2009年5月2日土曜日

一葉・音読

『日本語が滅びるとき-英語の世紀の中で』(水村美苗・筑摩書房)から。▼みたび、くり返すが、日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。日本近代文学が生まれたときとは、日本語が四方の気運を一気に集め、もっとも気概もあれば才能もある人たちが文学を書いていたときだからである。子供のころあれだけ濃度の高い文章に触れたら、今巷に漫然と流通している文章がいかに安易なものか肌でわかるようになるはずである。大人になり、たとえ優れたバイリンガルになろうと、そこへと戻ってゆきたく思う、懐かしくもあれば憧憬の的でもある言葉の故郷ができるはずである。具体的には、翻訳や詩歌も含めた日本近代文学の古典を次々と読ませる。しかも、最初の一行から最後の一行まで読ませる。高等学校を終えるころには、樋口一葉の『たけくらべ』ぐらいは「原文」で読ませる。うすぼんやりとしかわからなくともよいから、なにしろ、読ませる。あの一葉の天の恩寵のような文脈に脈打つ気韻やリズムを朧気ながらでも身体全体で感じとらせる。だが、そうした努力にもかかわらず、英語はますます普遍語となり、国語が滅びていく。日本語もフランス語もドイツ語も。▼科学は、「ヒトがいかに生まれてきたか」を解明しても、「ヒトはいかに生きるべきか」という問いに答えを与えてはくれない。そもそもそのような問いを発するのを可能にするのが文学なのである。もし答えがないとすれば、答えの不在そのものを指し示すのも文学なのである。いくら科学が栄えようと、文学が終わることはない。▼ケヴィン・ケリーの描く情報の理想郷とは。シュメール語が記された粘土板から今まで、人類は最低三千二百万冊の本、七億五千万の記事やエッセイ、二千五百万の歌、五億枚の画像、五十万本の映画、三百万本のビデオやテレビ番組や短編映画、そして一千億のホームページを「出版」した。これらの全部の資料は、現在さまざまな図書館や記録保管所に収められている。完璧にデジタル化されれば、すべてが(今の技術では)五十ペタバイトのハードデスクに圧縮することができる。今日、五十ペタバイトを収納するには、小さな町の図書館ぐらいの建物が必要である。明日の技術では、ipodにすべて入り込んでしまうだろう。そのとき、すべての図書館を一つに収めた図書館が、あなたのハンドバックや財布の中に入り込んでしまうのである。▼しかし、いったいぜんたい、何語でこの大図書館にアクセスするのであろうか。五月二日(土)

0 件のコメント: