01.耳と目で町づくり
内容
1.いい町に住みたい... 1
2.耳が感じる町... 2
3.地域を変えるカルテ... 6
4.Q型人間のために... 7
5.日本文化と町づくり... 9
6.茶の湯と静寂... 10
7.能楽と引き算... 12
8.地域づくり・三つの満足... 13
9.資料編... 14
1.いい町に住みたい
▼それでは町づくりの話を始めます。まずは、私たち人間が生物として持ち合わせている耳と目、この感覚器官から町を観察してみることにします。と、その前にオサライをしておきましょう。まちづくりとか、地域づくりという言葉はよく聞くと思います。この何々づくりという動きが出てきたのは、まだ経済が成長している1970年代でした。それまでは、町づくりではなく、地方の行政執行というイメージが強いものでした。事実、国の下請け機関としての法解釈とその行政運用ばかりでした。福祉などもそれは国から与える給付行政なのだと言っていました。何といまでもアノ「定額給付金」ですからね。このように地方自治体の行政は、国の下請け機関としての色彩を色濃く残しています。大学でさえも地域政策学関連の講義ではまだ地方自治法を中心とする法律とその運用の話ばかりなのです。で、そんな中でありましたが、経済学者の日下公人さんからは膝を打つような話を教えてもらいました。あのロシアのレニングラード、いまのサンクトペテロブルグご存じですね。エルミタージュ美術館で知られているこの町は、地元の人たちがレンガを一人一個ずつ持ち寄って作り上げて、今があるのだと云うのです。本当のところは調べていませんが、いい物語だと思いました。多分まちづくりの基本みたいなものがあるな、と直感しました。市民が参加して創り上げる町ということで、です。大げさかもしれませんが、市民と町づくりというテーマは20世紀もそうでしたが、今世紀も続いているということを分かってください。
▼ということで、どうせ住むなら自分の住む町を「いい町」にしたいですよね。作家の嵐山光三郎さんは、いつも、いい町に旅したい。できることなら、いい町に住みたい。と思っているそうです。そこで、「よい町の十の条件」を挙げていました。①川が流れる町、②町並みが美しい町、③祭りがある町、④長老がいる町、⑤若手が長老を立てて活発に活動している町、⑥おばさんが元気な町(おばさんは町のジュンカツ油である)、⑦酒と料理がうまい町、⑧上等の蕎麦屋と宿のある町、⑨豆腐がある町、⑩古都。なんだそうです。ということになると、私が知っている範囲では、岐阜県の郡上八幡とか青森県弘前市なんかはすべて揃っていそうで、いい町なんだろうと思います。北海道なら函館市や小樽市などもいい線いきそうです。豆腐と蕎麦がうまい町だけというなら、この十勝の町や村も当てはまりますが、五十点以上はどうでしょうか、難しいかも知れません。だからこそ町づくりを、といった意欲がかつて各地にみられました。でも今は下火傾向です。町づくりにも浮き沈みがあります。しかし町づくりはハヤリ・スタレの問題ではなく、古代から今まで、地球と地域のテーマであり続けてきたのです。
▼とは言っても、町づくりとか地域づくりは、戦後50年間の経験と学問ですから、なにせ日が浅く蓄積に乏しい。ですから、経験したことを組み立て、やり直し、外国の事例も参考にして、取りくんできました。こういうことですから、英国のJ.Sミルいうところの「経験なくして理論なし」ということで経験・体験を積み重ねてきました。理論ではなく、まず経験です。イギリスの経験論を日本で追体験・追経験していくことになる訳です。ここまではよろしいですか。
2.耳が感じる町
▼ということで、今日これまで地域政策ないし都市政策を、どんな人がどう考えてきたのかを主軸に、私の経験を多少つけ加えて、皆さんに町づくりに関する先輩たちの言い分をお伝えします。まずは、まちづくりの「これまで」と「これから」です。その一番初めに耳と目から感じる感覚的まちづくり論を話してみます。特にこのことは日本人の特性に強くかかわっていると思います。町づくりと日本文化は、コインのウラ・オモテの関係になります。
noise / 耳→ sound → soundscape
目→ vision → landscape
▼まずは、皆さんの耳が感じる町のことから話します。地域の音環境「sound」のことです。身近なところからですとデパートのエスカレータや、あるいは空港などの動く歩道では「足元に気をつけて、黄色い線の内側に乗って、小さいお子様は手を引いて」というアナウンスが延々と繰り返される。これは池澤夏樹さん(帯広にゆかり作家・詩人、朝日新聞091004付)が新聞で指摘していました。最近その音量は小さくなりつつありますが、相変わらずです。空港や駅の公共空間でも、エスレーターがあるところは、乗る人が居ようが居まいがお構いなし。町には外国人がめだつようになってきても相も変わらず日本語だけでアナウンスしています。これは外国人抜きの日本人だけが過保護で、幼児的、ということになりませんか。これはマズイです。
▼さて、日本の伝統音楽とくに能楽や邦楽などの古典音楽の特徴はといえば、「間」つまり「静寂」にあります。鼓がパーンと鳴ったあと音が減衰し、そこに無限と思われる静寂の空間が現れる。これが日本音楽の最大の魅力なわけです。このような日本人の音感を現代音楽に取り入れたのが、海外でも高い評価を得ている作曲家・武満徹ですね、聴いたことありますか。あっ、こういう例もあります。武家屋敷の塀の上に丸い小石を並べる。これは「こぼれ石」といって、賊が塀を乗り越えようとすると小石が転がり落ちて、その音で家人にわかる仕掛けです。でもこれは静かでなければ効果的ではありません。静寂がカギです。
▼この静寂、「quiet-ness」 を大事にする人を「Q型人間」と呼びましょう。こういう人は今では100人に1人いるでしょうか。かつての日本人はほとんどそうでしたが、いまはマイノリティ(少数民族)です。でも日本社会が落ち着きを取り戻して成熟するにつれて、再び「Q型人間」は増えていくことはあるでしょう。▼ところで、国民一般(マジョリティ)にとっての音の問題は、交通騒音、工場騒音、カラオケ騒音、楽器騒音、などの近隣・生活騒音ですね。それと右翼団体の街宣車があります。しかし、ここで問題にしているのは、社会的拡声騒音つまり公共空間で日常的に発せられる音の環境のことなのです。
▼ということで次は、「横断歩道の信号音」です。童謡が流れています。「結んで開いて」「通うりゃんせ」「お手々つないで」とかですね。小鳥の声もあります。カッコー、ピヨピヨ、チッチッといった電子音。こんな風にしないと横断歩道を渡れないのか、と外国人は思っているのではないですか。どうしてそんな音を出させるのか。たぶん多くの人は目が見えない人のために設置されているだろうといいます。しかし、現実にはそのような人が渡る確率は極めて少ない。おそらく10万分の1以下のことでしょう。私は見かけたことがありません。繁華街ではたぶん家族連れとか介添えの人がいますね。そうでなくても、側にいる人が手伝ってあげられますね。そこが大事なんですが、その小さな確率のために、横断歩道の前の店の人は、一日中繰り返し同じメッセージを際限なく聞かされるのです。拷問です。店の人はよく気が狂わないなあ思いますが。途上国をふくめ外国の都市には、そんな信号音はないでしょう。ごく小さな音がある例はニ、三聞いたことはありますが。
▼同じことを池澤夏樹も指摘(朝日新聞091004付)しています。家の近くに交差点がある。大きなトラックが赤信号で止まる。左折のウィンカーに伴って「左へ曲がります。ご注意ください」という機械的なアナウンスメントが大音声で繰り返し響き渡る。大型車の左折にからんで事故が起こることはわかる。しかしそれを防ぐのは車の側の責任だろう。スピーカーで人を押しのけていいものか。同じ交差点に、視覚障害者のための音声信号がある。高い位置に設置したスピーカーから偽の鳥の声が、朝七時から夜の七時まで、鳴り響く。偽の鳥の声はまるで動物園の檻の中にぬいぐるみが置いてあるように場違いだ。視覚障害者のための配慮はもちろん必要。しかし、ぼくが知っている範囲でいえば、オランダでもオーストラリアでもニュージーランドでも、背の高さの位置でもっと低い(音量が少ないのではなく低音の)シグナルを使っていた。十歩離れると気にならないが、その場に立つと確実に聞こえる。ということです。
▼このようなものを設置する理由の一つは、社会的な課題を、社会的に解決(弱者へのお手伝い)しないで、工業技術で補おうとする日本人の思考です。二つは、個人判断をお上に任せる、管理者に預けるということです。日本は個人の判断を小さくし、管理規制を好むということでしょう。これが行政サービスを肥大化させ管理社会化させることにもなっているのです。▼これが外国だと、ホテルのロビーや駅の待合室のような公共空間に例えば鞄を置いてその場を離れたらどうなるか(日本人によくあると添乗員が言っていました)。その鞄は捨てられたものか、爆発物と思われます。盗まれてももちろん文句は言えません。警察に紛失届だしても出てはきませんね。そういうことです。自己管理と自己責任です。アチラは。
▼さてさて、次のヤリ玉は地方自治体の「防災無線」す。温泉地とか、町村を訪ねると、お昼とか夕方、ピンポンパンとかチャイムが鳴って「夕焼け小焼け」のメロディにのって「よい子のみなさん、そろそろですよ」とやるわけです。朝などは六時ころから天気予報とか、「今日も元気に」といったアナウンスがあります。「小さな親切、大きなお世話」ですよね。▼管理とか機構がもつ暴力的というか日本人に馴染ませた「仕掛け」といっていいでしょう。何度も言いますが、外国にはありません。なんで日本だけなのでしょう。研究課題にしてみるといいでしょう。
▼ヨーロッパの古い町では定時ごとに教会の鐘がなります。近くで聞くとかなりの音量でやかましいほどです。しかし教会の鐘は毎日の儀式にかかわるもので、数百年も続いている音なのです電気的に増幅した複製音ではなく、ナマの原音です。日本でもお寺の鐘がゴーンと鳴れば、それは原音ですから、ありがたいものです。昔は晩鐘という言葉もありましたね。町や村の風物詩でした。フランスのバルビゾン派ミレーの絵にも「晩鐘」がありました。我が家の古い家に複製画が掛っていたのを思い出します。▼さて、いまの日本では寺の鐘はチャイムに代替されて、まさに「擬音効果の鐘の音」になってしまいました。自治体の防災無線も原音ではなく、二次音です。電気的に増幅された音は必ず耳障りなヒズミ(歪み)が加わります。毎日毎日、このニセモノの音やヒズミ音をいつも聞いているわけです。たまらないという感情とともに無感覚にもなってきているかもしれません。▼「Q型人間」にとっては、日本人の伝統的感性が蹂躙されていることになります。こんな音を子供のころから毎日聞かされていたら、小鳥の声や小川のせせらぎや梢をわたる風の音などを聞き分けるデリケートな音感は育ちません。
▼遠因としては、日本人はホンモノそっくりのニセモノが好きという事情もあります。出前の寿司には笹の形をしたプラスチックの仕切り、商店街のプラスチックの桜やモミジの飾り、カニの色に似せたカマボコ。これはキッチュ(まがいものの美学)を好む、日本人の民族嗜好の問題と絡みます。
▼次は、「鉄道駅などのアナウンス」です。日本の鉄道はデザインや乗り心地は世界一二を争うほどいいのですが(フランスのTGVは前後の牽引型、日本の新幹線は各車両に動力がある電車型なので揺れがすくなく安定)、電車に乗り降りするときのアナウンスのうるささに閉口しますね。こちらは世界最低です。プラットホームに隙間があるとか、降りる方が降りてから乗ってくださいとか、とにかく小うるさい。家にもそういう人が一人はいますが。▼ともかくヨーロッパの鉄道駅では、列車が駅のプラットホームに静かに入り、発車時刻になっても何のアナウンスもなくスーッと静かに動き出します。ホントにみんなこれで乗り降りできるのか心配なくらい静かな駅構内です。これですね、これができれば日本の鉄道も世界一です。でも、札幌の地下鉄、首都の鉄道駅は、末期的アナウンスです。テープの再生音で、改札口の切符の差し込み方から、列車が入ってきたときの「白線まで下がってください」とやられますね。さらにご丁寧に、駅員がマイクをもって「列車が来ます、ドアが開きます、ドアが閉まります」とやるわけです。しかもボリュームを上げてますから、五月蠅さはほとんどパチンコ屋の趣です。でも乗客の方々は整然と何事もなくといったところです。これを乗客は耐えているわけですが、皆さんはどうですか。都会の喧騒として受け入れますか。私は田舎者ですから無理です。ですから出来るだけ電車に乗りませんし、不用の向きは出かけません。井伏鱒二の「山椒魚」みたいな生活です。
▼これもついでに言っておきます。首都圏の山手線などに乗ると、駅ごとにメロディが変わりますね。新宿も渋谷も池袋も違います。少しばかりの付加価値をつけているんでしょうが、どうも聞きづらく煩わしく感じます。単なる信号なんだから単純な音でいいのではないかと思います。JRのサービスに疑問というところです。この山手線の各駅のメロディを次々メドレーでピアノ演奏している自慢げな人をテレビで拝見しましたが、どうも面白いのだけれど面白がっていていいのかと、つい小言を言いたくなります。駅によってはクラッシック音楽を流しているところもあるそうです。どうして、つまらないこと、どうでもよいことに、こうも熱心なのでしょう。大事なことは別のところにあるのに、と思うこと頻りです。
▼そうそう、日本を代表する知識人、加藤周一さんが言っていたそうです。日本はアベコベではないか。列車は駅に入ってきて出ていくものであるし、乗客が乗り降りするために列車のドアは開いたり閉まったりするものである。日本以外の国では、到着時刻になっても列車が着かなかったり、発車が遅れたり、閉まるべきドアが故障して閉まらなかったりしたとき、その時にアナウンスがあるというものです。日本はちょうど逆で正常なときに、これをやります。ですから正常時の方が異常時よりはるかに長いですから、いつも騒々しいということになります。▼日本は正常時に危ない危ないとアナウンス、外国は異常時・危険時にアナウンスということです。ということは、日本はオオカミ少年に近い、ということになりませんか。
▼さて次は、テレビです。自宅のテレビではなく「公共空間のテレビ」のことです。一般に日本人は情報に対してとても敏感です。これは経済活動も含めた日本社会の活力源の一つにはなっています。例えば、片時でもテレビを観ていたいという、テレビをありがたがる日本人の習性もその証拠です。でもこれは家庭内、個人的なことですから、立ち入りません。問題は公共の場所です。例えば、空港。待合室のイスの前に大きなテレビが置いてあります。今は無音・消音しているのもあります。さて問題はイス。すべて祭壇というか、この教室のようにテレビに向かっている。客同士が向かい合って話ができるようになっていません。コミュニケーション拒絶空間ですね。これも日本だけの特色です。日本の特色は、江戸文化を引き合いに出すまでもなく、日本の現在の公共空間には情けない特色がいっぱいあります。▼そのほか待合室と言えば、鉄道、病院、それに飲食店にもテレビありますね。食堂だと食べながら見るというのは料理をつくった人に失礼ではないんですか。それに会話を楽しみながらの食事ならなお邪魔です。外国にはサッカー観戦するパブを除いて、ないと思いますが。▼とにかく日本人は、テレビの音が鳴っていないと落ち着かないのでしょう。静寂や沈黙が嫌いな「ながら族」といったところです。
▼次は、「電光掲示板」です。情報は音ではなく視覚の方が邪魔にならずいいのですが、今は電車の中や屋外「電光ニュース」が溢れています。音は出ないかわりに、ピカピカと落ち着きなく繰り出されり電飾文字は、ほんとうにせわしないですね。しかも繰り返し繰り返しのピカピカ画面。ですから、私は電車にのると目をつぶります。ミザル・キカザル、イワザルあの日光東照宮のサルになって乗っています。
▼ところで、こういってはなんですが、日本人は公共空間で堂々としていませんね。街を堂々と歩いていない。足取りもそうですが、それに輪をかけたようにキョロキョロと脇見をしながら歩くんです。ほんとうに見たいものがあれば立ち止まって真正面からキチンと見ればよいのに、「ながら族」の要領で歩きながら絶え間なく外の情報を得ようとしている。路面に落ちているゴミとか、どうでもよいようなものにも無意識に、目を向けている。▼ヨーロッパでは、周りにまったく視線をくれず自分だけの世界に沈潜しているかのように歩いている人が多いです。ですから、キョロキョロマンの日本人はとても目立ちます。それに、若い人やご夫人方のキャッキャッと騒ぎながらの歩き。これは目立ちます。
▼次は、「商店街の宣伝放送」です。帯広の町でも流れていますね。「ホテル・テルテル、大平原」「炉端のあ・か・り」とかね。もう半世紀くらいは流れているんではないですか。私はいずれにも行きましたが、この放送を聞いたから行ったのではありません。▼街頭放送の調査結果からも、この放送内容を聴いている人はほとんどいないそうです。ではこの街頭放送とは何なのでしょうか。これを業務としている会社がありますから、それで続いているのでしょうが、そろそろ業種転換してもいいように思います。
3.地域を変えるカルテ
▼さて、ここでは地域変革の処方箋をかんがえます。日本社会の特質は、安全であること、効率的であること、の二点に集約できます。効率的にことを進めるために人を集団的に管理ないしサービスしようとする集団志向や、工業技術を社会に無造作に導入するという技術志向も強まりました。ですから、安全と効率を目標にして「集団主義」と「技術主義」でこれを達成するという暗黙のイデオロギーがこれまでの日本社会を動かしてきた原理であるといえます。ですから、拡声器で同時に大勢の人に伝えたり、町づくりでは、安全と効率の原則で、よくヤリ玉に挙げられる河川のコンクリート三面張りの改修をみれば、このことがよくわかります。教育でも一教室40人をまとめて教壇から教えていますね、欧米のように個人指導ではないのです。
▼ですから、この日本は飼いならされた、「家畜国家」であると思います。会社に飼いならされた「社畜」という人もいますね。辛口評論家の佐高信でしたか。まっ、しかし家畜は、荒野の狼と違い、安全に集団として飼育され、技術的に改良され、肉や乳を生産する効率の高い動物です。つまり安全、効率、集団、技術という四大原理は家畜の原理であり、ひいては日本人の原理なのです。そこで、私たちは、地域社会からそうした状況を変えていくことは出来ないのかと、考えるのです。そのためには、先ずかつて日本にあった静寂を、地域ごとに復活させ、個人の判断と野生の感覚を取り戻すことです。これが自分と地域の価値基準となればいいわけです。地球の価値基準にしてもいいくらいですね。
▼そのための具体的処方箋は、三つです。
① 拡声器は非常時だけ使用。/日本の社会に社会的拡声騒音があふれているのは、日常と非日常の区別がなくなっているからです。日常生活は静かに暮し、非日常あるいはお祭りなどのイベントのときは拡声器を使う。ですからデモのときの拡声器は認めていいのです。拡声器を非常時や非日常時だけに使われるように改善していけば、地域は確実に静かになり、住民はじっくりまちづくりを考えることができます。もちろん、その効果はまちづくりだけではありません。
②情報提供は視覚的手段で。/特に公共交通機関は外国人の利用も増えているので、日本語による拡声放送の繰り返しはやめて、分かりやすい日本語と外国語(英語・近隣諸国語)による表示板・案内板などの視覚的方法に切り替えていくべきです。
② 技術は露出させない。/タクシーに乗るとあの無線が、ピーピー・ガーガーとヒズミ音でうるさいですね。これは液晶表示に切り替えないといけません。タクシーによっては採用している車もあります。それと博物館の説明テープも困りものです。じっくり見たい人には迷惑音です。これはイヤーホンに切り替えですね。ホテルのテレビも棚の中に隠してもいいですね。とてもいいホテルにはたまに見かけます。いえ、これは泊まったことのある友人からそう聞きました。自治体防災無線については、ファックスやパソコン通信か、あるいは各戸ごとの家庭内スピーカーへ切り替えるということにしてはどうでしょうか。
▼最後に、公共空間が静かだと、どんなにか気分がよいか。欧米では都市も農村も静かですが、世界の大都市の中で一番静かなのは、たぶんロンドンでしょう。ロンドンの地下鉄は、次に停まる駅のアナウンスさえありません。トンネルの中で外の景色はありませんから、ひたすら駅名表示を見ているわけです。それで特に支障はありません。みんなそうしています。商店街も街頭放送がありませんから、のんびりしたものです。あのコヴェント・ガーデンの大道芸や演奏でも基本的にマイクやスピーカーは使いません。ハイド・パークの演説にもマイクはありません。市民が集まって思い思いに演説合戦をやっています。ロンドンで一軒だけエンドレス・テープで店内放送しているところがあります。それはどこでしょう? それは日本人向けの免税店です。
▼ですから、効率は悪くても、集団ではなく一人ひとりの人間に情報を伝えるという回路を増やしていかないと、日本は個人が大切にされる社会にはならず、日本社会特有の集団主義といわれるものも変わっていきません。教育の場面は特に気をつけなくてはいけません。人々を「束」にして扱わない環境をつくればいいわけです。▼今日は、「内省的環境」について、地域における日本人の感覚環境が蹂躙されているということを指摘させてもらいました。そして、このことを知っておくことが、これからの地域づくりにとって、どんな個別テーマよりも重要だと考えています。
4.Q型人間のために
▼さて、そこで、ちょっと今までのオサライをしておきましょう。テーマは「内省的な満足の環境要件」のことでしたね。内省的な満足が得られる環境条件とは、何でしょうか。静寂ですね。ごちゃごちゃした視覚的によくない町であっても、静かであれば目をつむれば静寂が訪れます。目はつむれるが、耳はつむることができません。いまは、「quiet receiver」のようなオーディオ機器はあるにはあります。▼でもやはり、内省的な世界、内面的な世界を持とうとするなら、「聴覚環境を視覚環境より重視する」ことです。日本では特にこのことが等閑(なおざり)にされています。もちろん町の中を走る自動車や電車がある現代に静寂などありえない、ということもあります。しかし同じように自動車や電車が走りまわっているヨーロッパの都市は日本の都市よりずっと静かです。本当に静かです。
▼ということで、中間のマトメに入ります。この講義のねらいは、地域の公共空間を考える、あるいは地域政策の分野を勉強することにあります。第一回目の今日は、「地域から日本社会を変えていくはできないか」というものです。全体からではなく部分、大きいところからではなく小さな出来そうなところから手掛けてみようというものです。▼今の日本の町は、公共投資からそれを維持する段階に入りました。成長段階から成熟期を迎えているとも言えます。ですから、都市を気持のよい、ストレスの少ない町に改造していくことがポイントになります。▼帯広出身の作家・池澤夏樹は、09年NHKの100年インタヴューという番組で、将来を考えるなら「静かに暮せて、派手なことはないが、満足のいく社会」を求めたいと語っていました。芥川賞をもらった『still life』という彼の作品そのものですね。
▼私淑している哲学者・内田樹は、こう書いています。「正月には小津安二郎映画でQ型人間」になろうという提案です。『大人は愉しい』(内田樹・鈴木晶/ちくま文庫)から引きます。▼暮れからお正月にかけて、日本のテレビ全局が小津安二郎全作品「だけ」を一週間ぶっ続けで朝から晩まで放映する、ということをしたらどうなるでしょう。それしか見るものがないし、ちょっと見始めると面白くってもう止まらないので、全日本人が一週間のあいだ、朝から晩まで小津漬けになってしまうんです。そして休みが明けて学校や会社に行くと、みんな小津安二郎の映画の中みたいなしゃべり方になっているんです。若い男は佐田啓二みたいに前髪をかきあげながら「いやあ」と微笑み、若い女は原節子みたに「ふふふ、そうですかしら?」と問いかけ、おじさんたちは笠智衆みたいに「やあ、どうも」と帽子を脱ぎ、おばさんたちは杉村春子みたいにぱたぱた走り回るのです。日本人全員の「小津化」、すてきだと思いません?▼小津ごっこ、いいですね。さっそくやってみたいですね。これに私は「小津の魔法つかい」と名づけました。映画は「晩春」「東京物語」「麦秋」「秋刀魚の味」などがありますよ。
▼そうそう映画といえば、20007年カンヌ国際映画祭では河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」がグランプリでした。「殯」とは日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの期間、棺に遺体を仮に納めて安置し、別れを惜しむことです。映画の筋は、記憶が失われ、行動が常識とずれてしまう認知症。だが根幹にある感情はなくならない。当たり前のことが当たり前にできなくなった相手と心通わせることはできるのだろうか。亡き妻を思い続ける認知症の初老の男と、彼を施設で介護する、子を失った傷心の女。迷い込んだ森の中で、それぞれの思いを静かに交錯させていく魂の物語。▼また、20009年米国のアカデミー賞で滝田洋二郎監督・本木雅弘主演の「おくりびと(デバーチャーズ・旅立ち)」が記憶に新しいですね。いずれも死者を送る映画で、静謐というか、静かなQ型人間の映画です。このような静謐が世界基準になりつつあるのでしょうか、ということです。
5.日本文化と町づくり
▼ここまでくると、地域政策論の話か、日本文化の話か、ごっちゃまぜになってきましたが、「日本人の感覚と日本文化の歴史を古層として、地域づくり」があるわけですから、この分野は疎かにはできません。もう少しだけ日本文化を探ってみましょう。静かさの代表格の能楽とか茶道についてですが、皆さんはもうすでに日本文化の勉強をされて、すでに知っていることばかりかもしれませんが、ざっと復習してみます。
▼と、その前に、視覚と聴覚の静けさを扱った小説『陰翳礼讚』のことをとりあげておきます。この作品は、日本の静かさを扱った代表格の作品ですから避けて通れません。松岡正剛さんの言い分を紹介します。「この小説は昭和8年から9年にかけて「経済往来」に書かれものです。内容は日本家屋がもっている「うすぐらさ」を褒めたたえるもので、それを説明するのに日本家屋の不便さをあれこれ引き合いに出しています。谷崎が言いたいことは、煎じつめれば「薄明」と「清潔」の両立に日本の美意識が発端するということを言っていますね。でもそのことを谷崎は日本的には説明していない。下手なのだ。文章もうまくない。左官の鏝(こて)が右往左往している。たとえば、漆器の美しさは闇が堆積しているところにあるという指摘は、その通りである。が、そのことを説明するのに、漆器の闇が文章そのものになっていないのだ。どうした谷崎、なのである。もし日本的建築を一つの墨絵に譬えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。この文章もへたくそである。巧妙とは何事か。谷崎がえらびきった言葉とはおもえない。後段、「いったいこういう風に暗がりの中に美を求める傾向が、東洋人にのみ強いのは何故であろうか」というくだりに入ってからも、谷崎のペンは冴えない。日本のお化けと西洋のお化けを比較したり、混血の話などをもちだして、話をぶちこわしてしまっている。結局、ぼくが納得できたのは最後の最後の文章になってからで、「私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の櫓(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい」と綴り、つづけて「それも軒並みとはいわない。一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、試しに電燈を消してみることだ」と結んだところくらいなのである。これはよくわかる。陰翳を文学にもちこむというのは、まさに谷崎のシナリオであって、戦略であり、また絶妙に成功させたところなのである。しかし、『陰翳礼讚』という文章をもって、谷崎が日本の美学や日本の美意識をなんとか説明してくれたなどとは、おもわないほうがいいい。むしろ谷崎潤一郎が『陰翳礼讚』で「お茶を濁してしまった」ということが、その後のツケになっていたというべきなのである。▼と、まあ、松岡正剛氏はミソクソですが、私はいい作品だとおもいます。タイトルが魅力的ですし。皆さんもぜひ読んでみたらいかがですか。
▼もう一冊紹介します。『アジアの旅―風景と文化』(ディエス・デル・コラール/未来社/1967)で読みましたが、日本の障子を通して次第に明けてくる朝と、その静かな覚醒の下りはいい感覚だと思いました。▼こう書かれています。「日本の家屋で眼を覚ますと、睡眠と覚醒との間の移行が西洋の日常よりはるかに穏やかなように思われる。大抵の場合、曙の光が紙障子の広窓を通して侵入しながら、目覚めさせる役を引き受けているのである。眠っている者は、いきなり猪突にではなく、むしろ網膜の底を愛撫しながら、次第に光のよろこびの前に身支度をさせていくような微かな照射のおかげで、気づくともなく徐々に目覚めていくのである。日本人はかくて、日の出のその初めから日と一体となる」。
▼また、酒井順子の清少納言『枕草子』訳を読むと、宮廷生活であっても家屋の中の仕切りが、襖とか御簾といった具合ですから、生活音が筒抜けであったことが分かります。ですから、人が出入りしても、ヒソヒソ話していても、男が通ってきても、その気配があっても、知らんぷりするんですね。そこに日本文化の音と人のかかわりの原型があるのかもしれません。日本人の「ひそやかさ」といった心理なのでしょうか。▼万葉集にこそ「静けさ」のある歌がありそうです。いま読んでいる最中なので、いずれ書き抜くつもりです。
6.茶の湯と静寂
▼さてさて、「静寂」と「ほの暗い」なかで培われた日本文化を、さらりとオサライするためにも松岡正剛氏から再び教えを乞いましょう。茶の湯と静寂の話です。皆さんは茶道をやっている方がいるでしょうから、この話はご存じと思います。
▼お茶は、栄西が中国の宋時代の新しい喫茶の風習を持ち帰りところから始まります。そしてその翌年、日本史は大きな転換をとげことになるのです。源頼朝が鎌倉幕府の初代征夷大将軍になり、まったく新しい仏教である禅宗が登場します。茶の歴史はここにおいて歴史舞台の前に出てきます。その最も有名な話が、栄西が源実朝に茶を献じ、将軍が御感悦したということが『吾妻鏡』にあります。実朝は二日酔いなどに苦しんでいたのだろう。だから茶が効いた。ともあれ「養生の仙薬・延歳の妙術」としての茶は、二日酔いが治った将軍家のお墨付きをもって、たちまち禅林(禅宗の寺院)から武士階層へとひろまっていく。このころ、いまだ茶というものはまことに高価な仙薬でした。そこで将軍は功績のあった忠臣や功徳のある高僧にたいする褒賞として、御感悦の茶をふるまったのです。この主従の習慣がのちに茶とともに茶器を愛であい、これが茶具足(茶の道具の意)の流通する感覚をはぐくんだのです。ということですね。そもそもは薬だったのですね。この人はわかりやすく教えてくれます。
▼ところで、戦国時代になりますが、織田信長が本能寺の変で明智光秀にやられて死にます。なぜ信長は本能寺にいたかというと要塞化していたとうことと、ここに名物と呼ばれた茶の道具をしこたま集めていたのだという説があります。あの信長がと思いでしょうが、かれは「名物狩り」をやってます。名物というのはこの時代は茶道具のことをさします。なぜそんなことをしたか。それは、この時代、いい茶道具は城の一つや二つと交換できるほどの価値があったのです。だから名物を相手から取り上げることは、大名たちの財産の一部を取り上げるのと同じくらい効果があったのです。なぜそんなに茶道具が価値をもったかといいますと、室町の将軍家や武家、貴族たちの唐物趣味が、ずうっと戦国大名たちの間で継承されていたからです。戦国大名といっても出自の多くは田舎侍ですから、権力を持てばたちまち成金趣味を発揮して、こぞって唐物を持ちたがる。シャネルやティファニーといったブランド物に目の色を変えることと同じです。
▼また、武士たちを精神的に支えていた平常心と、静寂を重視した茶の湯が切っても切れないものになっていたので、大名たちもさかんに茶の湯を愛好しました。戦場に茶道具一式をもちこんで出陣式に茶を点てて飲むなんてこともやってます。こうして、唐物や和物の茶道具をもっているということが大名たちのステータス・シンボルになっていったのです。信長の「名物狩り」はそこに目をつけたわけです。
▼そのような中から、いよいよ堺の町から天才茶人が登場します。誰ですか?千利休ですね。利休の何がすごかったかというと、自分のディレクション(監督・演出)で新しい美の価値を生み出していったことです。たとえば無名の長次郎という陶芸職人に「楽茶碗」を焼かせた。真っ黒で、静かで、まったく目立たないような筒型の茶碗なんですが、それがまるで宇宙の闇のようで恐ろしいものに感じるというわけです。長次郎の黒楽や赤楽は、究極のミクロコスモスを感じさせる茶碗といっていいでしょう。▼ほかにも、朝に切ってきた竹を夕方に花入れに使うとか、その辺の野山に咲いている花を生けるといったようなこともやっています。まったく手のかからないやり方ですね。これこそまさに「侘び(わび)」の精神です。そんな利休の茶の湯が、茶人たちだけでなく大名たちをも驚かせたのです。
▼利休の作った竹の花入れはいまも残っていますが、そういうものを見れば、利休が只者ではないことがわかります。一本の竹の、そのまた一節を刀で切り出す。ただそれだけのものが、四百年近い年月を経ても、人々の気持ちを深くつかむんですね。竹を選び出す眼、竹を一刀両断にする決断力、そういうものには、おそらく当時の武士にもかなわないと思ったのでしょう。▼この利休を茶の指南役として登用したのが、信長と秀吉でした。有名なエピソードがありますよ。あるとき利休が秀吉を朝の茶会に招待します。「庭の朝顔がいっぱい咲いております。どうぞ朝顔をご覧においでください」、というようなことを書状で送りました。秀吉がさぞきれいだろうという気持ちで利休の茶室を訪ねると、庭の朝顔の花がことごとくちょん切られている。だいたい武士にとっては花の首を全部切るなんて、あまり不吉なことですから、秀吉は怒りまくってどかどかと茶室に入ってくると、なんとほの暗い床の間にたった一輪だけ、それはそれは見事に朝顔が生けられていた。そんな話です。皆さんどう感じますか。▼このようなことが恐らく何度もあったのでしょう。一国の天下を治めた秀吉が、一介の茶人である利休には頭が上がらない。翻弄されてしまう。秀吉はだんだん利休を憎みはじめ、とうとう利休を切腹させてしまうのです。その背景には秀吉の朝鮮遠征に利休が反対していたということとかはありましたが。
▼さて、その利休の茶の湯の精神を継承したのが、古田織部でした。でも織部は利休とは可なり違ったものでした。この違いを知ることは、なかなか大事なところで、日本文化の二つの本質があらわれています。利休の茶はある意味で究極をめざし、ほとんど誰も到達できないような深い精神性にまで行き着いてしまったものですね。▼これに対して織部はその利休の精神を誰よりも理解しながら、茶の湯をもう一度、開放していったんです。たとえば利休が四畳半の茶室をわずか二畳の台目(だいめ)というところまで小さく凝縮してしまったのに対して、織部はもう一度茶室を広くし、窓を八つも開けた明るい空間にしていった。だから織部の茶室を八窓庵(はっそうあん)などともいいます。くわえて織部は、茶碗にも大胆なセンスを取り入れました。織部はそれまで「壊れもの」とか「損ないもの」とよばれるダメ茶碗を、わざわざ作らせて茶会に持ち込んだ。ところがこの「ゆがみ茶碗」が、自由奔放であったため茶人たちの間で噂になった。この新しいスタイルを茶人たちは驚きとともに賞賛しました。茶碗の表面に大胆な絵柄さえつけました。ピカソやミロに匹敵するものです。それも鮮やかな緑色の釉薬(うわぐすり)で大胆に塗り分けた茶碗の上に、自由自在なタッチで風物の断片や幾何学模様をパッパッと描いている。
▼こうした利休と織部の違いは、「ルネッサンスの利休」と「バロックの織部」と言えます。スマートな利休と装飾の織部といったところでしょうか。ところで、こういうふうに利休と織部を見比べてみると、日本文化が常に弥生型と縄文型とか、公家型と武士型とか、都会型の「みやび」と田園型の「ひなび」とか、たえず対照的に発展してきたことを思わせてしまいます。それにしても、職人や茶人が、権力者を恐れさすほどに新しい価値観を持ち出し、そのことによって命を失うこともあったなんて、それほどにこの頃の文化というものは、政治や経済を震撼させるほどの力を持っていたという話でした。
7.能楽と引き算
▼さて、次は能の話です。北条時宗の鎌倉時代、中国は元の時代に入ります。13世紀チンギス・ハーンという遊牧民のリーダーが、モンゴル帝国をつくり中国を押さえて元という王朝を打ち立てます。ここで中国の漢民族の伝統文化がいったん断ち切られます。そこで中国という祖国を追われた仏教者たちの一部が、新天地を求めて日本にやってくる。この時代にやってきたのが禅宗です。禅宗はそれまで中国仏教になかった老荘思想(タオイズム)をとりこみ、さらに座禅という厳しい戒律の制度をもっていたので、それが日本の武士の精神とぴったりあいます。▼さらに「寂び」の美学がしっかりと結びついて、中国にはなかった禅林文化を生み出します。その代表的なものが「枯山水」です。水を使わず岩や石を配置してだけで、山や水をあらわしている庭のことです。水がないので「枯れ」というわけです。京都の苔寺で知られた西芳寺や竜安寺などがあります。▼枯山水は、実際は岩や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を「観じて」いこうとするものです。こういう見方を禅の言葉で「止観」といいます。止めて見る。これはすごい方法で、西洋ではヘーゲルやマルクスが出てきて、社会哲学的な方法として「止観」を持ち出すんですが、日本ではもっと早く13世紀ごろに世界を止めて見るとどうかということが始まった。止めてみると、逆にそのなかにいろんなものがずっと見えてくる。写真がそうですね。シャッターで止めて見る。そうすると、そこに人生や世界が見えてくる。禅もそうやって真理というものをつかんで、悟りを開いていくわけです。しかも、枯山水は水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまっている。つまりそこには「引き算」という方法が生きているんです。それが新しい美を生んだ。▼私たちは日々の消費生活で、何でもポンポン買っていますが、これは「足し算」の社会です。ときには「引き算」の方がずっといい時もあります。ずっと美しい時もある。町づくりにも通底するものです。
▼ところで、話を戻しますが、「寂び」の感覚はもう一方で、「幽玄」とう美意識を生み出します。こちらは和歌や連歌のなかで継承され、やがてここから「能」が生まれていきます。この「幽玄」のコンセプトは、すでに鎌倉時代に、西行の系譜をつぐ鴨長明が『方丈記』というエッセイのなかで、幽玄を書いていまして、目には見えないけれど、そこはかとなく心に感じ入るような感覚がおこるとしています。その後には、吉田兼好が町はずれに庵を結んで、これまたすばらしい『徒然草』というエッセイを書いた。兼好は、花は盛りだけがいいわけではない、むしろ花が散ってしまったあとの梢のあたりの風情がたまらないのだとか、葵祭が終わってしまったあとの都大路のもとの静けさに戻っていくときの何ともいえない寂しさがすばらしい、といった独特の美意識を綴っています。
▼こういった「幽玄」の感覚は、室町時代になると、それをひとつの芸能として完成させた大天才がいます。誰ですか。世阿弥ですね。日本の能はこの人によって大成されました。能はもともと申楽(さるがく)という遊民たちの芸能から発達したもので、物学(ものまね)を主とした滑稽さを売りにしたものでした。それを世阿弥のお父さんの観阿弥が、今日のような能の形にまとめていった。世阿弥はその芸を継承しつつも、さらに精神性の高い芸域を求めていきます。それが能の幽玄というものだったのです。とくに幽玄がみごとに表現された世阿弥の能は「複式夢幻能」といいます。現実と幻想という二つの世界が、複式に入れ替わって舞台に展開するんです。その代表作のひとつが「井筒(いづつ)」です。
▼こんな話です。ある旅の僧が、荒れ果てた寺の古井戸に通りかかると、そこに一人の女が現れます。そして、この井戸こそは、かの平安歌人の在原業平ゆかりの井戸であると告げて、業平とある娘との悲しい恋の物語を語りはじめます。語り終えると、じつは私こそがそのあわれな娘なのです、と言い残して、女はどこかへ消えてしまいます。その夜、僧が寝ていると、昼間に出会った女が現れて、業平の形見の衣装をつけて舞を始めます。女はだんだんトランス状態になって、それを見ている僧も、ああ、いったい舞っているのは女なのだろうか、業平なのだろうか、とだんだんわからなくなっていく。そのとき女がふと井戸を覗き込んで、そこにかつての恋人の業平の姿を見て、思わず「ああ、懐かしい方」と叫んでしまうんですね。そこで僧の夢が覚めるんだけれど、女の姿はどこにもなく、そこにはただススキが茫々と生えた井戸があるばかりでした。というストーリーです。こういう舞を「移り舞」といって、これが夢と現の間をトランジットしていくわけです。複式夢幻能とよばれる演目のほとんどは、こうした展開になっていて、これが世阿弥のつくった「幽玄」の世界なのです。これの理論をまとめたのが『花伝書』です。『風姿花伝』ともいいます。いつかぜひ読みましょう。
8.地域づくり・三つの満足
▼さあ、すっかり日本文化の話になってしまいましたが、最後のまとめとして、町づくりのための、成熟期にさしかかった地域社会での満足条件を三つ上げておきます。自分を含めた地域づくり、あるいは町づくりの参考にしてください。
① 好奇心の満足。▼日本人は好奇心の強い民族ですが、これからも個人の好奇心が多彩に多様に満たされることを望むでしょう。読みたい本が手に入る。テレビやビデオで面白い番組や映画が観られる。コンサートや観劇の機会に恵まれ、さまざまなスポーツが楽しめる。美食やおしゃれができる。海外を含めいつでもどこへでも旅行ができる、などの満足です。自治体は文化やスポーツなど生涯学習の拡充という形で取り組んでいますね。
② 社会性の満足。▼モノの充足の後は、社会的な名誉というか、自分が社会に貢献していることの誇りや自尊心が欲しくなります。いろいろな社会集団に属すとか、ボランティア活動で貢献することです。何に属していないといっても町内会や自治会には入っているわけです。帰属心理ともいいますね。日本はまだボランティアは途上ですが、欧米では中・上層の市民が誇り高い顔をしているのは、たぶんこうした満足感が日常的にあるからだと思います。自治体はそうしたニーズの道筋を与えていくような施策展開が求められています。
③ 内省的な満足。▼発展途上国といわれるところに行っても、顔にシワがよって彫が深く、目に深い表情をたたえた、もの静かな老人に出会います。じっと川を見ていたり、道行く人を見ていたり。それと総じて欧米諸国の子供の方が日本の子供より内省的な表情をしていますね。まず、目つきや態度が、落ち着いて、静かな物腰ですね。▼内省的な満足によって目の輝きが生まれる。これは個人の問題であって、地域の問題ではない、と思われますがそれは違います。内省的な満足が得られる環境がいまの日本の地域では失われている。失われた10年、いや50年といったところでしょうか。
▼以上が、村瀬章さんという地域計画プランナーから教わった話です。町づくりはモノづくりだけではありません、キモチや文化が大事なのです。ということで、今日の「町づくり」入門編は終わります。
9.資料編
▼書籍資料/『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎・中公文庫)、『アジアの旅―風景と文化』(ディエス・デル・コラール/未来社/1967)、村瀬章『まちづくり変革宣言』(ぎょうせい)。
▼写真資料/枯山水(龍安寺石庭)、黒楽茶碗(利休)。
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