2009年6月2日火曜日

ユダヤ人の受難

『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹・文春新書)から。▼「ユダヤ人」というシニフィアン(意味するもの)を発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。▼ユダヤ人問題は私たちの社会に構造的にビルトインされているので、ユダヤ人問題は終わらないだろう。▼ユダヤ人はなぜ知性的なのか。ひとつは、ユダヤ人が反ユダヤ主義者に「捕食」されないために、ビジネスマインドや学術的才能を「やむなく」選択的に向上させていった。サバンナの草食動物が肉食獣に捕食されないために視力や脚力を発達させたのと同様に。もうひとつは、民族的に固有の聖史的宿命ゆえに彼らが習得し涵養せざるを得なかった特異な思考の仕方の効果である。歴史を超えて、あらゆる時代、あらゆる場所でユダヤ人は迫害されてきた。第二次大戦のホロコースト受難でも神から見捨てられた。ユダヤ人は非ユダヤ人より世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならなかった。神はそのためにユダヤ人を選ばれからである。レヴィナスはそう考えた。だから受難はユダヤ人にとって信仰の頂点をなす根源的状況なのであり、受難という事実を通じてユダヤ人はその成熟を果たすことになる。▼ユダヤ的思考の特異性とは「知性的な」ものであり、ユダヤ人に対する欲望とユダヤ人に対する憎悪はそういうことに継起している。サルトルには申し訳ないけど、ユダヤ人をつくり出したのは反ユダヤ主義者ではない。やはりユダヤ人が反ユダヤ主義者を作り出したのである。この行程を逆から見ると、反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎むのは、それがユダヤ人に対する欲望を亢進させるもっとも効果的な方法だからという理路がみえてくる。▼ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは「遠き神」についての弁神論を語り終える。この屈折した弁神論は、フロイトの「トーテム宗教」ときれいに天地が逆転した構造になっている。▼どうしてこのような文明的なスケールの断絶が古代の中東で生じてしまったのか。私たちに分かっているのは、このような不思議な思考習慣を民族的規模で継承してきた社会集団がかつて存在し、今も存在し、おそらくこれからも存在するだろうということだけである。六月二日(火)

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