2010年3月13日土曜日

市民が変わる (MA-5)

05.市民が変わる
内容
1.三億人の先住民族... 1
2.アイヌ民族を知ろう... 2
3.国際化と市民... 3
2.高齢化社会と市民... 6
3.地域社会と市民... 7
4.地域経済と市民(第四講再掲)... 9
5.町づくり人・故Yさん... 11
6.町づくり人・故Kさん... 12
7.町づくり人・Sさん... 14
8.町づくり人・Mさん... 15
9.資料編... 17


▼今回は、町づくりにおいて市民はどういう風になっていけばいいのか、「これからの市民」を考えてみます。とくに国際化、高齢化、地域社会、地域経済といった四つの視点でとらえてみます。それと後半には、これまでどのような人々がこの町づくりに関わってきたかのかを、四人の方を紹介しながら考えてみます。

1.三億人の先住民族 
▼まず、国際化と市民の視点ですが、その前に「国際化と結びつく先住民」の話をしておきます。地球上の先住民族は70カ国に合計3億人いて、いま絶滅の危機の瀕している民族がアフリカの森林にすむ狩猟民など50近くあるとみられています。いま地球規模で彼らを大事にしなければという時代になってきたわけですが、どうしてだと思いますか。世界がかれらを必要としだしたからです。いま歴史のパラドックスといわれる現象が起きつつあります。地球環境の危機に対する認識が、かつて先住民族に勝つために使われた技術文明の行き詰まりとして理解され、そこで先住民の知恵を新しい世界観のための精神的・象徴的な支柱にせざるをえなくなりつつある、ということですね。
▼では、先住民はどんな知恵をもっているのでしょうか。日本での先住民としてはアイヌの人たちがいますね。アイヌとは「人間」を意味しますが、それは彼らに親しいクマなどの動物など、それに神々も含めた万物が等しく生きていて、彼らの精神世界の中で自分たちを相対化して「人間」と呼びました。また、もともと「生肉を食べる人」を意味した北米のエスキモーという民族は、最近はイヌイットと呼ばれていますが、彼らも「人々」の意味なんだそうです。たぶんアイヌの人と同じ世界観をもっているのでしょう。自然界で人間だけを特別扱いしない、人間だけに特権を与えない世界観・宇宙観だと言ってよいでしょう。それが先住民族の核心です。▼ですから、狩猟で確保した動物は神の世界から頂いたもので、それにお土産をつけてお返するのが、イヨマンテというわけです。(※資料「アイヌ文化の基礎知識」に詳しい)。▼米国のインディアン(今はネイティヴ・アメリカン)、カナダのハイダ族、南米のアンデス高原のインディオ、オーストラリアのアボリジニ、中国の少数民族(中国の場合少数民族といってもチベット族だけで500万人)の自然観も多分同じでしょう。調べてみようと思っています。

▼ここでは、池澤夏樹『パレオマニア』からカナダのハイダ族の話だけ引用しておきます。▼文化は人が住むすべてのところにあるが、文明は都会を中心に集権的に分布する。中央の文明が地方の文化を押さえ込む。カナダ先住民のポトラッチを禁止し、アイヌの人々に鮭漁を禁止した。男は大英博物館を基点とする旅でいくつもの滅びた文明を見てきた。文明は滅びれば遺跡しか残さないが、文化はその土地の環境に合わせてしなやかに変わり、それによって生きる人々と共に生き延びる。バンクーバー・アイランドの海では、遠大な生命の連鎖が見えた。氷の海から植物プランクトンが湧き、それを食べる動物プランクトンが増え、オキアミ、ニシンあるいはサケあるいはハリバットあるいはタラがそれを食って、その上にカワウソやトドやウミスズメやクジラやヒトがいる。そういう自然の恵みを表現したいという意図が、最終的にトーテムポールを作り出した。人は自然から文化を紡ぐ。

2.アイヌ民族を知ろう 
『アイヌ文化の基礎知識』(アイヌ民族博物館監修・草風館)から。▼ことば~身近なアイヌ語には、ラッコ、トナカイ(樺太アイヌ語)、シシャモ(柳の葉の意)など。北海道の地名に名残がある。▼日本史に登場~神武天皇やヤマトタケルの記事は伝説だが、『古事記』『日本書紀』が書かれた8世紀初めころの蝦夷(えみし)に対するシサム(和人)認識からみて、少なくともこの頃にアイヌの人々の存在が日本史に登場とみていい。▼シサム(和人)との戦い~1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起。▼アイヌ文化の起源~北海道では0世紀頃に続縄文文化、7世紀に擦文文化、平行して5世紀にオホーツク文化、14世紀にアイヌ文化が成立。▼狩猟の知恵~クマ猟では冬ごもりをねらう。穴を丸太で塞ぎ、トリカブトの毒矢でしとめる。シカ猟では鹿笛でおびき寄せたり、崖から追い落として捕まえる。サケ猟は道具(マレク:突き鉤)かカゴの仕掛けでとる。▼装う~獣皮衣はクマ・シカ・アザラシ・ラッコなどを利用。樹皮衣(アツトウシ)はオヒョウ・ハルニレで、幹の皮を下からはぎ上げ、流水でさらし、天日に干してから、糸に紡ぐ。木綿衣は本州との交易で手に入れた木綿の古裂でつくるが、四種類のアイヌ文様がうつくしい。▼食べる~シカなど獣類、カモなど鳥類、アザラシなど海獣類、ニシンなど魚類、サケ・マスなど川魚と、ギョウジャニンニクなど山菜、ヒエ・アワ・イナキビなど栽培作物などの食料があった。毎日の食べ物では「オハウ」が一般的。ギョウジャニンニクなどの山菜やイモ・ダイコンなどの野菜、鳥獣肉や魚肉を鍋で煮て塩や獣・魚油を入れて味付けした鍋物。家の外の高床式保存庫には、2・3年分の保存食が常備されていた。保存方法は炉の煙り干しによって乾燥させていた。▼住まう~チセは寄棟造りで、柱は腐りにくいハシドイ・カシワを使い、壁や屋根はカヤ・ヨシ・ササで葺いていた。コタン(集落)の人たちが総出で建てる。▼チセの暮らし・シキタリ~狩猟は男、家事・栽培は女の役割。チセでは男は猟具の手入れやイナウなど信仰用具つくり、女は着物・茣蓙つくりや食事の支度、子供たちは水汲みや子守などの手伝いをしていた。チセは三つの座がある。入り口から炉に向かい左がシソ(右座)、右がハリキソ(左座)、正面奥がロルンソ(上座)。シソは上手が主人、下手が主婦の座。ハリキソは子供、来訪者の座。ロルンソは神々の通り道で神聖な場所。徳人でなければ座ることができなかった。▼信仰~アイヌの人々にとって、人間のまわりに存在する多くの事象にはすべて「魂」が宿っているものと考えられている。ですから動物や植物などは、天上の神の国からある使命を担って舞い降りてきて、この地上に住んでいると考えられた。▼カムイノミ~豊かな自然のいたるところに、それぞれこの世でつとめを担った神々に感謝し、その庇護と生活の糧を得るために、イナウ(木幣)やサケ(酒)、ハル(食料)を捧げながら神に祈ることをカムイノミ(神への祈り)という。▼祈り用具~祈るとき、人間は立てられたイナウ(木幣、ヤナギをマキリ/小刀で薄く削る)に対し、左手で酒の入ったトウキ(杯)をもち、右手でイクパスイ(酒捧箆、彫刻を施す)をもち、この先に酒をつけ、それをイナウに軽く触れるようにつけながら祈り言葉を唱える。そうすると人間の言葉はイクパスイに伝わり、イクパスイはその言葉をイナウに伝え、イナウは、次のイナウを従え、人間の言葉と供物を伴って神の国に向かう。人の目に見えずとも、鳥の姿になって向かうのだといいます。▼クマ祭り~アイヌ語でいうとイオマンテ、「熊の霊送り」のこと。クマは神の国からやってきてこの世でクマの形に化身し、訪れた食料の神です。そのクマを捕獲し解体する段階で、魂は肉体から離れる。その魂をコタンや家の客人として招き入れる。客人を稲の上坐側に安置し、コタンの人々が集まり酒宴をくりひろげ、ユカラや舞踊をおこない、その客人を数日にわたって手厚くもてなす。その後、丹念に彫刻した矢や、きれいに削り上げたイナウ、多くの食料や酒、太刀などの土産品をたくさん持たせ、自分たちのコタンを訪問してくれたことへの謝辞とまたの再訪を願う長老の祈り言葉とともに、客人の親・兄弟が住まう神の国に旅立たせるのです。▼コタン~一つのコタン(むら)が一つのエカシイキリ(祖父の系統)でかたまる「自然コタン」、和人との交易上からできた「強制コタン」がある。イウオルは資源調達の場。▼誕生~子供は生まれてもすぐ名前はつけない。早くから名前をつけると、悪い神様に名前を覚えられ悪さをされるので、固有の名前は少し大きくなって抵抗力がついてから、その子供のしぐさや癖などの特徴をもとにして名前がつけられた。▼歌と踊り~コタンの平和のため、多くのまつりごとを通して、神への感謝の踊りがおこなわれた。「ウポポ(座り歌)「リムセ(踊り歌)」を基本として、多くは集団で踊られます。▼楽器~ムックリ(口琴)、トンコリ(竪琴)、太鼓、拍子木、草笛、鹿笛(狩猟道具)などがある。▼口承文芸~ユカラは、英雄叙事詩といわれ、拍子木で炉縁を叩きながら、節をつけて語られる冒険物語です。長いものは三日三晩のものもある。聞く人たちも拍子木で調子をとり、語りの合間に「ヘッ、ホッ」などの掛け声を巧みに入れながら、語る人とともに物語のなかに参加します。

3.国際化と市民 
▼ここにきて先進国では、先住民が営んでいるような生活様式を単に「遅れた生活」としてみるのではなく、環境適応型の生活様式モデルとして評価しようとする考えが広がっています。それは、市場経済に対する計画経済という対立図式に代わって、市場経済に対する「生態経済」というカウンター・エコノミクスが登場してきましたことからも分かります。生態経済というのは、今は大学では環境経済学とも呼ばれていますが、環境への負担を極小化する省資源・省エネルギー型の経済システムとか、地球全体での持続可能な成長など、市場経済システムの中で付加されるべき新しい視点が必要とされる時代だということです。

▼そこで、地球環境の「容量」というような考えを導入すると、第三世界や発展途上国がすべて先進国モデルの経済発展をめざせば地球がパンクするという予測がある一方で、途上国の指導者の多くは現実に先進国型の経済成長をめざしているという困難な問題があります。先住民族が採用しているような「生態経済」を先進国に住む人々が評価したとしても、それを後発国に強要はできない。先住民族は発展途上国でも少数民族ですから、やはり強要はできません。ですから、この問題は経済問題としてだけでは解けないだろうと思います。経済に文化を加味するといいますか、経済学に文化人類学を加えたような新しい理論で対処しないと、どうにもならないでしょう。▼おそらく、私たちにとってはシューマッハの仏教経済学の考え方が参考になると思います。著書『スモール・イズ・ビューティフル/人間中心の経済学』(講談社学術文庫)は「極小の消費で極大の満足」や「巨大技術より中間技術の可能性」を提起しています。ぜひ手にとって読んでみてください。

▼ですから、発展途上国は、自然破壊を抑え外貨をかせげる観光産業で産業発展させるのが妥当な政策だとおもわれます。本来の観光は、その国の光を観ることですから、原生林や自然のままの海岸、場合によっては先住民族の生活そのものが「光」になります。生態系や土地の大きな改変を伴うような開発事業と比べれば、観光客が原始的な自然にアクセスできる最小限の交通を確保すれば成り立つ観光は、自然破壊を抑えながら外貨をかせげる産業になります。▼私の体験では、ケニアのマサイ族のある村の事例がそうでした。

▼実際、観光で成り立っているとこもあります。フィジー共和国(人口73万人)、途上国ではありませんがモナコ王国(人口3万人)、タイも工業化が進んでいますが観光産業はGNPの7%を占め外貨を稼いでいます。▼スペインの観光産業はすごいですよ。この国は外国人観光客をもっとも多く受け入れていますが、地中海の海岸の沿ったコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の道路沿いに、といってもそれは延々100キロ以上にわたってホテルや貸別荘などの宿泊施設が連続しています。しかもこのコスタ・デル・ソルはスペインの地中海側の1000キロを超える海岸の一部にすぎないのです。欧州の北の人々が、物価が安く滞在費が少なくてすむスペインへ大挙して押しかけるのがよく分かります。
▼そのようなわけで、発展途上国の自然、とくに地球の「環境インフラ」といってよいような生態系が残っている地域は、工業開発が将来とも入ってこないような観光を経済発展として探るべきです。日本のODAもそのような政策に協力すべき時です。▼今世紀は、世界経済において巨大市場をもつ中国が注目されるのと同じくらい、世界文化においてはアフリカが注目されるでしょう。音楽だけでなく、美術とか映画とかも含めてです。赤道直下のサバンナやジャングルで、現地の集落の中に彼らの住居と同じスタイルのコテージがあってそれがホテルになっていて、打楽器の音楽で現地の人と一緒に踊れるような旅行ができたら、なんてことを考えると、もうどうしょうもなく血が騒ぎますね。▼ケニア自然保護区でテント宿泊体験したことありますが、そこでは踊りこそありませんでしたが、その片鱗は感じとることができました。

▼さて、町づくりにとっての国際化のやり方に移ります。自治体の国際交流は、海外の姉妹都市との交流はしていますが、いずれもマンネリ化していますから、日本の国際貢献という面からも自治体が途上国援助活動を行うことが期待されます。その場合は行政に十分なノウハウがありませんから、既存のNGOと提携したり青年海外協力隊の体験者を取り込むなどして、理念や計画づくりから始める必要があります。狙うところは、発展途上国の将来を担う人材の育成をやや長期にわたって、つまり長い目で支援することです。人材育成という点でみると、東南アジアの子供たちが中学校などに行けるよう奨学金を送る活動とか、ネパールの山奥に学校を建設するとかの市民団体の活動がすでに動いていますね。▼地元のJICAの活動からヒントを得ることもできそうです。

▼ですから、自治体だからこそできる息の長い人材支援事業を行うことを狙いにして、将来その国を動かすような特定の人材を自治体が育てあげることは有意義だと思います。古くは中国の魯迅、台湾の総統になった李登輝は、いずれも日本の植民地時代に日本の大学で学んでいます。▼発展途上国の英才を探しだし日本に連れてきて、高度な教育を与えるような事業を行うべきです。もし日本に適当な教育機関がないなら、奨学金を与えて欧米で学べるようにしてもよいです。日本の地方自治体がこれから挑戦するにふさわしい価値ある国際貢献策のひとつとなるでしょう。

▼次に、国際化と地方分権とがセットになった「日本国土のビジョン」を想定してみまましょう。いまもこれからも「東京」を経由しないで地方が世界とつながる時代に差し掛かっています。ですから、アジアや欧米の主要都市と直接つながった、国際空港をもつ地方中核都市を核にした地方圏の再編によって、分権的な政治・行政体制を、具体的には連邦制国家の州政府にあたる新しい地方政府をつくることです。▼札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡、那覇の8都市想定し、国土を八つの地方政府とします。これは道州制の考え方と似ていますが、上から見下ろして国土の線引きをするという発想ではないところが違います。▼それと各地方政府は人口規模が同じでなくてよろしい。東京を中心とする地方政府は関東地方のほかに静岡、山梨、長野、新潟、福島を含め4~5千万人、沖縄は150万人、北海道は500万人ですね。米国だってカリフォルニアやテキサスのような人口の多いところと、ハワイやアラスカや東部の小さな州のような人口の少ない州が共存しています。▼その際中央政府は、通貨、外交、国防、連邦警察、皇室機能などと、最小限の地方政府との調整機能を残してスリム化します。公務員数が2割くらいになれば東京・霞が関にあっても構いません。これで従来の遷都論は吹き飛んでしまいます。▼これに対して、市町村自治体は、住民の日常的な自治活動の拠点ですから、できるだけ現状のまま残すのがよいでしょう。行政の効率から市町村合併を進められていますが、しかしこの方向ではなくコミュニティのことを考えるなら、ドイツのようにもっと市町村自治体はもっと細かくてもよいと考えます。▼こういう話は、皆さんにもそれぞれ一家言あるでしよう。十勝は一つ、という広域一市論が話題を呼んでいますが、どう考えますか。

2.高齢化社会と市民 
▼さて次は、がらりと話が変わります。高齢化社会の問題です。平成16年で全国の65歳以上の人口は19.5%ですが、あと10年後には25%に達すると推計されています。これは日本史上かつてなかったことです。でもこれはカラ騒ぎです。数字のマジックですね。高齢者を75歳以上とすると、かなり氷解します。しかも、いわゆる寝たきり老人はそのうち3%程度ですから、総人口に占める割合は0.4%ほどです。まあそのほか痴呆老人とか何らかの介護を必要とする高齢者もいますが、65歳以上の大部分は元気といっていいでしょう。それがよくわかるのが空港です。羽田とか成田にいくと高齢者が目立ちます。海外の旅先にも高齢者があふれています。ですから今の高齢者世帯は貯蓄も高い水準にありますし、旅まで行かなくてもゲートボールに興じ、高齢者福祉センターでお風呂やカラオケで昼ひなかから元気に遊んでいれば喜ばれるわけですから、健康なお年寄りにとってはわが世の春といった時代です。

▼ともかく、寝たきり老人が総人口の0.4%というのは、人口1万人の町で考えると40人ということです。多めにみても100人でしょう。名前を全部覚えられるくらいの数です。残り9900人の元気な住民が100人の困っている老人を助けられないはずはありませんよね。ですから高齢者社会はメディアが騒ぐほど怖くはないのです。
▼もっとも国全体で考えると、20年後には働けない65歳以上の高齢者1人を、働ける若者が2~3人で支えるといわれていますが、しかしこれも65歳以上は働けないということを前提にしいるからです。また高齢者の年金問題も難問のようですが、無い袖は振れないわけで落ち着くところに落ち着くしかありませんね。これから高齢者になる人はそれ以前の人より幾分不利になる、といったところでしょうか。楽観すぎますか。▼高齢者を若い世代が支えられなければ、団体旅行やゲートボールをやっていた元気な高齢者は必要なだけ働くようになります。企業も若い世代が減るわけですから女性や高齢者を適正な賃金で活用せざるを得なくなります。▼それと、高齢者になる人は、生活費のかからない自分なりのライフスタイルを用意しておくことです。森永卓郎『大不況!!年収120万円時代を生きる』(あ・うん))は参考になります。これもぜひ読んでみてください。

▼再度申し上げますが、総人口のせいぜい1%、30年後でも2%そこそこの本当に困って救いを求めているお年寄りを皆で助けてあげるのが福祉事業です。これはきちんとやらなければだめです。しかしそれ以外の高齢者は、あるいは助けを求めざるを得なくなる前の元気な高齢者は、一人前の成人として、幼児のようにではなく人生の先達として尊敬の念をもって接するのがいいわけです。

▼それに、長寿は必ずしも美徳ではありません。▼まず私の体験を話します。10年ほど前食道がんになり手術と放射線治療をしました。退院してから半年いや1年間ふらふらしながら考えるともなく考えたことは、自分個人としては50年間生きてきて、本当は生かされてきて、人生というものがだいたいわかったような気がするから、まあ十分だ、よくやった、昔から人生50年というではないか、というようなことでした。しかし他方で、まだ十分に世の中に恩返しをしていないというか、社会に貢献をしたという実感がもてない。死んでもそんなに悔いはないけれども、できたらもう少し生きていたいというのが一応の結論でした。私の世代でしたら同じような場面に出くわしたら、だいたい同じように考えるのではないでしょうか。戦争生き残りの体験を持つ人なら、人生もっと大事にせよといわれるかもしれません。そんなことがありましたので、その後、私の知っている50代、60代の人が亡くなったりしました、悔やむとか惜しむとか、そんな風には思わなくなりました。生物の歴史も、運の良い個体が生き延び、不運の個体が死ぬというようなことを繰り返しながら生き延びてきました。人間も生物ですからそれでいいわけです。長生きをめざすことが本人にとっても社会にとっても一番重要な目標だとは思わなくなりました。

▼話は元に戻って、自治体の審議会の市民参加の状況を見てみましょう。地方自治体での10カ年計画の審議会などでは、その町の各界の代表が委嘱されて出席しますが、20~30人のメンバーのうち60代と70代が半分、50代を加えると9割を占めており、明らかに老害現象です。そのことは結果として地域の未来への展望の足を引っ張る役割を演ずることになります。ちょっと暴論になりますが、第二次世界大戦後なぜ敗戦国であった日本とドイツが飛躍的な経済成長をなしとげたかという質問に対するいちばん納得できる理由は、敗戦によって古い世代が一掃されたからとういうものです。歳をとったら社会に貢献したいと私も思いましたが、これからの地域づくりはどうするかというような未来を考える仕事は若い人に任せるべきだと思います。そこで、審議会とか自治会長とかは委嘱型代表者は、55歳ないし60歳になったら行政が地域功労賞を与え退いていただく代わりに、地域アドバイザー人材バンクに登録していただき、会議に招聘されたときだけ助言をする。議決権は持たない。そうすれば停滞ムードの地域は元気になれるかと思います。それでもがんばりたい高齢者は市町村長や議員に立候補すればいいのです。

3.地域社会と市民 
▼さて、地域社会と市民の話です。地域社会(コミュニティ)は、自然発生的に住民の相互依存や役割関係を生み出し、そして役割が多様であるほど、人々は「束」にされにくくなります。国家から発想するとどうしても「束」になります。しかし地域の人と人とが日常的に顔を合せる社会では、困った人たちをどう助けてあげるかを、こまめに具体的に福祉政策として組み立てることができます。この目に見える社会は、心地いいですし、やさしさ、人間らしさを感じます。欧米の小さな単位の町、アジアやアフリカの農村集落なども、町のたたずまい、集落の姿までがとても美しいのです。▼このようなコミュニティの心地よさはどこからきているのかといいますと、広い意味での経済関係あるいは交易関係から来ているに違いありません。マーケット、バザール、スーク、市(いち)などの名で物資を売買する場所は地球に普遍的にあります。そこでもちつもたれつ(ギブ・アンド・テイク)の経済的な相互依存関係や役割が生まれ、人間が一人あるは一家族では生まれない社会的な価値が生まれるのでしょう。▼一般的にいって、役割が多様にある町がいい町だろうと思います。一様な住宅地よりさまざまな業種のある混在型の下町の方がおもしろいですね。

▼十把ひとからげの束にされにくい社会からは、偉大な個性を持った人物が現れる度合いが大きいだろと考えます。日本ではアジアのトップランナーのような人がでにくいようです。現代史にでてくるアジアの政治家は、インドのガンジーやネール、中国の孫文や毛沢東、チベットのダライラマなどですね。アジアで初のノーベル賞をもらった文学者はインドの詩人タゴールでした。インドや中国の古代文明以来の伝統の厚みだといえば、そうかもしれません。経済大国になりながら世界史上まれな平等社会(今は格差社会ですが)を実現した日本社会は、国の顔である政治家を含め、個人の個性が希薄な社会です。それを地域から改良してくというのがここでの視点です。

▼日本がこれからめざすべき価値は「エクセレンス(excellence)」です。卓越したという意味ですが、すぐれたもの、気品や品格のあるものに対して使う言葉です。物質的に豊かになった後はどうしても気品や品格が欲しい。最近は、藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)など、○○の品格といった本が出ているようですが。▼さて、革命家であった毛沢東は、田舎の出身でしたが歴代の中国皇帝や高官のように立派な詩や書を残しています。以前、フランスと大統領と西ドイツの首相とが夜間に長電話をしているので、政府の諜報機関は何事が起ったかと盗聴したところ二人は音楽やオペラの話をしていたそうです。イラクのサダム・フセインの話もあります。彼がアラブ・イスラム世界の指導者に思われることはないだろうといわれていました。それは朗々とした声でコーランを唱えられないからです。ガラガラ声でした。かつてエジプトのナセル大統領はとても美しい声の持ち主で、アラブ・イスラム世界の指導者として崇められたそうです。このように第一級の政治家には実務能力を超えたエクセレンスが要求されるのです。みんなが一様にエクセレンスになれませんから、少数のエクセレンスな人が現れ、その人が周りに影響を与え、そうしたことから地域が、全体がエクセレントになっていくしかありません。

▼つまり地域には先導者が必要だということに置き換えますが、その地域おこしには「キーパースン」が必ずいましたし、これからも必要です。大分県大山町のウメクリ農業を導入した矢幡治美さん、湯布院町を映画祭や音楽祭で文化的な温泉リゾートにした溝口薫平さんや中谷健太郎さん、十勝ワインの丸谷金保さん、宮城県中新田町にバッハホールをつくった本間俊太郎さん(宮城県知事になるも収賄容疑で逮捕)、岐阜県のオークビレッジの稲本正さん、帯広のランチョ・エルパソの平林英明さんもその中に入るでしょう。みなさんはどんな人をご存じですか。▼地域おこしという観点からみたとき、他の人にはない独自の能力や技術、情報や人脈をもつキーパーソン候補者は、だいたい人口千人に一人の割合だと直感します。このことを福沢諭吉がどこかで言っていたように記憶しています。人口1万人の町なら10人、10万人の町なら100人ですね。そういう潜在的なキーパーソンに目を向けるのです。▼村瀬章『北のパイオニアたち』(はる書房)には、十勝のキーパースンたちについて書かれているので、ぜひ一読をしてみて下さい。そこで書かれていることを引いておきます。地域のキーパーソンがたちを素晴らしいと思うのは、その人自身が能力をもっているからだけでなく、その人の能力を生かしている周りの人たちがいるということです。キーパースン本人も、自分のやるべきことを地位や特権とは考えず、たまたまその時点、その場所で自分の知識や能力を生かせる場面があるからそうしているだけで、時と所が変われば別の人が中心になり自分は側面から協力しようと、というようなスタンスをもっているんですね。このような人がキーパーソンです。決してリーダーではないのです。これは地位志向ではなく役割志向の地域社会と言っていいと思います。▼(⇒人口希薄地域では一人二・三役を)

▼生活環境が新しくなれば文化が活性化するというのは間違いです。文化創造のためには、安定的な生活環境が必須です。長期にわたってあまり変わらない安定的な生活環境があってこそ、人々の生活感情も安定し、内面的に深い文化活動、あるいは斬新な、ときには革命的な創造性が生まれるようです。よく引き合いに出されますが、大英図書館の古色蒼然とした書棚のある部屋からマルクスの著作が生まれ、バロック時代の佇まいを残したウィーンの街からフロイトの精神分析が生まれてきました。いまだって、欧米の古く静かな大学都市の建物の中からノーベル賞級の急進的・根源的な研究が生まれているのです。▼日本の場合はちょうど逆で、騒々しい環境の中で凡庸なことを考えています。30年たつと建て替えられるような安手のピカピカ建築で、底の浅い実利的な頭脳活動が量産されているのです。

▼人材論について補足的に話しますが、地方分権に関しては、判断力や政策の立案・実行力を含め、都道府県や市町村の役所には50~100人に1人の割合で中央官庁のキャリア組官僚に匹敵する潜在的能力をもった人がいるとみています。▼それと、町づくりにおいては住民の意識傾向も知っておかなくてはなりません。住民は日常の身辺空間と惰性的時間の中に生きています。広い地域の将来がテーマになるような場面で、日常的惰性の中にいる住民の声をそのまま未来に反映させるのはとても危険です。十分は情報を提供し勉強してもらって上でなければ、住民の声は将来を決める有効な意見とはなりません。「情報なくして参加なし」です。ですから行政の住民アンケートは直ちに政策には結びつかないということです。

4.地域経済と市民(第四講再掲) 
▼ここでは、地域経済にとってヒントいっぱいのボローニヤ方式を紹介します。博物館と職業教育と人材蓄積が、三位一体になっている見事さがあります。『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)からです。▼人口38万人のボローニヤには、たくさんのミュゼオがあります。ミュゼオとは、美術館や博物館や陳列館のことをいいますが、それが市内に三十七もあります。ついでですから、ほかの施設の数もあげておくと、映画館が五十、劇場が四十一、そして図書館が七十三です。さて、この三十七のミュゼオは、どれをとっても第一級で、半端なものは一つもありませんが、ここの産業博物館は、その独特なおもしろさにおいてほかに類をみないもののように思いました。そしてこの産業博物館は、使われなくなった煉瓦工場が使われていますが、徹底的に改造され、まったく新しく蘇って、底光りするような頼もしい建物になっています。▼それとこの博物館には三つの原則があります。一つは、展示は二カ月ごとに変えること。これは工業専門学校の生徒たちが、授業の一環としてやっている。なにをどう展示するかは、デザイン科の生徒たちがいつも知恵を絞っているので、お金はそれほどかかりません。ボローニヤには、イタリア最初のアルディーニ・ヴァレリアーニ工業専門学校があります。設立は1844年ですから歴史は古い。もっというとこの産業博物館そのものがこの学校の付属施設なのです。▼博物館の第二の原則は、ここの展示はほとんどが動くというものです。例えば、「シルク都市時代のボローニヤ市街」という、十五、六世紀ころの惚れ惚れするほど精密精巧につくられたミニチュアの模型があります。アペニン山脈の麓のなだらかな斜面に旧市街が広がり、遠くにポー川の支流のレノ川が流れているのが見える。まるで五百メートル上空に浮かんだ気球から眺め下ろしているようです。赤いボタンを押すと、軽い機械音とともに、街全体がぐんぐん上にあがっていき、その下から街の地下一階の模型がゆっくり迫(せり)上がってくる。そのころ、大抵の家の地下に紡績機がありました。つまり地下一階が小さな紡績工場になっていたのです。赤いボタンをもう一度押すと、すると、またもや街全体の地下一階が持ち上がって、その下から地下二階のミニチュア模型が迫上がってきました。その地下二階はまるで運河の網の目模様でした。遠くのレノ川から導かれてきた青い水が、街の下を右へ左へと巡りながら建物の地下を通り抜け、やがてレノ川下流へ流れ込む様子が手に取るように分かるのです。レノ川の水を導いて得た動力のおかげで、ここは世界一の絹の産地になりました。そしてボローニヤの絹はベネチアへ運ばれ、全ヨーロッパに輸出されたのです。さてこの展示館では、まだ見ごたえのある展示があります。ここの二階と三階をぶち抜いて、当時の紡績機が陳列されていました。上から下まで木で精巧に作られていて、赤いボタンを押すと、木琴でも奏でているような、気持ちの良い音を出しながら回り始めました。大小何千個もの木製部品が、大中小の歯車で調整されながら各自さまざまな速さで動いて、何千本という糸を見る見る紡いでいきます。見事なものです。地下を走る運河の網の目模様と、この紡績機を見るだけでも、成田・ボローニヤ間の航空運賃を払う値打ちがあります。この博物館はいきいきと生きていました。▼博物館の第三の原則は、この博物館がこの専門学校の卒業生の同窓会館の役割を果たすということです。ここの卒業生のほとんどが地元の職人企業に就職しますが、彼らは足繁くここに通って、たがいに親睦をはかったり情報を交換しあったりしています。こうして産業博物館を中心に分厚くて親密で巨大な情報網が形成されていることになる。同時にこの学校は技術研究所でもありますから、卒業生を対象にした集中講義が初中終(しょっちゅう)行われています。つまり、ボローニヤの職人たちは生涯ここで勉強するわけです。そしてその中心になっているのが、この産業博物館なのです。▼ここで少し注釈を加えると、職人企業とは、製造業では従業員が二十二名以下、伝統産業では四十名以下の、小さな企業のことです。ここで働いてやがて熟練工になると、いつでも独立できます。

▼シルク都市時代からの技術の集積、熟練工たちの巨大な情報網、職人を大切にしようという意思、そして生まれた土地で育ち、学び、結婚し、子供を育て、孫の顔を見ながら安らかに死ぬのが一番の幸せという生き方、そういったこの土地の精霊がボローニヤに、フェラーリといった高性能自動車や、ドゥカーティといったものすごいオートバイを生み出したのです。ちなみにセリエAのサッカーチーム「ボローニヤ」を財政的に支えているのも、この産業博物館を中心とする職人企業のネットワークだそうです。▼そして今、ボローニヤは世界の包装機械の中心地になっておリ、パッケイージングバレーと呼ばれています。ティーバッグと薬品の充填包装システム機械では世界一のIMA社を訪問し話を聞くと、この会社は1924年に設立されたACMAというチョコレートの「包装機械メーカーがあって、それがIMA社の母会社となそうです。戦後1947年にあの工業専門学校を卒業したロマニョーリという青年がここで熱心に仕事をして熟練工となり、1961年に母会社から独立し、IMA社を設立した。この時に大切なことは、「母会社の技術を持ち出すことは許されるのですが、母会社と同じものを作ってはいけない」ということです。ですから、チョコレートの自動包装機械の技術をもとに、自動ティーバッグ包装システムを開発し、つづいて自動薬品充填システムを完成して、世界市場を制覇したわけです。もちろん、買い手の工場に機械を納めたら、それでおしまいというのではなく、しばらくの間、機械と一緒に暮らします。そして買い手の要望を聞きながら、機械の微調整を行います。買い手側の技術者がその機会を完全に使いこなせるまで、その地に留まっているのです。▼このように母会社のACMAから包装機械作りのノウハウを持って分かれて行った企業は、戦後から現在までに、五十社以上にも及んでいるそうです。そして、この五十の包装機械企業のネットワークを、部品を供給する三百社が取り巻き、ボローニャに包装機械についてのありとあらゆる技術を集積させている。こうなったら強い。パッケイージングバレーといわれる所以です。▼IMA社では日本茶の自動ティーバッグも作っているそうです。注文主は伊藤園だそうです。日本人の舌は敏感で、最初はリプトン紅茶などと同じに、ティーバッグをホッチキスで止めていましたが、どうも金気を嫌うことが分かりました。そこで糸を使うことにしたわけですが、これが技術的にむずかしい。ティーバッグの口を糸で結わえる装置を考え出すのに三年かかりました。それでもこれが好評で、いまではリプトン紅茶などもこのやり方です。つまり日本人の敏感な舌が、世界の紅茶バッグの味を向上させたわけです。▼こうして、ボローニヤの地域産業が生まれ育ってきました。ここには貰えるヒントがたくさんありますし、その流れが感動的です。

5.町づくり人・故Yさん 
ここでは、この十勝・帯広の地域づくりを支えてきた方(四人)を紹介します。私が影響を受けた人たちでもあります。まず、故吉村博さんからです。▼明治四十四年池田町に生まれる。旧制帯広中学校卒、水戸塾中退後、父の吉村木材会社に入社、同社専務。その後会社が倒産。帯広市公安委員長、公民館運営委員長、消防団副団長を経て、昭和30年に社会党公認で帯広市長に当選、以後五期連続。革新市長の最古参。趣味は魚釣りと、若者と酒を飲むこと。ゴルフ嫌いで有名。昭和四十九年市長を辞任。昭和五十八年死去。人間的な魅力は、なお市民の記憶に新しい。吉村冬俳句集に「白玉の味なき味をこのむなり」「覇を去りて雪の故山に帰りませ」「くさめして小さき悟り落としたり」がある。▼『これが本当の町づくりさ。鋳型の25万都市なんて話にならねえー』(昭和47年11月号「月刊エコノミスト」);二十万人都市人口制限論の根拠は、その町が飯を食っていける一つの経済単位である。大学や教授など人材温存、音楽堂・美術館・博物館など文化施設の維持、きめこまかい行政ができる単位である。また、公害の線は人口が二十万人辺りから急に立ち上がるような気がする。…オレはとことんロマンチストだ。非常にピンが甘いんだ。そこでね。逆にうんと科学的な行政をやろうとした訳だな。企画室をつくり自前の総合計画をつくった。全国でも早かったな。町の看板として「近代的田園都市」を提案したが、説明するとなると時間がかかって訳が分からなくなる。その頃は、大体が畑の中の町ですから、田園都市なんて言うと馬糞を思い出して泥臭いんだ。すごく。後に山形市が「文化的田園都市」を提唱したので、同憂の士ここにありと勇気づけられた。…町というのは個性が嫌になるくらい、泥臭いくらい個性が出ているものだとオレは思う。日本列島改造論の、あんな型でつくったようなもので、三十も五十もあちこちできたら、鋳型町だな、これは。そんなの駄目さ。…国の打ち上げた政策に直ぐに飛びつくべきでない。利益あるのもいいけど、いきなり自分を無にして飛びつくなんて話にならない。少なくとも首長のなす役割ではないな。首長はもっと偉いもの。そしてもう少しサムライになっていなきゃ。

▼『グリーンベルトに囲まれた街づくり』(昭和47年11月号「中央公論」);近代的田園都市を支える「緑の工場公園」とは、グリーンベルトで囲まれた百八十万坪の内陸工業団地で、煙と汚水はタブー。さらに「帯広の森」は、二十万人の街を包む六百八十六㌶の面積で幅五百五十㍍、長さ十一㌔の緑地構想。十勝川と札内川の堤外地四百九十㌶をあわせると一千㌶を超える。これが帯広のグリーンプランである。…地方都市、自治体というのは個性ふんぷんとした泥臭いもの。そこに住む人の意思、感情の内側まで入り込んでいくことなしに、地方政治はない。ここが「列島改造論」の最も欠けたところである。▼『帯広のまちづくりとその姿勢』(1973年10月号「地域開発」;数年前の田園都市は肥やし臭いなんだか惨めな印象がありましたが、最近はいかにも緑の滴る、空気のいい、水のきれいなというイメージに変わってきた。じっと十年辛抱すれば、何かいいことあるものです。…計画は自分の手で作り上げ、それを学者に監修してもらう位がいい。…自分の町を二十万人という具合にきちっとした目処をたてて、その目処の中で施策をしておけば手戻りがないわけです。…なぜ人が多ければいいかというと、それは経済的な問題でしょ。経済的な視野で町づくりを考えられたらかなわない。町づくりはそんなものではない。…何か日本一をひとつ作っておかなければ話にならない。嘘でもいいから一つや二つ日本一を作って、一・二年言っておれば、本当になります。この事を考えて下さい。

▼『街づくりを考える-市民定員論』(昭和46年「北海道自治研究」);海のないところに港はつくれない。山のないところで登山はできない。そうした自然の条件や環境を無視してはどんな良い考えも夢想に終る。…二十万人都市定員論の意味は、一つは人口と都市公害の問題である。二つには都市を整備したり都市に必要な種々の施設の維持管理がやや可能なこと。三つには経済的にもある程度充実がはかられるだろうし、かつさまざまな情報も集積できるだろう。四つには大方の分野に相当の人材が居着いて貰えるだろう。五つには行政関係でも目の届く、いわゆるきめ細かい行政ができるだろう。住民との意思交流ができるだろう。…新しい街は伝統らしいものが何もない。伝統の気質を何にするか。私は子供と老人を大切にする。この考えを固定化してそれを伝統に仕立て上げたいと思う。単純な、素朴な、そして泥臭いものほど、伝統としては呼吸が長いと思うのだ。動きの激しい時代だから、地方色がローカルなものが、逆に光を増す。であるから、われわれは道産子の持つ良さ、抜けているもの、大まかなもの、泥臭いもの、開放的で積極的なもの、そういった気質を大事に保存し、それをよい方向に凝固させたいものだと思う。▼『豊かな緑に囲まれた都市づくり』(昭和48年10月号「公園緑地」第34巻1号);将来帯広に住むであろう二十万人の豊かな生活空間を保障する市街化区域を、文字通りすっぽりと包み込む「帯広の森」は、莫大な資金と歳月が必要となる。しかし、こうした事業は時代の社会的要請となることは必死であり、長期的展望のもと英断を持って実行する必要がある。…この土地に開拓の鍬を下ろして、依田勉三のちょうど裏返しの夢を九十年後の子孫たちが待望を抱いて、これから歩みだす。歴史とは面白いものだ。…小さな庭に、朝から小鳥が来手いる。やがて見る限りの樹林に小鳥が鳴きあい、小さな獣が走り回るであろう。おそらく私は、それを見ることはできない。だが、子供たち、子孫たちは。

6.町づくり人・故Kさん 
つぎは故木呂子敏彦さんです。▼大正3年(1914)十勝管内池田町に生まれる。旧制帯広中学卒。教員、十勝農業学校研究科生、道庁勤務を経て上京。雑誌編集に携わり、応召。昭和23年公選制初の道教育委員に当選し二期八年努めた。道農業自立推進協議会常務理事を経て、昭和35年帯広市役所入り。昭和46年から49年助役。勇退後、村おこし運動に奔走。音更町在住。博学で行動の人である。▼『ヨーロッパの地域開発』(1971年「工業立地」第10巻2号・日本立地センター);ヨーロッパの近代には中世があり、アメリカの近代には中世がない。…都市と道路の関係でその国の性格が決定する。アウトバーンは絶対に都市の中には導き入れず、むしろスプロールをこの道路で救済している。一方、日本の国道一号線は銀座の真ん中を走り、アメリカではアラスカ・カナダへのフリーウェイがサンフランシスコの中央を通り抜ける。ニューヨーク、シカゴなどは白痴的都市。…ヨーロッパの市役所を訪問すると、古くからの都市景観の歩み、あるいは古い市街地図から説明が始まる。必ず都市計画の歴史から説明が始まることに感動した。彼らは都市の歴史性から、都市計画の未来を語ろうとしている。…加藤秀俊はゲルマン共有地の延長であるパーク(公園)と地中海文化としてのプラザ(広場)を比較しているが、どこの都市にも「へそ」があることに驚いた。…中世を欠落させた日本の近代化は、土着を破壊することになる。連続性のあるヨーロッパの近代化と、非連続性のアメリカの近代化にはっきりした相違がある。

▼『水耕の土壌肥料学から地球にやさしい土壌肥料学へ』(1990年旭川大学地域研究年報第13号);中村桂子の「土なし農業」を批判。…土壌管理の原則は、堆きゅう肥の施用、微量要素の施用、土壌診断の活用である。一般的な微量要素の欠乏は、ルーサンではホウ素、トウモロコシでは亜鉛、果樹・牧草では鉄である。▼『森が土を作り水をつくる』(1989年旭川大学地域研究年報第12号);熊本県阿蘇山麓の七滝村(現朝日村)では、土地を切り開こうとしたが水がない。そこで半世紀にわたって吉無田国有林(旧細川家領地)に部落総出で植林し、枯れ川に滔々と水が流れるようになった。▼『柳田國男・北海道の旅を追って上中下』(1985年年旭川大学地域研究年報第7・10・11号);昭和8年8月7日から9月5日に、網走・釧路・帯広を経由。吉田巌日記によると21日夜帯広駅下車、信陽館に宿泊。翌22日昼過ぎの列車で旭川に向かう。…十勝の団体入植の出身地は、焼畑農耕地帯が圧倒的であったが、五年輪作(むつがえし)と空中窒素を固定させるハンノキなどマメ科の樹木を植林するなど地力維持体系を確立していた。不合理な焼畑農法であったとすれば数千年も続くはずはない。…昭和3年、帯広伏古コタンのアイヌ酋長伏根父子と柳田は朝日新聞社屋上で写真。

▼『私の土地利用開眼』(昭和56年旭川大学地域研究年報第3・4号);伊丹と羽田の間の夜間便で、驚いた。漆黒の闇に、東海道は光の帯で鈴鹿峠だけが寸断。こんな狂気じみた都市構造をもつ国なんて、世界のどこにある。都市というものは構造的に、点と線にとどまり、面として凝縮するものという意識の欠如の結果である。…氏の戦時体験であるロシアの森林労働。▼『欠かせぬ道東の視点』(昭和50年2月「北海道を考えなおす」シンポジウム);ソクラテスは「汝を知れ」と言っているが、十勝・道東の特性、可能性を徹底的に考え抜く時であり「二眼レフ論」を提唱したい。十勝圏を考える場合、帯広を中心主義になれば、浦幌や陸別は偏狭になる。ところが道東一体でとらえれば、十勝圏の入口になる。例えば農業の場合、牧草の生産力が低く冬の飼料確保に困っている根室の酪農地帯に、十勝のビート・豆作地帯から副産物飼料(葉と茎)を送り、地域連携を重視したい。▼『日本の土地利用を考える/鳥の目・ミミズの目から』(1980年8月号「技術と経済」);森林と農業の基本視点からの土地利用展望。…農地は農民的土地利用者集団の公益的共有法人の管理所有とし、私有財産としての移転を排除すべき。その上で耕作利用権を保護する。農地も水系別に一種から三種までの用途を指定。

▼雑誌ユリイカ『総特集・宮沢賢治』(昭和15年5月)の座談会の冒頭に「自己紹介、私は神田の木呂子俊彦です」とある。氏の目に見えない師は賢治。その他文献は以下の通り。『弱肉強食の論理から棲み分けの理論へ』(1982年5月「ふるさと十勝」)、『アメリカ農業視察報告』(1983年10月「ふるさと十勝」)、『東ドイツ農業と矢島理論』(1981年10月「農事組合だより」)、『小規模な農協をめざして・中札内』(1981年11月「地域開発」)、『日高の水資源』(1983年3月「ふるさと十勝」)、『十勝から北海道を考える』(昭和53年旭川大学地域研究年報第1号)、『技術革新と教育』(「北方農業」)、『私のなかの歴史』(1992年8月20日~31日北海道新聞夕刊)。

7.町づくり人・Sさん 
つぎは、下河辺淳さんです。▼1923年東京生まれ。国土事務次官など国土政策に長く携わる。新全総の水系単位の開発は、十勝圏をモデルにしたと言われる。『戦後国土計画への証言』(1994年日本経済評論社)から;一つの国の土地利用を見ていくと、一番奥に山があって、山を下りると、森がずうっと続いていて、この森というのは、水と木材を供給しているだけではなくて、信仰の対象でもあった。そしてそれを下りると里山があって、里山というのは薪炭林の供給地であったり、あるいは小動物の生きる場所であったり、情緒的には小川のせせらぎとか、仲秋の名月のススキであったりという情緒深いものがあって、そして紅葉があって、日本人の情緒を支えていた地域があって、それを下りると畑が出てきて、それを下りると水田があって、お米を作って、しかも面白いことに、大名の偉さを何万石という石高で表現するようになっていて、いい水田を持っていなかったらいい大名ではないというようなことになる。水田を去ると、今度は城下町が出てきて、城下町は、軍事基地や行政が中心であったけれども、その周辺には、職人がいっぱい存在して、手作り型の手工芸品のメッカだったり、文化や音楽の中心でもあった。そしてそれを下りると海があって、船舶が経済を支えているという構造なんです。つまり、いま申し上げた山から海までを一貫していたものは水系なんです。だから、上流から下流までの水系の一貫管理という形を土地利用として、こんなに上手くつかまえていたということは、すごいと思うのです。国土管理史に学ぶべきことはとても多いという感じがする訳で、そういう国土政策をやってきたという歴史があることは、もっと勉強すべきことだと思うわけです。…江戸には水系主義があったが、明治はどちらかというと交通主義になった。交通主義というのは、道路でも鉄道でも、日本の地形では海岸線に並行することが原則であって、水系と垂直に交わる。そのことは、土地利用の混乱要因でもあるわけで、もう一回水系に戻って、森の管理から都市の管理まで考え直してみようという根本的な提案を国土政策としてはやりたいと思っているわけです。そういう発想からいうと、二十世紀の巨大都市主義を否定することにさえなっていくのではないか。巨大都市は、生態系がどうしても受けて立てない要素がぬぐいきれないという気があって、生態系と人工系が共存できるものはどんなものかを探っていくことに、一番関心が大きい。…瀬戸内海だってちょっと太い川でしかない、と豪胆なことをいう人です。

▼プランナーという人材は、現場で訓練しなければだめなんです。出世する人ほど人事のタイミングが早い。それが人材が育たない最大の理由です。私のように十年も続けてやらされていれば、プランニングできるようになる。そんな難しい話ではない。専門なんていう難しさよりも、相手の話をよく聞くことがプランナーのテーマなんです。それで納得のいったことだけを言えばいいので、自分にアイデアなんて要らないのです。ただ、十年もバカバカしいことをやる元気があるかどうかだけの選択の問題です。…先祖が植えた木を現在使って、子孫のために木を植えるのが人生五十歳の哲学なのです。ところが人生80歳の時代になると、小学校の時に植えた木が、自分の還暦の時に自分の家の木材になるというようなことになると、人間と森の関係がちょっと違って見えてくるのではないか。…計画の期間については、経済の時間軸とドッキングさせると五年・十年とうことになるが、空間計画としては二十年・五十年、長期の未来像は百年から五百年、場合によると千年というように三段階になっていて、根本的に違った思想体系を持たざるを得ないと思っている。

8.町づくり人・Mさん 
最後に村瀬章さんです。▼1943年岐阜県郡上八幡町に生まれる。1966年京都大学建築科卒業、1971年東京大学都市工学科博士課程中退、現在村瀬都市研究所を主宰し各地の都市計画に参加。▼『山梨県地域づくりフォーラム-21世紀への地域づくり』(平成2年11月22日);日本社会のどこかに気品、気位、あるいは洗練のようなものが欲しい時代になってきました。そういうエクセレントなものがないと、われわれ日本人は本当の満足感や自尊心を持つことができなくなってきている。…国や地域のリーダーにもエクセレントが必要です。音楽や絵画など文芸百般に通じる感覚・感性・素養が求められている。これがないと先端的まちづくりができなくなってきている。…これからはヨーロッパが手本になる。どこでも都市景観が美しく、農村に行くとことさら美しい。さらに生活様式に関しては、大変落ち着きのある生活をしていることである。▼エクセレントな地域づくりとしての国際化。国際化という視点から見ると、日本の地域をよくする課題が山ほど出てくる。都市の騒音(防災無線の公共放送)・騒色が農村まで押し寄せ、小鳥の声や川のせせらぎも聞こえない。望遠レンズでトリミングしないと日本の農村の景色はビューティフルではない。▼エクセレントな地域づくりとしての芸術文化。活性化のためには、地域も異質なものと出会う必要がある。かっての閉鎖的な農村共同体でも村人は客人(まれびと)あるいは祝人(ほいと)といった外からやってくる人々を歓迎した。地方にとってもう一つの異質は、高度な芸術文化である。なぜ異質かというと、高度な芸術というのはよく分からないからである。クラッシク音楽は聴く度に新しい発見がある。分かろうとする努力することが精神を活性化させる。気持ちよく分かる演歌では村おこしはできない。大都市が若者を惹きつける最大の要因は芸術文化に触れる機会である。「地方は東京の真似をするな」などという言葉を信じるな。東京にあるエクセレントな部分を積極的に導入すべき。▼エクセレントな地域づくりとしての地域教育。地域の大人たちがインストラクター(指導者)になって地域の自然や施設その他を活用した地域教育プログラムをつくり、子どもたちのグループを指導。…地域の人々が地域の伝統に自信を持つことができれば、外からくる異質なものを堂々と受け入れることができる。その一点で過去が未来の資源になる。

▼『原点からの都市計画』(昭和52年北海道自治研究99号);家族はデザインできる。殺人事件の四割が肉親関係で生じている。父親というのは人間の発明品でたかだか二百年の歴史しかないが、母親は一億年の歴史を持つ。家族の機能は、子供の「社会化」と大人の「安定化」の二つである。…劇作家の木下順二氏は朗読の習慣を復活させようという。「話す・聞く」という原始的コミュニケーションが団欒の中心になる。家族が個人にとって最初の「公」であるような関係においては、明確な言葉できちんと話さなければならない。話すことが楽しみであるためには、機知や気取りも必要であろう。そこで磨かれるのは社交のセンスといってよいものである。そういうものがあるところには他人も入り込みやすいであろう。居間は公共空間であるからプライバシーがなくてもよい。…日本の家屋がもう少しオープンであったなら、近隣との団欒は合奏、合唱、小劇場と多種目になろう。これは地域社交生活といえるものである。▼『北のパイオニアたち』(1983年はる書房);百年目を迎えた十勝の開拓者たちは、次のような特徴を持っている。第一に、自然環境が豊かなこともあって、野性的である。大きな筏を作って川下りを楽しむ。凍った湖の上に雪の家を作って住む。そういう野性的な遊びを次々考え出している。第二に、十勝の開拓を始めた人たちが福沢諭吉の門下生だったこともあって、独立自尊、あるいは自立の気風が強い。気持ちだけそうなのではなく、自分の手足を使って何でもやってしまう実学派の独立人である。岩波文庫の「フランクリン自伝」で知られるベンジャミン・フランクリンのような人間だと考えてよい。第三に、歴史の浅い開拓地だけに一人で出来ることには限りがあるので、連係プレイがうまい。このように「野生・自立・連携」という三つが、十勝の開拓者たちがいま持っている特質である。これは二十一世紀に向かう日本人に必要な性質だと、わたしは思う。…イーストコースト型都市計画は132~141頁に詳しい。

▼『みちのく・高らかルネッサンス』(日本経済新聞1989年9月13日);明治以降の芸術家などの輩出を調べると、芸術、工芸などの造形芸術(空間芸術)では西日本が圧倒的な優位に立つのに対し、文学、音楽、芸能などの無形芸術(時間芸術)では、東北も優れた人材を多数輩出している。『東北は唱う』(筑摩書房1989年);バリ島のガムラン音楽の演奏で銅製の打楽器がぶつかりあうと可聴域帯を超えた高い周波数の倍音を生む。それが人間の脳に作用すると快感のために恍惚状態になり失神する人も出てくる。アフリカのピグミーたちは森の中で木々のざわめきや動物の鳴声など自然が発する高周波数の音をいつも聞いているのでストレスはない(大橋歩)。…人間が生理的快感を最高に得る方法は三つあって、一人でできるのが「食」、二人でできるのが「性」、三人以上でできるのが「祭」である。…ポリフォニーの深淵:ルネッサンス期のポリフォニー合唱曲は、それ以降の時代の音楽に比べるとテンポも穏やかで、とくに宗教合唱曲は深い憂愁の情感に浸されている。…時代の病理(宮本忠雄;精神医学者)でみると、中世はヒステリー、ルネッサンス期から16・17世紀まではメランコリー、19世紀はパラノイア(妄想症)、20世紀は分裂症。…あえてモノに拘泥しないその高度に形而上的な志向がリベラル・アーツの教示である。東北で歌う人達は、ここが深く地域性と歴史性にとらわれた土地であったゆえに、そこから垂直に突き抜けようとしているのである。地は分有され天は共有される。ポリフォニーの彼方に、開かれた精神の王国、魂の宇宙都市が望見される。

▼他文献『まちづくり教育の理念と展望』(昭和56年6月「都市計画」)、『現代建築はいかに可能か』(建築文化241号)、『開拓都市・帯広の形成』(都市計画80号)、『住宅建設と都市計画』(北海道自治研究56号)、『帯広・未来の住人たち』(「都市と住宅」1972年12月号)。

以上で、地域における「これまで」の市民、「これから」の市民の話をしました。終わります。

9.資料編 
▼書籍資料/『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)。
▼印刷資料/「(資料)アイヌ文化を知ろう」。
▼写真資料/「マサイ族村の観光(ケニア)」。

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