2010年3月8日月曜日

地域経済のデザイン (MA-4)

04.地域経済のデザイン
内容
01.産業政策より職業政策を... 1
02.地方の中小企業が活躍する時代... 3
03.ちょっと寄道、シカゴ学派... 4
04.地域収支論から考える... 5
05.地域おこしの失敗と成功... 7
06.産業別デザイン・農業... 8
07.産業別デザイン・工業... 9
08.産業別デザイン・商業... 10
09.産業別デザイン・観光... 12
10.地域経済と人材蓄積(講義5再掲)... 14
11.地域経済の最近の動き... 16
(1)葉っぱを商品にお年寄りが一千万円も稼ぐ町(徳島県上勝町)... 16
(2)商社勤めのUターン経営者が家具産業を復活(福岡県大川市)... 16
(3)脱公害と環境技術の開発が進む(三重県四日市市)... 17
(4)農業+加工+流通=6次産業を推進(島根県桜江町)... 17
(5)一人の市民による観光都市の再生... 18
12.資料編... 18


01.産業政策より職業政策を 
▼まず、産業政策より職業政策をという話から始めます。成熟社会においては、個人の職業から地域づくりを考えることも可能です。住民一人ひとり、つまり個人の立場に立って考えると、どんな職業を選択し、そのためどんな学習や訓練をするのか。しかもどんな職業に生きがいを見出すかということは人生設計にかかわる大きな問題です。大人にとっても村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬舎)はとても参考になります。動物、スポーツ、映画、音楽、料理など、いろいろな「好き」を入口に514種の職業を紹介しています。派遣、起業、資格など、雇用の現状をすべて網羅した仕事の百科全書です。この本は13歳だけでなく53歳の人たちにも人気があるようです。どんな人だと思いますか。それはリストラされた人達です。そこでもう一度、仕事とは何かを見つめるそうです。

▼では、どんな職業が魅力的なのかというと、第一に、個人の個性や才能を表現できる仕事です。広い意味で芸術家、アーティストの類ですね。詩人や小説家もこれに入りますし、研究者や発明家などもそうです。▼第二に、社会を変えていく仕事も、面白く生きがいが実感できる仕事です。昔なら、あるいは今でも特定の国や地域でなら革命家がその代表ですね。テロではありませんよ。革命家までいかなくとも社会改良家という仕事は幅広くあります。政治的指導者にも本来はそのような役割があります。でも日本の政治家にこのタイプは少ないように感じます。また、一般市民がNGOやNPO活動に参加すれば第三世界や発展途上国で社会改良家としての仕事を行うことができます。自分の意思決定が社会に影響を与えられる企業の経営者もこれに加えてよいかもしれません。が、これも今の日本には少ないでしょう。ところで、この分野の職業でとくに重要なのは教育者、つまり教師です。本来教育というのは未来の世代である子供に託して社会を変えていくことにあります。若い人で、もしも世が世なら革命家や社会改良家になったのに、などと考えている人は教師になるべきです。

▼第三の分野としては、社会を維持していく仕事も重要であり、そこに意義を見出す人も多いでしょう。民間の企業や商店も社会の維持に必要ですが、ここでは儲けることよりも社会的使命感が期待される職業を想定します。社会を維持していく仕事としては、国・地方の行政職員、裁判官、検察官、警察官、消防士、保健婦(士)、それに兵士(日本は自衛隊)などの公務員がまず考えられますね。民間人としては弁護士、公認会計士、助産婦、医師、葬儀屋(おくりびと)、大工、左官、建築士、電気・ガス・水道の保守技術者、ごみ収集業などがこれに相当します。社会を維持していく仕事は、総じて何らかの専門的技術や資格を必要とする職業であることが多いと言えます。

▼長期的に考えると、第一の自分の個性や才能を表現する仕事、第二の社会を変えていく仕事は、コンピューターを含め機械に置き換えることが不可能な分野ですから、将来有望な職業だといえます。第三の社会を維持していくこの分野は、部分的には機械に置き換えられますが将来とも人間が中心であることに間違いはないでしょう。また、人と人が対面することによって信頼感が生まれ、社会が安定して楽しくなるような仕事が機械化されるのは好ましくありませんから、商業やサービス業の多くは将来とも成り立つでしょう。それと生命を相手にする仕事もできるだけ人間がかかわるべきです。それは何だと思いますか。農林水産業です。

▼以上が、とりあえずの職業分類なのですが、このようなことを考え研究し、住民やその子供の意思なども調査して、各地域で「職業振興長期ビジョン」を作成するのとよいでしょう。これは産業ではなく「職業」を軸にしたその町の住民のライフスタイル計画ともなります。このような計画をつくることによって、地域の施設整備、余暇施設とか産業施設などを整備する根拠がはっきりしてきます。また、それに基づいて将来その地域に必要で望ましい職業を担う人材を育成する教育・研修機関を整えていくことです。産業振興より職業振興を考えることは、人間の顔の見える、夢のある話です。日本の場合は、どこかで手掛け、成功すれば一気に全国にはやるでしょうね。でもこれは、地元でしっかり取り組んでいてよいことです。▼これからの成熟社会では、個人の職業から地域の産業構造、ひいてはその町の都市像をデザインしていくようなアプローチが大事なのです。

▼ちょっと寄り道になりますが、村上龍『13歳のハローワーク』には、こんな職業も紹介されていて目を引きました。「何も好きなことがない、とがっかりした子供のための特別編」に普通はいけないこととされる「ケンカが好き」「戦争が好き」なら、「傭兵(ようへい)」という職業を案内している。「外国の軍隊に雇われて働く兵士。フランスの外人部隊が世界的によく知られている。フランス外人部隊の場合、20歳から40歳の男子で、国籍は問われない。偽名での申し込みも可能だが、指紋でインターポール・国際警察に手配されていないかチェックされる。もちろん犯罪者が紛れ込むのを防ぐためだ。訓練は過酷を極め、フランス語のトレーニングもある。武器の扱いを覚えるために日本の暴力団員が応募することもあるらしいが、たいていはフランス語のトレーニングに付いていけず挫折するという。拷問を受けたり、重傷を負ったり、死んだりしてもいっさい文句は言わない、ということが記してある契約書にサインしたのちに入隊する。フランス軍の海外出兵時に、先兵として投入される。近年は、アフリカの紛争・内乱への参加が多く、多くの傭兵が、部族間抗争に巻き込まれ、目をくり抜かれたり、耳をそぎ落とされたり、性器を切り落とされたり、内臓をライオンやハゲタカに食べさせられたり、残忍な方法で拷問されたあと、殺されている」。とありました。

02.地方の中小企業が活躍する時代 
▼中小および中堅企業のガンバリについては、よく米国が例にあげられますが、巨大産業のIBM社などの業績がふるわないと、その隙間をうめるようにコンパックとかデルとかの中堅コンピューター企業がでてきます。あるいはアップル・コンピューターがガレージ・カンパニーから成長してくるといった具合です。ですが、この日本では大企業をスピンアウトして自分の会社をつくる人やベンチャー・キャピタル(将来に向けて資金を提供してくれる金融組織)が、とても貧弱なのです。で、そういうことがこれから日本で起きるとすれば、それは地方からだとおもわれます。というのは、大企業をスピンアウトする場合の動機が郷里の親が高齢化したからというようなことがUターンのきっかけになりますし、また東京のような大都市では土地や労働力が限界状況にあります。金融も大企業中心です。それに大都市では新しい発明を考えられるような静かでフレッシュな環境が失われてしまいました。

▼ところで、日本企業の寡占が目立っているもう一つの分野にビール業界があります。大蔵省いまの財務省の規制によって中小規模のビール会社が成り立たない制度になっていました。もっとも今は一部規制緩和されてきているとはいうものの、ビールのように内容物の95%が水で容器もガラスや金属というような重くてバルキー(かさばる)な商品は、できるだけ地方ごとに生産・消費のサイクルするのがイイわけです。欧米ではバドワイザーやハイネッケンのような世界ブランドもあるかわりに、州ごとにビール会社があり、またパブ・ブルワリーといいましてレストランの自家製ビールがあります。日本はこのタイプが多いですね。道内では帯広や北見が先駆です。▼地方産業といえば、これはエコノミストの日下公人さんに教えていただきましたが、北海道の人たちが使う手袋の多くは四国で生産されているそうです。西日本とくに四国・中国地方にベンチャー的な企業が多彩にみられるそうです。

▼そこで企業のタイプを見てみますと、富士山型とアルプス型があるようです。海外、とくにイタリアでは中堅・中小企業が多いのですが、世界的ブランドとなっている企業もたくさんあります。北イタリアのコモ湖周辺からミラノにかけてのファッション産業がとくに有名ですね。中小企業・地場産業論に詳しい清成忠男さんは、英米などの「アングロサクソン型資本主義」や日本などの「東アジア型資本主義」に対して、イタリヤやアルプス山麓の企業群を「アルペン・アドリア型資本主義といっていました。▼もっと言うと、日本は富士山型産業だと思います。頂点の大企業とそれを支える系列化した中小企業群のことです。系列は「ケイレツ」と発音すれば、「スシ・スキヤキ」と同じく外国でも通じるそうです。片やイタリアはまさにアルプス山脈、つまり中小企業が群生する連山・アルプス型だと言われています。

▼これからは、大企業全盛の時代ではなくなります。これは労働力の供給サイドからもいえます。地方から中央への人材供給が枯渇するからです。理由は、長男長女の時代ですから、地元に残るか、あるいはいったん大都市に出たとしてもUターンする確率が高いわけです。事実、地方の高校生が東京の大学に進学する割合が少なくなっています。ですから、地元に根づいたセンスの良い若者たちが、大都市に対してハンディキャップを感じないで、のびのびと多様な職業を開発していければいいわけです。それに、就職するならできるだけ小さくてイキのよい企業を選ぶべきです。

03.ちょっと寄道、シカゴ学派 
地域経済に及ぼすのは国際経済ですから、ここでちょっと寄り道してプチ学習しておきましょう。『悪夢のサイクル・ネオリベラリズム循環』(内橋克人・文春文庫)からです。▼100万ドル以上の資産をもつ日本の富裕層は年々増え続け、今日では141万人。世界の富裕層の16.2%(メリルリンチ調)。一方で、かつては中流の暮らしを楽しんでいた家族は中流から脱落し、ギリギリの生活をしている。▼ケインズ学派とシカゴ学派の争い。ケインズが唱えた公共政策とは、資本家や大企業がその優越的な力で市場をほしいままに利用することを政府が規制し、不況に対しては政府が財政投資と公共事業によって雇用を確保することでその悪影響を緩和し、累進課税を強化し社会福祉を充実することで、富者から貧者への富の再配分をおこなう、といったものです(⇒ルーズベルトのニューディール政策)。しかし、ケインジアンが困ったのは、失業率とインフレの関係でした。失業率を低下させようとすればインフレが発生し、インフレを抑制しようとすれば失業率が高くなるというトレードオフの関係でした。これを「フィリップス曲線と呼びます。この曲線によれば、インフレ率が上がれば、失業率が下がるはずなのに、70年代は必ずしもそうならず、失業率も上昇した。しかし、シカゴ学派のミルトン・フリードマンは違いました。インフレを退治するためには、貨幣の供給量を減らすしかないと考えました。公共事業や福祉事業による需要創出効果は無駄である、というこの考え方をマネタリズムとも呼びます。規制はいらない、フリーマーケットにしろ、という新自由主義(ネオリベラリズム)たちの主張であり、この新古典派経済学はレーガン政権の主軸になります。▼しかしこのネオリベラリズム・サイクル(新自由主義経済循環、佐野誠新潟大教授の提起)では、ケインズのいう一定のサイクルでの需給調整が起こらず、一般的な意味での景気循環とはならない。つまり自由化によって、海外からの資金が集まりバブルが起きるのです。このバブルがくせもので、企業だけでなく自治体も国も借金をしまくるわけです。経済が膨張していますから借金をしてもすぐに返せると考え、財政規律がゆるみます。そしてバブルがはじけます。このとき、資本は一斉に海外に逃避し、国、自治体、銀行、企業は一挙に不良債権をかかえます。そしてリストラを始めるのです。このときに、さまざまな規制緩和などの「改革」がされます。そして国や自治体、その国の価値が、安く評価される時をねらって、一気に海外資金がなだれこむ。この繰り返しが果てもなく続くということなのです。その過程では、弱小企業の淘汰、雇用の喪失、貧富の差の拡大、外資の進出などが起こり、人心は荒廃します。日本は、ネオリベラリズム・サイクルがちょうど一巡しようとしているところなのです。

▼世界の為替市場で取引されるのは年間300兆ドル、1日当たり1兆ドルにも上る資金移動の、実に90%以上が投機を目的とする短期の取引なのです。貿易などの決済に本当に必要なドルはいくらかというと、8兆ドルあれば足りるといいます。にもかかわらず、300兆ドルという余剰マネーが自己増殖を狙って世界を駆け回っている。故にこの短期資金の移動を抑制することで、世界経済はより安定し、実体経済を中心とした姿にかわっていくはずだというのが、トービン税の基本的な考えです。▼アメリカでは、サブプライムローンによって低所得者層に到底返済できない借金を負わせ、住宅を買わせていました。それによって住宅の値段はどんどん上がっていく。値段が上がっているうちはいいのです。購入価格との差額を元手に、クレジットカードを作り、それでまた消費をする(中国と日本はそこに輸出する)。そうしてこうした借金自体を証券化し、小口化し、他の金融商品と組み合わせ、日本を含む世界中の金機機関と政府に売っていました。つまり、世界中に借金をすることで、アメリカは消費の宴に酔い、それによって世界経済は維持されていた。見た目は派手だが、近づいてみると何もない、蜃気楼のような宴です。▼このサイクルが行き詰まったことで、すべて辻褄があわなくなってしまった。アメリカのGDPのうち、工業、建設業など価値創造する産業の占める割合は、23%しかありません(2005年)。他はサービス産業、いってみれば形のないものです。蜃気楼が蜃気楼であるうちは、この経済システムは維持されますが、実はそこには何もないということに気づいたとき、このシステムは破綻するのです。この過程でさらに重要なのは、マネー自体が収縮していくということです。▼マネーは信用によって膨張する。信用を失ったとき、一気に収縮する。つまり、今回の危機が深刻なのは、もう頼りにできるマネー自体が消えてなくなってしまったということです。その証拠に、原油、穀物、不動産、証券、債券、世界中のあらゆるものの値段が08年9月を境に落ちている。マネーは逃げたのではなく、「蒸発」していったのです。つまり、いくら規制を取っ払って外資、つまりマネーを呼び込もうとしても、マネーはどこにもない。これが今回の危機の実相です。
▼私はかねてから、F(フーズ・食糧)、E(エネルギー)、C(ケア)の地域自給圏(アウタルキー)の形成を、ひとつの理想としてきました。もともと地元に豊かにあるものを、輸送エネルギーを使ってまで海外から運んでくるという社会は、どこか間違っている、歪んでいると感じます。

04.地域収支論から考える 
▼さて話は戻って、地域経済の基礎理論としての域際収支論を考えてみます。これは国際収支論の国内版です。ある地域を一つの国とみなしてその境界でモノ・ヒト・カネの出入りから地域経済のあり方を考えるものです。例えば、皆さんが住んでいる市町村を一つの国だとします。その地域の内外での輸出入という現象があります。実際は国ではないので「移出・移入」という言葉を使いますが、地方の市町村はたいてい「貿易赤字国」です。移入が多いのです。皆さんが毎日生活に使っているものの殆どは移入品ですね。自動車、家電製品、衣類から建材や加工食品の大部分まで、その町では生産しておらず、町の外から移入されたものがほとんどです。これに対し、地方の市町村から地域外へ移出できるのは、農産物、木材、水産物、とその加工品ぐらいしかありません。▼この域際収支の赤字額はどのくらいか。大きな工場のない地方の市町村の場合、人口1人当たり年間40万円前後でしょう。これは1990年代前半の十勝圏の所得推計調査からわかりました。北海道では2兆円の赤字国ですが、北海道の人口は500万人ですから、1人当たりではこれも40万円程度になります。そうすると、人口1万人の町は年間40億円の赤字国となります。

▼こんなに赤字があるのに、地方の経済はなぜ破綻しないのでしょうか。それは中央政府つまり国から地方へ回される財政資金、つまり地方交付税、国の各省庁の補助金、起債に対する優遇措置、社会保障などに関する所得移転などが、地方の赤字を補てんする仕組みになっているからです。細かくみれば国や県の直轄事業、中央機関からの融資、あるいは地域外に通勤している住民の給与、出稼ぎ収入や仕送り収入なども地域の赤字を補てんしています。▼しかし、日本経済が下降成長になり、国の予算はゼロあるいはマイナスシーリング、あるいは行財政改革で、市町村の赤字を埋める補てん機能も弱体化しました。その危機から「村おこし」が起きてきたのです。この域際収支の赤字を改善するには発展途上国と同じように、輸入(移入)を減らし輸出(移出)を増やすしかありません。何もしなければ若い世代を中心に人口がどんどん減少するわけです。日本国内には国境がありませんから、より豊かな地域つまり都市へ自由に移動し、地方の人口が減るわけです。

▼ということで、移出できるものを増やし外貨を稼ぐために、昭和50年代以降に「村おこし」や「一村一品運動」が展開されました。多くの農山村で味噌、漬物、焼酎といった村おこし御三家がつくられました。でも結果は「一損一貧」とでした。理由は二つあります。これは後ほど話します
▼ここでは「移入代替産業」を考えます。地域の赤字を改善するため、移入するものを地域で自給する産業を「移入代替産業」といいます。低開発国ではこの代替産業が盛んです。まだまだ伝統的な手工業が生き残っていて、近代的な輸入品なしでも済ませられる生活様式になっているわけです。
▼日本の市町村を想定した場合、この代替産業は農産物のほかさまざまな農産加工品が考えられます。先ほどの味噌、醤油、漬物、豆腐、納豆、こんにゃく、清酒、焼酎その他です。食品以外でも竹などの木工道道具、家具、染め織物製品などもあります。村おこしではこれらの製品を移出しようとしたわけで、そのような技術が農村を基盤とする地域には存在していたということになります。
▼ですから、こうした潜在的に自給可能なものが地域外からどれだけ移入されているのかの実態を調査し、その割合を減らすように代替産業を興していくことが、いきなり移出産業をめざす前にやることです。その際、移入されるものより安いとか新鮮であるとか、美味しいとか健康に良いとかの差異化をはからなければ移入品に太刀打ちできません。味付けを地域の好みに合わせることもできますね。そのあと、ゆくゆくは大都市の市場に出荷するということです。

▼ここでのポイントは、移出産業としては相手の嗜好に合わせることです。大分県のメザシ加工メーカーは、東京向けと関西向けとでは塩加減を変えているそうです。ですらから、よく「地元の人が美味しくないものは他の地域の人が美味しいと思うはずはない」いいますが、これは半分真理で半分は間違いです。▼移入代替産業には限界もあります。車や家電製品はムリですが、衣食住ならある程度可能です。例えば地域に洋服屋があれば生地は移入するとしても縫製加工賃の域外流出は防げます。また住宅産業は、地元の材木などを使い地元の大工や工務店が建築をすれば移入割合を小さくできます。グローバル化する経済に対してあまりに微力と思われるでしょうが、ここに地域づくりの重要なテーマが隠されています。それは、「衣食住にかかわる地域の生活様式を自前の技術で再建」するというテーマです。

▼だたし、世界の経済状況も知っておくことです。世界経済はいままでは欧米日の三極体制でしたが、これからは欧米中になります。中国の13億の人口、それは労働力であると同時に市場でもあります。商売のノウハウと豪華主義の美学をもつ国外の華僑・人民資本、それにアメリカの大学や研究機関でハイテク研究にたずさわっている中国人留学生や中国系アメリカ人が協力すれば、日本の工業や経済をさっと抜き去るでしょう。事実、日本の生活雑貨・電化製品のほとんどはメイド・イン・チャイナですね。そのことも踏まえて地域経済を組み立てることだと思います。

05.地域おこしの失敗と成功 
▼次は地域おこしの話ですが、一連の地域おこしの失敗した理由は二つあります。経済行為というのは「抜け駆け」の論理にもとづいています。地場開発産品は市場で競合しないもの、競合する場合は差異化することが、原則です。しかし、村おこしは住民みんなが納得するようなもの、あの味噌、漬物、焼酎の御三家です。平均的・常識的なものしか発想できず突出した商品を開発できませんでした。企業的なセンスを持った人とか、変わり者の住民とかが少数精鋭主義で商品企画してはじめて市場に対して訴求力のあるものができるのです。▼ですから、失敗の第一原因は、「住民総ぐるみで常識的商品」になってしまったことです。第二の理由は、「地域資源という供給サイドにこだわりすぎた」ことです。地域特性を生かしてという言葉のもとで、原材料調達に限界がありました。市場からの発想が抜け落ちてしまったのです。「供給側の地域特性より需要側の市場特性」が大事ということです。

▼それでは、成功のよく知られた二つの事例を紹介します。北海道の池田町と大分県の大山町です。耳にタコができるほど聞いたでしょうが、これはいまだに東の横綱、西の横綱です。▼池田町の話はこうです。いまから40年以上前、冷害に脅かされ続けていたこの町の町長になった丸谷金保さんは、町内の山野に自生していた山ブドウに注目します。調べてみるとこれは旧ソ連でアムレンシス系と呼ばれるブドウでした。それなら普通のブドウも栽培できるのではないかと考えて山梨県からブドウの苗を取り寄せて栽培を始めました。何度も失敗しましたがそのうち成功し、はじめ考えていた生食用つまり果物としてではなく、ワインをつくろうという風に発展して、十勝ワインが生まれたのです。▼大山町の話も似ています。農協の組合長であった八幡治美さんは、大山町のような山間の土地はコメで勝負しても平野部の農村にかなわないと見切りをつけ、ウメとクリによる農業再建を企図して「ウメクリ植えてハワイへ行こう」と農民に訴えました。栽培に適した品種を町外から導入します。それがここの特産品となり、農民がハワイへ行けるようになったのです。

▼いずれも特産品の「開発のヒントは地域内部にありましたが、資源は外から」です。また、技術がなければ外の地域から導入し住民が学べばよいのです。こうなると特産品開発はとても自由な発想で開発できると思いませんか。地域は外からの人材や資源を持ち込んで、その土地の歴史が進んできた結果が、今日なのです。そうでなかったら縄文時代のままでしょう(※北海道は縄文時代→続縄文(弥生×)→擦文→アイヌ文化→明治)。一般的に言って、過疎地域であればあるほど、地域に「あるもの」より「ないもの」の方が多いですね。わずかの「あるもの」にしがみついて心中するより、「ないもの」を思い切って取り入れる方が容易で成功しやすいのです。▼脇道にそれますが、地域づくりの言語として「ふれあい」「うるおい」「ふるさと」「ロマン」がありますね。よく計画や看板にもパンフにも刷り込まれています。この四語は思考停止言語です。ああ、いい表現と思い、それ以上つき詰めなくなり、どうでもよくなります。これを使わないで、地域を表現することです。

06.産業別デザイン・農業 
▼次は、地域経済を部門別に考えます。まず「農業」からです。日本の農業を守るということは、国内自給率を高めることなのか、農民の所得向上なのか、国土保全としての農地保全なのか、などの議論をしなくてはいけませんが、ここでは国土保全の面を強調したいと思います。▼それと既に故人になりました木呂子敏彦さんの考えを皆さんに伝えます。木呂子さんは戦争直後、民選時代に北海道の教育委員になり、のちに帯広市の助役も勤めましたが、戦後一貫して北海道の土づくりに取り組んできました。移動大学という名で道内の青年を連れて全国の先進的な農村や農場を見学させ、木呂子さんが農業の基本であると信じている「土づくり」を学ばせる運動をしてきました。移動大学の卒業生は8千人に及びます。▼木呂子さんによりますと、「農業は土づくりが基本」といいます。これからいちばん大事なことは地球上の土の生産力が保たれることです。土の中にはバクテリアなどの微生物がいっぱい生きていて、これがさまざまな食物連鎖を介して農産物を生育させます。地表でもっともよい土は、天然の雑木林など森林の土だそうです。森林は肥料をやらなくても自前で再生産します。いまから120年前に十勝地方に開拓団が入植し森林を伐採して畑に変えたとき最初の三年間は、いま十勝で改良された品種を使い化学肥料を加えてつくっているのと同じ反収のジャガイモの生産量があったそうです。それくらい森林の土地生産性は高いわけです。日本列島で何千年も続けられてきた焼畑農業はこの原理を生かした農法だったのです。農業のための土のモデルとしても森林を保護すべきことがこれでわかります。また、水田稲作という農業は毎年同じ作物であるコメを作っているのに連作障害が起きません。これは有機物やミネラルをたっぷり含んだ栄養価の高い水が川や水路を通って上流の森林から常時供給されるからです。漁民たちも今は森を大事にしていますね。

▼農業政策については、長期的には環境を重視する方向がいいと思います。「土」自体がもつ生産力を高めることにより、農薬や化学肥料をできるだけ使わない農法、つまり「健康な農業」を全国で広げることが課題です。こう考えると、大規模で粗放な農業より零細で集約的な農業がよいことになります。市民農園などを含め自家用の農産物を作る農業です。これは中核農業に土地を集めて大規模化し国際競争力をもった農業を育成するという国の方針とは逆の方向です。国の方向も理解はできますが、片や零細農家・兼業農家を良い方向に育成していくことがとても大事です。収穫したもののうち自家用の部分を差し引いて残りを販売に回すというような農業です。その部分を健康な農業にしていくのです。その地域の非農家や都市住民には、有機農産物や低農薬の農産物を欲しがりますから、やや高額な農産物でもビジネスとしての可能性は大きいのです。そのような農家と消費者を結ぶ流通経路を、農協や行政は手を貸すべきです。

▼農業の話のついでに、農村リゾートの可能性を考えてみましょう。2回目のときフランスの事例を紹介しましたので、今回は。ドイツの例を引きます。ドイツでは年間労働時間が1600時間で、世界でもっとも余暇の多い国です。長期休暇が季節に分けて年間6週間ぐらいあり、農家民宿に2週間滞在といった「農村で休暇」制度があります。例えばこんな風です。ヘッセン州のある農家では2階を客室に改造しました。1組しか泊まれない規模ですが、主人がこれからミルクを売りに行くから車に乗れといって、町のレストランまで連れていきます。農家民宿に滞在するドイツ人家族は、農家の手伝いをしたり森を散策したりして毎日を過ごすのだそうです。村では夏のシーズンに都市から演奏家を呼んできて小さなコンサートを開いたりしています。別の農家民宿では、2階に5室の客室をもち、中年主婦が1人で切り盛りしています。村には居酒屋を兼ねたレストランがありますから、昼食や夕食はそこで食べます。だから主婦1人でもできるわけです。料金は1泊朝食付きで1人2、3千円程度だそうです。▼欧州の農村景観は、広い牧場とかブドウ畑とかの向こうに、それを包みこむような森林が見えます。森があってこそ農村が成り立つのです。日本の農村は裏山が杉林か、北海道ならカラマツ、あるいはハゲ山ですね。本来の雑木林に戻したいものです。ドイツでは「私たちの村を美しくしよう」という運動が展開され、そのコンクールさえあります。昔のままの保存されていたわけではなかったのです。私もシュバルツ・バルト(ドイツの黒い森)のキュルシュ酒(果樹酒)でよく知られた小さな村を訪れたことがあります。山あいの美しい村でした。名前は失念しましたが。▼ドイツでも、イギリスでも都市住民が余暇にやってくるだけでなく、農村から都市に通勤する人もかなり多いのです。農村が住環境としても素晴らしいからです。

07.産業別デザイン・工業 
▼つぎは、地域における工業の振興、特に技術移転をねらった企業誘致政策について少しだけ話しておきます。市町村の工業開発とか工業振興とかの施策はこれまで、伝統的・手工業的な地場産業がある場合はその振興策が、そうでない場合は地域外からの工場誘致が主たる課題でした。昭和40年代以降、地方への工場誘致のために適地の指定や工業団地の造成、誘致運動や用地の斡旋などの施策が行政によって行われてきました。そうした場合、公害の恐れさえなければ工業の内容や業種などについては総じて無関心で、もっぱら地域にたいする雇用効果、所得効果、税収効果などを期待していたわけです。▼これからは、地方の小さな自治体でも、どんな内容の工業を導入し育成していくかを考えるべきです。その際、重要なポイントは、新しい工場が立地することによって従業員となる住民が何らかの生産技術を習得できるという視点をもつことです。地域外から地域内への技術移転(テクノロジー・トランスファー)をねらうのです。

▼地方で工業生産技術が蓄積されてきたのは、何といっても長野県の諏訪地域です。ここでは戦前は製紙・紡績など繊維工業が集積していましたが、戦後これが斜陽化すると、空気がきれいであるというような理由から時計などの精密機械工業に置きかわりました。時計にエレクトロニクスが組み込まれるようになって高度な電子技術が導入され、小型テレビや液晶製品を製造する先進地域となりました。セイコーエプソンなど全国的なメーカーがあります。技術を住民が獲得した、つまり地域に技術が根づいたといえます。それと、静岡県の浜松周辺も独創的な工業技術を蓄積し世界的な企業を生み出しています。ホンダ、ヤマハ、カワイそれにトヨタもここが発祥地です。
▼地方自治体は、大企業の工場の誘致が最大目標であるといった従来の考えから脱して、Uターン者を含む住民がどんな技術をもっているかを調査したり、地域の技術蓄積を目的にした工業導入をねらうなど、新しい視点からの工業振興が大事です。もっとも、これからは狭い意味での工業誘致だけでなく、研究所やソフトハウスなど頭脳労働型の地方への進出もありますから、ハードな生産技術だけでなく経営・情報・研究などソフトな技術も含めた技術の移転・蓄積をするということです。

08.産業別デザイン・商業 
▼さて次は、商業の問題に入ります。大都市では新しい商店や飲食店が次々と生まれていますから商業は産業の中でいちばん自由度が大きい分野だと思われていますが、地方の古くからある中心商店街はそのほとんどが衰退に向かっています。農業化しているのです。というのはまず兼業商家が増えています。主人はサラリーマンでおかみさんが店を任され、しかも高齢化し後継ぎもいない。後継ぎはいても嫁さんが来ない。地域の商業は農業と同じように行政の保護の対象になりつつあります。商業近代化事業など国が助成する制度がありますから、ますます行政の保護下に入ってしまい、商店主の中には行政の人たちに「お客を連れてきてくれ」と頼む人さえいるのです。ホントですよ。▼しかし、商業は農業とは違っています。農業は客が来るところで行う必要がありませが、商店は客が来なければ成り立ちません。地方の中心商店街が衰退している原因として誰もがあげるのが自動車に不便だからというものです。しかしですね、農業は農地を移転させることはできませんが、商業なら客の来るところに移転できます。ですから、もし交通が不便であることが不振の原因なら、自動車に便利な街道沿いとか郊外に店を移せばよいわけですが、そうする元気もない。

▼20年前ですと大型量販店が既存商店とって脅威でしたが、いまは実にさまざまな種類の店が次々と現れています。簡単に飲食できるファーストフード店、持ち帰り料理のテイクアウト店、現代のよろず屋コンビニエンス店、自動販売機を集めた無人店舗、日曜大工のDIY店、特定業種のディスカウント店、売れ残ったブランド品を安く売るアウトレット店などの花盛りで、これらは郊外の街道沿いに立地するロードサイド店が多いといえます。それに書店、AV店、ビデオレンタル、パチンコ店まで郊外型・街道型になっています。▼地方の中心商店街はこうした新しい業態をもった商店の出現に危機感を募らせていますが、業態の違いが新しい立地を必要とし新しい客層を開拓していることには気づかず、あちらは自動車利用が便利だという点しか見えないんですね。郊外立地の商店の多くは、全国展開のチェーン店なども含め、その町の既存の商業者とは別の新規参入者による開業がほとんどです。

▼そのようなわけで、地方の中心商店街はどこでも公共による道路拡幅と駐車場整備を強く求めています。近くに人が集まる公園・広場をという要望も加わります。しかし道路拡幅は店が削られますし、店舗の改装も必要になります。そうすると、そうしてもよい商店主もいれば、後継者のいない商家などは新しい投資はしたくないということになり、にっちもさっちもいかないのが現状です。▼ですから、集団としての商店街の整備という行政施策は破綻したといえます。もうやめた方がいいわけです。これからは、農業政策と同じく「中核商家」の育成です。事実、自動車利用客には不便なのに繁盛している店も結構あります。飲食店や喫茶店の類に多くみられますが、飲食店は商品である料理がその店にしかないものですから、それを食べたい人は歩いてでもやってきます。モノを売る店でも、その店固有の商品とか品揃えとか情報提供のサービスをして客を集めているわけです。▼地元にも事例がありますから、調べてみてください。中札内村の高台にレストラン「百鬼」、市内の「らーめん美鈴」なんかもそうですね。

▼また、住民は安さと便利さだけを動機で買い物をするのではありません。あたりまえのことですが、ちょっといいもの、気に入ったものがあれば買うのです。そのことを古い商店街の人たちはコロッと忘れているかもしれません。▼地方でも専門店の気の利いた小さな店、店主や店員に見識と個性があって客を識別してくれるような店に人気が出てきます。それは郊外店より中心商店街の方がふさわしいと考えられます。そういった店がポツリポツリと出始めやがて集積していくように、商店街活性化ビジョンを作って欲しいのです。

▼買い物空間はおおらか空間ですし、そのうちでも「屋台」は魅力ある小売業の一つの業態です。屋台は九州の福岡あたりまでを含めて、東アジア、東南アジアが本場だろうと思います。屋台街の面白いところは、昼間は何もない路上に夜になると花が咲いたように小さな仮設店舗が無数に現れることですね。業種としては飲食関係が多いのですが、衣料品、お土産品や骨董品、怪しげなブランド物、そうしたことも含め屋台街にはデタラメサとアナーキーさを飲み込んだような活力が感じられます。台湾・中国に魅力的な屋台街があります。中国では朝ご飯をそこに食べに行くと聞きましたが。▼皆さんは、帯広の「北の屋台」を体験しましたか。どうでした? ▼イスラム圏ではバザール(ペルシャ語)とかスーク(アラビア語)と呼ばれる市場、商店街、露店街がみられます。テレビでもよくみかけますね。▼カナダのエドモントン市のウェスト・エドモントン・モールは世界最大のショッピング・センターですが、造波プールなどのアミューズメントを組み込んだ現代感覚の商業空間でした。日比谷公園3個分を有するモール内には、ベイやイートンズなどのデパートをはじめ、900棟以上のショップやレストラン、そして、カジノや映画館、ホテルもある。世界一の屋内遊園地のギャラクシーランド、屋内プールのワールド・ウォーターパーク、人口湖を潜水艦で回る深海アドベンチャー、一年中アイススケートとが楽しめるアイス・パレス Ice Palace 、バンドウイルカのショーがみられるドルフィン・ラグーン Dolphin Lagoon などアトラクションも充実している。何でも揃っています。とても全部見切れませんでした。▼アメリカではサンフランシスコのフィッシャマンズ・ワーフ(漁師桟橋)が有名ですね。これは釧路でも再現しましたが、いまはどうでしょうか。

▼このように商業空間は地球上、人々の住む場所に普遍的に分布し、人々が集まってくること自体が目的であるかのように「人が集まる空間」として機能しています。ですからモノを安く早く便利に買おうというような単細胞的な動機はどうでもいいという気持ちになりませんか。地球上の商業空間はとてもおおらかな人々の交流の場ですね。そのあたりに、これから日本の商店街を元気づける大事なヒントがあると考えてよいでしょう。

09.産業別デザイン・観光 
▼日本では観光は成り立たないのだろうか、ということで、次は観光産業の話です。まず初めに需要側、つまり観光に出かける人について考えます。これまでの観光の歩みといいますか、観光の流れを見てみます。

▼戦後の日本人の観光は、昭和20年代、30年代の観光は職場などの男性中心の団体旅行が大部分で、温泉と名勝をセットにして選ばれました。温泉街はもちろん男性本位でそれにふさわしいアトラクションもありました。いまでもありますけどね。また、日本三景など景色のよいところなど相場が決まっていました。そのころは温泉も含めた自然資源が主な観光対象であったわけです。修学旅行やお年寄りは京都や奈良、伊勢などの神社仏閣が主なところです。
▼昭和40年代に観光は大きく変わりました。当時の国鉄が「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを張って、鉄道で行ける新しい観光地を浮かび上がらせました。▼あの、山口百恵の「いい日旅立ち」というわけです。この頃は飛騨高山、倉敷、津和野など地方の城下町や天領だったところ、つまり自然資源に代わって「町」が観光対象になりました。歌ばかり紹介しますが、小柳ルミ子の「わたしの城下町」という歌も流行りました。そしてアンノン族と呼ばれる若い女性が観光の主役として登場し、中年女性や高齢者のグループも同じようなところに行くようになりました。
▼昭和50年代も若い女性が日本の観光をリードです。軽井沢や清里など、今いうところの高原リゾートが脚光を浴びるようになり、高原地帯でテニスやサイクリングをするのがナウいということになったのです。もちろん、若い男たちもその後を追っかけます。他方、中年男性たちはゴルフ旅行をするようになりました。リゾート・ブームの前夜です。これらの現象は突出した部分で、量的にはあいかわらず団体旅行が観光の主要部分を占めておりました。今も変わっていませんが。
▼昭和60年代に入ると、リゾート法などができ日本列島はリゾート開発に向かいます。しかし大資本によって開発されたリゾートは、家族で滞在するにはコストがかかりすぎました。それに、日本人は自然の中で一日静かに過ごすような生活様式を身につけていないこともわかりました。別荘地に来る人は、別荘は夜の宿泊用で昼間はゴルフかテニスかドライブか、とにかく何か活動していないと退屈でしょうがないんです。じっとしていれば安く済むのに、とにかくいろいろ遊びをするから高くつくことになります。▼フランスのバカンスは、ただご飯を食べて本を読んで、すこし遊んで寝るだけ。これを2週間から1カ月ですからね。皆さんはこんな風にできますか。

▼団体客には職場団体、地域団体、趣味同好会やクラブ、地方議会議員団体などありますが、年1、2回みんなでどこかへ行くことが事前に決まっていて、では今年はここにという話になります。どこの何を見たいという動機ではないんですね。ですから本来の意味の観光は付け足しで、「みんなで旅することが最大の楽しみ」であり、バスの中でカラオケ、夜は宴会でまたカラオケ、とこうなるわけです。こういう動機で旅行する人が、旅先の土地やそこに住む人に敬意や共感や愛情をもって接することはありませんね。▼そのような意味で、日本人には観光を成り立たせる需要側の契機がないと思います。もちろん本当の意味で全国のよいものを見て歩く人たちはいるわけですが、少数でしょう。それなのに自治体の観光振興は、観光バスが次々とやってくるようなイメージでプランを立てるのです。

▼供給側にも観光を成り立たせる契機がありません。地域の宝ものが自然資源だと、こうなります。北海道の層雲峡とアメリカのグランド・キャニオンとでは、また日光の華厳の滝とナイアガラの滝とでは、すごさが違います。日本人の海外旅行は年間1千万人以上が渡航している時もありました。海外のすごいところを知っていますから、まあ、テレビで知っている人もいますが、その意味では、行き先がどこでもよい団体旅行は筋が通っています。というわけで、日本にはたいした観光資源はないと断言できます。外国人が一番喜ぶのは東京・秋葉原の電気街なんですね。あとは隠れた観光資源としては、吉野ヶ里遺跡のようなものはありますが。

▼さてそろそろ本題に入ります。「ビジネスとして成り立つ観光開発の条件は何か」に絞りましょう。これからは地方自治体が産業政策や地域活性化策として観光開発は考えない方がいいですね。日本には観光を成り立たせる供給側、需要側の契機がなく、行政が公共的に観光開発する論拠をみつけることができません。そのかわり住民のための文化事業や教育事業として博物館を建てるか、現存の施設をさらに拡充したりして、その結果として地域外の人々にも注目の観光施設として機能するようになったということなら歓迎です。▼そこでもう一歩進んで、地域の過去の文化をきちんと整理したら、地域の未来のために新たに導入すべき文化を探るのです。そうすると、これまでの地域とはおよそ関係のないような内容の博物館を建てることになるかもしれません。どうせ地域外の資源を使った施設をつくるなら日本の他の地域にないような斬新な内容の、しかも研究専門の学芸員がいるような本格的な博物館にするといいですね。そうするとこれは小さくとも質的には国レベルの価値をもつ博物館となり、全国から大勢見学に来て、やがてその町にレストランや喫茶店や民宿が住民のビジネスとして成り立つようになるかもしれません。

▼次に、民間つまり地域住民や企業が観光開発する場合のノウハウについてです。観光客が観光地でお金を落とす原理は四つです。「ねる」「くう」「かう」「はらう」です。▼そのうち「ねる」がもっとも効果があります。宿泊すれば飲食も伴いますから1人1万円の桁のお金が地元に落ちます。とにかく客を泊めることを優先した開発をすることです。あとは今の子供や若者は個室でベッドです。若者とくに若い女性に来てほしかったら、ペンションを少し大きくしたようなプチ・ホテルでよいですから、ベッドと洋式便器つきの浴室を持つ客室がある宿泊施設を設けることです。▼「かう」については、日本人は観光旅行で特別に買物が好きな民族です。新潟県の寺泊町の漁家が街道沿いで始めた魚屋街ですが、観光バスやマイカーが次から次へとやってきます。初めは三軒で安売り合戦を始めたのですが、やがて10軒になり年間売り上げが100億円を超えるようになりました。この成功の秘密は、地元でとれる魚にこだわらなかったからです。ここでは三陸海岸のイキのよい魚まで売っています。▼地元資源から発想するから失敗することは前にも話しました。成功事例のすべては、地元資源からの発想ではないことを再度確認しておきます。

▼観光を産業やビジネスの問題だけで捉えるのは、もったいないと感じます。ある土地の人が別の土地の人と出会うことに最上の楽しみがあるような、そんな観光を考えるといいでしょう。以上、地域経済のデザインについて話しましたが、最後に日本全国の動きを少しだけ紹介して終わります。

10.地域経済と人材蓄積(講義5再掲) 
▼ここでは、地域経済にとってヒントいっぱいのボローニヤ方式を紹介します。博物館と職業教育と人材蓄積が、三位一体になっている見事さがあります。『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)からです。▼人口38万人のボローニヤには、たくさんのミュゼオがあります。ミュゼオとは、美術館や博物館や陳列館のことをいいますが、それが市内に三十七もあります。ついでですから、ほかの施設の数もあげておくと、映画館が五十、劇場が四十一、そして図書館が七十三です。さて、この三十七のミュゼオは、どれをとっても第一級で、半端なものは一つもありませんが、ここの産業博物館は、その独特なおもしろさにおいてほかに類をみないもののように思いました。そしてこの産業博物館は、使われなくなった煉瓦工場が使われていますが、徹底的に改造され、まったく新しく蘇って、底光りするような頼もしい建物になっています。▼それとこの博物館には三つの原則があります。一つは、展示は二カ月ごとに変えること。これは工業専門学校の生徒たちが、授業の一環としてやっている。なにをどう展示するかは、デザイン科の生徒たちがいつも知恵を絞っているので、お金はそれほどかかりません。ボローニヤには、イタリア最初のアルディーニ・ヴァレリアーニ工業専門学校があります。設立は1844年ですから歴史は古い。もっというとこの産業博物館そのものがこの学校の付属施設なのです。▼博物館の第二の原則は、ここの展示はほとんどが動くというものです。例えば、「シルク都市時代のボローニヤ市街」という、十五、六世紀ころの惚れ惚れするほど精密精巧につくられたミニチュアの模型があります。アペニン山脈の麓のなだらかな斜面に旧市街が広がり、遠くにポー川の支流のレノ川が流れているのが見える。まるで五百メートル上空に浮かんだ気球から眺め下ろしているようです。赤いボタンを押すと、軽い機械音とともに、街全体がぐんぐん上にあがっていき、その下から街の地下一階の模型がゆっくり迫(せり)上がってくる。そのころ、大抵の家の地下に紡績機がありました。つまり地下一階が小さな紡績工場になっていたのです。赤いボタンをもう一度押すと、すると、またもや街全体の地下一階が持ち上がって、その下から地下二階のミニチュア模型が迫上がってきました。その地下二階はまるで運河の網の目模様でした。遠くのレノ川から導かれてきた青い水が、街の下を右へ左へと巡りながら建物の地下を通り抜け、やがてレノ川下流へ流れ込む様子が手に取るように分かるのです。レノ川の水を導いて得た動力のおかげで、ここは世界一の絹の産地になりました。そしてボローニヤの絹はベネチアへ運ばれ、全ヨーロッパに輸出されたのです。さてこの展示館では、まだ見ごたえのある展示があります。ここの二階と三階をぶち抜いて、当時の紡績機が陳列されていました。上から下まで木で精巧に作られていて、赤いボタンを押すと、木琴でも奏でているような、気持ちの良い音を出しながら回り始めました。大小何千個もの木製部品が、大中小の歯車で調整されながら各自さまざまな速さで動いて、何千本という糸を見る見る紡いでいきます。見事なものです。地下を走る運河の網の目模様と、この紡績機を見るだけでも、成田・ボローニヤ間の航空運賃を払う値打ちがあります。この博物館はいきいきと生きていました。▼博物館の第三の原則は、この博物館がこの専門学校の卒業生の同窓会館の役割を果たすということです。ここの卒業生のほとんどが地元の職人企業に就職しますが、彼らは足繁くここに通って、たがいに親睦をはかったり情報を交換しあったりしています。こうして産業博物館を中心に分厚くて親密で巨大な情報網が形成されていることになる。同時にこの学校は技術研究所でもありますから、卒業生を対象にした集中講義が初中終(しょっちゅう)行われています。つまり、ボローニヤの職人たちは生涯ここで勉強するわけです。そしてその中心になっているのが、この産業博物館なのです。▼ここで少し注釈を加えると、職人企業とは、製造業では従業員が二十二名以下、伝統産業では四十名以下の、小さな企業のことです。ここで働いてやがて熟練工になると、いつでも独立できます。

▼シルク都市時代からの技術の集積、熟練工たちの巨大な情報網、職人を大切にしようという意思、そして生まれた土地で育ち、学び、結婚し、子供を育て、孫の顔を見ながら安らかに死ぬのが一番の幸せという生き方、そういったこの土地の精霊がボローニヤに、フェラーリといった高性能自動車や、ドゥカーティといったものすごいオートバイを生み出したのです。ちなみにセリエAのサッカーチーム「ボローニヤ」を財政的に支えているのも、この産業博物館を中心とする職人企業のネットワークだそうです。▼そして今、ボローニヤは世界の包装機械の中心地になっておリ、パッケイージングバレーと呼ばれています。ティーバッグと薬品の充填包装システム機械では世界一のIMA社を訪問し話を聞くと、この会社は1924年に設立されたACMAというチョコレートの「包装機械メーカーがあって、それがIMA社の母会社となそうです。戦後1947年にあの工業専門学校を卒業したロマニョーリという青年がここで熱心に仕事をして熟練工となり、1961年に母会社から独立し、IMA社を設立した。この時に大切なことは、「母会社の技術を持ち出すことは許されるのですが、母会社と同じものを作ってはいけない」ということです。ですから、チョコレートの自動包装機械の技術をもとに、自動ティーバッグ包装システムを開発し、つづいて自動薬品充填システムを完成して、世界市場を制覇したわけです。もちろん、買い手の工場に機械を納めたら、それでおしまいというのではなく、しばらくの間、機械と一緒に暮らします。そして買い手の要望を聞きながら、機械の微調整を行います。買い手側の技術者がその機会を完全に使いこなせるまで、その地に留まっているのです。▼このように母会社のACMAから包装機械作りのノウハウを持って分かれて行った企業は、戦後から現在までに、五十社以上にも及んでいるそうです。そして、この五十の包装機械企業のネットワークを、部品を供給する三百社が取り巻き、ボローニャに包装機械についてのありとあらゆる技術を集積させている。こうなったら強い。パッケイージングバレーといわれる所以です。▼IMA社では日本茶の自動ティーバッグも作っているそうです。注文主は伊藤園だそうです。日本人の舌は敏感で、最初はリプトン紅茶などと同じに、ティーバッグをホッチキスで止めていましたが、どうも金気を嫌うことが分かりました。そこで糸を使うことにしたわけですが、これが技術的にむずかしい。ティーバッグの口を糸で結わえる装置を考え出すのに三年かかりました。それでもこれが好評で、いまではリプトン紅茶などもこのやり方です。つまり日本人の敏感な舌が、世界の紅茶バッグの味を向上させたわけです。▼こうして、ボローニヤの地域産業が生まれ育ってきました。ここには貰えるヒントがたくさんありますし、その流れが感動的です。

11.地域経済の最近の動き 

(1)葉っぱを商品にお年寄りが一千万円も稼ぐ町(徳島県上勝町)
〈清流に恵まれた上勝町〉
標高700mに位置する過疎の町で、たった一人の農協職員が起こした奇跡の町興し。地元で採れる葉っぱを、料亭の料理に添えるツマ物として出荷することで、お年寄りの仕事を生み、地域の意識を元気にしていった。この町興しは住民意識と農協職員のぶつかり合いが始まりだった。
地元の人たちの、「どうせ自分らの町はつまらん」という住民意識と戦い、苦労の末に葉っぱビジネスを成功させると、地元の人たちの意識が前向きに変わっていった。高齢者がパソコンを駆使して市場動向を睨み、収穫する葉っぱを選定する姿は、仕事という生きがいがあれば介護の必要がないことを証明している。

(2)商社勤めのUターン経営者が家具産業を復活(福岡県大川市)
〈神棚と世界時計の微妙なバランス〉
400年以上の家具つくりの歴史がある街で、家具工場を経営する父親を見て育った境さんは、大学卒業後は家業を継がずに商社マンとして活躍していたが、心機一転してUターン。厳しい経営環境の建て直しに商社で積んだノウハウを生かし始めた。
東南アジアの工場に自社の職人を派遣して、日本向け家具作りの指導を行い、そこで製造して輸入した家具を大川市内の家具流通システムに乗せて国内販売に向けた。しかし自社の工場でも製造は行い、家具作りの技術を維持している。境さんの地方論は、地方の町は大都会を模倣するのでなく、海外の地方都市と姉妹関係を結んで交流し、国際化を進めることで個性ある街づくりを推奨している。境木工の事務室には神棚があるが、その横に、それぞれ示す時間の違う掛け時計が3つ並んでいる。海外の取引先の現地時間を知るためのものだった。

(3)脱公害と環境技術の開発が進む(三重県四日市市)
〈燃料電池の耐久性試験装置〉三重県工業試験場
戦前の海軍燃料基地から一転して、戦後は重化学工業が集積するコンビナートとして栄えたが、関連企業が使う資源のエチレン製造が中止されることになった。従来の規制を特区の活用で撤廃運用して産業の活性化を進めた。この発想が三重県の企業誘致ノウハウになって液晶テレビの生産地にもなっていった。三重県出身で地元大学に招聘された電機メーカーの副社長、霞ヶ関から出向してきたキャリア官僚、それに県庁マンの三者がチームとなって走り出す。

(4)農業+加工+流通=6次産業を推進(島根県桜江町)
〈桑のハーブ茶農業を創設した古野さん〉
明治から昭和40年代にかけて養蚕業で栄えたが、安価な中国産生糸の輸入を受けて廃業に追い込まれ、過疎化の影響もあって、荒れた桑畑の再生に苦慮していた。野菜畑に開墾する土木費用が膨大で、町の財政ではどうにもならない。その一方で荒れ続ける桑畑。古野さんは、人生二毛作の後半を過ごそうと、自然が豊かな桜江町にやってきた。町役場の鎌瀬課長と親しくなった古野さんは、地元の人が愛着を持つ桑畑の再生を、ハーブティーで思いつく。健康ブームにも後押しされて桜江町の桑茶は直ぐに売れ出した。
桑のハーブ茶が売れ出すと、その売上げで桑畑の再生が進み、公共事業の減少に悩む建設の会社も農業に参入するようになり、町全体が活性してきた。Iターン者の新しい視点で町の再生ができた。

(5)一人の市民による観光都市の再生
〈地元FM局で映画の魅力を語る安元さん〉
鎖国時代の坂本竜馬や伊藤博文に海外視察の機会を与え、明治維新に影響を与えたシーボルトが住んだ長崎は日本の幕開けの街だった。さらにキリスト教の歴史と原爆被爆地という戦争遺産も併せ持つ観光都市であったが、最近は観光客が急減しており、ランタン祭りや長崎おくんち祭りの外は、小学生の修学旅行が目に付く程度になっている。長崎港の一角に、世界最大の豪華客船も建造する造船所がある。その職場を定年まで勤めた安元さんは生粋の長崎人である。地元のFM局で映画の魅力を語りながら、商店街に隣接した映画館での映画祭を4年続けている。最近は離島での芸術体験型観光の開発や、軍艦島などの産業施設を見ながら歴史を学ぶ、新しい観光スタイルを模索している。
長崎は、いろんな歴史と遺産を備えた観光都市だが、芸術文化を市民生活に浸透させることで地域を知的に活性し、新しい観光客を誘いたいと考えている。

以上で、地域経済のデザインを終えます。

12.資料編 
▼書籍資料/村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬舎)。
▼写真資料/「北の屋台」(帯広)。

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