2009年8月28日金曜日

「三四郎」をヨム2

▼(つづき)僕が採用している「テクスト論」は「作者」に関するデータを使わない。その不自由さが、学生のテクストの読み方に様々な工夫をさせ、さらには方法論を育むのである。ちょうど中学入試の算数が、方程式を使えばあっさり解ける問題をあえて方程式を使わせずに解かせることで子供の頭を鍛え上げるように、である。想像力は不自由さから生まれるという逆説を、僕は信じている。たとえば、手を使うことを禁じたサッカーが足の芸術を生み出したように。▼近代国文学演習Ⅰでは、一年かけて夏目漱石の『三四郎』を読むことにしていた。一年を通して『三四郎』の作者夏目漱石には言及しないというルールも作った。たとえば、『漱石全集』から『三四郎』に関係ありそうなところを引き抜いてきて『三四郎』を論じることは、研究でも現実に行われている。しかし、これでは作者から解釈コードを貰って『三四郎』を読んで済ませることになる。学生が「自分の力」で小説を読むということは、そういうことではない。自分で解釈コードを探し、その解釈コードを使って目の前の得体の知れない小説テクストを「自分の言葉」で語り直すことが、「自分の力」で読むことなのだ。学生にはそれを学んでもらいたいと思った。この「語り直し」のことを、僕は「翻訳」と呼んでいる。それは「自分の読み」を形にすることである。しかも、小説テクストは、小説テクストをそれとは異なる言葉の体系に「翻訳」することで、はじめて「自分の読み」を他人に伝えることができる。それが、読みの「個性」を他人に認めさせることではないのか。これは、知的なコミュニケーション能力を身につけることだと言っていい。だから、教育にはぜひ必要な過程なのである。しかし、小説テクストは多様だ。したがって、大学では解釈のコードをできるだけ多く身につける練習をする必要がある。その手助けをするのが、僕の仕事だ。小説のテクストの自分なりの翻訳という方法は、世界というテクストを自分の解釈コードを使って自分の言葉に「翻訳」することで、それを他人に伝える知的なコミュニケーションに応用可能だ。また、世界を自分のコードで解釈することは、自分なりの世界観を持つということである。それが個性というものである。その個性が、社会の中で自分の「商品価値」になるのではないだろうか。八月二十八日(金)

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