2009年8月28日金曜日
「三四郎」をヨム1
『三四郎』(夏目漱石・岩波文庫)から。▼美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上に卸した。その時三四郎はこの女にはとても叶わないというような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた。「迷子」女は三四郎を見たままでこの一言を繰返した。三四郎は答えなかった。「迷子の英訳を知っていらしって」三四郎は知るとも、知らぬともええ得ぬほどに、この問いを予期していなかった。「教えてあげましょうか」「ええ」「迷える羊(ストレイシープ)―解って?」三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である。…「馬券で中(あて)るは、心の中を中るより六ずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中て見ようとなさらない呑気な方だのに」。▼『学生と読む『三四郎』』(石原千秋・新潮選書)から。▼フロイトに教わるまでもなく、「冗談」は多くの場合「本音」である。▼真っ当な文科系の大学生になるためには、大学図書館はもちろんのこと、書店が好きにならなければならない。図書館は「過去の本」がある場所で、書店は「現在の本」がある場所だからである。▼社会人が学び直すことは、いわばそれまでの自分の生き方の否定につながるともいえる。逆にいえば、自己否定にならないような学び方では充分に学んだことにはならないのである。小説にはたくさんのことが書き込んであるのに、登場人物の「気持ち」や「心情」を読み込む読み方しか出来ないでいる。目の前に表れている言葉を素通りしてしまうのだ。▼一つの所にじっとしていられない。まるで、「焼けたトタン屋根の上の猫」である。▼掃除はごみの移動にすぎない。締め切りのある仕事は、すべて雑用である。▼僕の長年の経験からすると、頭のいい学生が必ずしも文章が書けるとは限らないが、文章が書ける学生は間違いなく頭がいい。▼繰り返すが、『三四郎』の隠された物語は美禰子と野々宮との別れだった。三四郎は「お邪魔虫」だったようなところがある。しかし美禰子は自分に恋していると勘違いしていた三四郎には、美禰子の方が変化しているように見えてしまう。もっと言えば、三四郎から見れば、美禰子が三四郎を裏切ったように見えてしまう。それを、美禰子と野々宮との関係から捉え直して論じれば、『三四郎』の演習は終わりを迎えることができる。つまり、『三四郎』の演習は、主人公三四郎をどこまで突き放してみることができるかに掛っていると言える。それは、それまで「主人公」にしか感情移入してこなかった学生にとっては、新しい「体験」だ。そういう体験を通して、彼等は小説を読める「大学生」になるのである。▼「その時僕が女に、あなたは画だと云うと、女が僕に、あなたは詩だと云った」。八月二十八日(金)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿