2010年3月26日金曜日

町づくりの系譜 (MA-9)

09.町づくりの系譜
内容
01.小さく始める... 1
02.この国のかたち(第六講再掲)... 1
03.気候と歴史と都市... 2
04.都市設計の系譜... 3
(1)系譜-1... 3
(2)系譜-2(もう一つの見方)... 4
(3)系譜-3... 6
(4)系譜-4... 7
(5)系譜-5... 8
05.森と人間の系譜... 8
(1)系譜-1... 8
(2)系譜-2... 10
(3)系譜-3... 12
06.未来への系譜/自己決定の練習と自治... 13
07.未来への系譜/自治体の構想... 13
08.未来への系譜/市民自治と二つの言葉... 13
09.未来への系譜/こんな町を造りたい... 14
10.資料編... 15


01.小さく始める

▼町づくりは、20世紀の何でも大規模な出来事に比べると、小さな試みでした。しかも始まったばかりでした。でもこれは、今世紀の主流になるかもしれません。手間がかかって生産向きでないため、ボランテアとかNPO活動の分野が広がりをみせています。▼町づくりの世界にみんなが魅力を感じるのは「権力」をふるう人がいないからだと思います。ここでは誰もが平等で、命令をする人はいません。多数決も勝者と敗者ができて、少数の人たちに服従を強いることになりますから、意見が分かれたときはよく話し合うか、それともどれもが可能になるような配慮をしなくてはなりません。リーダーがいても世話役で、みんなを引っ張るわけではありません。むしろ、後押しをするだけです。引っ張ると残った人はそれに従い、ついていくことになりますが、押してあげるとみんなは必ず前に出ます。それが「みんなを主役」にすることです。というふうに町づくりを進めたいものです。

02.この国のかたち(第六講再掲)
▼司馬遼太郎にも「この国のかたち」という本がありますが、それとは少し視点が異なります。
《ちょっと歴史1・第六講再掲》
▼ほんとに「何もかも」、右を向いても左を向いても何もいいことはない。しかし、天を仰げば月が照り、地には虫が鳴き紅葉が燃える。四季のある島国は台風の通路になったり、崖が崩れたり、雨が雪がと大変だ。季移りのたびにカゼも流行る。しかし日本人はこの国の自然をこよなく愛してきた。鎖国を解いてからは諸外国の文化をどっと取り入れて、それを日本流に器用にこなして独自の文化を築き、優れた人材も輩出してきた。政治の愚や侵略戦争の過ちも犯したが、とにかくここ半世紀は戦争がない。
《ちょっと歴史2・第六講再掲》
しかし、そうはいっても20世紀の変化は激しかった。この1世紀で人口が3倍、都市人口が10倍。20世紀には極東の島国だった国が世界の10%経済を維持する国に伸し上がった。戦争も沢山あった。日清・日露に始まり最後には原爆まで落ちてしまうという1世紀は、日本の歴史に二度とないだろう。20世紀初頭に75%を占めていた第1次産業は20世紀末には7.5%以下になる。聖徳太子が律令国家をつくって以来、20世紀まで70~80%を維持してきた1次産業が突然7.5%になるということは容易ならざること。子供の産み方も20世紀初頭9~10人だったのが、20世紀末は0~1人。20世紀初頭に42歳だった平均寿命が20世紀末には80歳になる。1世紀間に寿命が2倍になることも脅威。前世紀には金持ちや権力者の子供くらいしか中等教育を受けなかったのが、今ではほぼ全員が高等学校にいき、大学にも40%近くが行く。江戸は2百万人だったのが、千葉・埼玉・神奈川を含めた首都圏は2千5百万人の機関車となり日本を引っ張ってきた。20世紀初頭の横浜・神戸は漁村であり、札幌は人の住めるところではなかった。
《ちょっと歴史3・第六講再掲》
▼ちょっと、ここで日本列島一万年史のおさらいもしておきましょう。一万年前に溯ると、日本人はこの国土で縄文という山岳地帯を中心にした焼畑農業で高い文化水準をもっていた。それが三千年前ぐらいから稲作技術の弥生文化が入ってきて、生活のスタイルや考え方も変化し、日本人に同化してきた。さらに三世紀から十世紀ぐらいまで、中国とか朝鮮半島の文化を取り入れて科学技術を伴って日本の生活が変わってきた。十世紀は、外国からの交流を断ち切って日本独自の文化をつくり、十六世紀になると国際的な交流や国内の激しい開発があって、激動の歴史であった。江戸になると、今度は日本文化を独自に育て、停滞していると言われるけれども、その地域なりの文化をつくる時代が来た。まちづくりは江戸時代にも当然あった。その後、イギリス・アメリカの科学技術と商業を中心とするスタイルが日本に入ってきて、日本がまた変わっていく。

03.気候と歴史と都市 
▼この土地の気候と歴史が、サラリとした人情を持つ十勝地方の人間をつくったと推測しているが、どう証明したらいいのか。この辺境の十勝平野には面積は広いが定住人口は36万人と少なく、思えばアラスカの人口規模であり生活や風景も似ているかもしれない。世界の人々を大きく括れば、例えば三千年の歴史を持つ10億人のインド、12億人の中国、10億人のイスラム圏、それに産業革命からドロップアウトした人々30億人は、それぞれの気候帯で歴史蓄積をして固有の人情を醸し出している。しかし、20世紀はその土地と人間を地球規模の都市化(都市的生活様式)に巻き込むことになる。あえて山小屋暮らしをしたところで都市文明のなかで生きることになる。都市のウサギ小屋でも田舎の山小屋でも伝達網はファクシミリとパソコンと画一情報のテレビ。世界をとり込む情報と産業は「田舎」を消し去る。▼ところで私事になるが私はこの土地に住んで半世紀になる。森なら大きな木も育つほど生きた。辺境に住み続けた辺境人(マージナルマン)は、イギリスの都市思潮の流れを汲む「田園都市」こそまちづくりの原初と思ってきた。開発先進地域でも開発途上地域でも応用可能のまちづくり方法だろうと今もその考えは変わらない。20世紀の都市文明はやがて何世紀もかけて田園都市文明へと回帰・再生されるのではないか。今世紀の都市文明は、自分の家族と特定の友人が人類のすべてという感じに至るまで細分化・原子化したが、しかし新たな人間関係を地域内で、あるいは地域を越えてサラリと作りあげる条件も整ってきている。

04.都市設計の系譜 
▼ルイス・マンフォード(1895-1990アメリカの都市研究家、文明批評家、著作『歴史の都市・明日の都市』新潮社)は言う。「20世紀の初めに、二つの偉大な発明がわれわれの目の前に現れた。飛行機と田園都市である。前者は人間に翼を与えた。後者は人間によりよい住居の場所を約束した」。

(1)系譜-1 
▼さて、十勝・帯広の地域設計、都市設計の系譜をひも解きましょう。▼1800年伊能忠敬(1745-1818江戸後期の地理学者・測量家、わが国最初の実測地図を作製)がトカチ沿海を測量調査。同年皆川周太夫がトカチ川筋を踏査。1883(明治16)年、依田勉三ら民間開拓団「晩成社」27名がトカプチ(十勝:乳房)のオ(川の尻)ペレペレ(裂ける)ケプ(場所)に入植。1891(明治24)年、十勝最初の地域計画である殖民区画を設定。1893(明治26)年、帯広最初の都市計画である市街地区画を設定。殖民区画は十勝平野の農耕地設計の原型となる方300間:540㍍(30㌶で6戸の農家、500戸で一村を想定)を設定。市街地区画は、殖民区画を60間の間隔で区切り25の大区画とし、これを間口6間奥行27間(162坪)の20の短冊型小区画に分けた。本通を挟んで、西側が奇数番地、東側が偶数番地となる街区システムを採用。▼都市デザインとしての特徴は、斜めに幅12間の火防線という防火道路が設けられていること、また斜路の交差地に数ヵ所の広場を設けており、これは他の都市に類例がない。単調な都市形態と景観をうちやぶる設計となっている。またこの斜路と広場の組合せデザインは、大正時代に鉄道の南市街地へ継承されている。1944(昭和19)年には全市の街路網が都市計画決定される。これが帯広の近代都市計画としての最初のプランである。札幌のような公園系統の考えはなく、19世紀の古典的バロック都市計画の再現といってよい。戦争末期にこのような都市計画が実際に決定されていた事実は驚き(1989年第9回日本土木史研究論文集・越沢明から)。

▼松浦武四郎(1818-1880幕末・維新期の北方探検家)は、江戸末期に北海道を探検し、札幌を畿内の京都に見立てている。その後、島義勇(よしたけ、1822-1874幕末・維新期の政治家)は、平安京のイメージを持つ札幌の都市計画を構想する。島の後を継いだ黒田清隆は、アメリカを視察し、お雇い外国人ホーレス・ケプロン(1804-1885アメリカの軍人・政治家で、従軍後に合衆国の農務局長)を招き、その影響を受けたため、札幌は平安京とフィラデルフィアのイメージが重なっている。▼このことでの帯広の都市設計への影響は定かではないが、1904(明治37)年の市街地図は、ケプロンの薫陶を受けた道庁役人が鉄道北側に市街地を設計した結果である。二ヵ所の公共用地に収斂する幅20間の斜交路(効率に参加の効用を加える)の組合せは、規模は小さいがワシントン型都市設計の導入である。1922(大正11)年、市の役人が鉄道南側に大通公園に収斂する四本の対称的(シンメトリカル)な斜交路の市街地を設計するが、それは見事で美しい。▼帯広の団地は、昭和30年代は柏林台団地(昭和38年の早稲田大学松井達夫教授によるマスタープラン)、昭和40年代は大空団地・13号団地(北大大田教授指導)、昭和50年代は刑務所跡地利用、昭和60年代は西帯広ニュータウンとして造られる。それぞれの時代に流行った都市設計が読み取れる。

▼「アメリカの格子状都市の源流」。1620年、メイフラワー号でイギリスから脱出した102名の清教徒がアメリカに上陸。植民地プリマスで十字架を模して、東西・南北に街路を直角に組み合わせた。格子状は、平野部の都市計画の普遍原理。古代ギリシャや古代中国を想起。日本の平城京や平安京に影響を与える。1682年、ウィリアム・ペン(1644-1718フィラデルフィア市を建設し、ペンシルバニア州を整備した人物)はフィラデルフィアの格子状道路の交点に市庁舎を設計。1791年、ランファンのワシントン設計に斜路と広場の組合せデザインが出てくる。2百年前の若き芸術家ピエール・ランファン(1754-1825フランス生まれのアメリカの建築家)は、卓越した政治家ジョージ・ワシントン将軍とともに、合衆国首都造営のためワシントンDCを設計することになる。丘の高いところを国会議事堂や大統領官邸などのリンカーン・パークを設計し、ここを道路の基点として東西・南北の通り(ストリート)を設定。通りを結んで設けられた、それぞれの中心広場(スクエア24ヵ所)からは、次の広場が見通せて、お互いにその景観を増幅できるように配慮されている。これが都市美のバイブルとなり、やがて百年後のこの地に移植されることになる。

▼ただ、最近の研究では、帯広の街路パターンは、ワシントンではなく、むしろウィスコンシン州のマディソン市に酷似していると言われている。あの「マディソン郡の橋」の映画で知られたところです。あれはメリル・ストリープとクリント・イーストウッドの4日間の中年の恋物語でしたね。

(2)系譜-2(もう一つの見方) 
▼明治期の最初に行われた市街地設計は特徴的なものであるが、設計時期、設計者、その意図といった基本情報については、直接的資料が見当たらず今後も不明(迷宮入り)のままとなりそうである。しかし周辺事実を集め都市計画的な推測をすると、帯広の都市立地から都市設計までは、道庁の技師・内田瀞(きよし)が一貫して関わったものと考えられる。彼は札幌農学校の一期生であり、クラークに直接の教えを受け、また卒業後も文通があった。▼道庁において、植民地選定・区画側設事業の主任を務めたのは、技師・内田瀞(明治19~32年任務)である。内田は北海道全体の形成に大きな影響を与えている。それは制度設計への関与であり、植民地の選定方法や区画方法を確立する上で中心的な役割を果たしていた。彼は机上の仕事ばかりでなく、帯広・十勝には少なくとも五回訪れており、帯広の都市形成に重要な役割を果たしている。

▼帯広を中心とする十勝国は、明治21年内田瀞と柳本通義らにより植民地選定が行われた。当時の十勝は、十勝川の河口に発達した大津市街を除けば、ほとんど未開ともいうべき大原野であった。だたし、現在の帯広にあたるウエカリップ原野には、依田勉三率いる晩成社が入植し開墾を行っていた。内田らは、この帯広周辺を最良の耕地と考え、さらにはその中心市街地としての役割も想定していた。▼植民区画は、道庁があらかじめ選定を行った土地に、耕地として格子状の区画を側設するものである。それは明治23年の新十津川(空知)の区画を皮切りとして、全道に及んでいった。まず、基線とそれに直行する基号線を設け、それらに並行する区画道路を300間(約545m)ごとにつくることで、格子状の土地が区画される。この300間四方のものを中画とし、間(約5ha)の6つの小画に分け、それを農家一戸の標準耕地と想定した。これは、アメリカのタウンシップ制に範を求めたものであり、規模こそ違うが極めて密接な対応関係がみられる。

▼帯広を中心とした十勝の区画側設は、明治25年に行われた。現在の帯広の国道38号線(当時の大津街道となる予定)を基線に、北は音更まで9線、南は売買まで9線を設け、また大通を基号線とし、東は大津まで50数号、西は芽室まで30号を設けた。このように、ほとんど未開の原野であった土地に、突如として大農業地帯が設定されたのである。これは、帯広の市街地が設計される部分も含め、すべて農地としての均一な区画がされたのであった。明治25年に内田瀞と柳本通義をはじめ技術者一同が十勝に入り、帯広の植民課員出張所が設けられ陣頭指揮にあたった。その中で、帯広の実際の区画を担当したのは内田瀞と助手の小林孝造であった。

▼それでは、どうしてあのような壮大かつ特異な市街地計画が、未開の大原野に突如として構想されたのだろうか。その背景には、生産機能に偏重した周辺の農地計画に対して都市機能を補完する意図があったと考えられる。もしも図面の通りに耕地がつくられると、付近に市街地を持たないまま、巨大な農業地帯のみがつくられることになる。農家は一軒あたり100×150間の耕地を配分され、その中に居住することになるが、それは近隣との関係という点では著しい欠陥がある。短辺方向で考えても隣家は180m離れている。この設計に対し、当時道庁の技師であった新渡戸稲造は、農民が慣れ親しんだ蜜居・群居制の導入を主張していた。▼その後、植民地の選定・区画の経験を重ねた道庁では、その蓄積の結果をマニュアルとして明治29年に「植民地選定及区画施設規程」をまとめた。これは区画選定の手法を述べたものに留まらず、農村計画を包含するものであった。因みにその内容は、300~500戸の集合を一農村単位とし、その生活を支えるために市街地や各種施設を計画することを定めたものである。つまり帯広周辺の計画段階ではこの考えはなく、帯広一極集中で都市設計が進められたのである。

▼帯広の都市計画に影響を与えた事例として、市史における記述をはじめ、よく挙げられるのはワシントンの計画である。確かに、格子状と斜行道路の組み合わせ、分散する公共用地など共通点は少なくない。しかし、アメリカの政治の中心である首都ワシントンの計画を直接、帯広に導入するということは考えがたく、そのかけ離れた規模をはじめ相違点もまた多い。18世紀のアメリカでは、このワシントンの計画に影響を受け、新しい開拓都市に次々と斜行道路と公共施設の考えが導入されており、帯広はむしろそのこうした系譜の上にあるものと考えられる。▼そのなかでも、ウィスコンシン州の州都マディソンの計画は特筆に値する。帯広とそれほど規模に差はなく、格子状の道路を複数の斜交道路が貫き、南西側の中心には公共施設の予定地が計画されている。しかし、この都市内における斜交道路は、その周囲においては農業区画であるタウンシップの格子状の区画道路である。大農業地帯の中心都市として、農地における論理を都市内に組み込み、都市と農村の融合を図った計画なのである。▼帯広の都市設計の背景に、アメリカの植民都市の存在があるとはいえ、それが前触れなく直接に、あれほど大胆に導入されたのではない。その基礎となる部分は、帯広より先に都市形成の進んでいた旭川において、既に試みられていたのである。道庁長官であった岩村通俊は、明治15年には離宮を抱く北京構想を上川市街地(現在の旭川)に描いていており、明治20年に公共施設等をあらかじめ設定する都市計画を作成させていた。明治21年岩村の退官後もこの方針は引き継がれ、明治23年に嘱託技師・時任静一により現在の基礎をなす都市計画が作成された。時任は、ニューヨーク大学・ミシガン大学で都市計画を学んでおり、この技師に嘱託して大事業を任せたところに、道庁としてアメリカの都市計画を導入しようという意図が伺える。しかし、明治23年に時任が職を辞すると、旭川の都市計画に再び大きな変化があった。計画されていた斜交道路は実際の宅地分譲を行う段になって、それを無視した分割が行われ、一瞬にして消滅したのである。

▼マディソン、旭川といった都市における斜交道路は、周辺農地との融合・接続を図ったものであった。帯広もまたその系譜にある。この帯広の斜交道路は「火防線」と呼ばれるが、札幌大通(58間)や函館(30間)の防火道路にくらべ20間と狭く、またこの斜交道路の沿道には数多くの不整形地が生じていることからも、格子状道路に一部を広幅員とした方が効率的であっただろうとも思われる。このことからも火防線というよりは、斜交道路のビスタ(見通し・見晴らし)の方向にある公共用地にアクセスする「生活道路」としての性格が強いのではないかと推測する(島村泰彰「帯広における緑とオープンスペースの計画思想の展開について」北大大学院工学研究科H18年度修士論文)。

(3)系譜-3 
▼「田園都市とニュータウンの源流」。英国のニュータウンの原点は、サー・エベネザー・ハワード(1850-1928近代都市計画の祖とよばれる社会改良家。田園都市論において自然との共生、都市の自律性を提示し、その後の近代都市計画に多くの影響を与える)である。20世紀に入る直前の1898(明治31)年「明日-真の改革へ至る平和な道」を発表し、次いで改訂版の「明日の田園都市(Garden cities of tomorrow)」を1902(明治35)年を著した。実践家であったハワードはロンドンの北66kmのレッチワースに株式会社による新しい町を造った。彼によって田園都市は、20世紀の都市づくりの新たな理念と方法として定着し、それが世界のニュータウンへ繋がった。▼日本では、早くも1907(明治40)年に内務省地方局有志によって、この考え方が紹介されている。大正年間には渋沢栄一(1840-1931明治維新後の財界の大御所)により「田園都市株式会社」が設立された。近年では大平首相による「田園都市国家構想」が発表された。ハワードの田園都市とは相違があるが、日本人の深層心理にも、田園都市への願望が潜んでいるのかもしれない。▼「ハワードの構想」。一つひとつの田園都市は、人口2~3万人ぐらいでも、田園で区切られた都市が高速鉄道でわずか数分で結びつく。各都市の中心には別に5万人の中心都市をつくり、円形の広場につながる六本の放射状道路。さらに、公共建築物、大学、図書館、映画館、劇場などをダイアグラム(図表)に配置している。こうした美しい都市群の人口は全体で20~30万人を想定。ハワードの究極の目的は、決して一つの小さな田園都市だけを造ることだけではなかった。▼「田園都市の定義」。「田園都市は健康な生活と産業のために設計された町である。その規模は社会生活を十二分に営むことができる大きさであるが、しかし大きすぎることなく、村落地帯で取り囲まれ、その土地はすべて公的所有であるか、もしくはそのコミュニテイに委託されるものである」(鹿島出版『明日の田園都市』)。▼ニュータウンの事例としてのミルトン・キーンズは、ロンドン郊外北西80kmの高速道路沿いの田園地帯にある。オックスフォードやケンブリッジの大学都市やルートン国際空港にも近い。1962年に地域選定され、1967年の計画で20世紀末までに将来人口25万人、面積8863ha、人口密度28人/haが計画され、92年現在12万人に達している。以前は3つの町と13の小さな部落の4万人の居住者がいた。団地内は1kmの格子状道路の網(交通の分散)をかぶせ、これで都市の基盤と構造を決定。住区ブロック内は固定的に考えないで、設計のガイドライン内での計画の自由度をもたせている。その他、エネルギーパーク(125ha)と馬道が特色となっている。▼ルイス・マンフォードは言う。「20世紀の初めに、二つの偉大な発明がわれわれの目の前に現れた。飛行機と田園都市である。前者は人間に翼を与えた。後者は人間によりよい住居の場所を約束した」。

(4)系譜-4 
▼「町づくり計画史」。帯広のまちづくりを計画史として遡ると、初めて総合計画を導入したのは1959(昭和34)年である。▼「帯広市総合計画」は、昭和34~43年の計画期間で、都市像を「近代的田園都市」、目標人口153千人(昭和32年99千人)。経緯としては、昭和32年企画室を設置(昭和31年吉村市政初予算会議では否決)し、スタッフ五人でスタート。地域データづくりとして自然環境や社会経済分析・予測など17集1700頁の「帯広市総合調査」から始める。昭和33年秋から市民参加の計画検討委員会を開催(産業部門別46回、地域別20回、810名参加)。都市像としてヒューマンスケールの近代田園都市を設定。後の「緑の工場公園」「帯広の森」「人口二十万人定員論」のグランドデザインとなる。議会との関係では、総合計画は昭和33年12月定例議会が終了後、議員協議会の報告に止まる。議会は「十年後の計画まで合意したら、毎年の予算について審議できなくなる」との見識を示した。自治法の改正で基本構想が議会の議決事項となる前であったことから、自由に地域の自己主張ができ、議会も審議権の自己規制がなかった。参考図書としては、「都市開発の基本構想~主に帯広市を例示として」(日本都市センター刊、昭和39年)がある。また、当時各省庁の課長補佐クラスによる帯広支援メンバー「帯広開発研究会」があった。▼帯広市新総合計画は、昭和38~45年の計画期間で、都市像を継続し、目標人口143千人(昭和35年101千人)、先の帯広支援メンバーを中心に「東京委員会」を設置。▼第二期帯広市総合計画は、昭和46~55年の計画期間で、都市像は継続し、目標人口200千人(昭和45年131千人)、総合計画審議会の設置、都市マスタープランの委託調査を行う。▼「新帯広市総合計画」は、昭和54~63年の計画期間で、都市像を「豊かな自然と北方の文化に根ざした活力あふれる十勝の中核都市」として、目標人口200千人(昭和50年141千人)、地区カルテ・地区計画・市民生活基準を導入し、アグリポリス構想を持ち込む。▼第四期帯広市総合計画は、平成元~12年の計画期間で、都市像を「緑ひろがる北のフロンティアおびひろ」とし、目標人口186千人(昭和60年162千人)、計画論としては特筆すべきものはない。▼第五期帯広市総合計画は、平成12~21年の計画期間で、目標人口188千人、都市像は「新世紀を拓く田園都市おびひろ-緑ひろがる北のフロンティアおびひろ」とし、1999年の地方分権一括法後の計画として期待されたが、従来の個別部門型総合計画に止まり、戦略的で重点的な計画づくりには至っていないという課題を残している。市民参加の手続きやまちづくりの基本法を自治体が自主制定し、国の拘束から自由な計画を展開するための法整備がされていることを知る市民は少ない。

(5)系譜-5
▼東北海道は、人口や産業の集積密度は低いが、農業地帯を背景とした小都市自立型の地域づくりをしてきた。ご当地の魅力は冷涼な気候にあり、十勝の農村景観、北見網走のソーラー技術、釧路の湿原環境などに地域の可能性を求めてきた。1970年代に下河辺氏ら「Xゾーン構想(世界同時刻帯)」の研究グループが、東日本の「知的生産都市帯広」を提言した。帯広・十勝は、そこそこ豊かな生活と自信が育ち、独立王国の風情を持ち始めている。そもそも西北海道と東北海道は違う大陸プレートから成り、それがぶつかり褶曲されたのが日高山脈である。よって気候も違う。札幌は山陰型であり、帯広は山陽型である。▼太陽・土・小都市自立が、この地方をデザインする時の条件となる。十勝の環境構造は、秋田県の広さに迫る約1万平方kmの十勝平野から成り、そこに田園風景が広がる。その周囲には約5百kmに及ぶ森林・山岳地帯が取り囲む。しかし直線で計ると約百kmの意外に短く急峻な河川。上流地域の問題は直ちに下流地域の問題。水は汚せません。土は大切な公共財。森は土をつくり水をつくる。これが十勝の生態系であり、その中心に帯広という小都市が成立している。この地域は確かに広く豊かだが、生態系は思いのほか脆弱である。地域の環境管理をキチッとしなければならない理由がここにある。十勝川から鮭がのぼり、日高山脈からリスが降りてくる。21世紀はそれが、この土地に住む人々のテーマになる筈である。▼特に、山岳地帯や平野部の開発は、従来の産業開発ではなく、市民の新しい田園生活のスタイルとなる生活開発が基本となる。帯広の開発の特色は、開拓当初から日本における農業専用地域として位置づけられていたこと、さらには独自の明治期の都市設計を持っていたことである。帯広は今も昔も「都市と農村」がテーマであった。1960年代の「近代的田園都市」、1980年代の「アグリポリス論」も、それぞれの時代を反映した都市像であり将来方向であった。農業は生命産業であり、環境産業である。帯広・十勝にとっての地域づくりのスタートがここにある。かつて1960年代に米国経済学者のフリードマンがアジアの農村と都市化を考えるにあたって、「工業開発は農業を補完するに止める」としたアグリポリス構想を提起したことがある。帯広・十勝の地域づくりが、アジア諸国とつながれば、これに越したことはない。

05.森と人間の系譜 
▼海や山のことを話せる人はすばらしい。川や森を語れる人もうらやましい。ということで森の系譜をひも解きましょう。

(1)系譜-1 
▼その森の話の第一人者は、宮脇昭(理学博士、横浜国大名誉教授)である。かれの「緑回復の処方箋」朝日選書から。▼森林は地球表面の一割だが、世界中にもはや原生林はない。ヨーロッパでは、有史以前からの森林内放牧、火入れの繰り返しによって、わが国には見られないヒース(ドイツ語でハイデ)の荒涼景観が広く見られる。荒野のヒースで、牧童が暇つぶしに考えたのがゴルフ。この荒涼景観を、後代の人たちが自然景観と見誤ってつくったのが、イギリス公園の原型である。フランス公園はさらにそれを幾何学的に切り刻んだもので、ベルサイユ宮殿の公園がその典型である。それを学ぶべき公園であると思った明治の日本人は、もともと全国土が森である日本に欧風公園づくりを移入、わざわざ森を開いて画一的に芝生にするのに金を投じたといえる。多層群落の森を破壊して芝生を存続させるため、芝刈り、土入れだけでなく、大量の農薬を使わなければならない。▼過去二千年かけてやっと国土の9%しか開墾できなかった貴重な水田をもつ日本。自然は、人間の顔のように、触れてもどうということのない頬のような比較的強い自然と、目のように、指一本突っ込んでもダメになる弱い自然とがある。日本では、宗教的な祟りをうまく使って、山の頂上、急斜面、水源地、水際などの弱い自然には、自然の森や緑を残してきた。愚か者が破壊しないように、水神さまや八幡さまやお寺をつくり、この森を切ったら罰が当ると言い伝えてきた。▼素顔の森をつくると、三年たてばノーマネジメント・イズ・ベストマネジメント、つまり何もしないで自然に育っていく状態になる。森は人間による開発や山火事などで破壊されると、マント群落やソデ群落が成長し、ちょうど人間が怪我をしたときにカサブタが応急に止血させるように荒廃を防ぐ働きをする。森も人間と同じように自らを修復する。▼農耕文化は、必然的に森林の伐採、火入れ、開発を行うが、アイヌの人たちは自然の許容範囲を超えることはしなかった。その結果、すでに千年以上の開発歴史をもつ北ヨーロッパとは全く異なり、緑を残したのである。自然開発凍結の状態は、北半球では珍しい。北海道の森が十九世紀の奇跡といわれる所以である。▼本来の植生にない客員樹種なら20年間は、下草刈り、枝打ち、蔦切り、間伐といった管理が必要である。しかし、その土地の潜在植生の樹種なら、3年たてばあとは自然の管理に任せられる。と言うのです。森づくりのカギは「潜在植生」ですね。

▼北海道の森は、常緑針葉樹と落葉広葉樹の混交林である。広葉樹の葉は、夏には光を抑えて下草を繁茂させず、秋の落葉は土になり、その土は雨水をスポンジのように保水する。森が水を作る原理である。だが北の風景となっているカラマツ(落葉針葉樹)の落葉は、残念ながら腐食せず土にならない。さて、アイヌ民族にとっての森はどうであったか。必要な分だけ「着せて(アッシ織)・食べさせて(山菜・肉)」くれる、感謝の森なのである。アイヌの人々は、大地を守る御神木を「シリコロ・カムイ」と呼び、コタン(集落)ごとに一本のシリコロ・カムイを持っていた。十勝地方の場合は、とくに柏を御神木としていたことから、「コムニ(柏)・シリコロ・カムイ」と言われ、人々の信仰の対象とされた。百年前の北海道は百%が森であったが、現在は七十%で、そのうち六十%は国有林である。森林の再生には、在来種を植えることが基本になる。在来種の生存は、強い競争力の結果である。生物社会は競争で成り立っており、共生とはお互いに我慢の関係にある。当地の植生にかかわる気候の特徴は、日較差が二十~三十℃、年較差が三十~六十℃の落差にあり、植物にとって強いストレスとなる。そのことから樹種は限られたものしか育たず、シンプルな景観となりやすい。植物が育成するには、五℃以上の温度が必要となる。帯広の年平均気温は五.九℃で、実際の育成期間はわずか五ヶ月。この短い間の彩りを考えるなら、街路樹の周辺に低木・草木類・花を添える手法で景観を作り出すほかない。

(2)系譜-2  
▼森と日本人のかかわりは深い。他国の人から日本のソモソモを尋ねられたら、立ち往生せず森の話からはじめる手もある。まずは梅原猛(哲学者、『隠された十字架法隆寺論(新潮社)』、『地獄の思想(中公新書)』などの著書あり)さんから教わりましょう。かれの『日本とは何なのか』(NHK出版)から引きます。▼日本文化は縄文文化と弥生文化の対立をはらんだ総合である。縄文文化は狩猟あるいは漁労採取の文化であり、人類が農耕牧畜文化を生み出すまで、人類が共通に営んでいた文化である。ただこの日本列島では、狩猟あるいは漁労採取文化が特に発展した。なぜなら、約二万年前、氷河時代が終わり、陸続きだった日本海は海となり今の日本列島ができた。周囲の海とそこに注ぐ川は多くの魚類に恵まれ、多雨な気候ゆえドングリが実る落葉樹が繁茂した。日本列島は漁労採取のメッカであった。それに今から一万二千万年前には広く縄文土器が使われていたが、メソポタミア地方から出土する土器より四千年以上も古いものである。そして漁労採取文化である縄文文化は、縄文前期といわれる六千年前から飛躍的に発展した。土器の数も多くなり、芸術的にも優れてくる。この縄文文化は、今から約二千三百年前に稲作農業文化が渡来するまで、約一万年の間続いた。この最高度に発展した縄文文化は、日本文化の一つの核を構成している。だが世界的には一種のアナクロニズムである。と言うのも、すでに一万年前メソポタミア地方に農耕牧畜文化が発生し、やがて世界各地へ伝播しながら都市文明が生まれ、世界の四大文明につながっていく。隣の中国では、すでに五、六千年前の黄河流域にアワ・ヒエ、続いて小麦農業が盛んになり、四大文明の一つを生む母体をつくっていた。この文明の潮流のなかで、日本は相かわらず漁労採取採集文化が花盛りであった。▼その後、日本には遅れて農耕文化が渡来するが、それは黄河流域に盛んであった小麦農業ではなく、揚子江流域に栄えた稲作文化であったことに、日本の文化の著しい特徴がある。稲作農業は、養豚以外に牧畜を伴わず、また田は水を必要とするために、水の引ける平地以外は田とすることができず、したがって二千三百年にわたる日本の農民の営々たる努力にも拘らず、田の面積は、日本国土の三分の一以下しか広がらなかった。現在、日本の国土の三分の二は森で、その五十四パーセントは天然林である。弥生文化の広がりの限界と、縄文文化の中心となる森の持続である。▼日本文化は、森の文化というべき縄文文化と、田の文化というべき弥生文化とが、それぞれ対立しながら調和している。二つの焦点をもつ楕円文化である。日本が二つの中心をもった文化からできていることは、何よりも、日本最初の歴史書である『古事記』『日本書紀』が語っている。これらには神話の形で日本の成立が語られているが、日本は、アマテラスの子孫、天つ神が、スサノオの子孫、国つ神を征服し、支配してできた国として語られる。この天つ神は外国から渡来したものであり、国つ神は土着しているものである。前者は農業を、後者は狩猟あるいは漁労を司る。前者と後者の関係はもともと姉妹の関係であるが、後者は前者に服従すべきものなのである。神話からも日本の成り立ちを見ておきたい。

▼(つづき)日本文化は、縄文文化と弥生文化の対立と統一からなる。この二つの文化は中心と周辺、あるいは関東と関西との対立としても現れる。そもそも『古事記』や『日本書紀』の八世紀以降は、外国人が日本に入ってくることはほとんどなく、天つ神の子孫を支配者とし、国つ神の子孫を被支配者とする国家体制がカタチづくられる。その後も子孫の血が激しく混じりあい、日本民族はほぼ一体化したのである。この一体化の原理が和の原理であり、聖徳太子は和を十七条憲法の中心においた。このことは、しばしば誤解されるが、日本は建国以来、和の原理でやってきたのではなく、約千年の天つ神と国つ神との血を血で洗う戦いの結果、この狭い日本列島に諸種族が共存するには、何よりも和が必要であった。▼日本文化を俯瞰するなら、弥生人が縄文人を征服し、統一国家ができたのは四世紀から六世紀にかけての古墳時代であり、それを受け継いだ飛鳥・奈良時代は、その統一国家を中国にならって律令国家にしようとした時代である。律令社会は、農民を土台にして、その上に貴族が支配者となる国家制度であるが、これは弥生時代の延長線にある。ところが平安時代の中頃から武士が台頭する。武士はもともと狩猟採集を業としており、縄文の遺民とみて間違いない。関東は縄文文化の影響が強く、関東人は縄文人がそのまま農耕化したという説がある。十世紀末に遣唐使の廃止により中国からの文化移入が止まり、日本文化は国風化していく。今までインターナショナルな弥生文化に押さえつけられていた縄文文化が、再び躍り出ることになる。▼中世は、人間的にも縄文的なものが噴出した時代だったのだろうか。

▼(つづき)縄文文化は平等を重んじる文化である。狩猟採取あるいは漁労採取社会では財の蓄えはきかず、獲物がとれると公平に分配される。この社会の遺物であるマタギ社会をみれば、熊狩りや猪狩りには最適な親分が選ばれ、狩りの間はその人に皆従うが、狩りが終わるとタダの人になり、その獲物は狩りに参加しない老人や未亡人にも公平に配分される。縄文文化の居住跡をみると、真ん中の広場を囲んで、全く同じ大きさの竪穴住居が並んでいる。これは縄文社会が平等社会であったことを示す。▼しかし、弥生人がやってきて縄文人を征服し、そこに国家をつくると、階級あるいは身分が生まれる。それが氏姓制であり、インドのカースト制に似る。征服者としての天つ神の子孫は高い姓をもらい、被征服者はそれより低い姓を与えられ、一生その姓から自由になれず、一定の身分と職業に縛りつけられる。古墳時代からこのような氏姓制による身分制がつくられるが、この身分制が律令制の採用とともに崩される。聖徳太子が導入した律令制は本来、身分制を崩すという性格をもっている。それは律令制による大きな国家機構を運営するには、身分を越えて人材を登用するほかなかったからである。律令制が機能を発揮するには、人間を身分制から解放する必要があった。▼やがて、武士の台頭はこの平等化の流れをいっそう進め、下克上が時代の潮流となる。江戸時代は、このような平等化の要求の強い日本社会をもう一度、身分社会に返す試みとして人工的につくられた社会であった。士農工商というのが新しい身分秩序であったが、士といっても、それは古い伝統をもつ貴族ではなく、将軍や大名といっても一代で成り上がったものであり、また社会の一番下におかれる商人こそ財力をもち、実際生活のうえでは、将軍も大名も、商人に頭が上がらなかった。身分社会の典型のような江戸時代においても、やはり社会の流動は激しく、徳川中期以後、幕府の事実上の最高権力者は、旗本でも、足軽に近い身分から成り上がった。▼こういう伝統なき身分制は、明治維新の西洋思想の影響によってさらに崩れていく。この平等化の傾向は、中世の下克上のように今もなお進んでいる。こうしてみると日本社会は、平等化の傾向が大変強く、それが、外来思想の、あるいは仏教思想の、あるいはデモクラシー思想の影響を受けながら、身分制を崩壊させてきたのである。こういう社会のダイナミズムは、日本文化の基底をなす、縄文と弥生の楕円構造からみると分りやすい。

▼(つづき)日本は縄文と弥生といった二つの性格の違う文化から成り立っている。宗教とか習俗とか言語とか、変わりにくいものは縄文文化の影響が強く、変わりやすいもの、技術とか教養とか政治組織のようなものは弥生文化の影響が強いのではないか。たとえば、宗教は縄文文化の影響が強い。神道は、七世紀から八世紀にかけてと、十九世紀から二十世紀にかけて、二度、国家宗教化したが、もともと自然崇拝の宗教であり、森の宗教であったといえる。それは今もなお神社は森にあり、また神社には、神の使いという動物がいることによってもよく分かる。もともと樹木や動物そのものが神であった。仏教にしても日本に入ってきて「山川草木悉皆成仏」などという言葉ができ、人間中心の宗教から自然中心の宗教に変わってしまった。また日本の芸術は、短歌、俳句、日本庭園、花鳥画など、自然の霊妙な美を探究しようとするものが多い。日本文化は、その本質において森の文化であろう。地球の都市文明が森林文明を食い尽くした今となっては、森の文化を強く保存する日本文化は、今後の世界に古くかつ新しいものを提供できる可能性がある。▼もちろん一方では、弥生人の功績は大きい。かれらは、もともと自分たちの先進文明をもって外国から渡来した人間であるので、たえず外国の先進文明に注意を払い、新しい技術あるいは文化を積極的に移入しようとしてきた。聖徳太子が遣唐使を派遣し、それが四世紀続いてわが国の文化を飛躍的に発展させたのは彼らの精神の延長線上あるためであろう。こうして日本は中国やインドから儒教や仏教を移入し、日本を文明国家たらしめたが、その経験が明治以後も役立ち、日本は約百年の間に西欧から近代文明を移入して、今のような近代国家になったのである。これは弥生人がつくり上げたものである。▼しかし、環境が二十一世紀の社会に最重要な課題となり、独自の文化創造が期待されるとき、縄文への期待が高まる。人間と自然とを一体としてとらえる世界観において、一人ひとりの個性のすばらしい表現において、縄文文化の伝統を再考してみたくなる。縄文と弥生の楕円文化論は、今後の日本文化のあり方の思考土台である。▼かつて花田清輝氏が、二つの点を持つ楕円文化の話をしていたのを思い出したが、この人が楕円論の原初だろうか。

(3)系譜-3 
あの中坊公平(元日弁連会長、新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調/各界150人による政治改革の有志団体)特別顧問。」、1985年に発覚した豊田商事事件(被害総額1200億円、被害者数3万人に上る史上最悪の詐欺事件)で「平成の鬼平」の異名を持った弁護士)が語る森の話です。▼森の住人だったことが日本人の弱点だ。この国は自然が味方してくれたからね。今でも国土の七割から八割が森林でしょう。何千年もその森の中で生きてきたから日本民族の遺伝子の中に、すっかり森林文化が定着した。私はこれが実は日本人の弱点と思うのです。森には動物がいるし、実もなる。飢えに苦しむこともなく穏やかに生きてこられた。ただ目の前にある茨を折ったり、手でかき分けたりして進んできた。器用にはなった。が、必然的に、いかに対応するかということだけが自分の仕事になってしまった。目の前にある枝を上手に折る、道を作る。そんな仕事だけに明け暮れる《HOW》文化がすべてになったんです。だから自分の目の前をズンズン歩いている人がいたら、本当にこの道でいいのかと考えずについて行く。中国文明も、西洋文明にも同化するのは容易でしたよ。強い存在には無意識のうちに従ってしまう習い性になってしまった。その致命的な欠陥は、遠くが見渡せないこと。木の葉や枝があるから遠い所を見渡す文化が育たなかった。▼ 欧米や中国の文化は砂漠文化です。そこではオアシスを見つけなければ生きられない過酷な状況で生き抜いてきた。必死に現状に耐えて遠くを見なければ死に至る。自分で方向を見定め、自分の足でそこにたどり着く。なぜこっちへ進むべきなのか、本当にこれでいいのか、命がけで自分に問いかけながら生きるのが砂漠の《WHY》文化なんです。 そういう視点で日本民族を見ていると、政治でも経済でも、そして外交でも、目の前のことでどうしよう、どう対応しようということばっかり考える。なぜこうなったのかを考える遺伝子がない。それを自覚しないとね。▼おもしろいですね。直感的な文化二元論です。確かなところは、レビ・ストロースのような構造主義の目で、森と砂漠の民を比較文化するほかありませんが、これで、森の話はおわりです。

06.未来への系譜/自己決定の練習と自治 
▼この島の人たちは、毎日の生活や仕事社会の場面では、自ら決めない集団決定を好んできました。「孤独になれず、自らも決断できず、自ら責任も取らない」日本人を、故伊丹十三氏は映画「あげまん」で描きました。集団意志の強い日本人は、仕事や学問を自己と神、あるいは自己と真理との間の孤独な対決と考えず、グループ・会社・学派・学閥などの集団の中で自己証明してきました。「ふにゃふにゃになった日本人」の原因です。私は私に従う。自己決定のトレーニングは、自分の考えを持つ(筋書きを作る)、恐れずに自分の意見を述べる(短く効果的に)、その代わり他人の意見もよく聞く(話し終わるまで待つ)。これでいいと思います。かつて「私は私っ」と金井克子が歌っていました。自分で決める練習をしなければ、次の段階の自立・自治社会の条件が整いません。

07.未来への系譜/自治体の構想 
▼自治体は次の課題を抱えながら構想することになろう。▼「自治体の政策」では、自治体が1999年の地方分権一括法により市民政府として本格的に動き出せる「自治の条件」が整ったことから、これからの自治体「力」が試されます。▼「自治体の広域化」では、現在の法的手法は協議会・一部事務組合・広域連合があり、消防・ゴミ・医療・介護保険などを進めているが、流域下水道では地上の維持水量が少なく都市生態を狂わせており小規模処理法が見直されています。また最近は国と自治体の財政逼迫から、3千余の基礎自治体は合併により「行政区画」を拡大し一定の行政水準や効率を高めようとしています。しかし「自治の単位」は自然条件や歴史的な経緯から、市民が共同認識できる範囲を優先すべきでしょう。現行法による広域的な事務処理でも十分機能できることを考えたい。▼「自治体の国際化」では、国境の壁が低くなり自治体の国際化が進んでいます。しかも先進国ばかりでなく途上国との姉妹都市提携も多く見られ、市民交流・文化交流・経済交流・技術交流が幅を広げ、市民外交を蓄積しつつあります。▼「自治体の独自性」では、それぞれの自治体がピカリと光るものを持つことです。当市がめざす田園都市づくりを国内に留まらずアジア圏での相互の政策連携へと展開したいものです。「小さな世界都市」として生き延びることです。

08.未来への系譜/市民自治と二つの言葉 
▼沼津の「地域コミ研」を知ったのは、日本のまちづくりが動き出した昭和五十年代でした。当時は自治体の理論も政策も手探りでしたから、先行している横浜市や神戸市を訪問したり、沼津市職員との交流などから使えそうな事例を「密輸入」していました。一方、考えの下敷きにしていたのは松下理論でした。とくに戦後政治の理論整理を終え、政治を市民自治においた展開は新鮮でした。▼昭和四十年代前半に私は松下(圭一)ゼミを受講していましたから、政治の仕組みが新たに転回することは薄々感じていました。国民主権→議会→政府という政治統合の「J.ロック」モデルは美しいけれども、都市型社会では機能せず分節政治システムを生み出すことの必然でした。自治体の発見です。詳しくは手軽なちくま学芸文庫「戦後政治の歴史と思想」でも味わえます。内容は手軽ではありませんが、戦後政治と自治体の意味を一気に見渡せます。▼当時このゼミでJ.S.ミルの代議制論をやっていたのですが、私のレジュメは一番肝心の「情報なくして参加なし」のところが抜けていて、ツボを外したことに恥ずかしい思いをしました。しかしこのことが後々まで尾を引くことになるのです。それにJ.ロックの言葉だと思いますが、先生は幾度も「経験なくして理論なし」を引いておられました。▼この二つの言葉は、自治体の仕事に就いてからも反芻していましたから、計画や政策を動かすときの基点となりました。今では日常生活の中のコトワザとして私用するまでに愛用しています。ともかくも仕事は計画部門に通算二十年いましたから、いろいろな調査、自治体のデータ作りと公表、部門計画や総合計画、都市計画基本プランや地区計画、特定プロジェクトなどに携わりました。情報整理や計画づくりの面では職人の気分で取り組み、ワークショップなど市民参加手法も工夫をかさねました。計画手法としてはオリジナルなことはしませんでしたが、昭和四十年代のわが街の故吉村市長が提唱した田園都市づくりに惹かれ、まちづくりの汎用化へ向けて調べ続けています。▼今では地方分権の流れに沿って都市計画法が改正され市町村マスタープランが作れますから、情報・計画・土地利用をキチッとさせて立体的な視点で計画立案・運用できることになります。さらに市町村自治体は基本施設の初期投資を終えて、維持管理の技術や行政サービスの再点検が求められています。机の上のパソコンも情報や政策の支援道具です。図と文字と計算がすべてではありませんが、情報や政策を占有せず共有するためには嫌いであっても、駆使しながら政策転換情報を内包させたいと思っています。情報+参加+政策+実践・経験=まちづくり。まちづくりは終わりのない足し算の和ですから、今世紀も市民自治を考える人たちのツキアイは続きます。

09.未来への系譜/こんな町を造りたい
▼町づくりで思いきって特徴を出す。一つ目は《湯上り気分の街》。開拓に一途な一世紀を終えたので、これからは骨休めしながらチト増しな暮らしをしたいもの。平野部でグリーンタフ(植物性)の温泉源を持つのは帯広とドイツのバーデンバーデン地方の2ヵ所のみ(もっともハンガリーは国中が温泉地)。わが街の銭湯には温泉が多い。ちなみに泉源は35ヶ所で内訳は浴場・ホテル19ヶ所、その他10ヶ所、未利用6ヶ所。深層地熱水をみると地下0~15㍍の水温は季節変化するが、それより深い透水性岩相で10~15度、さらに深い岩盤層だと40~55度となる。この熱い温水を一定の規制をしながら汲み上げ、市内20ヶ所で銭湯が経営されている。小学校を地域の核とする考えもあるが、銭湯を地域の寄り合いの場としたら北国ならではのいい気分の場所となる。どう作るかは地域の人達と銭湯屋さんと設計家で決め、それぞれ健康分野、福祉分野、文芸学習分野などで特長を出せば良い。これに必要な基本経費は自治体が年次計画的に負担する。雪の降る露天風呂、星の見える露天風呂の後は寄り合いを楽しむ。今日の極楽、明日のためにです。まちづくりは道路や橋づくりの段階を終えました。これからのまちづくりは、お祭り気分で。

▼まちづくりで思いきって特徴を出す二つ目は、《ベンチと散歩の町》。帯広の街の中心部は数十年かけての都市計画事業が終わるや駅の周りはガランと空洞化。地方都市の車社会化は激しく、住宅はもちろん学校などの公共施設や商業施設も南部煎餅のゴマのように散々の有様。都心が凹み周辺多核化した。道路網がそれらをつなぐが、車がないと生活できない。しかし、子供や年寄りにとって大事な乗り物は「バス」。この乗り物を小型化しルートや回数などに工夫を加え、健康維持のための「歩く」と組み合わせる。さらにベンチである。道に佇み、座れる町。ベンチをまちの顔にする。世界中のベンチに座れるベンチ博物館通りを作ってもいい。冬のベンチだって悪くない。広場にベンチ。道にベンチ。バス停にベンチ。ベンチに日傘雨傘替わりの街路樹もセット。当然無電柱化。街路樹はニ・三十年もすれば古くなった街を隠すのにも都合いい。街路樹は町の七難隠す。これは欧州に学べです。歩きながらベンチに座りながら、風呂めぐり、そば・ラーメン食めぐり、街めぐり。ベンチと散歩の街です。街の中心の広場は散歩する人が集まり、人を見たり見られたりの「視線を感じる」ハレの場所として使われだす。小さく閉じるまちづくりによって、ハレの舞台から路上文化が生まれるという筋書きなのだが。

▼まちづくりで思いきって特徴を出す三つ目は、《農家と同居する町》。都市と農村が同居できる街はザラにない。20世紀の農村は農業生産基地で、都市も工業生産とサービス産業だけの街だった。これからは農村・農家で楽しむ。野菜、魚、ワイン、チーズなどは『半径50㌔田園生活経済圏』で賄う。「第一次産業」と「第一次産品の加工」の田園生活は生涯のどこかの時点で関わりたくなる筈。近頃の各農家はきれいなサインボードを立てているが、まだ名刺がわりの段階。発信内容も「私の農場は40㌶です。牛30頭、羊10頭、鶏20羽、豚5頭。ペルパー募集中」「母屋の隣に廃屋あり。住んでみますか。農業の仕方教えます」「私は頼りになる村一番の飲ん兵衛です。冬の夜であれば何時でも付き合います」「低農薬実験農場ですが、無農薬ではありません。契約栽培しますか」「農家に泊まってみませんか。ただし自炊です」などはいかがですか。特に首都圏のエリートは通勤地獄で疲れています。地方定住やチョット定住の可能性のありそうな1%の人々に「十勝平野でやってみよう半定住の手引き」をメールやホームページで発信してみる。地域での農業や工芸の可能性、野外生活のメニューを載せる。さらに、近い将来の入植者あるいは訪問者になる地域外のジュニアにための「十勝平野アドベンチャー編」も作成したらどうか。面白いところ、楽しいところに人は集まるし、いずれはこれが地域の「カツゲン」になる。カツゲンってわかりますか。活力の源。ドリンク名で知っている人は相当古い。

以上、町づくりの系譜として、都市設計の系譜、森と人間の系譜、未来への系譜、を見てきました。さて、皆さんはどのように町を造ろうと思っていますか。

10.資料編 
▼書籍資料/『歴史の都市 明日の都市』(ルイス・マンフォード / 生田勉訳. 出版元: 新潮社)。

1 件のコメント:

百味 編助 さんのコメント...

大変興味深く読みました。こちらには、帯広の火防線と斜行街路を調べていてたどり着きました。帯広で斜行街路に火防線の要素が加わったタイイングや経緯が知りたいのです。何か思いつくことがあれば、教えてください。  百味 編助