02.地域を美しく
内容
01.都市も農村も美しくない.. 1
02.農村で休暇を.. 1
03.日本人の視覚感覚... 2
04.地域景観づくりの苦悩... 4
05.景観づくりのツボ.. 6
06.地域環境の処方箋... 8
07.まだやれることはある.. 11
08.吉阪隆正の見方... 12
09.原昭夫の見方... 12
10.芦原義信の見方... 13
11.資料編... 17
01.都市も農村も美しくない
▼前回は、聴覚環境をあつかいましたので、今回は視覚環境をテーマにします。つまり、目に見える環境や景観の話が中心になります。ランドスケープともいいます。ここでいう感覚環境とは、視覚や聴覚など人間の五感に作用する環境のことで、日本人はもともとそのような感覚が鋭敏であると思ってきましたし、外国からもそう思われてきました。しかし、個人的な印象では、今の日本は諸外国(途上国を含む)すべての外国と比べて、感覚環境が最低・最悪の国だと思われます。
noise / 耳→ sound → soundscape
目→ vision → landscape
▼というのは、このごろ顕著になっているのが、若い方たちの清潔志向とかグルメ・ブーム、温泉ブームとかに現れていますが、嗅覚、味覚、触覚などの動物的な感覚はいっそう敏感になっていますが、視覚と聴覚には相対的に鈍感化の傾向と思います。歴史的にみて視覚と聴覚が、美術と音楽という芸術文化を生み出す感覚であったことから、そう言っていいと思います。その鈍感化の原因は、前回の聴覚環境の騒がしさのほかに、視覚環境もノイジー(騒がしい)であるということがあります。いまの日本の国土は都市も農村も美しくない。
02.農村で休暇を
▼イギリスもフランスもイタリアも、農村地帯は美しいし、町の人たちが民宿しながら楽しんでいます。ここで、自由時間プランナーの津端修一さんが述べられていることを話します。「農村で休暇を」という話です。『現代ヨーロッパ農村休暇事情』(はる書房)に詳しく書かれています。ヨーロッパでは今や主流となったアグリ・ツーリズムは、国境をこえた都市と農村の自由時間交流がリゾートを変え、農村と地域の再生を目指しています。携わる彼らは<環境の耕作者>といわれてもいます。▼ちなみに、日本では花の都と言われるパリですが、フランス人にとっては「住みたくない町」のトップなんですよ。やはり農村や漁村なんですね。
▼さて、その実態を覗いてみましょう。フランスでグリーン(アグリ)ツーリズムが振興されるようになったのは、第2次世界大戦が終わって間もなくのことでした。世の中が平和になったとき、誰でもヴァカンスを楽しめるようにと、農村部に安い費用で長期休暇を過ごせる宿泊施設が整えられたのです。農村にある家族経営の小規模ホテル、農家の使わない建物を利用した貸し別荘型、安い費用で家族が滞在できるファミリー・ヴァカンス村などが整備されました。もちろんグリーン・ツーリズム振興には、農村にある古い家屋を民宿として利用することによって保存すること、農村の経済を発展させるという意図もありました。フランスのグリーン・ツーリズムのスタート時には、農村で過ごすと安上がりで長期休暇が過ごせるというのが大きなメリットでした。海水浴場で休暇を過ごすというヴァカンスの形ができていたのですが、観光地となった海岸部では経済的余裕がないと長期休暇は過ごせませんので。でも最近では、そんな「安上がりの休暇」というグリーン・ツーリズムのイメージは全くなくなりました。今では、農村で休暇を過ごす人たちは、むしろ裕福な階級で、教養もある人たちとなっています。そういう人たちは、芋を洗うように混雑した海水浴場よりも、農村の文化にひたり、自然ともコンタクトを持てる田園で過ごす方が良いと考えるからです。
▼農村での楽しみのいろいろは、ワイン農家を訪れる 、気軽に行けるフランスの農家、本物のフランスの味は田舎にあり、人との触れ合いがある田舎の旅 、美しい村々を訪ねて、歴史的建造物、博物館を訪ねて、乗馬などのスポーツを楽しむ、野原や森で遊ぶ、農村の催し物、ありきたりでない田舎めぐりの旅、個性があるフランスの地方、といったところです。
03.日本人の視覚感覚
▼ところで、日本人の視覚が鈍感になっているのは、おそらく人工照明の明るさでしょう。日本の都市はおよそ人のいるところ、人の集まるところが家の中まで含め一様に明るいですね。昔は日本でも西洋でも、室内の照明器具は壁に付けたものか床に置いたものが普通でした。いまの日本の照明は必ず天井から部屋全体を明るくする照明方式です。明治時代に電線コードで吊るす電灯が現れ、戦後はそれが蛍光灯になります。また、公共空間は安全第一で、蛍光灯空間ですね。隅々まで明るい。もっとも最近は省エネで多少照度は落ちていますが。▼振り返ればもともと、江戸文化は省エネ文化でした。行燈のほの暗い明り、薪で炊事といった具合です。そのほの暗さは、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』です。前回このこと話しました。ディエス・デル・コラールも日本の文化を、特に障子の穏やかさを讃えています。これも前回話しました。
▼日本人の視覚感覚に関係してですが、ブルーノ・タウト(『日本美の再発見』・岩波新書)というドイツの建築家が、桂離宮をはじめ、伊勢神宮、飛騨白川の農家および秋田の民家などの美を「再発見」しています。ナチスを逃れて滞在した日本で、はからずもそれらの日本建築に「最大の単純の中の最大の芸術」の典型を見いだしています。日本建築に接して驚嘆し、それを通して日本文化の深奥に踏み込みました。茅葺の屋根に苔むしたのを見て、泣き出しそうだとも言っていました。古いものだけがいいと言っているのでなく、日本人の感覚の源流を、この人の本で探ることもできます。
▼で、外国へ行った時は感じるのは、特に夜は街が薄暗いですね。そういえば帯広の駅前もほの暗いですよ。帯広のまちづくりで、初めての陰影のある街頭照明の実験を試みが結果です。日本の伝統照明を取戻し、ヨーロッパ並みにしょうとしたわけです(これは外国と日本をよく見てきた加藤源というプランナーのおかげです)。でも評判はいまひとつです。暗い、不用心と苦情が寄せられています。でももう少し時間をかければ評価されるでしょう。▼夜目遠目笠の内というではありませんか。みんな陰影のある顔、女の人はきれいに見えますよ。明るいとどうしても影ができません。陰影のある顔ができませんから、国際社会では日本人には顔がないといわれる始末です。これは余談ですが。
▼町がほの暗いと、イルミネーションが映えます。帯広でも冬にやっていますね。華やぎます。ウキウキします。ヨーロッパでもクリスマスの頃は街路沿いのほどよい電飾と、伝統的建築物のライトアップはやはり見ごたえがあります。ということで、今回は、どうしたら町は美しくなるのか、そのための地域環境を考えてみましょう。
と、その前に、イーデス・ハンソン(タレント)の「光害」への言い分がナルホドと思いましたので長いですが紹介します。皆さんも読まれたかと思いますが、北海道新聞09年3月2日付け朝刊コラムからです。▼夜空は神秘的で美しい。方位も季節も教えてくれる。寝るころに北極星の東におおくま座が見えていれば、この国は冬だ。この時期の天の川が東西に広がっているが、夏になるとその向きは南北になる。地球は月を連れて宇宙を旅しているのだ、と実感する。その感覚を常に持てることが、街明かりが夜空を覆い隠す都会から紀伊半島の山里に越した大きな理由の一つだった。ただしこの集落でも、はるか山向こうのパチンコ屋のサーチライトが頭上の雲をチラッとなめたり、気象によって直線で百キロも離れている大阪付近の光が北の空を黒から灰色に変えることがある。もはや日本の夜空は本来の透明度と暗さを失っている。▼当然、これは日本だけの現象ではなく、人類の三分の二は、「光害」で汚染されている空の下に住んでおり、五分の一は、天空を照らす過度の明かりで天の川が視認できない、と算定されている。この光害のなかで暮らす人類の二十四時間周期の生物時計のサイクルもいじることになる。他の生き物への影響も大きい。明るい時間が不自然に長くなれば、エサの取り方や繁殖行動が乱れる。渡り鳥のスケジュールが巣作りに必要な条件がそろう前に目的地に到着してしまう。▼公害のなかで、光の汚染は一番改めやすい害だろう。屋外照明のデザインを、上空に漏れないようカットすることと併せて光の量を減らす。真昼のような明かりを近所にまき散らすパチンコ屋、スーパー、ガソリンスタンドなども、電力節減をかねて狭い範囲で派手さを演出することもできるでしょう。広告塔の明かりや建造物のライトアップの時間設定を再考する余地がある。▼深く考えず今はただ「明るくデキルからスル」のが現状でしょう。どうも私たちには、理屈抜きに「デキルからヤル」みたいな部分がありますね。これを光の制限に「デキルからヤル」方に頭を切り替えればいいのだが。四百年前にガリレオが自作の望遠鏡で眺めた星空を少しでも取り戻せたら、と思いますね(これ、大阪弁だったらホンマによかったのですが)。▼飛行機の深夜便に乗ると判りますが、地上の光のつながりは鈴鹿山脈でやっと途切れるのです。日本列島の光は帯状につながっているのです(木呂子氏の指摘)。
04.地域景観づくりの苦悩
▼さて、広い意味で地球環境としてのエコロジーの一部である、地域環境をどう考えるか。都市計画的には地域景観(ランドスケープ)といいますが、山・川・森や樹木などの自然的要素と、道路・建物などの人工的要素を含めて、いかに美しい景観として改善、組み換えるのかということです。▼道内事例でよく知られているのは、美瑛町の丘陵地帯がありますね、ラベンダー畑の富田ファームなどは知られていますが、あの景観は農村法と都市法を駆使して景観条例を作り、それで守られているのです。
▼日本の大都市は、混雑と喧噪でアグリー(醜い)です。でもエキサイティング(活気)です。地方都市は、どこも同じように都市整備は進みましたが、都心空洞とスプロール住宅地で、産業と雇用不足に悩む、といった具合です。大都市と地方都市を比較しましたが、ここではサイズと密度が違う以外は基本的にその構造は同じです。農村でさえ今は都市的生活様式なわけです。▼戦後まもなく、横浜市や神戸市などが先駆的に町づくりに取り組ました。しかし日本らしさがなかなか発揮できない。結局、日本の都市景観をよくするには欧米の都市に学んだ方がよい、今の日本人のメンタルと美意識では美しい都市をつくることはできない。ということがわかってきました。町づくり理論と実践の輸入です。もちろん江戸時代末期に、江戸を世界一美しい街だといった西洋人はいましたね。誰でしたか失念しましたが。
▼で、その前に。世界の人類の至宝とも思える街を二つほど話します。まず、「ベネチア」です。ご存じのようにベネチアの中心部は人工島で、自動車は入れず、橋で結ばれた歩道のほかは、ゴンドラなど運河を渡る船が交通機関です。家々は運河に面して建てられており、運河のスケールと建物の密度がちょうどよいバランスをなしており、高密度な都市空間を造りだしています。観光客はもちろん、国際会議、国際映画祭、美術祭などのコンベンション活動がとても盛んです。町の中は、入り組んだ歩道と、小さな広場、バール(飲食型コンビニ)が人々の生活の場です。▼非西洋の都市では、ネパールの首都「カトマンズ」です。その周辺の古都であるバドガオンやパタンなども素晴らしい。昔のままの都市空間が保たれています。そのほか、行ったことはありませんが、モロッコのフェズ、インカ帝国の標高3500メートルのペルーのクスコもよいと聞いています。これらの人類の至宝と思える都市は、歴史的に古い町で、しかもそれが現代まで生き残り、いまも人々が住み生活が成り立っている都市なのです。世界の価値ある都市は、パリ・ドンドン・ニューヨークだけではありません。
▼そして日本は残念ながら、京都・奈良などの古都、それに地方都市の城下町、港町を含め、こうではありません。日本では写真ならトリミングかズームをしなければ、美しい個性ある都市景観を撮れません。広角レンズをつかったら余計な、醜いものを取り込んでしまいます。ですから、日本のカメラはやたらズーム機能がついています。▼ですから、日本の都市には文法がない。やり方、表現の方法がないと言われています。商店街に名前をつければ、何々銀座ですね。銀座は全国に500以上あるそうです。公共空間としての街路にしても、その場所固有の意味があるはずですが、日本では交通のための機能しか考えておらず、番号だけでした。でも最近はネームに凝り始めていますが、これにも問題があります。このことについては後日話します。
▼さて、都市をつくる「土木工学」のことを英語ではシビル・エンジニアリング、つまり「市民工学」といいます。かつてヨーロッパでは軍事工学として、馬が動力であったような古代から戦車が通り大軍団が凱旋してくる広幅員の街路をつくる技術が発達しました。その道路や橋を作る技術を市民向けに、つまり民生用に応用したのが、市民工学としての土木工学です。日本で土木という言葉は、即物的で、建設会社の、贈収賄問題とか、談合と結びつきやすいですね。
▼パリは中世都市を今から150年ほど前に大改造して今日のようになりました。ナポレオン三世のときにオスマン卿とういう人が都市計画を担当。あの凱旋門を中心に、放射状の広幅員道路を配置し、それに沿って6、7階の建物をそろえ、近代都市として再生させました(建物の中を覗くと中庭があって雰囲気のいい都市空間でした)。鉄とコンクリートの近代建築前の都市再生でしたから、歴史的建造物としての外観があり、中世都市を近代都市へとうまく置き換えた好例です。たぶんヨーロッパではここだけでしょう。
▼では、新世界のアメリカ大陸ではどうだったか。開拓者にはホームステッド法というのがあって自分で開拓した土地は払い下げが認められました。都市計画の方は、原野に都市をつくるわけですから、格子状の道路網をあてはめました。これはタウンシップ制といっていますが、かなり強引にやりましたから、サンフランシスコなどの丘陵地でも格子パターンです。とうぜん直線の急峻な坂道が多くなります。ですから坂道で車を止めるときは、道路と直角に停車することになります。
▼ここで北海道や帯広の都市計画史を少し話しておきます。探検家・松浦武四郎は、江戸末期に北海道を探検し、札幌を畿内の京都に見立てています。その後、島義勇(よしたけ)は、平安京のイメージを持つ札幌の都市計画を構想します。島の後を継いだ黒田清隆は、アメリカを視察し、お雇い外国人ホーレス・ケプロンを招き、その影響を受けたため、札幌は平安京とフィラデルフィアのイメージを重ねて設計されました。▼このことでの帯広の都市設計への影響は定かではありませんが、1904(明治37)年の市街地図をみると、ケプロンの薫陶を受けた道庁役人が鉄道北側に市街地を設計した内容からそのことが伺えます。さらに二ヵ所の公共用地に収斂する幅20間の斜交路(効率に参加の効用を加える)の組合せは、規模は小さいがワシントン型都市設計の導入であると言われています。1922(大正11)年には、市の役人が鉄道南側に大通公園に収斂する四本の対称的(シンメトリカル)な斜交路の市街地を設計しますが、それは見事で美しいものです。▼ただ、最近の研究では、帯広の街路パターンは、ワシントン市ではなく、むしろウィスコンシン州のマディソン市に酷似しているようです。あの「マディソン郡の橋」の映画で知られたところです。あれはメリル・ストリープとクリント・イーストウッドの4日間の中年の恋物語でしたね。都市計画の歴史については、後日改めて話す予定です。
▼このように見てくると、ヨーロッパもアメリカも、都市づくりには人間の強い意志があります。ニューヨークのようなアメリカの都市でも、歴史性を感じるのは、近代建築以前の教会や公共建築物を各所に残しているからです。また近代建築が造られるようになっても、あのアール・デコ(曲線的なのアール・ヌーボーと違い、どちらかというと幾何学的)のような様式を採り入れた建物が多いので、機能一辺倒の町には見えません。しかし、日本では明治・大正・昭和初期の西洋風の建物は都市景観に重みを与えていましたが、いまではその多くが都市再開発で消えました。鉄とコンクリートとガラスの街になってしまいました。
05.景観づくりのツボ
▼ということで、ここでは美しく見える町への四条件を話します。
① 形の似た同じ大きさの家屋の集合。▼ロンドン郊外やアムステルダムの運河沿いの住宅が典型ですが、形のなかでも屋根の形が似た同じくらいの大きさの家屋が連なっているのが、都市景観の美しさの第一の条件です。英国の住宅のデザインはきわめて安定しておりまして、いまも昔ながらの外観でつくられています。都市の郊外では二戸が一つの建物になった二階建ての住宅が多く、傾斜した屋根とその上の煙突が同じパターンで繰り返されて気持のよい景観を生み出しています。この連棟住宅は、新大陸の都市にも導入され、ボストンのタウンハウスにも同様のものがあります。▼英国の連棟住宅はデタッチといい、フロントヤード(見せる花畑・芝生)とバックヤード(バーベキュー、果樹)がある。かつて民泊で昼間のワイン、留学生、ゴールデンデトリバー犬、ディナー、ナイトライフ、給与300万円、楽しみ方などを経験。▼日本の都市や農村でも、その昔は甍(唱歌があります「いらかのなあーみーのー、くものーうーえー」)や茅葺屋根の波が気持よいパターンを生み出していました。アジア・アフリカでも、小さな住宅が屋根を揃えていて、気持ちのよい景観を生み出している所もあります。ですが今の日本には、新しい建材や工法は導入されましたが、美しく屋根の揃った住宅の様式はまだ生み出されていません。町を美しくしていくためには、大工さん、工務店、地元の建築家などが、その土地にあった住宅様式を生み出していくことが期待されます。例えば、屋根の揃った住宅付き宅地開発をするとか、屋根を揃えるような地域ごとの建築協定をつくるとかが、考えられます。
② シンボルとしての大きな公共的建築。▼欧州では、今話した形の揃った集合した住宅の中に、広場があり、その広場に面して教会堂や市庁舎があります。教会堂には数十メートルの尖塔が設けられ、そこに登ることもできるものもありますが、町のどこからでも見ることができます。つまり視覚的なシンボルともなっているわけです。日本でも古い町でお寺の建物が大きく、五重塔など高い建物が町のシンボルになっている例もあります。ムスリムの都市でも尖塔上の建物がありますから、東西を問わず、家屋が連綿と続く景観に、ひときわ高い公共建築の配置は世界に普遍の都市景観の美として考えられます。
③ 建物や市街地を包みこむ樹木の存在。▼欧州の都市では、石造りの建物が集合した市街地の周りを、樹木がたっぷりある都市林が取り巻いているのが普通です。また、郊外の住宅地、丘の上や斜面の住宅、あるいは農村集落は樹木の間にみえ隠れするような景観になっていることが多く、樹木が美しい都市景観を生み出す要素になっています。日本では都市林という考え方は生まれませんでした。寺社や宅地の樹木、生垣などが緑の景観をつくっている例はありますが、圧倒的ではありません。いまの日本の都市は雑然として、どぎつい面もありますので、それを緩和させるため市街地の内部とその周りに樹木を多くしていけばよいわけです。街路樹は古くなった町をそっと包みます。「街路樹は七難隠す」です。その場合も街路樹は二階建ての屋根の上に梢が伸びているようでなければ景観効果はありません。都市の街路樹は盆栽ではありませんから、ちょん切る剪定はまずいわけです。山口県の宇部市は無剪定都市ですよ。▼日本では森林を「神林」(南方熊楠?)と呼びます。英国の大ロンドン計画のグリーンベルトや、ドイツのBプランを想起すべきでしょう。
④ それ以外の要素は目立たせない。▼今まで述べた三つ以外のものは控える。特に民間企業の看板広告類です。欧州の町では原則として「看板」というものはなく、建物を記すための「標識」しかありません。日本では看板の類は法的に「屋外広告物」として扱われていますが、世界に冠たる都市銀行がビルの屋上に大きなペンキ塗りの看板をのせていますが、今の感覚環境からすると見苦しい物件だと思いませんか。小さな商店での看板や野点看板も含め日本の都市ほど看板や屋外広告物の多い国はないでしょう。ほとんど視覚的騒音、これを「騒色」と呼びます。それと道路沿いの白いガードレールです。外国では車道と歩道の間は段差があるだけで、フェンスの類を設けていないのが普通です。日本はガードレールですね。これは本来、都市間道路のような幹線道路に使うもので生活道路には不向きです。それにあのガードレールの色、外国で目立たないようにグレイです。日本でも道路公団の高速道路はグレイですがね。つけくわえるなら、海・山・川に沿った道路の防護柵はグレイのワイヤーロープがいいですね。これなら車から、海や山の景色が見えます。ドライブが楽しくなります。特に平野部ではガードレールが景色の邪魔になります。ですから安全第一ではなく、安全第二で、景観を楽しむということです。安全第一をずっと突き詰めると、生きていること自体が安全ではありませんから、死んだ方が安全ということになります。これは、健康指向と同じで、生きているのは健康に悪いというのと同じです。程度問題というところですね。
▼以上、地域の視覚環境、ランドスケープについて話しましが、地球環境のことも大事です。ごく身近な農業や林業にだけ関して言えば、これは故木呂子敏彦氏に教わったのですが、例えば雑木林の育成を許さない杉やヒノキやカラマツの単相林、あるいは平野一面が水田ばかり、ひと山すべて樹木のない牧場、広大な高原野菜の産地など、巨大産地形成をなすモノカルチャー型の国土利用は見直そう。「○○ばっかり」はまずい、という警鐘を鳴らしておられました。「ばっか」農業は、連作障害がでますから、農薬や化学肥料を多用しなくてはなりませんし、河川や大気の汚染、人体への影響といったことにつながります。ですから、土地利用と産業経済活動の大枠を再検討しなくてはならない事態に来ている、ということです。
▼最近の動きとしては、ご存じでしょうが「ビオトープ」がありますね。これはドイツで生まれた地域計画手法で、日本にも紹介されています。野生動物(獣・鳥・昆虫・魚)の生息環境を、植物や水環境を整えながら、地域開発の中で意図的につくっていこうとするものです。ホタルが生息できる川をつくろうという動きが全国に見られます。十勝でも高速道路の下に動物が行き来できるトンネルを作ったりしています。
▼帯広では日高山脈に生息しているエゾリスが河川沿いの緑地や耕地防風林をつたわって市街地の公園にやってくるようにしようというプロジェクトが進められています。サケとリスがやってくるまちづくりと言い換えてもいいでしょう。▼そこのところを、帯広の町づくりの方針から引用してみます。「帯広・十勝は、そこそこ豊かな生活と自信が育ち、独立王国の風情を持ち始めている。そもそも西北海道と東北海道は違う大陸プレートから成り、それがぶつかり褶曲されたのが日高山脈である。よって気候も違う。札幌は山陰型であり、帯広は山陽型である。太陽・土・小都市自立が、この地方をデザインする時の条件となる。十勝の環境構造は、秋田県の広さに迫る約1万平方kmの十勝平野から成り、そこに田園風景が広がる。その周囲には約5百kmに及ぶ森林・山岳地帯が取り囲む。しかし直線で計ると約百kmの意外に短く急峻な河川。上流地域の問題は直ちに下流地域の問題。水は汚せません。土は大切な公共財。森は土をつくり水をつくる。これが十勝の生態系であり、その中心に帯広という小都市が成立している。この地域は確かに広く豊かだが、生態系は思いのほか脆弱である。地域の環境管理をキチッとしなければならない理由がここにある。十勝川から鮭がのぼり、日高山脈からリスが降りてくる。21世紀はそれが、この土地に住む人々のテーマになる筈である。特に、山岳地帯や平野部の開発は、従来の産業開発ではなく、市民の新しい田園生活のスタイルとなる生活開発が基本となる。帯広の開発の特色は、開拓当初から日本における農業専用地域として位置づけられていたこと、さらには独自の明治期の都市設計を持っていたことである。帯広は今も昔も「都市と農村」がテーマであった。1960年代の「近代的田園都市」、1980年代の「アグリポリス論」も、それぞれの時代を反映した都市像であり将来方向であった。農業は生命産業であり、環境産業である。帯広・十勝にとっての地域づくりのスタートがここにある。かつて1960年代に米国経済学者のフリードマンがアジアの農村と都市化を考えるにあたって、「工業開発は農業を補完するに止める」としたアグリポリス構想を提起したことがある。帯広・十勝の地域づくりが、アジア諸国とつながれば、これに越したことはない」ということです。
06.地域環境の処方箋
▼最後に、地域の環境を、エコロジカルかつランドスケープとして改善していく処方箋です。「安全・効率」に付加する価値基準です。五つありますので検討してみましょう。
① 理念的価値。▼戦後の日本の都市づくりには理念というものがほとんど顧みられなかったといえます。多少不便でも私たちの町はこうしたいというのでなければ、理念はうまれません。欧州では、町の中では自動車が人間の頭の上を走るべきではないという、理念があるように感じます。これは安全とか効率とかの価値観からはでてきません。ですから、そういう理念のない日本はどこでも高架道路・高架鉄道を平気でつくっています。欧州でも米国の都市でも周辺部には高架道路や立体交差のための高架道路はありますが、都心に入ると地下(アンダーパス)になります。▼頭の上はツーっと高い空があってほしい。道内では北見の鉄道がアンダーパスで先駆的です。▼また、欧州でこの理念がよく見てとれるのは、建物の高さです。多くの都市は、教会がよく見えるように建物の高さを五・六階程度に抑えております。日本のお寺はビルの陰に隠れてしましました。
② 生命的価値。▼生命的価値というのは、地域の自然環境を都市に取り入れることです。とにかく何でも「樹木」を増やしてくことが都市景観を質的に高めます。欧米の都市は自然と対立するものとしてつくられましたが、二百年前も前に樹木が必要であると気づき、市街地の周辺に大きな森、つまり都市林をつくりました。ウィーンの森もそうですし、ロンドンのグリーンベルト、フランクフルトの森はブタを飼育しソーセージを作ったといいますね。あのフランクフルト・ソーセージです。街路樹や都市林は意図的にこしらえるもので、自然発生の自然ではないのです。▼日本でも東京の明治神宮の森は、大正期に全国からの苗木の寄付でつくられました、今はまるで天然林の様子です。半世紀たてば森ができるということです。街路樹は二十年、いや十年である程度育ちます。その街路樹は町の風景を一変させます。山口県宇部市が好例です▼しかし、戦後の日本は緑化と言いつつ、ピントがあっていません。そのひとつが「花いっぱい運動」です。花はわずかな期間しか咲かず手入れも大変です。地域の主婦や高齢者が総出で一所懸命に道端に花を植えています。長持ちで虫が好かない(私ではないですよ)、黄色いマリーゴールドや赤いサルビアです。この努力を、街路樹の植樹に向ければいいのです。落葉の問題がありますが、これは町内会で集め土壌改良剤として使うといいですね。電線の問題は、街路樹の中を皮膜電線にして通すやり方もありますし、中国では中をくり抜く剪定をしているそうです。▼その街路樹の足元には「土」です。土があれば微生物・昆虫が育ち、小鳥がやってきます。木と土、これは町の大事ものです。▼制度的な話もしておきますと、わが国には土地利用を規制し誘導する国土土地利用法とか、都市計画法、農地法がありますが、その都市計画に公園という都市施設の項目はあるのですが、「都市林」という項目を設けませんでした。ですから、公園はできたのですが、大きな都市林は育ちませんでした。帯広の森は日本では例外的都市林ですね。
③ 歴史的価値。▼欧州の戦後復興では多くの国が、破壊された歴史的な石造建築物を元通りに復元しています。しかしわが国では、史跡や寺社などはかろうじて守られてきましたが、明治・大正期のレンガ造り・石造りの洋風建築物の多くは建て替えられ、日本の都市景観を底の浅いものにしてしまいました。帯広には大正期のコンクリート建築が十勝信用組合に、三井金物店が六花亭に、といった具合にいくつかは残っていますが、そのほとんどは残っていません。▼そこで町のボランティアが古い建築物を調査しその報告書だけは残しています。古い建築物の保存を、皆さんはどうしたらいいと思いますか。
④ 審美的価値。▼日本では「美」の基準が何もない状態でまちづくりを進めてきました。個々の建物の設計者や施主はそれなりの美の基準はないわけではないが、地域としてのそれがありません。毎度お話しますが、欧州には、伝統的な住民の感性や習慣として、さらには制度としてのそれがあります。例えばドイツのBプラン。その地域ごとの道路や建物のデザインを決める詳細な地区計画があります。また現状を知るためのマップはいたって簡単に、下水道・水道・ガスなどの地下埋設物、街路樹、住宅、道路、土地利用図などが、透明のフィルムにプリントされていて、それら全てを下部から照明をあてると、いろいろな都市施設の重なりと、問題点やら今後の整備のやり方を簡単な方法で調べられるようになっていました。▼都市計画の技法はむずかしくありません。コンピュータではじき出すものではなく、視覚的(ビジュアル)な絵本の要領で取り組んでいるのです。▼で、今は都市計画法で地区ごとに地区計画なり建築協定をつくれますから、その土地が時代を超えて普遍的に持つべき「空間感覚」を表現するといいのです。道路の幅員、建物の軒高、建物の密度、空地の配分、町全体の色調、路面や建物外壁のテクスチャー(質感)、街路樹や水路の配置などを、明確にしていくまちづくり作業、都市計画作業が不可欠です。そのような空間感覚が時代を超えてもいいという根拠は、人間の身体が時代とともに変わることはないという人間側の不変性に求められます。こうした地域空間のその土地のスペック(特性)を明らかにして、材料・工法・設備など現代に必要な要素をうまく導入し、組み合わせて町並みを整備していく工夫の過程が、町づくりなのです。
⑤象徴的価値。▼欧州において広場に面した教会堂・市庁舎のことについては、前にも話しましたので省きますが、ここではロンドンで有名な湾曲した街路であるリージェント・ストリートを取りあげます。ビートルズの歌にもありますよ。それとバーバリーとかアクアスキュータムのお店もこの通りにあります。とにかくこの街路の両側に石造りの大きな建物が湾曲した壁面になって連なっています。その昔、近衛兵などのパレードがこの道を行進してくると、姿は見えないのに音楽が先に聞こえてきてそれがだんだん大きくなり、やがてカラフルな服装のパレードが現れる。沿道の観客はさぞ興奮することでしょう。つぎの例は、パリのオペラ通りですが、これはオペラ座の建物がアイ・ストップになっています。これが象徴的建築物というものです。▼ところで、「外国では、では、と例を引く人」のことを出羽守といいます。名付け親は松山幸雄です。『勉縮のすすめ』(朝日文庫)という本は面白いですよ。横道にそれますが、これからの皆さんのことが書かれています。「これからは記憶力競争に勝ってきただけで、自分の意見をもたぬ受験秀才たちは、国際社会では通用しない。責任感、表現力、度胸、敬愛、機転、馬力などの人間としての修養や訓練を大学時代にいかに身につけるかである。それと時間のかかるもの三つのテーマに取り組むのがいい。言語・音楽・スポーツ、これは国際社会にも必要な性質である」。といってますが、これからの道標になりますね。今頃気づく私にはもう手遅れですけど。 ▼出羽守のついでに、パリ・オペラ座「では」の話をしますね。でもこれ、ナカナカの話なので伝えておきます。『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』(洪世和ホン・セ・ファ/みすず書房)からです。この著者はパリでただ一人の韓国人タクシー運転手となり、祖国とフランスを比較しました。オペラ座の養蜂家のエピソーソがイケます。「マルタンはパリのオペラ座で働く電気技術者だが、その下に地下水が流れているのに眼をつけ、その地下水で鱒を飼っている。マルタンと同じ職場で働くジャン・ピエールは、同僚の奇抜な副業に興味を持ち、羨んだが、かといって同業になろうとするような人間ではなかった。フランス人の個性はそんなことを容認しない。他の建物の地下で鱒を飼うこともできるが、それもまたフランス人の個性と折り合わない。ピエールにアイデアが浮かんだ。二ヵ月の間、自分で本を読んだり、他からの助言を求めた末、蜜蜂の巣箱を二つ、オペラ座の屋根に据えつけた。しばらくすると、数万匹の蜂が巣をつくり、パリ市内のあちこちの公園やアパルトマンのバルコニーに咲く花から、蜜を運び始めた。屋根の上の副業から、ついに蜜が産出された。大気汚染の酷(ひど)い都心で良い蜜がとれるはずがないという当初の予想を覆して、その味と品質は抜群との判定を受けた。そして「パリの蜜」という商標で、パリの最高級の食料品店フォションに出荷された。彼は調子に乗って、オペラ座から一キロほど離れたコメディ・フランセーズの屋根にも巣箱を置いた。ともかくパリ市民は、マルタンやジャン・ピエールのおかげで、そしてトレランスを示した劇場管理者のおかげで、無味乾燥な都市生活のなかに生きる楽しみを見出すことができた。その上、パリの真ん中に地下水が流れており、良質な蜜がとれるほどパリに花が多いということを、あわせて知ることができたのである。韓国なら追従する人があるかもしれないが、許容する施設管理者を探すのが難しいだろう」という話でした。日本でも同じですね。多分。
07.まだやれることはある ▼さて、本題に戻りますが、日本では東京駅は皇居の側から見て広い街路の真正面に完全なシンメトリーの形で建っています。東京銀座通りはその昔は京橋の一丁目に向かうと第一生命館という赤レンガの塔(キューポラ)が正面に見えるようになっていました。銀座八丁は800メートルで、雨が降っても歩ける歩行範囲といわれていますが、これが買物公園とかプロムナードをつくる際の基準のようなものになっているようです。▼そこで、景観の一つの要素であるアイ・ストップの話をします。道路の正面に見える際立った視覚要素を都市デザインの用語でアイ・ストップと呼んでいます。このアイ・ストップは町の象徴性を生み出すための有用な概念なんです。わが国の城下町などでも、道路の突き当たりにお寺の山門や神社の鳥居が配置されている例も多くみられます。ですから、町のアイ・ストップに樹木の茂った公園を配置すれば、その町はとても緑豊かな町と感じます。これは簡単な都市計画手法なんですが、自治体も住民も実行に移す力が不足しています。道路と都市計画は町づくりの大事な要素であることを話しました。道には歴史的なもの、住む人の歴史が埋め込まれているのです。真っすぐだけが道ではありません。
▼これまでの話を総合すると、日本の都市景観は絶望的と思われたかもしれませんが、日本の都市・農村を美しくしていく可能性はあります。まず、河川は最近になって工夫がみられますが、ドイツでは戦後、コンクリートでまっすぐにした水路を、昔あった通りにわざわざ曲げて、表面が石や土や草になるように再改修し始めています。景観の改修、これを修景と言います。これがこれからのテーマとなりますし、これから実行することです。▼河川とともに戦後、日本の風景を大きく変えたのは丘陵や山地を削ってできた斜面(法面)です。山あいに道路を作ったり、丘陵地で住宅地や公共施設を造成してきましたが、そこには無残なコンクリート斜面が露出してしまいます。ダムなども巨大なコンクリートの塊ですね。山地が七割を占める日本では、国土整備のために山を削ることは避けられません。▼そういった意味で、日本の国土づくりには宿命的なものがあります。狭い縦長の国土に山が走り、海に急流の川が落ちる。ですから、道路や鉄道はそれを断ち切ってき進むよりない。橋も当然多くなる(下河辺氏の指摘)。▼建物についても、修景は可能です。戦後のコンクリート建築では、雨の多い日本には不向きな陸(ろく)屋根が増えました。でもこれを傾斜屋根にするのです。すると街並みがそろいます。実験的に公営住宅が取り組んでいる例もありますが、まだまだの感です。▼建物の古さは樹木がカバーする話は前述しましたが、ツタ類を這わせるやりかたもありますね。倉敷のアイビースクエアがやっています。また丘陵の斜面の建物には「足元植栽」がいいです。オーストリアのザルツブルグやドイツのハイデルベルグの丘陵住宅地をみてくれば、その良さがわかります。
▼ということで、町を美しくするための細かいノウハウをあれこれ列挙してみましたが、地域づくりの美の基準づくりと、やれるところからやっていくという気概が必要ということで、一応の話を終えます。つぎは、都市デザインに一家言のある三人を取り上げます。
08.吉阪隆正の見方
▼吉阪隆正『地域とデザイン』(勁草書房)から。▼ブラジリアが+印を出発としたことに、その将来に現在の多くの都市の困難を内包してしまったように思う。私だったら+印のかわりに○印をつけてそこから出発しただろう(たぶん著者は、+印の場合は過剰集中を生みその分散に悩むが、○印の場合は分担と連携でその過集中を避けることができるということの表現と理解しましたが)。▼銀座は八丁である。それより先は京橋。英米系でも二分の一マイルを限界としている。メートル法なら800メートル。これは歩行とのかかわりだ。普通の歩行速度は時速4キロ、それだと800メートルは12分である。ぶらぶら歩きで半分の速度で進めば24分、約半時間、往復して1時間というところだ。もし真ん中にいれば、端まで15分。その15分は普通に歩けば7分半、急げば5分。つまり5分が至近距離で、15分が近距離ということになる。それは気分の変わらないうちに目的地まで到達できるということである。▼中国の河南省鄭州市(ていしゅうし)の並木が思い切って枝を張っているのは、電線にふれないように、途中でY字型に枝が伸びるように仕立てている。▼キレギレの時間とバラバラな空間。分業と移動の成立。ヨーロッパの音楽では、音符をつくり、一定の間隔をきめる。何らかの感情を出すのに、他の人々とは違いがあるが、とにかくその一定時間の中で合わせようとする。東洋の音楽はこうではなく、伸ばしたければ声を伸ばして、その伸ばし方のうまさを競ったり、それが音楽のよさとして評価されたりした。そうするとテンポは伸びたり縮んだりで、違った人とハーモニーをつくるのはむずかしでしょう。ヨーロッパでは、同じ時間の中で大勢の人が協力し合って音楽をつくる中で、このキレギレになった時間をつなぎ合わせる訓練をしたのではないでしょうか。▼ル・コルビジェがはじめてアメリカ大陸を訪問したとき、既に直径100キロ以上に伸び拡がったニューヨーク、シカゴを見て、大変な浪費だと叫んだ。税金の半分はこの伸び拡がった世界の維持に支払われていると。それは鉄道で、道路で、その上を走る機関で、それを維持するための投資で、といった物的なものばかりでなく、その広範囲を往復しなければならない人々の、生活時間の浪費でもあると。人生は24時間の連続だ。その24時間の内で出来ないことは一生かかってもできない。通勤を強制された人々は、それだけの時間を失う。労働時間の約半分が、この強制的な移動に費やされるという無駄。多くの人と物とが移動するため、そこからは風が生じるだけである。
09.原昭夫の見方
▼原昭夫『自治体まちづくり-まちづくりをみんなの手で』(学芸出版)から。▼都市デザインとは、一つの建築物や施設を美しく作るということだけでなく、それらを関係づけて形態的な秩序を与え、時間をかけて総体的に美しく快適な環境を作っていく術であると言える。それは、自治体の町づくりにおいてもしっかりした技術として蓄え、魅力ある市街地づくり、美しい街並みづくり、しっとりとした集落づくりなどへの手法として、みんなが持っておきたいものである。▼都市デザインというものを「もの」の関係づけをしていくこと、「もの」同士の調整をしていくことだと理解するなら、その仕事は「デザイナー」といった特殊技能やデザイン能力を持った人だけの仕事ではなく、自治体職員なら誰もが持つべき「関係構築力」「調整力」の延長での、総合力が必要名な仕事と言える。▼都市の物的要素とその関係づけは下図のとおり。▼この都市デザインという手法をさらに広げ、地域の基盤としての土地、地形、植生、水文、気候、さらにはそこに生息する生物、人々の営み、土地利用、歴史なども含めて全体の環境をつくっていくことが「風景づくり」という仕事である。▼古人は「借景」といった手法で遠くの山々やランドマークを敷地や建物にうまく取り込んで、敷地と周囲の関係を巧みにつくってきた。今なら、公園を造る時に、遠方に富士山(日高山脈)が望めるならばその軸線(ビスタ)を大切に生かして苑路や広場の設計に取り入れたり、日の出や日の入りの陽光が射してくる場所であればそれをうまく取り込むなど、周りの環境の状況を十分調査して、その風景を引きこむことも施設づくりにおいては心掛けたいことである。町づくりにおいても、「風景」に思いを馳せながら、現代の街並みづくりやランドスケーピングに取り込むことです。
みせ
うち - しきち - みち - まち +ひと・とき
みず
みどり
(私的領域) (共有領域) (公的領域)
※都市構成要素の4つの「ち」、4つの「み」、2つの「と」をしっかり関係づけることが、都市デザインの基本。
・
10.芦原義信の見方
▼最後に、芦原義信『街並みの美学』(岩波現代文庫)から。▼ロンドン郊外の二戸連続建て住宅の境壁は厚さ70センチ。ドイツの住宅では内と外を隔てる外壁の厚さが49センチ、部屋を区画する間仕切り壁で24センチが標準。壁が占める面積が家の総面積の約20%もある。▼日本の場合は、兼好法師が述べているように、住まいは仮の宿りであり、その造りようは夏を旨とすべきである。すなわち、夏の通風のため南北に大きく開口し、自然と連帯し、春の若草、夏の夕涼み、秋の名月、冬の雪に親しむことを第一に考えるべきであるとしている。▼「真壁(しんかべ)造り」(⇔構造材を壁の中に隠すのは「大壁造」)の家においては、建具はすべて柱と柱の間に納まっているため、障子も襖も厚さがせいぜい3センチ程度であり、軽く滑りのよいことが上等の普請であることを意味している。指一本でもするすると開けられる襖は、単に視覚的に見えないあるいは見ないという約束の上に成立した間仕切りであり、西欧で見られるような重々しく締まる厚い堅牢な扉とは、本質的に異なるのである。わが国の気候からいうと、夏は高温多湿であり、家のたたずまいとしては、第一に床下の通風が大切であり、そのためにはこの軸組構造は最適である。後に述べる石や煉瓦を積む組積造では、地面と接する部分を開けると上部の荷重が地面に伝えられなく家全体が崩壊するために不適当である。高温多湿の夏を凌ぐのには、冷房のない時代には自然の通風が第一であった。柱と柱の間は、本来大きな開口部であるため、この「真壁造り」は夏の生活に最適であった。では冬の生活はどうであったろうか。石造や煉瓦造の家のように家全体の熱容量の大きいものに比べて、壁が薄く開口部の大きい和風住宅では熱容量がきわめて小さく、外の寒さは直ちに内の寒さに通ずる。このような熱容量の小さな家の内部を温めることは、外の自然を温めるほどに愚かなことであった。和風住宅では、火鉢、いろり、こたつのような直接的な方法が一番賢明である。また、炊きたてのご飯、たぎる味噌汁、熱燗の酒で体内より体を温め、厚着をしてその熱を失わないようにすることである。▼逆に、熱容量の大きい石や煉瓦の家では、床や壁がいったん冷えはじめるとどんどん体熱を奪われる。部屋全体が温められて床や壁が温まってくれば、体熱を奪われることなく冬を楽に過ごすことができる。木造の真壁造りは床下通風のある高床式家屋であり、熱容量の小さい家屋である。熱伝導率の小さい畳敷きの家屋では、靴を脱いで座る生活や床面にじかに布団を敷いて寝るようなことが当然の帰結である。一方、西欧の組積造の家のように大地に接し熱伝導率の畳より大きい石畳の床では、身体と床面を離すことが必要であり、靴をはいたままの椅子式の生活や、脚のある寝台に寝るような生活が当然の帰結であったと考えられる。また、わが国の畳は断熱性に富むほかに吸湿性があるため、就寝中の布団の下に蓄積される水分を吸収できる。その点、石畳は吸湿性がないたから脚つきの寝台を使わないわけにはいかなったとも言えるのである。▼わが国のような湿潤地帯では「壁」を否定するような方向で、西欧の乾燥地帯では「壁」を肯定するような方向で、住まいと人間との係わりあいが歴史的に続いてきた。そして今日のような鉄骨や鉄筋コンクリートの近代建築をつくれるような工業化の時代にも、この事実は底流として存在し、その街並みの形式にも強い影響があることを否定することはできないのである。
▼イタリア・トスカーナ地方の街、例えばアッシジ。教会と井戸を取り囲んだこの広場には、不思議なことに樹木がなく、この広場を規定している周辺の石造建築の脚もとまでしっかりした石の舗装がなされている。イタリア人は世界でもっとも広いリビングルームをもっていると言われているように、この広場は街の人々のもっとも広いリビングルームの延長である。人々は一日何回となくこの広場に出て、語ったり休んだり子供を遊ばせたりするのみならず、日曜の礼拝には街の社交場ともなるのである。このような城壁に囲まれた一軒の建築ともいうべき都市の内部に繰り広げられた見慣れない街並みは、日本人にとっては異質のものであろう。「境界」を意識して境界から内部に向かって求心的に秩序を整えていくこれらの都市と、「境界」を意識しないで外部に向かって遠心的にアーバン・スプロールしていくわが国の都市と、都市の空間秩序を創造していく際に二つの異なった方向があるのではないかと思い至るのである。▼当初は一階の家が多く、その後の人口増加に対応して、二階、三階を増築してゆく。この点が石造の特質である。その場合、二階や三階の玄関に到達するための屋外階段がつくられ、それがこの街の特色をなしているし、またこの屋外階段の美しさが街の誇りであるともいわれている。道路の上にもアーチやヴォールト(アーチ断面を水平に連続して押し出したもの)をかけて家を増築する。その結果、城壁の内部には、まるで一軒の大きな家のような「内的秩序」のある街ができあがる。市民の意識としては、自分達の家も城壁の内側の街は、足袋や裸足で歩けるような、大きな屋敷のような「内的秩序」の街である。イタリア人はここでは靴をはいて屋外も屋内も歩く。▼ボローニアの柱廊(ポルティコ延長40キロ⇒日本は酒田市の雁木)は気候上有用であるばかりか、市民はこの回廊を一日中往き来している。正午および夕暮時に、たくさんの人々がこの回廊をぐるぐる歩き回る。その時友達にまったく出会わないことなどは不可能だといえる。イタリア人にとって街路は生活の一部であり、愛着のあらわれである。▼このことは、街路のみならず、都市のオープン・スペースとして、イタリア人は人々の出会いの場である人為的な広場(ピアッツァ)を作ってきたし、イギリス人は人々の出会わない休息の場所である自然的な公園(パーク)を作ってきた。わが国では、外部空間には無関心であり、芸術的に優れた室内空間はあっても、公共的に優れた街路空間やオープン・スペースを芸術的につくることでは見劣りがする。
▼ヴェネチアの知り合いのイタリア人とその子供を連れて、サン・マルコ広場に出たことがある。子供たちは喜々として、あの舗装の模様沿いに鬼ごっこをしたりして、しばし遊んだ後、いよいよ寝る時間になって広場の脇の住まいに帰ると、子供たちは二階の方に向かって「ボナ・ノッテ」と大声で叫ぶ。一斉にそのあたりの窓という窓が開いて、沢山の顔がその子供たちに「おやすみ」の挨拶を交わすのである。街を住民の皆で静かにみはっているのが実感としてわかる。さしずめ日本なら京都の町家の近隣意識であろう。「おもて」で遊ぶ子供たちは格子ごしに母親の領域にある。また「おもて」で行われる日常の行事、掃除、植木の手入れ、水撒きをはじめ、祭事その他はここに育ってゆく子供たちの社会教育の場としても重要であった。
▼碁盤目に配置された道路に沿って建物を配置すると、すべて「出隅み」空間となり、人々を押し出すような非情な都市空間となる。その逆に、「入り隅み」の空間では、人々を包み込むような温かいまとまりのある都市空間を生み出す。日本の場合、イタリアの広場のような「入り隅み」空間が苦手だが、できないことはない。建物のセットバック(前面後退)である。できれば反対側の建物も同様に後退させる。前面空地を広場(⇒地元の事例では六花亭)にできれば、街並みが整う。
▼サンクン・ガーデン(低い庭)技法の先駆事例は、NYのロックフェラー・センター。この道路より低い広場は冬はアイス・スケート場となり、その他の時期は野外レストランになり、大勢の街を歩いている人々はこのあたりに留まり、下の広場の活動を手すりにもたれながら眺めるのである。街路に単に交通という機能以外に、とどまったり、話したり、眺めたり、食べたり、スポーツしたりする機能が与えられると、街が急に活気を取り戻すのである(⇒釧路のサンクン・ガーデン)。この技法は、敷地の一部を低くし閉鎖空間をつくることによって、屋外でありながら室内のようない「入り隅み」空間をつくることにある。
▼コートハウスの提案。もし三十坪の敷地に延三十坪の総二階を建てれば、十五坪の屋外空間ができる。この建て方を西欧ではコートハウスと呼んでいる。この十五坪の庭のうち、三坪を道路と家との間に割りあて、街並みを美しくするために花や植物を植える。残りの十二坪の本庭は二坪のダイニング・テラス、六坪の雑木林、二坪のサウナ小屋、二坪の作業場にすることができる。日本ではこのような連続住宅を「長屋」と呼んだり、京都では「町家」と呼んでいるが、街並みの美化をするために前庭をとるところが少し異なる。また、もし一軒から一坪を供出すれば、五十件で五十坪の自家用公園か共同の駐車場をつくることもできる。
▼イタリアやギリシャの組積造の建築では、外壁(第一次輪郭線)が街並みを決定しているのに対し、香港・韓国・日本は建物の外壁の袖看板(第二次輪郭線)が街並みとなっている。日本人画家もパリを描くと絵になるが、日本の街並みは絵にならないという。「第一次輪郭線」は秩序と構造がはっきりして描きよいのに対して、「第二次輪郭線」は無秩序で構造化されていないため、絵にならないからであろう。第二次輪郭線をできるだけ少なくすることによって街並みを整えることが大事である。具体としては、①都心の主要道路を広くし、建築の第一次輪郭線を見やすくする。②歩道の幅を3メートル以上にすれば、建物の第一次輪郭線が視野に入りやすくなる。③第一次輪郭線を遮蔽する第二次輪郭線、特に袖看板を極力制限する。
▼都市景観における魅力の一つに、見下ろす「俯瞰景」がある。モンマルトルの丘、横浜・神戸の「港の見える丘」は、見る人と街並みとを緊密に結びつけてくれる。特に函館山から望んだときの夜景は感銘できるが、あの俯角10度の円弧がちょうど函館の市街地と港の海面とをかかえこんで、まさに「眼下に広がる」というものである。都市の街並みにおいて、坂のある街、階段のある街、丘のある街、港の見える丘は、それぞれ心に焼きつく印象を人々に与えてくれる。できるだけ俯瞰景をふやすことである。しかも、景観として優れたものになるためには俯角10度がカギとなる。
▼小さな空間こそ。私はたった二畳ほどの小さな書斎を屋根裏にもっている。手をのばせば眼鏡も煙草も原稿用紙も本も、なんでも必要なものを簡単に取ることができる。この小さな部屋に入ると、不思議と気が落ち着いて仕事がはかどるのである。屋根裏部屋は、大体において天井が斜めで低く、小さな出窓がちょこんと開いている。最上階に位置するせいか、外界から遮断されていてなんともいえない安心感がある。ベッドに横たわりながら斜めの天井に貼ってある写真やモットーを眺めていると安らぎを覚えるのである。こんな「小さな空間」には、自分の城としてのプライバシーや庇護性があるのである。▼そこは、自分だけで考えたり行動できる「蛸壺の空間」である。小さな空間とは、自己をみつめることであり、そこから遥か遠くの大空を眺めながら、けし粒のように消えてゆく小鳥に身を託したりする。イマージュの世界では、小さくなることと遠くにゆくこととは同じなのである。一人になりたい、旅に出たい、見知らぬ遠い国に行きたい、と思うとき、人々はこの「小さな空間」を、求めている時に違いない。一人になりたいのである。
▼記憶に残る空間。ケビン・リンチは『都市のイメージ』で、イメージの構成要素は、パス(路地)、エッジ(縁)、デストリク(地区)ト、ノード(結節)、ランドマーク(目印)の五つを挙げている。奥野健夫は『文学の原風景』で、作家も自己形成空間としての「原風景」についてふれ、「生まれてから七、八歳頃までの田舎の家や遊び場や家族や友達などの環境によって無意識のうちに、土着性の強い原風景が形成される」とする。作家でいえば、太宰治の津軽、坂口安吾の新潟、室生犀星の加賀金沢、佐藤春雄の紀州熊野のような風土性豊かな自己形成空間の中で、強烈な原風景をもった人々には、それが文学の原点にもなり作品に表れてくる。一方、三島由紀夫は、自己形成期に自然や風景を知らなかったが、日本の古典や西洋の小説で架空の原風景をつくりあげたという。彼が松を指してあれは何という木かとドナルド・キーンに尋ねたとう挿話がある。▼都市の居住環境で、重要な人間形成期に必要として考えられるものは、「大樹」である。大樹には多年の風雪に耐えて樹齢を重ねてきたある種の威厳や気品のようなものがあり、また多年同一の場所に停止しながら生存していることから、沈着、忍耐、不羈のような特性やら、動物のような自ら行動できない植物の宿命としての、受容性、客観性のようものを感ずる。
▼まず、第一に、「街並みの美学」を成立させるためには、「内部」と「外部」の空間領域について、はっきりとした領域意識をもつことである。すなわち、自分の家の外までを「内部化」して考えられること、あるいは、自分の家の中までを「外部化」して考えられること、二つの領域について空間を同視して考えられること、または、空間を統一して考えられることが肝要である。▼建築基準法第65条では、防火地域または準防火地域で外壁が耐火構造なら、その外壁を隣地境界に接して設けることができるが、普通の住宅地においては、民法第234条によって境界線より50センチ以上離すことが必要である。そこで民法を改正して、コート・ハウスやテラス・ハウスのようにパーティ・ウォール(境界の壁を共有)を建て、この隣地境界線の両側に空いた50センチずつを道路側にもっていって、道路沿いに1メートルの前庭をつくってみる。前面道路内部化である。塀はこの1メートル以内には建てないようにすれば、住宅地は見違えるようになる。▼また、大学、植物園など巨大な公共空間においては、道路沿いに直に塀を建てず、5~10メートル後退させ、そこを芝生・花壇・ベンチ・屋外照明などを設け、緑の遊歩道とする。さらに、電柱の地中化で第二次輪郭線を減少させたり、路上に置かれるもの(街灯、ベンチ、くずかご、標識、案内板、郵便ポスト、公衆電話など)の第二次輪郭線に影響のあるものを、景観上すっきりしたデザインとして「街並みの美学」に貢献してもらう。▼日本でも、まだやれることはある。とういうことで、今日の話を終えます。
11.資料編
▼書籍資料/芦原義信『街並みの美学』(岩波現代文庫)
▼写真資料/ベンチア(イタリア)、カトマンズ(ネパール)。
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