上等、一人前 (227). 2
ゆるゆる.. 2
9条の2.. 3
憲法を変えて戦争に行こう.. 3
声は、あくびから.. 3
おい癌め... 4
脳は疲れず、目だけ疲れる 2.. 4
脳は疲れず、目だけ疲れる 1 (220). 5
タテ、ヨコ、ダンカイ.. 5
何も知らない日本人... 5
空っぽの冷蔵庫... 6
生活情報地図と連結財務諸表... 6
ばか者、若者、よそ者... 7
アングラ経済... 7
昭和天皇と戦争... 7
進化には重力が... 8
山に木を植える漁民... 8
ノートの切れ端 (210). 8
かるい気分で... 8
農家に知り合いは?... 9
なんでも半分... 9
いい町に…... 10
巣箱と粗朶... 10
米軍再編のネライ.. 10
ローマ法王... 11
使わないものは持たない... 12
クラシック音楽と本さえあれば... 12
あいづち (200). 13
オニババ2.. 13
オニババ1.. 14
舌先つるつる.. 14
チャペックの庭... 15
チャペックの犬... 16
シュミレーションする演劇2.. 16
シミュレーションする演劇1.. 17
異論、排除せず... 17
てほどき.. 18
新ちゃんの叔父さん(190). 18
「も」. 18
言葉の宝石... 19
地球四周と夜這い... 19
楽縁社会... 20
動物ガイド3.. 21
動物ガイド2.. 21
動物ガイド1 (183). 21
上等、一人前 (227)
年の暮れに今さらと思いながら、『男の作法』(池波正太郎・新潮文庫)なんて本を手にしちゃいました。▼はじめての寿司屋は、椅子とテーブルのある店であれば安心。そこへ座って「上等を一人前たのむ」こう言えばいいんだ。カウンターのお好みと同じネタで握ってくれて、しかもいくら高くたってたかが知れているんだよ。カウンターだけの店なら勘定は高くつくと覚悟しなきゃいけない。▼旅が嫌いだという人はあんまりいないだろうと思うけど、ぼくはねえ、どっちかというと億劫なほうなんだよ。家でゴロゴロしているほうがいいわけなんです。でも行きたいとなると、行ってみたいところがあると、南フランスへ行こうとか、事あるごとに思っていると、自然に行けるようになってくるんだよ。それはいわば「求心力」だね。何かにつけ、やっぱり求心力は大事だね。絶えずそのことを思っていれば、無意識のうちに少しずつ段取りを進めていくからね。だから自然にそうなるということなんだよ。▼そばを食べるときに、食べにくかったら、まず真ん中から取っていけばいい。そうすればうまくどんどん取れるんだよ。▼メモは取らないね。本を読んでも整理なんかしない。全部忘れちゃうわけですよ。ぼくはメモを取るのは日常的に忘れちゃいけないことだけ。だれだれにこう伝えておかなきゃということだけですね。ただ、仕事の上で、頭に浮かんだことを書きとめておくということはありますよ。でもことさら情報を収集するとか整理するとか、ぼくはしないね、怠け者だから。だけど若い人たちはやったほうがいいですよ。▼日記も、忘れちゃいけないことしか、今は書かないね。毎日食べたものとかね。これはある程度、家内のためですね。年中おかずを考えるのに困ったときに、ぼくのところへ来れば即座に答えてやることができる。▼すべて五分五分とおもっているね。直木賞なんかも入るかもしれないし落ちるかもしれない。戦争に行っても、戦死するか生き残って帰ってくるか、それは五分五分。おおげさかもしれないが、五分五分の人生観というか考え方をしてないと、時間がもったいない。悔やんだり落胆に時間をかけるのはもったいない。▼すき焼きのねぎは、斜めに切らないで短くぶつ切り。鍋に縦に並べるわけよ。そうすると、ねぎというのは巻いてあるから、その隙間から熱が上がってきて、やわらかくなる。▼サービス料がある場合はチップはいらないというのは、これは理屈ですよ。だけどね、こういうことをいうとまた誤解されるかもわからないが、かたちに出さなきゃわかんないんだよ、気持ちというのは。タクシーの運転手さんに「ありがとう」と言ってね、ただ「ありがとう」だけじゃ駄目なんだよ。なにがしかの身銭を切らないとね。たとえ百円であってもね。▼女の人は、自分と自分のすぐまわりのもの、現実的な生き方という面においてすごく強いわけだから、自分の女房にする場合にまず考えることは、「女の中では、ほかのことにも割合に気がまわる女か、どうか」ということです。たとえば電話のかけ方でだいたいわかるじゃない、女は。▼今年はご苦労さまでした。よいお年を。十二月三十一日(土)
ゆるゆる
小曲だけでいいから、世界最高水準のピアノ演奏をしたいといって、呼吸の仕方や、体の中心装置を習得するため「ゆる体操」を始めた人がいる。ということで『だれでも達人になれるゆる体操の極意』(高岡英夫・講談社α文庫)から。それに、もめごとや交渉ごとには胸襟を開きハラを据えなければ、というときも「ゆる体操」です。▼それではまず、「寝ゆる体操」から。「腰モゾモゾ」「すねプラプラ」「膝コゾコゾ」を。▼つぎは「椅子ゆる体操」を。「腕支え腰モゾモゾ」「背もたれ首モゾモゾ」「手首プラプラ」。▼つぎは「立ちゆる体操」。「ひじクルン」「肩ユッタリ回し」「肩こりギュードサー」「胸フワフワ背フワフワ体操」「足ネバネバ歩き」「魚クネクネ」。▼つぎは「息ゆる体操」。「息ハートロトロ」「股キュートロトロ」「息スーハートロトロ」。▼これらの体操を日々の生活や活動に取り入れる。まずはテレビをみながらの「ながらゆる体操」です。二つ目は、何かを待っている間に、ちょっと手持ちぶたさになったときの「すきまゆる体操」です。三つ目は、せっぱつまったら、どうしたらいいかわからなくなったら、余裕がなくなったらの「なったらゆる体操」です。この三つのやり方で、日常にバンバン取り入れる。なにをしていてもできるのが「ゆる体操」です。▼ゆるゆる言いながらやってると、それなりに身体がふにゃふにゃ。十二月十六日(金)
9条の2
政治は「何でもあり」の様相で、しかも大衆扇動の気配が感じられる。田中宇の配信メールから。▼小泉首相の靖国参拝の目的はなにか。あえて中国との緊張関係をつくりだしているのだ、との見方がある。それは、日中や日朝の関係が好転してしまうと、「在日米軍が撤退しても、今のままの憲法で良い。自衛隊を強くする必要はない」という世論が強くなる。アメリカが「日本の防衛は日本自身でやってくれ」という意志である以上、従来の「日本をアメリカが守る」という前提で作られた日本国憲法も、改定が必要になる。しかし、改定を実施するためには、いわゆる「平和ぼけ」の世論が邪魔だ。▼ここしばらくは、靖国参拝や、東シナ海油田、竹島問題、北方領土問題に対する強硬姿勢によって、中国や韓国、ロシアなど周辺国との関係を悪くしておき、国民を「強い軍隊を持たねばダメだ」という気持ちにさせ、憲法改定や、防衛庁の省への格上げ、防衛費シーリングの緩和、独自の軍事産業の育成などを実現しようというのが、小泉政権の意図ではないかと思われる。▼実際、自民党は11月22日の結党50周年大会で、戦力不保持を決めた条項(9条の2)を削り、軍隊(自衛軍)の保持を明記する憲法改定案を発表した。今回の憲法起草委員会では、中曽根元首相がとりまとめた憲法前文「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び…」をばっさり切った。委員会の軸になっている舛添要一参議院議員は「中曽根前文は復古的な内容で、公明党や民主党が憲法改定に賛成できなくなってしまうから削除した」という主旨の説明をしている。憲法草案は、前文以外の部分でも、公明・民主を抱き込めるようにした。草案は9条について、「戦争放棄」を定めた9条1項は現行憲法どおり残すが、「戦力の不保持」と「交戦権の不認」を定めた9条2項を改定し、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を「内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する」とした。▼「戦争放棄」を削除すると、多くの国民の支持が得られなくなり、公明・民主も同意しにくいが、2項の変更だけの場合、交渉の余地が大幅に広がる。この点についても舛添氏らは、自民党内に9条1項の削除や改定を求める声があったのを無視して草案を決めている。また自衛隊の名称も、党内には「国防軍」にという主張があったが、公明・民主を抱き込めるよう「自衛軍」とした。舛添氏は、党の会合で「今回の憲法改定は、9条2項を変えることに尽きると言っても良い」と説明している。▼米軍が一方的に在日米軍の空洞化を進めている中で、小泉政権としては、自衛隊を早く正規軍に昇格させる憲法改定に込まれている。一方アメリカは、日本が防衛力を持つために国内のナショナリズムを扇動する必要があるなら、尖閣でも靖国でも、何でも使って良いと考えている節がある。また「日米が協力して中国を封じ込める」という構図づくりは、日本国民を好戦的な方向に引っ張っていくためのたイメージ扇動であろう。日本人の大多数は、これに乗せられている。ほぼ間違いなく言えることは、今のアメリカは、日本に従属を求めていないし、中国包囲網を強化する方向にもないということだ。▼この記事は深読みし過ぎだろうか。大衆扇動のつぎに、右向け右、なんてことには。十二月九日(金)
憲法を変えて戦争に行こう
話題の自民党憲法草案は、憲法を変えて戦争へ行こうという内容です。同様の『憲法を変えて戦争へ行こう』(岩波ブックレット)では、憲法9条と護憲への思いを18人が伝えている。でも、具体の提案はひとつだけだった。▼日本のODA予算は8千億円、その一方で防衛予算は4兆8千億円とODAの約6倍。それを逆転させて、アジア、南米、アフリカの国に思いきり援助を厚くしてはどうなのか。ミサイル一発が1億円として、そのお金で、アフリカなら5百万円で1校、つまり20校の学校が建つ。どちらがいいかは、あきらか。そうして国際社会で日本はやさしい国、いい国だと認められれば、たとえばどこかの国が日本を侵略してきた場合、他国は一緒に立ち上がってくれると思う。それは戦力を持つよりはるかに日本の安全につながると思う。▼この提案は光っているが、改憲の流れのなかでは埋没してしまうのでしょうか。十一月二十五日(金)
声は、あくびから
話の間を空ける、はっきりと言う、トーンを変える。このあたりの至芸なら、噺家の古今亭志ん生あたりでしょうか。さてその声づくりの基本はどんな風に。『声のトレーニング』(福島英・岩波ジュニア新書)から。▼ベストの声だと、のどや首、あごなどで声がじゃまされずにうまく共鳴しながら、遠くまで伝わっていく。芯があり、ひびきに線が通っている声。奥行きがあり、はっきりしていて、鋭くも柔らかい声。▼そのためにはまずは、ため息から声にすることから始める。のどのあたりが響かないように、胸の中心がひびくようにしてみる。口の奥がのどの方まで広がる感じで、あくびをする。このとき、あごは前に出さないように。その口の形を変えないで、声を出す。アーエーイーオーウー。口の奥が開くと、声は出しにくいが、うすっぺらな声ではなくなる。息ばかりがもれる人は、あくびをして口の奥の天井部分に声を当てる感じで、声を出す。▼声は体調しだいで、音色もひびきもトーンも変わる。声は生の自分をさらしているのですね。恥ずかしい、はずかしい。十一月二十三日(水)
おい癌め
10年後には、2人に1人ががんで死亡するらしい。高齢になると老化した細胞が、間違いコピーをしやすいからだ。『自分を生ききる-日本のがん治療と死生観』(中川恵一×養老孟司・小学館)から。▼末期のがん患者は痛みを訴える。「先生なんとかしてください。いまの状況を楽にしてくれたら、あとのことは、いっさいどうでもいい。死のうが生きようがもうそんなことは関係ない」。▼モルヒネを注射すると中毒症状はあるが、口から飲むと、中毒症状はない。だからモルヒネ類で痛みを和らげるのがよいと思うのだが、まだ米国のようには使われていない。「おれは死ぬんだよな」というとき、痛みをがまんしてどうなるのってことに、直面する。▼患者さんががん、あるいは死に直面したとき、まずは「否認」する。次に「なんで自分が」と「怒り」、「もし治ったら」と神様と「取り引き」をして、「抑うつ」などを経て、それを「受容」する。それに、こんな人もいる。「死ぬならがん」。死ぬまで時間があるので、身の回りの整理ができて、人に見せたくないものとか燃やさないといけないものとか、いろいろありますから。▼さて、この人の闘病もそうでした。『おい癌め酌みかはそうぜ秋の酒』(江国滋・新潮文庫)から。食道がん告知、十時間余の大手術、水一滴飲めぬ術後、再発を日記につづる。敗れはしたけれど闘病の六ヶ月はつらくはあるんですが、折々の句が救いです。▼さてさてと思いながら、厚生労働省認可の緩和ケア病棟を調べたら道内に6ヵ所、そのうちの一つが恵佑会札幌病院でした。ここの院長は私のかかりつけ。なら、何かの時には頼りにしようか。十一月二十二日(火)
脳は疲れず、目だけ疲れる 2
▼海馬は寝ている間に、記憶の整理整頓をしている。外界をシャットアウトして、余分な情報が入ってこないようにして、海馬の神経細胞1千万個が、それぞれの細胞で情報をつないだり、新しい組み合わせをしたりしている。寝ている間の海馬の情報整理をレミネセンス(追憶)という。たとえばずっと勉強していて「解らなかったなあ」と思っていたのに、ある時目からウロコが落ちるように解る場合がある。それがレミネセンスの作用。ピアノの練習をいくらしても弾けなかった曲を、次の日にすらすら出来てしまったりする。脳が夜、情報のつなぎ換えしているうちに、出来るようになることもある。ただ、寝不足になると、海馬はその整理整頓を今度は起きている間に始める。つまり幻覚症状。▼海馬の神経細胞のつながりは、受け手の細胞がカギを握っている。受け手が受け取らないと情報が流れない。イニシアティブは、受け手が持っている。プロポーズもプレゼンテーションも、何もかもぜんぶがそう。受け手にとっては「はい」って言うだけの仕事量なんだけれど、その「はい」がすべて。▼脳は安定化したいという性質が強いので、自分があらかじめ言ったことに対しても、どんどん安定化していこうとする。いいことを言うと、その通りになる。悪いことを言っても、その通りになる。言葉の呪いがかかってしまう。▼脳は安定を求めるから、やりかけのことだけが募ってくると、当然、誇りは生まれない。誇りを生むためには、ちょっとでも完成したものを残しておくというか、そうしないと、自信は出てこない。インターネットでは、未完成のものが使える。お陰で、「やりかけに見えるけれどもここまでは考えた」という軌跡はぜんぶ残るので、あとでつながる。考えた結果ではなく、考えのプロセスをアウトプットしている。インターネットがなければ、考え途中のことを発表することは出来なった。これは、科学の世界でもおなじ。昔の科学は結果勝負ところがあって、全部を証明してから発表していたんですが、今は仮説のまま公表しちゃう。仮説の発表後に人が寄ってきて、その仮説を証明していくというように、科学全体がプロセス重視に変わってきている。閉鎖系から開放系へ、です。▼頭のいい人は、長期的な視点からみれば案外進化しない。頭のいい人は、ひとりで何でも出来てしまう。逆に頭の悪い人は、他人と協力しないとやっていけないから、そういう共同作業から生まれる進化や変化は、横のネットワークが強まり、ここまで高度に進化したんじゃないかという考えかたも出来るわけです。十一月十九日(土)
脳は疲れず、目だけ疲れる 1 (220)
脳の解明がすすんでいる。『進化しすぎた脳』(池谷裕二・朝日出版社)から。▼人間は見たものそのものを覚えるんじゃなくて、そこに共通している何かを無意識に選び出そうとする。脳はあいまいにものを蓄えようとしている。ものごとの裏にひそんでいるルールを抽出して学習するためには、学習スピードが遅いことが必須条件。学習スピードが速いと、表面に見えている、目に見えたものだけに振り回されてしまって、その奥にひそんでいるものが見えてこない。▼ついでに『海馬-脳は疲れない』(池谷裕二・糸井重里、新潮文庫)から。▼夢は過去の記憶の再生。フランス語を知らなければ、フランス語をぺらぺらしゃべる夢をみることは絶対ない。▼海馬は側頭葉の裏にあり、記憶の役割をもつタツノオトシゴに似た部位。記憶の製造工場である。膨大な情報を受けとったら、まず海馬が必要な情報だけを選び抜いている。というよりほとんど捨てている。また、いったん分類してしまうと、それ以外の尺度では分類できなくなってしまうという性質がある。▼感情をつかさどるのは扁桃体で、好き嫌いはなどの感情は、ぜんぶ過去の記憶から生まれる。▼「やる気」を生み出ところは、側座核という豆粒みたいな脳の部位でおこなう。この神経細胞はやっかいなことに、なかなか活動してくれない。だから、やる気がない場合でもやり始めるしかない。そのかわり、一度はじめると、やっているうちに側座核が自己興奮してきて、集中力が高まって気分が乗ってくる。だから「やる気がないなあ」と思っても、実際にやり始めてみるしかない。十一月十八日(金)
タテ、ヨコ、ダンカイ
堺屋太一は、団塊世代の行く末が気になるらしい。▼団塊世代がリタイアしてから大事なのは、本当の「好き」を見つけること。何時間やっても飽きない趣味、誰にでもしゃべりたくなる事柄を見つけて、同好の士を募る。人間、好きは上手。六十歳からはじめても七十歳までにはヒトカドの通になり、仲間の期待と尊敬を集めるはずだ。そういう「好縁社会」が到来すると。▼かつて、日下公人が縦の出世より横の出世を説いていたのと似ている。いまは立松和平が、縦社会に疲れたみなさん、地方で横に生きてみたら、と言っている。2007年問題は男だけだの話で、女の人はうまくやっているから大丈夫とも言っていた。▼識者はタテだのヨコだのきれいに言い分けているようです。でも実際は、会社はもちろん地域やボランティアだって、タテ・ヨコ関係にナナメも加わってごちゃまぜ状態なのです。ひとり以外は、組織となってしまい、タテが強まる。ヨコに切り替える力学に自分が加わる。持続させる。これ団塊っぽいですか。十一月十一日(金)
何も知らない日本人
田中宇の配信メールから。▼世界には二つの流れがある。ひとつは、欧米中心主義で、アングロサクソン人を中心とする欧米人による「人種の理論」、もしくは英米が世界の中心であり続けることを目指す「国家の理論」である。これに対し、英米の上層部にもう一つの流れがある。それは多極主義である。中国やロシア、ブラジルなどを大国にすることで、投資家が儲けるという「資本の理論」である。▼世界運営に関するこの二つの方針対立は、産業革命によってイギリスが世界の中心になって以来、2百年以上にわたり、ずっとイギリスと、その後世界の中心の座を引き継いだアメリカの上層部に存在してきた観がある。古くは第一次大戦の前後、世界の植民地に広がった「民族主義」をめぐる問題が、それに関係している。たとえばイラクでは、1920年に最初にイギリス軍がオスマントルコ帝国から領土を奪ってイラクを建国した後、地元の諸勢力をあまりに弾圧した挙げ句、宗教心が強い地域であるファルージャやナジャフで暴動が起き、イラク民族主義を逆に煽ってしまったという歴史がある。これはイギリスの「失策」と考えられているが、2003年のイラク占領後、アメリカはファルージャとナジャフで、住民の怒りを扇動するような政策を展開し、80年前のイギリスと同じように、イラク人の反米民族意識を煽る結果になっている。この約80年の間をおいて行われた英米の2つの「失策」の繰り返しは、故意にイラク人の民族主義を煽る、隠れ多極主義者の戦略ではないかと思っている。 ▼世界は英米の中枢における欧米中心主義者と多極主義者のせめぎ合いや化かし合いによって動いている部分が意外と大きいようなのだが、戦後の日本では、こうした世界の仕掛けが全く読み取られておらず、日本人の多くは、欧米中心主義だけが世界を動かす戦略であると今でも勘違いしている。中国では米中国交正常化と改革開放が連携して行われていることなどから、トウ小平ら共産党首脳は世界の仕掛けをある程度把握していると思われる。それに比べ、日本は世界理解のレベルが低い。日本が無謀な第二次大戦に突っ込んだのは、世界の中心がイギリスからアメリカに移転したことを、当時の日本の上層部がほとんど気づいていなかったからで、そう考えると、日本人は戦前から世界の仕掛けを知らなかったことになる。私自身、アメリカの中枢で多極主義者が動いていると感じ始めたのは、イラクが泥沼化したころからのことでしかないが、今年に入って世界の多極化傾向は、ますます拍車がかかっている。日本にも、この傾向を研究する人が政府や学界の中に増えていかないと、日本人は戦後営々と蓄積した富を、今後短期間のうちに失う結果になりかねない。十一月四日(金)
空っぽの冷蔵庫
▼私生活は、ただ原稿を書いているのと、ただぐったりしているだけの繰り返しなのだ。という『橋本治という行き方』(橋本治・朝日新聞社)から。▼芸というのは、「自分」を消してからでなければ生まれない。「自分」が残っていればシロートで、シロートというものは、「自分を消す」という表現の基本をまだマスター出来ていない存在なのである。▼「ふーん、おもしろいなァ」と思う自分は確固として揺るがない。だから、自分の外側にある「教養」という体系も、「おもしろいか、おもしろくないか」でしか判断できない。私には、「教養」という体系に基づいた知識はないが、それでも平気である。なんでそれで平気かというと、私がその根本において、「自分に必要なことは知っておかないと困る」の態勢を確固とさせていることである。だから、「自分に必要のないことは、知っていなくても一向にかまわない」と思っている。▼私の「教養がない」はほんとうである。それはたとえば、「料理をしよう」と思って冷蔵庫のドアを開けたら空っぽなのと同じである。でも空っぽになっていても、そうは困らない。バザールがあればなんとかなる。自分の必要な食材を求めて行くだけである。▼本を読むことが「楽しみ」である人達は、読むことが苦にならないものばかりをもっぱらに読む。そして、「本を読むことは勉強だ」と思う人の多くは、「本を読んで勉強した過去」ばかりを頭に置く。「本」は「異質な世界観と出喰わす衝撃」でもある。その「衝撃」を「学んで意味あること」に位置づけないと、本なんか読んでも、なんの意味もない。現在の問題の多くが、「異質な他人に対する想像力の欠如」を原因としているとしか思えない。そういう意味で、「他人というテクストを読む」が出来にくくなっているのだが、それはつまり、「本をちゃんと読めない」と同じなのだ。だからこそ「本は要る」のだ。十月十八日(火)
生活情報地図と連結財務諸表
前編のつづき。▼自治体財源の自然増はもうのぞめません。今日ではデフレ型のマイナス成長のため、賃金が下がる、企業も倒産する、商店街は閑散とし、失業者も増え、市町村は税収減。この減収に、不況対策としての減税とあらたな借金(起債)が加わります。▼自治体がどんな状態にあるかを知るには、経常収支比率80%、公債費負担比率10%までの範囲にあるかどうかです。わが市の場合、前者が86.8%、後者が13.7%と危険ゾーンです。▼さてさて、ハコモノですが、これは利用者や人件費をふくむ原価計算、事業採算を公開しながら再整理しなくてはなりません。管理上どうしても職員が必要なハコモノには、定年退職後の職員を数年嘱託としての再雇用を考えればいいわけです。▼それに、町村は職員1人当たり市民100人に、市では120人以上をめどにリストラしなければ、財務悪化を克服できません。疫病神のようなことを言うようですが、これがやがては福の神となるのです。▼政策選択と政策研究には、全国の自治体政策にかんする地方新聞記事の切り抜き集『Dファイル』(イマジン出版)が役立ちます。比較なくして政策なしです。▼次は、法務職員の充実です。新地方自治法によって自治体法務が不可欠となりますが、その法務室に、既成行政法学の優等生職員をあつめていてはだめです。自分がわからない論点がでたとき「法律上できない」といいがちです。役に立ちません。むしろ既成行政法学にくわしくなくても、政策能力をもつベテランないし中堅の職員10数名のプロジェクト・チーム型で動かした方がよいでしょう。新しく養成したいなら、法学関連大学院修士課程の社会人入学制度を利用するのが、さしあたりの便法です。研究目的をのべた小論文と面接でほぼ入れます。1年に2人おくりだしますと、10年で20人の法務職員が育つではありませんか。▼さて最後に、わが町を一望するには、政策情報がもりこまれた『生活情報地図』と、1年限りの官庁会計ではない『連結財務諸表』が必要です。マップとバランスシートですね。これがなければ、市民・議員・職員の情報共有化と、政策立案ができません。これを持たない自治体は、居眠りしているとしか言いようがない。こんな町は破産します。十月七日(金)
ばか者、若者、よそ者
まちづくりは、自治体の財源緊迫にともない、かつての勢いがあません。いま一度、理論と方法を整理しなおすなら、この本です。『自治体再構築』(松下圭一・公人の友社)から。▼自治体の再構築では、エコロジー、地域史、デザインという文化性をもつ思考軸のなかで、個別・具体の政策・制度の量より質の整備をめざすことになります。これをめぐる法務・財務が、各自治体の緊急課題になります。とくに過剰になったハコモノは、市民討議によってその使用目的、管理方法を再編する。公民館などの小型集会施設からは職員をひきあげ、市民管理・市民運営の地域センターにきりかえるのは当然です。1960年代、1970年代につくられたハコモノをふくむ社会資本については、これから一斉に老化しますから、その補修・改築計画を必要としています。これには膨大なカネがかかるため、基金の積み立ても必要です。従来の官庁会計方式による単年度の大福帳発想では、こういう政策・制度のづくりの新地平の開拓はできません。一つひとつのハコモノについて、補修か、改築か、それとも廃止かをめぐる政策法務をふまえて、政策財務としての原価計算、事業採算、また入札改革をともないながら、政策再構築を迫られるわけです。▼といった理論構成は、あらかじめしっかりしておかなくてはネ。理論とあわせて欲しいのは、ばか者、若者、よそ者、といった人材ですが、これは祭りばかりか、まちづくりにも欠かせない人たちなのです。十月一日(土)
アングラ経済
地下経済というかアングラ産業を知るなら、この本。『仕事師たちの平成裏起業』(溝口敦・小学館)は、その繁盛振りとカラクリを図解しながら解き明かす。違法ぎりぎりの世界を垣間見させてくれる。あるヤクザの方の話では、焦げついたものの取立ては電話ではがんがんやるが、決して自宅訪問したりはしない。人件費が高くつくから、割に合わないそうです。どこの世界も人件費なんですね。九月二十六日(月)
昭和天皇と戦争
あの日米開戦へ、誰がどのように決断し突きすすんだのか。その過程は『昭和史』(半藤一利・平凡社)に詳しい。▼陸軍が張作霖爆殺事件で昭和四年に「沈黙の天皇」をつくりあげ、昭和をあらぬ方向へ動かしてゆくのと同時に、海軍も翌年のロンドン軍縮条約による統帥権干犯問題(この魔法の杖を考え出したのは北一輝で、もちろんこの場合の統帥権は天皇に帰属)をきっかけに、まことに不思議なくらい頑なな、強い海軍が出来上がっていく。つまり昭和はじめのこれら二つの事件によって、昭和がどういうふうに動いていくか、その方向が決まってしまったともいえるのではないでしょうか。▼ノモンハン事件を本気になって反省していたなら、対米英戦争という負けに決まっている、と後世のわれわれが批評するようなアホな戦争に突入するようなことはなかったんじゃないか。でも残念ながら、日本人は歴史になにも学ばなかった。いや、今も学ぼうとはしていない。▼あの日独伊三国同盟にしても世界情勢を知っていたなら、結べたはずはない。それに終戦調印の不徹底から五十七万人もの人たち捕虜となりシベリヤに送られたことは、外交と戦争に無知なリーダーたちに因るものでしょう。ものごとを決めてゆく過程の日本的なやりかたの是非。これは丸山真男「現代政治の思想と行動」(未来社)、藤田省三「天皇制国家の思想原理」(未来社)を併読しながら、もう一度勉強しないといけない。九月九日(金)
進化には重力が
進化論の話はつきない。そこに新説あらわる。『生物は重力が進化させた』(西原克成・講談社ブルーバックス)から。▼現在は、ダーウィン的「進化の総合説」が主流となっているが、これは生物に「突然変異(いわば奇形誕生)」によって新しい変異が起こり、その中で有用なものだけが「自然淘汰」で残り、それが積み重なって進化が生ずる、とするものである。しかしこれだけでは、到底、進化を説明できない。突然変異はどうして起こるのかが、説明できていないからである。一方、ラマルクの「用不用の法則」は興味深いものだが、それとセットになっている「獲得形質遺伝の法則」の方が否定されているため、これでも説明しきれない。それでは、進化は一体どのように起こるのか。実は、進化は「重力」を中心とする生体力学的な対応によって起こるのではないか。ラマルク言うところの「用不用の法則」は正しいが、「獲得形質遺伝の法則」の方は間違っていて、獲得形質は「遺伝」によらずとも次世代に伝えることができるのである。親の行動様式を子に伝えるだけで、親の獲得した形質は子に伝わってしまうのである。ただし、これは重力の影響のおおきい、脊椎動物に限ってである。▼著者は、脊椎動物の原始である、あの酒の肴になるホヤで実験してみせるが、これがなかなか説得力ある。ホヤの幼生を岩に張りつかせず、オタマジャクシの形状で泳がせて成長させると、単純な慣性力がはたらき、体内の臓器が後ろへずれた。それに新しい臓器もできたのである。突然変異でもなく自然淘汰でもないのである。などなど。▼この重力進化説は、夏の夜の驚きでした。八月二十六日(金)
山に木を植える漁民
知床が世界遺産になったのは、知床の森が海岸を支えるという、世界でもめずらしいことが評価されたのだと立松和平さんが評している。そのわけを『森が消えれば海も死ぬ』(松永勝彦・講談社ブルーバックス)から。▼なぜ河口域だけ海藻が生えているのか。河川の影響がなくなると、死の世界が広がることを知っていますか。光がないとプランクトンは生育しません。しかも光合成のできる水深は100mくらいまで。北の海に魚が多いのは、栄養塩(窒素、リン、ケイ素)が海底の深層水から湧き上がってくるためです。ただし、植物プランクトンは鉄を先に取り込まないと窒素を取り込めず、成長できない。ここがポイントですが、鉄だけは粒子で、鉄以外はすべて水に溶けた形でいる。よって鉄は自重で全部海底に沈んでしまう。外洋では栄養塩は深層水から常に供給されるが、鉄は沈んでしまい供給されないことになる。▼それでは、どこから鉄が来るかというと、アジア大陸の偏西風です。大量のダストを運んでくる中国大陸の黄砂です。岩石が風化したものではなく、鉄が溶出した土壌で、これが海水に入って鉄が溶出する。のではないかという説があります。▼さて、それはそれとして、森林に堆積した腐食物質には、フルボ酸鉄というのが存在します。これは鉄を溶かし出す腐食物質で、これが山から下りてきて、河口付近にたまり、このフルボ酸鉄を利用して、プランクトンや海藻が生長します。これが、河口域だけに海藻が生えている理由です。ですから、河川の影響がなくなると、死の海が広がる。森林が海の砂漠化を防ぎ、森が消えると海が死ぬ、の道理です。水産資源は森が守っているのです。▼オホーツク海に面した常呂漁協、根室湾に面した野付漁協、日本海側の手塩漁協が植林を始めました。地元の広尾漁協も一万本の木を植えました。森と海がつながりはじめる。八月十九日(金)
ノートの切れ端 (210)
このトシになると、記憶より記録です。ノートの切れ端に書きとめた言葉から。池澤夏樹の配信メールからは、「教会建築をみるにつけ、大きいものより小さいもの、爛熟よりは素朴、の方が好ましい」。『死んでいる』(ジム・クレイス、白水社)からは、「本気になれば出来る。出来ないのは、手を抜いているか、油断しているかである」。と、これは、主題からおおハズレのメモ。あとは「泣く泣くも良いほうをとる形見分け」。これは誰の本だったのか。散らかしたメモを読み返すのは、いとおかし。八月十二日(金)
かるい気分で
まあ、なんとなく、何かをやりたいとかない時に、めくりました。▼『ブスの瞳に恋してる』(鈴木おさむ・マガジンハウス)から。タトゥー(刺青)を夫に迫る話とか、せしめた食事券での誘いなど、著者の妻みゆきちゃんのドキッとさせておいて笑わせる、落語のようなサゲはやはり愛すべき対象なのでしょう。みゆきちゃん属する吉本芸人の二人組の可哀そうな話からもついでに。彼女らの一人は、子供のころお母さんを亡くした。そのなくなった理由。お母さんと一緒に山登りしている途中に、突然発作が起きて亡くなったというのだ。当然笑える話ではないのだが、彼女たちが「お母さん山登りで死んじゃった」というと、失礼だけど、なんかおかしい。おまけに、お母さんが亡くなった後の保険で家を新築したらしく、その建てた家が欠陥住宅だったというのだから、またかわいそう。「お母さんの死んだ保険で建てた家が欠陥住宅」。そんなふうに言われるとおかしく感じる。ここまでくると、「かわいそう」と「おかしい」がいかに近所同士かわかってもらえるだろうか。▼つぎは、『帰宅の時代』(林望・新潮社)から。著者は私より二つ下の、人生のご指南がうまい方です。読まなくてもよさそうな本なんだけど、ついつい。では、どうぞ。これからは、自分の足で、自分のペースで、自分だけのゴールを見つけて生きていかなくてはならないのです。こうして生きたい、あれをやりたいという、自分なりの時間のすごし方、楽しみ方が必要となります。それには自然と心が向くものに取り組むしかありません。本居宣長は、その学問論『うひやまぶみ』に「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。…されば才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、暇なきやによりて、思ひくづをれて、止ることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」。▼自分の経験したことから、自分が得意にしていたものから、磨き上げるのがよいと申しております。軽い気分のときの、ぴたりの本でしたが、抜き書き以外のことは忘れました。八月五日(金)
農家に知り合いは?
十勝平野の今年は、低温つづきで、作物の実りが危ぶまれる。しかし、食の世界は、安全、美味しいもの、安いもの、と嗜好が強まっていて、そのうち安いものは輸入品に敵わない。中国産はとにかく安い。くわえて、これはまずいと思うのですが、農業指標でプラスに向いているものはひとつもない。自給率、農業就業人口、新規就農者、高齢化、専業農家が、しかり。データからみれば、お先真っ暗です。それに今までの農家は農協に出荷してさえいればよかったが、これからはそうはいかないでしょう。また、新規に農業に就こうと思っても農業委員会の壁が厚く、なかなかことが運ばない。07年以降に団塊の世代がなだれ込むといわれているが、せいぜい家庭菜園どまりかもしれない。一方、国レベルでみれば、コメ余りなのに大量のコメを輸入し、ODAなどの援助で再輸出しているなど、どれもこれもチグハグです。▼これからは市場の多様化につきあう以外ないと思われます。そのためには、①農地の所有権と利用権を分け自由化することで、新規就農者を歓迎する条件をととのえる。市場開拓の面では、②ネット販売などで新しい市場に向き合う工夫。③都市近郊農家がクリスマス用イチゴをつくるなど特化してみる。④長野のレタス農家でやっているが、パソコンで市場調査しながら出荷する。⑤新潟のコメ農家(法人)のように、発芽玄米・無洗米など付加価値加工する。といったキラリと光る話題や試みを歓迎していく。農業は成長産業と思いたいし、農民が頑張れて、新規の農業者を受け入れるようなシクミを持たないと、この先なにを食べていくの。七月二十九日(金)
なんでも半分
街へ出るたびに感じてしまうんですね、これが。▼ハーフサイズの注文で、ゆっくり食べても、追い立てられない食堂は、とても少ないのです。込んでいる店ならなおさらのこと。もちろん、料金は一人前で、チップを置いてきてもいいくらいに思っているのに、です。胃腸など消化器系の手術をした人は多いし、それにともなう摂食障害の方がけっこういます。自身がその身になってわかりました。外出したらやはり外で食べるのが楽しみ。お一人様でも、ゆっくり気兼ねなく食べられる食堂があれば、と当事者はみな思っているのです。調理人や店主の寛容がほしいところです。▼ハーフサイズのラーメンとチャーハンを組み合わせた「半チャーラーメン」というのを見かけたことがありますが、あれです。あれなら、なんとか食べられる。あるラーメン屋で麺を半分と言ったら、「スープとの兼ね合いがね」といわれ、つづいて「残せばいいしょッ」と、きたもんです。こちらの、もったいない、ということやら複雑な気持ちが伝わらない。かたや、たまにしか行かないラーメン屋なのに「あっ、いつものやつね」といって、麺半分のラーメンを作ってくれる。だから、ここには通う。こういう店は、味がいい。うまい。▼内臓障害者にとっては、なんでも半分が“quality of life”なのですが、まだまだ。七月二十二日(金)
いい町に…
いい町に旅したい。できることなら、いい町に住みたい。「よい町の十条件」を嵐山光三郎さんは語る。①川が流れる町、②町並みが美しい町、③祭りがある町、④長老がいる町、⑤若手が長老を立てて活発に活動している町、⑥おばさんが元気な町(おばさんは町のジュンカツ油である)、⑦酒と料理がうまい町、⑧上等の蕎麦屋と宿のある町、⑨豆腐がある町、⑩古都。なんだそうです。ということになると、知人の故郷でもある郡上八幡なんか、古都以外すべて揃っていそうだなあ。豆腐と蕎麦がうまい町だけというなら、おいらの町もあてはまるが、五十点以上ではない。だから町づくりを、といった意欲が各地にみられたたが、今は下火。町づくりはハヤリ・スタレの問題ではなく、古代から今までのテーマであり続けてきたのに。七月十五日(金)
巣箱と粗朶
庭に野鳥を呼ぼう。庭に在来種の樹を植えよう。ということで、『野鳥を呼ぶ庭づくり』(藤本和典・新潮選書)から。▼シジュウカラは、毛虫に換算して、一年間でどのくらいの動物質を食べるのだろうか。答えは十二万五千匹。農薬を使わなくても庭に巣箱をかけて野鳥に飛来してもらえれば、カワラヒワがアブラムシやカイガラムシを食べてくれる。▼公園の粗朶(そだ)置きをのぞくと、落葉や枯れ枝をもとめて生き物がやってくる。タデムシ、ハサミムシ、ゴミムシ。ミミズにコガネムシ。それを食べにカエルもやってくる。これを庭にも応用する。土づくりにもなる。▼庭先に植えた外来の植物は、いくらきれいに咲いても、地元の生態系からは外れている。在来種だと小さな目立たない花でも、その季節に合わせたようにハナアブやヤマトシジミなどの昆虫がやってくる。様々な花を利用する昆虫もいるが、基本的には在来の樹と花に集まる。▼巣箱を利用する身近な鳥は、シジュウカラ、スズメ、ムクドリと、意外に少ないが、彼らは都会で棲むところにとても苦労している。家屋のすき間や洞(うろ)などは今では都会にほとんどなく、地面に伏せた植木鉢やブロック塀に空いた穴などに巣をつくる。巣箱を庭の適切な位置に掛ければ、おそらく八十%以上の使用率と思われる。▼小鳥のバードフィーダー(エサ台)は、五百ミリリットルの紙パックを、カッターで四面を切り抜き、止まり木の割り箸を、底辺に十字に差し込んで吊り下げれば完成。エサはパンくずや、針金などで固定したミカンやリンゴなどの果物を入れる。底に水抜きの穴を四~五個開ける。紙パックはとても丈夫で、二年以上も風雨にさらされても使うことができる。ペットボトルを利用したフィーダーは、風雨に強く、特に雪国には最適。▼その土地の生き物には、その土地に適した在来種を植えること。外来種に頼らない里山の庭づくり、ということでした。野鳥を呼ぶためのホームページはきわめて少ない。http://park15.wakwak.com/~sernef/yatyou/yatyou.htm 七月八日(金)
米軍再編のネライブッシュの米軍再編のねらいについて、田中宇の配信メールから。▼ブッシュ大統領は、就任する1年3カ月前の1999年9月に陸軍士官学校で、軍事に関して3つのことを述べている。1つ目は、海外での平和維持活動を縮小すること。2つ目は、米本土を守るためのミサイル防衛計画とテロ対策を強化すること。3つ目は、兵器の軽量化とハイテク化によって世界のどこにでも出動できる「軍隊」を創建することである。▼この約束は、ブッシュの就任8ヵ月目に起きた911事件により一夜にして果たされた。あの事件で愛国心が湧き上がり志願兵が増え、テロ戦争の名のもとに軍事費も急増した。▼ブッシュが掲げる米軍再編は2つの動きから成り立っている。1つは、ボーイングを中心とする軍事産業に「ハイテク化と軽量化」を発注し開発を進めさせること。2つは、ハイテク化と軽量化の進展を見越して、米国内と海外の米軍基地の廃止や統廃合を進めることである。▼米軍のハイテク化と軽量化の中心は、国防総省がボーイング社に発注した「未来型戦闘システム」である。これは、国防総省の傘下で進められている。無人偵察機や無人爆撃機、ロボット型の無人戦車、移動式司令室などの開発、既存の戦車や大砲の軽量化など、18種類の新型戦闘システムを、セキュリティの高いネットワークで連結する大システムだ。いわば、世界中に巨大な無線LANを張りめぐらせ、司令官や兵士が、世界のどこからでもアクセスできるようにする構想である。▼戦車の軽量化では、60トン以上ある米軍の主流戦車(アブラム型)などの主要兵器を19トン以下にまで軽量化し、米軍がたくさん持っているC130(最大積載量70トン)などの輸送機で、複数台ずつ運べるようにする。それにより、戦争開始決定から96時間以内に、世界のどこにでも戦車や大砲、偵察機、移動司令室などを運び込み、戦闘を開始できるようにすることである。▼2番目の米軍基地の世界的な統廃合は、日本に大きく関係している。国防総省はすでに、米軍の海外戦略において「基地」という言葉を使わないようにしている。基地を作るには、基地のある国の政府と契約書を交わし、基地を長期間借り上げる見返りとして、その国を経済援助するとか、その国の国防を担ってやるとか、アメリカがいろいろやらねばならない。しかし、米軍のハイテク化と軽量化が達成されれば、そんな負担を背負って海外に基地を置く必要はなくなる。代わりに、有事のときだけ飛行場を使わせてくれるよう、その国の政府と簡単な覚書を交わしておくだけでよい。有事になったら、その国の政府は米軍に頼りたくなっているだろうから、無償で飛行場を使わせてくれる可能性が高い。▼米軍はこれまでの冷戦体制の中で、日本、ドイツ、韓国という対ソ連戦略上重要な3カ国に基地を重点的に展開してきたが、いずれの国に対してもアメリカは、経済面と軍事面から、いろいろ協力してきた。もう冷戦は終わったのだから、3カ国の米軍基地をしだいに廃止して、見返りの協力もやめて、浮いた金で米軍のハイテク化と軽量化を進めるのが良い、とブッシュ政権は考えている。▼米軍のハイテク化で「同盟国」も不要になる。こうした新思考に対し、ドイツと韓国は、原則として賛成した。ドイツはフランスとともにEUの中核国として、アメリカとは別個の覇権になっていくことを目指している。韓国は中国との協調態勢を強め、アメリカとは距離を置くようになっている。韓独とも、急に米軍が引き上げると、軍事的な真空状態が生まれて危険で困るが、米軍が数年かけてゆっくり引き上げることは、おおむね歓迎している。▼唯一困ったのは、今後もずっと対米従属を続けていくつもりになっている日本である。結局、日米の間では、米軍が兵士や兵器を長期に駐留させる基地を減らす点は韓独と同じだが、同時にアジアを担当する米軍の司令部のいくつかを東京近郊の横田基地や座間基地に持ってくることで、日米軍事同盟が維持されているかたちをとるという化粧をほどこし、従来どおりの日米関係を維持することにした。▼日本との関係は、このように「同盟関係」が維持されているように見えるが、ブッシュの米軍再編の理念に基づいて全世界的に見ると、アメリカはもはや「同盟国」を必要としていない。ハイテク化・軽量化された新型部隊が96時間以内に戦地に飛び、30日以内に敵を倒してアメリカに帰還する、というのが再編完了後の米軍の姿であり、どこの国にも頼らず、アメリカ単独で世界を支配できるようになることを目指している。軍事技術によって同盟国を不要にするのが、ブッシュの戦略である。▼米国経済は不調でも、軍事は独走。六月二十四日(金)
ローマ法王池澤夏樹の配信メールで、ローマ法王のことが書かれていた。▼つまり、故パウロ二世は宗教者であると同時に実践的な思想家であった。では、カトリックとは何なのか?結局のところ信仰なき者には計りがたい。それは人と世界の関係ではなく、人と神の関係だから。法王の葬儀に集まった400万の人々、ローマのサン・ピエトロ広場を埋めた人々の姿に、彼らの思いを想像するしかない。法王はおそらく、遠い神と心弱い信徒をつなぐ仲介者の一人なのだろう。神は絶対であるから、いかなる意味でも具体的でないから、日々の個人の心からは遠くなる。創世記に言うように神は「言葉」である。つまり言葉で定義されるものであって、実体ではない。旧約の神は厳格な妬みの神であった。素朴な人々が父と慕おうにも手がかりが少ない。だからキリスト教では、まずキリストが神と人を仲立ちし、それでも届かないところは聖母マリアが取りなし、それでも残る隙間を多くの聖者たちが埋める。そして、法王をはじめ司教も司祭も神父たちも、この神と人との遠い距離を仲立ちするものとしてある。人は人を愛することはできるけれど、抽象を愛するのはむずかしい。神に顔を与えるために、尊厳を損なうことなく相貌を与えるために、村の教会の神父に始まって天に到る長い連鎖がある。そして法王はこの連鎖の人間界側の最終的な束ね、いわば砂時計のくびれのような存在、ではないのか?不信心者の憶測ではそう見える。▼バチカン王国は、小さくても大きな国ということでしょう。五月二十七日(金)
使わないものは持たない
Uchida Mitsukoの日常は、すっきりとしたものです。▼朝は起きるのが9時過ぎですね。スタートはゴロゴロしています。紅茶をいれてゆっくり飲む。今日はどのカップで飲んでやろうかと考えることから始まります。18世紀のイギリスの陶器がいくつかあるので、どれにしようかと選びます。いや、蒐集しているわけじゃないですよ。私は使わないものは持たないから。物に持たれてしまうのは嫌。私が物を持つならいい。物が私を左右しだしたら困ります。▼午前中は山のようになった郵便や書類を読んだり整理したりします。電話も鳴る。あれやこれや雑用をしているうちに目が覚めてきます。そうしたら家の目の前、3メートル先にある自分のスタジオに出かけて行って、ちょっと弾いてみる。そのうちにお昼の時間になるから、新聞を買いに出かけます。新聞は「イブニングスタンダード」。唯一のロンドンの夕刊紙です。朝刷ったものがちょうど昼くらいに並ぶんです。これはロンドンの新聞であってイギリスの新聞ではありません。ロンドンの人のためだけに作られている新聞ですから。これを読みます。▼それから晩ご飯のおかずを買ったり、お昼用の軽いものを買ったり、今夜はどのワインを飲んでやろうかと考えたり。ワインは酔うために飲んでいるんじゃなくて、食事と一緒に味わうためだから、グラス一杯しか飲みません。▼家に戻って昼食をすませて、新聞読んだりしていると、また電話がガンガン鳴り始める。そうしたらスタジオに逃れて、練習です。演奏会や芝居に行かない日は8時過ぎには家にまた戻って、用意しておいた美味しい食事をあたためて、必ずおいしいサラダをつくって、それを一杯のワインと一緒にちょいなと食べます。それからは音楽を聴いたり、本を読んだりしているうちに、11時や12時になってしまう。テレビはありませんから見ません。ベッドに入ってからもちょこちょこ本を読んだりしています。そのうちに眠ってしまう。▼インターネットもEメールもしません。もしそういうものを持ったらEメールの囚人になってしまうに決ってる。それは絶対に嫌です。▼自分でホームページを持つ人もいるらしい。Eメールで質問がきて、それに答えるとか。それを始めたら私生活がなくなってしまうじゃないですか。私には考えもつかないことです。▼夾雑物の少ない生活がうらやまれる。いずれ。五月二十日(金)
クラシック音楽と本さえあれば
▼内田光子の最新作は、バイオリンにマーク・スタインバーグを迎えた「モーツアルト:ピアノとバイオリンのためのソナタ集」(ユニバーサルミュージック)。ピアノはバイオリンに従属せず、バイオリンもピアノに従属しない。それぞれが自由で調和といったところか。マチスが晩年、色紙の切り絵に集中したのと似ている。青は赤に従属しない。黄色は赤に従属しない。それぞれが持つ色の分量と配置を問い続けた。▼新潮社の雑誌「考える人」05年春号の内田光子ロングインタビューがよかった。▼私は、「べき」とか「べからず」なんてものは本当はないと思っています。でも、世の中は「べき」「べからず」で出来ている。それに日本の場合、島国であり、ずっと長い間農業でやってきた国ですから、とりわけ目に見えない約束事が多い。理由を問えない「べき」で成り立っている。日本語じたいにも当然それは反映されます。イエスとノーの意味合いが漠然となる。「あなたのお子さんはピアノがお上手ですね」と言われたら、「いいえ」と言う方が人間関係を円滑に保つことができる。ノーとはっきり言わない。曖昧に「はい」と相槌を打つ。腹の探りあいをして、無事に生きていくための知恵から成り立ってきたのが日本語のイエスとノーなんです。言葉でイエスとノーをはっきりさせない分だけ、共同体を保つために「べき」「べからず」が多くなるんじゃないでしょうか。▼小学校にあがる頃には毎日が疑問だらけでした。学校に行くと先生が教える。どうしてそれをやらなければならないのか。漢字のここがハネるとかハネないとか、誰もきちんと理由を教えてくれない。とにかく一方的にやらされることで一日が過ぎていく。ピアノも同じでした。うるさいことを言われる。「こう弾くべきだ」「そうじゃない、こうです」って。「この曲は1780年の曲で当時のスタイルはこうだった。作曲家の考えはこうで、他の作曲家とはどう違うか。ほら、ここが違うでしょう?」そんな風に説明してくれるのなら納得できるんですけね。そうではなかった。ところが本を読むときだけは違っていました。この本はこう読むべきだ、なんて誰も口をはさんでこない。だから本を読んでいる間だけ、私は自由でした。繰り返し同じ本を読むのが好きでしたね。『モンテ・クリスト伯』とかを一人で黙って読んでいました。考えてみれば今だって、黙って一人でピアノ弾いているのが好きですから、私は昔からそういう性分の人間なんだと思います。五月十三日(金)
あいづち (200)
古本屋にも出回ってなく、この復刻の文庫をまっていた。『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三・新潮文庫)から。▼われわれの日常の会話を、つぶさに観察してみると、相槌と、相手のことばの繰り返しがかなりの比率を占めている。実際それだけでも会話はかなり円滑に進行するのである。Really? Not really! Exactly. Certainly. Indeed. Must be. I can’t believe it! No! などを使用する。そうして、時に相手の言葉を繰り返し、時に簡単な質問などを発すれば、会話はほぼ完全な満足のもとに進行することが発見されるのである。▼素朴な疑問が、わたくしには沢山あります。一体、東京はいつ頃から醜くなり始めたんだろう。江戸はどうだったんだろう。江戸の街は美しかったろうな、多分。第一全部日本建築だったんだもね。建築の様式に統一があれば、街なんて美しくないわけがない。いまの日本では、人間の集まるところが必ず醜くなるのはどういうわけなのか。人々が寄ってたかって自然の美しさを台なしにしてしまうのは一体なぜだろう。▼楽器というものは愉しいものである。楽器というものは三、四歳の頃から習い始めなければならない、とうのは最も悪質なデマである。職業的演奏家を志すならいざ知らず、自分で愉しむ程度のことなら何歳になってからでも遅くはないのだ。それに楽譜を読める読めないなぞ何の障害にもなりはしないのだ。二、三ヵ月もすれば指が勝手に楽譜を読むようになってくれるものなのです。深く楽器を愛する心と、そうして根気を持った人なら何の躊躇うことがあろうか。思うに楽器とはその人の終生の友である。決して裏切ることのない友である。わたくしは心の底からそのように感じるのであります。▼スパゲッティは、硬く茹でてバターを絡めて食べるのが一等うまい。蕎麦でいえば「もり」。スバゲッティは、白くて、熱くて、つるつるしていて、歯ごたえがあって、ピカピカしたものなのです。これに、パルイジャーノというチーズをたっぷりおろして、食べるのが一番おいしい。▼四、五十年前の欧州生活記なのに、まだ味わえる。五月六日(金)
オニババ2
▼夫婦が歳を取っても不満が多い、というのは、基本的にご主人と二人の暮らしに満足していないのですよね。だからご主人も満足していない。ときどきすごくいい夫婦がいますよね。そういう夫婦はぜったいにセクシャルな面でもうまくいっている夫婦だと思います。男と女の関係なんて、ぜったいそれしかないと思っていますから。それがうまくいかなくなるから離婚するのです。だから中高年夫婦で仲が悪い、と言っている人たちを見ると、私たちはセックスがうまくいっていません、と書いてあるみたいで、やはり恥ずかしい気がします。▼それにしても今は本当に、いくつになっても自分のことばっかり言ってる年寄りが増えたと思っています。いつまでも自分のことしか関心がない、という感じです。それを見ていると、セクシュアルなことに加えて、やはり自分がよっぽど認められてこなかったのだろうな、思うのです。受けとめられてこなかったわけですね。私たちが自分のことを一生懸命説明しようとするときというのは、やはり相手にまだ受けとめてもらっていないから、受けとめてもらいたいと思って話すのです。わかってほしい、いいよ、と言ってほしい。だって、無条件に自分を受けとめてくれている、とわかって人には、それ以上言う必要がないですよね。▼まわりの皆に、いいよ、と言ってほしいという思いは私にもある。そんななかで、確固たるものとして自分が判断の基準にすべきものがからだの声、からだの経験というものでしょう。自分のからだを判断の基準にする。そのためにはどうすればいいのか。自分のエゴや気持ちを自分で変えようとするのはたいへん難しい。ですから、自分のからだをいい状態にする、ということだけを考えるのです。からだをいい状態にするというのは、具体的言うと、からだをゆるめるということです。からだにこわばりがあって、均等性がなくなると、そちらに歪みが出てきて、やっぱり言葉にも歪みがでてきますし、感覚にも歪みが出てきます。▼男性は、ではどうしたらいいのでしょうか。基本的に男性というのは、女の人に助けられればいいのではないか、と思っています。男性は本当に女性に導かれていくというところが強くあると思います。女性にゆだねる勇気を持つのがいいのではないでしょうか。女性の側も、ゆだねられるだけの度量をもともと持っていたわけです。やっぱり身体性にしても、どちらからよくしていくかというと、女性からよくしていかないとだめなのではないでしょうか。女性の側がよくなると、男性がよくなってくるはずです。四月三十日(土)
オニババ1
身体論として読み応えがありました。『オニババ化する女たち』(三砂ちづる・光文社新書)から。▼性生活というのは出産と同じで、いいセックスの経験は、自分の境界がなくなるような、宇宙を感じるような経験ですので、そういう経験をすることによって、自分があまり細かいことにこだわらなくなるというか、自分が落ち着いていく先をみつけることができるのだと思うのです。セックスというのは、からだにしてみれば、緊張していた状態をゆるめていくような経験です。そういったことがないとずうっと緊張したままになっていますから、子宮系のトラブルは出てくるだろうし、それこそヒステリックにもなりますし、オニババ状態になる。誤解を生みそうですが、女性は、やはり、少しボーっとしているほうがいいようです。ふわっとしたような感じ、というのがよい状態だと思います。セックスを通じてそういう感じがもっとも身近に得られると思っています。▼アメリカ発のセックスのクリトリス主義というのも、何かおかしくないでしょうか。日本には神社がありますが、神社は女性性の象徴が建造物になったものだという話があります。鳥居、参道、お宮。鳥居は入り口で、参道は産道、お宮は子宮です。そして鳥居をくぐって入ってくる御神輿が精子です。クリトリスなどは、鳥居についたマークみないなものです。そんなところで、鳥居の入り口で遊んで楽しいと思っているなんて、なんてもったいないこと、と昔の日本人なら思うのではないでしょうか。▼結婚において相手をこと細かく選ぶようでは、だめだと思います。誰かとともに暮らすことを第一にして、とにかく縁があった人と、誰とでもいいから結婚するというぐらいが、大事だと思います。イメージだけ先行させないで、ある程度のところで妥協して結婚してみるのも大事ではないかと思います。▼女は子どもを産む道具か、などと言われましたが、もちろん女は子どもを産むための道具ではありません。女は子どもを産むための、人間です。▼ブラジルは、からだに関してとても伸びやかな国で、小さいころから抱きとめられて育ったからだをもっています。子どもも大人も、自分自身や他人のからだに関してよい意味でとてもリラックスしていて、みんなにたくさんふれられていて、抱きしめられていて、緊張感がありません。自らのからだにへんなこわばりがない、ということは、とても柔らかな印象を与えますし、相手の心も和みやすいと思います。日本では、本当にからだにふれなくなりました。でも以前の日本では、縁側で膝に頭をのせて耳垢を取ってもらう、お風呂に一緒に入って背中を流す、肩をもんでもらう、といった日本なりのからだへのふれ方があったが、それも少なくなってきた。▼魅力的な人に出会ったら、その人にふれてみたい、その人を身近に感じてみたい、という欲求があります。性関係をもちたいとうほどでもなくて、その人のからだを感じてみたい、といった程度のことで満足する欲求です。ブラジルのような社会では、そういう思いを、挨拶がわりに抱きしめることで解消することができるように思えました。そういう思いが満たされると、性的な緊張はあまりない、親しみに満ちた関係が出来上がるように思ったものです。四月二十九日(金)
舌先つるつる
歯がガタガタになり始めてから、歯の本を読んでもね。でも読んじゃいました。▼『虫歯・歯周病』(熊谷崇・秋元秀俊、法研)から。歯周ポケットの深さは3ミリ以下なら正常。食べたら磨く。ブラッシングだけしておけば安心か。深い歯周ポケットの場合はムリ。歯科衛生士の歯石とり(スケーリング)と、歯科医師による歯ぐきにメスを入れ深いポケット内部の沈着物を取り除くこと。歯周病がもっとも生じやすいのは、歯と歯が隣り合っている面の歯ぐきです。この部分には歯ブラシが届きにくい。フロス、毛束の一房の小さなブラシ、歯間ブラシなどの補助具でがんばる。かかりつけの歯科医をもつこと。それから自分担当の歯科衛生士をもつこと。これが生涯にわたるお口の健康維持の基本。▼つぎは、『歯で泣く人笑う人』(本田里恵・医歯薬出版)から。歯磨きのしかた。磨いたあと歯と歯ぐきの境目を舌でチェックしてみる。ザラザラしていればやり直し。歯ブラシは鉛筆持ちにし、脇をしめ、一本ずつの歯を小刻みな動きで磨く。歯磨き剤は、使うのならツルツル感を舌でチェックしたあと最後にほんの少しだけ。歯磨き剤を使わなければ、お風呂とか、テレビを見ながらとか、新聞を見ながら、どこでも磨ける。1日1回、5分以上の時間をかけてブラッシング。健康な歯ぐきは、唇の裏側より薄ピンクで、毛穴のような点々が一面にあればだいじょうぶ。歯ブラシは、裏から見て毛がはみ出していれば交換。開いたタワシでは風呂の隅は洗えないし、先の曲がったほうきでは部屋のすみずみまできれいに掃けないのと同じ。歯ブラシは小さめがいい。小学六年生用が目安。なぜなら私たちの歯は六年生のときから少しも大きくなっていないから。毛の材質は動物性よりナイロン製のもの。一ヶ月に最低一本は必要。歯科医院で歯と歯の間に詰めものやかぶせものした場合、きちんと糸ようじ(デンタルフロス)が通せなかったり糸が切れるようなら、プラークがたまりやすくなる。また緩すぎると食べものが詰まりやすくなる。磨きにくいのは、下の前歯の裏側。この部分は一歯ずつ歯ぐきにブラシを当てる。上の奥歯の外側は、口を閉じぎみにすると歯ブラシが奥まで届く。前歯の利き側も忘れやすいので注意を。▼つぎの『歯の健康学』(江藤一洋・岩波新書)は、歯をとりまく先端診療がわかる。▼要は、いつもポケットかバッグに歯ブラシを入れておいて、シコシコなんですが、これがなかなか。四月八日(金)
チャペックの庭
チャペックは園芸家でもある。『園芸家12ヵ月』(カレル・チャペック、中公文庫)から。▼素人園芸家になるためには、ある程度、人間が成熟していないとだめだ。言いかえると、ある程度、おやじらしい年配にならないとだめだ。おまけに、自分の庭を持っていることが必要だ。ほんとうの園芸家は花をつくるのではなくて、土をつくっているのだということを発見した。▼人間が真理のためにたたかうことは事実だ。しかし、自分の庭のためだったら、もっといそいそとして、夢中になってたたかう。たとえ二坪でも三坪でも自分の土地をもち、そこに何らかの植物を植えている人間は、たしかに保守的になる。そういう人間は、数千年来の自然法則を頼りにしているからだ。しようと思うことは何でもできるが、発芽の時期をはやめることはできない。五月以前にライラックを咲かせることはできない。だから人間はりこうになり、法則と習慣にしたがうようになる。▼植物を注文するということは、なんといっても一つの苦労だ。三月には苗木屋の主人は、たいがいまだ注文品を発送できない。三月といえば、ふつうはまだ寒くて、苗ができていないからだ。四月になってもまだ発送できない。というのは、注文がたくさんありすぎるからだ。五月になっても、やっぱりできない。そのころになると、たいがい売り切れてしまっているからだ。▼世間では十月というと、自然が冬眠をはじめる月だと考えている。しかし園芸家はいうだろう。十月は四月と同じくらい楽しい月だ、と。十月ははじめて訪れる春の月、地下の芽がうごきだし、ふくらんだ芽がひそかにのびはじめる月だ。ほんのすこし土をひっかくと、親指のように太い、しっかりした芽や、やわらかな芽や、いっしょうけんめい働いている根を発見するだろう。いまのうちに支度をしておかないと、春になっても支度はできない。未来はわたしたちの前にあるのではなく、もうここにあるのだ。未来は芽の姿で、わたしたちといっしょにいる。いま、わたしたちといっしょにいないものは、将来もいない。芽がわたしたちに見えないのは、土の下にあるからだ。未来がわたしに見えないのは、いっしょにいるからだ。▼チェコの秋のうつくしさについて、証を立てて、賛美をしたい。ほかでもないサトウダイコン(これは十勝特産のビートと同じもの)だ。サトウダイコンほど大量に収穫されるものはない。穀物は穀倉に、ジャガイモは地下室に運ばれる。ところがサトウダイコンは、車で運ばれて山に盛られる。山はしだいにうず高くなって、山脈ができる。ほかの農産物はあらゆる方向にむかって、せまい道を屋内に運ばれていく。サトウダイコンだけは、一本の大きな河になり、なだれをうって流れていく。それをもよりの鉄道線路、またはもよりの製糖工場にむかって。大量収穫であり、大集団行進だ。都会人はサトウダイコンの産地に、とくべつ大した魅力を感じない。ところが、秋になると、この地方が堂々たる一種の威厳をもちはじめる。整然と盛り上げられたサトウダイコンの、積み上げられたピラミッドはじつに印象的だ。それは実り豊かな大地の記念碑だ。▼チェコの秋は、十勝の秋にかさなる。四月一日(金)
チャペックの犬
イヌ好きのチャペックは『ダーシェンカ』(カレル・チャペック、新潮文庫)で、フォックス・テリアのいたずらと愛嬌をイラストに描いている。描かれ方はあっさりしているが、うまい。つづいて、『チャペックの犬と猫のお話』(カレル・チャペック、河出文庫)から。▼猫は、犬を見るとき、敵意というのではないが、ふんという軽い軽蔑の目つきをする。でかくて毛むくじゃらで騒々しいテリア犬の方は、ひとりぼっちにされると赤子のようにめそめそするし、主人のところに出入りを許されると嬉しくて気も狂わんばかりになる。ここに孤高の猫の優越がある。孤独な犬のばあいは、ライオンや蛇や、お役所のお偉方と同じように、しかつめらしい。犬のユーモアや遊び心は、人間とのつきあいの中でしか現れない。▼子犬の一般法則というものが二つある。一つは、子犬はすべて同じだということ。どの子犬も、同じ習性を持って生まれ、同じ遊びの規則に従って育つ。どの子犬も、入ってはいけないところへ入り込み、人の靴下を破り、椅子・ひも・石鹸・絨毯・指など、噛んではいけないものを噛み、洗濯したばかりのものが入った籠の中で眠り、五分ごとに助けを求め、吠えるおけいこをし、何か取り返しのつかないような悪戯をしでかしたときだけ静かになるのだ。これはすべて、この世のあらゆる子犬に当てはまる、不可避の自然法則だ。二つめは、能力や性格において、どの子犬も生まれつき他の子犬と違うことである。ある子犬は、慎重で思慮深い犬として生まれるかと思うと、別の子犬は、生れ落ちた最初の日から暴れん坊で、軽率者で、略奪者だ。また別の子犬は、泣き虫であったり、お人よしで泰然としているものもいる。子犬のなかには、激情気質、憂鬱気質、楽天気質、粘液気質なのもいる。どの子犬も同じことをするが、やり方が違う。生きとし生けるものの同一性は永遠であり、多様性は無限だ。▼犬がみんな、寝る前に三回まわるのは、どうしてか知ってるかな?それは、犬が草原のステップ地帯で暮らしていた頃、寝床をつくって具合よく寝られるように、背の高い草を足の下に踏みつけなければならなかったからなんだ。今でもそれをやっているのさ。▼己の名誉を重んじる民族はみな、自分たちの犬を持っている。アイルランドとスコットランドのアイリッシュ・テリアとスコティッシュ・テリア、イングランドのボクサーとエアデール・テリア、フランスのフレンチ・ブルドック、イタリアのイタリアン・グレーハウンド、デンマークのグレート・デーン、ドイツのジャーマン・シェパードとダックスフントとドーベルマン、ロシアのボルゾイ、中国のペキニーズ。▼もし犬を飼うことにおいてスラブ的な感性を持つならば、暖炉のところに寝転んでよく吠えるような、小さめがいい。ゲルマン的なジャーマン・シェパードを中庭で数メートルしか動けないような家で買うのは、犬を囚人にしてしまう。鳥籠に入れられた鷹のようなものだ。ジャーマン・シェパードは、農場やお城には向いてるが、町中には向いていない。▼あなたが家で犬を飼いたいというなら、小さめの犬に飛びついてください。あなたの家の敷居で足りて、出不精の犬、本当に家庭的な犬がいる。ミニチュア・シュナウツァーやワイアーヘアード・フォックス・テリアやその他毛むくじゃらの犬がいる。ダックスフントやフレンチ・ブルドッグがいる。▼そうか、小型犬がいいな。三月二十五日(金)
シュミレーションする演劇2
つづき。▼学校で演劇をテーマにしたモデル授業では、私の場合は演出家だから子どもたちをのせたりして「ワーッ」とすごく盛り上がることもある。PTAの方とか国語の先生も見にきて、そのあとの研修会でも「子どもたちが本当に生き生きしてました。目つきが変わりました」と言うんですが、僕は「そんなことはありません」と。確かに変わるんだけれども、それは体を動かせば頬が赤くなるのと同じで、そんなものはたいしたことじゃない。三年後とか五年後に思い出してくれる授業をつくることが大事なんです。大事なのは全然変わってないように見えるボーッとした子が、もしかしたら覚えていてくれるかもしれない。だいたい急に変わった子は、すぐに明日忘れてしまいますから。あのときやったあれはこういう意味だったのかなとか、変な授業をやったなと思い出してもらうことが大事で、そういう授業をつくりたいと思っているんです。▼国語という科目は、あれは明治初期に軍隊をつくるときに、薩摩の将校の命令を津軽の兵隊がわからないのでは困るので、言語を統一するということです。少なくとも、今では小学校四年ぐらいまでは「表現」という科目でいいじゃないか。それ以降は、表現と言語という科目に分けて、言語の中で日本語と英語と韓国語ぐらいをいっぺんに教えると、日本語も世界のさまざまな言語の一つなんだという相対化ができて、子どもたちは逆に外国語も早く習得できるようになると思うんです。▼「ホワット」ではなく「ハウ」の部分がわからないと、演技を再生することができない。▼いまは大学に入るのも簡単になっているし、学歴だけがその子の人生を幸せにするとは、もう誰も思っていません。ですから演劇をやらせるのも親の方が熱心です。そこそこの成績を取ってもいい会社に就職なんかどうせできないし、だったらうちの子は演劇が好きだし表現する能力もあるみたいだから、そっちの方が役に立つ。サラリーマンになるにしても、そういう表現能力は営業マンとかに有利なんじゃないか。親は一般社会で生きているから、成績だけよくても表現能力がなかったら出世できないことがわかっていて、けっこう熱心です。かえって、子どもの方が目先の現実で「資格を取る」と言ったりしています。▼よく学生に言いますが、携帯があれば「ロメオとジュリエット」は成り立たないよ、すぐ連絡を取ればいいんですから。いままで劇作家の最大の武器だった「すれ違い」が使えなくなるんですよ。マクベスの陰謀なんかも全部ばれてしまいますから、と。▼劇作をむずかしくしている携帯電話。時差は文化だったが、もうこの手はつかえない。三月十八日(金)
シミュレーションする演劇1
かつて観た「ゴドーを待ちながら」という芝居では寝てしまった。でも演劇は気になります。『リアルだけが生き延びる』(平田オリザ・ウェイツ)から。▼日本のお芝居はたいてい弱者が主人公になりますね。貧乏くさい。戦争を描く場合でも敗者の立場で描く。青春演劇も、必ずそういう構造を取ります。「ロメオとジュリエット」だって、封建制に対して戦って敗れていく物語です。僕の作品の場合は常に支配者とか権力者の孤独とか滑稽さを描く、そうしないと国際性を持てないと思うからです。▼本来、劇は「一幕物、音響なし、照明変わらず」だった。シェイクスピアの時代もそうです。スピーカーなんてないし、照明も変わらないし、舞台装置なんかも幕だけだったんですから。▼演劇をつくるということは、「私とあなたはこんなにも違うけれども、一つの共同体をつくれますか」という問いかけなんです。根本的に芸術というのは、一緒になることではないんです。自己と他者を峻別するということですから、この点がお祭りとはまったく違う方向なんです。▼シュミレーションするというのが芸術の役割だと思うんです。僕がよくワークショップでやるのが、「ロメオとジュリエット」のバルコニーのシーンを題材にして、参加者の人たちに許されない恋愛の物語をつくってもらうことなんです。たとえば同性愛が問題になったら、主婦の人なら「あなたの息子さんが自分のフィアンセですといって男の人を連れてきたらどうですか」「それはちょっと困ります」とか、異なる価値観のすりあわせの訓練をする。これは演劇だからできる。▼芸術とか宗教は基本的には人生に対するシミュレーションであって、いちばんわかりやすい例は、「死」だと思うんです。親しい人を失うと社会生活が一時的に送れなくなる。人間は社会生活を送らなくてはいけないので、どうやって社会に復帰していくかというプロセスが大事になります。初七日とか四十九日とか三回忌を決めていって、喪がだんだん明けていくわけですね。優れた宗教は必ずこういうシステムをもっています。芸術というのは逆で、死に向かっていくシミュレーションなんです。ふだん私たちは死を意識できないけれども、芸術を通じて愛するものを失った悲しみとか、あるいは自分の死への恐怖を疑似体験することができる。いまは特に人の死に関して、ものすごく遠くなってきています。▼つづく。三月十一日(金)
異論、排除せず
電子メールでの往復書簡が本になる。『東京ファイティングキッズ』(内田樹・平川克美、柏書房)から。▼民主主義のジレンマ。民主主義とは決して政治的にベストの選択を保障するシステムではないし、効率的で合理的なシステムでもありません。つまり民主主義とは最良のシナリオを最短で実現するシステムではないということです。にもかかわらす、多くの国の国民がこのシステムを採用した理由は、民主主義といったシステムの柔軟性、冗長性といったものが、異論が共存する社会を存続させるためのものである。それを保障しているのが多数決という意思決定方式であり、少数派が多数派と交代しうる可能性を残しているところに、工夫と創見があるのだと思います。だって、もし少数派が永遠に少数派として固定されるならば、少数派が自らの政治的宗教的な信条を実現するためには暴力と圧制に頼る他はなくなるからです。最悪の結果を回避するためには、回りくどくて、かったるいプロセスを引き受けましょうというのが、民主主義を採用するときの基本的な合意であるはずです。自分たちの思想や利益に反する人たちに対して、それを排除しないで、将来における逆転の可能性をも保障するのですから。▼抵抗権の最後の砦としての暴力。権力闘争や駆け引きのときにしばしば暴発することがある。『今がわかる時代がわかる世界地図2005年版』(正井泰夫監修・成美堂出版)をみるといい。地域紛争地というか暴力地図が盛り込まれている。これは20世紀の南北問題の地と重なる。三月四日(金)
てほどき
リンボウ先生はオペラ指南をしております。『リンボウ先生のオペラ講義』(林望・光文社新書)から。▼そもそもオペラの世界には、オペラ・セリアというのとオペラ・ブッファというのがあります。セリアの方は真面目なオペラで、主に神話や歴史物語に取材した悲劇やあるいは悲恋物語です。オペラ・ブッファは喜劇です。このドタバタ喜劇の方は、言ってみればテレビコメディみたいなもんですね。志村けんの「バカ殿様シリーズ」に音楽をつけてやってるようなものですので、はやり廃れがあり、そのなかでたまさか『セビリアの理髪師』とか『フィガロの結婚』は名作として歴史に残ったと、こういうことなのでありましょうか。▼ベルディ『ラ・トラヴィアータ』の長大な「ああ、そは彼の人か」のアリアは、オペラ・アリアの精華といってもよい。これ、何度見ても聞いても、ほんとにすごい歌であります。いや、聞けば聞くほど、その奥深さに驚愕し、なにかを発見するのですから。▼ビゼー『カルメン』で、ホセの独白。「猫と女は呼んでも来ないが、呼ばないとやって来るというのは、ほんとうだったなあ」というセリフがございます。ホセもなかなか洒落たことを申します。▼ということで、せっかくですから、あの『フィガロの結婚』のドタバタ喜劇を、ハイティンク指揮、ロンドンフィルのDVDを手始めに。二月二十五日(金)
新ちゃんの叔父さん(190)
子どもにとっての叔(伯)父さん、叔(伯)母さんとの付き合いは、その後を少なからず左右するものなのです。『僕の叔父さん網野善彦』(中沢新一・集英社新書)から。▼道祖神はきちんとした神社の神様にはいれてもらえないような、路傍の神様である。神社の神様は、国家の意識とともにある。日本列島にアジア的生産様式の考え方にもとづく国家がつくられたとき、ちゃんとした神様とそうでない神様のふるい分けがおこなわれた。そのとき道祖神は、縄文時代以来の「人類の原始」に根ざす神として、神道の体系の外に放置された。その意味で、この神様は「野生」の領域に属している。▼網野さんの歴史は、飛礫(つぶて)を飛ばす悪党や、無頼な人生を送る博打打ちや、性愛の神秘を言祝ぐ路傍の神様だとかを解き明かし、大地とともに生きる民衆を見つめ直している。これはアジア的生産様式よりもさらに原始的な人類の文化に根ざしたものであるという視点からである。▼山の民、川の民、海民などは非農業民で、彼らは土地を持っていません。そのかわり山や川や海で、農民がつきあっている自然より、もっと荒々しい自然とわたりあっているのです。天皇はこういう連中からは、稲籾の形で租税を取るのではなく、山や川や海で採れる産物を、神様にたいするお供え物の形で、直接納めさせていました。ですから天皇と非農業民とのかかわりはダイレクトなもので、あいだにいろいろ租税徴収請負人がたつ形で、間接的に天皇につながっていた農民とは、まったく違うものだった。▼農業的な日本という地層をめくってみると、原始・未開の人類的な普遍があらわれてくる、その野性的な普遍の中から未来の社会形態を取り出してみようとしていた。▼網野さんは、日本の歴史の中に、自然と直接わたりあいながら活動する、野生あふれる非農業的な精神の存在を掘りあてようとしていた。そして天皇はそうした人々を、神と人をつなぐ宗教的な回路を通じて支配していた。その人々の世界は農業的日本よりも、もっと深い人類的な地層までつながっており、しかもその人々の世界の中から、日本型の資本主義もユニークな技術も生まれ出てきた。▼網野さんは、私たちの叔父さんである。ような気がしてきた。二月十八日(金)
「も」
使いやすいものは、いいもの。それが言葉のばあいにはアダになり、不明朗になることがある。『考える短歌』(俵万智・新潮新書)は、短歌だけの話ではないでしょ、と言っているようでもある。▼助詞の「も」があったら疑ってみよう。「も」は、同様のことが他にもあることを示したり、同類の事柄を並べたりするのに使われる。これを無防備に使ってしまうと、焦点が絞りきれず、印象があまくなってしまうことが多い。「が」や「は」よりも、ソフトな感じがするので、つい使ってしまいがちだが、それが短歌のなかでは、表現のあいまいさをもたらしてしまうのだ。意味的に、確かに「も」である場合でも、「が」や「は」や「を」などに置き換えたほうが、スッキリすることもある。▼副詞には頼らないでおこう。はるばる、しばらく、ゆっくり、いささか、いと、たいそう、こういう言葉は、なるべく使わないでおこう。何かを説明するときに、手軽に感じを出してくれる。便利といえば便利だが、落とし穴もある。つまり、誰が使っても、そこそこの効果あげてくれるかわりに、誰が使っても、同じような効果しかあげてくれない。短歌をつくるなら、自分なりの言葉による、新しい表現を、目指したい。▼比喩に統一感を。三十一文字しかないところに「のような」の比喩をいれると効果が薄まる。できるだけ避けたい。毛糸編む乙女の指のやさしくてたとえばゆるるコスモスの花。この場合は「たとえば」が効いている。▼あいまいな「の」に気をつけよう。あいまいな接着剤としての「の」にはご注意。「の」によって、なんとなく意味は通じるのだが、厳密な表現ではない、という場合がある。▼主観的な形容詞は避けよう。「嬉しい」「愛しい」「苦しい」と百回言われても、本人でない限りはわからない。作者にとっては自明のことなので、つい簡単に使ってしまうが、その思いは読者には伝わらない。たったひとことの、その重みを伝えたいために、私たちは短歌を詠む。▼六時間を歩いて帰り帰し父は神戸の街の惨を語らず。これは「いやー、ひどかったよ」を簡単に言葉にして語れるような「ひどさ」ではなかったのだろう。父親の沈黙が街の惨状を深く重く語っている。▼箪笥の下を必死に抜けし老妻は一瞬笑い次に号泣す。ほっとした直後に、どっとくる恐怖。何の技巧も使わず、ただ事実を写しとったような歌いかたが、かえって現場の生々しさを伝える。技巧は使っていないが、「恐ろしい」などの主観的な形容詞も使っていない。そこがポイントだ。▼助詞、副詞に注意というところか。二月九日(水)
言葉の宝石
宮本常一へ惹かれついでに、『旅する巨人』(佐野愼一・文藝春秋社)から。▼宮本常一は、勉強のため16歳で大阪へ出る。大正12年(1923)山口県周防大島を離れる際に、貧農で教育を受けることのなかった父・善十郎は息子に十カ条のメモをとらせた。まず一番目は、汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、駅へついたら人の乗り降りに注意せよ、どういう服装をしているか、どういう荷物をもっているかに気をつけよ。その土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。二番目は、村でも町でも新しく尋ねていったところはかならず高いところへ登って見よ。山の上で目を引いたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。三番目、金があったらその土地の名物や料理は食べておくのがよい。その土地の暮らしの高さが分かるものだ。四番目、時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。五番目、金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬよう。六番目、私はお前を思うように勉強させてやることができない。だからお前に何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし体は大切にせよ。三十歳まではお前を勘当したつもりでいる。しかし三十歳すぎたら親のあることを思い出せ。七番目、ただし病気になったり、自分で解決できないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。八番目、これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。九番目、自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親はせめはしない。十番目、人の見残したものを見るようにせよ。その仲にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。▼この十カ条をとりあえずは部屋の壁に貼っておこう。いずれは与那国島まで南下してみたいから。一月三十一日(月)
地球四周と夜這い
一生に四千日を旅に費やし、地球を四周する十六万キロを歩いた宮本常一(1907~1981)。日本の津々浦々まで歩いて聞いて、記録した。写真も十万枚を超える。出身地の山口県周防大島の記念館に訪れてみたいが、まずはここに ▼さて名著『忘れられた日本人』(宮本常一・岩波文庫)から。西日本では伝承せられるものが、家に属するものよりも、村全体に関することが多く、東日本ではそれが家によって伝承せられることが多いのではないかと思っている。▼ほんとにかわりましたのう。夜ばいもこのころはうわさもきかん。はァ、わしら若い時にはええ娘があるときいたらどこまでもいきましたのう。はァ、女と仲ようなるのは何でもない事で、通りあわせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手がうけ答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押しかけていけばよい。こばむもんではありません。親のやかましい家ならこっそりはいればよい。親は大てい納戸へねています。若い者は台所かデイへねている。音のせんように戸をあけるにはしきいに小便すればよい。それから角帯をまいて、はしをおさえてごろごろっところがすと、すーっと向こうへころがってひろがります。その上をそうっと歩けば板の間もあんまり音をたてません。闇の中で娘と男を見わけるのは何んでもない事で、男は坊主頭だが女はびんをつけて髪をゆうている。匂いをかげば女はすぐわかります。布団の中にはいりさえすれば、今とちごうて、ずろおすなどというものをしておるわでではなし、みなそうして遊んだものであります。ほかにたのしみというものがないんだから。そりゃ時に悲劇というようなものもおこりますよの、しかしそれは昔も今もかわりのない事で。▼娘がそうたくさんの男を知るわけではありません。夜ばいを知らずに嫁にいく娘も半分はおりましたろう。若い者がよけいにかようのは、行きおくれたものか、出戻り娘の家が多かったのであります。はいはい、夜ばいで夫婦になるものは女が年上であることが多うありました。それはそれでまた円満にいったものであります。はい、男がしのんでいっても親はしらん顔をしておりました。あんまり仲ようしておると、親はせきばらい位はしました。昼間は相手の親とも知りあうた仲でありますから、そうそう無茶なこともしません。▼港をひらくちうのは、港の中にごろごろしちょる石をのけることでごいす。人間ちうものは知恵のあるもんで、思案の末に大けえ石をのけることを考えついたわいの。潮がひいて海の浅うなったとき、石のそばへ船を二はいつける。船と船との間に丸太をわたして元気のええものが、藤蔓でつくった大けな縄を持ってもぐって石へかける。そしてその縄を船にわたした丸太にくくる。潮がみちてくると船が浮いてくるから、石もひとりでに海の中へ宙に浮きやしょう。そうすると船を沖へ漕ぎ出して石を深いところへおとす。船が二はいで一潮に石が一つしか運べん。しかし根気ようやっていると、どうやら船のつくところくらいはできあがりやしてのう。そりゃもう一通りの苦心じゃァなかった。それがあんたァ、魚を釣りに出る合間の仕事じゃから。▼はァ、おもしろいこともかなしいこともえっとありましたわい。しかし能も何もない人間じゃけに、おもしろいということも漁のおもしろみぐらいのもの、かなしみというても、家内に不幸のあったとき位で、まァばァさんと五十年も一緒にくらせたのは何よりのしあわせでございました。だいぶはなしましたのう。一ぷくしましょうかい。一月三十日(日)
楽縁社会
▼楽しみであつまる「楽縁社会」の到来はすぐそこ。堺屋太一がいう“良縁社会”の一文字をいれかえてみた。何事でも十年努力をすれば、一応の専門家になれる。やがて同じ専門的嗜好を持った仲間が集まりだす。おもしろい情報交換ができる。そこに需要が生まれ、自らが情報の提供者になることもある。高くないかもしれないが、収入が得られかもしれない。おおきなカタマリとして社会制度をゆるがしてきた団塊世代は、年金と併用しながら、リタイア後にささやかな職業を得るというあらたな実験期をむかえるという。堺屋さんは、ウサギさんで先回り発言が得意のようです。三百万匹の亀の先頭集団がえっちらおっちらリタイアの準備をしていますが、そんなことになるんでしょうか。▼さて、気楽で小さな本を三冊。ひとつは、『停電の夜に』(ジュンパ・ラヒリ、新潮文庫)。なかでも「三度目で最後の大陸」は、老婦人のずっしり感が残ります。これが短編なんですね。▼つぎは『ありがとうございません』(檀ふみ・幻冬舎文庫)。書き手は、豪胆な父と神経質な母の両方の性質を具有したもんだから、生活や仕事にそのDNAが踊りまくる。狐狸庵先生を思わせる筆致でなかなかでした。▼つぎは『ホームページにオフィスを作る』(野口悠紀雄・光文社新書)。会社のホームページをみれば、企業診断ができる。内容が更新されているか、見やすいように、使いやすいように設計されているか。トップページが、社長のご挨拶から始まるのは、ホープレスだ。自分がつかうホームページなら、作ってみようかという気にさせる。▼ホームページが楽縁社会の情報道具になり、それに酒縁がくわわって愉しみが倍になれば、それもまた。一月二十九日(土)
動物ガイド3
東アフリカの動物たちに会うならこの本だろうか。『フィールドガイド・アフリカ野生動物』(小倉寛太郎・講談社ブルーバックス)には、鳥類図鑑とサファリの楽しみ方の付録がついている。残念ながら絶版なので、図書館で閲覧するか、古書ネットで仕入れるしかない。再版すればいいのに。▼ゾウの鼻を高く掲げれば、広く匂いを捉えられるとか、アフリカゾウの気性は激しくなんかないとか、見開き写真と、次頁の見開き簡潔文で伝えてくれる。小さくてもいい本とは、こんな本のことかもしれない。何度も読みたいし耐久を考えて、保護用のフィルムを被せた。思ったより東アフリカの動物の本は少ない。一月二十二日(土)
動物ガイド2
前のつづき。▼動物の興味深さやおもしろさは、大人だからこそわかるのである。ある程度の人生経験があれば動物の生き方が理解でき、動物が生きのびるための手段を生まれながらに備えていることの不思議さと神秘さを感じることができる。実際、自然のしくみは社会のしくみと因果関係が似ていて、動物の行動は、われわれ人間と基本的に同じである。さらに大人は、勉強というプレッシャーから解放されており、知ることの楽しさを知っている。そして動物学という科学は、人生経験以外には特別の基礎知識が必要のない分野なのだ。気軽に楽しめる分野である。大人がこんなにも楽しめる動物園を、子どもたちの遠足の場だけにしておくのは、あまりにもったいない。動物園は混んでいるからいやだ、という人もいるが、混んでいるのは行楽シーズンと学校の休みの時期だけである。その他の時期の、とくに平日などはガランとしたものである。▼動物園の動物は哀れで見るのが辛いという人がいる。だが、それは正確な認識ではない。檻を取っ払ったら喜ぶだろうと結論するのは間違いだ。自由の喜びは人間の持つ価値でしかない。動物が自由に野山を駆けめぐるのは、人間の希望を投影した幻想でしかない。野生で生きる動物たちは、常に死と隣り合わせである。野山を疾走する理由の多くは、敵から逃げるためだろう。安全の保障とエサの確保が確実なときは、動物は子ども以外は走ったり飛び跳ねたりしないものなのだ。人間も同じではないか。エサと安全が確保できないノラ犬やノラ猫は可哀相だと言いながら、エサと安全が確保されている動物園の動物たちを可哀相というのはなぜなのだ?飼いイヌを鎖でつなぎ、飼いネコを室内飼いにしながら、動物園の檻を取っ払いたいと思うのはなぜなのだ?動物園の動物の七割が、動物園生まれである。▼自然とは、まるで、たくさんの歯車がかみ合って回り、毅然として確実に動いていく大きな時計のようだと思う。そうやって莫大な時が流れて現在の地球があり、これからも同様に流れていく。万物の霊長と自負する人類も、たくさんの歯車の中のひとつに乗せられ、否応なしに回されていく。小さな歯車のほんの一部に組み込まれ、宇宙の中の地球の時を流れいく素晴らしさのようなものを感じる。そう考えると、なぜか楽しい。そういう存在であるヒトという動物の一人として、自分はどんな命を生きたらいいのかと考えるのが哲学だと感じている。▼動物から哲学か。いいなあ。これは視力が回復してメガネ不要になった気分にちかい。一月二十一日(金)
動物ガイド1 (183)
端(はな)からたのしめるのが動物行動学。人生経験以外には特別の基礎知識が必要のない分野なのだ。『ゾウの鼻はなぜ長い』(加藤由子・講談社ブルーバックス)から。▼ニホンジカの場合、角が落ちるのは四月ごろだから、五月ごろに動物園に行ってみるといい。できれば一週間おきに何度か行くとおもしろい。袋角がのびていく様子がよくわかる。気弱になって運動場の隅にいる可能性が高いから、双眼鏡は必需品だ。九月ごろ、角は完全にのびきる。すると血が通わなくなり、角をおおっていた皮膚が死ぬ。乾いてボロボロとはがれる。シカは角をあちこちにこすりつけて皮をはがそうとする。そうやって、きれいに皮が落ちたとき、白くて立派な角が完成。そして結婚シーズンがはじまる。▼ゾウにはスニーカーの靴底のような大きな奥歯が四本ある。ゾウの歯は、毎日一五〇キログラムもの草や葉や枝、木の皮を噛んでいるから、どんどんすり減る。すると新しい歯が、使っている歯の奥側に生えてきて、古い歯をだんだんと前に押し出す。押し出された古い歯は、前の方から少しずつ欠けて落ちる。そして新しい歯と入れ代わる。これを一生の間に五回も繰り返す。一度に生える歯の数は少ないが、一ヵ所につき、予備もふくめ六本ずつある勘定で、全体の数としては他の動物と同じようなものである。▼動物のカラダの模様のこと。本来は無地のライオンやピューマにも、子どもの時には斑点がある。木漏れ日模様の迷彩服を着ている。百獣の王の子も隠れていなければ、いつ食べられるかわからない。反対に、狩をするために斑点模様の迷彩服を着ているのは、ヒョウやジャガーやヤマネコたちだ。子どもの時は、食べられないための斑点だが、大人になると、食べるための斑点になる。木の上やジッと待ち伏せをしているときの騙し絵になる。シマ模様が迷彩服というのもいる。トラやシマウマだ。トラは、背の高い草の中で待ち伏せするが、あのシマ模様が草の影と混同される。そして草原に立つシマウマは、幅のあるシマのお陰で体の輪郭がはっきりしなくなる。群れで逃げる時には、メチャクチャな数の白黒のたんざくがチラチラして、どれだかわからなくなる。反対に身を守るためなら、隠れるよりも、むしろ目立った方がいいという動物もいる。ジャイアントパンダやスカンクがそうだ。どちらも白黒模様だが、スカンクはあの臭い液、パンダの強力なアゴを考えると、だれも近づきたくない。▼動物の目のこと。草食動物は、敵を警戒する広い視野のため目が離れている。逆に肉食動物は、視野より距離感の方が必要だ。獲物に正確に飛びかかるためにも、両目の間隔が狭い。全体の視野を犠牲にして立体視の範囲を広げたのだ。▼キリンやラクダの睫毛はなぜ長い。首を伸ばしていると足元もが見えにくいので、目は顔の出っ張ったところに付いている。この飛び出した目玉は、太陽の光をもろに浴びることになる。目玉焼きにならないように庇が長い。▼動物行動学は、手軽にたのしめて奥が深い。一月十四日(金)
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