2009年9月22日火曜日

漢字の始原

『白川静』(松岡正剛・平凡社新書)から。▼中国の神話は非体系的だったので、古代ギリシャのように神々の論理がつくりにくかった。けれども、どんな民族の原始社会も神話的なるものからはじまっているのですから、古代中国の社会や観念の原型や類型をみるには、神話体系に匹敵するものを探さなければならなかった。ではどうするか。ひとつはそれでもなお神話の断片を集めていくことですが、それだけをやっていくのでは神話のつくりなおしになりかねない。この方法は、ヨーロッパの文化人類学が試みてきたもので、たとえばレヴィ・ストロースは「ブリコラージュ」といって、神話はそもそも各時代で「修繕」されつづけてきたのだから、現代の学問や思想もそのブリコラージュに取り組むべきだと主張したのです。▼でも、こういうやりかたは、そもそもミュトス(神話)やロゴス(言葉)が論理をともなっていた、ギリシャ・ヨーロッパ的なものには適用できるかもしれないけれど、どうも東洋にはあてはめられないのではないか。おそらく白川さんはレヴィ・ストロース構造主義と自分の方法とを比較したことなどなかったとおもいますが、かりにあったとしても、きっと結果としては、そう考えただろうと予想されます。かくて白川さんが注目したのは、まず祭祀です。次に習俗、もうひとつが歌謡だったのです。▼こうして白川さんは日本の古代歌謡(『万葉集』)と中国の古代歌謡(『詩経』)を、文字学的な目と民族学的な目の両方をもって、読み解いていきました。そして、これまで『万葉集』の鑑賞などで、自然の美しさを感嘆しているから叙情歌だとか、孤独な誰かが亡くなった心境を詠んでいるから挽歌だとか説明されてきた多くの詩歌には、実のところは、古代共同体の祭祀や秘密にかかわる強力な呪能があらわされているのではないか。そこには、たんに印象詠歌ではなく「呪能の発揚」という必然がひそんでいるのではないか。そう解読していったのです。九月二十二日(火)

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