような配置の住宅設計は考えられないのか。▼社会学ではソシオグラムという社会関係図がありますが、同じマンションのネットワークをみますと、必ずしも階段室同士とか、同じ住戸の単位ではつながっていない。住居の近接とは別の原理で選択されています。これを「選択的コミュニティ」と呼びたい。地域という言葉は誤解されやすいので、これを使わずにすむ方法として「選択縁」を考えた。七月二十一日(土)

家族3 (320)
▼パラサイトシングルがなぜ結婚しないかというと、結婚するとソンだから。そのココロは、男はお金の自由を失い、女は時間の自由を失う。▼近代家族を入れる居住空間を考えると、食寝分離、すなわち近代住宅の中でセックスの空間をいかに確保するか。近代住宅のモデル、nLDKは、家族の人数マイナス1であると。ここに近代家族を入れるハコの謎があります。つまり、マイナス1というのは夫婦同寝室が前提となっていて、現実に夫婦の間にセックスがあろうがなかろうが、規範としてやってますと外に示す必要があった。性別分離、食寝分離という、性に対して意識的な空間デザインが西山卯三の悲願だったわけです。しかしそれも解体してきたと。住宅という空間が、セックスと必ずしも結びつく必要がなくなってきた。その機能がアウトソーシング化してきたといってもいい。▼個室群住居の極限的な形態は、寮とか刑務所です。つまり独房、つまりシングルセルにパブリックスペースが直接つながっているというタイプです。それに対して、「イエスの箱舟」的な暮らし方のスタイルがあります。雑魚寝型というか、コミューン型ですね。シングルセルになればなったで、パブリックとプライベートが直接むき出しに接するホテル型ではなく、寮の共用キッチンのようなコモンの空間に対するニーズは高まるでしょうし、その集団が、家族である必然性はなくなるでしょう。▼家族が多様化し標準世帯が少数化していることからも、住宅の選択肢がもっと増えていい。実際には高齢者世帯や単身者世帯が多いのだから。建築家の世界には作家主義、作品主義があるが、住宅のモデルに個性なんかなくていい。家族の拡大期にだけ対応するのではなく、家族の縮小期にも対応するモデルをつくっていただきたい。住宅は今も、食って、寝て、育てる場所としか考えられていない。それだけでなく、生産のための空間、さまざまな作業場であるとか工房の機能、ラボ機能を含むものであってほしい。今や女性向けの就労機会が近くに組み込まれていないようなニュータウンには誰も引っ越してきません。なぜかというと、どこに住むかを決めるのは主として妻がもっているからです。パートタイムのような就労形態をとる女性は、通勤時間がだいたい三十分までで、職住の近接を組み込まないと、ニュータウンに居住者が入ってくれない。また、標準世帯が少数化したということは、育児・介護の機能は住宅の内部にとどめることができなくなったということを意味します。介護保険は介護の社会化を実現しました。つまりコモンの空間に育児・介護の機能を組み込まざるを得ません。いいかえれば、住宅というユニットは、もはやユニットとして完結しないということです。そのようなコモンの空間は、もはや地縁ではなく、選択縁とならざるを得ないのです。七月十四日(土)

家族2
▼私は今、田舎暮らしの定年退職後の移住者の方たちとおつきあいしているんですが、「娑婆じゃ何をしていらしたかは存じませんが」という感じなんです。昔こんな仕事をやっていましたという人は嫌われます。おつきはいは、今、一緒にいて気持いいかどうかだけが大事。▼婚姻は、自分の身体の性的使用権を排他的に相手に独占させるという契約です。しかも終身契約ですね。第三者が使用した場合、財産権の侵犯になる。民法上の賠償責任が生じる。ですから、これは性のモノ化。できない約束はしない。私はそのために結婚しなかったのです。▼女性の場合、「男にもてたい」という下心を失った時点で「おばさん」化し、かえってのびのびと生きていけます。男性の場合は、「おやじおばさん」のモデルはもうあります。たとえば永六輔さん、天野祐吉さんなんか、いい感じですし、ああなると、かえってもてるんです。▼私たちの世代はまだカップルに対する幻想が強かったですが、今の若い子にはそれがない。最初から茶飲み友達。セックスに対する考え方もずいぶん違ってきました。マスターベーションも、「相手のあるセックスの代替物ではない」と認められるようになってきた。性交が自己と他者身体との関係なら、マスターベーションは自己と自己身体との関係ですから別なものです。だから、異性間の性交ばかりを特権的なものにしなくてもいいのです。▼家族になることや子どもをもつことは趣味としてあっていいが、規範であってはおかしい。▼八〇年代半ばに夫婦別寝室の流れが顕在化しはじめた。子育てを終えた四〇代以上の人たちは、子どもが出ていった後の空き部屋を、妻が寝室にしたり、あるいは夫の書斎にソファベッドを持ちこみ棲みつく。年配の夫婦の別寝室化は、だいたい妻からの要求です。家庭内別居で婚姻は継続、そこまでして関係に執着する理由は、妻は「食べていけない」から、夫の側は老後の「みとり保障」がほしいからです。▼「家族である」ことは二四時間営業です。それに対して「家族をする」ことはパートタイム、サムタイム(時々)でしかない。男性は、通勤途中は市民、会社では会社員、不倫をしていれば男、と二四時間のうち人格が分割されています。今は女性も同じで、専業主婦でも「サムタイム・ミセス」、一歩外にでれば「ライク・ア・シングル」(独身のように)。家族全員が虚構を演じているわけです。▼少子化と子ども部屋のおかげで、他人との距離をおく子どもが育ってきた。ひとりっ子どうしの結婚が増えると、「結婚したいが同居したくない」という空間感覚をもつのは不思議じゃない。密着してセックスする関係より、最初から「茶飲み友達」。結婚はこれまでのように生活保障ではなく、「癒し」としての要求はあると思う。親世代が考えていた結婚の姿、「身も心も」の一体化とはだいぶ違いますが、それでいいじゃないですか。同寝室や同居が夫婦の条件でなくてもいい。七月七日(土)

家族1
『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(上野千鶴子・平凡社)から。▼二〇世紀は「家族の世紀」だったかもしれない。だが、家族を中心に自分の人生設計を立てることは、超高齢社会には間尺に合わなくなってきた。家族の世紀とは、子どもをたくさん産んで親業にあけくれているあいだに一生が終わり、配偶者に先立たれあとの長い老後などを考えなくてもすんだ人口学的近代の過渡期にだけ、成立した現象だといってもよい。このところ少子化の原因探しのなかで、若者の晩婚化・非婚化が注目されている。三〇代前半で女性の非婚率は三割近く、男性は四割。四〇代になっても非婚男性は二割近くいる。これにシングル・アゲインが加わる。生涯非婚者は人口の二割近くなるだろうという予測されるが、逆にいえば、それまでの「全員結婚社会」が異常だったともいえる。▼わたしはずっとシングルで子どもも産まなかったが、三〇代も終わりに近づくとそれまで子育てで離れていた友人たちが、泊りがけで温泉旅行をしようと寄ってくるようになった。五〇代にもなると、夫に死別離別した友人たちが、海外旅行に誘いをかけてくるようになった。日本には「後家楽」ということばがあるが、夫のいないひとり身の女はわが世の春だ。▼シングルは孤独、という思いこみはうそだ。家族とつき合わない分だけ、友人たちと深いつながりをもっている。老後は不安、も正しくない。子どもの数がひとりやふたりでは、老後の不安は子どもがいてもいなくても同じ。なまじ子どもに頼ると、かえって子どもの生活を破壊し、親子関係がこじれるもとになる。いずれにしても、いつかはシングル、になるのが誰の人生にとっても避けられないなら、シングルを基本にした人生と社会システムの構築が求められよう。そう考えれば、年金や税制の世帯単位制は、いかにも時代遅れである。家族給型の賃金制度も、不合理である。七月二日(月)

はい、泳げません
『はい、泳げません』(高橋秀実・新潮社)から。▼泳ぎのこつ。水をかこうとしないで下さい。水をかかずに押さえるんです。水を押さえて、体重移動で前に進むんです。▼息継ぎのこつ。息は吐くことが大切です。吐き切れれば吸えます。つまり呼吸とは収支でなく賃貸なのです。吸うは借り入れで、吐くは返済。ちょっと借りて、きれいに完済する。重要なのは、必ず完済してから借りること。完済せずに借り増しすると雪だるま式に借金がふくらみ、身動きができなくなります。それに呼吸は、腕が伸びて胸が開けば勝手に息が入り、胸を閉じれば勝手に出て行きます。▼体がだるい、肩が凝ってなどと不調に感じているくらいの方が、水中では軽くなれる。体調万全でやる気を出して無駄な力と水しぶきで皆に迷惑をかけるより、力を抜いてきれいに泳いだらいい。200mを超えたあたりで、スイマーズ・ハイになる。大脳から麻薬物質が分泌されるらしい。恍惚状態ですね。▼泳がないで下さい。泳ごうとするから、手足がどうした、息継ぎがどうした、あれもこれもと焦るのです。伸びるだけでいいんです。手の指先、肘、腰、膝、足首、つま先。これらが全部伸びると一本の線になります。こうすると水の抵抗がなくなり、壁をちょんと蹴るだけでプールの半分は進みます。それじゃ、立ったまま両腕を前へ伸ばして下さい。もっと伸ばして。はい、力を抜いて。腕はだらんと「く」の字になった。それをそのまま後ろに伸ばせばいいです。テキストなどを読むと「腕を曲げS字状に動かす」と書かれているが、曲げる必要はない。いったん伸びれば、力を抜いた途端に勝手に腕は曲がるのです。足も同じです。蹴らなくていいんです。足ではつま先だけが下を向いている。それをどうするかと言えば、力を抜いて膝を少し落としてやると、つま先は水面上でまっすぐ後ろに向きます。でも今度は膝が曲がってしまうので、またまっすぐに伸ばさなくてはいけません。そこで膝をまっすぐに伸ばすと、足全体が下向きに沈んでしまいます。横から見ると「へ」の字になるんです。こうなると腰が曲がってしまいますね。ですから今度は、腰をまっすぐに伸ばす。人の体は完全にまっすぐには伸びない。そこでたるみをリレーするように「まっすぐになろう」とするのです。そうすると足さばきはムチのようにしなって、美しくなる。要するに水泳とは、何もせず力を抜き、伸びる、伸びるだけです。▼ところでなぜ、これだけの原理で前に進むのだろうか。それはジャンプと同じなんです。陸上でジャンプする時、いったん体を曲げ、力を抜いてから体を思いっきり伸ばすでしょう。そうすれば高く飛べる。それと同じ原理です。水の中でジャンプするんです。向こう岸に向かって飛ぶ。一回で飛べればいいが、それは無理なので何回か飛ぶ。飛んだら縮んでまた飛ぶ。これを両腕同時、両足同時にやるのが平泳ぎで、左右交互がクロールということです。▼足は動かさない。揃えようとして体を動かしているうちに、ちょっと開いちゃいますね。そうしたら閉じればいいんです。体が左右に揺れていれば、角度が変わるので蹴っているのと同じことになるのです。もう何もしないで上半身だけ、ゆっくり伸びる、伸びるを繰りかえす。すると、足の方がふわっと浮いてくる。ゆらゆら、ワカメのようにゆらゆらしてくる。揺りかごにいるようで眠気がこみ上げる。ああ楽ちん。このふりに合わせて腕を交互に後ろへ送ってやればいい。水泳ってたのしい。▼取れないコップが取れる。腕を伸ばしても腕の長さ以上には伸びない。体をひねると取れる。脇の下から腰にかけて張っている筋肉、外腹斜筋を伸ばす。わずかながら届かないコップは、届かない反対の肩を引くと、体が開いて、さらに3cmは伸びる。もちろん息もしやすい。これが水泳です。力は入れない。脇を伸ばして体をひねる。これが水中で力を生むんです。▼一般に水泳は、腕を伸ばし、肩を回し、足で蹴って進むものと考えられている。しかし、桂コーチによれば、それらは見た目の結果にすぎない。全身の力を抜き、脇を交互に伸ばしながら体をひねる。これを繰りかえせば、結果は自ずと表れる。きれいな泳ぎですねと人に言われたら、こう答えればいいんです。いや、泳いでません。伸びてるだけですよ。▼プールは晴れ舞台なのです。速さではなく、美しさを競演するのです。六月二十五日(月)

人は人に会って人になる
『吉本隆明「食」を語る』(宇田川悟・朝日新聞社)から。▼名訳だと言われているものはたいてい一人で訳したもので、そうじゃないものは下訳してもらったのを集めたもの。だから小林秀雄のランボオの訳は名訳だと言われる。田村隆一みたいに大胆な人は「原作より良けりゃいいんだよ」って言う人もいる。▼僕らでも、テレビを観ていて歌い手の人なんか出てくると、この人は音痴なんだけどいつでも本気でやっているなっていうのと、そうじゃない注文がきたときだけやってるなというのは、なんとなくわかりますね。物書きも同じで、ちょっと入院したりして帰ってくると、もうなんとなく全部億劫だみたいになっちゃって、もとに近いだけ回復するだけで大変です。こういうのって文芸もそうだけど、才能の問題じゃないと思いますね。才能は瞬間的な働きはするんだけど、それが長く持続するっていうことは考えられない。逆に、持続できたらあんまり才能がどうだっていうことは意味がないっていうふうになっていく。才能の問題で言えば、文学の便利なところは、誰でも十年書いていれば一人前になります。これは才能には関係なく、一般論として言えます。それと、初期に書いたものというのが物を言ってくるんです。初期に書いたものは誰だって幼稚なわけですけれど、要するに書いている内容が大事なわけで、大事なことを書いている。文学と違って文芸は手を動かすことが大事なんです。毎日手を動かしていれば、間違いなく一丁前の作家になります。▼自分が年とってからなんとなく分かるんですが、お年寄りが寺みたいなところによく参るとか、縁日に熱心に行くというのは、今年もまた来られたな、まだ生きているなって、そういう感じじゃないかと思います。ここに来られたというのがひとつの目安になって、また来年も来られたらいいなみたいなことでしょうかね。▼フランスでいうとミッシェル・フーコーの考え方、日本で言えば親鸞の考え方ですが、老いまでは自分のものだけど、死は別もの、人のもんだ、自分のものじゃないっていう考え方ですね。生きてる間は生きるための算段をするのが妥当でしょう。▼散歩っていうのも、やっぱり日本人は苦手なんです。花見なら行くんですが、なんの目的もなしにふらふら歩くってのは苦手なんです。初めて近代的な西欧並みの意味の散策を始めたのは、国木田独歩なんですよ。『武蔵野』なんて、そこら辺りの郊外の町を歩いて人の庭に入ってみたりとか。そういうのをやった初めての人ですね。▼さて話は変わって、藤原新也は二十年間のあいだに四度ほど四国巡りをした。それは寺巡りではあるが、実は人との出会いによって学ぶことが巡りの意味のようにも思えるという。「流人の世は出会いかもしれない。人は人に会って人になる」。六月十七日(日)

仏教の系譜5
▼浄土、日蓮と並んで、鎌倉時代のもうひとつの仏教が禅です。禅は中国の宗の時代に発達し、道教と結びついて独自な仏教を育てた。禅はどういう教えかというと、個人が仏になる。仏像に彫った仏さんは本当の仏さんじゃない、仏は自分である。すごいことを言ったものです。空海も自分は大日如来であると言いました。一木一草の中に大日如来がいるとすれば、自分の中にもいる。だからいろんな修行をして大日如来と一体になるのが密教の悟りです。しかし禅ではもっと端的で、仏というのは客観的に存在するものではない。だから寺院もいらない。仏像もいらない。仏というのは自分である。自分が仏になる。そのためにはどうしたらいいか。お寺にいくと、羅漢さんというのがあるでしょう。どれも個性的な、けったいな顔をしている。みな、違う顔をしている。一緒ではいけないんです。羅漢は禅の悟りをひらいた自由人なんです。自分が羅漢さんみたいな個性的な自由人になる。それが禅の仏教です。▼そういう人間になるには、二つの方法がある。ひとつは公案です。師匠が弟子に、いろいろ公案を出して、弟子がそれに応える。同じ答えを出したら落第です。人の真似じゃだめで、独自の答えを出す。そこでとっさに師匠を驚かすようなことを言うと、「おまえは悟りをひらいた」ということになる。だから禅問答というのは、落語なんかではちんぷんかんぷんということになっている。もう一つの方法は座禅です。座禅をしている人の姿は、釈迦と同じ姿です。釈迦と同じ姿で瞑想することで釈迦そのものになる。これが座禅の精神です。▼鎌倉時代の禅は栄西(えいさい)が始めた臨済宗です。栄西の臨済宗は鎌倉武士と貴族の間に流行った。臨済宗では、自分が一切の執着を捨てて仏になることを目指します。人間は本当に無である。その無にめざめたら、覚悟ができ、勇気が出る。だから鎌倉武士たちは臨済宗を愛した。道元が始めた曹洞禅(そうとうぜん)は、室町時代に農村へ浸透していって、檀家がいちばん多い。浄土真宗に匹敵するくらいの力をもっている。▼以上が、うめはらおじいちゃんの中学校での仏教授業でした。六月十六日(土)

仏教の系譜4
▼法然は、賢い人か金持ちしか極楽へ行けないというのは、仏教の平等精神に悖(もと)ると考え、いろいろ経典を調べたところ、唐の時代、七世紀の僧で善導が「南無阿弥陀仏」といえばよろしいと言っているのを見だした。しかも誰でも極楽上に行ける凡夫往生を教えとした。女人も悪人も往生できます。そうして法然の浄土教はいっきに広がります。知恩院とか百万遍にある知恩寺が浄土宗の本山です。法然にはすぐれた弟子が多くいますが、なかでも個性的な弟子として親鸞がいた。▼ところがその親鸞はあえて、戒律は必要ないということで肉食妻帯に踏み切ったんです。それまではお坊さんの奥さんのことを隠語で大黒さまといったり、お酒のことを般若湯(はんにゃとう)と言ったりしていた。親鸞は流罪体験から得た深い思想を詩的に漢語や和語で表現しています。親鸞は親しみやすく、おそらく日本でいちばん人気のある仏教者でしょう。九十歳まで生きました。唯円という弟子が、親鸞の言行録をまとめたのが『歎異抄』です。親鸞の女系のひ孫に覚如(かくにょ)という人がでて、本願寺教団をたてた。その後、室町時代に覚如の子孫の蓮如によってさらに大教団になった。本山はみなさんご存知の、東本願寺と西本願寺です。▼日本の仏教を始めたのが聖徳太子です。それを受けついだのが最澄。聖徳太子と最澄の仏教は法華経中心の仏教です。法華というのは蓮の花です。人間は煩悩をもっていながら、美しい蓮の花のような悟りの花を咲かせることができる。そういうことを説いた教典です。この法華経を根本の経典するのが天台宗ですね。日蓮はその天台宗の本山、比叡山延暦寺で学んだ。それなのにいまは法華経の信仰が衰えてしまった。そしてあらぬ宗教が出てきている。いちばん悪いのは浄土教だ。空海の密教も悪い。新しく興った禅も悪い。日蓮は、法華経の信仰に戻らなくちゃならないと、法然を批判します。日蓮は、法然の「南無阿弥陀仏」の念仏のかわりに「南無妙法蓮華経」ととなえるお題目を信仰の中心においた。そしてお題目をとなえるには、うちわ太鼓というのを、ドンドンドンとたたく。景気がよく元気がでる。浄土教では念仏をやるときは鉦(かね)をたたきます。いずれにしても親鸞は法然の影響下にありますね。六月九日(土)

仏教の系譜3
▼関東では、不動信仰が強く、関西はどちらかというと観音さまの信仰が盛んです。観音さんはやさしい、苦しんでいる人を救う仏さんですが、不動さんは外の悪い奴と内の煩悩を退治する厳しい仏さんです。▼東寺の講堂の仏像はぜんぶ木彫です。日本の仏像は平安時代になってからは、ほとんど木彫仏になった。奈良時代には、金銅仏という銅でつくり金メッキした仏像、あるいは乾漆仏(かんしつぶつ)という漆を固めてつくった仏像。それから塑像、泥でつくった仏像が多くつくられた。石像もたくさんありますが、平安時代には仏像はほとんど木彫仏になり、その後もほとんど木彫仏です。これは木の文化と仏教が結びついたということです。木はもともと聖なるもので、そこには神さまがいるというのが昔からの日本の信仰です。それと仏教が結びついて、木でつくった仏像が信仰の中心になる。これは神と仏が結びついた、つまり神仏が習合したことを意味します。▼空海の思想は深い、隠れた教えとしての密教で、曼荼羅を崇拝します。曼荼羅は図形で思想を把握するというものの元祖といっていいと思います。思想を表現するには時間と空間の二つの相で表現することがありますが、空間表現が胎蔵界曼荼羅、時間的な表現が金剛界曼荼羅。あるいは女性的な表現が胎蔵界、男性的な表現が金剛界という解釈もあります。曼荼羅というのは仏さんが集まっているんですが、世界を調和的に考える。東洋の思想は、世界を闘争的に考えない。密教の思想は闘争があることは認めながら、世界を調和的に考える。調和がいちばん大事だという思想を、曼荼羅は持っているわけです。▼曼荼羅の真ん中にいるのは大日如来です。これは宇宙の本質です。ところが密教では、人間もまたひとつの宇宙で、大日如来が宇宙の真ん中にいるが、自分自身の中にも小宇宙がある。密というのがそうですが、密を人間はみなもっている。だから自分が目覚めたならば大日如来と一体化できる。そういう考え方ですね。みなさんばかりじゃなくて、虫にも草にも大日如来がいる。世界はすべて大日如来の表れ。特に平安時代には、不動明王が大日如来の表れとして、不動信仰が流行したんです。▼密教において、もうひとつ大事なのが即身成仏という考え方です。自分は大日如来と同じだ。自分の中に大日如来がいるから、自分が大日如来一体になることができる。密教では加持祈祷をします。加持祈祷で大日如来の力が自分の力になり、そこで人間は大きな能力を発揮することができる。雨というのは稲作農業にとってもっとも必要なもので、空海はしばしば雨降りの祈りをした。祈雨は密教の大事な行事です。空海は雨を降らす天才であったんだと私は思っています。六月二日(土)

仏教の系譜2
▼平安京の大通りは朱雀大路ですが、その南の門が羅城門で、その門の脇に東寺と西寺(さいじ)という都をまもる寺がつくられた。この東寺をつくるのを嵯峨天皇は空海に任せた。空海は彼独自の思想を表現するように仏像を配置した講堂をつくった。講堂には二十一体の仏さんがありますが、これは四つのグループに分かれます。まず如来。如来というのは仏さま、悟りをひらいた人間です。次が菩薩。菩薩というのは、これから悟りをひらく、いわば如来の候補者ですね。それから明王。これは如来や菩薩を守る仏です。最後に天部(てんぶ)ですが、これは多くは仏教以前のバラモン教の神さまが仏教のなかに入ったものです。▼まず、如来はどういう形をしているか。如来には釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来などがあります。如来は形を見れば分かります。髪の毛が天パーマで、体には装飾具を一切つけていない。悟りをひらいた人間は装飾具をつける必要がない、裸のままでよろしいというのが如来さまです。ところが大日如来は、王様の冠をかぶっている。そして天衣(てんい)を着たり、いろいろ装飾具をまとっている。これは密教が現世(げんぜ)肯定だからです。もともと仏教は、現世を否定していましたが、最後に肯定をするようになった。それが真言密教だった。その中心仏がマハ毘盧舎那仏、つまり大日如来です。▼如来がどういう如来であるかを知るには指の形をみればよろしいのです。それを印といいます。掌(てのひら)を外にして右手をあげ、左手も掌を外にして前に突きだしている。これは与願施無畏(よがんせむい)という印で、右手は「お前は苦しんでいるけれども、大丈夫だ」と、よしよしとなだめる形の施無畏印、つまり無畏(むい)、畏れのない状態を与える印です。左手は、あなたにこれをあげましょうと、ものを与える形での与願印です。こういう手の形をしている仏があったら、お釈迦さまと思えばいい。▼両手を前で組んで、掌に薬壷を載せているのは薬師如来です。阿弥陀如来は両手の親指と人差指でそれぞれ丸をつくっているんです。これには三種類あって、この丸をつくった両指を前で組み合わせたものを常印(じょういん)という。これは阿弥陀さまが瞑想している姿をしめす。そして両手を上にあげる形は阿弥陀さまが説法している姿をしめす。右手を上に上げ、左手を下にさげた姿は来迎印といって、阿弥陀さまが往来する人間を極楽浄土にいまお迎えにきた姿をしめす。このような阿弥陀如来は、法然、親鸞などによる浄土宗、浄土真宗のお寺のご本尊に多いのです。大日如来で、左手の人差指をあげて、それを右手でつつむ忍術使いのような印は、智拳印(ちけんいん)といい、智の力をあらわす形です。これは金剛界の大日如来の印です。しかしもうひとつの胎蔵界の大日如来の印は右手の指と左手の指とを丸く組み合わせる印です。▼菩薩には、観音菩薩、勢至(せいし)菩薩、地蔵菩薩、普賢(ふげん)菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩。菩薩は如来とちがって、ふつうの人間の姿をして装飾具をつけています。明王は、日本では圧倒的に不動明王の信仰が盛んです。如来や菩薩を守る仏なので、大変こわい顔をしています。天部には、四方を守る四天王があります。多聞天(たもんてん)、持国天(じこくてん)、広目天(こうもくてん)、増長天(ぞうちょうてん)です。それに帝釈天とか梵天とか、バラモン教で崇拝されている神が仏教に入ってきたものもある。そのほか弁天とか大黒とか、福の神も天部に属します。五月二十六日(土)

仏教の系譜1
『梅原猛の授業・仏教』(朝日文庫)から。▼仏教の四つの教えは、精進、禅定、正語、忍辱。やさしい言葉でいえば「こつこつ努力をする」「集中力を養う」「正直であれ」「辱めに耐えろ」。この四つがあれば、人生は生きていけます。▼聖徳太子の仏教の中心は法華経という経典です。この法華経がその後、日本の仏教の中心になっていく。のちに、最澄が聖徳太子の思想を受けついで、法華経を中心とした天台仏教の宗派を建てます。この天台仏教の本拠地が比叡山延暦寺です。この天台宗のなかから鎌倉時代に日蓮という僧がでて日蓮宗を開きます。日蓮宗も新しい法華経信仰の宗派です。もうひとり、奈良時代の仏教者として忘れられないのが行基です。行基はその弟子たちと旅をしながら、道をつくったり、橋をかけたり、あるいは宿舎や病院を建てる。もちろんお寺も建てて仏像をつくる。聖徳太子が支配者を仏教の信者にしたのに対して、行基は仏教を民衆の底辺にまで広げた。ですから、上からの仏教布教者が聖徳太子、下からの仏教布教者が行基。この二人によって、仏教が国教になったわけです。さらに平安時代には、最澄と空海の二人が聖徳太子と行基の仕事を受けついで、日本仏教を確固たるものにしたのです。▼最澄の天台宗は、法華経を中心とする仏教宗派で、天台は隋の仏教です。なお、華厳は唐の仏教ですから、中国の時代的順序でいえば天台、華厳ということになるんですが、日本では逆で、華厳仏教が奈良時代で、平安になって、天台仏教が盛んになった。▼天台宗は法華経を中心としますが、その法華経は小乗と大乗を統一する天台一乗論という教説をもつ仏教です。この統一ということでは、後にできた華厳仏教の方がはっきりしていて、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を本尊にします。この毘盧舎那仏をもうひとつ発展させたのが大日如来を本尊とする密教です。毘盧舎那は宇宙の中心に存在する仏です。華厳仏教は釈迦を本尊としますが、その釈迦は歴史的釈迦ではなく永遠の釈迦で、世界を統一するとういう性格をもっているんです。それは日本を統一する朝廷のイメージとも重なります。法華経にはもうひとつの意味があります。法華というのは蓮の花ですね。大乗仏教の象徴は蓮の花です。蓮池というのは、きたない泥の池ですね。泥の池から出ながら実に美しい。清浄な花を咲かせる。それが法華、すなわち蓮の花です。煩悩即菩提というのが大乗仏教の思想ですが、その大乗仏教の思想の比喩として法華すなわち蓮の花がもちいられるのです。五月十九日(土)

昭和史・戦後編
『昭和史1945-1989』(半藤一利・平凡社)から。憲法草案、GHQの動き、東京裁判など、資料を読み込んで、語っている様子がよい。▼戦前が軍部主導なら、戦後のスタイルは何か。といえばそれは官僚統制システムといっていい。つまり国の経済的運営(早く言えば商売)を個人の自由なものとせず、すべて官僚が決めるやり方です。官僚がグランドデザインを描き、アメとムチを駆使して実現していくというやり方で、これが見事に働いたんですね。実は昭和14年(1939)の、軍事大国を目指した国家総動員体制がこれと同じです。このときの十八番とした政策です。国家の経済方針を各企業や個人には任せず官僚がグランドデザインと具体的な政策をつくり、それを国会にもっていき、与野党に根回しをして国会で法案として成立させ、それを再び官僚が取り戻して企業にやらせるシステムなわけです。ただし、上からの強権的なものではありません。戦争中は若干それはありましたが、もともと官僚は上手に、必ず自分たちのつくった政策が実現できるよう、予算をつくっておいて誘導するのです。されにそれをうまくリードしながら、国家資金である税金の補助や優遇税制を用意しておいて企業にやらせるのです。しかも、企業がやりたいといってくるのを許可、認可する許認可制もしっかり確立しておく。要するに、法的にうまく按配して国家全体を官僚たちが考えていくかたちになっていたのです。▼このシステムは高度成長時代とくに有効に機能し、国家の経済をうんと大きくした原動力であったといってもいいでしょう。もっとも非常に優秀な官僚が多く、たとえば「もはや戦後ではない」の経済白書をつくった後藤誉之助(よのすけ)さん、池田さんとともに月給二倍論の下村治さん、元外務大臣の大来佐武郎さん、大蔵事務次官などを経て日銀総裁にもなった森永貞一郎さんなどで、熱意があり、強権的にではなく、話し合いによる誘導で政策を運営したのです。五月十二日(土)

世界の見方5 (310)
▼武士は貴族にはなれません。武士の出自は東国や西国の田舎で、都人である貴族の「みやび」(雅び)というものが身についていない。「あわれ」の感覚は知ってはいても、貴族のように「もののあわれ」を詠じたり、なかなか上手な文芸にしたりすることはできない。平清盛のように貴族の雅を強引に権力と財力でものにしようとした武士は、結局笑いものにされてしまう。そこで武士たちは「あわれ」を「あっぱれ」というふうに破裂音をつかって言い替えることによって、貴族の美意識を武士の美意識にしていったんですね。▼、『万葉集』や『古今和歌集』は春と秋の歌で、冬の歌はほとんどなかったのですが、室町時代の連歌師である心敬は「冬の美」を発見した。あえて何もない冬に、すべてのものが枯れ果てたモノクロームの風物のなかに、日本の極上の美があるということを見出していったわけです。心敬は「氷が一番美しい」というんですからね。こんな美意識は当時世界中のどこにもなかったといっていいでしょう。▼利休と織部のちがいを、私は「ルネッサンスの利休」、「バロックの織部」と説明しています。長次郎の茶碗がまさにそうなのですが、利休の茶は正円の世界です。一つの焦点です。これに対して織部のほうは、ゆがみやひずみをもった楕円の世界です。まさに「バロッコ」(ゆがんだ真珠)です。しかも当時日本に入ってきていた南蛮文化やキリスト教文化の影響を受けたものもかなりあって、まさに世界と日本が、一つの茶碗のなかに拮抗しあっていたんです。こういうふうに利休と織部をくらべてみると、日本文化がつねに弥生型と縄文型とか、公家型と武家型とか、都会型の「みやび」と田園型の「ひなび」とか、たえず対照的に発展してきた。まさに日本はいつも「漢」と「和」の両立に匹敵するような、「和」のアマテラスと「荒」のスサノオに象徴されるような、そういう二つの軸で動いてきたんです。秀吉は利休を切腹させ、織部もまた徳川との軋轢の仲で、無実の罪を引き受けて、何の申し開きもせず切腹してしまいます。それにしても職人や茶人が、権力者を恐れさすほどに新しい価値観を持ち出し、そのことによって命を失うこともあったのです。▼このころの文化は当時の政治や経済を震撼させるほどの力をもっていいたということになります。五月五日(土)

世界の見方4
▼現在の天体物理学や物質科学では、ビッグパン理論が支配していて、宇宙の始まりは、最初のたった三分間で現在の宇宙の基本をつくったというふうになっている。▼イエス・キリストはなぞだらけだが、タキトゥスというローマの歴史家の『年代記』のなかにたった一行だけ、イエスが西暦三〇年前後に処刑されたということだけ記されていて、それだけは史実だと言われていますが、それ以外のことについては、まったくはっきりたことはわからない。後年のパウロの編集によって書き換わっていく。▼1947年イスラエルの死海から、偶然にユダヤ教のエッセネ派のなぞを解く聖書の写本や巻物や文書が大量に発見された。この死海文書は紀元前二世紀から一世紀くらいの間に書かれた文書だということがわかり、世界中が大さわぎになった。もし本当にそうなら、キリストが生きていた時期に重なる。しかし死海文書はなぜかキリスト教の根幹をゆるがすことなるのか、思惑でまだ集散しつづけている。▲ユダヤ教には救世主(メシア)への期待と信仰が、キリスト教以前から芽生えている。そのことは死海文書が裏付けてもいる。ただしユダヤ教では、救世主はまだこの世に現れていないのだと考えています。そこがキリスト教と大きな違いになる。キリスト教は、イエスこそが神によってこの世に遣わされた救世主であるとしましたからね。このようにキリスト教を編集したのは、イエスと同じころに生まれたユダヤ人の、あのパウロです。イエスが批判していたパリサイ派の信徒でした。ところがあるとき、パウロの夢のなかにイエスが出てきて、その神々しさにすっかり回心してしまった。そこでキリスト(=救世主)はイエスであること、イエスは死んでから三日後に蘇ったことを、それは父なる神がイエスの贖罪を正しいあり方として認めた証拠なのだと、パウロは強調していくことになります。▼このロジックが人々の共感を得て、大ヒットした。四月二十八日(土)

世界の見方3
▼ゴーダマ・シッダルタは菩提樹の下でブッダ(大吾した者、覚醒した者)になった。では、ブッダは何を悟ったのでしょうか。悟りというとすべてがわかったことと思うかもしれませんが、そうじゃないんです。意外なことに、人間の苦しみを空じるということに気がついたんです。「苦」というものを捨てるのではない。「苦」を受け入れて、しかもそれを「空」というものにしてしまう。「ある」ということと「ない」ということを両方いっしょに受け入れてしまう、そのような方法を悟ったわけです。こういう方法的なめざめを、「縁起」といいます。苦しいことがプラスに転化していく、ネガティブなものがポジティブに変化していく、そのような機会を生かしていく見方のことです。だから「縁が起きる」と書いて縁起といいます。▼ブッダはさらに、人間が知るべき真理として、四つのことをあげます。「一切皆苦」、この世の中はすべて苦しみなのだ。「諸行無常」、物事は常に次々に変化し、無常である。「諸法無我」、無常なものに欲望をもったり執着しない。「涅槃寂静」、静かにして、いろいろなことに迷わない。ということを、まず自分の苦行の仲間だった五人の修行者たちに説法した。これを「初転法輪(しょてんぽうりん)」という。この教えがたちまち広がり、ブッダの考え方に帰依する者が増えていくのです。そうそう、キリスト教は説教で、仏教は説法ですよ。間違わないように。▼やがて中国では儒教と道教という二つの思想や宗教をもちながらも、さらにそこに仏教を再編集しながら、独自の発展をする。このような中国の仏教が朝鮮半島をへて日本に入ってくる。その日本でまた独自の再編集をしていくことになるのです。四月二十一日(土)

世界の見方2
▼ヒトは、ヒトザル(類人猿)からヒトになるとき、直立二足歩行が始まった。この直立歩行過程でヒトは「三つの脳」をもってしまった。というのは進化途中で、残忍で攻撃的な「ワニの脳」、狡猾な「ネズミの脳」を十分に処理しきらないまま残して、その上に理性的な「ヒトの脳」をつくっていった。なぜこんなことになったのか。おそらくヒトザルからヒトになったとき、急ぎすぎたと思うんですね。これは仮説ですが、何か急激な環境変化がおこって、進化を急ぐ必要に迫られたのでしょう。たとえば草原がなくなるとか、強力な外敵あらわれた。環境温度も激変したのでしょう。そこでヒトは急いで立ちあがってしまい、その結果、発情期を失い、未熟児を生んで育児期間を長くし、しかも三つの脳を矛盾したまま持ちつづけることになってしまったんでしょう。しかし一方で、ヒトが理性の脳によって、本能のままにふるまおうとするワニやネズミの脳をコントロールしようとしたことから、人間の文化の歴史が始まります。理性の脳を維持しつづけようとするところから、宗教が誕生してきます。仏教では煩悩を断ちなさいということを教えますが、これはまさに、ワニとネズミの脳を抑えなさいということですね。ユダヤ教もキリスト教も、さらにその前の原始宗教も、欲望を抑えたり鎮めたりするための仕組みになっています。▲人間文化史の一番最初に出てきたものが宗教で、そのあとに舞踊や哲学や建築が生まれ、四番目くらいに文芸が出てきますが、こういうものが出てきた背景には、つねに理性の脳がいかに本能の脳の暴走を抑えるか、どのように鎮めるかという闘いがあったと見ていいと思います。▲それから、二足歩行をしたことによって性器が隠れてしまい、われわれは発情期をしらせることが困難になってしまった。男女がお互いのセクシャルな気分をどうやって確認するのかが大問題になり、そこからコミュニケーションの道具としての言語が発達していった。四月十四日(土)

世界の見方1
『17歳のための世界と日本の見方』(松岡正剛・春秋社)から。▼まず、起源。生命のおおもとは、高分子でできたタンパク質ですね。この原始の生命体はアミノ酸の分子の配列によって成り立っていて、その分子配列、すなわち分子情報を何度もコピーすることによって生命が維持されていくというしくみになっています。いわゆる遺伝子の配列です。では、その生命のおおもとの高分子のルーツはどこから来たかというと、いまの生物化学では、宇宙からやってきたとうことがほぼ定説になりつつあります。地球の半分以上がまだドロドロのスープ状だったようなころに、宇宙からウィルスのような情報体がやってきて、その情報が海辺の粘土質のようなものに転写されることによって、最初の生命が誕生したと考えられています。もうちょっと正確にいえば、宇宙からの情報体としてのマザー・プログラムのようなものがやってきて、地球のどこかに生命プログラムの原型みたいなものを残したと言えるでしょう。この最初の原始生命状態をRNAワールドといいます。そのワールドに、いつしかDNAという核酸の動向が生まれてくるんですね。ここでDNAを中心にRNAがこれを助けた原始生命体、すなわち原始生命情報体ができてくる。▲ここから先はなんとなく知っているでしょうが、やがて原始生命体に生体膜ができて細胞ができあがるんですね。その細胞にはDNAが入ってきて、今度はそのDNAが自分と同じものをつくりだすということを始めるわけです。ところが、何度も情報コピーをするうちにコピーミスがおこる。こうして、ちょっとずつ違った情報の組み合わせをもつ生命体が誕生していきます。こういう生命体を決定していた最大のものは遺伝情報で、その中核を担っているのがDNAです。この遺伝情報のコピーにいくつものフォーメーションがおこることで、さまざまな新規の生物が誕生しました。▲でも、これだけで生物は形成できません。生殖機能や新陳代謝が確立していって、次に生命情報の進化にとって重要な役割をもつようになったのが、神経系です。昆虫にも神経系はありますね。この神経系が発達することで、生命の外側の情報をとりこみ、判断し、環境に適応していくという能力が発達していく。やがてこの神経系がさらに進化して、さあ、どうなるんですか。そうですね、「脳」になっていきます。生命という情報体に、いよいよ「脳」という情報の中央管理センターが登場するわけです。こうして、だいたい今から七千万年くらい前に最初の霊長類が誕生し、そのあとさらに四千万年くらいたって、やっと私たちの遠い遠い祖先と呼べるようなヒトザル(類人猿)が生まれます。▼そもそもというか、起源を辿ることは飽きない。尽きもしない。四月七日(土)

海からの贈物
『新編漂着物辞典』(石井忠・海鳥社)から。▼玄界灘に暮らす著者は、南からの黒潮にのって漂着物が届くのをまつ。友人からは「とうとうお前は海のバタヤになってしもうたなア」。▼漂着物には、貝殻、ウニ・カニ・クラゲなどの海洋動物、海藻、魚類、怪獣や海鳥の死骸、種子や果実、流木、軽石、鉱物などの自然物がある。また、ペットボトル、使い捨てライター、空き缶、ガラス瓶、サンダル、ボール、おもちゃ、ビニールシート、魚網、浮き、電球、タイヤなどの人工物も普通に見られる。台風の後にはココヤシやゴバンノアシのような南方系の果実がたどり着く。また、海底火山の爆発で飛び散った軽石が、海流に乗ってはるか遠くまで運ばれることもある。▼タカラガイといえば、シプレアモニタ、すなわちキイロダカラやハナビラダカラは「貝貨」として著名である。柳田国男の「海上の道」につながる。柳田国男が若い時分に三河の伊良湖岬に椰子の実の漂着したのを実見し、そこから着想したことは、南島にたどりついた中国の人たちが、島でタカラガイを見つけ、一旦大陸へ戻り、再びイネなどを持って渡来したというものである。文化は南から北へ、小さな島から大きな島へと渡っていく。柳田の「海上の道」である。▼近ごろは韓国製品の漂着が多いそうです。醤油ビンとか貯金箱などもある。北海道に住んでいるなら、『北海道の漂着物』(鈴木明彦・道新マイブック)を。BCしようといったら、それは Beachcombing のことです。四月一日(日)

日本の見方2
▼神風思想や神国思想に拍車をかけたのは後醍醐天皇だが、その失脚と蒙古襲来をきっかけにして、一大勢力となった神本仏迹のシステムがまわりまわって「神国日本」の管理が武家政権の手に移っていく。その流れは、信長から家康にいたるまで変わらない。武家政権が天皇に対して強い態度に出られたのには、こうした事情もありました。これは「日本という方法」としても看過できません。こうして神風と神国の思想は、長いあいだにわたって日本人の心に残っていくことになったのです。歴史の中でもこの〝神威のカード〟を持とうとしますが、平清盛や足利義満は成功しませんでした。信長や秀吉もそういう野望をもっていたけれど、カードを出しそこねています。それが幕末維新で「玉(天皇)」こそが日本のシステムの命運を左右する〝神威のカード〟だというふうに変わったのです。さらに昭和の軍部による「天皇の統帥権」というカードの乱用になっていく。このとき日本は自信を持ちすぎて失敗しました。▼一神教社会と多神教社会ではそのジャッジ・スタイルに大きな違いがある。モーセ、イエス、マホメットはいずれも砂漠型の風土が背景で、熱砂の砂漠では道に迷ったら右に行くか左に行くかは決定的なジャッジになりかねない。右に行ってオアシスがあれば生き延びられるとしたら、左に行けば熱死が待っているのです。このときたくさんの意見が乱れとんでいたのでは結論が出ない。多神教ではいられない。砂漠型の宗教に唯一絶対の一神教が生じるのは当然で、二者択一で、二分法的な一神教社会のジャッジ・スタイルをつくっていった。▼他方これに対してガンジスの森に芽生えたヒンドウ教や仏教は多神多仏的になりました。これは森には雨季があっていたずらに動けないこと、森の四方八方にはさまざまな現象や情報の多様性があります。森林型の日々には拙速や浅慮は禁物です。周囲のたくさんの情報をマンダラ的に組み合わせる必要がある。アジア的な森林型の環境に、ヨーガや座禅やマンダラが生まれたのも当然だったのです。焦らず時機を待って熟考。ただ日本の神々は四季のウツロイをもった風土のため、砂漠ともガンジスの森とも違い、四季の変化のちょっとした変化にも注意深くなり、それらの変化のそれぞれに神仏を想定することになります。しかも、どこかにでんと居続けている主神的なるものではなく、何かの機会にやってくる来訪神なのです。▼本居宣長をどうみればいいか。言語研究に打ち込んだだけなのか。宣長は古代日本人の頭の中にあったことを書きとめた万葉仮名が羅列された『古事記』を、全四十四巻、三十五年をかけて『古事記伝』として日本語で再生したのです。▼というように著者は、本居宣長(古学)、内村鑑三(二つのJ)、西田幾太郎(絶対矛盾自己同一)、北一輝(統帥権干犯)、司馬遼太郎(異胎の国)に、日本という方法を探っていきます。三月二十四日(土)

日本の見方1
『日本という方法』(松岡正剛・NHKブックス)から。▼日本はたしかに一途なところはあるのですが、多様な国です。信仰や宗教の面からみても、多神で多仏です。▼中国・朝鮮半島・倭の関係は一蓮托生で、新羅の統一が日本を自立させたのです。『古事記』や『日本書紀』には、まだ天皇も日本国のことも記載はないが、日本列島の統一がはかられつつあるとき、朝鮮半島では新羅が勢力をのばし、唐の力を借りて、百済を征服しようとした。百済は日本に(まだ倭というべきですが)援護を頼んできた。ここに激突したのが663年の白村江(はくそんこう)の海戦です。しかし唐・新羅連合軍に負けます。新羅は勢いで高句麗を撃ち、ここに朝鮮半島を統一してしまいます。そしてその瞬間に「倭」はついに「日本」になったのです。外圧が日本を自立させたのです。新羅と日本はほぼ同時に成立したのです。『旧唐書』に「日本国は倭国の別種なり」とある。この「日本」を制したのが天武天皇(大海人皇子)でした。▼しかしこの時期(万葉時代)には日本の自立にいくつかの問題がありました。それは、日本語(倭語)を表記すべき文字がまったく確定していなかったことです。すでに漢字は「漢委奴国王」の金印このかた、中国と朝鮮半島から少しずつ入っていたのですが、その漢字をどのように使うかはさっぱりわかっていなかった。日本が東アジア社会で自立して国内を統一するには、文字を持たないわけにはいきません。それがなければ法もつくれないし、記録もできない。文書を交付することもできない。ではどうするか。漢字を使うのが一番てっとりばやいのですが、その漢字を中国語として使うのか、それを皆が読めるのか。問題はそこにありました。▼それゆえ太安万侶(おおのやすまろ)らは日本人(倭人)の言葉を万葉仮名や和化漢文で表記して、それを見た者はそこからかつての日本人が語り継いできた言葉の世界(神話、説話、詩歌)が蘇るようにしたのです。この「日本という方法」が画期的だったのです。▼このあたりは、『日本語の歴史』(山口仲美・岩波新書)に詳しい。三月十七日(土)

雨の日は、だいどこ。
『雨の日はソファで散歩』(種村季弘・筑摩書房)は、のんべえ達の話が、いいねえ。さて、私が社会人になった1970年代初めのころ『男のだいどこ』(荻昌弘・光文社文庫で復刻)で自慢していた、山手線大塚駅近くの居酒屋にいったことがある。今もあるだろうか。そんなこんなで、二読からの書き抜きを。▼私自身、何が食いもののたのしみか、といえば、全国を旅して、東京にくらべ地方の人々はどんなに安上がりにうまいものを食ってるか、を知ることと、“うまい料理”を食わされたあとは、何とかそれを、自宅でヒョウセツ盗用できないか、と、せまい台所で工夫をかさねることくらいだ、といっていいのである。▼飛騨の高山へ行くと、特産の味噌を朴(ホオ)の葉で焼くための、いわば一人用の小型七輪を売っている。この七輪に小さく炭をおこし、かけた金網の上へ、酒でぬらした昆布を一枚しいて、そこへ、生ガキや蛤の剥身をのせる。これはうまいぞウ。いわゆる「松前焼」である。やがてじくじく音がたちはじめるころには、貝へ昆布の味と香りがしみ、醤油で食うだけですばらしい味になる。昆布が熱でかわきかけたら、さらにちょっと酒でしめしてやる。真冬の夜、ひとりか、あるいは差しで酌みかわすとき、これほどムードのでるサカナはないとさえおもう。▼こういう単純な食いものや食いかたを、ひとつひとつ他人様からおそわり、ぬすみ、いちばん簡単なところから、じわじわとたのしみのレパートリーをひろげてゆくこと。私のやりかたはそれだけである。近ごろの醤油はマズくなったといえば、ああ、うちでは昆布の切れっ端を投げ込んでおきます。というように必ずだれかがヒントをおしえてくださる。それをおぼえておいて、あとは昆布を日高のにするか利尻のにするか、そこはこちらの好みと工夫である。▼素朴なジャガイモ料理といえば、スイス風ロスティである。ジャガイモをおろし金で千切りにして、水にさらす。にぎって水をきり、バターと塩、コショウを適宜いれて、電子レンジへほうりこむ。ホカホカに軟化したのを、フライパンにバターいっぱいしいて、ホットケーキ風に焼き上げる。それだけ。これにビーフシチューをかけると、うまいぞゥ。オラアこげな山盛りが好ぎさ。▼肉にしがみついている肉のうまさは、これは人間より舌の肥えた犬、猫でも目の色がかわるほどでね。肉屋で250グラムくらいの骨付き肉を人数分スライスしてもらい、照焼きチョップにする。醤油と酒・砂糖、あるいは代わりにみりんを適宜まぜあわせ、トンガラシをかなり多量にいれてタレをつくる。これに豚肉を一晩漬ける。あとはオーブンでじっくり一時間かけて焼き上げるだけ。茶褐色に焼きあがって弓なりにそりかえった250グラムのチョップは、豪放な味わいだ。元気が出るぞ。▼沢煮鍋は、老若向きの寄せ鍋だ。豚肉の千切りを熱湯に通したやつで、薄焼卵の千切り、あと野菜だが、ネギ、ニンジン、タケノコ、シイタケ、ウド、三つ葉、セロリ、ゴボウ、モヤシなど。細いのはそのまま、細くないのは、つまり全部千切りにして、これを鶏骨(がら)スープと醤油・みりん・酒でとったうすい煮汁に、サッとなげこむ。煮すぎず早めに汁ごとおタマでしゃくいあげて、コショウをふる。味と歯ごたえ、和風のごとく、洋風のごとく、はなはだ栄養のバランスよろしき一鍋である。この沢煮鍋は昔、猟師が干し野菜をもって狩場にはいり、獲物とともに、沢で煮たことに由来する。▼気力は眼に出る。生活は顔に出る。年齢は肩に出る。教養は声に出る。これは土門拳の言い草だが、うまいものがあると、猫が出てくる。二月二十五日(日)

赤い本の森
『松岡正剛千夜千冊/第八巻・書物たちの記譜』(求龍堂)から。▼千夜千冊の読書案内をしてみて、やっと体感できたことがある。読書というもの、初読だけでは三分の一か五分の一しかその書物とは付き合っていないとうことだ。勘違いしていたことも少なくない。それが再読でアラインメントがおこる。身につまされたことであった。書いてみなければ読んでいなかったことになる、ということを何度も突き付けられたのだ。読書の渦中のトレース体験やそのとき沸きあがった意識のサーカスをあとから思い出して綴っていくという作業は、必ずしも易しいことではないのだが、その綴りかたひとつで読書体験が右にも左にも曲がっていく。それがひいては著者を歪めることになる。自戒させられた。そんなこともあって、読まれた方々がどう感じたかは知らないが、ぼくとしては著者の内容をまずは直裁に伝えることだけはできるかぎり守った。▼ということで、まずは、別冊の八巻の読書方法とかは読んだので、あと残るは七巻。赤色装丁で、いずれも広辞苑のように分厚い。二月十七日(土)

龍馬と直行 (300)
土佐と蝦夷に生きた列島のつわもの。▼知りませんでした。この十勝原野に生きた坂本直行の祖父が坂本直寛で、その叔父さんが龍馬であることを。このたび、高知に里帰りする「お帰り!直行さん」という、反骨の農民画家展の企画力に脱帽です。また、幕末と維新の精神がこの北辺の地にも及んでいることを、この企画展が明かします。▼さて、直行さんは地元ではどんな人だったのか。私のこどもの頃、1950年代ですが、同じ開拓農民の親父が直行さんのことを「ノーミンドーメイノトーシ((農民同盟の闘士)」といっていました。その気風というか気骨を気に入っている様子は、こども心にも読みとれました。うちの親父は絵のことよりも、そのことの方に力が入っていました。後年、私が直行さんの絵に接したのは、地元のお菓子屋さんの包み紙でした。地元のひとは皆そのようです。▼「原野に昇る月」という月下雪原の絵。十勝平野の人たちなら、この絵をじっと見ながら、語らず月下独酌するでしょう。北辺の環境に順応し、いや耐えつつも、気概をもつ。夜半の雪原、静まりかえる中の絵であります。それに、満月は明るく少しの黄みをもち、農耕馬の鼻息がわずかに感じられます。馬橇(ばそり)の上の農民は、寄り合いの帰りであろうか。背を曲げつつも、凍結した風景の中に彼の口を覆う手拭いから、かすかな息を感じるではないか。北辺の生きもの、馬と農民が、画面左から右へ確かに動いている。辺境に生きています。若者は北に向かい、ご年配は南に向かう、という人もいます。▼直行さんが描いた日高山脈は、二千メートル級の山々が百四十キロメートルにわたってつらなる、北海道の背骨で、ここで東北海道と西北海道を分けます。風景も人物も変わります。二つの大陸プレートがぶつかり合い、八百度℃の熱を帯びながら山として成長したあと、氷河に覆われます。その後、森が育ち、固有の動植物が住むようになり、やがて維新後に北をめざす人たちがやってきます。日高の山並みは、直行さんの志の高さでもあります(高知県立坂本竜馬記念館「記念館だより」07年1月第60号寄稿)。二月三日(土)

アイヌ民族を知る(序)
『アイヌ文化の基礎知識』(アイヌ民族博物館監修・草風館)から。▼ことば~身近なアイヌ語には、ラッコ、トナカイ(樺太アイヌ語)、シシャモ(柳の葉の意)など。北海道の地名に名残がある。▼日本史に登場~神武天皇やヤマトタケルの記事は伝説だが、『古事記』『日本書紀』が書かれた8世紀初めころの蝦夷(えみし)に対するシサム(和人)認識からみて、少なくともこの頃にアイヌの人々の存在が日本史に登場とみていい。▼シサム(和人)との戦い~1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起。▼アイヌ文化の起源~北海道では0世紀頃に続縄文文化、7世紀に擦文文化、平行して5世紀にオホーツク文化、14世紀にアイヌ文化が成立。▼狩猟の知恵~クマ猟では冬ごもりをねらう。穴を丸太で塞ぎ、トリカブトの毒矢でしとめる。シカ猟では鹿笛でおびき寄せたり、崖から追い落として捕まえる。サケ猟は道具(マレク:突き鉤)かカゴの仕掛けでとる。▼装う~獣皮衣はクマ・シカ・アザラシ・ラッコなどを利用。樹皮衣(アツトウシ)はオヒョウ・ハルニレで、幹の皮を下からはぎ上げ、流水でさらし、天日に干してから、糸に紡ぐ。木綿衣は本州との交易で手に入れた木綿の古裂でつくるが、四種類のアイヌ文様がうつくしい。▼食べる~シカなど獣類、カモなど鳥類、アザラシなど海獣類、ニシンなど魚類、サケ・マスなど川魚と、ギョウジャニンニクなど山菜、ヒエ・アワ・イナキビなど栽培作物などの食料があった。毎日の食べ物では「オハウ」が一般的。ギョウジャニンニクなどの山菜やイモ・ダイコンなどの野菜、鳥獣肉や魚肉を鍋で煮て塩や獣・魚油を入れて味付けした鍋物。家の外の高床式保存庫には、2・3年分の保存食が常備されていた。保存方法は炉の煙り干しによって乾燥させていた。▼住まう~チセは寄棟造りで、柱は腐りにくいハシドイ・カシワを使い、壁や屋根はカヤ・ヨシ・ササで葺いていた。コタン(集落)の人たちが総出で建てる。▼チセの暮らし・シキタリ~狩猟は男、家事・栽培は女の役割。チセでは男は猟具の手入れやイナウなど信仰用具つくり、女は着物・茣蓙つくりや食事の支度、子供たちは水汲みや子守などの手伝いをしていた。チセは三つの座がある。入り口から炉に向かい左がシソ(右座)、右がハリキソ(左座)、正面奥がロルンソ(上座)。シソは上手が主人、下手が主婦の座。ハリキソは子供、来訪者の座。ロルンソは神々の通り道で神聖な場所。徳人でなければ座ることができなかった。▼信仰~アイヌの人々にとって、人間のまわりに存在する多くの事象にはすべて「魂」が宿っているものと考えられている。ですから動物や植物などは、天上の神の国からある使命を担って舞い降りてきて、この地上に住んでいると考えられた。▼カムイノミ~豊かな自然のいたるところに、それぞれこの世でつとめを担った神々に感謝し、その庇護と生活の糧を得るために、イナウ(木幣)やサケ(酒)、ハル(食料)を捧げながら神に祈ることをカムイノミ(神への祈り)という。▼祈り用具~祈るとき、人間は立てられたイナウ(木幣、ヤナギをマキリ/小刀で薄く削る)に対し、左手で酒の入ったトウキ(杯)をもち、右手でイクパスイ(酒捧箆、彫刻を施す)をもち、この先に酒をつけ、それをイナウに軽く触れるようにつけながら祈り言葉を唱える。そうすると人間の言葉はイクパスイに伝わり、イクパスイはその言葉をイナウに伝え、イナウは、次のイナウを従え、人間の言葉と供物を伴って神の国に向かう。人の目に見えずとも、鳥の姿になって向かうのだといいます。▼クマ祭り~アイヌ語でいうとイオマンテ、「熊の霊送り」のこと。クマは神の国からやってきてこの世でクマの形に化身し、訪れた食料の神です。そのクマを捕獲し解体する段階で、魂は肉体から離れる。その魂をコタンや家の客人として招き入れる。客人を稲の上坐側に安置し、コタンの人々が集まり酒宴をくりひろげ、ユカラや舞踊をおこない、その客人を数日にわたって手厚くもてなす。その後、丹念に彫刻した矢や、きれいに削り上げたイナウ、多くの食料や酒、太刀などの土産品をたくさん持たせ、自分たちのコタンを訪問してくれたことへの謝辞とまたの再訪を願う長老の祈り言葉とともに、客人の親・兄弟が住まう神の国に旅立たせるのです。▼コタン~一つのコタン(むら)が一つのエカシイキリ(祖父の系統)でかたまる「自然コタン」、和人との交易上からできた「強制コタン」がある。イウオルは資源調達の場。▼誕生~子供は生まれてもすぐ名前はつけない。早くから名前をつけると、悪い神様に名前を覚えられ悪さをされるので、固有の名前は少し大きくなって抵抗力がついてから、その子供のしぐさや癖などの特徴をもとにして名前がつけられた。▼歌と踊り~コタンの平和のため、多くのまつりごとを通して、神への感謝の踊りがおこなわれた。「ウポポ(座り歌)「リムセ(踊り歌)」を基本として、多くは集団で踊られます。▼楽器~ムックリ(口琴)、トンコリ(竪琴)、太鼓、拍子木、草笛、鹿笛(狩猟道具)などがある。▼口承文芸~ユカラは、英雄叙事詩といわれ、拍子木で炉縁を叩きながら、節をつけて語られる冒険物語です。長いものは三日三晩のものもある。聞く人たちも拍子木で調子をとり、語りの合間に「ヘッ、ホッ」などの掛け声を巧みに入れながら、語る人とともに物語のなかに参加します。一月二十七日(土)

博物館づくり
『博物館を楽しむ-琵琶湖博物館ものがたり』(川那部浩哉編著・岩波ジュニア新書)から。▼博物館の展示交流員は観覧券を販売するとともに、館内の案内をおこなう。⇒展示交流員という名は体をあらわす。旭山動物園は飼育展示係という名で、いまがある。▼博物館を劇場にたとえると、展示室はまさに表舞台で、主役である展示と、脇役である展示交流員や学芸職員、観衆である来館者と向かい合ったなかで、一つの話が進行する舞台です。そしてもう一つ、来館者がふだんは見ることのできない仕事場としての「研究室」といった、舞台裏も見てもらうことにした。⇒当館ではリウカ、埋文センターで実験進行中。▼古い住宅の再現展示では、来館者が「即席の解説員」に早変わりする。座敷には「感想ノート」が置いてあり、二年間で四五冊が貯まる。⇒感想ノートは混交玉石だが参考にはなる。▼琵琶湖の環境展示では、ホタルやタンポポなどの住民参加型調査の紹介、学芸員の環境に対する考えの展示、観覧者の意見を絵馬のように貼り付け展示する「オピニオン・コーナー」の設置をした。⇒意見提言の掲示板は可能だが。▼博物館の中の水族展示室では、実物展示の情報は大事であり、また飼育している者にとっては「「飼育員ではなくて、生きもの展示員」と思うようになった。見ているだけ楽しい博物館。⇒たとえば小さくとも淡水魚などの生きもの展示は惹きつけられる。▼「デスカバリー・ルーム(発見の部屋)」は、小さな展示室で、就学前の子供たちに博物館への興味をもってもらい「何かを発見」してもらうことをねらった。ドキドキ・ワクワクのあふれた展示空間のため「おばあちゃんの台所」「石の下/水の中の生きもの」など18ばかりの展示物を工夫した。「中の人たちが楽しくなければ、外の人たちを楽しませることはできない」と館長も館員も考えていた。⇒発見のドキドキ・わくわくは、リニューアルの際のヒントにならないか。▼琵琶湖博物館では、展示交流員(30名いるが有償ボランティアあるいは有給職員かは不明)が中心になって、あらゆる場所で説明はもちろん、いろんな質問にも答えています。そのほかにも情報利用室の一角に「質問コーナー」があり、館長・副館長を含めた三十名以上の学芸員が毎日交代でそこに座っています。そこでは専門外の質問に対しても、原則としてその日の担当者が対応するのが基本です。なぜかというと、専門の学芸員は野外調査でいなかったり、研究室で手を離せないこともあります。それに「質問されたら直ちに答えるのではなく、来館者が自分で調べるのを手伝う」のが、博物館の基本だと思うからです。あくまでもサポートです。でも、わからない場合は、後日とか、他の研究機関にお願いして調べることもあります。⇒質問コーナーは、人手不足からいまは無理だが、自ら調べられる場所はどこに、どのように。▼平日の午後二時には、「フロア・トーク」が始まる。展示室あるいは野外の特定の場所で学芸職員が話をします。⇒スポット・ガイドの可能性。▼質問は、博物館にとって貴重な情報資料です。開館してからほぼ三年半に、二千件あまりの質問と回答が蓄積された。その一部はデーターベース化され、一部はホームページでも見ることができる。ネットを使っての質問も受けている。※「博物館」という名を使ったのは、福沢諭吉の『西洋事情』(1866年刊で二十万部以上のベストセラー本)であり、それまでは、「百物館」「物品館」「博物所」などと呼ばれていた。⇒Q&AをHPに。▼地域住民のエネルギーでつくりあげた博物館には、山形県の「大井沢自然博物館」、長野県の「大町山岳博物館」(動物園が付属)、「大阪市自然史博物館」などがある。現在の博物館は、日本博物館協会がまとめた名簿に載っているものだけでも、その数およそ四千五百館。最近の博物館は、特徴を明快に打ち出しているものが増えている。また利用者のための博物館として、「参加型博物館」とか「ハンズ・オン展示」が流行で、「教えてあげる」から「利用者が楽しみながら主体的に学ぶのをてつだう」という場へ、大きく変わりつつある。⇒当館の特徴を対話型博物館に。あるいは長靴(野外)とエプロン(ワークショップ/作業講習会)の行動型博物館とか。▼海外の博物館では、イギリスの「大英博物館」「自然史博物館」、フランスの「国立自然史博物館」がその研究蓄積を誇るが、アメリカの博物館は「来館者が楽しむ場をつくる」ことに重点をおいており、「新しい展示手法を開発せずにおくものか」との、迫力ある取り組みが多い。⇒我が館の新しい展示手法はどんなものが考えられるか。▼博物館は、「博物館とは、利用者と博物館員とが協力し、研究、観察会などの交流活動、情報の発信、資料の収集と整理、展示などの諸活動を総合的におこなっていく機関である」と定義したい(著者)。⇒博物館は、利用者と博物館員との共同作業で動かす、ということでは同感。▼展示には、生物や人間の生活や道具の使い方など状況を再現する「生態展示」があり、これはジオラマや原寸復元、環境映像などが主になる。そのほか、分布模型・解説映像・図解パネルなどによる「しくみ展示」があり、時間的・空間的な広がりや概念的な情報を表現。また個々の資料情報を知らせる「分類展示」がある。それらを主題ごとに、たとえば生態展示から、しくみ展示へ、そして分類展示へと導き、生態展示に戻って総合的な理解を深めるといった、来館者の動線を検討しておかなくてはならない。⇒生態・しくみ・分類などの展示方法の組合せは、リニューアルの際にもう一度。▼「びわこ・ミュージアムスクール」は、学校の博物館利用をもっと本格的にするための実験をした。まず、小中高のそれぞれ一校にモデル校になってもらい、博物館専属の教員と学芸職員がそれぞれの学校へ出向いて事前学習をこない、それに基づいて生徒が自分で調べる主題を決め、本を調べたり地域の人々に聞いたり、博物館に来て体験学習したりし、最後に学校で発表をするという、流れです。⇒学校の博物館利用プログラムは道半ば。▼博物館には、常設の展示のほかに、「企画展示」「フィールド観察会」「博物館裏側探検」「博物館講座」や、周囲の自然を観察したり実験室で実験・実習する「ミュージアム観察会」、土曜日ごとの小中学生対象の「体験学習会」などがある。⇒博物館の増幅プログラムに手間をかければ、それだけ人気がでる。▼サンフランシスコの科学技術展示でがんばっている「エクスポラトリウム」の入場券には「六ヶ月有効」とあり、何度も繰り返し訪れることができる。⇒年間パスポートとのからみもあり、規則改正ものだが、こんなやり方もある。▼国外の姉妹博物館との提携で、展示・交流・資料交換を考えている。提携先のフランス国立自然史博物館での、アフリカのサバンナと北氷洋の展示は圧巻であり、その全体としての美しさは息を飲むほど。⇒たとえば長野県の「大町山岳博物館」との交流とか、美しい展示の追求。▼博物館はほんの入口にすぎない。ほんとうの博物館は野外にあるのです。琵琶湖を中心とする自然と人間との関係、すなわち人々の暮らし、歴史的に成立してきたこれ自体こそが、ほんとうの意味で「ほんものの博物館」なのです。⇒ほんとうの博物館は外にある。一月二十日(土)

合作
『憲法九条を世界遺産に』(太田光・中沢新一/集英社新書)から。▼自国の憲法は自分の国でと、よく言います。でも、この国は日米合作の平和憲法のもと、日本人は曲がりなりにも、いろんな拡大解釈をしながらも維持してきた。ですから少なくとも憲法を変えてしまう時代の一員ではありたくない。▼いいものというのは、たいがい合作でできたものだという事実を、忘れちゃいけない。たとえば日本人は仏教をいい思想だというけれど、あれは日本人がつくったものではなく、アジア人の合作した合同作品です。インドで生まれたけれど、もともとブッダ自身はヒマラヤの麓に住むモンゴロイドだったし、そのあともいろんな民族のもとに伝わって、チベットへ、中国へ、東南アジアへ、そして日本へと伝わって、多様な国々で合作された。その仏教が東の果てにたどり着いて日本仏教として展開していった。それはもう珍品中の珍品で、合作の極限にあらわれた特異体質みたいなものです。アジア人の合作としての仏教が、東の果ての岬のようなところで、突然変異をとげて、ほかの誰も言わなかったような珍しい仏教をつくりだした。その仏教を日本人は大事に守ってきた。今さら、あれはインドからきたものだからダメだとか、中国人が途中で漢文のお経を入れたからダメだなんて、誰も考えないでしょう。それを考えると、日本人だけでつくったものでないことが、逆にあの憲法の価値になっているんじゃないでしょうか。日本人だけでつくったのなら、あそこまでのものはできなかっただろうしね。▼子供のときは、自然のままですから、感受性は鋭いんですが、四十歳ぐらいから劣化していきます。ところが、それから十年ちょっと経ってみると、今の方が感受性が鋭くなっている。その理由は、死者との対話というか、語られずに消えてしまったものを蘇らせる努力を、自分の中で繰り返してきたからかなとも思います。生きている人たちとばかり付き合っていると、感受性は鈍くなってくる。今いる人といると年を取り、死んだ者とともにいようとすると、生命のよみがえりを感じます。▼日本語も合作。『日本語の歴史』(山口仲美・岩波新書)からは、奈良時代の漢字との出会いから万葉仮名、平安時代での日本語の誕生、江戸時代の今につながる話し言葉といったことが、ていねいな言い回しで語られる。いい本でした。井上ひさしの『国語元年』(中公文庫)はこの次に。一月十五日(月)

古代狂4
▼オーストラリア編。文明はどこでも大きな建造物だった。ピラミッドも、ペルセポリスも、アンコール・ワットも、石を切り出して運んで積み上げるという原理の実現だった。それを背後から支えているのが農業の生産性であり、統治機構だった。オーストラリアにはそういうものはなかった。アボリジニは文明を築かなかった。にもかかわらず、この岩絵に見るように、精神の内部において彼らが生み出したもの豊かさは文明の産物に劣るものではない。移動生活は彼らにモノへの依存を許さなかった。言い換えれば彼らは移動生活のおかげでモノから解放されて、純粋に精神だけの暮らしを営むことができた。家族で背負えるだけの財産で生きてきた。その成果として「ブッシュ・ポテト・ドリーミング」のような絵がある。彼らは石を刻んで運ぶことをせず、自ら石のところへ行って絵を描いた。文明が石を積み、ピラミッドを造り、都市を営みながら長い道をたどってようやく到着した地点に、アボリジニの人々はずっと先に来て待っていた。遅かったね、とにこにこしている。岩に描かれた女たちは幸福に見える。愉快に踊っているように見える。幸福が生きることの目的だとしたら、文明とはいったい何だったのか。何のために我々は石を積んだのか。▲エアズ・ロック。砂漠の真ん中に孤立してある岩山。アボリジニにとっては聖地で、彼らの言葉で「ウルル」という。クフ王のピラミッドは一周一キロだが、このウルルは一周十キロ。高さ三百四十八メートルで高さも三倍。そして、人間が作ったものでないからこそ、こちらの方がより強く聖性を帯びている。つまりピラミッドの方が模作なのだ。古代エジプト人はまだ見ぬウルルに憧れた。世界のすべての遺跡はウルルの模造品である。何年もかけて遺跡の一つ一つ見てきたけれども、ウルルの前にはすべてが相対化される気がした。もう旅はやめようかと男は思った。▲聖山には登られるものと麓から仰がれるものがある。日本の修験者は富士山や白山、羽黒山や御嶽山に登った。しかしチベット密教の信者はカイラス山には登らない。巡礼として遠いこの霊峰を目指し、その周囲を巡るだけで心満ちて帰路につく。アボリジニもウルルに登るのは、できればやめてほしいという意思を遠慮がちに表明している。▼イギリス編。ロンドンに行き、大英博物館に通って、展示品に惚れこみ、何百年か何千年か前にその品が作られた土地を訪れる。たくさんの旅をしたが、そろそろこの旅を終わりにしようかと男は思った。一月九日(火)

古代狂3
▼韓国編。新羅時代の石仏は、その衣装の襞がエレガントで、これはガンダーラ美術の影響だろうが、もとを辿ればヘレニズムを介して古典期ギリシャの彫刻に行き着く。韓の寺には色がある。諸神の像も屋根を支える木組みも派手な色に彩色されている。宗教はどこでも官能の魅力で信徒を誘う。カトリックならばミサで人気のある僧は顔がよくて声がよいと決まっている。聖歌隊はそのまま天使の歌声のように聞こえる。さらに香を焚いて善男善女を別世界へ誘う。その点で仏教とて例外ではなく、理性より官能の方に一歩だけ近いところにあることを僧たちが知らないはずはない。ヒンドゥー教などは、女神たちは丸い乳房を突き出して肉体の魅力を誇示している。初期のインド仏教はそれを借りていた。建物や像を色あざやかに塗るくらいは当然のことだっただろう。しかし日本の寺には色がない。五体投地もない。チベットの人々が仏への思いのかぎりを込めて行う姿勢である。だが、それはこの朝鮮半島までしか来なかった。列島には渡らなかった。それに朝鮮半島の人々は何かきっかけがあるとすぐに踊りはじめるが、列島の人はめったなことでは踊らない。どうも列島と半島では、人々のふるまいについて抑制のレベルが違う。半島と列島では異民族との接触の量が違う。陸つづきの隣に強い勢力があれば、その影響は拒めない。その中で半島の人々は自分は何者であるかを声高に表明しながら生きてきた。言いたいことは言うし、踊りたいときは踊る。▼メキシコ編。マヤ文明は、アステカと同様、民族としての存続への不安は強かった。世界はいつ終焉するかわからない。ともかく神に人命を捧げて、なだめて、明日の糧を確保する。死によって生をあがなう。この文明圏にはサイズの小さい王国がいくつもあって、それぞれに栄え、互いに争って、勝ったり負けたり。そのたびに生ずる捕虜が人身御供となる。血と苦痛にまみれた社会だが、その一方、人の精神はそこまで柔軟なのかという気もする。新大陸では人々は循環する歴史という思想に縛られた。かつて悪いことが起こり、それが間もなく再現される。循環史観というのはつまりそう信じることである。これでは人は絶滅の恐怖と共に生きるしかない。本当にわれわれは未来に向かって開かれた存在なのか。すべては既に決まっているのではないか。9・11はその徴の一つではないか。▼イギリス・ケルト編。考古学から言えば、ケルト人が来た証拠はほとんどない。言ってみれば、日本に弥生人は来なかったのと同じ。稲作と鉄器の使用は伝わったが、それは文化だけが伝わったのであって、大量の移住者が来たわけではない。しかし、いまさらあれは間違いでしたとは言いにくい。多くの人の誇りの土台をはずしてしまうようなものだ。おまけにアイルランド人などは移住先で苦労して地位を獲得した。その労苦に際してはケルトの子孫だという誇りが支えになった。そういう人に向かって、ご先祖様は優秀なケルト人ではなく普通の新石器・青銅器時代以来の住民でした、あるいはもっと遡る先住民でしたとは言いにくい。だから最近の考古学の常識と一般社会の常識の間には大きなずれがあった。しかし学問的に見るかぎり、イギリス諸島にケルト人はいなかったのだ。一月八日(月)

古代狂2
▼イラン編。ペルシャの神話というのはどれも借り物、まがい物、よせあつめという印象なのだ。非常に実務的な、散文的な人々だったのだろう。実用的な文化を好む人たち。ギリシャ人のような創造者ではなく、ローマ人のような統合者。密度の高い小国ではなく拡散したペルシャ帝国。排他の原理ではなく、取り込みないし吸収。現代でいえばフランスではなくアメリカ。この二つの原理が競い合って、人類をここまで連れてきた。▼カナダ編。文化は人が住むすべてのところにあるが、文明は都会を中心に集権的に分布する。中央の文明が地方の文化を押さえ込む。カナダ先住民のポトラッチを禁止し、アイヌの人々に鮭漁を禁止した。男は大英博物館を基点とする旅でいくつもの滅びた文明を見てきた。文明は滅びれば遺跡しか残さないが、文化はその土地の環境に合わせてしなやかに変わり、それによって生きる人々と共に生き延びる。バンクーバー・アイランドの海では、遠大な生命の連鎖が見えた。氷の海から植物プランクトンが湧き、それを食べる動物プランクトンが増え、オキアミ、ニシンあるいはサケあるいはハリバットあるいはタラがそれを食って、その上にカワウソやトドやウミスズメやクジラやヒトがいる。そういう自然の恵みを表現したいという意図が、最終的にあの大英博物館のトーテムポールを作り出した。人は自然から文化を紡ぐ。▼イラク編。都市が興る条件を考えてみた。まず食料の供給がなければならない。すなわち安定した大規模な農業が必要になる。そのためには水。その水を畑に引くための灌漑施設。その前提として、灌漑が可能なほど平らな土地。そこが砂漠のように乾いていることは農業にとってはかえって有利だったのではないか。乾いているから一般の植物は繁茂していない。つまり伐採や開墾をする必要がない。水がないから植物がないのであって、灌漑で水を導入すれば植物は育つ。しかも米ほど水を必要としない小麦であった。穫れた小麦がみなパンになる。飢えはない。この条件はエジプトとメソポタミアはよく似ている。▲シュメールはすばらしい。今は広漠たるウルの遺跡に立っていてもそれはわかる。シュメール人は、文字を発明し、行政と政治のシステムを作り、法や正義や教育、医療などを創造した。そのすべてが文献によって今に伝わっている。かくて四千年を費やして人は文明を量的には拡大したが、質の方は根本的に変わっていない。今も人はアッシリア人のように好戦的であるし、身辺に美しい細工物を飾って暮らしを楽しみ、手に入るかぎりの食材をさまざまに調理して食べている。やはり、過去は現在であるのだ。▲ウルの古代の墓の前に座って、男は当時としてはこの上もなく豪奢だったはずの葬礼を思い浮かべた。この墓からは豪華な副葬品ばかりか、六名の兵士と六十八名の侍女の遺骸が取り巻いていた。彼女たちは死を自分の運命と信じて悠然とこの墓所に入ったらしい。死は暴力的にではなく、致死量のアヘンかハシシュを自ら服用することで穏やかに訪れた。華やかな衣装をまとった数千人の臣民が葬列に従ったことだろうし、だからこそ侍女たちは従容として死に向かうことができた。供物の類も国の威信をかけて贅沢なものだっただろう。葬礼を準備したのは文明の力である。集中のためのシステムが作られ、多くの富がウルに集まった。耕作ではなく思索のための時間を持つ階級が生まれた。その思索の中から、組織的な宗教や哲学が誕生し、都市に住む民を覆う精神的な構造体が作られ、最後には最も高位の侍女たちを死の方へそっと促すほどの力を持った。▲素焼きの壷に水を入れておくと、しみ出す水が蒸発して熱を奪い、中の水は冷たくなる。砂漠の知恵。一月七日(日)

古代狂1 (293)
『パレオマニア-大英博物館からの13の旅』(池澤夏樹・集英社インターナショナル)から。▼ギリシャ編。作品に署名をするようになってから、美術はつまらなくなった。男が近世・近代・現代に惹かれないのはそのせいらしい。中世のものもあまり関心を惹かない。なんと言っても古代。人々がまだ荒魂(あらたま)をいだいていたころ。▼エジプト編。近代になってダムをつくったことでエジプトはナイル川沿いの自然農法を放棄した。その代わりにダムが生み出す電力で化学肥料を作るという新しい方策を採った。そうでなくては養えないほど人口が増えたのだ。アスワン・ハイ・ダムは現代のピラミッドと呼ばれたが、しかし現代エジプトはいかなる聖遺物も生み出していない。エジプトだけでなく、どこの国も三千年の後に見るに価する神殿を造ろうとはしていない。百年後だって怪しいものだ。人間はその日暮らしに堕した。エジプトの象形文字は、グラフィック・デザインとして完璧の域に達している。漢字と同じく具体物を写して抽象化されたのに、漢字よりずっと具体的なレベルで留まる。鳥などは一目瞭然。ヒエログリフは美しい。読めなくても見ていて気持ちがいい。すなわち文字である以上にデザイン。エジプト古代文化の遺物全体がアーティストではなくグラフィックデザイナーの仕事の成果ではないか。石と象形文字は、芸術家ではなく、職人の世界だ。だから万人にわかりやすく、単純で美しい。ピラミッドほど単純で美しいデザインはない。やはり古代にすべては完成していたのだと改めて思う。あとの歴史は繰り返しと拡大に過ぎない。▼インド編。インドでは、樹があればその下には人がいる。というよりも、この日射しでは木の下以外に人のいられる場所はない。ところで都会の生活ではどこか不安感を払拭できない。その不安感が、単なる豊年祈願を超えた、複雑な、高度に哲学的な宗教を生んだ。仏教を育てたのは古代インドの商人階級だった。人生は苦であるという仏教の基本思想、最後の審判が待っているというキリスト教やイスラム教の基本思想の根源にはこの不安がある。土から遠くなった分だけ彼ら都市の民は神や仏を必要とするようになり、必然的に神と仏に近くなった。そこから精密な教理を備えた世界宗教が生まれる。キリスト教が誕生したのはユダヤだが、結局はローマの市民があそこまで育てた。文明とはすなわち都市化であり、都市の民の不安こそがすぐれた宗教文化を生む。農民にはそんなものはもともとなくてもよかった。シャカの浮彫にも見られるが、ギリシャ様式が仏像に影響し、薄い布の襞によって肉体感を表現するようになった。インド人は古代から肉体が好きだった。男と女の仲が好きだった。それを隠さなかった。彫刻にも表した。それに対して、仏像はまるで違う原理を持ち込んだ。肉体を超える精神性を、しかも彫刻という本来最も肉体に近い手段で、表現しようとした。そしてそれに成功した。あの不思議な、禁欲の原理と極端な官能性が一つのフレームに並ぶという造形が生み出された。しかし中国人は官能が嫌いだったから、仏教のその部分を捨ててしまった。日本に渡ってきたのも官能なき仏教だった。寺に裸の女はいらないということになった。まあ、東アジア人の体格は、インド人と異なって、彫刻として官能を表現するのには向いていないのかもしれないが。一月六日(土)

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