繰り返し聴き、繰り返し読む... 2
目覚め... 2
一目置く. 2
無財七施... 2
アリは働き者か... 3
本は買って読む (20). 3
「捨てる」再考... 3
気にならない... 4
こどもニュース... 4
傾聴ボランテア... 4
声が低くなる.. 5
忘れたいことがあると泳ぐ.. 5
英数国社理... 5
その手は桑名の焼き蛤... 5
暮らしの三科目... 6
簡単な暮らし (10). 6
捨てる.. 6
像のインディラ.. 6
明治に浸る.. 7
動かず... 7
水たまり.. 7
途方にくれても腹は空く. 7
「たこ焼き」の夏休み... 8
雑草はエコガーデンの顔役... 8
この指に… (00年). 8
繰り返し聴き、繰り返し読む
今年繰り返し聴いたものは、内田光子の「シューベルト・ピアノソナタ」、若きアルゲリッチ23歳の時の「ショパン・ピアノソナタ3番(復刻盤)」。それにビルエバンス(CD七枚)、マイルス(CD十五枚)。就寝時にも携帯CDプレーヤーで聴きく。そのためか日中耳に憑いて離れないこともある。読み返しているのは、岩波Jr新書「日本の歴史」六~九巻、藤田省三「戦後精神の経験Ⅱ」、それにワープロで貯めた三十年分の「書抜帖」である。繰り返しは基本が欲しいからか。私は三十年間同じ仕事場で働いた。職人なら許せるがすでに手遅れ。十二月二十九日(金)
目覚め
今は遮光カーテンを開けると朝日が目に染みますが、昔の家での目覚めは、睡眠から覚醒への移行が穏やかです。曙の光が障子の広窓を通して侵入しながら、目覚めさせる役を引き受ける。眠っている者は、猪突にではなく、むしろ網膜の底を撫でながら、気づくともなく徐々に目覚めていくのです。日本人はかくて、日の出のその始めから日と一体となり、まず、ご飯と味噌汁と小魚をお腹に収める。やおら身支度をし、ゆるやかな目覚めのリズムと言うかメロディを体に残しながら出かける。しかし私の半世紀の朝は目覚し時計に頼っていた。それが今は目覚ましが鳴るのを待っている。十二月二十二日(金)
一目置く
チベット人には、規則とかタブーとかを要領よく融通を利かせるという特徴がある。それに彼らは個人主義者で個人の徳を率直に評価する。彼らが一目置く人間というのは、何らかの意味でピリッとした人間、あるいはバックボーンのある行動する人間だ。それが腕力であれ、知力であれ、寛容の徳であれ、狡さであれ、とにかく何らかの点で一本筋の通ったものに一目置くようである。川喜多二郎「鳥葬の国」講談社学術文庫より書き抜き。十二月十七日(日)
無財七施
何はなくても出来る無財七施の教えが仏教の経典にある。顔施(穏やかな顔)、言施(柔らかな言葉)、心施(やさしい心)、身施(体を使って手助けする)、眼施(暖かいまなざし)、座施(席を譲る)、宿施(訪れた人を快く迎える)の七つである。普段は「ふむふむ」「なるほど」「それで」「それから」いうように相手に絡みながらも相手を倒さないように生活するのがいい。でもこの教えに逆らって毒づきたいときは、最後は自分も笑いのタネになる器量がないと拙い。言う方が傷つかない毒舌は単なる嫌味。毒舌や悪口は必ず面と向かって言う。絶対に陰で言ったり、第三者に伝えたりしてはいけない。ということが最近ようやく分かってきた。それに、自らを空しくして、相手の存在をあるがままに受け入れ、中庸の気の中で見つめにくいことがいかに難しい技であるか。これは日頃の人間関係においても四六時中直面している問題である。それが出来ないから遠くへ行ってしまいたい気分になる。「落日を拾いに行かん海の果て」(壇一雄)。十二月八日(金)
アリは働き者か
アリは一見働き者のように見えるが、実は最も怠け者の昆虫である。アリの集団の中で働く固体は2割に限られ、あとの8割は完全に怠けている。では働く2割を隔離した場合はどうなるかというと、やはりその中の8割が怠け始める。その怠けている8割の固体を隔離した場合、その中の2割が働き始める。こうなると生物集団の生命維持原理が見えてきます。我々の肉体でもDNAなどは9割以上は重複情報であり、実用性からいえば全く役にたっていないというから、怠け者や役立たずの八割の部分にも生物の存在理由が認められることになる。今は迷わず、私は八割の方で怠けていたい。十二月一日(金)
本は買って読む (20)
本屋さんにも図書館にも欲しい本がない。本屋さんに言わせると、店頭陳列期間は三か月で、代理店が主導権を握り書店の自由にはならない。注文は「版元品切れ再版予定不明」と回答するが、実際には出版社の倉庫に死蔵されていることが珍しくないと、早川義夫「ぼくは本屋のおやじさん」(晶文社)はぼやく。一方、著者の側からは、林望が文藝春秋12月号で「図書館は無料貸本屋か」と問うている。図書館で借りたり、知人から借覧した書物のことは、もうみな忘れてしまった。そんなものなのだ。一夕ビールを呷るなら本は買って読め。また図書館は同じ流行本を何冊も何十冊も所蔵するものではない。娯楽本は自分で買って読むというのが当たり前。図書館は次第に無料貸本屋の様相だし、館員は納税者たる市民に何の顔(かんばせ)あってあい見えることができようか。重複本を制限し別の本を揃え、どんな要望にでも応えられる多面的重層的な蔵書とすべき。全国の公共図書館二千六百館が地道な良書を選書するとしたら、それだけで二千六百部の有効需要が生まれ、流行本の陰で書店からすぐ姿を消す小部数本が救われる。図書館が、出版界の衰退を助長し、良書の普及を妨げ、著作権の無料使用をさせているだけの「タダ読み館」だとしたら、これはどうしたものか。十一月二十五日(土)
「捨てる」再考
「捨てる・捨てない」が誌上で白熱。立花隆が文藝春秋12月号で辰巳渚「捨てる技術」(宝島社新書)こそが最初に捨てられるべき本と一刀両断。捨てるための考え方が誤っているらしい。あなたがモノへの執着を本質的に断ち出家した瀬戸内寂聴になれないなら、捨てないことが基本であると言う。どうしても捨てる必要に迫られた時は脳のとっさの判断に任せるのが良いらしい。しかし、写真、書かれたものなどの情報記憶媒体は記憶のキャリアとして最も強力なもので、「思い出のモノ」は捨てられない筈。情報のゴミでも、その人が生きている限り、大事なもの。モノで溢れた場所をスッキリさせる自己切捨ての快感を、他人に押し付けるのは異常行動である。文化の中核の担い手はみんな「捨てない派」である。ストックを捨てることはポテンシャルを捨てること。捨てる捨てないは本人以外がしてはならない。生命システムは、桂離宮とデザイン原理が正反対で、無駄なものの集積と言える。私自身は立花氏や辰巳氏と多少違い、不用本は図書館かリサイクルショップへ、写真と資料はパソコンに収納するなど、資料変換しながら選択廃棄し持物縮小をしているが、やはりポテンシャルとなると少し物足りないのは事実。十一月十七日(金)
気にならない
何時からか、他人にどのように見られているかを気にしなくなってきた。初対面のオバさんやオジさんとも自然体で話せるようになった。人にものを尋ねるのも平気になった。これは奇跡的な出来事だ。人見知りする性格もあり、以前は他人に質問するのが苦手だった。知らないことを教えて下さいと頼むのが下手だった。自分の殻が硬かったかもしれない。今では夏なら短パン・Tシャツ、冬なら綿入れ姿で、靴下の踵が薄くなっていても平気で人前に出られる。鷹揚になったのか。人の目を省略すると、装飾する言葉とモノは僅かで済むから気楽になりつつある。しかし気楽はダラシナイと誤解される。十一月十一日(土)
こどもニュース
子供向けのTVニュースは侮りがたい。欠かさず見ているのが土曜夕飯時の「NHK週刊こどもニュース」です。風呂上りのビールを嗜みながらビデオでじっくり見る。噛み砕いた言葉は、大人向けのニュース番組をしのぎます。しかも模型など多彩な方法が駆使されていて、「なるほど」と立ち止まって思考することが出来ます。毎日の中では「チョット待てョ」と留まることがありませんから、1週間のうちで集約された大事な時間となります。そのことと関係はありませんが、私は動かない写真を贔屓にしていますが、あなたは動画と写真のどちらを好みますか。(池上彰「これが週刊こどもニュースだ」集英社文庫)。十一月三日(金)
傾聴ボランテア
やるとしたら「聴くボランテア」かもしれない。老人病院やホスピスの患者が、ポツリポツリと語る人生の回顧や心の中にある悲しみに耳を傾ける。意見は言わない。「そうだったのですか、辛かったのですね」と肯定的に対応する。傾聴を重ねるうちに、患者はいつの間にか自分の人生を長編の物語のように辿ることになる。患者が希望すれば語ったことをワープロで打って冊子にまとめる。自分の一代記を語ると心が癒され、自分が他の誰でもない人生を生きたことに納得して、穏やかに死を迎えることが出来ると言う。重兼芳子「たとえ病むとも」(岩波現代文庫)は絶筆となったが、辛いけど光はある。十月二十九日(日)
声が低くなる
子供の声の音域が三度ほど低くなっている(服部公一「子どもの声が低くなる」ちくま新書)。五十年前は真中のドから上にレミファソラシドレミの十度の音域で「七つの子」「かもめの水兵さん」などの童謡が作曲されていた。それが近頃はラシドレミファソラシドと三度低くなって、「だんご三兄弟」の登場である。かの低音の魅力フランク永井なら上手く歌えることになる。かって木と紙のスカスカの家屋構造が地声を大きくさせ高音の声を必要とさせたが、今は硬い構造の家屋で大声を出す必要もない。東京の人たちは低く囁くように話すし、女性アナウンサーも低音です。ところで人はなぜ歌うのか。楽しいからか。首狩が上手い種族は歌も上手いが、歌の下手な種族は滅びたという話を思い出した。十月二十二日(日)
忘れたいことがあると泳ぐ
思い出したいときは風呂につかり、忘れたいことがあるときは泳ぐ。脱力した腕の手先から入水。水中で肘を引き付けて伸ばし、そこで力を抜く。顔を水から半分出して空気を吸う。筋肉を一定のリズムで動かし、その作業に心肺を持続させる。プールから上がり帰路につくといつもイイ気分になっている。でも今はからだの事情が変わったため水中ウォーキングと半々にしているが、体の調子が整うと気分も整う。丘沢静也「からだの知恵こころの筋肉」(岩波書店)。十月十七日(月)
英数国社理
大学生の学力低下の元凶は3割以上の推薦入学方式にあるという(川成洋「大学崩壊」宝島新書)。特に分数を含む算数が出来ない。ちなみに次の計算ができますか。第1問 7/8-4/5=? 第2問 3×{5+(4-1)×2}-5×(6-4÷2)=? 第3問 2÷0.25=? 正解は国立大理系で8割、早慶大経済学部で7割の正解率だそうです。現在の一芸、面接、論文、推薦、スポーツ推薦などといった入試の多様化を一切やめ、学力テスト一本に絞らないと危ない。背伸びをせず自分の能力に応じた大学を選ぶ安全第一主義もオットリとしていいが、「英数国社理」の五科目を復活しないと他国に基礎学力で負け続けることになる。事実、英語力の国際比較でも隣の中国・韓国に水をあけられている。日本人の『どう考えるのか』ではなく『何々を知っているか』という思考習慣でさえ、「これから」の人たちの基礎学力不足で液状化するのだろうか。十月十六日(日)
その手は桑名の焼き蛤
「〇〇さんですか」「はい」と電話口に出るや「××金融証券ですが…」と延々まくし立てる。押されっぱなしも癪なので「もう結構です」と言ってみたが「判っていただけたということですね」とくる。憮然としながら「断るということ」と言って電話を切る。毎度憤慨するがうまい殺し文句はないものか。せめて次は「ちょいと その手は桑名の焼き蛤 出直しな」くらいのセリフは吐きたいと構えています。皆さんはドナイしてますか。十月七日(土)
暮らしの三科目
モノを少なくすると、暮らしの味つけに目が向きます。体を動かしたい、気持ちを奏でたい、字を覚えたい。ところが体育・音楽・語学という風に翻訳すると、途端に気持ちが萎むのは学齢の頃から不得手だからか。でも始めました。まず歩く水泳。水中逆立ちで足拍子もできます。次は芸ごと。ハモニカは息切れるので、ピアノを思案中ですが、周りの者たちは長続きませんョとお節介してくれます。伊太利亜語も三年目なので片言はモノにしたい。自分の嗜好の、有形から無形へのオキカエです。暮らしの味つけを好む動物なのです。曲水の宴。九月三十日(金)
簡単な暮らし (10)
身軽で簡単な暮らしの実験です。持ち物を減らしました。小型本箱に本三百冊とCD三百枚。食卓に小型電子辞書。百科辞典はパソコンにインストール。シンプル環境が部分的に整いました。これは「辞典とウィスキーだけあればいい」の詩人・田村隆一を下地にしました。ものが増えたらポィ、記憶もポィです。気楽で簡単な暮らしぶりになりました。ちょっと早過ぎた楽隠居と見えなくもない。九月二十六日(火)
捨てる
本や身の回りの「捨て上手」を自認していましたが、間違ってパソコンのスキャナーを動かす大事なCD-ROMをゴミに出したことが判って唖然。メーカーに泣きついたら、インターネットでダウンロードできることが判明。社会(会社?)にバックアップされているのなら、大事なものもドンドン捨てて身軽になれるのか。「捨てて困るものはほとんどないから安心せい」と若手の辰巳渚「捨てる技術」(宝島社新書)もハッパをかけていますが。憧れの明窓浄几。九月二十八日(土)
像のインディラ
森まゆみ「明治東京奇人伝」(新潮文庫)から拾った上野動物園の話。戦時中、食料難で猛獣類は毒殺され像は餓死したが、戦後すぐにブタ、アヒル、ニワトリ、ウサギたちで開園した。しかし動物園でなく「ブタ園」と揶揄された。昭和21年に東京の子供たちがインドのネール首相に手紙を書いたところ、自分の娘と同じ名前の像「インディラ」が送られてきた。「世界中の子供は皆似かよっているが、大人になると異なってきて時々喧嘩をする。インディラはインドの子供たちからの愛情と好意の使者です。像は賢く、辛抱強く、力はあるが優しい。この性質を身につけたいものです」とのメッセージを添えて。天地有情。九月二十一日(木)
明治に浸る
庭の雑草退治をしなきゃ。でも休みの日だから本の一冊くらいと、積んでおいた文庫本に手を出した。森まゆみ「鴎外の坂」(新潮文庫)。森鴎外はドイツ留学や軍医として日露戦争に従軍する起伏ある人生を歩み、強い人と思われているが、意外に周りの人たちに気を使い優しい。若き鴎外は明快、正直、恬淡、真摯、率直であり、この裏切らない人柄をみこんで文人墨客が集う。こんな明治の男たちと明治の女たちの世界に浸りました。司馬遼太郎の描く「この国のかたち」とは味が違います。読み終えると外は暗く除草はオジャン。九月十四日(木)
動かず
「くどくなる気短になる愚痴になる心はひがむ身は古うなる(狂歌)」という新聞の切り抜きが、読み止しの本から出てきました。ちょいと酔うともうイケマセン。話は何度も繰り返し、できもしない絵空事をついつい。素面でも身に覚えがあります。これに効く特効薬はないのですが、「寡黙」の練習です。自分で話すより聞いたほうが楽だし、ためになることの方が多いというばかりでなく、じっとしてると相手や事柄が向こうから語ってくれます。ウォッチングでもこちらが動いてはだめです。相手が動くまで待つのです。でも焦れてつい先に動いてしまうのはどうしたものか。「ひたものをご覧ぜよ」(世阿弥)を思い出しました。九月九日 (土)
水たまり
公園の池の周りを散歩していた親子のセリフ。こども「お父さんこれ海?」。お父さん「違う」。こども「じゃ川?」。「違う」。「じゃ何?」。「池」。こども「池って何?」。お父さん「水たまり」。こども「ふうーん」。わたし「じゃ沼や湖も水たまり?」と聞きたいところでしたが調べ学習をしました。そうなんです。湖沼は海と直接つながらない水たまりで、沼は湖より浅く植物が繁茂。池は人工的なものでこれも水たまり。庭園の池や田んぼは「水の貯金箱」なり。水たまりは日本の美と生業のミナモトでした。九月五日 (火)
途方にくれても腹は空く
震災に遭った神戸でタクシーの運転手が語ってくれました。あの日の未明にトランポリンのように何度かバウンドし気がついたら布団に瓦が落ちていた。昼近くに奥さんと「こんな時でも昼になるとお腹は空くもんや」と呆れて笑ってから、半年は笑うことはなかったと述懐してました。街は修復した建物と新しい住宅群が混在し、人々は忘れはしない出来事をかかえながら、足取りは快活でした。王子動物園へ向かう途中のことです。九月一日 (金)
「たこ焼き」の夏休み
半ズボンに手ぬぐいスタイルで、ルーツの淡路島を初訪問。花博もやってましたが、木陰もなく汗が流れるばかり。冷たいものを飲んだだけで、すぐ船に乗って明石に向かいました。明石焼が食べたかったのです。たこ焼きなんですが、卵でふわっと焼き上げた中にタコが柔らかく迎えてくれます。つけ汁でいただきます。15コがなぜか斜めに傾いた板にのせられて運ばれてきました。「昼網」といって海から採れたてのタコ・シャコ・サヨリが地面で踊っている鮮魚店がズラリとならぶ「魚の棚商店街」にその店(たこ磯)はありました。八月三十一日 (木)
雑草はエコガーデンの顔役
除草剤や殺虫剤をつかわない庭。クモは風が通るところに巣をはり、虫を捕らえる。蝶は不規則な舞いをしながら蜜を求める。土の上ではスギナ・アカザ・クローバーが、大事な花に混じって雑草の意地をみせる。ほじくり返すとミミズがくねくね。きれいにする手間が足りないから、雑木林のような庭になってきました。八月二十五日(金)
この指に… (00年)
この指に止まりて居りオニヤンマ空に忘れしこれまでのこと。カラッとした十勝平野も最近は蒸し暑く、なんと車庫に「マダラ・カマドウマ」が生息しはじめました。サッカー選手のような名前で、日本語の当て字も竈(かまど)馬。でも触覚が長く嫌な虫です。コオロギは好きなくせに、なぜスキ・キライが分かれるのか。多分これは幼児体験からくるものです。小さいころの体験はF1(一世代)だけに影響が現れますが、遺伝子より生活に及ぼす力は強いかもしれません。〇〇年八月十六日 (水)
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