02年暮れる.. 2
同根... 2
室内の旅人(100). 3
ブック・カウンセリング... 3
秘伝公開... 4
女必殺剣「アイドル殺法」. 5
梟のメガネ... 6
低く暮らす... 7
時間銀行... 7
水しぶき.. 8
眉間... 8
悩ましきデジカメ.. 9
町で田舎暮らし (90) 9
遊びの地図... 10
団塊たちの法則... 11
庭二居マス... 11
沸く. 12
Show and tell 12
隣国の古層... 12
六十年後の陪審員... 13
冷えたティオ・ペペ... 14
きみには苦労かけるね... 14
誰でもいい絵は描けるんやで (80). 14
散蓮華... 15
おっとっと.. 15
取り違え... 15
週一冊の愉しみ... 16
日本語は畸形?... 16
おいらの由来がきえた... 17
モノクロ映画... 17
ふたりの博物誌... 18
小話に笑ふ... 18
内田光子の世界 (02年)(70). 18
02年暮れる
例年よりは揺れが大きく深い02年でした。多少の船酔いの心地を残しながらも、まずは生き延びて年を刻めそうです。周りの人たちも仕事と人間の関係に奮戦しています。つまり、少なくなる分け前をめぐっての争いと調整です。わざわざスローなライフにしなくとも、縮むデフレ経済のもとでは、残量メータをみながらトロトロ走るほかないのです。ゆっくりで貧しい生活といえば、半世紀前の私の生家は明治や江戸の暮らしぶりに近く、ランプと有畜農業の省エネ型だったなあ、と感慨深くして今年を閉じます。森まゆみ「谷根千の冒険」ちくま文庫。十二月二十八日(土)
同根
冬の夜長の抜書です。岩城宏之「オーケストラの職人たち」(文芸春秋)から。▼木の窪みに果実が落っこちる。果汁となって発酵する。猿だったころの人間の祖先が、手で掬って味を覚える。旨い。発酵しているから酔っぱらう。いい気持ちになって声を上げる。酒と歌の始まりである。嬉しくなって樹の幹をポカポカ叩く。打楽器の始まりである。自然に身体も揺れる。踊りの始まりだ。何千万年も前に、われわれ人間の音楽は、ウタとタイコとオドリを原点として出発した。人類の発祥地はアフリカ中部だと言われる。音楽は、楽器を増やしながら何百万年もかかって、インド大陸に伝わる。インドの音楽は東南アジアを経て、インドネシアでガムランとして発展した。さらにインド系の音楽は、ジプシーの移動とともに、中近東、ロシア、ヨーロッパ全土に広がった。ジプシー音楽は、イベリア半島で濃い溜まり方をし、スペインやポルトガルの音楽には強い影響を与えた。▼一方、インドネシアを通って中国大陸に伝わったインドの音楽は、雅楽の起源になり、朝鮮半島を経て、日本で雅楽として完成した。世界中のあらゆる楽器のオリジナルは、インド産である。糸をこすって音を出す楽器は、ヨーロッパに行ってバイオリン系の弦楽器になり、中国大陸に流れて胡弓になった。はじいて音を出すシタールはヨーロッパのギターやハープになり、日本の琴や三味線も中国大陸を経て来たものである。ラテンアメリカの音楽は、近世のスペインやポルトガルの侵略と征服の故であるが、北米のインディアンやペルーのインディオとか、南米の最南端の音楽にも、ユーラシア大陸の影響がある。アリューシャン列島を渡って、途方もない時間をかけて、南米最南端まで伝わったのだろう。人類の起源をアフリカだとすれば、地球を一周したのだ。アトランティス大陸の陥没で、ヨーロッパ・アフリカと南北アメリカ大陸が分断されたのが事実なら、アフリカと南米の南端はくっついていたわけだ。▼アフリカを源として、インドから世界中に伝播した音階の基本は、五音音階である。ド・レ・ミ・ソ・ラの五つの音だ。例えば、日本の伝統音楽、民謡、現代の演歌は、この典型だ。演歌の源流は朝鮮半島の歌だが、日本の文化はすべて朝鮮半島経由なのだ。五音音階は世界各地に広まって、それぞれの民族に合った音階に変化した。ヨーロッパでは中世の音階を経て、ファとシが加わり、ドレミファソラシドになった。不思議なのは沖縄の音階で、ド・ミ・ファ・ソ・シの五つだ。インドからマレー半島を通ってインドネシアで発達したガムラン音楽と同じなのだ。とにかくこの地球という星の人類がやっている音楽は、すべて親類同士なのである。クラシック音楽や、ロック、浪花節、教会のミサなどは、みんな同根なのだ。▼ついでに、渡邊健一「音楽の正体」(ヤマハミュージックメディア)から。寅さんのテーマ曲「男はつらいよ」を歌ってみるとファ・シが出てこない。日本的音楽の系譜や情緒についての説明がうなずける。もう一つ。ヨーロッパは三拍子のワルツに満ちていて、日本は二拍子。馬に乗ったら三拍子、稲を植えたら二拍子なのである。馬はパカパカ走っているだけのようだが、実はパカパ・パカパ・パカパと三拍子で走っており、田植えはヨイショ・ヨイショの農作業である。仕事と音楽のリズムは呼応していた。十二月十八日(水)
室内の旅人(100)
班で押したような毎日にも、小さな波乱はある。だが、もっと大きな振幅のある世界へ旅立とうと思い、少年向けの羅貫中「三国志」(岩波少年文庫)の三巻を読む。なんといっても名場面は後半の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」あたりの駆け引き。三国志の百年の年月には安寧はなく波乱万丈に果てる。漢の帝国が衰えて、魏・蜀・呉の三国に分かれ、その君主たちはみな自分こそ皇帝と称して対立抗争する。数十万人の軍勢の先頭は敵に圧倒されれば、早々に見限って相手に下り、後方は統制がとれず散り散り。人民は戦乱に巻きこまれ不運な時代だったが、戦いに秀でた人物にとっては乱世こそわが世と張り切る。平和な時代ならそれほど目立たず地味だろうなと思われる人たちも、チャンスに恵まれ燃焼し尽くす。むろん無駄死にも多い。本はテレビや映画に劣らないどころか、手軽に仮想世界を用意してくれる。本を読み始めれば、目的地はともかく、この地を後にして旅立てる。でもこれは外出の出かける旅ではなく、出かけない旅。本の中では別の人格になるが、ここでの経験だって、自分の経験の一部になり得る。そんな室内の旅人は、柴田敏隆「カラスの早起き、スズメの寝坊」新潮選書で、自然界をのぞいた。ヒトはむかし鳥だった。その名残か、この乱世を飛び交うアナーキーな鳥が目立つ。十一月二十六日(火)
ブック・カウンセリング
世界で六百万部を売った「話を聞かない男、地図が読めない女」(主婦の友社)はどんな本なのか。タイトルを超える面白みはないが、ケーススタディと所々のまとめがあり、アチラのレポートを思わせる。いくつかの命題が出される。男は狩の本能、女は巣作りの本能という自然の采配から自由ではなく、なぜ男と女が違うかの理由さえわかれば共存できる。男はモノ(仕事)が好きで、女はヒト(関係)が好きという、この事実をまず知ること。男は気持を隠し、女は感情を率直に表すように脳が配線されている。女はストレスでしゃべり、男はストレスで黙る。これらの配線の違いを延々と例証する。もう少し続けると、男は間違いなく北の方角がわかるが、一度に一つずつしかこなせない。女はお喋りでマルチチャネルの感覚でありながら、全体を読み取ってしまう。脳のパターンが、男っぽいか、女っぽいかは、受胎後六~八週間の間に、投薬などの影響で男性ホルモンと女性ホルモンのどちらを多く浴びていたかによって、脳がプログラミングされ、思考や行動を左右する。それを探るテストが付いていて、やってみると140点と普通でした。分析では、今の男は本来持っていないコミュニケーションが求められており、その能力を高めて、女っぽくもなく男っぽくもない融通の利くゾーンに近づけば、ずいぶんと問題解決になると結論している。だた、この得点が上がると「女脳」度も上がり、創造と芸術の分野に才能を発揮できるが、百八十点を超えるとゲイになる可能性が高いそうだ。日本人による類書では、人間行動学から見た岩月謙司「女は男のどこを見ているか」(ちくま新書)がある。若い女性の「幸せ恐怖症」には注目だが、赤ちゃんにベロベロバーをしてウケルほうがノーベル賞をとるより大事だとか、もっぱら男のコミュニケーション能力が問われている。この出版社から、小谷野敦「もてない男」(ちくま新書)、諸富祥彦「さみしい男」(ちくま新書)と、カウンセリング型の本が続々である。しかし自己診断にも限りがある。本の後は風呂かシネマでバランスを取りたい。少し古いがクロード・ルルシュー監督「男と女」は、あの麗しいフランシス・レイの音楽が付いて、カウンセリング時間は百四分です。十一月八日(金)
秘伝公開
あの切れ味のいい、斉藤美奈子「文章読本さん江」の必殺剣を受けて立とうというのか、林望は「文章術の千本ノック」(小学館)を出した。文筆家の出世の証しとして書いたとは思わないが、まずは、リンボウ先生の文章教室を覗いてみよう。▼人が見ないようなところまでよく観察し発見するという心がけがないと、人が読んでくれるような文書は書けない。着眼を鍛えることが文章の命。「です・ます調」の敬体は女性的文章で、男性はほとんど「だ・である調」の常体を使う。文章は常体が原則である。敬体の文章は形容詞がうまく扱えない。「美しかった」を「美しかったです」とか「美しいでした」では美しくない。敬体は、文章がもたもたして、すらりと書けない。▼読み物として成立する最低の文字数は、六百字だと言われている。山あり谷あり、起承転結宜しくあって、なおかつ余韻のようなものまで込めるとなると、それはもうプロの仕事だから、普通は八百字を目安に書くといい。書き出しで読者の心をとらえて、締めくくりで納得させる、この二つはどうしても最大の努力を払って、きちんと書かなければならない。文章には、三つのポイント(キーワード)をもって奥行を出して欲しい。注意すべきは、「かわいかった」などの概念を書かず、具体的な様子を綿密に写実的に描き出し、読者が自動的に「かわいいな」と思ってくれるように書くこと。▼尻切れトンボ文体「~楽しめる趣味のよう」「~してみては?」「~してみるのもいいかも」などの、叙述省略は、上品でもなく洒落てもいない。この中止法や体言止は、一つの短文に二つ以上使うのは禁じ手。それから、流行語とか紋切り型の言い方、いわゆる手垢のついた安易な表現は避ける。「なんともやりきれない」なんて、こんな思考停止のしめくくりの状態なら、文章なんか書かない方がいい。落語は、自分が楽しむのではなく、人を楽しませるためのユーモアの集大成である。自分はあくまで冷静でなくてはならない。もし何かをからかうのであれば、自分をからかって笑うべきであって、人をからかってはいけません。▼パソコンで文章を書く。第一次の草稿では所定の一・五倍くらいの長さをめどに書きたいように書いて、それを推敲し短縮して所定の枚数に仕上げる。緊密感のある文章を書くためには、望ましい道具です。最後に書式を設定して終えるのがいい。経験的には25字×32行で組むと、これが八百字に相当し、一番書きやすい。▼題名は、何か引きつける刺激が欲しい。手の内を明かしてしまうと、面白みに欠ける。しかも文章はアウトサイダーというか、どっか不良でなきゃだめです。次は、言葉をケチることです。無駄な言葉は一語もないように節約して書くのが文章を面白くするコツです。余計なことを書いていると、文章の流れが悪くなってスピードが落ちる。ちょっとフィクションを混ぜても、面白い方がいい。くれぐれも書くときは、具体的な描写、非常に具体的で目に見えるように書くことです。どう書くとリアルかをいつも考えること。文章を書いて、それで何かを人に伝えたいと思ったら、自分が感激していてはだめです。自分はあくまでも冷静でなければ。また、何か面白いことを買いて人に楽しんでもらおうと思ったら、自分は楽しまず、自分を戯画化して、読んだ人がゲラゲラ笑うような、そういう書き方をしなければいけません。▼自分の文章をもう一回、他人の目で眺める。自己批判できれば、削るという勇気が持てる。いかに自分の文章には冷酷になれるかがポイント。同じ言葉を近い所で繰り返えすと、下手くそな印象になる。何度も言うが、文章にはトピックやエピソードは三つぐらいあるといい。で、叙述は簡潔に、濃縮して書く。会話を「と言った」で受けると単調になるので、会話を三つくらい並べてしまうと、小説みたいな面白味が出る。全体が具体的な描写で成り立ち、概念的な文章がほとんどない、こういうのはとてもいい。書き慣れていない人の場合、男の文章は「説明」になりやすく、女の文章は「おしゃべり」に終始することが多い。書き出しと締めくくりが大切なのだが、その両方ともおざなりでは魅力がない。話題の自分をもっと戯画化して、いきいきと「話すように書く」と良い。▼長々と書き抜きました。斎藤美奈子は多分、新味もなく「今更」だよと言い切るだろうな。としても、私にはこの指南書はありがたい。リンボウ先生が、文章づくりの秘伝を一部公開したことで彼の叙述原則がわかったら。十月二十三日(水)
女必殺剣「アイドル殺法」
同時代の八人の物書きたちが、斎藤美奈子の「文壇アイドル論」(岩波書店)で、スパッと切られる。その太刀さばきは正統で、一刀両断の傷は深い。全編にわたって切り口は鮮やかで、わかりやすい。襲われた人たちは、どう読んだのだろう。愛読してきた人たちも、動揺させられる。加藤周一も、吉本ばななのお父さんも、これ程のことはない。私の住む北国は中心情報から遠い。世の兆しや世の動きが、遅れてでも届けばいいが、届かないこともある。立花隆は、その点で取材力があり、広範にして深く時代をつかんでいるようなその書きぶりに、時代の旗手というのは、さすがに先行しているものだと思わせていた。でも生命と科学だけでこの時代を割り切ろうとする、その考えの危うさは薄々感じられた。人間に引きつけた言い方が少なく、物足りなさがどこにあるのか解らないでいたので、彼女の切込みに同感すること頻りである。こんなことなら、ほかにも必殺剣を抜いているだろと、彼女の「文章読本さん江」(筑摩書房)にも手を出す。うんうんこれもいける。文章の目的は、情報伝達と自己表現があり、前者は的確さ、後者は面白さが求められる。で、伝達用の文章入門書はあまたの本があるので、いまさらこの手の読本など要ない。かたや表現のための文章修行は、自力で積み重ねるよりないという事情にある。のに、この斉藤美奈子の本が出て半年も経たない今月の新刊で、書きまくるリンボウ氏こと林望は文章の指南書を出した。どちらかと言うとエッセイ方面だが、添削の具体例もある。かくて文章読本はひきも切らず製造されるが、パロデイでもいいから、谷崎潤一郎や丸谷才一の「文章読本」を添削するくらいの気概ある人はいないのだろうか。ともかく文筆家にとって文章読本を書く行為は、人生の総仕上げ、出世の証し、双六の上がりにも似た名誉ある行為なのだという。彼女のこの二冊で切られた人たちの逆襲はないのか。傷口を手当てするだけでは済まないと思うのだが。蚊帳の外での楽しみが一つ増えた。十月二十二日(火)
梟のメガネ
梟(ふくろう)が夜に活動することから、ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ、と哲学者ヘーゲルは申しているそうだ。知恵と哲学は夜に羽ばたくということか。文筆者・芸術家たちばかりでなく、誰にもじゃまされず創作できるのは夜の時間帯。それなら仕事帰りに縄のれんをくぐる人たちだって、タソガレ時の梟の仲間入りしてもいい。ただ、こちらは会社の話ばかりの、知恵を会社のためにだけ使う梟になっているような気はする。かたや夜ではなく昼に活動する梟もいることは居る。かの哲学者より緯度の高い地域にすむシロフクロウで、白夜のために環境適応したものだ。生き物は奥が深くさまざま。生き方がいろいろなのだ。さかのぼってギリシャ時代の梟はどんな風だったのだろうか。たぶんレバノン杉の森に生きていたと思われる。しかし都市文明は燃料と建築材で森林を食いつくし、やがて不毛の土地となる。そうなると梟はその地を捨てるほかなく、ギリシャ文明もしかる後にタソガレた。梟は不吉な鳥として見られていた時代もあったが、ギリシャ神話の女神アテナ(ローマ名はミネルバ)の聖鳥のおかげで知恵の象徴として、眼鏡をかけて本を読む姿を描かれるまでになった。私もあやかりたく、近視用のメガネ・フクロウを長年続けてきたのだが、つとに近くを見るのがつらい年頃となってしまった。このままでは幸せになれないと思い、ベッドにもぐり込んでの裸眼読書に切りかえた。牛がべろんと塩を舐めるくらいの距離に本がある。ややっ、活字の雰囲気は、こんなにも違いがあったのか。「岩波」より「みすず」や「筑摩」の方が、やわらかい字体で読みいい。メガネをはずして解ることもある。林望「恋の歌、恋の物語~日本の古典を読む楽しみ」岩波ジュニア新書。十月八日(火)
低く暮らす
イスの座面がもっと低くかったらなあ。座面が高いと踵が床につかず太ももあたりがうっ血しやすい。これは靴を履いたときの高さなのでは、と思いたくなる。テーブルも大抵が七十センチ。自宅なのに洋食屋の座りの緊張があると言ったら、おおげさか。だから食べ終わったら、ゆっくりできる畳かソファをつい探してしまう。勉強机も同じ高さで、うっぷして寝てしまうには、ちょうどよい高さ。そこでイスとテーブルの脚を五センチ、いやいっそ十センチくらい、切り落としたらさぞかしと思っていたので、ノコギリを握りしめてはみる。みるが、失敗したら元も子もない。失敗したときの接着剤だってまだまだ信用できない。こういう人達のためらいを見透かしてか、工業デザイナーの故秋岡芳夫さんが作りました。低いテーブルと胡坐できる低いイス。素材はナラ材。ゆったりしていて、踵が床について安定する。易しそうな工作だから自分でやってもいいのだが、脚四本が同じ高さにならないと、次々切りそろえるつもりで、その先が脚のない座椅子にでもなったらどうしよう。ここはひとつピタリと仕上げる家具職人に頼みたいところだが、来てもらうまでもないし。半人前くらいの腕でもいいのなら、自分の特技として脚きりを習得し、地域の人材銀行にでも載せてもらおうかなと、思ったりする。低く暮らすための、作ることのない壊しの職人として。身の丈に合わせた家具で暮らすことは、これからを考えても大事のひとつだと思えて仕方がない。秋岡さんは置戸町のオケクラフトに力を入れ、この十勝にもクラフトセンターをと語っていましたが、今は昔のこと。「古典落語志ん生」ちくま文庫。九月二十日(金)
時間銀行
新しいお金が流通している。生活通貨のことで、地域でモノやサービスが交換されている。エコマネーとも呼ばれるが、子ども銀行のようなものと揶揄する人もいる。元々はイタリアのパルマで始った。1991年に「時間銀行」が設立され、現在約300ヵ所1万人の参加者がいる。参加者は提供できるサービスの内容と提供できる時間と、受けたいサービスの内容を時間銀行に登録しておく。サービスを受けたいときは、事務局に電話をし、適当な人を探してもらう。交換が行われたら、小切手帳に時間数を記入し、サインをして時間銀行に持っていくと、各人の口座で時間を増減してくれる。ただ、稼いだ時間を自分や家族の将来のためには使えず、半年くらいで助け合う仕組みになっている。日本でも地域通貨の試験流通を始めたり、検討中のところが百を数える勢いにある。通貨単位も前橋市は「ありがとう」、伊那市は「「い~な」とか、わが北海道では栗山町の「クリン」、小樽市の「タル」など。この小さな、目に見えるサイズの経済循環は、単身世帯を含めて地域に受入れられ、広がっている。元祖イタリアは地域通貨ばかりでなく、昔も今も目に見える範囲の地域経済を大事にしてきた。とくに第1次産品は半径50kmの範囲で流通させるというから、旨いもの・安全なものを口にしようとする地域づくりの基本姿勢が感じられる。ところでこの地域通貨のやり方を、家庭のお金に換算されないシャドーワークに持ち込んでみたら新鮮ではないか。ご飯を用意したら1ポイント、草むしりを1時間したら1ポイントとして登録する。何かサービスを受けたいときはそのポイントを使う。通貨の単位はカインドとかボランテとか名づけておき、ワインのコルク栓でも代替コインしたらいい。核家族でメンバーが少なくて取引が偏ったら、月末に現金決済して清算。その時は交換レートで揉めるかもしれない。でも、ここまでやる人はいないだろうな。なだいなだ「人間、とりあえず主義」筑摩書房。九月六日(金)
水しぶき
餌台に訪れるスズメらの周りは、駅のプラットホームの賑わいがある。キオスクにちょいと寄っては、新聞や飲料ボトルを仕入れ、電車に飛び乗る、あの慌しげな様子。小鳥のプラットホームでは、チィチィと穀物をつまみ、水鉢の水を含んで、どこかへ出かける。時間をおいて、またやってくる。これを繰り返す鳥たちは時々、常備してある水鉢で水しぶきをあげる。見ているこちらが、ホーッと声が洩れるほど生き生きしていて、見応えがある。鳥たちは自分の体を清潔に保ち、病気にならないように水浴びをする。とくに羽毛は体温を保ち、雨を弾きとばす役目を持ち、軽く丈夫にできているが、その構造は微細なため汚れやすい。それを水浴びできれいにし、ついでにダニ、ノミも振るい落とす。さらに翼の部分の風切り羽は、より大切。飛ぶことによって身を守り、食物を得ているので、手入れは入念である。鳥の水浴びは、浅いところに立ち、両翼を水にたたきつけ、水をはねあげて行う。水浴びの後は羽づくろいの整羽行動をし、細かい羽糸の乱れを嘴で一枚いちまいしごいて直していく。スズメはこの後、砂浴びもするが、仕草がおどけていて、こちらは声を立てずに笑うことになる。鳥たちの水浴びは一年中のことなので、バードバスを設けている人は、冬になると氷を割ってやるのだが、この土地の場合は手の施しようがない。てんぷら油を固めたように一枚に凍ってしまう。中野雄「丸山真男・音楽の対話」文春新書。八月二十三日(金)
眉間
二千五百年前のお釈迦さんは悟りをひらき、説いた。観音さまの名前を唱えるだけでも苦しみから救われる。衆生のために観音さまは、いろいろな姿で私たちの身辺におられる。時には仏であったり、長者とか僧、女や子供、さらには夜叉・天竜・阿修羅などの八部衆のような姿で衆生を救っておられる。ということなんですが、その八部衆が実は極めつけのワルで、お釈迦さんの説法で平和な社会が作られては困る悪神たちであった。なかでも阿修羅は乱暴者でお釈迦さんの話の邪魔ばかりしていたのですが、いつの間にか聞き入ってしまう。ついには他の悪神たちが騒ぎ出すと「だまれ」と追い払い、進んで心静かに説法を聞くようになった。まさにその時の顔があの奈良の都にある。興福寺の国宝館にある阿修羅は、天平彫刻の名作として教科書にも載せられている。人々の悩みを一身に背負い、その苦しみに耐えて、静かに語りかけている。眉を寄せて、きびしい表情ではあるが清々しさを秘めている。正面の顔のほかに二面、腕は六本の三面六臂の乾漆の像である。漆に木屑をまぜたペイストで像の肉づけをするこの乾漆の技法が、あの眉間のきびしくも、やわらかな表現を可能にしている。この阿修羅に限っては、宗教の文脈で見なくとも鑑賞できる彫刻と言えないか。「梅原猛の授業・仏教」朝日新聞社。八月十四日(水)
悩ましきデジカメ
デジカメはカメラにあらず。あの銀塩のフィルム・カメラと違い、デジカメは出来事を説明するメモ帳に向いているという。文房具感覚なのだろうか。しかも電子処理だからお金がかからない。今までのように写真屋に出してプリントしなくていい。バシバシ写していいのですぞ。どんどんメモして下さい。そう言われても、ついケチ心が出て、必殺一枚で済ましてしまう。でも惜しみなく写しておいて、後から画像を見ながらレポート作ることも出来るのなら、そんな使い方もあるのかなとは思う。入門書によると、デジカメの五徳は、プロ並みのピント、その場での画像確認、インターネットで送信、画像かさばらず、カメラ扱いが簡単、とある。ただ悩まされるのが、買う時である。この手のカメラは高くても安くてもすぐに性能が古くなり、短命。三ヵ月で値引き競争。だから三ヵ月我慢して、初期不良が改良されたものを買うのが良いらしい。私は二度もしくじった。今は五パーセント失業の渋いご時世だから広告費は細り、写真は自ら撮りパソコン編集し、プリントするなりメールするのが主流。デジカメで写すコツでは、スナップならファインダーで素早く、複写や花などのクローズアップならモニターで構図を決める。人物撮影は銀塩と同じ。人物の目の高さ、少し斜めから、望遠系のフォーカスで、最低七枚、話しかけ反応が出たところで撮る、ことだそうです。それにしても、まだデジカメは操作ボタンが多すぎる。電源スイッチとシャッターボタンだけなら、瞬きだけで書けるメモ帳として認めてもいいのだが。赤瀬川源平「悩ましき買物」光文社文庫。八月一日(木)
町で田舎暮らし (90)
小川のそばに山小屋をつくって「北の国から」のように住む。この望みはずっと持ち続けたが、町でも田舎暮らしが出来るのではないか、と自ら実践する都市計画家に出会ってからは、その暮らし方に傾いた。どんな、と言われても庭仕事をしているに過ぎないのですが。でも一旦、扉を押して庭に入れば、そこには田舎の時間が流れ始める。動機は、小鳥が飛来する雑木林のような環境の庭づくり。餌台の周りに低木、すこし離れて中木を植え、少量の餌をおき水浴び用の鉢も備えた。それに近所には有難くもニセアカシアの高木が一本あり、この庭へのガイド役を果たしてくれている。さて庭仕事のために納屋も建てた。七つ道具やら、除草機、小枝の粉砕機、枯れ枝集塵機などを収納した。段取り八分です。庭木も十年経てばズンと大きくなる。ホプシー、ギンカエデ、ゴールデンニセアカシヤ、コブシ、カエデなどが育つ。離して植えなさいとの忠告もあったが、どうも初心者は密植になる。人も鳥も食べるベリー類などの果樹を植える隙間が不足してきた。小さな野菜畑も一カ所を休耕にして三カ所を輪作とした。小さな庭でも循環をと思い、家庭の生ごみは堆肥にし、切り枝は粉砕機でチップにしてマルチングか、堆肥と混ぜて土壌改良に使っている。庭仕事によって体の機嫌がよくなり、気分も同様に。一仕事に一缶のビールは約束されており、庭に飛来する小鳥たちの水浴びを眺めながらいただく。ドイツの小さな庭《クラインガルテン》の話を聞いたり見てなかったら、町での田園生活には踏み出さなかったかもしれない。ヘルマン・ヘッセ「庭仕事の愉しみ」草思社。七月十二日(金)
遊びの地図
小さい頃に遊んだ地図を作る。言うところのメンタルマップづくりで温故知新です。少年時代に遊んだことしか、大人になっても遊べない法則があるかもしれないと、うすうす感じていたので、まずは記憶を遡ることにした。犯罪捜査でも現場はもちろんだが出身地を洗えというではないか。さて、十勝平野東部に流れる忠類川の源流近くで私は育った。川は小さかったが水量もたっぷりあり、夏は冷たく、スイカがよく冷えた。小学生の頃は、下校するや馬糞の堆肥からミミズをほじくり、竹の一本竿を担いで毎日のように家の前の川で過ごした。釣果のヤマメ・イワナは笹や柳の枝に通してぶら下げて帰り、薪ストーブの上で焼いて食べた。カラス貝だって口の中にヨモギの茎を差し込めば釣れた。身は硬いので食べなかったが、内側は硬質な真珠の光が満ちていた。木洩れ日のなかの川はガラスの破片を水面につけると、水底まで見渡せるほどで、魚の動きに合わせヤスで突いた。顔を上げて流れを見つめていると、相対原理で岸のほうが動き出し、目まいでふらふらになるのを楽しんだ。夏休みは蝉時雨を浴びながら、長い畝の数条の草取りノルマもそこそこに、日暮し釣り糸をたれていた。近くの森の樹上につくった隠れ小屋で、お握りを食べた後はよく絵を描いた。遠出もした。一里先の裏山に松前藩が埋めたという金塊の伝説を信じて、友だちとその洞穴探検に夏休みの多くを費やし、いつもとっぷり暮れてから家路に向かった。少年は川と森と山で過ごした。それに、腹をすかした少年でもあった。食い物のことは深く心の地図に焼き付いている。あの頃の年の瀬には心踊るものがあった。豚一頭を出刃で殺し正月の食材とした。鶏も首を斧で落としたあとは、五右衛門風呂の煮えたぎった湯にいれ、毛をむしるが、これは子どもの仕事。母屋の隣に畜舎があり、馬、牛、豚、鶏、羊、山羊たちと共に暮らしていた。馬は畑起こしばかりでなく、荷馬車(ホドウ車)を牽いて町にも向かった。羊の毛は紡いで靴下やセーターになり、肉はジンギスカンとして食した。鶏の世話と卵の係りは子どもの役割。米は内地米でも、麦やキビ、野菜は自給できた。豚と鶏の餌は野菜くずや残飯で間に合ったし、彼らの糞は寝藁と混ぜ合わせ堆肥にして野菜畑に還元した。農作業はきつく、食べものは粗末であったが、ストーブを囲んでの日々の団欒が一日の区切りだった。幸いに水力の自家発電があったので、電灯が灯り、ラジオが聞けた。家の周りは雑木林で、近くにも手つかずの森や原野が大小いくつもあり、そこから届くフクロウの鳴声で、眠りに就いた。時田則夫「北の家族」(家の光協会)。七月五日(金)
団塊たちの法則
会社で一番やめて欲しいのは団塊の世代といわれ、ここにきて一気に邪魔者扱いされはじめた。経済記事も経営者は六十代から四十代にと囃したて、五十代の団塊世代ハズシが始まったかのよう。1947年から49年までに生まれた戦後世代は前後する世代より四割も多い。ヘビが飲み込んだタマゴで、いつも突出していた。大量消費の世代とか時代の先駆と持ち上げられてきた。この世代は舞台の左手より登場したが、いまは右袖にいる。学園紛争の現場で石を投げ、社会に出てからも時代を変えようと意気込んではいたが、七十年代は経済成長のただ中で、さほどの苦労もなく横並びでやっているうち、気がついたら豊かな社会になっていた。改革の旗手ではなく、日常の勤勉さが、意外にもふさわしい世代となってしまい、日和った日々を振りかえる人は、もう居ないかもしれない。時代も横並びの一律さではなく多様な世界へと移行して、団塊たちが三十年積み重ねてきた組織での経験と価値は、色褪せてきた。しかもこの黄昏に向かう世代の多さが、年金など生涯厚生のシクミを崩壊させるとして警戒されている。ともかく、団塊世代は厄介だ。どこになだれてゆくのか。この世代の多くは都市生活者であることから、もう一つの生活の質を求めて田園生活に向かうのか、それとも「これまで」に費やした事にしか「これから」も費やせない人生法則に従うことになるのか。もがく世代は定まらない。香山リカ「若者の法則」岩波新書。六月二十七日(木)
庭二居マス
一度袖を通したら着尽くすのがパジャマと野良着。いずれもコナレ捨てる間際のものが極上じゃないかと思う。土いじりや庭仕事に向いている着衣は、湿潤な気候帯では古くからの、あの田吾作どんの野良着を伝統とするが、冷涼な土地には学校着でお馴染みのジャージーの方が、保温と通気がほどよい。それに汚れたり引っ掻いたりしても、惜しげもなく着用でき、泥だらけの腕白になれる。だが、どんな体型になってもなじむ、その伸び縮みが仇になり、ルーズな人柄と思われるところが、その地位を低くしている。野良着ではないがデスクワークもできる作業服の場合は、もっと上位ある。ブルーあるいはラクダ色の、ヘルメットが似合うあの作業服である。焼鳥屋でも遠慮なく出入りできるので愛用者は多い。さて、たけしとさんまのトーク番組を覚えていますか。さんまがスナックの長い髪のママで、たけしが作業服の客になり、世間をからかう番組である。胸には確かアルプス工業とかいうネーム刺繍があり、居合わせたお客とごちゃごちゃ言い合いながら、本音をすっすっと織り交ぜ、いい味が出ていた。ブルーカラーの世界では気取るほど足元をすくわれるので、本音を原動力としてぶつかりあう。それにしても、六月はいい風が吹くのだが、指は酷使する。狭い庭ほど雑草が繁茂するのだろうか。いつものジャージー野良着をきて、ひざパッドをつけ、草をむしりながら、週末は「庭二居マス」。阿刀田高「ギリシャ神話を知っていますか」新潮文庫。六月十八日(火)
沸く
韓国がサッカーW杯に沸いている。日本はあれほどに沸騰していないが、でも中国も含めてアジア・サッカーが世界のどの位置にいるのかを今回確かめることができる。組織力や個人プレー、攻守の巧拙、体力差などが相対化していくのを目の当たりにできる。動きのいいアフリカ勢と伝統ある欧州勢との戦いぶりが見もので、にわかファンでも楽しめる。話は変わるが、戦後中国は毛沢東が牛耳り、蒋介石が台湾に逃れる。もともと太平洋戦争で中国に加担していた米国は、びっくりし反共の砦として日本の復興を強く望んだ。これが戦後日本の繁栄のシナリオだったのである。だからもともと中国・米国は反目しているように見えるが、その実は好意的なのである。大国に挟まれ、動かされてきた戦後日本の歴史ではあるが、これとは違う次元でサッカーを楽しみたいが、どうしても国民性が滲むのは致し方ない。先取先行して堅守だが、相手も同じ考えで戦うことは間違いない。緑ゆうこ「イギリスは理想がお好き」紀伊国屋書店。六月一日(土)
Show and tell
職に就いてから英会話教室に一度だけ通うことになるが、英語よりも会話の仕方に引かれた。先生は妙齢のイタリア系米国人で、教え方が新鮮なうえ、なにやらアチラの幼稚園の雰囲気を思わせた。なかでも「ショー・アンド・テル」。皆の前での口頭発表、言うところのプレゼンテーションです。自分の言いたいものを持ってきて、見せて(ショー)、その背景を話す(テル)します。それにクラスメイトが質問し、答える。私は何を見せたのかを思い出せないのは、いい加減なものを持っていったからでしょう。宿題もほとんどが、好きなもの、好きな本、好きな人などを述べなさいというものでした。いまこれを周りの人たちでやると愉しいだろうな、と思う。自分の言葉で語るプレゼンテーション文化はビジネスの世界だけではないのだが。かくて、かの地では幼稚園の「ショー・アンド・テル」を終えると、つぎは小学校で「プロジェクト」というのがあり、課題に合う本を読んで、その内容を紙芝居や模型で表現する。高校生になると「グループ・スタディ」があり、テーマと仮説をもち実際のデータを集めて検証する調査を5人ぐらいのチームで取り組む。幼稚園から社会人までプレゼンテーション能力を磨いている国があるのだから、敵いません。以心伝心の国はここでも分が悪い。五月十六日(木)
隣国の古層
韓国は、巨大な中国と激烈な日本に挟まって苦労してきたことは地政学的にわかるが、その心性はわかりにくい。古代韓国の穏やかな弥勒仏像をつくる文化をもつ民族だから気持は通じるだろうと思う一方で、最近の韓国人はつきあい難いとも感じている。その歴史のずれを深層から探ったものがありました。それは十六世紀の李朝中期にポイントがありそうです。この時代から繰り広げられた権力闘争である党争は、全国規模で世代を超えて繰り広げられた。それは儒教的であり自己を相対化せず、名分論をかざして白か黒かを迫り他者を斬る思考に特徴がある。一般の政争は一時期のものだが、李朝の党争の当事者たちは、子の代、孫の代になっても対立を続けているのは、朱子学のイデオロギーで武装した儒教的文化人だったことが大きい。朱子学で武装し、大義名分を論ずることを業とする人々には妥協が難しいという。「耽羅紀行」で司馬遼太郎はそのあたりのことを解く。朱子学は宋以前の儒学とはちがい、極端にイデオロギー学だった。正義体系であり、別の言葉でいえば正邪分別論の体系でもあった。朱子学がお得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪かということを論議することだが、こういう神学論は年代を経てゆくと、正の幅がせまく鋭くなり、ついには針の先端の面積ほどもなくなってしまう。その面積以外は、邪なのである。このように朱子学というのは大義名分を論じはじめると、カミソリのような薄刃を研ぎにといで、自傷症のようにみずからを傷つけ、他を傷つけたりもするイデオロギーの学といえる。とこれは抜書きの一部ですが、日本でもその朱子学が幕末の志士たちに水戸学として影響を与えたものの、内部抗争が激しく自滅した史実があります。朱子学を引きずっているのは韓国だけでもなさそうです。田中明「物語韓国人」文春新書。五月五日日(日)
六十年後の陪審員
確か一九七十年代に本多勝一氏が南京事件を掘り起こしていたのを覚えてますか。しかしその姿は今でも定まっていません。証言や史料はもちろん、戦後の東京裁判や南京裁判でも虚実相半ばです。一九三七年(昭和十二年)十二月に中国の南京に入城した日本軍は三十万人に及ぶ虐殺で裁かれた。東京裁判では十万人。これを今日、史料で吟味したらどうなのか、北村稔「南京事件の探求」(文春新書)をめくりつつ、およそ次のことが解った。中国側の大虐殺デッチあげという側面もぬぐいきれない。ハーグ条約を逸脱する捕虜二万人処刑は断罪の余地もないが、当時の安全区外の南京市内の記録からみても六週間も民間人の虐殺が続いたことへの疑問、当時の機械力や作業力から短期間に三十万体の死体処理はできたのか、当時の南京市の人口は二十五万人前後と史料から読めるがそれでも三十万人の虐殺の数字が使えるのか、などおよそ不自然なこともある。たぶん、南京陥落後の一九三七年十二月十七日に蒋介石が抗日戦争開始以来の全軍の死傷者三十万人と述べ自国民に奮起を促したことに由来しそうだという。中国人の愛国ゆえの誇張表現という向きもある。実事求是。日本軍は兵站補給をせず前進するのみで、捕虜の収容もできずせっぱ詰まって皆殺しせざるを得なかった。とどのつまりは、南方戦線での戦闘部隊の自滅・餓死の悲劇と重なる。日本軍国主義は残忍というよりも、無計画と場当たりな成り行きが支配していた面が強かったのか。その歴史経験がさらに矮小されて、例の有事関連法案が時代とのずれを生みながらも法制化の動きにある。成り行く民、内向きの民を今世紀も繰り返すとしたらおぞましい、というと論理飛躍ですか。四月二十日(土)
冷えたティオ・ペペ
自分を変えることはとても難しい。だがやり方次第ということもある。自分の好きなことをやれば、およそ心を解放できることをやれば、それをバネにして機嫌がよくなる。上機嫌な女は男の宝物だとしたら、男もある程度は機嫌をよくしておきたい。人間の上機嫌ほど、この世でめでたいことがあろか。ひとはみな寂し過ぎます。機嫌の風向きを変えウキウキ・ワクワクできる生き物なのに残念です。その辺のことを解って日々暮らしたら、と神様は微笑んでおられるような気がします。でもこの場合の神は上の方の誰かと言う意味であって、信じている訳ではありません。春の宵に、この先のあらまほしきことに思いを巡らす。それには冷えたティオ・ペペと生ハムも要りますねんけど。田辺聖子「かるく一杯」(ちくま文庫)。四月十二日(金)
きみには苦労かけるね
イタリア人は両手を縛られるとしゃべれなくなる。日本人はハッキリしろと言われたら黙り込む。この日本列島民族は成すことより成り行くままに国をつくってきたかもしれない。この心性は議員も役人も政府も同じであり、法人も同様です。さぁて今世紀のこの国の指導者はどうしたものか。国民に呼びかける時の直裁で味のない言いぐさ。言うところの構造改革には国民の痛みが伴うと。塩野七生「再び男たちへ」(文春文庫)は言っておる。国の指導者たる者は、国民を女と考えるべきなのだ。女は苦労がいやなのではない。きみには苦労かけるね、の一言だけでふるい立つのが、女というものである。女にかぎらず、苦労とは、「わかってはいるけれど」という想いだけでやるならばただの苦でしかないが、こちらがやる気になってする苦労は、苦ではなくなるのである。この辺の心理に通じている者だと、家庭なら良き亭主になり、国ならば良き指導者になるのだと思う。日本の進路は知識人タイプよりも、女の心理に通じている粋な男にまかせてはどうか、と。なるほど。マフィアと関わっていそうな指導者をもつイタリアでも、実はマンマ(おかあさんの意)が幅をきかせるお国柄ゆえか、EUの斜陽国と言われても中小企業は元気がよく、人々は陽気なのです。四月六日(土)
誰でもいい絵は描けるんやで (80)
北方の辺境に暮らしていても、近くの山や川や海は眼精疲労をいやす遠い景色です。毎日の中に生きものを育てたり飼ったりを取り込めずにいることが惜しい。若い世代も同じように自然や生産から遠ざかり、食べ物や生きものの現場を知らずにいる。こんなことではいけないとドイツのシュタイナー博士は生きるためのテーマ別エポック授業を考えた。確か小農園をやろうというのもあった。芋や野菜を育て、卵かけご飯のために鶏も飼うのもいい。未明のコケーコッコは近所迷惑としても、地方都市なら許される。さらに農園の出来事を写したり描いたりして、その相乗を楽しめるとなおいい。「兎の眼」(灰谷健次郎)の足立先生は、真似さえせーへんかったら、誰でもいい絵が描けるんやで、とエポック授業のようなことをやりながら生徒を納得させていた。今となっては頷けるが、幼い頃にそんな言葉はなかったように思う。さて森羅万象に感応しながら、ひとつひとつ描いていったら、まんだら絵のようなものに行き着くのだろうか。四月二日(火)
散蓮華
食堂で友人「汁すするさじ何だっけ」私からかい気味に「すみれと違ゃう?」友人「おばさん、すみれ」おばさん「すっ、すみれって」友人当然ふてました。汁をすする陶製のさじをレンゲ、散った蓮の花に似ているところから本当は散蓮華(ちりれんげ)というそうだ。食べ物で身近なものは何と言っても、おでん、きつねうどん、すきやき、お好み焼き、たこやきでしょう。ちょっと値は張るが、てっちり鍋も気にしたい。大阪心斎橋のてっちり屋で旧友が気ィつこうてくれた。河豚刺のてっさ、ちり鍋、白子焼き。でも最後に味がしみ出した汁にご飯をいれ卵をとじた雑炊を、散蓮華でいただいたのが一等うまかった。これも大阪の食いもんでしょう。思ったより安いし。田辺聖子「春情蛸の足」ちくま文庫。三月二十五日(月)
おっとっと
二度目のおっとっと。今度も際どかった。先週の夜にのどがつかえ救急医療に助けを求めた。でも直ぐにとはいかず翌一日準備にかかり、のどに管を通し広げて無事をえた。同音異義語のブジーというその措置は辛いものでしたが、開通したその時は蘇生できたことに目が潤んだ。最後にのどの流動をみるため造影剤を飲みながらレントゲン照射をする。医師「つぎは造影剤を飲みます」わたし「はい」、レントゲン技師「それでは飲んでください」わたし「えっ空っぽですが」、飲み下せる境遇に浮き足だちゴックンとやってしまった。医師「そうですか、ではもう一杯」わたし「はい何杯でもいただきます」という具合でした。こんなことも、どんなことも、出来事を丸呑みしようと思うようになってから気持が座りました。じたばたしても仕方がない。だから早々ではありますが、こっそり缶ビールをいただくことにしました。三月十七日(日)
取り違え
故人の池田弥三郎氏が福島県の山奥の温泉に泊まった時の話だそうです。下駄をつっかけ外へ散歩に出かけるたびに番頭さんが「じいさん、ばあさん、お出かけ」と大声で言う。自分は確かに若くはないがそんな風に言わなくてもと思ったので、糾してみた。実は部屋の番号が十三番で「ずうさんばんさんお出かけ」とのことでした。私もありました。東急ハンズの走りのころ、渋谷の交番で「東急ハンズは?」と道を尋ねたところ、オマワリさん「東急ハンドですか」。小声で「このひとなまってるね」と言われてしまった。金田一春彦「日本語を反省してみませんか」角川新書。三月十一日(月)
週一冊の愉しみ
本は寝床でしか読まないので文庫本か新書でないと具合が悪い。毎日のルーティンのなぐさみに三十ペイジほど読むが、本屋で週一冊の本を選ぶ愉しみもある。この春は藤本儀一、田辺聖子、灰谷健次郎といった関西三人衆からの選書です。ついでにお気に入りの書き抜きもしている。ではお披露目です。11PMでおなじみだった藤本氏からの書き抜き帖ですが、都合よく載せていますので怪しいところもあります。多くの人たち会った氏は人の顔に法則を見つけました。本当の笑いや人に何かを感じさせる表情の持ち主は例外なく謙虚であること。古本屋の親父さんしかり、苦労して会社を築いた創業者もそうです。数多くの顔を見てくると、心豊かな人は魅力に富んだ顔をしている。面白いのは人気のない人に限って表情が乏しい。いい表情の人に共通しているのは、自分はどうありたいのか、そのために何をすべきなのか、という自分を持っていることでしょう。将棋の大山さんに聞いた話だそうですが、勝負での自分の能力は八十五パーセントしか出せない。後の十五パーセントは体調だとか運やその他の要素なんだと。そう思って対戦すれば勝負に勝てるし、もし負けても納得できる。次もいい。文章でプロとアマの違いは省略の技法にある。いかに贅肉を落とし無駄を切り捨てるかである。説明文、論文、日記以外の文章を書くなら、激しいか毒を持っていないとまずい。商いと文章はカッとなったり悲しんだ時には決してやるな。藤本義一「モノの値打ち男の値打ち」ちくま文庫。三月一日(金)
日本語は畸形?
わが町の本屋に平積みされていた新書の一冊ですが、八重洲ブックセンターでも「はやり本」らしいですね。高島俊男「漢字と日本人」文春新書。日本語を漢字で書く困難と混乱は千数百年後のこんにちもまだつづいているという。漢字をその意味によって直接日本語でよむ乱暴な所業をなしてきた。たとえば「山」という字、これは音でサンとよんでいたが、日本語の「やま」に相当することがあきらかであるから、この「山」という漢字を直接「やま」とよむことにした。これをアタリマエと思うだろうけど、 mountain という英語を直接「やま」とよみ、dog を「いぬ」、cat を「ねこ」とよむ荒業である。しかも犬はケン、猫はビョーという本来のよみも保存した。これが日本人の漢字の音と訓の加工です。つぎは和語に漢字をあてるおろかさ。「はかる」には「計る」「図る」「量る」「測る」などあるが、これを使い分けるのはおろか。「はかる」でよい。和語に漢字をもちいる必要はない。形をかえた西洋語では、「権利」「義務」と言ったり書いたりするが、これは確かに日本語だが、その内容は西洋語である。形をかえた英語であり、漢籍におけるその語の意義を知らねばならぬという人があるとすれば、それは間違い。もともと日本人にとって漢字は借りものであり、日本語とあわなくて苦労しているのである。結論としては、音声が無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ち得ない、とうい点に着目すれば、日本語は、世界でおそらくただ一つの、きわめて特殊で、畸形な言語である。漢字は日本語にとってやっかいな重荷であるが、このまま生きてゆくより生存の方法はない。という。読んでいて気づいたのですが、である調とですます調の文が混在していても名調子。二月二十二日(金)
おいらの由来がきえた
それは一月二十九日の夕刻でした。翌日の現場では寒風が焼け残りの「十勝寶盟鑑」(大正十四年刊)をくっていた。明治二十三年日高国静内郡遠佛村に農業の目的を以って移住し…其の後十勝は土地肥沃なるを知り…同三十三年五月貸与を受け…八十二町歩余を出願し許可を受け、種牛種馬を求め繁殖飼育に努めたり…とそこには書かれていたはずである。淡路島出身の曾祖父と祖父は明治中期に北海道をめざし、その長子である私の父は設備投資の大型農業はめざさず、身軽な営農を心がけていた。でも趣味としては機械と電気がめっぽう好きでした。1950年代には水力の自家発電を設備して茶の間に電気を灯していた。小さなタービンに鮭が絡まると電球が薄暗くなり、水門を空けて鮭を採る。豊かな川でした。電気があるとラジオが聴ける。蓄音機を使って屋根の上から音楽を流していた。流しながら畑仕事なのだ。スッペ作曲の「詩人と農夫」を覚えている。あの田園生活は温かく深い少年時代の記憶である。だがおいらの由来はきえた。享年八十九歳でした。二月の練習曲はシューマンの「楽しき農夫」を弾くことにした。二月十五日(金)
モノクロ映画
四・五十年前のモノクロ映画が衛星放送で時々流れる。シドニー・ルメット監督「十二人の怒れる男」アメリカ・1957年がその一つ。NYのうだるような暑い夏の午後。法廷内の一室で十二人の陪審員たちが、父親殺し容疑の少年の「guilty」あるいは「no guilty」をめぐって一進一退の評決をくり広げる。郵便で通知されて陪審員となった普通の市民たちは、証拠と証言から誰もが有罪と思いこんでいる。これは思いこみの全体主義とでも言おうか。さて冒頭の場面から全員が有罪で一気に評決と思われたが、ただ一人少年の有罪を断定できないとする第8陪審員(ヘンリー・フォンダ)は証言の不確かさを粘り強く一つ一つ覆していく。ほかの陪審員も有罪と無罪のあいだを揺れながらも次第に少年の無実へと傾く。第8陪審員のたった一人の疑問と抵抗とが、ほかの人々の心を動かし遂に少年の無罪の表決を下す。誰が犯人かは定かではないが、疑わしきは罰せずが貫かれた。陪審員室から一歩も外へ出ることなく、お互い番号で呼び合うだけの名も知らぬ十二人の陪審員たちは、この一室で夕刻から翌日の朝までかけて無罪を確信するに至る。すべてを終え法廷を去る時、無罪を切り出した第8陪審員とそれを最初に支持した年老いた陪審員は、互いに名乗り合いはしたが別れはさらりとしたもの。たった一枚のカードがワンペアになり大勢を覆してゆくこの賭けは忘れがたい。単色の映画は愉しいですね。一月二十五日(金)
ふたりの博物誌
ルナールの「博物誌」(新潮文庫)は簡潔な言いまわしで「蝶、二つ折りの恋文が、花の番地を探している。」が知られている。かたや開高健の場合は一点凝集にむけて饒舌と技巧で迫る。ふたりとも好きなタイプです。では開高健の言いまわしを抜き書くと。ネコは人の生活と感情の核心へ忍び込んでのうのうと昼寝をするが、ときたまうっすらとあける眼はぜったいに妥協していないことを語っている。媚びながらけっして忠誠を誓わず服従しながら独立している。気ままに人の愛情をほしいだけ盗み、味わい終わるとプイとそっぽを向いてふりかえりもしない。爪の先まで野生である。これだけ飼いならされながらこれだけ野獣でありつづけている動物はちょっと類がない。横道にそれるが、生まれるのは偶然、生きるのは苦痛、死ぬのは厄介、というのも書いてありました。戻って、ペリカンはさびしくて、強健で、不屈である。などと表現する故開高氏を奥村大三郎は、彼は本来のナチュラリストではないという。そもそも何か物が好きという子供は、はじめのうちは誰でも機関車やおもちゃやカブトムシ、ザリガニなどと遊んでいるが、やがて機械や乗り物が好きな子と生き物の好きな子とに分かれる。それがやがて生涯の職業や趣味になるのである。一方、物が好きでない子供はいずれ抽象的なものを弄ぶようになる。つまりそれが文学者、思想家、芸術家、政治家という方向なのである。開高健という人は七歳になってから郊外の池や川で遊ぶが、やはり都会の人で、生まれながらの言葉の人で、物を詳しく見るより、それについての印象を言葉にして頭の中で練り上げる人であったと思われる。とのことです。奥本大三郎「開高健の博物誌」集英社新書。一月十八日(金)
小話に笑ふ
ジョークは巷に溢れているが、クスッとかニヤリと笑ふには遠い。腹を抱えて笑ったのは随分前だが、笑いすぎて内容は忘れてしまった。ベルグソンの笑いの本も、これは方法序説だから楽しくはなかったが、近頃の本にいいのがありました。靴下の話です。幼稚園の朝、子供が片方に赤、もう片方に緑の靴下を履いてきた。保母さんが、「あーら、マサオちゃん、珍しい靴下ね」マサオちゃん少しも騒がず「珍しくないよ、お家にもう一つ、同じのがあるもん」次のもなかなかいい。「グリーンランドの方がアイスランドより北にあるなんて、知ってた?信じられないよ。現実主義と理想主義の違いかなあ」と、こんな小話です。いくつか集めてみたくなる。阿刀田高「ユーモア革命」文春新書。一月十一日(金)
内田光子の世界 (02年)(70)
ピアニシモの内田光子はモーツアルトのピアノ協奏曲・ピアノソナタから始まり、ベートーベンのピアノ協奏曲、シューベルトのピアノソナタ、さらにショパン、シューマン、ドビュッシーのピアノ曲へと続き、音楽の深く暗い世界を垣間見させてくれた。特にシューベルトは極まっていると思う。この陰のある馥郁たる曲を聴けたのがうれしい。しかし彼女はこれに止まらず二十世紀音楽のシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンへと踏み込む。年末に内田光子率いる室内楽によるシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を聴いたのだが、詩も歌うのでチンプンカンプン。でも無調時代の音楽とはいえシェーンベルクの「三つのピアノ」は愉しめる。因みにアルベール・ジロー原詩の「月に憑かれたピエロ」の「月に酔い」はこんな風に始まる。「夜の月は目で飲む酒を、波のように降り注ぐ、それで大潮は 静かな水平線を ひたしてあふれる。身震いするような甘い情欲が、潮の中を果てしなく泳ぎ渡る!夜の月は目で飲む酒を、波のように降り注ぐ。信心深い詩人は、聖なる飲み物に酔い、恍惚として頭を天に向け よろめきながら目で飲む酒を 吸いすする」と柴田南雄が訳していた。前世紀の不安と孤独は続いている。ところでシューベルトの即興曲を聴くならグルダもいい。虜になる。〇二年一月二日(水)
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