2009年3月17日火曜日
キレギレの時間とバラバラな空間 (390)
▼吉阪隆正『地域とデザイン』(勁草書房)から。▼ブラジリアが+印を出発としたことに、その将来に現在の多くの都市の困難を内包してしまったように思う。私だったら+印のかわりに○印をつけてそこから出発しただろう。▼銀座は八丁である。それより先は京橋。英米系でも二分の一マイルが限界としている。メートル法なら800メートル。これは歩行とのかかわりだ。普通の歩行速度は時速4キロ、それだと800メートルは12分である。ぶらぶら歩きで半分の速度で進めば24分、約半時間、往復して1時間というところだ。もし真ん中にいれば、端まで15分。その15分は普通に歩けば7分半、急げば5分。つまり5分が至近距離で、15分が近距離ということになる。それは気分の変わらないうちに目的地まで到達できるということである。▼中国の鄭州の並木が思い切って枝を張っているのは、電線にふれないように、途中でY字型に枝が伸びるように仕立てている。▼キレギレの時間とバラバラな空間。分業と移動の成立。ヨーロッパの音楽では、音符をつくり、一定の間隔をきめる。何らかの感情を出すのに、他の人々とは違いがあるが、とにかくしの一定時間の中で合わせようとする。東洋の音楽はこうではなく、伸ばしたければ声を伸ばして、その伸ばし方のうまさを競ったり、それが音楽のよさとして評価されたりした。そうするとテンポは伸びたり縮んだりで、違った人とハーモニーをつくるのはむずかしでしょう。ヨーロッパでは、同じ時間の中で大勢の人が協力し合って音楽をつくる中で、このキレギレになった時間をつなぎ合わせる訓練をしたのではないでしょうか。▼ル・コルビジェがはじめてアメリカ大陸を訪問したとき、既に直径100キロ以上に伸び拡がったニューヨーク、シカゴを見て、大変な浪費だと叫んだ。税金の半分はこの伸び拡がった世界の維持に支払われていると。それは鉄道で、道路で、その上を走る機関で、それを維持するための投資で、といった物的なものばかりでなく、その広範囲を往復しなければならない人々の、生活時間の浪費でもあると。人生は24時間の連続だ。その24時間の内で出来ないことは一生かかってもできない。通勤を強制された人々は、それだけの時間を失う。しかも労働にさく時間の半分は、この強制移動をまかなうための無駄なのだ。多くの人と物とを移動するため。そして、そこからは風が生じるだけであると。三月十七日(火)
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