07.町づくりのヒント
内容
01.まちづくり先駆... 1
02.若者、ばか者、よそ者... 2
03.泥脚遥傭雲(でいきゃくよううん)... 3
04.小さな建築... 4
05.町のヘリテージ... 4
06.遊びの地図... 5
07.動物と関わりたい... 6
08.市民セクター... 6
09.公共事業のこの国... 7
10.市民自治を考える... 8
11.生活情報地図と連結財務諸表... 9
12.地方都市の自由時間と市民... 9
13.家族を入れるハコ... 10
14.つばた+しゅういち(事例研究)... 14
15.資料編... 14
今回は町づくりについて、ヒントになりそうなこと話すつもりです。ですから皆さんも気軽に、その都度、ああ思う・こう考えるということで一緒に今回の話を動かしていきましょう。
01.まちづくり先駆
▼私はボローニヤと井上ひさしが好きですから、再び『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)から引きます。▼日常の中に楽しみを、そして人生の目的を見つけること。商店街へ出かけてうんと買いものをしたり、遊園地へ行ったり、温泉やなんとかランドへ出かけたり、そういう非日常の方法でしか楽しむことができないのは、少しおかしいのではないか。ただし、日常の中に人生を見つけるには、みんなでそれを叶えてくれる街をつくらねばならない。別にいえば、「一が家族、二が友だち、三がわが街、この三つの中にしか人生はない」。トレヴィーゾというイタリアの町で過ごした一週間でそう教わって、そこで、とりわけ積極的に街づくりをしているボローニャに行き着いた。
▼さて、今回は映画の話を取り上げます。ボローニヤが世界に誇る映画の保存と修復の複合施設「チネチカ」のことです。その創立者の一人がボアリーニ氏で、「フェデリコ・フェリーニ財団理事長も務めている。彼はかつて市役所で文化部門の責任者をしていた。熱烈な共産党員だったが、中国の文化大革命を支持したのがまずかった。不支持の党本部と衝突して除名されてしまった。文化部門の責任者からも外されて、すっかり暇になってしまった。仕方ないから映画好きの友達と四人で、古い映画の上映会を始めた。そのへんから無声映画のフィルムを探し出してきては、十人、二十人と人を集めて、その前で解説付きで上映する。ところが古いフィルムだから途中でよく切れる。そのたびにお客から不満の声が上がる。それでフィルムを修復しなければならなくなった。これがチネテカの始りなのだ。そこでボアリーニ氏は仲間と組んでフィルム修復のための組合会社をつくりました。なにかあるとすぐ組合会社をつくる。この組合会社のことを社会的協同組合と言うときもあるが、これも「ボローニャ方式」の秘訣の一つです。組合会社にはいくつもの特典があります。一人立ちするまでは税金を納めなくてもよろしい。市や県や国からの援助がある。銀行や企業などの財団から堂々と資金援助を仰ぐことができる。このへんの事情をもっとくわしいのが、岡本義行『イタリアの中小企業戦略』(三田出版会)。▼ボローニヤにフィルムを修復する技術があると聞いて、二十世紀フォックス社やコロンビア映画会社やフランスのカナル(テレビ会社)といったところが、山のように古いフィルムを持ち込んできた。映画やテレビなどの映画産業が、古い映画を放映したり、DVDにして売り出せば、巨大な利益が見込めると計算したわけです。こうして世界中のフィルム修復をチネテカが独占するところとなり、たいへんなお金をボローニヤにもたらすことになりました。▼あることに熱中する人たちがいたら、彼らに資金提供して、好きなようにやらせてみる。事業が成功するしないにかかわらず、そういう市民の冒険に、お金を持つ者が参加する。そして初めは小さかったパイをみんなで大きく引き伸ばして、みんなが楽しめて、みんなが食べていけるような事業にしてしまうのです。そこに「都市の創造性」があるというわけです。▼もう一度いいますが、たった四人の映画好きから始まったチネテカが、地域の理解や資金援助をエンジンにしながら、いまでは世界一の映画センターになり、映画の未来を育てている。しかも利益を上げてもいるのです。この実情を知れば、だれだって都市には創造性があることを信じたくなります。好きなことに夢中になっている人たちに資金を提供すること、奇跡はそこから始まるのです。
▼この本はボローニャ紀行ではあるが、ボローニャのまちづくり読本でもあります。ということで再訪できたらなあと、いつも思っています。皆さんもイタリアへ行ったなら、ぜひ立ち寄ってみてください。以前にも話しましたが、産業博物館とポルティコ散策と古い映画を楽しむのです。専門図書館である映画図書館のフィルムライブラリーには五万本の映画がありますが、「人間であればだれでも無料で利用」できます。ですから、映画やデザインの勉強をするために、世界中から若者たちが集まってきているそうです。
02.若者、ばか者、よそ者
▼町づくりの理論とあわせて欲しいのは、「ばか者、若者、よそ者」といった人材ですが、これは祭りばかりか、まちづくりにも欠かせない人たちなのです。▼地域活性化には、何より地元に活動を引っ張っていく人材が必要になりますね。よくあるのは行政が先頭に立つケースですが、自治体主導では往々にしてうまく進みません。担当者はいくらがんばっても、2~3年ごとに入れ代わってしまい、ノウハウが蓄積されないからです。行政ではなく、地域の住民が自立し、主体的に活動を進めなくては、活性化は決して実現しません。言い換えれば、行政は住民が活性化の中心的立場を担うように仕向ける必要があるわけです。▼では地域でどういう方が中心となって活性化に取り組むのがよいのか。「よそ者」「若者」「ばか者」という三つの「者」が必要なのです。このうち「若者」は、積極的に活動に取り組むいわば「実働部隊」です。年齢的には本当に若くなくとも、過去の例にとらわれずに前向きに行動できる資質を持った人のことです。「ばか者」は、いわゆるアイデアマンです。突拍子もないことを言い出すため周囲からは異端児扱いされることもありますが、実は心の底から誰よりも地元の将来を案じている。その地元愛から来るアイデアに耳を傾ければ、活性化に大いに効果的なものが多く、誰も気がつかなかった大胆な企画が生まれることもあります。この2つのタイプの人種は、どの地域にも必ずいますが、圧倒的に欠けているのが「よそ者」の存在です。「よそ者」とは、第三者の視点を持った整理屋で、客観的な情報から地域の強みや弱みを分析し、方向を示してみんなの後押しをする人物です。活性化を進めていく上で、地域に最も欠けているのが、市場が何を求めているのかという認識、すなわちマーケット感覚です。▼地域の映画ロケ誘致なども場合も、地元の方はよく地域の名所をロケ地として売り込もうとします。しかし映画関係者が望んでいるのは、名所よりも、ありそうでいてなかなか見つからない味のある景色や建物だったりするわけです。ロケ地として魅力ある場所を持ちながら、地域の人はそれに気付いていないのです。▼地元から見れば「よそから来た人間に何が分かる」とよく言われます。確かにそれはおっしゃるとおりで、長年その地域で暮らしてきた方に比べると、よそ者は地域のことをよく知りません。しかしよそ者は外の世界を知っているため、その地域が何を発信すれば、多くの人が着目するかということが分かります。だから、地域に足りないマーケット感覚を補う存在として、よそ者はとても重要です。よそ者として活躍する人物として多いのが、都会の生活を経験したUターン者です。▼ということで、「ばか者、若者、よそ者」は、祭りと町づくりには欠かせません。
03.泥脚遥(傭)雲(でいきゃくよううん)
▼自治体の懐は底をつき、まちづくりを支える人達の言動も弱まり、下降ぎみではあるけど、まちづくりを捨てるわけにはいきません。町を居心地よく、長持ちするように、住民の負担を考えながらが、町づくりの基本です。▼そんな自治体の現場経験から、原昭夫『自治体まちづくり-まちづくりをみんなの手で!』(学芸出版)が、政策の立て方とやり方の報告をしています(第8講詳述)。▼まずは、人口構成から町をみる。人口予測するなら、おもに地域にどのくらいの人びとが、どんな生活様式や居住形態をもって住んだり、働いたりするのだろうという、マクロな把握をしてみよう。▼現地を知るには、自転車。裏通りまで小まめに調査できる。地図の縮尺にも慣れること。5万分の1の地図は、分母の末尾の0を二つとり、それにメートルをつける。それがその地図での1センチの長さとなる。都市地図によくある2千5百分の1は、1センチが25メートルとなる。あとはボディ・スケール(身体尺度)を身につける。自分の両手の広がり、歩幅などを知っておくと便利。伊能忠敬にもなれる。それに地図のたたみ方も知っておくと便利。見たいところを広げておける楽しい折り方がある(本編57頁)。▼まちをつくる手法は、自治法に定める「基本構想」に始まるものと、都市計画法に定める「都市計画マスタープラン」がある。いずれも長い間、しっかりした担当者がその仕事をし続けることが大事。都市防災についても、危機管理のプログラムとシミュレーションの実験をしておこう。▼学校の総合学習で「まちづくり」を取り上げられないか。例えばボディ・スケールを使って、公園を歩行実測したり、新旧の地図をならべて見比べたりとかやってみる。▼まちづくでは、「人づくり」より「人になる」ことである。まちづくりの当事者になることである。吉阪隆正(1917-1980、建築家、コルビジェに師事)はそれを「泥脚遥雲(でいきゃくよううん)」といった。頭はつねに雲の上において大所を見渡し、足はつねに泥の中にあって地面を這えということである。これには修行がいるが、プランナーなら、この境地に立たちたい。▼まちづくりを十二の原則で取り組む(第8講詳述)。計画感覚を磨け。まちへ出ろ。都市の出来事に興味を持て。「地域型」で仕事を進めろ。市民との共同をはかれ。皆で仕事をせよ。自分の仕事を他の仕事につなげろ。アンテナを敏感にしておけ。つねに「やる方向」で考えよ。失敗・クレーム・紛争から学べ。職場のよい人間関係をつくろう。仕事は元気に面白くやろう。それに、プランナーの四つの資質としては、好奇心、現地主義、発見的方法、施策化への意欲が欠かせない。▼この知人からは、おおらかな人柄と、おだやかな計画づくりを学んだ。
04.小さな建築
▼象設計という建築集団を率いる富田玲子さんの『小さな建築』(みすず書房)から引きます。▼大学に招かれて話をする機会があると、私は学生たちに、「若いうちにできるだけいろいろな空間を体験したほうがいいですよ。そして、いいなあ、嫌だなと率直に感じるクセをつけてください。いいなあと思ったら、どうしていいのかをつきとめてください。いつも巻尺をもっていて、その空間の高さや広さを、窓の位置や大きさを測るクセをつけましょう。それがどんな材料でできているかを見て、触ってください。これは私が学生時代にできなかったから勧めるんですよ」とお話しします。▼吉阪隆正先生の奥さん・ふく夫人は、先生に劣らずユニークな方でした。主婦がする家事は一切なさりません。それでも三人の子どもたちからはとても尊敬されていました。子どもたちの友人の人生相談にものってあげて、家族だけに愛情を向けた人ではなかったのです。そのふく夫人が「玲子ちゃん、仕事が終わったらいらっしゃい。きょうはご馳走なのよ」といって、缶詰の大和煮を缶ごと出してくださいます。▼象設計集団の仲間たちは、各地に広がっています。神戸の「いるか設計集団」、鹿児島の「アトリエ・熊」などです。それを動物たちが集まった動物園「チーム・ズー」と呼んでいます。もしも動物園の設計を依頼されたら、みんなで全体計画をつくっていきながら、それぞれの事務所が自分の名称と同じ動物の小屋を設計することができたらいいなと思っています。▼建て主のこんなエピソードも紹介されています。施主だった富田玲子さんからの年賀状がすごいんですよ。「今年はどこを直しましょうか」って書いてあるんです。完成させる気がない建築家がいるんだと最初は本当に驚きました。友人も「象に設計を頼むと孫の代までつきあうことになるんだよ」とも云われました。▼私は、富田玲子さんの旦那さん林泰義さんから、おだやかな、しかしあきらめない「まちづくり」を教えていただきました。
05.町のヘリテージ
▼古い建物は古い友だち、という話をします。自分の町に由緒ある建物があり、それにまつわる物語があるのは楽しいし、自慢できる。ヘリテージ(遺産)のない、新しいだけの都市には風格がない。▼町の古建築を残す。そのやり方と運動の持続の話を、作家であり地域誌を作っている森まゆみさんの『東京遺産』(岩波新書)からします。人は町のどんなところに愛着を感じているのか。路地の中の稲荷や井戸や植木や電柱といった身近な「小さな環境」に愛着を感じている。それに古くからある建物といった「大きな環境」も大事に思っている。建物が残れば、それだけでなく、文書も絵草紙も位牌も人も、そして何より物語が残る。▼不忍池の景観を守るため、「不忍池算数プログラム」を企画した。大人だけの文学散歩をしてもはじまらないと思い、子どもと一緒に戸外で「体で算数」をやろうという試みである。寺社の石段の数を数えたり、一段の高さから山の高さを計算したり、不忍池周囲の木の数を数え、その間隔からその周囲の長さを手で測ったり、池の面積を掛算したり、といくつもの問題を用意し、子どもたちと歩いて好評だった。▼景観の保護に手を染めたお年寄りの一人は云う。「この十年はとても勉強になりました。この年になって、樹の名前、鳥の名前を覚えた。するとまた面白くなって勉強し、という風に深みにはまっていったんです」。風景遺産を守る運動が思うようにいかないこともある。「富士山は永遠にそびえているが、マンションなんてのは五十年、百年の命だ。次の建て替えのときはあんな高いビルが建たないように、今から運動していきましょう」と云いきったおじいさんがいた。▼残った古建築が、例えば古い酒屋が小体(こてい)な飲屋に変わって生き延びてもいいのです。まちづくりの今昔を味わえるなら。という、この視点も町づくりには大事です。
06.遊びの地図
▼小さい頃に遊んだ地図を作る。言うところのメンタルマップづくりで温故知新です。少年時代に遊んだことしか、大人になっても遊べない法則があるかもしれないと、うすうす感じていたので、まずは記憶を遡ることにしました。犯罪捜査でも現場はもちろんだが出身地を洗えといいますね。▼さて、十勝平野東部に流れる忠類川の源流近くで私は育ちました。川は小さかったが水量はたっぷりあり、夏は冷たく、スイカがよく冷えた。小学生の頃は、下校するや馬糞の堆肥からミミズをほじくり、竹の一本竿を担いで毎日のように家の前の川で過ごした。釣果のヤマメ・イワナは笹や柳の枝に通してぶら下げて帰り、薪ストーブの上で焼いて食べた。カラス貝だって口の中にヨモギの茎を差し込めば釣れた。身は硬いので食べなかったが、内側は硬質な真珠の光が満ちていた。木洩れ日のなかの川はガラスの破片を水面につけると、水底まで見渡せるほどで、魚の動きに合わせヤスで突いた。顔を上げて流れを見つめていると、相対原理で岸のほうが動き出し、目まいでふらふらになるのを楽しんだ。夏休みは蝉時雨を浴びながら、長い畝の数条の草取りノルマもそこそこに、日暮し釣り糸をたれていた。近くの森の樹上につくった隠れ小屋で、お握りを食べた後はよく絵を描いた。遠出もした。一里先の裏山に松前藩が埋めたという金塊の伝説を信じて、友だちとその洞穴探検に夏休みの多くを費やし、いつもとっぷり暮れてから家路に向かった。少年は川と森と山で過ごした。▼それに、腹をすかした少年でもあった。食い物のことは深く心の地図に焼き付いている。あの頃の年の瀬には心踊るものがあった。豚一頭を出刃で殺し正月の食材とした。鶏も首を斧で落としたあとは、五右衛門風呂の煮えたぎった湯にいれ、毛をむしるが、これは子どもの仕事。母屋の隣に畜舎があり、馬、牛、豚、鶏、羊、山羊たちと共に暮らしていた。馬は畑起こしばかりでなく、荷馬車(ホドウ車)を牽いて町にも向かった。羊の毛は紡いで靴下やセーターになり、肉はジンギスカンとして食した。鶏の世話と卵の係りは子どもの役割。米は内地米でも、麦やキビ、野菜は自給できた。豚と鶏の餌は野菜くずや残飯で間に合ったし、彼らの糞は寝藁と混ぜ合わせ堆肥にして野菜畑に還元した。農作業はきつく、食べものは粗末であったが、ストーブを囲んでの日々の団欒が一日の区切りだった。幸いに水力の自家発電があったので、電灯が灯り、ラジオが聞けた。家の周りは雑木林で、近くにも手つかずの森や原野が大小いくつもあり、そこから届くフクロウの鳴声で、眠りに就いた。▼これは、ネパール山間部の生活風景とも重なります。▼郷土の歌人である時田則夫さんの『北の家族』(家の光協会)にも同じような体験談が載せられています。小さい頃のメンタルマップを想像しながら、遊びを埋め込んだ町づくりも大事なことです。
07.動物と関わりたい
▼若い人たちが、動物と関わりたがっている。以前、地元の畜産大学でなんどか動物園の話をしたんですが、学生のうち九割は道外で、しかも半数は女子学生でした。将来の仕事を尋ねると、ボランティアでもいいから動物に関わりたいということでした。人間相手の社会が疎まれているのかな、という感じを持ちました。▼動物好きの人は、ファーブルやシートンなどを愛読するが、近頃は動物行動学が注目されている。『ソロモンの指輪』(コンラート・ロレンツ/日高敏隆訳・ハヤカワ文庫)から。動物同士のお互いの階級闘争やらイジメをみていると、その動物的な遺産が人間の中に多く残っていることに溜息がでる。また著者は、飼っていたハイイロガンの雛が最初にロレンツ氏を見たばかりに、親と思い込みヒョコヒョコついて回る、刷り込み理論で知られる。▼つぎに『動物とふれあう仕事がしたい』(花園誠編著・岩波ジュニア新書)から。動物に関わる仕事には、動物園の飼育係、犬の訓練士、動物病院の獣医、動物看護士、動物栄養管理士、トリマー、アニマル・セラピスト、乗馬療法の指導者、動物学者などがある。ここでは動物園の飼育係の仕事を覗いてみよう。飼育係にとってうれしいこと。それは、担当している動物の前で上がるお客さんの歓声。その動物のおもしろい行動をうまく見せることが出来た時には、この仕事をやっていてよかったと思える瞬間だという。飼育係の一日は、まず担当動物の見回りから始まる。一頭ずつ個体に異常がないかを見ながら、当日やるべきことを頭に整理していく。午前中は各動物舎の清掃をするが、単にきれいにするのではなく、糞の状態や、前日与えた餌の食べ具合もチェックをする。問題があれば獣医さんに連絡し、治療の段取りとなる。午後は、おもに餌の準備と給餌。そのほか朝決めた特別な作業、たいていは動物舎の修理や整備をする。また、動物園は入園者がいて初めて動物園として成り立つことから、お客さんの前で動物の話をすることも多い。午後の作業が終わると、その日の出来事を飼育日誌に記入して一日が終わる。そのほかにも解説版を作成したり、動物にとって住みよい環境づくりや魅力的な展示のために、本やインターネットで調べたり、海外の論文を読んだりもする。▼この本では畜産業は省かれていました。動物飼育が産業化するのは不自然な行為ということでしょうか。自然なものを嗅ぎ分け、そこに近づきたい気持ち。これは動物からの大いなる遺産です。動物から考えた町づくりがあってもいいですね。十勝では堤防や農道を使った「馬の道(ホース・トレッキング)」が試みられていいます。馬の文化があるイギリスのロンドンでは、公園に馬道がありました。これは町の中に「馬の道」ということです。
08.市民セクター
▼つぎは、市民部門の活動を考える話です。『戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方』(田中優・合同出版)から引きます。▼自分の預けた郵貯はどこに使われているか。途上国に一番カネを貸し付けているのは日本。途上国への債務の返済を厳しく取り立てるは日本。世界銀行とIMFに最大の融資をしているのも日本というを覚えておいてください。日本のODA(政府開発援助Official Development Assistance)のプログラム援助は、世界銀行とIMFが途上国に押しつけている「構造調整プログラム」という返済計画に従わないと貸さないことになっている。なぜ日本だけが「援助」と称して「金貸し援助」ばかりしてきたのか。国の一般会計つまり税で、援助することができなかったからだ。税金なら返済を求めない援助もできただろう。しかし税収は公共事業に使われて余裕がない。そこで日本政府は、郵貯を中心とした財政投融資の資金に手をだした。人のカネを使うのだから、相手から返してもらわなければならない。この結果、日本だけが特別に、金貸しのODAの比率が高い国になってしまった、ということです。これは国の公共セクター部門ですね。▼一方、国は違いますが、タイの東北部のイーサン地域の「市」の話をしましょう。これはノー・セクターつまり市民が運営するセクターです。イーサン地方は、ごく最近になって農民が入植した土地であるため独自の経済圏がなく、農家は生産物を首都バンコクからきた仲買人に売り、必要なものは同じバイヤーから買っていた。安く売って高く買っていたから、貧しい生活であった。そこで農民がやったのが「朝市」だった。この市で売り買いしていると、自分のカネが減っていかないのだ。市で行われているのはカネを尺度にした物々交換なのだ。農民は生産物を持ってきて、他人の生産物を買って帰る。市で生産物をカネに変えたとしてもまた別の機会にその市でモノと交換するから、結局は「時間のずれた物々交換」だ。こうして一つの村で始まった市は、瞬く間に周囲に広がった。▼社会には三つのセクターがあります。第一にGO(行政セクター、government organization)は統治が目的で、行政以外はすべてNGOになります。第二はPO(産業セクター、profit organization)は利益が動機で、産業以外は(行政を含め)すべてNPOになる。よってNGO/NPOは市民セクターと言われます。この三つのセクターは、たとえば、公立の保育所、24時間や企業内保育園のような営利保育園、そして市民共同保育所が並存していることを考えればよい。銀行なら公立銀行、民間銀行、非営利バンクや労働金庫もある。この三つ目の市民セクターが入ることによって、三つのセクター間にチェクアンドバランスが起こる。マイクロソフトが怯えるのは市民が無償で提供するリナックスだし、公的施設が怯えるのは効率よく親切に運営する非営利の施設なのです。▼それと市民セクターには、二つの型があります。行政に代替するのがNPO法による「特定公益活動法人」で、産業に代替するのが中間法人法による「非営利ビジネス」である。公益型NPO(所得再配分型NPO)は、カネを持たず、出資なしの寄付と融資だけで運営するので「高貴なこじき」といわれる。日本では税控除がないことから個人寄付が弱く、行政の下請化しやすい。産業型NPO(非営利ビジネス)の方は、中間法人ということから配当を禁止する代わりに有限責任にすることができ、出資を受けられ、業務の範囲は有限会社同様に広い。NPO法の面倒な承認が不要で、共益法人であるから外から入ろうとする者を排除できる。乗っ取りの心配はない。これは「得しないビジネス」といえる。▼実務的にカネを扱う非営利活動をするなら中間法人とNPO法人の、二つの顔を併せ持つ団体にすればよい。そうすると縦横に動けます。▼この分野はまだ深いので、皆さん勉強してください。
09.公共事業のこの国
▼同じ川に架かる長大橋、キツネやタヌキがでる高速道路、過剰な農業基盤整備、ムダなダム。前世紀の後半に国も自治体も公共事業で日本の国土をいじり過ぎたことが、わかり始めた。五十嵐敬喜『公共事業は止まるか』(岩波新書)から引きます。▼自治体に必要もない高水準の設計と高単価ではじき出された公共事業は、今も健在です。地域の経済と雇用に絡んだシクミ。このシクミは政官財でさらに強化され選挙で総仕上げ。その公共事業を支える「道路特定財源」の再配分に手をつけだした。当然のなり行きです。一方PFI(Private Finance Initiative)という新手の民間型公共事業が始まろうとしているが、これはイギリス生まれの考え方を焼き直ししたもの。介護福祉のお手本はドイツだったけど、またも密輸入。明治時代から「役所がやってくれる」「会社がやってくれる」という思い込みで働いてきた日本人と、外国手法の密輸入による国土づくりが対をなし今の日本のカタチができた。▼話に関係ありませんが、八、九年前ロンドンのコベントガーデン(17世紀に野菜市場として開発され、いまは市民のホコテン)近くの小さなホテルに泊まっていた。夜になると何もすることがないので、ダフ屋からチト高いチケットを手に入れあのミュージカル「キャッツ」を見にいった。終幕で歌う「メモリィ」を聴いていた隣のインド人家族はグスッと。私もイミはわからなかったがジィーンとなり、帰り道で寄ったパブで独りビター・ビールを数杯。寂しい夜だったが気持ちは満たされていた。▼コベントガーデンは、昼間は楽器演奏があるのに静かで、周りはいろんな人がパフォーマンスをしていて、愉快で刺激的な広場空間です。市民の生活の楽しみと結びつかない公共事業の日本に比べてみたくもなります。
10.市民自治を考える
▼この主題は、『市民・自治体・政治-再論・人間型としての市民』(松下圭一・公人の友社)に詳しいのですが省きます。▼ここでは、日本の大衆ドラマ「水戸黄門」を想起してください。今日の日本の人々、つまり庶民の政治発想の原型そのものがここにあります。日常生活ないし政治・行政に問題があっても、日本の庶民たちは問題解決の能力を持ちません。悪代官や悪徳商人がいても、また泥棒やばくち打ちがいても、日本の庶民はみずから問題解決するという政治熟度をもっていない。つまり自治能力を欠いた受動市民だったのです。今日でも、日本の政治家、ついて官僚をふくむ公務員は、市民からの批判・参画による政治訓練をあまりうけていないため、オカミとしてイバルだけで、その政治未熟、行政劣化が続きます。これに比して、アメリカの大衆ドラマ「西部劇」では、原住民への弾圧という半面はありますが、白人内部では未熟ではあっても「問題解決」の自治能力を示します。政府が遠くにある西部開拓地では、広場や教会にあつまって、失敗をふくめて、みずから議論・決定をしているではありませんか。J・S・ミルが、アメリカ人は「いつでも、どこでも政府をつくる」といった理由です。くわえてヨーロッパでも、中世におけるマグナ・カルタの制度や暴君放伐論、またロビン・フッド、ウイリアム・テルなどの抵抗、さらには近代市民革命をめぐる今日の市民性につながる、ゆたかな大衆ドラマをもちます。日本ではオカミとしての水戸黄門がたまたまやってきて、官僚のスケサン・カクサン、最近のテレビでは忍者という特殊部隊すらつかって、上からの問題解決となります。黄門がこないところは、永遠に問題解決できず、東洋専制ともいうべき忍従の日々が続くのみです。日本も、近代欧米の影響から自由民権、大正デモクラシーの記憶はあるものの、中世の惣村・惣町の一揆をふくめ、ひろく誇りある自治の歴史つまり記憶がうすく、大衆ドラマもせいぜい「」鼠小僧」「大塩平八郎」などにとどまります。都市型社会の今日でも、未来にむかって自治の伝統を、私たち自身がかたちづくることが急務になっているというべきでしょう。▼松下圭一氏が市民政治理論を世に問うてから半世紀ですが、まだ自治体の市民自治は路半ばです。
11.生活情報地図と連結財務諸表
▼ここでは、自治体を運営する際の目安のようなことを話します。自治体財源の自然増はもうのぞめません。今日ではデフレ型のマイナス成長のため、賃金が下がる、企業も倒産する、商店街は閑散とし、失業者も増え、市町村は税収減。この減収に、不況対策としての減税とあらたな借金(起債)が加わります。▼自治体がどんな状態にあるかを知るには、経常収支比率80%、公債費負担比率10%までの範囲にあるかどうかです。わが市の場合、前者が86.8%、後者が13.7%と危険ゾーンです。▼さてさて、ハコモノですが、これは利用者や人件費をふくむ原価計算、事業採算を公開しながら再整理しなくてはなりません。管理上どうしても職員が必要なハコモノには、定年退職後の職員を数年嘱託としての再雇用を考えればいいわけです。▼それに、町村は職員1人当たり市民100人に、市では120人以上をめどにリストラしなければ、財務悪化を克服できません。疫病神のようなことを言うようですが、これがやがては福の神となるのです。▼さて、わが町を一望するには、政策情報がもりこまれた『生活情報地図』と、1年限りの官庁会計ではない『連結財務諸表』が必要です。マップとバランスシートですね。これがなければ、市民・議員・職員の情報共有化と、政策立案ができません。これを持たない自治体は、居眠りしているとしか言いようがない。こんな町は破産します。ということで自治体運営のコツを覚えておいてください。
12.地方都市の自由時間と市民
▼次は、文化と地域づくりにとって大事なことと思われる、自由になる十万時間と地方時間の可能性についてお話します。▼私たちが自由に使える10万時間の話(第6講で済)をオサライしておきます。まずは、自由にならないのは労働時間です。1年間の労働時間はどのくらいなのかと言いますと、狩猟時代は8百時間、農耕時代は1千時間、現代都市社会は2千~2千5百時間、日本の場合は一部の中小企業は残業が多く4千時間も働いています。▼さて、人生80年の総時間数は70万時間です。睡眠は1日8時間で25万時間、食事や通勤など生活必要時間は1日8時間で25万時間、労働は30年間で7万時間、学習時間は小学校から大学までで3万時間と意外に少ない。これらを引くと、残り10万時間。▼それと地方都市に住むと通勤時間はわずかで、都会の人達より1日2時間は得しています。地方都市は自由時間が財産です。通勤時間2時間×250日×30年=1万5千時間の計算になります。
▼さて、自由時間の使い方の話に戻りますが、12年あるいは16年間の学校教育を終えたあとを、生涯教育の面からは、どう考えておくといいのか。▼民間カルチャー講座とは違って、地域文化のストックを考えているのが三つの文化施設(図書館・博物館・動物園)なのです。皆さんの自由なテーマを持ち込んで、付き合ってくれるのは、これらの施設しかありません。だから市民が拠り所とし、また市民を大事にする理由がここにあります。皆さんが旅で、どの町に行っても、どこの国に行っても、地域を語る施設として案内されるのは、ここです。他の地域と比較する。この比較文化こそ、独りよがりでない自分の位置を確かめる作業になります。そう言った意味で「もう一つの学校」の役割を理解していただけると思います。簡単に言えば動物の学校、本の学校、歴史の学校、人生を楽しむための学校です。市民文化が盛んなところは、外れなくこれらの施設も充実しています。国内でも外国でも、旅の後は皆そう言います。▼3万時間の学校教育は「教師から教わる」、10万時間の生涯学習は「お互いに教え合う→自分も教える立場に」ということです。
《ちょっと歴史1・第6講再掲》
▼それにしても、地域の歴史も含め、二十世紀は激動でした。まずは、日本列島一万年史を一分で語ると、こうなります。字数は3百字くらいです(般若心経も同じ字数)。一万年前に溯ると、日本人はこの国土で縄文という山岳地帯を中心にした焼畑農業で高い文化水準をもっていた。それが三千年前ぐらいから稲作技術の弥生文化が入ってきて、生活のスタイルや考え方も変化し、日本人に同化してきた。さらに三世紀から十世紀(平安時代)ぐらいまで、中国とか朝鮮半島の文化を取り入れて科学技術を伴って日本の生活が変わってきた。十世紀は、外国からの交流を断ち切って日本独自の文化をつくり、十六世紀(室町時代)になると国際的な交流や国内の激しい開発があって、激動の歴史であった。江戸になると、今度は日本文化を独自に育て、停滞していると言われるけれども、その地域なりの文化をつくる時代が来た。まちづくりは江戸時代にも当然あった。その後、明治以降はドイツの制度とイギリス・アメリカの科学技術と商業を中心とするスタイルが日本に入ってきて、日本が変わっていくと言う具合です。
《ちょっと歴史2・第6講再掲》
▼次は、20世紀です。この1世紀で人口が3倍、都市人口が10倍。20世紀には極東の島国だった国が世界の10%経済を維持する国にのし上がった。戦争も沢山あった。日清・日露に始まり最後には原爆まで落ちてしまうという1世紀は、日本の歴史に二度とないだろう。20世紀初頭に75%を占めていた第1次産業は20世紀末には7.5%以下になる。聖徳太子が律令国家をつくって以来、20世紀まで70~80%を維持してきた1次産業が突然7.5%になるということは容易ならざること。子供の産み方も20世紀初頭9~10人だったのが、20世紀末は0~1人。20世紀初頭に42歳だった平均寿命が20世紀末には80歳になる。1世紀間に寿命が2倍になることも脅威。前世紀には金持ちや権力者の子供くらいしか中等教育を受けなかったのが、今ではほぼ全員が高等学校にいき、大学にも40%近くが行く。江戸は2百万人だったのが、千葉・埼玉・神奈川を含めた首都圏は2千5百万人の機関車となり日本を引っ張ってきた。20世紀初頭の横浜・神戸は漁村であり、札幌は人の住めるところではなかった。これを線で表すと、横の時間軸、縦に社会変化をとると、グラフが右端だけ垂直に立ち上がるほど、激しい世紀でした。
▼こういった激動の時代と、自分の地域のことを知り、自分も知る。自分をデザインし、住んでいる地域もデザインする。この基本形ができればいい訳です。人生24時間の連続です。24時間の中でやりたいことを埋め込めなければ一生かかっても出来る訳がありません。▼市民がつくる自由時間センターのために、図書館にない本を読んだら寄贈⇒市民寄付の図書館、動物は市民寄付・檻は税で⇒市民好みの動物園、市民の宝を展示⇒持ち寄る博物館、といった工夫のある取り組みは市民参加の愉快な町づくりになります。町づくりは、皆さんのアイデアと実行の集積なのです。
13.家族を入れるハコ
▼ここでは、町づくりと家族論の話です。できたらこれらを題材に自由討議できるといのですが。まず『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(上野千鶴子・平凡社)から。▼「いずれシングル」。二〇世紀は「家族の世紀」だったかもしれない。だが、家族を中心に自分の人生設計を立てることは、超高齢社会には間尺に合わなくなってきた。家族の世紀とは、子どもをたくさん産んで親業にあけくれているあいだに一生が終わり、配偶者に先立たれあとの長い老後などを考えなくてもすんだ人口学的近代の過渡期にだけ、成立した現象だといってもよい。このところ少子化の原因探しのなかで、若者の晩婚化・非婚化が注目されている。三〇代前半で女性の非婚率は三割近く、男性は四割。四〇代になっても非婚男性は二割近くいる。これにシングル・アゲインが加わる。生涯非婚者は人口の二割近くなるだろうという予測されるが、逆にいえば、それまでの「全員結婚社会」が異常だったともいえる。▼わたしはずっとシングルで子どもも産まなかったが、三〇代も終わりに近づくとそれまで子育てで離れていた友人たちが、泊りがけで温泉旅行をしようと寄ってくるようになった。五〇代にもなると、夫に死別離別した友人たちが、海外旅行に誘いをかけてくるようになった。日本には「後家楽」ということばがあるが、夫のいないひとり身の女はわが世の春だ。▼シングルは孤独、という思いこみはうそだ。家族とつき合わない分だけ、友人たちと深いつながりをもっている。老後は不安、も正しくない。子どもの数がひとりやふたりでは、老後の不安は子どもがいてもいなくても同じ。なまじ子どもに頼ると、かえって子どもの生活を破壊し、親子関係がこじれるもとになる。いずれにしても、いつかはシングル、になるのが誰の人生にとっても避けられないなら、シングルを基本にした人生と社会システムの構築が求められよう。そう考えれば、年金や税制の世帯単位制は、いかにも時代遅れである。家族給型の賃金制度も、不合理である。
▼「おじさん・おばさん」。私は今、田舎暮らしの定年退職後の移住者の方たちとおつきあいしているんですが、「娑婆じゃ何をしていらしたかは存じませんが」という感じなんです。昔こんな仕事をやっていましたという人は嫌われます。おつきはいは、今、一緒にいて気持いいかどうかだけが大事。▼婚姻は、自分の身体の性的使用権を排他的に相手に独占させるという契約です。しかも終身契約ですね。第三者が使用した場合、財産権の侵犯になる。民法上の賠償責任が生じる。ですから、これは性のモノ化。できない約束はしない。私はそのために結婚しなかったのです。▼女性の場合、「男にもてたい」という下心を失った時点で「おばさん」化し、かえってのびのびと生きていけます。男性の場合は、「おやじおばさん」のモデルはもうあります。たとえば永六輔さん、天野祐吉さんなんか、いい感じですし、ああなると、かえってもてるんです。▼私たちの世代はまだカップルに対する幻想が強かったですが、今の若い子にはそれがない。最初から茶飲み友達。セックスに対する考え方もずいぶん違ってきました。▼家族になることや子どもをもつことは趣味としてあっていいが、規範であってはおかしい。
▼「間取り見て寝室別と知る夫」。八〇年代半ばに夫婦別寝室の流れが顕在化しはじめた。子育てを終えた四〇代以上の人たちは、子どもが出ていった後の空き部屋を、妻が寝室にしたり、あるいは夫が書斎にソファベッドを持ちこみ棲みつく。年配の夫婦の別寝室化は、だいたい妻からの要求です。家庭内別居で婚姻は継続、そこまでして関係に執着する理由は、妻は「食べていけない」から、夫の側は老後の「みとり保障」がほしいからです。▼「家族である」ことは二四時間営業です。それに対して「家族をする」ことはパートタイム、サムタイム(時々)でしかない。男性は、通勤途中は市民、会社では会社員、不倫をしていれば男、と二四時間のうち人格が分割されています。今は女性も同じで、専業主婦でも「サムタイム・ミセス」、一歩外にでれば「ライク・ア・シングル」(独身のように)。家族全員が虚構を演じているわけです。▼少子化と子ども部屋のおかげで、他人との距離をおく子どもが育ってきた。ひとりっ子どうしの結婚が増えると、「結婚したいが同居したくない」という空間感覚をもつのは不思議じゃない。密着してセックスする関係より、最初から「茶飲み友達」。結婚はこれまでのように生活保障ではなく、「癒し」としての要求はあると思う。親世代が考えていた結婚の姿、「身も心も」の一体化とはだいぶ違いますが、それでいいじゃないですか。同寝室や同居が夫婦の条件でなくてもいい。
▼「家族・ハコ・街」。パラサイトシングルがなぜ結婚しないかというと、結婚するとソンだから。そのココロは、男はお金の自由を失い、女は時間の自由を失う。▼近代家族を入れる居住空間を考えると、食寝分離、すなわち近代住宅の中でセックスの空間をいかに確保するか。近代住宅のモデル、nLDKは、家族の人数マイナス1であると。ここに近代家族を入れるハコの謎があります。つまり、マイナス1というのは夫婦同寝室が前提となっていて、現実に夫婦の間にセックスがあろうがなかろうが、規範としてやってますと外に示す必要があった。性別分離、食寝分離という、性に対して意識的な空間デザインが西山卯三の悲願だったわけです。しかしそれも解体してきたと。住宅という空間が、セックスと必ずしも結びつく必要がなくなってきた。その機能がアウトソーシング(外部委託)化してきたといってもいい。▼個室群住居の極限的な形態は、寮とか刑務所です。つまり独房、つまりシングルセルにパブリックスペースが直接つながっているというタイプです。それに対して、「イエスの箱舟」的な暮らし方のスタイルがあります。雑魚寝型というか、コミューン型ですね。シングルセルになればなったで、パブリックとプライベートが直接むき出しに接するホテル型ではなく、寮の共用キッチンのようなコモンの空間に対するニーズは高まるでしょうし、その集団が、家族である必然性はなくなるでしょう。▼家族が多様化し標準世帯が少数化していることからも、「住宅の選択肢」がもっと増えていい。実際には高齢者世帯や単身者世帯が多いのだから。建築家の世界には作家主義、作品主義があるが、住宅のモデルに個性なんかなくていい。家族の拡大期にだけ対応するのではなく、家族の縮小期にも対応するモデルをつくっていただきたい。住宅は今も、食って、寝て、育てる場所としか考えられていない。それだけでなく、生産のための空間、さまざまな作業場であるとか工房の機能、ラボ(研究室)機能を含むものであってほしい。今や女性向けの就労機会が近くに組み込まれていないようなニュータウンには誰も引っ越してきません。なぜかというと、どこに住むかを決めるのは主として妻がもっているからです。パートタイムのような就労形態をとる女性は、通勤時間がだいたい三十分までで、職住の近接を組み込まないと、ニュータウンに居住者が入ってくれない。また、標準世帯が少数化したということは、育児・介護の機能は住宅の内部にとどめることができなくなったということを意味します。介護保険は介護の社会化を実現しました。つまりコモンの空間に育児・介護の機能を組み込まざるを得ません。いいかえれば、住宅というユニットは、もはやユニットとして完結しないということです。そのようなコモンの空間は、もはや地縁ではなく、選択縁とならざるを得ないのです。
▼「ダブルベッドとツインベッド」。住宅の中の夫婦寝室そしてダブルベッドというのは、一夫一婦制とセックスは絶対一致の、西欧的な近代家族の規範の中心にあった。それが日本の住宅の場合は洋風化しているようですが、夫婦寝室では、西欧化というコードに従えばダブルベッドでなければならないのに、その普及率は低い。狭くてもツイン型なのです。そこには家族のタテマエと現実のズレがあり、タテマエでは夫婦はセックスをしなければならない。ところが現実では日本の夫婦の結びつきの中心にセックスはない。妥協策として「寝室空間は共有、ベッドは分離」というツイン型の解決になったのではないかという仮説をもっています。
▼「建築再考」。コミュニティの原形は家族ですが、その家族は破綻しています。「気の合わん隣と仲良うせんでもええやろう」「家族やからというても仲良うせんでもええやろう」という話までいきます。介護保険制度は、家族が仲良くなくても成立するシステムです。▼住宅の作品よりモデルをつくってほしい思う理由は、介護保険でこれからどんどん他人が家の中に入ってくる。そのとき家の仕様が標準化され、だれでも使えないと困る。最近の住宅はまさに装置で、分厚いマニュアルを読まないと風呂ひとつ入れない。これではお年寄りは住めません。スイッチの位置や空間配置など、だれが来ても推測できるようにしないと他人は入れません。だから私は建築家に個性的な住宅なんか作ってほしくないのです。▼マンションの住人は、財産コミュニティという考え方をしている。居住者は、過去も経験も人生観も共有していない。共有しているのは財産としてのマンションだけなのだが、これを廊下を街路と考えて、ラボやオフィスの機能を廊下に面したり、お年寄りのグループホーム的なものを、廊下に面する側に配置したり、その奥に個室があるような配置の住宅設計は考えられないのか。▼社会学ではソシオグラムという社会関係図がありますが、同じマンションのネットワークをみますと、必ずしも階段室同士とか、同じ住戸の単位ではつながっていない。住居の近接とは別の原理で選択されています。これを「選択的コミュニティ」と呼びたい。地域という言葉は誤解されやすいので、これを使わずにすむ方法として「選択縁」を考えた。
▼「持ち家制度と家族」。著者が社会主義圏に行ったとき、団地を見ました。まさに労働者住宅、家畜小屋です。実に見事に、何の粉飾もなくむき出しの姿で労働者住宅が林立しているのが社会主義圏で、資本主義圏はそれをパッケージデザインで粉飾して労働者の欲望の対象にしましたが、理屈は同じことです。結局は自分の一生を抵当に入れた社畜すなわち労働奴隷でしょう。働かされているのに、自発的に働いているとカン違いしているだけで。住宅の価格の設定の仕方が生涯賃金とちょうどうまくバランスがとれるようになっていて、何という巧妙な装置であろうかと思いました。日本にも隈研吾(予算や敷地などの「制約」を逆手にとって独創的な建物を生み出す建築家)さんの「一生を抵当にいれて、持ち家を取得する」住宅私有本位制資本主義という卓抜な命名がありますが、そういうことです。▼八〇年代の家族論で出てきたのは、家族の個人化という議論でした。独立した個人の集合からなる家族という概念は一時期トレンドでした。特に近代的自我の確立とか、個の自立とか言われましたが、私は早い時期から、自立、自立っていいすぎると「ジリツ神経失調症」になるよ、といってきました。すべてが個別化した果てには、個人化したセル、つまりワンルーム・プラス公共施設があればそれでいいのか。そうじゃあるまと思います。セックスなんて特定のパートナーに限定される必要はありませんから、必ずしも家の中でやる必要はない。隠すべきはセックスではないわけです。「私」の領域に、封じこめられたものは実は育児・介護、つまり再生産機能です。子どもや老人という依存的な存在を抱えこまなければ、家族は個族的存在でありえます。夫婦だって別居した二つの単身世帯だってかまわない。となると最後に残る問題は、依存的な弱者をどうするかということだけです。人が共に暮らさなければならない意味は、最後にはもうそこだけという話です。▼家族という単位が自己充足していたら、その家族がさらに集まる意味なんかどこにもない。家族が破綻しているからこそ、その家族が集まることに意味があるのではないかという逆説もありますが。▼近代家族というものは、それがスタートした時点から「積みすぎた箱舟」だった。ココロは出帆したときから、座礁が運命づけられていた。家族は昨日今日、機能不全になったわけではなく、かつてだって機能していたとはいえません。▼計画学の「計画」というのは、社会主義の思想ですよね。市場原理というのは計画をギブアップした人たちが思いついた、自動制御のメカニズムですよね。計画というものは、必ずや現実によって裏切られ、うまくいかないものです。▼戦後の持ち家政策の中では、住宅の価格設定が、誰かの陰謀ではないかと思うくらいよくできていますよね。年収の三倍から五倍で、金利を入れると生涯賃金の約三分の一くらい。ローンを払いおわるまでは、絶対会社をやめられない。家族を解散できない。実にうまくできたシステムだと思います。▼私たちはいろいろな予測をする時に、見えない未来に網をかけるよりも、現実のなかにすでに登場している変化の芽を見抜くように努力します。戦略的なターゲットを設定して、マクロな市場調査ではなくて「パイロット・サーベイ」をやる。▼つくり手にとってはハコは完成したときが終わりだが、住み手にとってはそれからが始まりである。しかし、住宅の住み手と住み方が、ここにきて急速に変化してきた。ということです。
14.つばた+しゅういち(事例研究)
▼名古屋圏にある高蔵寺ニュータウンを設計した津端修一さんを紹介します。クライン・ガルテンで知られていますが、自由時間の研究家でもあります。では、東海テレビ収録でタイトル「キッチンガーデン」をDVDで紹介します(約25分)。
15.資料編
▼書籍資料/『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)。『キラリとおしゃれ-キッチンガーデンのある暮らし』(津端英子・津端修一/ミネルバ書房)。
▼AV資料/東海テレビ収録「キッチンガーデン」。
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