2009年10月11日日曜日

読書、散歩、お茶、静寂。

『ヘンリ・ライクロフトの私記』(ギッシング・平井正穂/岩波文庫)から。おもに静寂と読書と散歩の話です。▼私の家は申し分のない家である。この上なく幸せなことに、これまた同じくらい申し分のない家政婦に恵まれることができた。声の低い、動作のてきぱきした女で、分別に富んだ年配でもあり、私の必要とするあらゆるサービスをさっさとやってくれる健康で器用な人である。それにありがたいことに彼女は少しも寂しがりやではない。彼女は朝早く起きる。私が朝食をとる頃には、食事の支度のほかは一切が片付いている。瀬戸物のカチャカチャいう音でさえ、私はめったに聞いたことがない。ドアや窓を閉める音にいたっては一度も聞いたことがない。なんという祝福された静寂であろうか。▼「人間とは自らの不幸を嘆く愚痴多き動物なり」この言葉の出典がどこか、私はよく知らない。しかし自分を憐れむという贅沢がなければ、人生なんていうものは堪えられない場合がかなりあると思う。▼私は新しい生活へ入っていったのだ。それまで私は植物や花のことはほとんど気にもとめていなかったが、今やあらゆる花に、あらゆる路傍の草木に、深く心をひかれる。歩きながら多くの草木を摘んだが、明日にも参考書を買って、その名前を確かめようと考え、独りで悦にいっている私であった。▼平和ないこいの一夜があければ、ゆうゆうと起き、いかにも老境に近い男にふさわしくゆっくりと身じまいをし、今日も一日じゅう本がよめる、静かに本がよめるといういい気持になりながら階下に降りてゆく。▼春を私は充分に楽しんだであろうか。私に自由がもたらされた日以来、四度も新春を迎えた。そしてスミレが散りバラが咲く頃になると、この天の賜物をせっかく身近にありながら、充分味わうことがなかったのではないか、といつも不安に思うのだ。牧場に行けば行けたのに、多くの時間を読書に費やしてしまったりした。えられた効果は結局おなじであったかどうか。半信半疑で、私はわが心の言い訳に耳を傾けるのである。▼一日の生活の中でもっともいれしい瞬間の一つは、午後の散歩から少し疲れて帰り、靴をスリッパにかえ、外出着をよれよれのゆったりしたいつもの普段着にかえ、深い、ふわふわした肘掛け椅子に腰をかけて、お茶のくるのを待つあの瞬間である。が一番くつろいだ気持になるのは、おそらくお茶を飲んでいる間であろう。最初の一杯にはいかに大きな慰めを覚え、次の一杯にはいかにしみじみした味わいを覚えることか。肌寒い雨の中を散歩した後なぞ、一杯のお茶のもたらすしみじみした温かさはなんと素晴らしいものか。▼時がたつのが早いと思うようになるのは、われわれが人生に慣れ親しんだ結果である。中年を過ぎると、人はあまり学ぶこともなくなるし、また期待することもなくなる。今日は昨日と同じようなものだし、また明日の日とも同じようなものだろう。ただ心か肉体に苦しみがあるときには、ふだんなんということもない一時間一時間が長いものと感じられよう。一日を愉快に過ごすことだ。さすれば、てきめんに、一日も一瞬の短さに縮まるであろう。十月十一日(日)

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