2010年3月30日火曜日

カメラ・自転車・キウィ

(O坪先生退任記念誌へ寄稿)▼この土地に現れて/もう四半世紀にはなるでしょうか、O坪先生を含む東洋大学の三人の先生が、日本の地方都市の比較調査を始められました。その中の一つが帯広市で、当時、帯広市の企画課にいた私は、調査の窓口のような役割を引き受けました。一年限りかと思っていたのですが、先生の思い入れで毎年調査。この調査のねらいは一体どこにあるのか。結論から逆算する自治体の仕事とは違うことは薄々わかっていました。調査の過程で先生は結論めいたことはおっしゃらない。「地域が語りだすまで待つ」民俗学者・宮本常一の姿と重なります。▼カメラ・自転車・キウィ/先生のトレードマークは、使い込んだニコンのカメラと、折りたたみ自転車。その愛車で街中くまなく駆けまわっていました。市街地から40km離れた八千代牧場まで行ってきたこともあるそうです。とにかく見事なまで広範囲でした。ある時、先生手作りのキウィのジャムをいただきました。聞けば、横浜のご自宅の屋根の上で栽培したものだとか。都市で田舎生活を楽しむ様子が窺えました。▼調査の姿勢/まずは先方の話を聞くことに徹していました。とにかく、地元に馴染み、外来者の気配を消しながら、その足でデータを貯める。そしてその膨大な資料から、地方都市の人とコトと社会的役割がどう絡んでいるかをつきとめていく手法であることが次第にわかりました。先生の調査方法を見ていて、思い出すことがあります。大正時代でしたか、ある学者がフランスの農村に調査で入り、その村で何年も静かに暮らし、周りの住民が彼を日本人だと意識しなくなってから、社会調査を始めたという逸話です。建築分野では、十勝に移住した「象設計集団」などもそのやり方なのかもしれません。しかし四半世紀をかけて一地方都市の社会動態を調べ上げる例は稀でしょう。▼地方都市社会のキーパースン/地域おこしには「キーパースン」が必ずいます。大分県湯布院町の溝口薫平さんなどが知られています。他の人にはない独自の情報・人脈・能力をもつキーパーソンは、だいたい人口千人に一人の割合だと直感します。人口十万人の町なら百人です。その人たちには、自身の能力ばかりでなく、その人の能力を生かしている周りの人たちがいます。キーパースン本人も、自分のやるべきことを地位や特権とは考えず、たまたま自分を生かせる場面でそうしているだけで、時と所が変われば別の人が中心になり自分は側面から協力するスタンスです。ですからリーダーとは違います。これは地位志向ではなく役割志向です。▼アラスカでは三人に一人はクラフトマンだと聞きました。家一軒を建ててしまうそうです。人口が少ない地方都市は、いろんな技ばかりでなく、まちづくりでの役割を多重にもつことで、多様な社会ができ上がる。一人二役ないし三役を引き受ける社会。その社会構造が先生の長期調査で明かになるような気がします。(と)

2010年3月28日日曜日

自治体学入門 (MA-10)

10.自治体学入門
内容
Ⅰ 自治... 1
01.自治体学の誕生・特徴・課題... 1
02.市民にとって自治体とは何か... 2
03.自治体の成立と必然性... 4
Ⅱ 歴史... 6
04.戦前-中央集権と自治体... 6
05.戦後-民主主義国家と自治体... 6
Ⅲ 政策... 7
06.中央政府の限界... 7
07.政策形成主体としての自治体... 8
08.政策の課題と手段... 9
Ⅳ 経営... 10
09.地域経営と組織経営... 10
10.財務と運営... 11
Ⅴ 主体... 14
11.市民と市民組織... 14
12.首長、職員、専門家... 15
13.議会と市民投票... 16
Ⅵ 展望... 17
14.地方分権から地域主権へ... 17
15.資料編... 18


▼この分野での一人者である田村明(地域政策プランナー、法政大学名誉教授、「まちづくり」と「自治体学」という名を広めた)さんから教わります。かれの『自治体学入門』(岩波テキストブックス)から抜粋してお伝えします。これは大学の地域政策論などの講義にテキストとして使われているようです。如是我聞。

Ⅰ 自治 
01.自治体学の誕生・特徴・課題 
▼「自治体学」は自治体を市民による身近な政府として捉えることから始まる。学者・研究者だけが研究する従来の学問の枠に閉じ籠らず、市民や自治体職員の立場からも考えてゆく実践的な学です。
▼自治体学への始動。1995年の「地方分権推進法」から具体化し、1999年に475の関係法を改正する「地方分権一括法」が成立し、翌2000年4月から施行された。その一連の動きにみるように、自治体が力をつけ「自治体学」を求める方向に進んできた。▼自治体に関する研究や書物がとくに多くなったのは、第二次大戦後である。それは新憲法に「地方自治」のⅠ章が加わり、「地方自治の本旨」に基づき新しく地方自治法が制定され、自治体は戦前とは違うまったく新しいものに生まれ変わったからである。
▼しかしまだ呼び名は「地方公共団体」。その地方自治法では「自治体」とはいわずに「地方公共団体」という言葉が用いられている。中央政府は、自治体とは認めず下部機関という扱いで、実際にも「機関委任事務」という制度もありましたから、各省庁の出先機関としての役割が強かったし、自治体側も、中央政府を「本省」と疑問なく呼んでいた。▼しかし、1960年代になると、その考え方も見直しが始まり、「地方公共団体」や「地方自治体」という用語ではなく、自治体の自立性や主体性をハッキリさせる「自治体」という名を用いる動きが強くなってきた。▼正面から自治体学という用語を使ったのは、1978年に横浜で開かれた「第一回地方の時代シンポジウム」での、長洲一二神奈川県知事が初めてであった。知事は「地方の時代」と「自治体学」を提起した。そのころ国では、大平首相が「田園都市国家構想」を提出していました。実質執筆者は下河辺淳(国土庁事務次官、国土計画のドンと呼ばれる)さんです。▼「自治体学」および「自治体学会」が設立されるのは、知事提唱から9年後の1987年です。▼自治体学の課題。松下圭一氏は自治体学の問題領域として、①理論研究(自治体とは何か)、②実証的研究(自治体の実態分析)、③政策的研究(自治体改革の総合的手法、自治体施策の個別的手法)の三つを挙げ、なかでも「政策研究」が期待される分野であるとしている。

02.市民にとって自治体とは何か 
▼住民は自治体をどうみているか/住民は自治体をどのように考え、自治体とどのように付き合っているのだろうか。もっと突っ込んで考えれば、自治体は住民にとって本当に必要なものだろうか。まず、自治体のなかでも一番身近な市町村について考えてみよう。戦後の憲法では住民によって首長や議員を直接選び、地域の必要なことは自前で共同して処理し、住民が自らを治める身近な自治体になったはずである。だが、住民の側からは、戦前と同じように「役所」「役場」あるいは「行政機関」にみえるのではないだろうか。住民は引っ越すと住民票の手続きにしに市町村の窓口に行く。結婚したり子供が生まれれば届ける。必要があれば住民票や印鑑証明を取りに行く。しかしそれ以外はほとんど窓口に行くことはない。最近はコミセンなどで証明書類を簡単にとれるから、ますます市町村の窓口に行かないですむ。必要がなければ「役所」はあまり行きたいところではない。
▼ヨーロッパの例/ドイツのハノーバー市役所の様子を話します。これはどこでも大体同じでしょう。古い古典的な風貌をした大きな建物を入ると、入口の高い吹き抜けのあるホールには、市の各時代ごとの大きな模型がある。そこには小さな城郭に囲まれていた時代もあるし、第二次大戦で瓦礫になった姿もある。回りには説明のパネルがあって、小学校や中学校の先生が生徒を引率して説明している。2階には立派な議場があり、子供たちが覗きにくる。屋上のドームの塔に上がると、先に模型でみた全市の姿がそのまま見渡せる。まさしくここは市民の城であり、市民は自治体の歴史と実態を学び、自分たちのものだと実感できるであろう。ドイツのエッセンとかフランクフルトでもそうでしたね。
▼市町村の仕事/もう少し現在の市町村の実態をみてみると、住民に日常的にさまざまなサービスをしている。生活になくてはならない上水は市町村によって提供され、生活から出たごみを回収して焼却したり処分し、下水道を整備して処理している。これらがきちんとした仕事をしないと、市民生活は直ちに困ってしまうだろう。▼大きな幹線以外の道路は大抵は市町村道である。家の前の小さな道もそうで、市町村が整備し維持管理をしている。身近な公園も公立の保育園も市町村が運営する。小学校、中学校もそうだが、先生たちは都道府県という自治体の一員である。公立の病院も市町村が建設し運営するものが多い。日常の消費物資を流通させる野菜や魚の市場も開いている場合もある。人間一度はお世話になる火葬場や墓苑も市町村が運営しているものが多い。火事がおきたりする急病人が出たときに駆けつけてくれる消防車や救急車は、市町村やその連合体によって運営されている。大きな都市では市営バスや地下鉄を運営しているし、小さな過疎村では民営バスがないために、町村で運営しているところもある。所得の低い人々のために公営住宅を供給する。公立の老人ホームもそうだ。国民健康保険や介護保険も市町村によって行われる。収入がなく生活に困ったときや、母子家庭になったりしたときに援助してもらうのも市町村だ。▼市町村だけでなく、都道府県もまた自治体である。公立学校のほとんどは都道府県によって運営されている。国が管理しているものを除くと、大抵の幹線道路は都道府県が管理し、または国から管理を委託されている。警察も、都道府県の公安委員会で運営し、交番や警察署も都道府県という自治体の予算で建設される。警察官も、国家公務員である少数の幹部職員を除き自治体職員である。▼ということで、まだまだその範囲は広くて、とても全部を挙げることはできないが、このように身近なサービスの大半は市町村、少し規模の大きなものは都道府県という自治体によって提供されている。住民の生活は、多くのことで自治体に依存して成り立っている。ですから、住民と自治体は、住民の生活が円滑にできるように自分たちで治める自治体であるはずです。市民に役に立つ所としての市役所。ガッテンですか。

▼制度上の自治体/日本国憲法では、新たにⅠ章を設けて「地方自治」を保障し、住民は自治体の首長や議員を直接選挙し、自治体はその地域については、財産を管理し、事務を処理し、行政を行う権能を有し、条例を制定することができることになった(憲法第93条・94条)。憲法と同時に制定された地方自治法では、二層制の自治を定めた。①基礎自治体(市町村、特別区:東京都)、②広域自治体(都道府県)。
▼連邦制への課題/都道府県が中途半端な存在としてみられ、不要論なども出てきている。現在のように交通や情報のネットワークも充実し、実質的な生活も著しく広がっている時代には、広域自治の単位も再編成する必要があるだろう。日本でも「道州制」が議論に上がっている。これは広域自治体で、その長は住民の直接選挙によるし、自らの議会をもつ。これは現行憲法のままでも、自治法改正で対応できるだろう。しかし、これは連邦制といっていい。「連邦制」で大事なことは、形式的に現行の府県の合併によって州にするということでも、実質的には、現在の国の抱えている内政上の権限のほとんどを州に分権するということである。つまり、1999年の地方分権一括法でも徹底を欠いた地方分権を、本格的に行うための単位をつくることである。現にネットワークが必要な国鉄も分割できた。現在の都道府県は中二階的な存在になっているから、その役割は一部を除いて大部分は市町村に分権する。市・州・国・国際機関という単純明快な構成にして、あとは任意に市の広域連合と、一方では「日常生活自治体」としての「コミュニティ」をおけばよい。州をいくつかにするかは問題だが、7~10くらいが適当だろう。沖縄は小さくても一つの州になるのがよいだろう。連邦制はまだ具体的な日程には上がっていないが、広域自治体論として研究されるべき課題です。もし連邦国家になれば、現在問題になっている首都移転は全く異なった様相の議論になる。首都そのものの意味が変わり、中央政府も、内政に関してはほとんど自治体に関与しないことになる。

03.自治体の成立と必然性 
▼集まって住む人間/人類はその発生以来、集まって住み、小さな共同体をつくることによって生活を維持してきた。集団の規模、内容や形態は変化してきたが、集団生活をやめたことは一度もない。これが基礎自治体の起源である。原始の集落でどのような社会生活が営まれてきたかの確証はない。しの遺跡の跡をみると、多くの人々が共同作業をして集落をつくったこと、互いに何らかのルールがあったことが推測される。重要なことは「集まって住む」とは、ただ群がるのではなく、お互いに協力しあう共同体だということである。つまり、構成員もリーダーも、それなりのルールに従い、自分たちで集団を維持し、その利点を活かそうとする「自治」の心がある集団で、「集まって住む」には原始的な「自治」が前提であった。それは「共同体」であると同時に「協働体」であった。協力して働かなければ集団の力は弱い。▼縄文時代には大権力者はなく、比較的平等な社会であったとされてきた。最近の発掘では埋葬などに違いがあり、すでに身分差が発生していたという説も出てきたが、三内丸山の遺跡などをみても、大きな集会場以外は、家々も比較的平等だし、リーダーは存在したにせよ、集団の内部では一種の自治が行われていたのではないかと思われる。とくに大きな問題が起きたときには、全員の気持ちが一致しなけれ対応できないから、集団討議にかけた決定が重要だったはずだ(アイヌのチャランケ)。「集まって住む」力を発揮するためには、集団内部の「自治」的な要素は欠かせない。

▼近世以前の日本の自治/日本では古代に「律令国家」という中央集権体制が確立してゆく。地方を60余りの「国」という単位に分け、そこに守(かみ)とか介(すけ)という中央からの「代官」を派遣した「官治」である。しかし地方は中央から遠い。中央政府が隅々まで地方を直接把握することは不可能だ。租税を徴収できればよいとして、中央派遣の役人もだんだん現地に行かなくなる。あるいは地方の者を任命する。いずれにしても地方を、それなりに自治的な運営にしておいた方が、中央の官治側でも都合がよかっただろう。▼平安時代の貴族たちの荘園制は、中央の有力貴族が自ら中央集権的な律令体制を壊して、地域に自分たちの私的な自主運営をし始めたものである。しかし、貴族が実際に現地に行くことはないから、荘園を管理運営する武士層が一種の自治権を得て力をつけてゆく。武士たちも自ら開拓した土地を形の上では貴族や大寺院に寄進して、実質的に自ら管理する。次第に武士が力を得ると、中央政府からの自立を求めて、自分たちのリーダーである平将門や藤原純友を立てて戦った。これは中央からみれば「乱」と呼ばれたが、地方が自立し中央からの離脱をはかったものである。▼地方の自立度はさらに高まり、武士たちはついに源頼朝を立てて鎌倉に幕府を開き、武家政治を始めた。これは、地方の開拓農民であった武士たちが、中央政府や貴族たちの支配から脱して自立しようという運動で、当時の「地方の時代」であったともいえよう。都からみれば全く草深い田舎でしかなかった鎌倉に幕府を開いたのも、その象徴である。
▼時代を経て中世になると、農村部では「惣」という一種の自治組織が生まれる。初めは特定の特権層の支配だが、次第に集団指導の平等原則が強まる。混乱した社会のなかで、自分たちの集団利益を守るために自ら「掟」をつくり、内部の統一をはかる。応仁の乱で社会が乱れると、いっそう自治自立が必要になってきた。京では「町衆」という自立の集団が生まれる。町人ばかりでなく下級の公家なども含めていたようだが、政府の力は弱くなり当てにできないので、自分たちの手で共同して集団の安全と利益を守った。▼戦国時代末には、町に堀を巡らして集団で自衛する堺のように、西欧の自由都市に近い、町人が自立した都市が生まれた。この町の運営は有力な36人衆が行い、大権力に属さない自主性・自立性を求める「自由都市」である。そこに、利休などが独特の文化を創造した。一向一揆も、本願寺を中心に民衆や地方武士が自立して戦国大名と対等に対峙した。これらは「他治」を排除して、抗争のなかで「自立」を内外に認めさせ、「自治」を行い「自主」を勝ち取っている。ただし、これらは戦国時代の収束によって体制に組み込まれ、西欧のように自治を維持することはなかった。▼戦国時代が終わり、徳川幕藩体制が成立すると、士農工商という強固な身分制を定着させ、自治的な組織を制限していった。しかし、まったく自治がなくなったわけではない。民衆を押さえつけ過ぎると反発を招くので、自然に生まれていた村にはある程度の自治は認めていた。そこに名主、庄屋、年寄りなどという村役人がいる。役人といっても百姓で、世襲もあるが、一部では選挙もあった。彼らは封建支配体制の最末端の「官治」機関である代官の支配の下に年貢を徴収し、必要な触れを民衆に伝達した。だが、この人々はもともと住民代表でもあって、百姓一揆のときに訴えの先頭に立ったのは庄屋や名主が多かったのをみると、限定的ながら自治組織であった。▼封建大名は、領国のなかで独自の法令をもち、藩札という紙幣までも発行した自立度の高いものだった。もちろん封建時代の藩は、住民の政治参加を認めたわけではない。だが、地域ごとに独自の施策を行って、個性ある文化を育てようとする自立性があったし、藩にもよるが村には相当な自治を認めていた。▼人間の集まるところは、ある程度の自治を与えなくては成り立たない。人間それぞれに本質的に個性と自立性があるからであろう。それを認めない人間集団は、軍隊、警察、監獄ぐらいなものである。

▼自治の必然性/近代国家にもさまざまな形態があったが、国民国家をつくり上げたのは民衆の力である。アメリカが州国の独立、フランスの大革命、その前のイギリスの名誉革命などは、いずれも市民側が民主主義的な原則を当時の権力者に実力で承認させていった。その過程を経て、近代国家は民主的な国家として成立し、民衆が主権者としての地位を勝ち取ってきた。市民が地域の自治を行うのは、民衆的国家の形成と同じ流れにあるので、地域の「自治」は自然であり当然のことである。▼だが、日本の場合には、市民によって民主主義国家を認めさせたという歴史がない。明治維新も民主革命ではなく、幕藩体制から明治政府への上部権力の交代であった。第二次大戦の敗戦によっていきなり外から「民主主義」と「自治」が与えられたが、住民が自前で得たものではないから、民主主義にも自治にも戸惑った。しかし、日本国憲法では「地方自治」の一章を設け、それに基づく地方自治法で自治は規定されている。しかし地域共同体は、国家も憲法も法律もない時代から存在し、どの時代でもそれなりの自治を行ってきたという人類の歴史からみても、集まって住むという人間の本質からみても、自治的な集団生活は固有のものであろう。

Ⅱ 歴史 
04.戦前-中央集権と自治体 
▼版籍奉還と廃藩置県/統一中央集権国家をめざした明治政府が最初に行ったことは、1869(明治2)年の版籍奉還である。各藩主の「版(土地)」と「籍(人民)」に対する統治権を、すべて朝廷に返還した。日本全国は9府20県273藩、合計302に分けられた。その後府県の数を次第に整理し、1876(明治12)年には、現在より少ない3府35県1藩(琉球だけは藩)にまで圧縮した。現在の47都道府県ができたのは1888年で、以後110年間全く変わっていない。▼戸籍法の制定/廃藩置県に先立つ同じ1871(明治4)年に制定し、翌年から施行された「戸籍法」は、富国強兵策の一環の「徴兵制」実施のために、国民の現状を把握するのが目的である。▼「市制」「町村制」/地方制度がまだできていなかったため山形有朋の強い主張もあって、1888(明治21)に市制・町村制が公布された。その山形は「わが国の立憲政治の運営を円滑にするには、国民を啓発訓練する必要があり、そのためには地方自治は最高の学校である」と述べている。▼明治の町村大合併/この市制・町村制に合わせて行ったのは、町村の合併である。中央統制のもとに町村を組み込むには、あまりにも町村の数が多すぎた。この結果、1888年に71,314町村であったのを1889年には15,820に圧縮した。▼フランスでは、日本の市町村のような区分はなく、大きなもの小さなものもすべてコミューンと呼ばれる基礎自治体だ。フランスは日本よりも強い中央集権制だといわれるが、1990年現在でも36,551のコミューンがある。そのうち人口1000人未満が12,534、1500人未満になると15,162もある。現在の日本の市町村は約3,200、フランスの人口は日本の半分だから、自治体の平均人口規模はフランスでは日本の20分の1以下という小さなものである。行政効率という面よりも、身近な単位の「自治」が尊重されている。これに対して日本の自治体では、自治の立場からの単位よりも、国を区分する行政単位としての効率性が重視されてきたといえよう。
▼中央集権の功罪/このように、強引ともいえる中央集権体制は、「自治」の意識を育てず、「オカミ」の指令に黙々と従う地方機関をつくってきた。しかし、明治初期の日本にとって中央集権がすべて間違いだったということはできない。鎖国体制と封建的な身分体制のなかにいたものが、突然に欧米大国から開国をせまられ、いかにして欧米諸国に追いつくかということのために「富国強兵」政策をとらざるを得なかった。政府は身分にとらわれずに能力のあるエリートたちを選抜して欧米に派遣し、技術・制度などあらゆる先進的なものを貪欲に学ばせた。必要と思われるものを取り入れ、それを全国に普及させた。中央集権によって全国に「義務教育」を行い、学制を整備し、また近代技術を取り入れた官営の工場をつくり、民間に払い下げるなどして近代工業の発展をもたらした。この時代は中央集権体制が効率的であり、富国強兵策も功を奏し、国民生活は相当に向上したといえる。▼この頃の帯広の開拓史(晩成社の民間人開発)と重ね合せると時代背景がわかる。

05.戦後-民主主義国家と自治体 
▼戦後民主主義は、民主的な地方自治が必要だという占領軍総司令部の強い意向によって、「地方自治」というⅠ章が、1947年の日本国憲法の中に制定された。92条から95条までの4カ条です(資料参照)。その後1949年にシャウプ博士が来日し、税制改革を含め行財政全般の「シャウプ勧告」を出した。その中に、地方財源の充実とか、自治体間の財政の不均衡を是正するための「地方財政平衡交付金」の制度化などがもり込まれた。しかしせっかくのシャウプ勧告で得た自治体の自主財源も、大きな経済変動に対応できず、国はさまざまな補助金を各省各局競争で新設あるいは増額し、自治体はその枠に完全にはめ込まれた。機関委任事務も毎年増加し、都道府県行政では7~8割、市町村行政でも4~5割といわれるほどになる。▼市町村合併のその後は、昭和の大合併、平成の大合併を経て、平成22年3月31日には1751(市783町780村188)が予定されている。▼さて、次は地方分権の時代にさしかかりますが、1999年の「地方分権一括法」により、国の関与の廃止縮減と自治体の自己決定の確立のための、懸案であった機関委任事務を全面廃止した。国と自治体は、これまでのように「上下・主従」の関係ではなく、「対等・協力」の関係に位置づけた。憲法の原則からすれば当然のことであるが、ようやく本来の自治体へと転換できることになった。機関委任事務を廃止し、自治体の責任で処理する必要のあるものは「自治事務」とした。ただ全国的な統一性を確保すべきものは「法定受託事務」とすることで決着した。

Ⅲ 政策 
06.中央政府の限界 
▼自治体の必然性/これまで述べてきたように、人間らしく自主的に生活できる社会システムとして「自治体」は人間社会にとって必然である。だが日本の実態は、明治以来現在まで、中央集権と官僚機構により全国を統治し、自治を最低限しか認めないシステムをつくってきた。今日になって、やっと地方分権が叫ばれているが、これがなぜ望ましいシステムなのかを、もう少し突っ込んで考えるのも「自治体学」の課題である。▼中央集権型の政治行政の限界の一番の理由は、その制度疲労にあります。かつて効率的であった中央集権が、非効率なものに変わってきた。より多くの地域の人々の知恵と行動が必要になってきたからです。いくつかの例を出します。①画一行政。小中学校といえば全国一律マッチ箱を並べたような無愛想な校舎になってしまう。林業の盛んな地域でも木造校舎は認められなかった。駅前はどこも同じ個性も顔もない街になってしまった。北海道から沖縄までを全国一律で押し込めるのは原理的にもともと無理で、しかも中央集権ではいちいち地域の個別事情に細かく対応できない。②バラバラ行政。これは福祉・建設・環境などどの分野でもみられます。中央集権では、国で決めた施策は、国・都道府県・市町村の流れの中で、ほぼ同じ名称をもつ担当部門別の「系列」(企業も系列!)を通じて実行される。一口に国といっても、その実態は各省各局各課別の縦割り施策であり、それらが相互に関連もなく、自治体は縦割り施策のまま行う。ですから地域の事情を加味した、あるいは総合的な施策を展開できずにきた。例えば足の不自由な人に装身具や松葉杖を厚生省が半額補助する制度がある。北海道のある自治体が、氷の上で滑らないように杖の先端に金具(アイスピック)をつけようとしたところ、「マニュアルと違うから、厚生大臣に申請せよ」といわれ、手続きをしているうちに時間がかかり雪が溶けてしまった。現場での判断に任せておいてよい話である。国は外交・軍事などに絞っていい時期である。このように国が地域の個別事情を中央で判断するのは所詮無理である。③よって、地域運営は住民に直接対応し、個々の事情にもこまめに対応しなければならない。それは中央政府では不可能で、自治体の運営能力に期待するほかない。
▼都市型社会の到来/現在のわれわれの社会は完全に農村も含め「都市型社会」に入っている。1世紀前までは農村中心の「農村型社会」であった。それがいまや「都市化社会」を経て「都市型社会」へ移っている。とくに交通・通信の発達はさらに都市化に拍車をかけ、ついに人口1000万人を超える超巨大都市を出現させた。東京大都市圏は、東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城県の一部にまたがる3200万人の世界最大の都市圏を形成している。▼さて、この都市化現象で都市はますます便利な存在になっていったから、集団ではなくても独りで自立して生きられるようにみえる。だが実態はその逆で、都市型社会ではますます集団の力で出来上がった装置やサービスの援助なしには暮らしていけない。農村社会と違って、個人の力では生活に必要な水・食糧・エネルギーの自給自足は全く不可能だし、生活必需物資から廃棄物の処理にいたるまで、すべてを共同システムに頼らざるを得ない。戦前・戦中の東京都の区部(地方都市も)では、まだ人力で汲む井戸に頼り、下肥(しもごえ)を使って小さな畑をつくることもできたが、いまではとても考えられない。▼現在の人間は独りでは何一つできない弱い存在になっている。文字通り「揺り籠から墓場まで」を、地域共同体をはじめ多くの力に支えられなければ生きてゆけない。それなのに意識としては共同体に頼らず、独りでも勝手に生きてゆけるような便利さと気軽さを享受できると思っている。こうした錯覚をもたらすのが現代の都市型社会である。生活単位が大きくなりすぎ、あまりにも技術が発達して便利になり、共同体も共同装置も日常では実感しにくくなってきた。税金を負担し、必要な料金を支払えば各種のサービスを利用できるから、目にみえるかたちで共同体に参加しなくてもすむ。都市の住民は、地域の共同社会に関心がなくなってきた。だが、いったん災害がおき、事件が発生して都市装置が働かなくなって初めて共同社会の存在に気がつく。都市型社会が住民の目を曇らせていることに気づかなくてはならない。

07.政策形成主体としての自治体 
▼自治体の立場/いままで話してきた、中央集権の制度疲労、都市型社会、民主的な市民社会といった課題に対応するには、市民の自覚(参加)による自治体づくりがその答となる。自治体は、①「市民の事務局」として自治体の政策・運営や市民生活にかかわる情報を発信・提供し、また市民のさまざまな声を受け止め、その苦情や要望に対応する。②「共同装置・サービス提供者」としての円滑運営、③「強制力のある市民政府」として市民ルール徹底と無限に膨らむ市民要望をコントールする、③「市民の調整者」として多様な市民間の調整、④「地域経営者」として地域資源を生かし政策を実行する、⑤「組織管理者」として、これらの仕事を行うための自治体組織を整え効果的な運営をする。▼中央政府の限界がはっきりした現在、自治体に求められる重要な点は、政策主体として機能することである。
▼市民政府としての自治体/自治体は市民の事務局であるとともに、市民に身近な「市民政府」として、中央政府ではできない役割が期待される。法的・財政的に権限や財力が不十分だとしても、地域のために理念を提示し、政策を提案し、実行しなければならない。自治体が政策主体になることで次のことが期待される。①市民参加・市民主体の政策(自治体が政策主体になることは、市民が参加し市民政府の実感がもてることである)。②地域個性的政策(全国画一をやめ地域ごとの施策展開となれば地域の独自文化を育てることにもなる)。③総合的政策(各省ごとのばらばら施策に振り回されることなく、地元の諸施策をつなぎ合わせ効果的に政策を展開できる)。
▼市民政府運営の基本/①市民参加(自治体の政策と運営に参加できること)、②情報公開(市民が判断できる情報が常に予め提供され、必要に応じて進行形の情報も公開されること)、③説明責任(政策内容、理由、方法、効果、経過などが市民に対し十分に説明されていること)、④市民監視(行政の不正を防止し、外部の公平な眼でチェックされるシステムを具えていること)、⑤市民投票(重要問題については、市民が直接判断を行える機会があること)。

08.政策の課題と手段 
▼政策の調整/市民の共同装置として、下水処理場、塵芥焼却場、最終処分場、葬祭場などはどうしても必要だが、設置しようとする地区では「迷惑施設」として拒否され排斥される(国レベルでは原子力発電所が典型)。最近はその範囲が広がり、幹線道路、高齢者や障害者の施設、学校、保育園、公営住宅なども拒否されることがある。これら迷惑施設は共同生活に必要なものであり、施設立地と市民感情との調整が大きな課題となっている。また都市型社会では矛盾・対立事項が多く、日照やプライバシー問題、車と歩行者、自転車と駅前、生活者と生産者の衝突などがある。これは市民同士では片付かず、自治体という共同体で支援し解決すべき課題である。▼よって、自治体の政策を進めるに当たっては、市民の意見を積極的に聞かなくてはならないが、すべてを無条件に受け入れる「御用聞き行政」になることは避けなくてはならない。市民の要望には相互矛盾もあり、資源や資金の限界から全部がそのまま受け入れることはできない。自治体は市民の声を調整し、市民とともに考え、有効な政策提案を行うべきである。▼また、その政策主体に変わっていくためには、①首長のリーダーシップ(中央政府の言いなりにならず、自前発想で市民政府を引っ張っていく器量)、②企画調整能力(縦割りのバラバラな行政組織や施策を、総合的にまとめ動かす仕組みと、職員の政策形成能力の養成)、③市民参加の組み込み(情報なくして参加なし、市民生活環境マップ)など、市民政府と市民参加の両輪を動かす条件を整える。▼とくに、企画調整部門(政策マン)は、①将来へ向けての大局的な方向性を戦略的に組み立て、関連する人々や部門を巻き込みつつ、個別事業や施策を動かす「忍者」の役割が必要、②総合計画などの計画立案過程に、政策に関連する職員参加を行いながら、タテ割りから横につながる総合政策を展開する「タテをヨコにする能力」、③政策実現のために他の多くの企業・団体・公的機関などに働きかける「プロデュース能力」が求められる。
▼政策の評価システム/自治体のなかで、行政評価システムの先導的な役割を果たしたのは三重県(北川知事)で、1995年度に「生活者起点の行政運営」をめざして「さわやか運動」を始めた。「さ」はサービス、「わ」は分かりやすさ、「や」はやる気、「か」は改革(既成概念を捨てて白紙から出発する)、という四つを合わせた造語です。いままで惰性で動いてきた職員に、生活者の視点にたつ意識をもち、自治体改革につなげる。こしたなかから「事務事業評価システム」が生まれ、3000本以上の事務事業を評価した。評価は厳格な目標把握から始まる。何を「対象」にして、どういう「手段」で、対象をどのような状態にしたいのかという「意図」と、それによりどんな状態になったのかという「結果」について評価が行われ、その妥当性、有効性、効率性ができるだけ数値的に判定される。それは、今後の事務事業の改革すべき方向を示すことなる。これは全国の自治体が何らかの方法で取り入れることになります。▼この政策評価が情報公開されると、さらに市民参加が強まるでしょう。今は自治体も国も事業仕分け過程を公開し始めました。

Ⅳ 経営 
09.地域経営と組織経営 
▼自治体の地域経営/自治体の重要な役割は市民政府としての政策の立案と実行であるが、別の角度でみると、自治体は「地域の経営主体」である。経営にはカネやヒトという資源を組み合わせ活用することになる。地域資源には、土地、自然、ひと、資金、知恵、ノウハウ、仕組み、歴史、文化などがあります。地域資源を有効活用するということでは、地域経営は企業と同じだが、違うのは、目的が利益を上げることではなく、市民生活の向上と保全にあることです。それと地域全体の質を上げることです。▼地域経営の主体は、江戸時代には領主であった。大名は領国を支配し、年貢の米を取り立てていたが、経営が立ち行かなく、上杉鷹山(江戸時代中期の大名、出羽国米沢藩を倹約と学問で再建)、恩田木工(江戸時代中期の松代藩家老、有能な人材登用と財政改革)、二宮尊徳(江戸時代後期に報徳思想を唱え農村復興政策を進める)などという優れた地域経営者が立て直しを行った。これらは経営主体である大名のためのものであったが、地域の人々全体の生活を豊かにしてゆくものでもあった。この時代でも、大名個人のための権力的な経営では、民衆を貧しくさせ、地域を疲弊させ、財政も逼迫させることにもなった。▼また、国の省庁なら、政策は個別的であり、予算を獲得し必要な法律を国会で通せば、その実施は自治体などに予算を配分すればすむので、経営感覚や経営能力はほとんど必要でない。これに対して自治体の場合は、政策に伴う充分な資金が得られるとは限らないし、実行上の権限や資源は少ない。政策の利害関係者も複雑であるし、実行を妨げる要素も多い。こうした現場を踏まえて実行するには、国の行政とは違い、優れた経営能力が必要とされる。
▼民間経営と自治体経営の相違/民間と自治体で経理上の違いもある。たとえば自治体では当初予算で予定していた土地の購入ができないと、資金が余るから黒字になる。企業の会計ではそんなことはない。土地が買えれば資産だし、買えなくても現金または預金という資産だから赤字黒字には関係ない。また、自治体では起債という借金をすると黒字なる(不思議でしょう)。これが企業では長期の借入だから、資金繰りはよくても金利支払いという経常的な負担が増えて、それだけの利益が上がらないと経営的に不健全になる。ところが自治体はドンブリ勘定だから、起債は自分の懐に金が入った感覚で扱われる。年度末に支出が遅れれば黒字が残り、なぜ使い切らなかったのかと責められ、補助金は返還を求められるから、効率が悪くても高くついても、無理に金を使い切って黒字を出さないように無駄遣いがおきる。民間企業では考えられません。もちろん、制度上でも継続費や明許繰越、事故繰越などで次年度にわたって予算を使うこともできるのだが、原則は単年度主義だから不合理がおきてしまう。▼自治体会計にも民間企業と同じ複式簿記の貸借対照表や損益計算書が採用されれば、こうした問題は解消されるでしょう。いま自治体の会計制度の見直しが始まっていますが、しかし、問題は形式的な帳簿上のことではなく、市民の税金が、どのような目的に有効に使われてるかが、端的に検証できる仕組みになっていないことにあります。
▼経営のための計画・プロジェクト・条例規則・要綱など/▼三層の計画/地域経営の方針と方向や具体的な手段を長期にわたって示めす計画づくりが1960年代に現れ始めた。その後69年の地方自治法改で「市町村はその事務を処理するに当たっては、議会の議決を経てその地域における総合的かつ計画的な行政運営を図るための基本構想を定め、これに即して行うようにしなければならない」(第2条第5項)と規定した。ですから70年代は小さな自治体を含め、基本構想と基本計画が策定され、それに連動した短期の実施計画と合わせた三層の計画を作りはじめます。▼一方、国の法令や指導が入り乱れながら、各省庁ごとの「都市計画マスタープラン」「緑のマスタープラン」「市街地整備基本計画」「都市再開発方針」「住宅マスタープラン」「都市交通体系マスタープラン」「老人保健福祉計画」などが自治体でつくられが、これらが自治体の自らの計画をあい変わらず縦割りにしていくのです。本来の総合計画は自治体に一つあればよいので、あとは各論に位置づけ直すべきでしょう。▼戦略的プロジェクト/総合計画では網羅的すぎるので、戦略的なプロジェクトを設けることは有効です。北海道のワインプロジェクト(丸谷町長)、帯広市の市民の森(吉村市長)、横浜市の6大プロジェクト、掛川市の生涯学習都市(榛村市長)、滋賀県の琵琶湖条例、大分県大山町のNPC(New Plum and Chestnut)運動などが、地域経営のよく知られたプロジェクトです。▼条例・規則/条例・規則は自治体自ら定めたルールとしての「都市法」と言える。現在の自治体は、国でいえば憲法に当たる「憲章」をもつべきとして、市民政府としての基本になる、他の条例の上位になる「基本条例」づくりが進んでいる。道内のニセコ町が先駆ですね。▼条例づくりでよく問題になるのは「法令に違反しない限り」という法律との関係です。松下圭一氏はこれを法律による「制限原理」とみるよりも、地域独自の課題をになう条例と全国最低基準としての法律との「調整原理」とみることを示唆している。公害関係の法律のように、明らかに実態において自治体が国に先行しているために、自治体の「横出し」「上乗せ」を認めているものもある。▼要綱・協定/法令の不備を補ってきたのが、自治体の知恵による要綱や協定である。宅地開発要綱はよく知られていますが、これは民間企業の開発行為に道路整備、水利施設など一定の開発負担をしてもらうものです。強制ではありません、あくまでも協力の形です。協定企業と自治体が結んだもので「公害防止協定」が典型的です。紳士協定ですが誠実に守られてきています。このように条例以外の法に基づきませんが、地域の経営主体としての取り組みの積極性がここに現れています。▼その他には、市民同士が結ぶ建築基準法に基づく「建築協定」があります。宅地開発や市街地整備の際に、建築物の規模・高さ、広告の出し方、ごみ収集、壁面線、緑化、ポケットパークなどの空地などについての「市民同士のルール」です。これはヨーロッパの流れをくむ都市法とみてよい。都市法の起源はそういう市民協定にあったわけですから。▼イベント/地域経営の手法として比較的手軽に使えるのが、各種のイベントです。伝統的な祭り、博覧会、見本市、スポーツ大会、文化行事、各種会議やシンポジウム、学会・研究会などさまざまです。イベントでは関わった多くの人が地域の情報発信になるし、また新しい人々との交流を呼び覚ますことになります。新しい街づくりへ踏み出す機会をつくります。▼情報の発信なくして受信なし(清成忠男)ということです。

10.財務と運営 
▼自治体の財政/予算は、①一般会計、②特別会計に分かれており、特別会計のなかに公営企業会計がある。同じ自治体でも別々の財布をいくつも持っている。さらに自治体は、特殊法人や第三セクターという会社や財団法人を設立し事業を行っている。こうした機関には、本家である自治体が出資や出捐を行い、債務保証している場合が多い。そうなると赤字のツケは自治体に回ってくるので、外郭団体を含めてみないと財政の健全度は測れない。最近破綻の多い第三セクターや、土地開発公社の借入金などは、こうした問題である。▼自治体の予算は、地方財政法によってきめられている部・款・項・目に分類された膨大な予算書に示されるが、わざと分かりにくくしているのかと思うほど、一般の人には極めて分かりにくい。いや職員にも担当以外は分かりにくいのです。最近は市民に分かりやすい予算書をつくるようにはなってきたが、まだまだの感です。歳出は「目的別分類」と「性質別分類」があり、目的別は総務費、民生費、衛生費、農林水産費、商工費、土木費、消防費、警察費、教育費、公債費に分かれる。性質別は、①義務的経費(人件費、生活保護等の扶助費、地方債の元利償還費等)、②投資的経費(道路・公園・公営住宅・学校などの普通建設事業と災害復旧事業費など、③その他の経費(物件費、維持補修費、補助金、積立金、他の会計への繰出金)に分けられる。▼よくある問題は首長が任期中にハコモノを含めた建設事業を行いたがることです。これは投資額も大きく将来の効果や他の施策とのバランスを考えた上で決定されるべきです。そこでの起債は貰ったカネではなく、元利返済もしなければならないし、維持管理のための人件費、物件費、補修費など継続的な必要経費がかかってくる。一次的な首長の業績のために将来を犠牲にしてはならないのです。市民投票だって必要かもしれません。
▼自治体の歳入と税/自治体の歳入は、①地方税(地方譲与税を含む)、②地方交付税、③国庫支出金(補助金など)、④地方債、⑤手数料・使用料など、⑥その他に区分される。市民の立場からみると、納める税金のうち地方税に3分の1、国税に3分の2である。三割自治という言葉はここから生まれたが、最終的な支出は逆に地方が3分の2、国が3分の1となる。この逆転は、国に入った税金が、地方交付税や補助金として自治体に回るからです。そんな面倒なことをせず、税金が自治体に直接入れば、自治体財政は自主的にいちいち国の指図に従うことなく地域に会った効果的運用ができるのですが、いまだ国のコントロール下に置かれたままである。▼標準税率を超える課税/現在の地方税は、都道府県レベルでは事業税と都道府県民税が基本であり、市町村レベルでは個性資産税と市町村民税が主体である。地方税法では標準税率が設けられ、これを超えるときは上限の制限税率までは議会に諮ってアップできる。これを超過課税という。1997年度では、46道府県が道府県法人税で、1471自治体が市町村民税で、283自治体が固定資産税で超過課税を行っている。▼アメリカの自治体では、一定の施策を行うのに必要な財源として税率アップをリンクして住民に示し、投票で決めることが多いが、これは市民にとって負担と受益の関係が明快なので、政策を判断しやすい。
▼地方交付税/自治体によっては、地方税では運営に必要な収入が得られない地域がある。歳入には差があるから、シャウプ勧告でも不均衡をカバーする「地方財政平衡交付金」という制度があったが、現在は地方交付税に変わった。国税のうち所得税・法人税・酒税3税の32%と消費税の29.5%、たばこ消費税の25%をこの財源に充てている。いわば、自治体全体の共同財源として国で徴収した税収のなかから保留しているわけだ。地方交付税は、1997年度では自治体収入の17.1%という大きなものである。この交付税は自治体が自由に使える一般財源であることだ。これに対して補助金の場合は使途が限定された特定財源である。ただこの交付税が最近、自治体の単独事業としての起債を認め、その利子や場合によっては元金の償還まで地方交付税算定で面倒をみるという「地域総合整備事業債」のような制度もできて、どんどん第二補助金化して新たな国のコントロールも行われているのことも覚えておいてください。
▼補助金/補助金は中央官庁の各局各課別に所管され、厳しい基準によってヒモつきで交付されるから、機関委任事務と並んで自治体を縦割りにする制御する手段になった。中央の地方支配になるからとシャウプ勧告は指摘したが、中央からみれば自治体コントロールの有効手段だから、次第に増加していった。しかも、法律に基づく「法律補助」だけでなく、予算が国会で通ればすむ「予算補助」もあり、補助金をつくる自由度がありすぎて、どんどん増えてしまう。▼これが、議員バッチ族の暗躍と集票装置の温床となっているのが、日本の政治実態である。
▼地方債/地方債とは自治体の借金である。赤字財政になれば、自治体を会社のように破産させることはできないので、会社更生法のように、自治体の場合は「財政再建団体」として都道府県は自治省、市町村は都道府県が厳しい監督下に置くことになる(▼夕張市の事例。鉛筆一本まで監督される)。この財政再建団体にならないまでも、そこへ転落する恐れのあるものは「起債制限団体」として起債ができなくなる。その指標は、①一般会計の財政赤字が都道府県で5%、市町村で20%を超えるもの、②公債比率(公債の償還金が一般会計に占める割合)が20%以内、③地方税の徴収割合が90%に達しないところ、などである。日本の制度では、地方債といっても、前に話した交付税により措置されるものもあるし、一般の地方債のほかに、特別法による財源不足を補う「過疎辺地健全化債」、地方交付税を補完する「財政対策債」「減収補てん債」、国庫補助金の代わりとして発行される「特別事業債」、借換えのための「借換債」など、多岐にわたり起債が認められている。しかし市民には理解できないものばかりであり、財政の内容がだんだん不明瞭になっている。財政白書のような形で、自治体の借金財政とこれから自由になる政策経費を明らかにして、市民の判断材料とすべきである。
▼第三セクター/日本式の第三セクターは、公的機関と民間企業などが共同して株式会社あるいは財団法人などを設立し、半公共的な仕事をやらせようとするものです。これまでの第三セクター方式は、自治体側も民間側も無責任な体制を生み出し、リゾート開発、宅地造成、テーマパークなど多くの分野で破綻をきたしている。うまくいっているところは優れた経営者がいたり、責任体制がしっかりしているところだけであった。今後は民間企業に任せるものは任せ、第三セクターをつくるにしても、無責任体制を改め、その経理を市民に明らかにしておくべきである。第三セクターとは、第一セクターの公的部門、第二セクターの民間企業とは異なる第三者的な次元にいるセクターのことで、協会、組合、市民団体などである。
▼民間資金とPFI/地域経営は、公的な資金や機関で行わなくても、地域の資源として民間の資金やノウハウを有効活用すべきである。ちなみにイギリスの例を引くと、1992年から小さな政府をめざして行ったPFI(Private Finance Initiative)という、民間の力を活用する方式が導入されている。法律までつくって、規制緩和、政府資金の無利子貸付や債務保証等の支援、行政財産の使用の承認などの優遇措置を与えようとしている。対象となる事業は、廃棄物処理・リサイクル・発電施設、物流基盤施設、有料道路、公園住宅、公園、一般街路、美術館から庁舎に到るまでなんでもある。設計・建設にとどまらず、維持から運営までも、民間企業が複数で結成する企業体で行ってもらう。従来は当然に公共で行うものと考えられていたものでも、この方式が効率がよいと認定されたときに採用されるわけだが、企業体に対しては自治体から使用料などを支払うことになる。▼日本でも、駐車場整備や学校整備などに導入されているが、博物館や動物園など社会教育施設での検討も進んでいるが、現在は指定管理者制度が主流である。
▼市民管理、市民運営、市民委託/すでに始まっているが、公的な施設でもできるだけユーザーまたはそれに近い現場に運営を任せることである。市民のNPO団体とかコミュニティが管理運営するという方法である。小さな市民施設は市民による管理運営が多くなってきたが、市民ホールのような大きなものについても、市民団体に委託して全体の運営に当たらせる事例がでてきた。▼これからは、民間企業、市民団体、自治体行政との協働作業が活発に行われてよい。自治体行政はサポート役にまわり、民間ではできにくい全体の戦略と調整のプロデュースの役割を負うべきである。

Ⅴ 主体 
11.市民と市民組織 
▼市民の所以/住民は自治体の主権者である。ただ住んでいるのではなく、自分たちが自治体をつくり上げているのだという自覚と責任をもって初めて「市民」になる。自治体の構成員である市民はさまざまだから、責任はその人の力と状況に応じて果たせばよい。金のある人は金、特技のある人は特技、サービスができる人はサービスなど、さまざまな形で責任を果たすことができる。責任には税金のように強制を伴うものもあるが、強制されなくても地域社会を自分たちのものと認識し、それを支えるために「出来ることを果たそう」とするのが基本です。子供のころから公園の緑や花を大切に扱うことを教えるのは、将来の市民としての責務を果たせるようにするためである。イギリスでは乳母車でも車椅子でも地下鉄に乗れるが、電車への出入りをサポートするのは、乗り合わせた乗客である。それも市民の責務だろう。
▼市民参加/自治法は住民が直接行動をおこす場合には、①条例の制定改廃請求、②事務の監査請求、③議会の解散請求、④首長のなどの解職請求である。④は、いわゆるリコールの直接請求であるが、その条件は、有権者の3分の1の署名という厳しいものである。その他の直接請求は50分の1だが、小さな自治体ならともかく、大きな自治体ではこの数は難しい。この制度が使われないと、住民は次の選挙まで4年間待たなければならない。時間とともに関心が薄れ、自治体へ無力感・不信感だけが累積してゆく。市民参加が常時行われれば、自治体との共感は強まることになる。▼直接民主主義には、スイスやアメリカ東部のニューイングランドの小自治体などで、議会を置かずに住民総会(タウンミーティング)で運営している例がある。▼市民参加の段階/市民参加の度合いは、①関心、②知識、③意見提出、④意見と応答、⑤審議(予め提出された案の検討)、⑥討議(市民同士の討議)、⑦市民立案、⑧市民運営、⑨市民実行、の9段階になる。初めは市民政府の政策や行動について関心をもち、情報を得る程度だが、次第に意識を高め、より高次の次元になり、市民が責任をもって政策を決定し、それを自主的に実行してゆくという段階に進む。ですから、市民政府の方も、できるだけ早めに市民の意見を取り入れてゆく「早め意見取り入れ型」が行われるようになったり、ワークショップとなどという「共同作業政策立案型」の手法も開発されるようになってきた。▼情報なくして参加なし/北海道ニセコ町の事例では、市民に配布した「もっと知りたいことしの仕事」では、町の行う仕事を、細かい個所づけを含めてすべて毎年明らかにしており、最も進んだ情報提供といえる。さらに、ニセコ町が98年に制定した情報公開条例の前文では「まちづくりの基本は、その主体である私たち町民が自ら考え、行動することにあります。そして、私たちが自ら考え行動するためには、まちに関するさまざまな情報やまちづくりに対する考え方などが充分に提供され、説明されていなければなりません。このことは民主主義の原理であり、住民自治の原点でもあります」と記されています。このような前提のもとに、市民の自由な討議と、行政側の適切な問題点の提示、政策課題の提供がなされる市民参加なら、政策決定のプロセスが市民の目でみえる場で行われることになる。情報公開は決定された結果の公開だけでなく、政策が決定される過程の公開が重要であり、市民参加自体がその手段にもなるだろう。▼法人市民/市民とは「個人市民」を意味するが、企業や他の団体も「企業市民」であり「法人市民」である。法人は税の負担義務だけでなく、地域社会に貢献することに期待したい。先進国では常識になっている。▼市民活動とNPO/いまや市民活動のボランティアへの期待は大きい。そこで、各種の市民活動を行っている団体の活動を支援するために、公益法人のような難しい条件ではなく社会的に認知するために法人格をとらせ、寄付金も得やすい税制上の優遇が考えられた。それが97年の「市民活動促進法」(NPO法)制定につながる。▼コミュニティ/都市型社会になると、都会も農村も古い地域社会は崩壊するなかで、住民はかなり大きな規模の単位になる行政機関としての基礎自治体とだけつきあうだけになってしまった。裏返せば、もっと身近で「集まって住む」ことが実感できる単位が必要になっていた。しかし、そうしたコミュニティは、戦中の町内会・隣組のように上から指導して強制してつくるものでもない。都市型社会にふさわしいコミュニティを創造することは、市民の成長によるほかない。▼イギリスでは、所によっては基礎自治体よりも小さいパリッシュという、だいたい500人以下の規模で顔が見える小さな自治単位がある。これは伝統的な地域組織だが、民主的に運営され、選挙で役員を決め、なかには課税権をもち、簡単な事業などを自ら行っているものもある。遊歩道の整備、街路照明の維持管理、墓地・火葬場の管理、コミュニティホールの提供、公衆浴場・プールの提供、宝くじの運営等である。▼ですから、自立性ある市民のいるところでは、基礎自治体より小さなもっと市民に身近な単位で経営することがあってもよいのではないか。

12.首長、職員、専門家 
▼首長「大統領制」の役割と問題点/何といっても自治体のカギを握るのは首長である。中央政府から統制を受けるとはいえ、その権限は強い。予算の編成・執行、契約の締結、財産の管理、行政の執行、条例案の策定、規則の制定、職員の人事、組織の編成、福知事(福市長)・出納長(収入役)などの任命(議会同意が必要)、外郭団体・第三セクターなどの編成と人事、などを首長の意思で実行できる。▼大統領制の首長は、市民の直接選挙で選ばれる市民代表である。議会も市民の直接選挙で選ばれるが(これを公選首長と公選議会の二元制という)、議会は複数の議員によって意思が決まるのに対し、首長は単独で市民の代表であり、かなり強力に先進的施策を実行できる。アメリカの大統領には議案の提出権はなく拒否権があるばかりで、議会の解散権も招集権もないのに対し、日本の首長にはこれらのすべてをもっている。自治体首長の大統領制を強く勧めたのはGHQだが、アメリカの自治体で日本のような大統領制をとるところは少ない。議会が首長を選ぶものの、議会と執行機関を兼ねたコミッショナー制、「市支配人(シティマネジャー)を議会で決めて専門家に自治体運営を任せるものもある。それぞれの自治体が憲章を定め、どの方法をとるかを決めているのが普通だ。日本の自治体の大統領制は、アメリカの制度そのままというわけではない。ヨーロッパでは、首長は自治体議会が選び、日本の首長よりも議長のような立場にある場合が多い。ですから国の法律により一律にその制度運営の方法を決めるのでは、市民政府とはいえないのかもしれない。
▼首長の資質/首長として期待される資質は、「自治体は市民による市民のための市民政府である」という自覚と実行力があること、市民感覚があること、中央政府と対等の関係で話ができること、先を読んだ先駆的な政策を提供できること、目先のバラマキではなく全体のバランスと個別の無理な要求を拒めること、市民・職員にわかりやすい言葉と政策でリーダーシップを発揮できること、などである。▼職員の資質/自治体を現実に動かしている職員に求められる資質は、その地域への思い、市民感覚、新しい問題に対応できる柔軟性、文化的な感性、市民政府の基本は人間を相手にするので人間的魅力、などである。特にこれからは、専門的知識も必要だが、政策をつくりだしそれを市民や関係者を巻き込みながらプロデュースする能力が求められる。▼自治体の管理職/どこの組織でも大きくなるほど昇進とともに保守的になり、マンネリと自己保身に陥りやすい。とくに自治体では、民間と違って実績が評価しにくく、減点主義の評価が行われるから、失敗を恐れて消極的になる。これからは、政策形成とその実行能力を高く評価して、上層幹部ににはこのような人を登用すべきあろうし、管理職ポストの公募制もあってもよい。▼専門家/政策形成の調査活動などでも、専門家の役割は大きくなっている。シンクタンク、コンサルタントなどの専門機関や専門家も増えた。しかし、どんなに大きな組織でも実際に担当する人はごく少数だし、資本金が仕事をするわけではない。専門家といっても、結局はその担当者の関心、愛着、誠実さなどが大きくものをいう。▼村瀬章さんは当地に3か月住み込んで、町の調査をした。▼オンブズマンと外部監査/97年自治法改正で新たに20条もの条文を追加して「外部監査制度」を導入した。第三者の民間監査法人に委託して監査してもらうという従来にない方法だが、契約で委託するのだから、完全に公正な第三者機関として働いてもらえるかには疑問が残る。また、市民の政府に対する苦情を受け、行政運営が適正に行われているかを調査し、必要な意見や勧告を行うものをオンブズマン(行政監査専門員)という。もともとはスウェーデン発祥ですが、第二次大戦後各国に広がった。従来の行政制度にある監査請求、陳情、請願、行政不服申立てなどがあるが、それだけでは充分でないため、各市が導入を始めた。だが、行政から任命されたオンブズマンの場合は、その役割を忠実に果たそうとすると行政や議会との対立を生じ、再任されなくなる。任命方法や任期にも工夫が必要である。こうした行政からの任命によるオンブズマンではなく、市民自らがオンブズマンとなって行政のあり方をチェックしようという動きが全国に広がっている。これを「市民オンブズマン」という。闇給与やカラ出張などで自治体の恥部が取り上げられていることはご存じのとおりである。

13.議会と市民投票 
▼議会の役割/日本の自治体も首長と議会を市民が直接選ぶ二元代表制をとっているが、議会は政策に関して積極的な役割を果たしていないし、二元制が有効に働いてきたとはいえない。議会の役割は二つある。①強力な権限のある首長をはじめとする行政に対するチェック機能で、そこに二元制の大きな意味がある。②自ら政策主体として機能することで、自治体立法を通じて政策を立案することであるが、これがとくに弱い。執行機関に対するチェックは現行制度でも、検査権、監査請求権、説明要求権、意見陳述権、同意権などがあり、最も強いチェックは首長などの不信任議決だ。代わりに首長は議会解散権をもち、議会と首長は相互チェックの関係にあるのが二元制の特色である。▼現代の議会は、チェックに名を借りて、政治的に対立している立場の首長に対する嫌がらせ的反対に終わることも多く、市民からみると生産的な議論にはなっていない。また、福知事(福市長)の選任には議会の同意を得ることになっているが、これらはいわば首長と一体の職務であり、首長が選挙で選ばれた以上、原則的にはその選任は任せてよいはずである。それを議会の同意を必要としたために、首長を牽制する目的で議会が同意しないことがよくある。いたずらに仕事を停滞させたり、議会の反対のない無難な迎合的な人を選任するのは、市民のためには疑問である。また、チェックに名を借りて、議会が行政にたいする要求・モノトリになり、利益配分を受けようとするのでは、有効なチェックが働かない。その一方では議員の議会質問を実は行政の職員がつくるという例もある。これではチェックどころか馴れ合いにすぎないいし、議員無用論まで招きかねない。これは事実です。▼議員には、正式の議会内活動のほかに、市民との集会を開いたりの議会外の活動がある。こんなこともあります。市民の個別の権益に関わることについて、議会活動とは別に、行政に陳情要求したり圧力をかける議員も多い。議会や他の公開の場で行われるのならいいが、ごく個人的に行われる。行政側も、この機会にできるだけ議員にサービスするのが得策だとして馴れ合いになり、議員と行政の関係を不明朗なものにしている。とくに有力議員と行政幹部との癒着が進行し、正常な議会活動とは別な場で個別的な取引や決定が行われていると、議会としてはますますチェックできなくなる。これには議員の個別行動を含めた情報公開が必要だが、できるかどうか。▼議会への期待/議会には議案の事前説明と審議を兼ねた、議員全員が出席する「全員協議会」というものがある。これは正式の議会ではないから、比較的自由にモノが言いやすく、日本的な合意形成には便利に有効に作用する。ここでは非公式に実質審議が行われるのだが、公開されていないのが問題である。全員協議会も公開するか、それとも正式の議会でも、お互いに思い切った討論を市民の前で行えるような政治文化を形成しなければと思いませんか。▼議員にはもっと自由な発想が必要だから、国会議員のように政策秘書をという意見もあるが、それは現状では選挙対策に使われてしまうでしょう。それよりも議員は、支持する市民グループとともに政策を考え、議会事務局を強化して予め必要な資料を充分に整えておくことの方が必要だ。議員が市民グループの政策提案を支援するのす。
▼イニシャチブ(市民発案権)/政策を立案するのは、主権者である市民でもよい。これがイニシャチブ(市民発案権)であり、その判断を行うのがレフェレンダム(市民投票権)で、市民主権を実現させる両輪である。直接民主主義的な制度である。自治法では条例制定の直接請求を使って市民が政策の発案をすることができる。今日話題になっている住民投票は、自治法の中には定められていないので、新たに「住民投票条例」を制定しなくてならない。発案は行政でも議会でもよいのだが、多くの場合は自治法に定められた住民の直接請求により提案された。しかし、必要な署名数(50分の1)を集めてもそのほとんどが議会で否決されている。議会としては自分たちの審議権を奪うと考えるからであろう。しかし、直接請求による住民投票条例が通った例も少数ながらある。95年の新潟県巻町の原子力発電の立地、97年の沖縄県名護市の米軍海上ヘリポート建設などである。▼アメリカの自治体では、日本のように劇的な争点ではなくても、普通の政策の選択について住民投票が行われている。

Ⅵ 展望 
14.地方分権から地域主権へ 
▼地方分権は国の権限をどれだけ自治体に下すかを議論しているが、本来は主権者である市民がどれだけの自覚と責任をもって自治体を市民政府として動かしてゆくかが課題なのである。市民の水準が首長や議会の水準を決め、自治体の水準をきめる。▼EU統合では、「補完性の原則」が謳われた。市民に近い自治体がまず責任をもち、そこでできないことを広域自治体さらに国、国でおさまらないことをEUが行うというものである。権限はまず基礎自治体がもち、順次それよりも大きな単位で補完してゆこうという原則である。この考えを徹底化すると、分権ではなく、市民主権へと進む。▼補完性の考え方は、すでに明治の初めに福沢諭吉の『分権論』にも示されているし、雑誌『日本』を主宰するナショナリストの陸羯南も、身近なことは自治体にやらせ、国はそこでできないことを補うべしと主張していた、ということもありました。以上、自治体学の入門を終わります。

15.資料編  
▼書籍資料/田村明『自治体学入門』(岩波テキストブックス)、新藤宗幸『自治体学入門』(ちくま学芸文庫)。

2010年3月26日金曜日

町づくりの系譜 (MA-9)

09.町づくりの系譜
内容
01.小さく始める... 1
02.この国のかたち(第六講再掲)... 1
03.気候と歴史と都市... 2
04.都市設計の系譜... 3
(1)系譜-1... 3
(2)系譜-2(もう一つの見方)... 4
(3)系譜-3... 6
(4)系譜-4... 7
(5)系譜-5... 8
05.森と人間の系譜... 8
(1)系譜-1... 8
(2)系譜-2... 10
(3)系譜-3... 12
06.未来への系譜/自己決定の練習と自治... 13
07.未来への系譜/自治体の構想... 13
08.未来への系譜/市民自治と二つの言葉... 13
09.未来への系譜/こんな町を造りたい... 14
10.資料編... 15


01.小さく始める

▼町づくりは、20世紀の何でも大規模な出来事に比べると、小さな試みでした。しかも始まったばかりでした。でもこれは、今世紀の主流になるかもしれません。手間がかかって生産向きでないため、ボランテアとかNPO活動の分野が広がりをみせています。▼町づくりの世界にみんなが魅力を感じるのは「権力」をふるう人がいないからだと思います。ここでは誰もが平等で、命令をする人はいません。多数決も勝者と敗者ができて、少数の人たちに服従を強いることになりますから、意見が分かれたときはよく話し合うか、それともどれもが可能になるような配慮をしなくてはなりません。リーダーがいても世話役で、みんなを引っ張るわけではありません。むしろ、後押しをするだけです。引っ張ると残った人はそれに従い、ついていくことになりますが、押してあげるとみんなは必ず前に出ます。それが「みんなを主役」にすることです。というふうに町づくりを進めたいものです。

02.この国のかたち(第六講再掲)
▼司馬遼太郎にも「この国のかたち」という本がありますが、それとは少し視点が異なります。
《ちょっと歴史1・第六講再掲》
▼ほんとに「何もかも」、右を向いても左を向いても何もいいことはない。しかし、天を仰げば月が照り、地には虫が鳴き紅葉が燃える。四季のある島国は台風の通路になったり、崖が崩れたり、雨が雪がと大変だ。季移りのたびにカゼも流行る。しかし日本人はこの国の自然をこよなく愛してきた。鎖国を解いてからは諸外国の文化をどっと取り入れて、それを日本流に器用にこなして独自の文化を築き、優れた人材も輩出してきた。政治の愚や侵略戦争の過ちも犯したが、とにかくここ半世紀は戦争がない。
《ちょっと歴史2・第六講再掲》
しかし、そうはいっても20世紀の変化は激しかった。この1世紀で人口が3倍、都市人口が10倍。20世紀には極東の島国だった国が世界の10%経済を維持する国に伸し上がった。戦争も沢山あった。日清・日露に始まり最後には原爆まで落ちてしまうという1世紀は、日本の歴史に二度とないだろう。20世紀初頭に75%を占めていた第1次産業は20世紀末には7.5%以下になる。聖徳太子が律令国家をつくって以来、20世紀まで70~80%を維持してきた1次産業が突然7.5%になるということは容易ならざること。子供の産み方も20世紀初頭9~10人だったのが、20世紀末は0~1人。20世紀初頭に42歳だった平均寿命が20世紀末には80歳になる。1世紀間に寿命が2倍になることも脅威。前世紀には金持ちや権力者の子供くらいしか中等教育を受けなかったのが、今ではほぼ全員が高等学校にいき、大学にも40%近くが行く。江戸は2百万人だったのが、千葉・埼玉・神奈川を含めた首都圏は2千5百万人の機関車となり日本を引っ張ってきた。20世紀初頭の横浜・神戸は漁村であり、札幌は人の住めるところではなかった。
《ちょっと歴史3・第六講再掲》
▼ちょっと、ここで日本列島一万年史のおさらいもしておきましょう。一万年前に溯ると、日本人はこの国土で縄文という山岳地帯を中心にした焼畑農業で高い文化水準をもっていた。それが三千年前ぐらいから稲作技術の弥生文化が入ってきて、生活のスタイルや考え方も変化し、日本人に同化してきた。さらに三世紀から十世紀ぐらいまで、中国とか朝鮮半島の文化を取り入れて科学技術を伴って日本の生活が変わってきた。十世紀は、外国からの交流を断ち切って日本独自の文化をつくり、十六世紀になると国際的な交流や国内の激しい開発があって、激動の歴史であった。江戸になると、今度は日本文化を独自に育て、停滞していると言われるけれども、その地域なりの文化をつくる時代が来た。まちづくりは江戸時代にも当然あった。その後、イギリス・アメリカの科学技術と商業を中心とするスタイルが日本に入ってきて、日本がまた変わっていく。

03.気候と歴史と都市 
▼この土地の気候と歴史が、サラリとした人情を持つ十勝地方の人間をつくったと推測しているが、どう証明したらいいのか。この辺境の十勝平野には面積は広いが定住人口は36万人と少なく、思えばアラスカの人口規模であり生活や風景も似ているかもしれない。世界の人々を大きく括れば、例えば三千年の歴史を持つ10億人のインド、12億人の中国、10億人のイスラム圏、それに産業革命からドロップアウトした人々30億人は、それぞれの気候帯で歴史蓄積をして固有の人情を醸し出している。しかし、20世紀はその土地と人間を地球規模の都市化(都市的生活様式)に巻き込むことになる。あえて山小屋暮らしをしたところで都市文明のなかで生きることになる。都市のウサギ小屋でも田舎の山小屋でも伝達網はファクシミリとパソコンと画一情報のテレビ。世界をとり込む情報と産業は「田舎」を消し去る。▼ところで私事になるが私はこの土地に住んで半世紀になる。森なら大きな木も育つほど生きた。辺境に住み続けた辺境人(マージナルマン)は、イギリスの都市思潮の流れを汲む「田園都市」こそまちづくりの原初と思ってきた。開発先進地域でも開発途上地域でも応用可能のまちづくり方法だろうと今もその考えは変わらない。20世紀の都市文明はやがて何世紀もかけて田園都市文明へと回帰・再生されるのではないか。今世紀の都市文明は、自分の家族と特定の友人が人類のすべてという感じに至るまで細分化・原子化したが、しかし新たな人間関係を地域内で、あるいは地域を越えてサラリと作りあげる条件も整ってきている。

04.都市設計の系譜 
▼ルイス・マンフォード(1895-1990アメリカの都市研究家、文明批評家、著作『歴史の都市・明日の都市』新潮社)は言う。「20世紀の初めに、二つの偉大な発明がわれわれの目の前に現れた。飛行機と田園都市である。前者は人間に翼を与えた。後者は人間によりよい住居の場所を約束した」。

(1)系譜-1 
▼さて、十勝・帯広の地域設計、都市設計の系譜をひも解きましょう。▼1800年伊能忠敬(1745-1818江戸後期の地理学者・測量家、わが国最初の実測地図を作製)がトカチ沿海を測量調査。同年皆川周太夫がトカチ川筋を踏査。1883(明治16)年、依田勉三ら民間開拓団「晩成社」27名がトカプチ(十勝:乳房)のオ(川の尻)ペレペレ(裂ける)ケプ(場所)に入植。1891(明治24)年、十勝最初の地域計画である殖民区画を設定。1893(明治26)年、帯広最初の都市計画である市街地区画を設定。殖民区画は十勝平野の農耕地設計の原型となる方300間:540㍍(30㌶で6戸の農家、500戸で一村を想定)を設定。市街地区画は、殖民区画を60間の間隔で区切り25の大区画とし、これを間口6間奥行27間(162坪)の20の短冊型小区画に分けた。本通を挟んで、西側が奇数番地、東側が偶数番地となる街区システムを採用。▼都市デザインとしての特徴は、斜めに幅12間の火防線という防火道路が設けられていること、また斜路の交差地に数ヵ所の広場を設けており、これは他の都市に類例がない。単調な都市形態と景観をうちやぶる設計となっている。またこの斜路と広場の組合せデザインは、大正時代に鉄道の南市街地へ継承されている。1944(昭和19)年には全市の街路網が都市計画決定される。これが帯広の近代都市計画としての最初のプランである。札幌のような公園系統の考えはなく、19世紀の古典的バロック都市計画の再現といってよい。戦争末期にこのような都市計画が実際に決定されていた事実は驚き(1989年第9回日本土木史研究論文集・越沢明から)。

▼松浦武四郎(1818-1880幕末・維新期の北方探検家)は、江戸末期に北海道を探検し、札幌を畿内の京都に見立てている。その後、島義勇(よしたけ、1822-1874幕末・維新期の政治家)は、平安京のイメージを持つ札幌の都市計画を構想する。島の後を継いだ黒田清隆は、アメリカを視察し、お雇い外国人ホーレス・ケプロン(1804-1885アメリカの軍人・政治家で、従軍後に合衆国の農務局長)を招き、その影響を受けたため、札幌は平安京とフィラデルフィアのイメージが重なっている。▼このことでの帯広の都市設計への影響は定かではないが、1904(明治37)年の市街地図は、ケプロンの薫陶を受けた道庁役人が鉄道北側に市街地を設計した結果である。二ヵ所の公共用地に収斂する幅20間の斜交路(効率に参加の効用を加える)の組合せは、規模は小さいがワシントン型都市設計の導入である。1922(大正11)年、市の役人が鉄道南側に大通公園に収斂する四本の対称的(シンメトリカル)な斜交路の市街地を設計するが、それは見事で美しい。▼帯広の団地は、昭和30年代は柏林台団地(昭和38年の早稲田大学松井達夫教授によるマスタープラン)、昭和40年代は大空団地・13号団地(北大大田教授指導)、昭和50年代は刑務所跡地利用、昭和60年代は西帯広ニュータウンとして造られる。それぞれの時代に流行った都市設計が読み取れる。

▼「アメリカの格子状都市の源流」。1620年、メイフラワー号でイギリスから脱出した102名の清教徒がアメリカに上陸。植民地プリマスで十字架を模して、東西・南北に街路を直角に組み合わせた。格子状は、平野部の都市計画の普遍原理。古代ギリシャや古代中国を想起。日本の平城京や平安京に影響を与える。1682年、ウィリアム・ペン(1644-1718フィラデルフィア市を建設し、ペンシルバニア州を整備した人物)はフィラデルフィアの格子状道路の交点に市庁舎を設計。1791年、ランファンのワシントン設計に斜路と広場の組合せデザインが出てくる。2百年前の若き芸術家ピエール・ランファン(1754-1825フランス生まれのアメリカの建築家)は、卓越した政治家ジョージ・ワシントン将軍とともに、合衆国首都造営のためワシントンDCを設計することになる。丘の高いところを国会議事堂や大統領官邸などのリンカーン・パークを設計し、ここを道路の基点として東西・南北の通り(ストリート)を設定。通りを結んで設けられた、それぞれの中心広場(スクエア24ヵ所)からは、次の広場が見通せて、お互いにその景観を増幅できるように配慮されている。これが都市美のバイブルとなり、やがて百年後のこの地に移植されることになる。

▼ただ、最近の研究では、帯広の街路パターンは、ワシントンではなく、むしろウィスコンシン州のマディソン市に酷似していると言われている。あの「マディソン郡の橋」の映画で知られたところです。あれはメリル・ストリープとクリント・イーストウッドの4日間の中年の恋物語でしたね。

(2)系譜-2(もう一つの見方) 
▼明治期の最初に行われた市街地設計は特徴的なものであるが、設計時期、設計者、その意図といった基本情報については、直接的資料が見当たらず今後も不明(迷宮入り)のままとなりそうである。しかし周辺事実を集め都市計画的な推測をすると、帯広の都市立地から都市設計までは、道庁の技師・内田瀞(きよし)が一貫して関わったものと考えられる。彼は札幌農学校の一期生であり、クラークに直接の教えを受け、また卒業後も文通があった。▼道庁において、植民地選定・区画側設事業の主任を務めたのは、技師・内田瀞(明治19~32年任務)である。内田は北海道全体の形成に大きな影響を与えている。それは制度設計への関与であり、植民地の選定方法や区画方法を確立する上で中心的な役割を果たしていた。彼は机上の仕事ばかりでなく、帯広・十勝には少なくとも五回訪れており、帯広の都市形成に重要な役割を果たしている。

▼帯広を中心とする十勝国は、明治21年内田瀞と柳本通義らにより植民地選定が行われた。当時の十勝は、十勝川の河口に発達した大津市街を除けば、ほとんど未開ともいうべき大原野であった。だたし、現在の帯広にあたるウエカリップ原野には、依田勉三率いる晩成社が入植し開墾を行っていた。内田らは、この帯広周辺を最良の耕地と考え、さらにはその中心市街地としての役割も想定していた。▼植民区画は、道庁があらかじめ選定を行った土地に、耕地として格子状の区画を側設するものである。それは明治23年の新十津川(空知)の区画を皮切りとして、全道に及んでいった。まず、基線とそれに直行する基号線を設け、それらに並行する区画道路を300間(約545m)ごとにつくることで、格子状の土地が区画される。この300間四方のものを中画とし、間(約5ha)の6つの小画に分け、それを農家一戸の標準耕地と想定した。これは、アメリカのタウンシップ制に範を求めたものであり、規模こそ違うが極めて密接な対応関係がみられる。

▼帯広を中心とした十勝の区画側設は、明治25年に行われた。現在の帯広の国道38号線(当時の大津街道となる予定)を基線に、北は音更まで9線、南は売買まで9線を設け、また大通を基号線とし、東は大津まで50数号、西は芽室まで30号を設けた。このように、ほとんど未開の原野であった土地に、突如として大農業地帯が設定されたのである。これは、帯広の市街地が設計される部分も含め、すべて農地としての均一な区画がされたのであった。明治25年に内田瀞と柳本通義をはじめ技術者一同が十勝に入り、帯広の植民課員出張所が設けられ陣頭指揮にあたった。その中で、帯広の実際の区画を担当したのは内田瀞と助手の小林孝造であった。

▼それでは、どうしてあのような壮大かつ特異な市街地計画が、未開の大原野に突如として構想されたのだろうか。その背景には、生産機能に偏重した周辺の農地計画に対して都市機能を補完する意図があったと考えられる。もしも図面の通りに耕地がつくられると、付近に市街地を持たないまま、巨大な農業地帯のみがつくられることになる。農家は一軒あたり100×150間の耕地を配分され、その中に居住することになるが、それは近隣との関係という点では著しい欠陥がある。短辺方向で考えても隣家は180m離れている。この設計に対し、当時道庁の技師であった新渡戸稲造は、農民が慣れ親しんだ蜜居・群居制の導入を主張していた。▼その後、植民地の選定・区画の経験を重ねた道庁では、その蓄積の結果をマニュアルとして明治29年に「植民地選定及区画施設規程」をまとめた。これは区画選定の手法を述べたものに留まらず、農村計画を包含するものであった。因みにその内容は、300~500戸の集合を一農村単位とし、その生活を支えるために市街地や各種施設を計画することを定めたものである。つまり帯広周辺の計画段階ではこの考えはなく、帯広一極集中で都市設計が進められたのである。

▼帯広の都市計画に影響を与えた事例として、市史における記述をはじめ、よく挙げられるのはワシントンの計画である。確かに、格子状と斜行道路の組み合わせ、分散する公共用地など共通点は少なくない。しかし、アメリカの政治の中心である首都ワシントンの計画を直接、帯広に導入するということは考えがたく、そのかけ離れた規模をはじめ相違点もまた多い。18世紀のアメリカでは、このワシントンの計画に影響を受け、新しい開拓都市に次々と斜行道路と公共施設の考えが導入されており、帯広はむしろそのこうした系譜の上にあるものと考えられる。▼そのなかでも、ウィスコンシン州の州都マディソンの計画は特筆に値する。帯広とそれほど規模に差はなく、格子状の道路を複数の斜交道路が貫き、南西側の中心には公共施設の予定地が計画されている。しかし、この都市内における斜交道路は、その周囲においては農業区画であるタウンシップの格子状の区画道路である。大農業地帯の中心都市として、農地における論理を都市内に組み込み、都市と農村の融合を図った計画なのである。▼帯広の都市設計の背景に、アメリカの植民都市の存在があるとはいえ、それが前触れなく直接に、あれほど大胆に導入されたのではない。その基礎となる部分は、帯広より先に都市形成の進んでいた旭川において、既に試みられていたのである。道庁長官であった岩村通俊は、明治15年には離宮を抱く北京構想を上川市街地(現在の旭川)に描いていており、明治20年に公共施設等をあらかじめ設定する都市計画を作成させていた。明治21年岩村の退官後もこの方針は引き継がれ、明治23年に嘱託技師・時任静一により現在の基礎をなす都市計画が作成された。時任は、ニューヨーク大学・ミシガン大学で都市計画を学んでおり、この技師に嘱託して大事業を任せたところに、道庁としてアメリカの都市計画を導入しようという意図が伺える。しかし、明治23年に時任が職を辞すると、旭川の都市計画に再び大きな変化があった。計画されていた斜交道路は実際の宅地分譲を行う段になって、それを無視した分割が行われ、一瞬にして消滅したのである。

▼マディソン、旭川といった都市における斜交道路は、周辺農地との融合・接続を図ったものであった。帯広もまたその系譜にある。この帯広の斜交道路は「火防線」と呼ばれるが、札幌大通(58間)や函館(30間)の防火道路にくらべ20間と狭く、またこの斜交道路の沿道には数多くの不整形地が生じていることからも、格子状道路に一部を広幅員とした方が効率的であっただろうとも思われる。このことからも火防線というよりは、斜交道路のビスタ(見通し・見晴らし)の方向にある公共用地にアクセスする「生活道路」としての性格が強いのではないかと推測する(島村泰彰「帯広における緑とオープンスペースの計画思想の展開について」北大大学院工学研究科H18年度修士論文)。

(3)系譜-3 
▼「田園都市とニュータウンの源流」。英国のニュータウンの原点は、サー・エベネザー・ハワード(1850-1928近代都市計画の祖とよばれる社会改良家。田園都市論において自然との共生、都市の自律性を提示し、その後の近代都市計画に多くの影響を与える)である。20世紀に入る直前の1898(明治31)年「明日-真の改革へ至る平和な道」を発表し、次いで改訂版の「明日の田園都市(Garden cities of tomorrow)」を1902(明治35)年を著した。実践家であったハワードはロンドンの北66kmのレッチワースに株式会社による新しい町を造った。彼によって田園都市は、20世紀の都市づくりの新たな理念と方法として定着し、それが世界のニュータウンへ繋がった。▼日本では、早くも1907(明治40)年に内務省地方局有志によって、この考え方が紹介されている。大正年間には渋沢栄一(1840-1931明治維新後の財界の大御所)により「田園都市株式会社」が設立された。近年では大平首相による「田園都市国家構想」が発表された。ハワードの田園都市とは相違があるが、日本人の深層心理にも、田園都市への願望が潜んでいるのかもしれない。▼「ハワードの構想」。一つひとつの田園都市は、人口2~3万人ぐらいでも、田園で区切られた都市が高速鉄道でわずか数分で結びつく。各都市の中心には別に5万人の中心都市をつくり、円形の広場につながる六本の放射状道路。さらに、公共建築物、大学、図書館、映画館、劇場などをダイアグラム(図表)に配置している。こうした美しい都市群の人口は全体で20~30万人を想定。ハワードの究極の目的は、決して一つの小さな田園都市だけを造ることだけではなかった。▼「田園都市の定義」。「田園都市は健康な生活と産業のために設計された町である。その規模は社会生活を十二分に営むことができる大きさであるが、しかし大きすぎることなく、村落地帯で取り囲まれ、その土地はすべて公的所有であるか、もしくはそのコミュニテイに委託されるものである」(鹿島出版『明日の田園都市』)。▼ニュータウンの事例としてのミルトン・キーンズは、ロンドン郊外北西80kmの高速道路沿いの田園地帯にある。オックスフォードやケンブリッジの大学都市やルートン国際空港にも近い。1962年に地域選定され、1967年の計画で20世紀末までに将来人口25万人、面積8863ha、人口密度28人/haが計画され、92年現在12万人に達している。以前は3つの町と13の小さな部落の4万人の居住者がいた。団地内は1kmの格子状道路の網(交通の分散)をかぶせ、これで都市の基盤と構造を決定。住区ブロック内は固定的に考えないで、設計のガイドライン内での計画の自由度をもたせている。その他、エネルギーパーク(125ha)と馬道が特色となっている。▼ルイス・マンフォードは言う。「20世紀の初めに、二つの偉大な発明がわれわれの目の前に現れた。飛行機と田園都市である。前者は人間に翼を与えた。後者は人間によりよい住居の場所を約束した」。

(4)系譜-4 
▼「町づくり計画史」。帯広のまちづくりを計画史として遡ると、初めて総合計画を導入したのは1959(昭和34)年である。▼「帯広市総合計画」は、昭和34~43年の計画期間で、都市像を「近代的田園都市」、目標人口153千人(昭和32年99千人)。経緯としては、昭和32年企画室を設置(昭和31年吉村市政初予算会議では否決)し、スタッフ五人でスタート。地域データづくりとして自然環境や社会経済分析・予測など17集1700頁の「帯広市総合調査」から始める。昭和33年秋から市民参加の計画検討委員会を開催(産業部門別46回、地域別20回、810名参加)。都市像としてヒューマンスケールの近代田園都市を設定。後の「緑の工場公園」「帯広の森」「人口二十万人定員論」のグランドデザインとなる。議会との関係では、総合計画は昭和33年12月定例議会が終了後、議員協議会の報告に止まる。議会は「十年後の計画まで合意したら、毎年の予算について審議できなくなる」との見識を示した。自治法の改正で基本構想が議会の議決事項となる前であったことから、自由に地域の自己主張ができ、議会も審議権の自己規制がなかった。参考図書としては、「都市開発の基本構想~主に帯広市を例示として」(日本都市センター刊、昭和39年)がある。また、当時各省庁の課長補佐クラスによる帯広支援メンバー「帯広開発研究会」があった。▼帯広市新総合計画は、昭和38~45年の計画期間で、都市像を継続し、目標人口143千人(昭和35年101千人)、先の帯広支援メンバーを中心に「東京委員会」を設置。▼第二期帯広市総合計画は、昭和46~55年の計画期間で、都市像は継続し、目標人口200千人(昭和45年131千人)、総合計画審議会の設置、都市マスタープランの委託調査を行う。▼「新帯広市総合計画」は、昭和54~63年の計画期間で、都市像を「豊かな自然と北方の文化に根ざした活力あふれる十勝の中核都市」として、目標人口200千人(昭和50年141千人)、地区カルテ・地区計画・市民生活基準を導入し、アグリポリス構想を持ち込む。▼第四期帯広市総合計画は、平成元~12年の計画期間で、都市像を「緑ひろがる北のフロンティアおびひろ」とし、目標人口186千人(昭和60年162千人)、計画論としては特筆すべきものはない。▼第五期帯広市総合計画は、平成12~21年の計画期間で、目標人口188千人、都市像は「新世紀を拓く田園都市おびひろ-緑ひろがる北のフロンティアおびひろ」とし、1999年の地方分権一括法後の計画として期待されたが、従来の個別部門型総合計画に止まり、戦略的で重点的な計画づくりには至っていないという課題を残している。市民参加の手続きやまちづくりの基本法を自治体が自主制定し、国の拘束から自由な計画を展開するための法整備がされていることを知る市民は少ない。

(5)系譜-5
▼東北海道は、人口や産業の集積密度は低いが、農業地帯を背景とした小都市自立型の地域づくりをしてきた。ご当地の魅力は冷涼な気候にあり、十勝の農村景観、北見網走のソーラー技術、釧路の湿原環境などに地域の可能性を求めてきた。1970年代に下河辺氏ら「Xゾーン構想(世界同時刻帯)」の研究グループが、東日本の「知的生産都市帯広」を提言した。帯広・十勝は、そこそこ豊かな生活と自信が育ち、独立王国の風情を持ち始めている。そもそも西北海道と東北海道は違う大陸プレートから成り、それがぶつかり褶曲されたのが日高山脈である。よって気候も違う。札幌は山陰型であり、帯広は山陽型である。▼太陽・土・小都市自立が、この地方をデザインする時の条件となる。十勝の環境構造は、秋田県の広さに迫る約1万平方kmの十勝平野から成り、そこに田園風景が広がる。その周囲には約5百kmに及ぶ森林・山岳地帯が取り囲む。しかし直線で計ると約百kmの意外に短く急峻な河川。上流地域の問題は直ちに下流地域の問題。水は汚せません。土は大切な公共財。森は土をつくり水をつくる。これが十勝の生態系であり、その中心に帯広という小都市が成立している。この地域は確かに広く豊かだが、生態系は思いのほか脆弱である。地域の環境管理をキチッとしなければならない理由がここにある。十勝川から鮭がのぼり、日高山脈からリスが降りてくる。21世紀はそれが、この土地に住む人々のテーマになる筈である。▼特に、山岳地帯や平野部の開発は、従来の産業開発ではなく、市民の新しい田園生活のスタイルとなる生活開発が基本となる。帯広の開発の特色は、開拓当初から日本における農業専用地域として位置づけられていたこと、さらには独自の明治期の都市設計を持っていたことである。帯広は今も昔も「都市と農村」がテーマであった。1960年代の「近代的田園都市」、1980年代の「アグリポリス論」も、それぞれの時代を反映した都市像であり将来方向であった。農業は生命産業であり、環境産業である。帯広・十勝にとっての地域づくりのスタートがここにある。かつて1960年代に米国経済学者のフリードマンがアジアの農村と都市化を考えるにあたって、「工業開発は農業を補完するに止める」としたアグリポリス構想を提起したことがある。帯広・十勝の地域づくりが、アジア諸国とつながれば、これに越したことはない。

05.森と人間の系譜 
▼海や山のことを話せる人はすばらしい。川や森を語れる人もうらやましい。ということで森の系譜をひも解きましょう。

(1)系譜-1 
▼その森の話の第一人者は、宮脇昭(理学博士、横浜国大名誉教授)である。かれの「緑回復の処方箋」朝日選書から。▼森林は地球表面の一割だが、世界中にもはや原生林はない。ヨーロッパでは、有史以前からの森林内放牧、火入れの繰り返しによって、わが国には見られないヒース(ドイツ語でハイデ)の荒涼景観が広く見られる。荒野のヒースで、牧童が暇つぶしに考えたのがゴルフ。この荒涼景観を、後代の人たちが自然景観と見誤ってつくったのが、イギリス公園の原型である。フランス公園はさらにそれを幾何学的に切り刻んだもので、ベルサイユ宮殿の公園がその典型である。それを学ぶべき公園であると思った明治の日本人は、もともと全国土が森である日本に欧風公園づくりを移入、わざわざ森を開いて画一的に芝生にするのに金を投じたといえる。多層群落の森を破壊して芝生を存続させるため、芝刈り、土入れだけでなく、大量の農薬を使わなければならない。▼過去二千年かけてやっと国土の9%しか開墾できなかった貴重な水田をもつ日本。自然は、人間の顔のように、触れてもどうということのない頬のような比較的強い自然と、目のように、指一本突っ込んでもダメになる弱い自然とがある。日本では、宗教的な祟りをうまく使って、山の頂上、急斜面、水源地、水際などの弱い自然には、自然の森や緑を残してきた。愚か者が破壊しないように、水神さまや八幡さまやお寺をつくり、この森を切ったら罰が当ると言い伝えてきた。▼素顔の森をつくると、三年たてばノーマネジメント・イズ・ベストマネジメント、つまり何もしないで自然に育っていく状態になる。森は人間による開発や山火事などで破壊されると、マント群落やソデ群落が成長し、ちょうど人間が怪我をしたときにカサブタが応急に止血させるように荒廃を防ぐ働きをする。森も人間と同じように自らを修復する。▼農耕文化は、必然的に森林の伐採、火入れ、開発を行うが、アイヌの人たちは自然の許容範囲を超えることはしなかった。その結果、すでに千年以上の開発歴史をもつ北ヨーロッパとは全く異なり、緑を残したのである。自然開発凍結の状態は、北半球では珍しい。北海道の森が十九世紀の奇跡といわれる所以である。▼本来の植生にない客員樹種なら20年間は、下草刈り、枝打ち、蔦切り、間伐といった管理が必要である。しかし、その土地の潜在植生の樹種なら、3年たてばあとは自然の管理に任せられる。と言うのです。森づくりのカギは「潜在植生」ですね。

▼北海道の森は、常緑針葉樹と落葉広葉樹の混交林である。広葉樹の葉は、夏には光を抑えて下草を繁茂させず、秋の落葉は土になり、その土は雨水をスポンジのように保水する。森が水を作る原理である。だが北の風景となっているカラマツ(落葉針葉樹)の落葉は、残念ながら腐食せず土にならない。さて、アイヌ民族にとっての森はどうであったか。必要な分だけ「着せて(アッシ織)・食べさせて(山菜・肉)」くれる、感謝の森なのである。アイヌの人々は、大地を守る御神木を「シリコロ・カムイ」と呼び、コタン(集落)ごとに一本のシリコロ・カムイを持っていた。十勝地方の場合は、とくに柏を御神木としていたことから、「コムニ(柏)・シリコロ・カムイ」と言われ、人々の信仰の対象とされた。百年前の北海道は百%が森であったが、現在は七十%で、そのうち六十%は国有林である。森林の再生には、在来種を植えることが基本になる。在来種の生存は、強い競争力の結果である。生物社会は競争で成り立っており、共生とはお互いに我慢の関係にある。当地の植生にかかわる気候の特徴は、日較差が二十~三十℃、年較差が三十~六十℃の落差にあり、植物にとって強いストレスとなる。そのことから樹種は限られたものしか育たず、シンプルな景観となりやすい。植物が育成するには、五℃以上の温度が必要となる。帯広の年平均気温は五.九℃で、実際の育成期間はわずか五ヶ月。この短い間の彩りを考えるなら、街路樹の周辺に低木・草木類・花を添える手法で景観を作り出すほかない。

(2)系譜-2  
▼森と日本人のかかわりは深い。他国の人から日本のソモソモを尋ねられたら、立ち往生せず森の話からはじめる手もある。まずは梅原猛(哲学者、『隠された十字架法隆寺論(新潮社)』、『地獄の思想(中公新書)』などの著書あり)さんから教わりましょう。かれの『日本とは何なのか』(NHK出版)から引きます。▼日本文化は縄文文化と弥生文化の対立をはらんだ総合である。縄文文化は狩猟あるいは漁労採取の文化であり、人類が農耕牧畜文化を生み出すまで、人類が共通に営んでいた文化である。ただこの日本列島では、狩猟あるいは漁労採取文化が特に発展した。なぜなら、約二万年前、氷河時代が終わり、陸続きだった日本海は海となり今の日本列島ができた。周囲の海とそこに注ぐ川は多くの魚類に恵まれ、多雨な気候ゆえドングリが実る落葉樹が繁茂した。日本列島は漁労採取のメッカであった。それに今から一万二千万年前には広く縄文土器が使われていたが、メソポタミア地方から出土する土器より四千年以上も古いものである。そして漁労採取文化である縄文文化は、縄文前期といわれる六千年前から飛躍的に発展した。土器の数も多くなり、芸術的にも優れてくる。この縄文文化は、今から約二千三百年前に稲作農業文化が渡来するまで、約一万年の間続いた。この最高度に発展した縄文文化は、日本文化の一つの核を構成している。だが世界的には一種のアナクロニズムである。と言うのも、すでに一万年前メソポタミア地方に農耕牧畜文化が発生し、やがて世界各地へ伝播しながら都市文明が生まれ、世界の四大文明につながっていく。隣の中国では、すでに五、六千年前の黄河流域にアワ・ヒエ、続いて小麦農業が盛んになり、四大文明の一つを生む母体をつくっていた。この文明の潮流のなかで、日本は相かわらず漁労採取採集文化が花盛りであった。▼その後、日本には遅れて農耕文化が渡来するが、それは黄河流域に盛んであった小麦農業ではなく、揚子江流域に栄えた稲作文化であったことに、日本の文化の著しい特徴がある。稲作農業は、養豚以外に牧畜を伴わず、また田は水を必要とするために、水の引ける平地以外は田とすることができず、したがって二千三百年にわたる日本の農民の営々たる努力にも拘らず、田の面積は、日本国土の三分の一以下しか広がらなかった。現在、日本の国土の三分の二は森で、その五十四パーセントは天然林である。弥生文化の広がりの限界と、縄文文化の中心となる森の持続である。▼日本文化は、森の文化というべき縄文文化と、田の文化というべき弥生文化とが、それぞれ対立しながら調和している。二つの焦点をもつ楕円文化である。日本が二つの中心をもった文化からできていることは、何よりも、日本最初の歴史書である『古事記』『日本書紀』が語っている。これらには神話の形で日本の成立が語られているが、日本は、アマテラスの子孫、天つ神が、スサノオの子孫、国つ神を征服し、支配してできた国として語られる。この天つ神は外国から渡来したものであり、国つ神は土着しているものである。前者は農業を、後者は狩猟あるいは漁労を司る。前者と後者の関係はもともと姉妹の関係であるが、後者は前者に服従すべきものなのである。神話からも日本の成り立ちを見ておきたい。

▼(つづき)日本文化は、縄文文化と弥生文化の対立と統一からなる。この二つの文化は中心と周辺、あるいは関東と関西との対立としても現れる。そもそも『古事記』や『日本書紀』の八世紀以降は、外国人が日本に入ってくることはほとんどなく、天つ神の子孫を支配者とし、国つ神の子孫を被支配者とする国家体制がカタチづくられる。その後も子孫の血が激しく混じりあい、日本民族はほぼ一体化したのである。この一体化の原理が和の原理であり、聖徳太子は和を十七条憲法の中心においた。このことは、しばしば誤解されるが、日本は建国以来、和の原理でやってきたのではなく、約千年の天つ神と国つ神との血を血で洗う戦いの結果、この狭い日本列島に諸種族が共存するには、何よりも和が必要であった。▼日本文化を俯瞰するなら、弥生人が縄文人を征服し、統一国家ができたのは四世紀から六世紀にかけての古墳時代であり、それを受け継いだ飛鳥・奈良時代は、その統一国家を中国にならって律令国家にしようとした時代である。律令社会は、農民を土台にして、その上に貴族が支配者となる国家制度であるが、これは弥生時代の延長線にある。ところが平安時代の中頃から武士が台頭する。武士はもともと狩猟採集を業としており、縄文の遺民とみて間違いない。関東は縄文文化の影響が強く、関東人は縄文人がそのまま農耕化したという説がある。十世紀末に遣唐使の廃止により中国からの文化移入が止まり、日本文化は国風化していく。今までインターナショナルな弥生文化に押さえつけられていた縄文文化が、再び躍り出ることになる。▼中世は、人間的にも縄文的なものが噴出した時代だったのだろうか。

▼(つづき)縄文文化は平等を重んじる文化である。狩猟採取あるいは漁労採取社会では財の蓄えはきかず、獲物がとれると公平に分配される。この社会の遺物であるマタギ社会をみれば、熊狩りや猪狩りには最適な親分が選ばれ、狩りの間はその人に皆従うが、狩りが終わるとタダの人になり、その獲物は狩りに参加しない老人や未亡人にも公平に配分される。縄文文化の居住跡をみると、真ん中の広場を囲んで、全く同じ大きさの竪穴住居が並んでいる。これは縄文社会が平等社会であったことを示す。▼しかし、弥生人がやってきて縄文人を征服し、そこに国家をつくると、階級あるいは身分が生まれる。それが氏姓制であり、インドのカースト制に似る。征服者としての天つ神の子孫は高い姓をもらい、被征服者はそれより低い姓を与えられ、一生その姓から自由になれず、一定の身分と職業に縛りつけられる。古墳時代からこのような氏姓制による身分制がつくられるが、この身分制が律令制の採用とともに崩される。聖徳太子が導入した律令制は本来、身分制を崩すという性格をもっている。それは律令制による大きな国家機構を運営するには、身分を越えて人材を登用するほかなかったからである。律令制が機能を発揮するには、人間を身分制から解放する必要があった。▼やがて、武士の台頭はこの平等化の流れをいっそう進め、下克上が時代の潮流となる。江戸時代は、このような平等化の要求の強い日本社会をもう一度、身分社会に返す試みとして人工的につくられた社会であった。士農工商というのが新しい身分秩序であったが、士といっても、それは古い伝統をもつ貴族ではなく、将軍や大名といっても一代で成り上がったものであり、また社会の一番下におかれる商人こそ財力をもち、実際生活のうえでは、将軍も大名も、商人に頭が上がらなかった。身分社会の典型のような江戸時代においても、やはり社会の流動は激しく、徳川中期以後、幕府の事実上の最高権力者は、旗本でも、足軽に近い身分から成り上がった。▼こういう伝統なき身分制は、明治維新の西洋思想の影響によってさらに崩れていく。この平等化の傾向は、中世の下克上のように今もなお進んでいる。こうしてみると日本社会は、平等化の傾向が大変強く、それが、外来思想の、あるいは仏教思想の、あるいはデモクラシー思想の影響を受けながら、身分制を崩壊させてきたのである。こういう社会のダイナミズムは、日本文化の基底をなす、縄文と弥生の楕円構造からみると分りやすい。

▼(つづき)日本は縄文と弥生といった二つの性格の違う文化から成り立っている。宗教とか習俗とか言語とか、変わりにくいものは縄文文化の影響が強く、変わりやすいもの、技術とか教養とか政治組織のようなものは弥生文化の影響が強いのではないか。たとえば、宗教は縄文文化の影響が強い。神道は、七世紀から八世紀にかけてと、十九世紀から二十世紀にかけて、二度、国家宗教化したが、もともと自然崇拝の宗教であり、森の宗教であったといえる。それは今もなお神社は森にあり、また神社には、神の使いという動物がいることによってもよく分かる。もともと樹木や動物そのものが神であった。仏教にしても日本に入ってきて「山川草木悉皆成仏」などという言葉ができ、人間中心の宗教から自然中心の宗教に変わってしまった。また日本の芸術は、短歌、俳句、日本庭園、花鳥画など、自然の霊妙な美を探究しようとするものが多い。日本文化は、その本質において森の文化であろう。地球の都市文明が森林文明を食い尽くした今となっては、森の文化を強く保存する日本文化は、今後の世界に古くかつ新しいものを提供できる可能性がある。▼もちろん一方では、弥生人の功績は大きい。かれらは、もともと自分たちの先進文明をもって外国から渡来した人間であるので、たえず外国の先進文明に注意を払い、新しい技術あるいは文化を積極的に移入しようとしてきた。聖徳太子が遣唐使を派遣し、それが四世紀続いてわが国の文化を飛躍的に発展させたのは彼らの精神の延長線上あるためであろう。こうして日本は中国やインドから儒教や仏教を移入し、日本を文明国家たらしめたが、その経験が明治以後も役立ち、日本は約百年の間に西欧から近代文明を移入して、今のような近代国家になったのである。これは弥生人がつくり上げたものである。▼しかし、環境が二十一世紀の社会に最重要な課題となり、独自の文化創造が期待されるとき、縄文への期待が高まる。人間と自然とを一体としてとらえる世界観において、一人ひとりの個性のすばらしい表現において、縄文文化の伝統を再考してみたくなる。縄文と弥生の楕円文化論は、今後の日本文化のあり方の思考土台である。▼かつて花田清輝氏が、二つの点を持つ楕円文化の話をしていたのを思い出したが、この人が楕円論の原初だろうか。

(3)系譜-3 
あの中坊公平(元日弁連会長、新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調/各界150人による政治改革の有志団体)特別顧問。」、1985年に発覚した豊田商事事件(被害総額1200億円、被害者数3万人に上る史上最悪の詐欺事件)で「平成の鬼平」の異名を持った弁護士)が語る森の話です。▼森の住人だったことが日本人の弱点だ。この国は自然が味方してくれたからね。今でも国土の七割から八割が森林でしょう。何千年もその森の中で生きてきたから日本民族の遺伝子の中に、すっかり森林文化が定着した。私はこれが実は日本人の弱点と思うのです。森には動物がいるし、実もなる。飢えに苦しむこともなく穏やかに生きてこられた。ただ目の前にある茨を折ったり、手でかき分けたりして進んできた。器用にはなった。が、必然的に、いかに対応するかということだけが自分の仕事になってしまった。目の前にある枝を上手に折る、道を作る。そんな仕事だけに明け暮れる《HOW》文化がすべてになったんです。だから自分の目の前をズンズン歩いている人がいたら、本当にこの道でいいのかと考えずについて行く。中国文明も、西洋文明にも同化するのは容易でしたよ。強い存在には無意識のうちに従ってしまう習い性になってしまった。その致命的な欠陥は、遠くが見渡せないこと。木の葉や枝があるから遠い所を見渡す文化が育たなかった。▼ 欧米や中国の文化は砂漠文化です。そこではオアシスを見つけなければ生きられない過酷な状況で生き抜いてきた。必死に現状に耐えて遠くを見なければ死に至る。自分で方向を見定め、自分の足でそこにたどり着く。なぜこっちへ進むべきなのか、本当にこれでいいのか、命がけで自分に問いかけながら生きるのが砂漠の《WHY》文化なんです。 そういう視点で日本民族を見ていると、政治でも経済でも、そして外交でも、目の前のことでどうしよう、どう対応しようということばっかり考える。なぜこうなったのかを考える遺伝子がない。それを自覚しないとね。▼おもしろいですね。直感的な文化二元論です。確かなところは、レビ・ストロースのような構造主義の目で、森と砂漠の民を比較文化するほかありませんが、これで、森の話はおわりです。

06.未来への系譜/自己決定の練習と自治 
▼この島の人たちは、毎日の生活や仕事社会の場面では、自ら決めない集団決定を好んできました。「孤独になれず、自らも決断できず、自ら責任も取らない」日本人を、故伊丹十三氏は映画「あげまん」で描きました。集団意志の強い日本人は、仕事や学問を自己と神、あるいは自己と真理との間の孤独な対決と考えず、グループ・会社・学派・学閥などの集団の中で自己証明してきました。「ふにゃふにゃになった日本人」の原因です。私は私に従う。自己決定のトレーニングは、自分の考えを持つ(筋書きを作る)、恐れずに自分の意見を述べる(短く効果的に)、その代わり他人の意見もよく聞く(話し終わるまで待つ)。これでいいと思います。かつて「私は私っ」と金井克子が歌っていました。自分で決める練習をしなければ、次の段階の自立・自治社会の条件が整いません。

07.未来への系譜/自治体の構想 
▼自治体は次の課題を抱えながら構想することになろう。▼「自治体の政策」では、自治体が1999年の地方分権一括法により市民政府として本格的に動き出せる「自治の条件」が整ったことから、これからの自治体「力」が試されます。▼「自治体の広域化」では、現在の法的手法は協議会・一部事務組合・広域連合があり、消防・ゴミ・医療・介護保険などを進めているが、流域下水道では地上の維持水量が少なく都市生態を狂わせており小規模処理法が見直されています。また最近は国と自治体の財政逼迫から、3千余の基礎自治体は合併により「行政区画」を拡大し一定の行政水準や効率を高めようとしています。しかし「自治の単位」は自然条件や歴史的な経緯から、市民が共同認識できる範囲を優先すべきでしょう。現行法による広域的な事務処理でも十分機能できることを考えたい。▼「自治体の国際化」では、国境の壁が低くなり自治体の国際化が進んでいます。しかも先進国ばかりでなく途上国との姉妹都市提携も多く見られ、市民交流・文化交流・経済交流・技術交流が幅を広げ、市民外交を蓄積しつつあります。▼「自治体の独自性」では、それぞれの自治体がピカリと光るものを持つことです。当市がめざす田園都市づくりを国内に留まらずアジア圏での相互の政策連携へと展開したいものです。「小さな世界都市」として生き延びることです。

08.未来への系譜/市民自治と二つの言葉 
▼沼津の「地域コミ研」を知ったのは、日本のまちづくりが動き出した昭和五十年代でした。当時は自治体の理論も政策も手探りでしたから、先行している横浜市や神戸市を訪問したり、沼津市職員との交流などから使えそうな事例を「密輸入」していました。一方、考えの下敷きにしていたのは松下理論でした。とくに戦後政治の理論整理を終え、政治を市民自治においた展開は新鮮でした。▼昭和四十年代前半に私は松下(圭一)ゼミを受講していましたから、政治の仕組みが新たに転回することは薄々感じていました。国民主権→議会→政府という政治統合の「J.ロック」モデルは美しいけれども、都市型社会では機能せず分節政治システムを生み出すことの必然でした。自治体の発見です。詳しくは手軽なちくま学芸文庫「戦後政治の歴史と思想」でも味わえます。内容は手軽ではありませんが、戦後政治と自治体の意味を一気に見渡せます。▼当時このゼミでJ.S.ミルの代議制論をやっていたのですが、私のレジュメは一番肝心の「情報なくして参加なし」のところが抜けていて、ツボを外したことに恥ずかしい思いをしました。しかしこのことが後々まで尾を引くことになるのです。それにJ.ロックの言葉だと思いますが、先生は幾度も「経験なくして理論なし」を引いておられました。▼この二つの言葉は、自治体の仕事に就いてからも反芻していましたから、計画や政策を動かすときの基点となりました。今では日常生活の中のコトワザとして私用するまでに愛用しています。ともかくも仕事は計画部門に通算二十年いましたから、いろいろな調査、自治体のデータ作りと公表、部門計画や総合計画、都市計画基本プランや地区計画、特定プロジェクトなどに携わりました。情報整理や計画づくりの面では職人の気分で取り組み、ワークショップなど市民参加手法も工夫をかさねました。計画手法としてはオリジナルなことはしませんでしたが、昭和四十年代のわが街の故吉村市長が提唱した田園都市づくりに惹かれ、まちづくりの汎用化へ向けて調べ続けています。▼今では地方分権の流れに沿って都市計画法が改正され市町村マスタープランが作れますから、情報・計画・土地利用をキチッとさせて立体的な視点で計画立案・運用できることになります。さらに市町村自治体は基本施設の初期投資を終えて、維持管理の技術や行政サービスの再点検が求められています。机の上のパソコンも情報や政策の支援道具です。図と文字と計算がすべてではありませんが、情報や政策を占有せず共有するためには嫌いであっても、駆使しながら政策転換情報を内包させたいと思っています。情報+参加+政策+実践・経験=まちづくり。まちづくりは終わりのない足し算の和ですから、今世紀も市民自治を考える人たちのツキアイは続きます。

09.未来への系譜/こんな町を造りたい
▼町づくりで思いきって特徴を出す。一つ目は《湯上り気分の街》。開拓に一途な一世紀を終えたので、これからは骨休めしながらチト増しな暮らしをしたいもの。平野部でグリーンタフ(植物性)の温泉源を持つのは帯広とドイツのバーデンバーデン地方の2ヵ所のみ(もっともハンガリーは国中が温泉地)。わが街の銭湯には温泉が多い。ちなみに泉源は35ヶ所で内訳は浴場・ホテル19ヶ所、その他10ヶ所、未利用6ヶ所。深層地熱水をみると地下0~15㍍の水温は季節変化するが、それより深い透水性岩相で10~15度、さらに深い岩盤層だと40~55度となる。この熱い温水を一定の規制をしながら汲み上げ、市内20ヶ所で銭湯が経営されている。小学校を地域の核とする考えもあるが、銭湯を地域の寄り合いの場としたら北国ならではのいい気分の場所となる。どう作るかは地域の人達と銭湯屋さんと設計家で決め、それぞれ健康分野、福祉分野、文芸学習分野などで特長を出せば良い。これに必要な基本経費は自治体が年次計画的に負担する。雪の降る露天風呂、星の見える露天風呂の後は寄り合いを楽しむ。今日の極楽、明日のためにです。まちづくりは道路や橋づくりの段階を終えました。これからのまちづくりは、お祭り気分で。

▼まちづくりで思いきって特徴を出す二つ目は、《ベンチと散歩の町》。帯広の街の中心部は数十年かけての都市計画事業が終わるや駅の周りはガランと空洞化。地方都市の車社会化は激しく、住宅はもちろん学校などの公共施設や商業施設も南部煎餅のゴマのように散々の有様。都心が凹み周辺多核化した。道路網がそれらをつなぐが、車がないと生活できない。しかし、子供や年寄りにとって大事な乗り物は「バス」。この乗り物を小型化しルートや回数などに工夫を加え、健康維持のための「歩く」と組み合わせる。さらにベンチである。道に佇み、座れる町。ベンチをまちの顔にする。世界中のベンチに座れるベンチ博物館通りを作ってもいい。冬のベンチだって悪くない。広場にベンチ。道にベンチ。バス停にベンチ。ベンチに日傘雨傘替わりの街路樹もセット。当然無電柱化。街路樹はニ・三十年もすれば古くなった街を隠すのにも都合いい。街路樹は町の七難隠す。これは欧州に学べです。歩きながらベンチに座りながら、風呂めぐり、そば・ラーメン食めぐり、街めぐり。ベンチと散歩の街です。街の中心の広場は散歩する人が集まり、人を見たり見られたりの「視線を感じる」ハレの場所として使われだす。小さく閉じるまちづくりによって、ハレの舞台から路上文化が生まれるという筋書きなのだが。

▼まちづくりで思いきって特徴を出す三つ目は、《農家と同居する町》。都市と農村が同居できる街はザラにない。20世紀の農村は農業生産基地で、都市も工業生産とサービス産業だけの街だった。これからは農村・農家で楽しむ。野菜、魚、ワイン、チーズなどは『半径50㌔田園生活経済圏』で賄う。「第一次産業」と「第一次産品の加工」の田園生活は生涯のどこかの時点で関わりたくなる筈。近頃の各農家はきれいなサインボードを立てているが、まだ名刺がわりの段階。発信内容も「私の農場は40㌶です。牛30頭、羊10頭、鶏20羽、豚5頭。ペルパー募集中」「母屋の隣に廃屋あり。住んでみますか。農業の仕方教えます」「私は頼りになる村一番の飲ん兵衛です。冬の夜であれば何時でも付き合います」「低農薬実験農場ですが、無農薬ではありません。契約栽培しますか」「農家に泊まってみませんか。ただし自炊です」などはいかがですか。特に首都圏のエリートは通勤地獄で疲れています。地方定住やチョット定住の可能性のありそうな1%の人々に「十勝平野でやってみよう半定住の手引き」をメールやホームページで発信してみる。地域での農業や工芸の可能性、野外生活のメニューを載せる。さらに、近い将来の入植者あるいは訪問者になる地域外のジュニアにための「十勝平野アドベンチャー編」も作成したらどうか。面白いところ、楽しいところに人は集まるし、いずれはこれが地域の「カツゲン」になる。カツゲンってわかりますか。活力の源。ドリンク名で知っている人は相当古い。

以上、町づくりの系譜として、都市設計の系譜、森と人間の系譜、未来への系譜、を見てきました。さて、皆さんはどのように町を造ろうと思っていますか。

10.資料編 
▼書籍資料/『歴史の都市 明日の都市』(ルイス・マンフォード / 生田勉訳. 出版元: 新潮社)。

2010年3月22日月曜日

現場の町づくり (MA-8)

08.現場の町づくり
内容
1.都市デザイン事始... 1
2.「町をつくる力」をつくる... 4
3.「町をつくる人」になる... 6
4.自治体プランナー... 6
5.プランナーの資質と宿命... 11
6.町づくりをみんなの手で!... 13
7.やってみよう会議の方法序説... 13
8.やってみようワークショップ... 14
8.資料編... 14


1.都市デザイン事始 
(都市デザインを考えるためのチャート)
            みせ                           
うち - しきち - みち   - まち   +ひと・とき
            みず
            みどり
(私的領域)    (共有領域) (公的領域)
※都市構成要素の4つの「ち」、4つの「み」、2つの「と」をしっかり関係づけることが、都市デザインの基本。








▼では、自治体の現場をいくつも経験(東京都、名護市、世田谷区)した原昭夫さんの『自治体まちづくり-まちづくりをみんなの手で』(学芸出版社)から引きます。/「まちづくり」という言葉が、それまでの「都市計画」や「都市開発」といった言葉に代わって、1970年代ぐらいから使われはじめ、いまようやく私たちの身の回りの環境を保全・革新・創出していくことを考え、実践していく言葉として、頻繁に使われるようになってきました。▼ただ、この「まちづくり」という言葉をいま一度考えてみるために、中学校で習った英文法になぞらえると、「まち」とう目的語(O)と「つくる」という動詞(V)はあるものの、だれが「つくる」という行動や実践をしていくのかという、その主語(S)が示されていません。一体だれが「まちづくり」の主語になるのでしょうか。それは「あなた」です。あなた、そして私たちです。ここでの話は、主語になるための話が中心になります。

▼まちづくりの時間/地域や都市の歴史およびその蓄積は、地域や都市の姿やイメージを特徴づける。歴史的な都市を訪れたときに感ずる、あの何とも悠々たる思いは、都市に流れてきた「時間」の長さと、そこを「通過」する私たちの人生の時間の短さを改めて教える。こうした「歴史的時間」のほかにも、地域や都市は様々な時間を持ち、またそれに拘束されたりもしている。それらの時間をいくつかに分類してみると。
《ロング》
・百年/「百年の体系」とも言うように、「計画」を考えるなら、時には百年スパンぐらいで考えたい。百年かけて町並みをつくり出していくことを宣言し、その事業に取り組み始めている町もある。山形県最上郡金山町の「町並みづくり百年運動」が知られている。
・七十年/コンクリート建物の耐用年数に相当する(但し、『いまコンクリートが危ない』という岩波新書もある)。公共建築を含めて、日本の建築物は用を足さなくなると、老朽建物として取り壊されてしまう。うまく使い続けていくという手法も、「循環社会」をめざすなら開発していきたいものだ。
・三十年/一世代の年数である。世代間のギャップが深まり、また核家族時代になって世代から世代への文化伝達も、都市社会の中では難しくなっている。多世代の人々による「地域共同社会」の回復も長い時間が必要だ。
《ミドル・ショート》
・二十年/自治体の「長期計画」や「都市計画マスタープラン」などの目標年次とされている。生まれた子供が成長を重ねて、成人として大人扱いをされるまでの時間。
・十年/「十年ひと昔」と言われるが、自治体の事業、特にまちづくりに関する事業は、企画・構想から実現まですぐに十年は経ってしまう。十年辛抱強く一つのことに取り組むことが、まちづくりには必要なのかもしれない。「線引き」などの都市の将来を考える時間でもある。
・四年/自治体の首長や議員の任期である。それより長い時間を要するまちづくりは、この間に公約や政治的目標の実現をはかろうとする首長の時間と、うまく折り合いながら進めていかねばならない。「自治体まちづくり」の一区切りの時間ともいえる。
・一年/自治体の「単年度主義」による事業や予算の持つ時間である。この単年度のリズムを刻みながら自治体は動いていく。まちづくりの方針や事業の担当者はあまり頻繁に変えないで、まちづくりを進める体制が大切であろう。
自治体のまちづくりにおける「時間」を振り返ってみると、上述したような四年ないし一年という短いスパンの繰り返しということが多いが、「都市づくり百年の大計」を視野に入れて、都市の成長管理やエイジングということも考えながら「時間計画」「ステージプラン」「整備プログラム」といった「時間的調整計画」をもっと考えてよいでしょう。

▼「地図」。フィールドワーク「現地主義のすすめ」という面では、「地図を好きになる」ことです。地図になれるには、記号や縮尺を理解することです。そんなに難しくない。5千分の1とか、1万分の1とか、2500分の1という縮尺の数字に出会ったら、まず分母の数字の末尾の0(ゼロ)を二つ取る。それにm(メートル)をつけると、それがその地図での1センチを示す距離(長さ)となる。先の例で言えば、それぞれ1センチが50m、100m、25mとなる(地図参照)。ですから地図にスケールがついていない場合は、自分の手を使う。例えば手を広げた時の親指化小指まで何センチになるか(20センチ)、握りこぶしは何センチになるか(8センチ)を予め図って覚えておくと、地図上の距離を測りたいときに役に立つ。▼これらを「ボディ・スケール(身体尺度)」といいますが、自分の体の各部の寸法を知っておくと、町の大きさ、例えば道幅や歩いた距離などを知る上で便利なことがある。伊能忠敬(1745-1818、江戸時代の商人・測量家)の「測歩」の精度には及ばないまでも、街区の大きさやまちの拡がりを体感できるようにしておくと、町歩きもさらに興味が湧きます。

▼フィールドワークの七つ道具/①地図(道路図、地形図、施設分布図、交通図など、その地区をめぐるときに便利なもの各種)、②筆記用具(水に濡れても滲んだりしない色鉛筆も便利)、③小さなノート(野帳、見つけたいろいろなこと、聞き取ったことなどを書きつけておく)、④磁石(あれば曇りや雨の時は便利だが、これがなくても方位を見つけるカンも養っておく)、⑤コンベクス(スチール巻尺、5メートルくらいいのもの、しかしボディ・スケールをうまく使うのも大切)、⑥カメラ(デジカメ記録もいいが、まず自分の眼でじっくりみるのが基本)、⑦手ぬぐい(歩いて汗をかき、ワークが終わったら、見つけた銭湯でひと風呂浴びる)。その他、時計、財布、雨具、飲料なども加えて、歩きやすい服装が用意できたら、さあ町へ。▼自転車で巡る/フィールドウォーク、タウンウォッチング、路上探検、町歩きなどでカバーする範囲より、もう少し広い範囲の調査をやる時は、やはり自転車が便利だ。また、歩いて調査する場合でも、まず初めは自転車で広い範囲を回っておくと、歩いて回るフィールドワークも効果が上がる。自転車は時速8~20キロの緩急自在、カバーする範囲も1~100ヘクタールという中域性、細い道路にも入り込める末端侵入力、階段や歩道橋なども担げば渡れる軽量性など、便利な交通手段である。まちづくりの道具として見直そう。

▼さて、実際に「まちをつくる」については、大学での都市政策講義のようなことや、自治体での都市計画やまちづくりなどの実践的なことについては、今回省きます。でも、たとえば項目だけでもいくつか挙げると、こうなります。人口推計、土地利用計画、道路計画、公共施設計画、都市デザイン、面的整備、緑地計画などなどです。▼ここでは「都市デザイン」(図1参照)だけを少し覗いてみましょう。
▼都市デザインとは、一つの建築物や施設を美しくつくるということだけでなく、それらを関係づけて形態的な秩序を与え、時間をかけて総体的に美しく快適な環境をつくっていく術であると言える。それは、自治体のまちづくりにおいてもしっかりした技術として蓄え、魅力ある市街地づくり、美しい街並みづくり、しっとりとした集落づくりなどへの手法として、みんながもっておきたいものである。▼都市デザインというものを「もの」の関係づけをしていくこと、「もの」同士の調整をしていくことだと理解するなら、その仕事は「デザイナー」といった特殊技能やデザイン能力を持った人だけの仕事ではなく、自治体職員なら誰もが持つべき「関係構築力」「調整力」の延長にある一つの仕事と言える。▼都市の物的要素とその関係づけは上図のとおり。▼この都市デザインという手法をさらに広げ、地域の基盤としての土地、地形、植生、水文、気候、さらにはそこに生息する生物、人々の営み、土地利用、歴史なども含めて全体の環境をつくっていくことが「風景づくり」という仕事である。
▼古人は「借景」といった手法で遠くの山々やランドマークを敷地や建物にうまく取り込んで、敷地と周囲の関係を巧みにつくっていった。今なら、公園を造る時に、遠方に富士山(日高山脈)が望めるならばその軸線(ビスタ:見通し、眺望)を大切に生かして苑路や広場の設計に取り入れたり、日の出や日の入りの陽光が射してくる場所であればそれをうまく取り込むなど、周りの環境の状況を十分調査して、その風景を引きこむことも施設づくりにおいては心がけたいことである。町づくりにおいても、「風景」に思いを馳せながら、現代の街並みづくりやランドスケーピングに取り込みたいものです。

2.「町をつくる力」をつくる
(1)「まちを知る」「まちを学ぶ」という段階
①広報、まちづくりニュース、お知らせ、ホームページ/まちづくり事業や施設建設が始まる前には、自治体の広報にそのお知らせが載ったりする。これで住民は何が始まるかを知ることになる。一方的ではあるが、情報公開の第一段階である。ですから盛り込むべき内容、計画や事業のねらい、集会の呼びかけであれば日時や場所などを把握し、当日参加して住民としての思いをしっかり伝えること。最近はインターネットで公開されことも多い。
②説明会、公聴会、まちづくり集会/これらは、直接住民に呼びかけ、会場に来てもらい、広報より詳細な説明を事業関係者が図面、スライド、パンフレット、この頃はパワーポイントなどで行っている。まちづくり事業や施設建設の権利者や利害関係者を対象に、地域を限定して行うもの、まち全体に関わる課題を広域的に説明するために行うものなど、その対象によって規模や呼びかけ範囲は異なる。主催者側の注意点は、専門用語を避けて分かりやすい話し方が必要だし、参加者側は自分の利害だけに拘らず、参加者全員の意見がまとまっていけるように運営することが大事である。司会者はそのカギを握る。(⇒会議の方法は後述)
③講演会、講習会、研修会、シンポジウム/やり方としては、講師の話を聞くという一方通行、受け身の性格のものとなるので、質問時間を十分にとったり、終わってからアンケートの記入を求めたりして、双方向、相互通行になるように主催者側は配慮すべきである。
④まちの探検、タウンウォッチング、オリエンテーリング、ウォークラリー/話を聞いたり、本で学ぶだけでなく、実際にまちへ出て、自分の足で、自分の眼で、まちの姿をとらえ、まちの今の生の課題を知ろうとするものです。ですから楽しさやゲーム性を考えて、まちを発見する喜びなどもあるような工夫をするとよい。

(2)「まちを考える」「まちの姿を提案する」という段階
①アンケート/▼自治体のまちづくり施策が一方的にならないよう、施策の形成過程において人々の意見を聴取して反映させていこうという公聴型の参加手法の一つである。最近はインターネットの意見募集などもある。
②提案、意見書提出/身近なまちづくりについて、地域のゴミなどの環境問題でもよいから、意見・提案として担当部署に送ってみたらどうだろう。自治体側もその提案をクレームとして無視せず、町づくりの種として使わせてもらうくらいくらいの対応が必要だし、もちろんその善後策について返事をすべきである。
③まちづくり協議会/多くの自治体では、まちづくり地区を定めて、住民や関係者が主体となった「まちづくり協議会」をつくって、住民・関係者・専門家・自治体が地区の課題を解決や将来方向の検討に取り組んでいる(中心市街地活性化など)。具体的事業を伴うので、利害調整・意見調整が難しい。協議会の運営を公平・中立に行うことが大切であるから、信頼を得た事務局や案を的確にまとめる専門家が欠かせない。
④審議会・委員会等への参加・傍聴/例えば都市計画審議会などでは、その構成メンバーは議員、学識経験者、行政職員に限られ、そこでの審議は非公開が原則とされてきたが、しかし地域住民が計画の審議にまったく参加できないというのは、今の時代に合わなくなり、都市計画法の一部が改正され、審議会の傍聴、議事録の公開などができる様になってきた。
⑤請願・陳情・議会や委員会の傍聴/紹介議員の有りの請願と紹介議員なしの陳情の二つがある。古風な用語だが、この手続き・権利をもっと行使してよいのではないか。議会の委員会において提出された案件を審議し、採択、不採択、継続審議などとなるが、その審議内容を傍聴するのも参加の一つの形である。
⑥クレームや紛争処理から学ぶ/夢のある町づくりばかりの提案ばかりでなく、建築紛争や環境紛争などネガティブな課題の処理や調整ということも自治体の仕事である。公的には紛争調停委員会や建築審査会などが法令のバックアップを受けて、その審査や調停に当たっている。また法的根拠は薄いが各種の建築相談、市民相談、困りごと相談の中にも、まちづくりの課題として処理すべき問題が多数含まれている。
⑦反対運動、○○を考える会/建築紛争や環境紛争がやや大きな地域に影響を与えるものになると、その地域では署名が集められ、反対運動が組織される。開発反対、道路計画反対、歴史的環境保全要求、迷惑施設の建設反対、学校の統廃合反対、大規模店舗の立地反対など、多様なテーマに対して、様々な立場の声が上がる。解決が難しいものが多いが、そこから学ぶことも多い。
⑧まちづくりモニター/まちづくりについて、自治体から委嘱を受けて、施策の効果や、新たな取り組みの方向を助言するものである。公募することもある。

(3)「まちをつくる」という段階
①まちづくりコンクール・アイデア募集/前述の「提案・意見提出」よりも、もう少しルールやテーマを定めて、意見やアイデアを公開で募集するものである。
②コンペティション、設計競技/コンペティション(コンペ)は、建築物・公園・博覧会場・施設・街区・住宅団地・地域など、より具体的なテーマについて、プランナーや建築家などの専門家を対象に計画案や設計案を公開で求めるものである。
③専門家派遣・専門家との共同/住民と自治体のとの連携でまちづくりを進めるためにも、専門家派遣のうまい仕組みづくりに取り組む意義は大きい。首長の任期を超えて、10年以上の単位で見守ってもらう専門家の確保が大事である。そうすれば都市全体の動きとその施策効果を判定できる。
④まちづくりファンド、ボンド、トラスト/▼まちづくりの初動期を支援するために「まちづくりファンド」あるいは「まちづくりボンド」がある。例えば、東京都世田谷区では、市民セクターのまちづくりを人的・資金的に支援するために1992年に「まちづくりセンター」を都市整備公社の中にスタートさせ、そこに「まちづくりファンド」という基金を用意し、その運営を信託銀行に委ね、毎年数十件のまちづくり活動を応援している。そこで取り組まれるテーマは、みどり、福祉、環境、大規模道路、高齢者、子供、建物保存、交流、マップづくりなど多様で、役所が考える狭義の町づくりの枠をはるかに超えて奥深い。
⑤ワークショップ/参加者全員が共同作業、水平討論をして、あるテーマを考え、掘り下げ、ある解答を皆で探しあてるというやり方がある。(⇒後述)。▼町づくりは、共同作業・共同思考・共同作品なのです。
⑥自力建設、自主管理/まちづくりの中で必要となった施設の建設は、自治体や地域が建設会社や工務店に工事を委託し、完成後地域の人々が利用する、というのが一般的である。しかし、この施工という実際にモノを作る部分に、地域の人々や利用者が参加して、手足を動かし汗を流して、たとえ一部分であっても参加することができたら、もっと「自分たちの施設」「おらがまち」という愛着がわくのではないのか。▼具体例では、手作りタイルを歩道に埋めたり、グリーンパークの4百mベンチなどの例がある。

3.「町をつくる人」になる
(1)「人づくり」より「人になる」
▼「まちづくりとは、モノをつくることではく、結局人づくりなのだ。人ですよ、人」。町づくりの議論の最後によくこうした発言が出会います。でもこれは楽天的ですね。再びS(主語)+V(動詞)+O(目的語)の文法をあてはめると、誰が人をつくるのか、という主語が問題になる。「人づくり」という言葉は、どうも「私」という当事者であるべき主体が、町づくりという行為の外にいて、誰かがそれを担ってくれるような響きがするし、また「人をつくる」というと何となく横柄な感じもする。であればなおさら、まちづくりや地域づくりを大切なことと考え、そこでの人の存在や人同士のつながりが重要であると気づいた人、まず「あなた」が町づくりを進める人になってしまったらどうだろうか。「人づくり」に頭を悩ませて、地域づくりがなかなか進まないことを外野席に座って嘆いているより、へたくそでもまず自分がグランドに飛び込んで、泥んこになってゴロを拾いまくる方が、事は早そうだ。汗みどろでノックの向かっているうちに、となりでゴロを拾う人が現れたり、トンネルしたボールを拾いにバックアップに回ってくれる人が出てきてくれるかもしれない。こうして「人になる」人が増えていくと、街づくりは生き生きしてくるはずだ。「町づくりを行う人」になってしまおう!

(2)まちづくりの様々な主体
▼まちづくりに関わる人々は、住民・利用者から始まり、民間プランナー、研究者、学識経験者、民間事業者、自治体職員など多岐にわたりますが、自治体職員にスポットを当てて考えてみます。

4.自治体プランナー
▼町づくりには、次の12則(「まちづくりに取り組むあなたへ」)が大事と考えます。これは皆さん方が、仕事をするときにも応用もできますから、覚えておいてください。

(1)計画感覚を磨け
・プランニングセンスを自らの中に蓄えよう。そのために資料、データの集積を意識をもって行う。
・町に起こっている現象の観察・把握・分析そして課題の抽出をしっかりやる。
・「事務担当者」に留まるな。仕事は「事務」や「義務」でやるな。あなたは「プランナー」なのだ。
・政策化能力を磨け。自治体の町づくり人(マン)は、都市問題評論家や路上観察ウォッチャーでない。課題の解決の提案を行なったり、まちづくり政策をつくるのが仕事。政策化する力を養おう。
・常にまちのことを考えよう。自分の地域で起こっていることはもちろん、他の都市や地域で起こっている事象などにも関心をもって、原因や経過などを見ておこう。

(2)町へ出ろ、町を歩け、町を見ろ!
・現場主義、即地主義で、とにかく町へ出て行って、町を見ること。
・同じ場所に何度でも行く。町は朝昼晩そして季節によって姿を変える生き物だ。一回行っただけでは不十分。
・フットワーク、フィールドワークが大切。市民や議員から連絡があったら、できるだけ早いうちに現地へ出かけて、懸案事項を見ておく。偉くなったから「現場は職員任せ」ではいけない。
・寄り道、回り道をせよ。通勤途上、あるは現場からの帰り途、今までの経路とは違う道を通って他の場所を見ておく。ひとつ手前の駅で下車して他のルートを通りながら職場へ行くといったことをやったり、同じ駅からの道でも毎日ルートを変えてみる。少なくとも昨日のルートとは違う行き方をするなどをやってみると、違った発見があるかもしれない。
・街を見るいろいろな目を養うのが大切。地域を見るときに、住み手の目、つくり手の(プランナー)の目、よそ者(ビジター)の目の三つの「複眼」を持つこと。トンボの眼です。
・自転車で回れ。現地へ飛んでいく、現地を面的にじっくり見て回るという時に自転車は最適な交通手段。自転車の持つスピートとスケールをうまく使おう。

▼【宮本常一】と、ここで宮本常一(1907-1981民俗学者)の父の言葉を思い出した。町を知る・調べるにはとてもいい十か条が載っているので、紹介します。『旅する巨人』(佐野愼一・文藝春秋社)からです。▼宮本常一は、勉強のため16歳で大阪へ出る。大正12年(1923)山口県周防大島を離れる際に、貧農で教育を受けることのなかった父・善十郎は息子に十カ条のメモをとらせた。まず一番目は、汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、駅へついたら人の乗り降りに注意せよ、どういう服装をしているか、どういう荷物をもっているかに気をつけよ。その土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。二番目は、村でも町でも新しく尋ねていったところはかならず高いところへ登って見よ。山の上で目を引いたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。三番目、金があったらその土地の名物や料理は食べておくのがよい。その土地の暮らしの高さが分かるものだ。四番目、時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。五番目、金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬよう。六番目、私はお前を思うように勉強させてやることができない。だからお前に何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし体は大切にせよ。三十歳まではお前を勘当したつもりでいる。しかし三十歳すぎたら親のあることを思い出せ。七番目、ただし病気になったり、自分で解決できないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。八番目、これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。九番目、自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親はせめはしない。十番目、人の見残したものを見るようにせよ。その仲にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。

(3)都市の出来事に興味・関心を持て
・都市に生じている現象、姿、人々の動き、形、そこで起こる様々なことに興味・関心を持って、それらを見ておけ。
・「好奇心」こそ原動力。ものごとの原因・背景・動機などを考えるイマジネーションを養おう。
・他のまち、むら、しま、地域を訪ねよ。大都市の課題と小地域の課題はポジとネガのような関係。様々な地域を訪ね、そこの課題を知り、「第三者の目」で地域を見る力を鍛えよう。
・人々と交流せよ。他の地域を訪ねた時に、だた風景を眺めてくるだけでなく、そこの人々と語り、交流することが大切。「地域を内側から見る」ことができると、その地域への関心や愛着も深まる。

(4)「地域型」で仕事を進めろ
・「地域」こそ自治体の基本単位。地域ごとの課題、地域の個性や特色をうまく引き出して町づくりへつなげていくことが大切。
・また一つの地域でうまくいったこと、解決できた課題があったら、それが他の地域へも応用できるか、伝達できるかも考えよう。
・「小さな単位」を大切にしよう。小さな単位、小さな要素の積み重ねで町はできている。大きな枠組・構造づけを考えていくとともに、小さな単位・要素も大切にして、全体と個の関係をつくっていく。

(5)市民との共同をはかれ
・「市民参加」のそこでの進み具合、熟度、経過などの流れをしっかり理解しておくことが大切。それまでの取り組みや失敗なども記録し、伝達していくことが、まちづくりのステップアップにつながる。
・情報公開も欠かせない。どんな目的で、どんな意思決定のもとに、どんな経過でこの地区のまちづくりが進んできたのか、時間が経ち、住んでいる人々も入れ替わり、自治体の担当者も異動してしまうと、それらが不明になにならないように、これまでの「町づくりニュース」をファイルしたり、それらがいつでも閲覧できるようにしておくなど、情報の整理と公開がしっかりなされていることが、まちづくりへの信頼を増す。
・「御用聞き」ではいけない。「市民参加」といっても、何でもご要望は承ります、おっしゃって下さったことは何でもやります、というものではないはず。市民と自治体との役割と責任を双方がしっかり認識しながら、しっかり議論を重ねていくことが大切。
・地域の大学や学校とも連携・連動する。地域に建築・環境・デザイン・福祉・農業・商業などの学科を持つ大学・専門学校・職業高校などがあれば、まちづくりの生の課題をそれらの学校と共同して学び、解決策を考えていくこともできる。また小中高校の環境学習、総合学習のプログラムの中に、まちづくりを入れ込んでいくことも考えたい。

(6)皆で仕事をせよ
・一人だけ、事業担当者だけで仕事をするな。まちづくりの仕事が多様・多量・多忙になってくると、その仕事は担当者が決められ、彼または彼女一人がそれを行うということになりがちだ。そこで出てきた課題や悩みを組織全体で考え、方向づけて、その方針のもとに担当者が仕事を進めていく、という組織での仕事のやり方をつくり出していくことが大切。
・チームワーキング(共同推進)。現在小中学校では複数の先生が一つの教室で授業を行うというチームティーチング(TT)が始まっている。それに倣って一つのまちづくりを複数メンバーが担当するチームワーキング(TW)のうまいやり方も見出したい。
・そのためには、担当者相互の、あるいは組織の中での情報の提供と共有が大切だ。このことはあの人しか知らないという得意技占有ではなく、メンバーが入れ替わっても仕事がスムーズに引き継がれ、展開できていくようなシステムを、組織としてつくっていけるようにしたい。
・係同士、メンバー同士で議論せよ。仕事がスケジュールに追われたり、皆が多忙になると、話しかけたり、議論をしたり、悩みを聞いてもらったりという時間がなくなりがちだ。組織の中で、時には組織を超えて、上下を超えて、メンバー相互でもっとまちのことを議論しよう。

(7)自分の仕事を他の仕事につなげろ
・自分の今やっている仕事、今度担当することになった仕事を、どことつなげたらもっと効果が上がるか、もっと楽しくなるかを考えよ。
・例えば福祉部門に声をかけて、一緒に仕事が進められれば、「バリアフリーのまちづくり」が広がる機会となるかもしれない。環境部門と連携が行われると、資源循環型・環境共生型・自然利用型の公共施設づくりが進むかもしれない。産業部門との橋渡しができれば、都市農地のあり方や中心市街地振興などのヒントが増えることもあるだろう。
・他分野との連携化・共同化・総合化を常に仕事の進行の中で考えていきたい。そうすることによってタコ壺に陥ってしまわず、仕事にも広がりやつながりが出てくる。
・ネットワーキングを心がけよう。新しく職場に異動してきたあなたは、いろいろな経験をいくつかの職場でしてきたのだから、元の職場の仕事のやり方のいい面や、そこでの人々のつながりを生かせ。いままでのやり方を吸収・展開させながら、新しい仕事をここで推進すること。それが、「異動」の意味でもある。断ち切らず、つないでいくことが大切だ。(⇒高校野球もつなぎの野球)。

(8)アンテナを敏感にしておけ
・まちで、あるいは自分の仕事を通して得た情報を他の人と共有せよ。自分だけ「極秘情報」を入手して占有しているような気になってはいけない。地元情報、議会情報などは皆の共有物。それを整理し、「まちづくり情報」として皆が知っていくことが、仕事を滑らかに進めていくことにつながる。
・「部長しか知らない」「課長が知っているかも」「係長が情報を下ろしてくれない」といった組織では、情報ネットワークは働かない。組織内の情報開示・共有がまず大切。
・「聞いていない」という返事を私たちはよくするが、これは「私にはそれについて知る努力をしていません」と言っているに等しい。情報とは他人が自分の前に持ってきて、聞かせて下さるものではない。自分で情報をキャッチの努力をしよう。
・自分の担当している業務についての情報だけでなく、地域全体、他の都市の問題もしっかり把握しておく。
・他の自治体の試みや実践からも学ぶことは大切だ。

(9)常に「やる方向」で考えよ
・仕事に取りかかる前から「できません」「ムリです」と言わないで、どうやったらやれるかを考えよ。
・その仕事、新しく担当することになった業務にどんな課題や困難があるか、それをどうやったら乗り越えられるか、「問題の構図」を少し落ち着いて紙に書き出してみると、解決法が見えてくることもある。(私は「魚の骨」か「系統樹」で課題整理)。
・今までのやり方や、自分が今考えている方向では、どうも解決が見出せそうにもなかったら、違った方向からも解決を考えてみる。思わぬやり方が見つかるかもしれない。
・困難な事をやっているということは、まだ誰も取り組んだことのない、前例のない最前線にいるとうことでもある。「やる方向」で地平を拓こう。
・失敗やどうでもいい批判をおそれるな。こうした新しい仕事、パイオニア・ワークは失敗のおそれも伴う。またそのやり方に周りから要らぬ批判が起こることもある。こうしたことを恐れて仕事を「やらない」のではなく、やる気を蓄えてやっていこう。(⇒日下公人、地域づくり=客観条件+やる気)。

(10)失敗・クレーム・紛争から学べ
・自治体の仕事は、窓口で怒鳴られたり、クレームの電話や手紙をもらったりと意気消沈するようなことも多い。しかしクレームとは、自分の仕事を通して供給したつもりのサービスがうまく相手に届かなかったというギャップから生じている。これを他の面から見るならば、「マーケティング・リサーチ」の好機であると言えなくもない。クレームとその内容をしっかり見つめるのが大切だ。仕事を見直すチャンスにもなる。
・その解決の積み重ね、学習が大切だ。誰でも嫌なことは早く忘れたい。早く目の前から去らせたいと思う。一つのクレームが処理されると、やれやれ終わったでおしまいとなってとなって、それを一般化させて事務改善や政策につなげていくことは、充分に行われていないことが多い。クレームの処理の経過や結果をみんなで分析し、そこから施策のヒントを導き出すということまで取り組む余裕を持ちたいものだ。

▼【荻原浩】ここで、荻原浩の『神様から一言』(光文社文庫)を思い出したので紹介しておきます。▼電話クレームの相手には、「まず謝る。二つはどんな話だろうが最初は辛抱強く聞く。あいづちはこまめに。三つは聞き手は熱くならない。冷静に。何を聞いてもヘイヘイホー。次は、こちらが喋る番だが、まず相手の電話に感謝すること。貴重な意見をありがとうございます。ヘイヘイホーってね。責任者に替われって言われても、簡単に替わるな。自分が責任者であるという態度で接する。でも責任をとると言ったらいかん。責任をもって伝えます。こう言う。責任持てるのは、あくまでも伝えるってことだけ。ここ、ポイントな、メモしとき。とにかく基本はあくまでも低姿勢だよ。電話口でお辞儀をする。声の質が違ってくる」。▼クレーム相手の謝罪訪問の場合は、「向こうさんの家に着いたら、まず第一声は『申し訳ございません』だ。ほんで、お辞儀。こちらの落ち度に合わせて角度を変える。うちに責任のないお門違いのクレームでも、とりあえず四十五度。五分五分なら九十度。全面的に非がありそうな場合は九十度以上。限界まで腰を折る。そう、膝に額をぶつけるつもりでね。うちが全面的に悪くて、なおかつ賠償だの告訴だの世間へ公表するだの、やばい状況になってる場合は、さらにそれ以上だ」「それ以上って」「土下座だよ」。

(11)職場のよい人間関係をつくろう
・仕事を通して「やる気」を皆でつくり出していこう。職場の上下関係、経験の長短などを超えて、皆で仕事に取り組んでいく職場風土、人間関係をつくっていこう。
・一人の経験を皆のものに。一人の職員が他自治体へ研修に行っていい話を聞いてきたり、個人の旅行で面白い体験をしてきたら、短時間で、そして飲みながらでもよいから、皆で一つの話を聞く機会を職場の中でも増やしたい。一人の小さな体験が皆に伝わっていけば、皆で仕事をこなしていくつながりも、少しずつ作られてゆく。(⇒下河辺淳、縄のれんは研修の場でもあった)。
・仲間をつくろう。友情を育もう。職場は市民から負託された業務を無駄なく的確に執行する場ではあるが、そこには組織があり構成員である自治体職員がいる。その一人ひとりが、お互いを信頼し合い尊敬しあって仕事が行われていったら素晴らしい。仕事を通して仲間を増やしていこう。友情を培っていこう。
・職場の中だけの「閉鎖集団」や「○○族」などになっていかないで、外とのつながりも広げていこう。他の自治体の職員、アジアや世界の人々とも豊かな交流と連携が始まっていくとよい。様々な自治体との交流がそれぞれの自治体を豊かにしていくことにもつながっていく。

(12)仕事は元気に面白くやろう
・自分が仕事をつまらなくやっていては、仕事の面白さや醍醐味などは出てこない。困難な仕事の中にも面白さを見出して、その面白さを周りに広げて仕事を進めよう。
・楽しんで仕事をする、新しい自治体のワークスタイルを生み出していこう。
・健康第一、家族円満、仕事推進。家族・仲間ともども元気でいろいろやっていこう!

▼いまさら書き連ねるまでもない、当り前の十二項目だが、こんなことを職場で共有しながらやっていければと願ってのことである。「自治体プランナー」が軽やかなフットワークで、信頼感に満ちたチームワークに支えられて、豊かなネットワークを広げながら各地でまちづくりを進めていくと、地域や地球はもっと面白く、もっと豊かになっていくに違いない。

5.プランナーの資質と宿命
▼地域づくりや都市づくりに携わり、プランナーたらんとする者にはどのような資質が必要とされるのだろうか。かつて吉阪隆正(1917-1980、建築家、コルビジェに師事)は「二十一世紀に急速に充実せねばならない分野と人」という論考の中で次のように述べている。「少なくとも楽天家であり、人の善意を信じられるもので、秩序とか平衡には鋭い執着を持ち、広くなにごとにも興味を持つが、特にものの姿や形の中に美を見出すことを喜び、その記憶力があり、その再現に情熱を感じるといったものではないかと思う」。プランナーとは、外野席に座っている観客ではなく、また批評家でもなく、現実的実務家である。そのためのいくつかの資質が要求される。
①好奇心/ものごと、特に地域や都市に起こっている様々な事象がなぜ今、そのように目の前にあるのか、その原因や理由は何か、他ではこんなことは起きていないのか、それがどのように変容していくだろうか、など次々と考えたくなったりするとよい。
②現地主義/次にそれを確かめ、それが起こっているところへ行って、自分の眼で実際に見てみたいと思うこと、それに向けて行動することが必要だ。「フィールドワーク」とも言うが、まず現場に身を置いて、そこを見てまわり、そこの声を聞く。そこにはコンピュータでは得られない多くの学びの種がある。(⇒コロンボ刑事の捜査手法ですね、現場に手掛かりがある)。
③発見的方法/これまた吉阪隆正の言葉だが、「現地を歩くだけでなく、現地を歩くことでそこの課題や可能性や素晴らしさを発見する力を持つこと。単なるタウンウォッチングではなく、まちを熟視することを通してその奥にある課題を見つけ出す」ことを「発見的方法」と名づけている。
④施策化する/現地を歩き、そこで見つけてきたことを提案としてまとめ、施策化していく力が必要だ。プランナーたらんとするなら、自らが発見した課題を整理・熟慮して、解決案として、あるいは将来イメージとして提案する段階まで終えねばならない。現実を次のステップまで引き上げる提案ができる力を養っていくことが必要だ。(⇒住み込みプランナーとして村瀬章氏が実践)。

▼【中間管理職】。ちょっとここで、息抜きに「自治体の中間管理職」の話をしましょう。▼工場生産のようなライン労働は仕事のオン・オフが明確だが、企画・営業のようなスタッフ労働は不明確でどこまで勤務かわからないグレイゾーンが多い。どのタイプの組織でも中間管理職には三つの役割がある。一つ目は情報を伝える「伝達」、二つ目は「中間的意思決定」、三つ目は仕事や人間関係の「調整」である。一つ目と二つ目だけでメシを食っていた管理職は、イントラネットなどの組織内情報機器の普及によって立場が薄められている。反面、三つ目の調整はますます求められている。日本では「縄のれん」でのネマワシが調整の主流だが、今ではこのやり方は若者が嫌う。また、仕事のトレーニングいわゆる「研修」はどこかに泊り込むことが多いが、実はOJTが一番である。仕事の企画力・推進力は、日々実際の仕事から獲得されるとするものでOn The Job Trainingのこと。つまり昼間の仕事の中でマネジメントする管理職が爽やかなのではないか。管理職は「縦の出世」というより「横の出世」も視野に入れないと拙い。つまり仕事バリバリだけでなく、仕事外での仲間づくりや趣味で余裕綽々でないと人間魅力が不足することになる。「日経新聞」に目をとおすだけでなく、毎日の「生活文化」を磨かないと生き抜けない。さて、中間管理職にとって仕事と仕事に関わる人間関係の調整は利害が相半ばしてヤッカイだけど、これは避けられない。仕事仲間は中間管理職の動きを見ているし、中間管理職は仕事仲間の動きを見ている。「相互監視」なのです。決定は中間管理職であっても決定に至る過程は全員合議制による調整です。手続きを省いていては人も組織も動きません。中間管理職は調整の世界で泥まみれなのです。ということは邪魔な存在だが必要な存在とも言えるのかもしれません。しかし最後の「決断」のところでトップのリーダーシップがどの組織でも弱まっています。今世紀も決断不足、リーダー不在は続きそうですが、どうなることか。

6.町づくりをみんなの手で!
▼生態的循環に基づいた都市づくり・地域づくり(エコシティ)へむけて、持続型・循環型・総合型まちづくりをめざそう。(⇒旧ソ連のエコポリス構想、アジアのアグリポリス構想を想起)。
①持続型(sustainability)であること/自然の保全と都市の開発のバランスが保たれ、事前に環境の修復・育成・保全が人々の手によって持続的に行われること。また都市の歴史的な環境や建物も維持・保全・再利用され、次の世代へ引き継がれていく。次の世代の市民である子供たちに対しては、実践的な地域学習や環境学習が体系的に提供され、「まちをつくる力」を持続的に蓄えるプログラムが用意される。
②循環型(recycle)であること/都市生活の様々な活動を支える生産・流通・消費・廃棄などに使われる物資やエネルギーをできるだけ少なく、無駄なく抑え、それらをリサイクルさせる。地域社会の中で小さな循環の輪を多層につくることが大切で、その小さな単位の中での小さなサイクルが次のサイクルとつながり、次の単位のサブシステムをつくっていく。まちづくりや施設づくりにおいても、太陽(熱・光)・風・雨水・地下水・地熱・植物などとの循環が考えられ、農林水産業などの自然依拠産業と都市住民とのつながりも深まる。
③総合的(total)であること/暮らしと労働、生産と消費、都市と農村、開発と保全など、二極に分化してしまった結果として地域社会や家族や個人までもが分断されてしまった。これらをいま一度束ね直し、そして総合的に体系づけて、地域社会の人々の絆を編み直していく。分断・分化・分解を総合・統合に向けていきたい。まちづくりにおいても、施設を単発で建設したり、各事業者がバラバラに担当業務を行うのではなく、まちづくりの総合的な目標やプログラムに沿ってマネジメントを行う。市民、NPO、事業者、自治体も連携して活動ができる総合的な仕組みを持つ。「町づくりをみんなの手で!」ということです。

7.やってみよう会議の方法序説 
▼会議は一般的に、三回がシキタリとなっているようです。予め案を作り、会議に参加させた関係者に情報を与え、意見を言わせることによって、彼らを特定のコトへの取り込みは、三回開催すると何となく出来あがる。まず初回の会議は趣旨や目標の説明、計画手順提示、基礎資料の配布と若干の意見交換。二回目は方針や方向、次いで案の骨格を示し、自由討議。三回目はそれらの会議録と作成資料を使い、最終案としてまとめる。さて、会議ににも少しばかりの工夫・操縦は要る。会議の道具は、資料の他に名簿と毎回の出欠票および名札を机に並べること。参加者を大事に扱うことを形で示す。一回目に情報・資料を長々開陳すると雰囲気が萎えますので、平板的な説明でなくマトを絞って話すこと。資料は手元資料ばかりでなく、ウォールサイズの図面・イラスト・スライドで情報の共有化を迫る。▼また、最後の「箱飯」を黙々と食べるのは参加者皆がゲンナリしている筈。せめて会議通知の往復はがきに出前メニューを書き、○印をつけてもらい出前する気配りがあれば見事。しかし殆どの会議は工夫もなく味気なく会議が進められ、日本の会社や役所が合意づくりと意思決定をしていきます。不満は縄のれんでブスブスと不燃焼爆発です。身近な「町づくり」もこのような会議で進められるとしたら、もっと何か工夫が要るでしょう。

8.やってみようワークショップ
▼共同思考・共同作業による共同作品がまちづくりです。市民・行政・専門家がまちづくりを思考する場での合意形成の方法としてワークショップがあります。問題点を整理したり企画を立てる作業には、従来は「ブレーンストーミング」(自由な発言でアイデアを引き出す集団的思考法)や、KJ法(ボンヤリした意見を一枚の紙に書き出し問題構造をグループ化しながら体系化)、今ではノミナル(名前)・グループ・プロセス法(テーマのハッキリした問題に具体的な意見を出し優先順位をつける)などがあります。▼私は自分流で、「魚の骨」という方法をやっています。食べ終わった魚の骨を思い浮かべてください。骨の上方に事実(状況分析)を、骨の下方に方策(手立て)を書き、頭のところに政策や目標を書き込むやり方です。一人相撲のときに向いています。
▼さて、演劇から始まったとされるワークショップを一般的な事例での手順を見ると、まず話題共通化のための映像や資料提示と説明、自己紹介(名前・出身地・好きな物)、小グループ編成(車座で各発言と課題整理)、全体発表(提言と集約)、最後に参加者一人づつ輪の中央に出て「自己宣言」という具合です。どんなワークショップでも進行役の役割はとても大事です。①話題や情報を分かりやすく、②話し合いの成果を図で視覚化し、③一定の方向を見出す。さらに進行役は図化に特別の工夫を必要とします。①箇条書き型(意見のポイントをハッキリさせる)、②テーブル型(着席順に吹き出しで発言内容を書く)、③グルーピング型(意見をグループ毎に記録)、④ノミナル・グループ・プロセス型(最初にブレーンストーミングで様々なアイデアを求めてそれを順番に記入し、その後それぞれの検討評価をして優先順位をつける)、⑤まんだら絵図型(円を何重か描いた紙を貼りだし、外側の環には思いつきやアイデア、二番目の環には少しまとまったイメージを記録し、中央には最も大事な考え方を書き込む)、⑥マトリックス型(縦に評価軸、横に案を並べた表にもとづき、その中に意見を書き込む)、⑦スケジュール型(今までの活動を振り返る、あるいはこれからの活動計画を練る場合にスケジュール表を張り出し、意見を書き込む)、⑧図面記入型(プラン拡大図に意見やアイデアを書き込む)のいずれかを組み合わせて会議を進めます。
▼会議のプロセスは、「情報共有、拡散、混沌、収束」の四段階を基本とします。その昔は弁証法といってました。ワークショップの小道具としてはチラシの裏や模造紙、マーカー、ポストイット、デジカメの活用があります。思考作業の増幅のため、写真取材、インタビュー、アンケート、スケッチ、ウォッチングなどを取り入れることもあります。ワークショップはまちづくりばかりでなく、仲間とこれからの老後生活を俎板にのせてやり合うのもいいですね。その時はまんだら絵図型がいいかも知れません。世田谷のまちづくりとワークショップの動きについては、世田谷まちづくりセンター『参加のデザイン道具箱1・2・3』と中野民夫『ワークショップ』(岩波新書)がある。

8.資料編 
▼書籍資料/原昭夫『自治体まちづくり-まちづくりをみんなの手で』(学芸出版社)。
▼印刷資料/「まちづくりプランナー12則」。

2010年3月19日金曜日

町づくりのヒント (MA-7)

07.町づくりのヒント
内容
01.まちづくり先駆... 1
02.若者、ばか者、よそ者... 2
03.泥脚遥傭雲(でいきゃくよううん)... 3
04.小さな建築... 4
05.町のヘリテージ... 4
06.遊びの地図... 5
07.動物と関わりたい... 6
08.市民セクター... 6
09.公共事業のこの国... 7
10.市民自治を考える... 8
11.生活情報地図と連結財務諸表... 9
12.地方都市の自由時間と市民... 9
13.家族を入れるハコ... 10
14.つばた+しゅういち(事例研究)... 14
15.資料編... 14


今回は町づくりについて、ヒントになりそうなこと話すつもりです。ですから皆さんも気軽に、その都度、ああ思う・こう考えるということで一緒に今回の話を動かしていきましょう。

01.まちづくり先駆 
▼私はボローニヤと井上ひさしが好きですから、再び『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)から引きます。▼日常の中に楽しみを、そして人生の目的を見つけること。商店街へ出かけてうんと買いものをしたり、遊園地へ行ったり、温泉やなんとかランドへ出かけたり、そういう非日常の方法でしか楽しむことができないのは、少しおかしいのではないか。ただし、日常の中に人生を見つけるには、みんなでそれを叶えてくれる街をつくらねばならない。別にいえば、「一が家族、二が友だち、三がわが街、この三つの中にしか人生はない」。トレヴィーゾというイタリアの町で過ごした一週間でそう教わって、そこで、とりわけ積極的に街づくりをしているボローニャに行き着いた。

▼さて、今回は映画の話を取り上げます。ボローニヤが世界に誇る映画の保存と修復の複合施設「チネチカ」のことです。その創立者の一人がボアリーニ氏で、「フェデリコ・フェリーニ財団理事長も務めている。彼はかつて市役所で文化部門の責任者をしていた。熱烈な共産党員だったが、中国の文化大革命を支持したのがまずかった。不支持の党本部と衝突して除名されてしまった。文化部門の責任者からも外されて、すっかり暇になってしまった。仕方ないから映画好きの友達と四人で、古い映画の上映会を始めた。そのへんから無声映画のフィルムを探し出してきては、十人、二十人と人を集めて、その前で解説付きで上映する。ところが古いフィルムだから途中でよく切れる。そのたびにお客から不満の声が上がる。それでフィルムを修復しなければならなくなった。これがチネテカの始りなのだ。そこでボアリーニ氏は仲間と組んでフィルム修復のための組合会社をつくりました。なにかあるとすぐ組合会社をつくる。この組合会社のことを社会的協同組合と言うときもあるが、これも「ボローニャ方式」の秘訣の一つです。組合会社にはいくつもの特典があります。一人立ちするまでは税金を納めなくてもよろしい。市や県や国からの援助がある。銀行や企業などの財団から堂々と資金援助を仰ぐことができる。このへんの事情をもっとくわしいのが、岡本義行『イタリアの中小企業戦略』(三田出版会)。▼ボローニヤにフィルムを修復する技術があると聞いて、二十世紀フォックス社やコロンビア映画会社やフランスのカナル(テレビ会社)といったところが、山のように古いフィルムを持ち込んできた。映画やテレビなどの映画産業が、古い映画を放映したり、DVDにして売り出せば、巨大な利益が見込めると計算したわけです。こうして世界中のフィルム修復をチネテカが独占するところとなり、たいへんなお金をボローニヤにもたらすことになりました。▼あることに熱中する人たちがいたら、彼らに資金提供して、好きなようにやらせてみる。事業が成功するしないにかかわらず、そういう市民の冒険に、お金を持つ者が参加する。そして初めは小さかったパイをみんなで大きく引き伸ばして、みんなが楽しめて、みんなが食べていけるような事業にしてしまうのです。そこに「都市の創造性」があるというわけです。▼もう一度いいますが、たった四人の映画好きから始まったチネテカが、地域の理解や資金援助をエンジンにしながら、いまでは世界一の映画センターになり、映画の未来を育てている。しかも利益を上げてもいるのです。この実情を知れば、だれだって都市には創造性があることを信じたくなります。好きなことに夢中になっている人たちに資金を提供すること、奇跡はそこから始まるのです。

▼この本はボローニャ紀行ではあるが、ボローニャのまちづくり読本でもあります。ということで再訪できたらなあと、いつも思っています。皆さんもイタリアへ行ったなら、ぜひ立ち寄ってみてください。以前にも話しましたが、産業博物館とポルティコ散策と古い映画を楽しむのです。専門図書館である映画図書館のフィルムライブラリーには五万本の映画がありますが、「人間であればだれでも無料で利用」できます。ですから、映画やデザインの勉強をするために、世界中から若者たちが集まってきているそうです。

02.若者、ばか者、よそ者 
▼町づくりの理論とあわせて欲しいのは、「ばか者、若者、よそ者」といった人材ですが、これは祭りばかりか、まちづくりにも欠かせない人たちなのです。▼地域活性化には、何より地元に活動を引っ張っていく人材が必要になりますね。よくあるのは行政が先頭に立つケースですが、自治体主導では往々にしてうまく進みません。担当者はいくらがんばっても、2~3年ごとに入れ代わってしまい、ノウハウが蓄積されないからです。行政ではなく、地域の住民が自立し、主体的に活動を進めなくては、活性化は決して実現しません。言い換えれば、行政は住民が活性化の中心的立場を担うように仕向ける必要があるわけです。▼では地域でどういう方が中心となって活性化に取り組むのがよいのか。「よそ者」「若者」「ばか者」という三つの「者」が必要なのです。このうち「若者」は、積極的に活動に取り組むいわば「実働部隊」です。年齢的には本当に若くなくとも、過去の例にとらわれずに前向きに行動できる資質を持った人のことです。「ばか者」は、いわゆるアイデアマンです。突拍子もないことを言い出すため周囲からは異端児扱いされることもありますが、実は心の底から誰よりも地元の将来を案じている。その地元愛から来るアイデアに耳を傾ければ、活性化に大いに効果的なものが多く、誰も気がつかなかった大胆な企画が生まれることもあります。この2つのタイプの人種は、どの地域にも必ずいますが、圧倒的に欠けているのが「よそ者」の存在です。「よそ者」とは、第三者の視点を持った整理屋で、客観的な情報から地域の強みや弱みを分析し、方向を示してみんなの後押しをする人物です。活性化を進めていく上で、地域に最も欠けているのが、市場が何を求めているのかという認識、すなわちマーケット感覚です。▼地域の映画ロケ誘致なども場合も、地元の方はよく地域の名所をロケ地として売り込もうとします。しかし映画関係者が望んでいるのは、名所よりも、ありそうでいてなかなか見つからない味のある景色や建物だったりするわけです。ロケ地として魅力ある場所を持ちながら、地域の人はそれに気付いていないのです。▼地元から見れば「よそから来た人間に何が分かる」とよく言われます。確かにそれはおっしゃるとおりで、長年その地域で暮らしてきた方に比べると、よそ者は地域のことをよく知りません。しかしよそ者は外の世界を知っているため、その地域が何を発信すれば、多くの人が着目するかということが分かります。だから、地域に足りないマーケット感覚を補う存在として、よそ者はとても重要です。よそ者として活躍する人物として多いのが、都会の生活を経験したUターン者です。▼ということで、「ばか者、若者、よそ者」は、祭りと町づくりには欠かせません。

03.泥脚遥(傭)雲(でいきゃくよううん) 
▼自治体の懐は底をつき、まちづくりを支える人達の言動も弱まり、下降ぎみではあるけど、まちづくりを捨てるわけにはいきません。町を居心地よく、長持ちするように、住民の負担を考えながらが、町づくりの基本です。▼そんな自治体の現場経験から、原昭夫『自治体まちづくり-まちづくりをみんなの手で!』(学芸出版)が、政策の立て方とやり方の報告をしています(第8講詳述)。▼まずは、人口構成から町をみる。人口予測するなら、おもに地域にどのくらいの人びとが、どんな生活様式や居住形態をもって住んだり、働いたりするのだろうという、マクロな把握をしてみよう。▼現地を知るには、自転車。裏通りまで小まめに調査できる。地図の縮尺にも慣れること。5万分の1の地図は、分母の末尾の0を二つとり、それにメートルをつける。それがその地図での1センチの長さとなる。都市地図によくある2千5百分の1は、1センチが25メートルとなる。あとはボディ・スケール(身体尺度)を身につける。自分の両手の広がり、歩幅などを知っておくと便利。伊能忠敬にもなれる。それに地図のたたみ方も知っておくと便利。見たいところを広げておける楽しい折り方がある(本編57頁)。▼まちをつくる手法は、自治法に定める「基本構想」に始まるものと、都市計画法に定める「都市計画マスタープラン」がある。いずれも長い間、しっかりした担当者がその仕事をし続けることが大事。都市防災についても、危機管理のプログラムとシミュレーションの実験をしておこう。▼学校の総合学習で「まちづくり」を取り上げられないか。例えばボディ・スケールを使って、公園を歩行実測したり、新旧の地図をならべて見比べたりとかやってみる。▼まちづくでは、「人づくり」より「人になる」ことである。まちづくりの当事者になることである。吉阪隆正(1917-1980、建築家、コルビジェに師事)はそれを「泥脚遥雲(でいきゃくよううん)」といった。頭はつねに雲の上において大所を見渡し、足はつねに泥の中にあって地面を這えということである。これには修行がいるが、プランナーなら、この境地に立たちたい。▼まちづくりを十二の原則で取り組む(第8講詳述)。計画感覚を磨け。まちへ出ろ。都市の出来事に興味を持て。「地域型」で仕事を進めろ。市民との共同をはかれ。皆で仕事をせよ。自分の仕事を他の仕事につなげろ。アンテナを敏感にしておけ。つねに「やる方向」で考えよ。失敗・クレーム・紛争から学べ。職場のよい人間関係をつくろう。仕事は元気に面白くやろう。それに、プランナーの四つの資質としては、好奇心、現地主義、発見的方法、施策化への意欲が欠かせない。▼この知人からは、おおらかな人柄と、おだやかな計画づくりを学んだ。

04.小さな建築 
▼象設計という建築集団を率いる富田玲子さんの『小さな建築』(みすず書房)から引きます。▼大学に招かれて話をする機会があると、私は学生たちに、「若いうちにできるだけいろいろな空間を体験したほうがいいですよ。そして、いいなあ、嫌だなと率直に感じるクセをつけてください。いいなあと思ったら、どうしていいのかをつきとめてください。いつも巻尺をもっていて、その空間の高さや広さを、窓の位置や大きさを測るクセをつけましょう。それがどんな材料でできているかを見て、触ってください。これは私が学生時代にできなかったから勧めるんですよ」とお話しします。▼吉阪隆正先生の奥さん・ふく夫人は、先生に劣らずユニークな方でした。主婦がする家事は一切なさりません。それでも三人の子どもたちからはとても尊敬されていました。子どもたちの友人の人生相談にものってあげて、家族だけに愛情を向けた人ではなかったのです。そのふく夫人が「玲子ちゃん、仕事が終わったらいらっしゃい。きょうはご馳走なのよ」といって、缶詰の大和煮を缶ごと出してくださいます。▼象設計集団の仲間たちは、各地に広がっています。神戸の「いるか設計集団」、鹿児島の「アトリエ・熊」などです。それを動物たちが集まった動物園「チーム・ズー」と呼んでいます。もしも動物園の設計を依頼されたら、みんなで全体計画をつくっていきながら、それぞれの事務所が自分の名称と同じ動物の小屋を設計することができたらいいなと思っています。▼建て主のこんなエピソードも紹介されています。施主だった富田玲子さんからの年賀状がすごいんですよ。「今年はどこを直しましょうか」って書いてあるんです。完成させる気がない建築家がいるんだと最初は本当に驚きました。友人も「象に設計を頼むと孫の代までつきあうことになるんだよ」とも云われました。▼私は、富田玲子さんの旦那さん林泰義さんから、おだやかな、しかしあきらめない「まちづくり」を教えていただきました。

05.町のヘリテージ 
▼古い建物は古い友だち、という話をします。自分の町に由緒ある建物があり、それにまつわる物語があるのは楽しいし、自慢できる。ヘリテージ(遺産)のない、新しいだけの都市には風格がない。▼町の古建築を残す。そのやり方と運動の持続の話を、作家であり地域誌を作っている森まゆみさんの『東京遺産』(岩波新書)からします。人は町のどんなところに愛着を感じているのか。路地の中の稲荷や井戸や植木や電柱といった身近な「小さな環境」に愛着を感じている。それに古くからある建物といった「大きな環境」も大事に思っている。建物が残れば、それだけでなく、文書も絵草紙も位牌も人も、そして何より物語が残る。▼不忍池の景観を守るため、「不忍池算数プログラム」を企画した。大人だけの文学散歩をしてもはじまらないと思い、子どもと一緒に戸外で「体で算数」をやろうという試みである。寺社の石段の数を数えたり、一段の高さから山の高さを計算したり、不忍池周囲の木の数を数え、その間隔からその周囲の長さを手で測ったり、池の面積を掛算したり、といくつもの問題を用意し、子どもたちと歩いて好評だった。▼景観の保護に手を染めたお年寄りの一人は云う。「この十年はとても勉強になりました。この年になって、樹の名前、鳥の名前を覚えた。するとまた面白くなって勉強し、という風に深みにはまっていったんです」。風景遺産を守る運動が思うようにいかないこともある。「富士山は永遠にそびえているが、マンションなんてのは五十年、百年の命だ。次の建て替えのときはあんな高いビルが建たないように、今から運動していきましょう」と云いきったおじいさんがいた。▼残った古建築が、例えば古い酒屋が小体(こてい)な飲屋に変わって生き延びてもいいのです。まちづくりの今昔を味わえるなら。という、この視点も町づくりには大事です。

06.遊びの地図 
▼小さい頃に遊んだ地図を作る。言うところのメンタルマップづくりで温故知新です。少年時代に遊んだことしか、大人になっても遊べない法則があるかもしれないと、うすうす感じていたので、まずは記憶を遡ることにしました。犯罪捜査でも現場はもちろんだが出身地を洗えといいますね。▼さて、十勝平野東部に流れる忠類川の源流近くで私は育ちました。川は小さかったが水量はたっぷりあり、夏は冷たく、スイカがよく冷えた。小学生の頃は、下校するや馬糞の堆肥からミミズをほじくり、竹の一本竿を担いで毎日のように家の前の川で過ごした。釣果のヤマメ・イワナは笹や柳の枝に通してぶら下げて帰り、薪ストーブの上で焼いて食べた。カラス貝だって口の中にヨモギの茎を差し込めば釣れた。身は硬いので食べなかったが、内側は硬質な真珠の光が満ちていた。木洩れ日のなかの川はガラスの破片を水面につけると、水底まで見渡せるほどで、魚の動きに合わせヤスで突いた。顔を上げて流れを見つめていると、相対原理で岸のほうが動き出し、目まいでふらふらになるのを楽しんだ。夏休みは蝉時雨を浴びながら、長い畝の数条の草取りノルマもそこそこに、日暮し釣り糸をたれていた。近くの森の樹上につくった隠れ小屋で、お握りを食べた後はよく絵を描いた。遠出もした。一里先の裏山に松前藩が埋めたという金塊の伝説を信じて、友だちとその洞穴探検に夏休みの多くを費やし、いつもとっぷり暮れてから家路に向かった。少年は川と森と山で過ごした。▼それに、腹をすかした少年でもあった。食い物のことは深く心の地図に焼き付いている。あの頃の年の瀬には心踊るものがあった。豚一頭を出刃で殺し正月の食材とした。鶏も首を斧で落としたあとは、五右衛門風呂の煮えたぎった湯にいれ、毛をむしるが、これは子どもの仕事。母屋の隣に畜舎があり、馬、牛、豚、鶏、羊、山羊たちと共に暮らしていた。馬は畑起こしばかりでなく、荷馬車(ホドウ車)を牽いて町にも向かった。羊の毛は紡いで靴下やセーターになり、肉はジンギスカンとして食した。鶏の世話と卵の係りは子どもの役割。米は内地米でも、麦やキビ、野菜は自給できた。豚と鶏の餌は野菜くずや残飯で間に合ったし、彼らの糞は寝藁と混ぜ合わせ堆肥にして野菜畑に還元した。農作業はきつく、食べものは粗末であったが、ストーブを囲んでの日々の団欒が一日の区切りだった。幸いに水力の自家発電があったので、電灯が灯り、ラジオが聞けた。家の周りは雑木林で、近くにも手つかずの森や原野が大小いくつもあり、そこから届くフクロウの鳴声で、眠りに就いた。▼これは、ネパール山間部の生活風景とも重なります。▼郷土の歌人である時田則夫さんの『北の家族』(家の光協会)にも同じような体験談が載せられています。小さい頃のメンタルマップを想像しながら、遊びを埋め込んだ町づくりも大事なことです。

07.動物と関わりたい 
▼若い人たちが、動物と関わりたがっている。以前、地元の畜産大学でなんどか動物園の話をしたんですが、学生のうち九割は道外で、しかも半数は女子学生でした。将来の仕事を尋ねると、ボランティアでもいいから動物に関わりたいということでした。人間相手の社会が疎まれているのかな、という感じを持ちました。▼動物好きの人は、ファーブルやシートンなどを愛読するが、近頃は動物行動学が注目されている。『ソロモンの指輪』(コンラート・ロレンツ/日高敏隆訳・ハヤカワ文庫)から。動物同士のお互いの階級闘争やらイジメをみていると、その動物的な遺産が人間の中に多く残っていることに溜息がでる。また著者は、飼っていたハイイロガンの雛が最初にロレンツ氏を見たばかりに、親と思い込みヒョコヒョコついて回る、刷り込み理論で知られる。▼つぎに『動物とふれあう仕事がしたい』(花園誠編著・岩波ジュニア新書)から。動物に関わる仕事には、動物園の飼育係、犬の訓練士、動物病院の獣医、動物看護士、動物栄養管理士、トリマー、アニマル・セラピスト、乗馬療法の指導者、動物学者などがある。ここでは動物園の飼育係の仕事を覗いてみよう。飼育係にとってうれしいこと。それは、担当している動物の前で上がるお客さんの歓声。その動物のおもしろい行動をうまく見せることが出来た時には、この仕事をやっていてよかったと思える瞬間だという。飼育係の一日は、まず担当動物の見回りから始まる。一頭ずつ個体に異常がないかを見ながら、当日やるべきことを頭に整理していく。午前中は各動物舎の清掃をするが、単にきれいにするのではなく、糞の状態や、前日与えた餌の食べ具合もチェックをする。問題があれば獣医さんに連絡し、治療の段取りとなる。午後は、おもに餌の準備と給餌。そのほか朝決めた特別な作業、たいていは動物舎の修理や整備をする。また、動物園は入園者がいて初めて動物園として成り立つことから、お客さんの前で動物の話をすることも多い。午後の作業が終わると、その日の出来事を飼育日誌に記入して一日が終わる。そのほかにも解説版を作成したり、動物にとって住みよい環境づくりや魅力的な展示のために、本やインターネットで調べたり、海外の論文を読んだりもする。▼この本では畜産業は省かれていました。動物飼育が産業化するのは不自然な行為ということでしょうか。自然なものを嗅ぎ分け、そこに近づきたい気持ち。これは動物からの大いなる遺産です。動物から考えた町づくりがあってもいいですね。十勝では堤防や農道を使った「馬の道(ホース・トレッキング)」が試みられていいます。馬の文化があるイギリスのロンドンでは、公園に馬道がありました。これは町の中に「馬の道」ということです。

08.市民セクター 
▼つぎは、市民部門の活動を考える話です。『戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方』(田中優・合同出版)から引きます。▼自分の預けた郵貯はどこに使われているか。途上国に一番カネを貸し付けているのは日本。途上国への債務の返済を厳しく取り立てるは日本。世界銀行とIMFに最大の融資をしているのも日本というを覚えておいてください。日本のODA(政府開発援助Official Development Assistance)のプログラム援助は、世界銀行とIMFが途上国に押しつけている「構造調整プログラム」という返済計画に従わないと貸さないことになっている。なぜ日本だけが「援助」と称して「金貸し援助」ばかりしてきたのか。国の一般会計つまり税で、援助することができなかったからだ。税金なら返済を求めない援助もできただろう。しかし税収は公共事業に使われて余裕がない。そこで日本政府は、郵貯を中心とした財政投融資の資金に手をだした。人のカネを使うのだから、相手から返してもらわなければならない。この結果、日本だけが特別に、金貸しのODAの比率が高い国になってしまった、ということです。これは国の公共セクター部門ですね。▼一方、国は違いますが、タイの東北部のイーサン地域の「市」の話をしましょう。これはノー・セクターつまり市民が運営するセクターです。イーサン地方は、ごく最近になって農民が入植した土地であるため独自の経済圏がなく、農家は生産物を首都バンコクからきた仲買人に売り、必要なものは同じバイヤーから買っていた。安く売って高く買っていたから、貧しい生活であった。そこで農民がやったのが「朝市」だった。この市で売り買いしていると、自分のカネが減っていかないのだ。市で行われているのはカネを尺度にした物々交換なのだ。農民は生産物を持ってきて、他人の生産物を買って帰る。市で生産物をカネに変えたとしてもまた別の機会にその市でモノと交換するから、結局は「時間のずれた物々交換」だ。こうして一つの村で始まった市は、瞬く間に周囲に広がった。▼社会には三つのセクターがあります。第一にGO(行政セクター、government organization)は統治が目的で、行政以外はすべてNGOになります。第二はPO(産業セクター、profit organization)は利益が動機で、産業以外は(行政を含め)すべてNPOになる。よってNGO/NPOは市民セクターと言われます。この三つのセクターは、たとえば、公立の保育所、24時間や企業内保育園のような営利保育園、そして市民共同保育所が並存していることを考えればよい。銀行なら公立銀行、民間銀行、非営利バンクや労働金庫もある。この三つ目の市民セクターが入ることによって、三つのセクター間にチェクアンドバランスが起こる。マイクロソフトが怯えるのは市民が無償で提供するリナックスだし、公的施設が怯えるのは効率よく親切に運営する非営利の施設なのです。▼それと市民セクターには、二つの型があります。行政に代替するのがNPO法による「特定公益活動法人」で、産業に代替するのが中間法人法による「非営利ビジネス」である。公益型NPO(所得再配分型NPO)は、カネを持たず、出資なしの寄付と融資だけで運営するので「高貴なこじき」といわれる。日本では税控除がないことから個人寄付が弱く、行政の下請化しやすい。産業型NPO(非営利ビジネス)の方は、中間法人ということから配当を禁止する代わりに有限責任にすることができ、出資を受けられ、業務の範囲は有限会社同様に広い。NPO法の面倒な承認が不要で、共益法人であるから外から入ろうとする者を排除できる。乗っ取りの心配はない。これは「得しないビジネス」といえる。▼実務的にカネを扱う非営利活動をするなら中間法人とNPO法人の、二つの顔を併せ持つ団体にすればよい。そうすると縦横に動けます。▼この分野はまだ深いので、皆さん勉強してください。

09.公共事業のこの国 
▼同じ川に架かる長大橋、キツネやタヌキがでる高速道路、過剰な農業基盤整備、ムダなダム。前世紀の後半に国も自治体も公共事業で日本の国土をいじり過ぎたことが、わかり始めた。五十嵐敬喜『公共事業は止まるか』(岩波新書)から引きます。▼自治体に必要もない高水準の設計と高単価ではじき出された公共事業は、今も健在です。地域の経済と雇用に絡んだシクミ。このシクミは政官財でさらに強化され選挙で総仕上げ。その公共事業を支える「道路特定財源」の再配分に手をつけだした。当然のなり行きです。一方PFI(Private Finance Initiative)という新手の民間型公共事業が始まろうとしているが、これはイギリス生まれの考え方を焼き直ししたもの。介護福祉のお手本はドイツだったけど、またも密輸入。明治時代から「役所がやってくれる」「会社がやってくれる」という思い込みで働いてきた日本人と、外国手法の密輸入による国土づくりが対をなし今の日本のカタチができた。▼話に関係ありませんが、八、九年前ロンドンのコベントガーデン(17世紀に野菜市場として開発され、いまは市民のホコテン)近くの小さなホテルに泊まっていた。夜になると何もすることがないので、ダフ屋からチト高いチケットを手に入れあのミュージカル「キャッツ」を見にいった。終幕で歌う「メモリィ」を聴いていた隣のインド人家族はグスッと。私もイミはわからなかったがジィーンとなり、帰り道で寄ったパブで独りビター・ビールを数杯。寂しい夜だったが気持ちは満たされていた。▼コベントガーデンは、昼間は楽器演奏があるのに静かで、周りはいろんな人がパフォーマンスをしていて、愉快で刺激的な広場空間です。市民の生活の楽しみと結びつかない公共事業の日本に比べてみたくもなります。

10.市民自治を考える 
▼この主題は、『市民・自治体・政治-再論・人間型としての市民』(松下圭一・公人の友社)に詳しいのですが省きます。▼ここでは、日本の大衆ドラマ「水戸黄門」を想起してください。今日の日本の人々、つまり庶民の政治発想の原型そのものがここにあります。日常生活ないし政治・行政に問題があっても、日本の庶民たちは問題解決の能力を持ちません。悪代官や悪徳商人がいても、また泥棒やばくち打ちがいても、日本の庶民はみずから問題解決するという政治熟度をもっていない。つまり自治能力を欠いた受動市民だったのです。今日でも、日本の政治家、ついて官僚をふくむ公務員は、市民からの批判・参画による政治訓練をあまりうけていないため、オカミとしてイバルだけで、その政治未熟、行政劣化が続きます。これに比して、アメリカの大衆ドラマ「西部劇」では、原住民への弾圧という半面はありますが、白人内部では未熟ではあっても「問題解決」の自治能力を示します。政府が遠くにある西部開拓地では、広場や教会にあつまって、失敗をふくめて、みずから議論・決定をしているではありませんか。J・S・ミルが、アメリカ人は「いつでも、どこでも政府をつくる」といった理由です。くわえてヨーロッパでも、中世におけるマグナ・カルタの制度や暴君放伐論、またロビン・フッド、ウイリアム・テルなどの抵抗、さらには近代市民革命をめぐる今日の市民性につながる、ゆたかな大衆ドラマをもちます。日本ではオカミとしての水戸黄門がたまたまやってきて、官僚のスケサン・カクサン、最近のテレビでは忍者という特殊部隊すらつかって、上からの問題解決となります。黄門がこないところは、永遠に問題解決できず、東洋専制ともいうべき忍従の日々が続くのみです。日本も、近代欧米の影響から自由民権、大正デモクラシーの記憶はあるものの、中世の惣村・惣町の一揆をふくめ、ひろく誇りある自治の歴史つまり記憶がうすく、大衆ドラマもせいぜい「」鼠小僧」「大塩平八郎」などにとどまります。都市型社会の今日でも、未来にむかって自治の伝統を、私たち自身がかたちづくることが急務になっているというべきでしょう。▼松下圭一氏が市民政治理論を世に問うてから半世紀ですが、まだ自治体の市民自治は路半ばです。

11.生活情報地図と連結財務諸表 
▼ここでは、自治体を運営する際の目安のようなことを話します。自治体財源の自然増はもうのぞめません。今日ではデフレ型のマイナス成長のため、賃金が下がる、企業も倒産する、商店街は閑散とし、失業者も増え、市町村は税収減。この減収に、不況対策としての減税とあらたな借金(起債)が加わります。▼自治体がどんな状態にあるかを知るには、経常収支比率80%、公債費負担比率10%までの範囲にあるかどうかです。わが市の場合、前者が86.8%、後者が13.7%と危険ゾーンです。▼さてさて、ハコモノですが、これは利用者や人件費をふくむ原価計算、事業採算を公開しながら再整理しなくてはなりません。管理上どうしても職員が必要なハコモノには、定年退職後の職員を数年嘱託としての再雇用を考えればいいわけです。▼それに、町村は職員1人当たり市民100人に、市では120人以上をめどにリストラしなければ、財務悪化を克服できません。疫病神のようなことを言うようですが、これがやがては福の神となるのです。▼さて、わが町を一望するには、政策情報がもりこまれた『生活情報地図』と、1年限りの官庁会計ではない『連結財務諸表』が必要です。マップとバランスシートですね。これがなければ、市民・議員・職員の情報共有化と、政策立案ができません。これを持たない自治体は、居眠りしているとしか言いようがない。こんな町は破産します。ということで自治体運営のコツを覚えておいてください。

12.地方都市の自由時間と市民 
▼次は、文化と地域づくりにとって大事なことと思われる、自由になる十万時間と地方時間の可能性についてお話します。▼私たちが自由に使える10万時間の話(第6講で済)をオサライしておきます。まずは、自由にならないのは労働時間です。1年間の労働時間はどのくらいなのかと言いますと、狩猟時代は8百時間、農耕時代は1千時間、現代都市社会は2千~2千5百時間、日本の場合は一部の中小企業は残業が多く4千時間も働いています。▼さて、人生80年の総時間数は70万時間です。睡眠は1日8時間で25万時間、食事や通勤など生活必要時間は1日8時間で25万時間、労働は30年間で7万時間、学習時間は小学校から大学までで3万時間と意外に少ない。これらを引くと、残り10万時間。▼それと地方都市に住むと通勤時間はわずかで、都会の人達より1日2時間は得しています。地方都市は自由時間が財産です。通勤時間2時間×250日×30年=1万5千時間の計算になります。

▼さて、自由時間の使い方の話に戻りますが、12年あるいは16年間の学校教育を終えたあとを、生涯教育の面からは、どう考えておくといいのか。▼民間カルチャー講座とは違って、地域文化のストックを考えているのが三つの文化施設(図書館・博物館・動物園)なのです。皆さんの自由なテーマを持ち込んで、付き合ってくれるのは、これらの施設しかありません。だから市民が拠り所とし、また市民を大事にする理由がここにあります。皆さんが旅で、どの町に行っても、どこの国に行っても、地域を語る施設として案内されるのは、ここです。他の地域と比較する。この比較文化こそ、独りよがりでない自分の位置を確かめる作業になります。そう言った意味で「もう一つの学校」の役割を理解していただけると思います。簡単に言えば動物の学校、本の学校、歴史の学校、人生を楽しむための学校です。市民文化が盛んなところは、外れなくこれらの施設も充実しています。国内でも外国でも、旅の後は皆そう言います。▼3万時間の学校教育は「教師から教わる」、10万時間の生涯学習は「お互いに教え合う→自分も教える立場に」ということです。

《ちょっと歴史1・第6講再掲》
▼それにしても、地域の歴史も含め、二十世紀は激動でした。まずは、日本列島一万年史を一分で語ると、こうなります。字数は3百字くらいです(般若心経も同じ字数)。一万年前に溯ると、日本人はこの国土で縄文という山岳地帯を中心にした焼畑農業で高い文化水準をもっていた。それが三千年前ぐらいから稲作技術の弥生文化が入ってきて、生活のスタイルや考え方も変化し、日本人に同化してきた。さらに三世紀から十世紀(平安時代)ぐらいまで、中国とか朝鮮半島の文化を取り入れて科学技術を伴って日本の生活が変わってきた。十世紀は、外国からの交流を断ち切って日本独自の文化をつくり、十六世紀(室町時代)になると国際的な交流や国内の激しい開発があって、激動の歴史であった。江戸になると、今度は日本文化を独自に育て、停滞していると言われるけれども、その地域なりの文化をつくる時代が来た。まちづくりは江戸時代にも当然あった。その後、明治以降はドイツの制度とイギリス・アメリカの科学技術と商業を中心とするスタイルが日本に入ってきて、日本が変わっていくと言う具合です。

《ちょっと歴史2・第6講再掲》
▼次は、20世紀です。この1世紀で人口が3倍、都市人口が10倍。20世紀には極東の島国だった国が世界の10%経済を維持する国にのし上がった。戦争も沢山あった。日清・日露に始まり最後には原爆まで落ちてしまうという1世紀は、日本の歴史に二度とないだろう。20世紀初頭に75%を占めていた第1次産業は20世紀末には7.5%以下になる。聖徳太子が律令国家をつくって以来、20世紀まで70~80%を維持してきた1次産業が突然7.5%になるということは容易ならざること。子供の産み方も20世紀初頭9~10人だったのが、20世紀末は0~1人。20世紀初頭に42歳だった平均寿命が20世紀末には80歳になる。1世紀間に寿命が2倍になることも脅威。前世紀には金持ちや権力者の子供くらいしか中等教育を受けなかったのが、今ではほぼ全員が高等学校にいき、大学にも40%近くが行く。江戸は2百万人だったのが、千葉・埼玉・神奈川を含めた首都圏は2千5百万人の機関車となり日本を引っ張ってきた。20世紀初頭の横浜・神戸は漁村であり、札幌は人の住めるところではなかった。これを線で表すと、横の時間軸、縦に社会変化をとると、グラフが右端だけ垂直に立ち上がるほど、激しい世紀でした。

▼こういった激動の時代と、自分の地域のことを知り、自分も知る。自分をデザインし、住んでいる地域もデザインする。この基本形ができればいい訳です。人生24時間の連続です。24時間の中でやりたいことを埋め込めなければ一生かかっても出来る訳がありません。▼市民がつくる自由時間センターのために、図書館にない本を読んだら寄贈⇒市民寄付の図書館、動物は市民寄付・檻は税で⇒市民好みの動物園、市民の宝を展示⇒持ち寄る博物館、といった工夫のある取り組みは市民参加の愉快な町づくりになります。町づくりは、皆さんのアイデアと実行の集積なのです。

13.家族を入れるハコ 
▼ここでは、町づくりと家族論の話です。できたらこれらを題材に自由討議できるといのですが。まず『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(上野千鶴子・平凡社)から。▼「いずれシングル」。二〇世紀は「家族の世紀」だったかもしれない。だが、家族を中心に自分の人生設計を立てることは、超高齢社会には間尺に合わなくなってきた。家族の世紀とは、子どもをたくさん産んで親業にあけくれているあいだに一生が終わり、配偶者に先立たれあとの長い老後などを考えなくてもすんだ人口学的近代の過渡期にだけ、成立した現象だといってもよい。このところ少子化の原因探しのなかで、若者の晩婚化・非婚化が注目されている。三〇代前半で女性の非婚率は三割近く、男性は四割。四〇代になっても非婚男性は二割近くいる。これにシングル・アゲインが加わる。生涯非婚者は人口の二割近くなるだろうという予測されるが、逆にいえば、それまでの「全員結婚社会」が異常だったともいえる。▼わたしはずっとシングルで子どもも産まなかったが、三〇代も終わりに近づくとそれまで子育てで離れていた友人たちが、泊りがけで温泉旅行をしようと寄ってくるようになった。五〇代にもなると、夫に死別離別した友人たちが、海外旅行に誘いをかけてくるようになった。日本には「後家楽」ということばがあるが、夫のいないひとり身の女はわが世の春だ。▼シングルは孤独、という思いこみはうそだ。家族とつき合わない分だけ、友人たちと深いつながりをもっている。老後は不安、も正しくない。子どもの数がひとりやふたりでは、老後の不安は子どもがいてもいなくても同じ。なまじ子どもに頼ると、かえって子どもの生活を破壊し、親子関係がこじれるもとになる。いずれにしても、いつかはシングル、になるのが誰の人生にとっても避けられないなら、シングルを基本にした人生と社会システムの構築が求められよう。そう考えれば、年金や税制の世帯単位制は、いかにも時代遅れである。家族給型の賃金制度も、不合理である。

▼「おじさん・おばさん」。私は今、田舎暮らしの定年退職後の移住者の方たちとおつきあいしているんですが、「娑婆じゃ何をしていらしたかは存じませんが」という感じなんです。昔こんな仕事をやっていましたという人は嫌われます。おつきはいは、今、一緒にいて気持いいかどうかだけが大事。▼婚姻は、自分の身体の性的使用権を排他的に相手に独占させるという契約です。しかも終身契約ですね。第三者が使用した場合、財産権の侵犯になる。民法上の賠償責任が生じる。ですから、これは性のモノ化。できない約束はしない。私はそのために結婚しなかったのです。▼女性の場合、「男にもてたい」という下心を失った時点で「おばさん」化し、かえってのびのびと生きていけます。男性の場合は、「おやじおばさん」のモデルはもうあります。たとえば永六輔さん、天野祐吉さんなんか、いい感じですし、ああなると、かえってもてるんです。▼私たちの世代はまだカップルに対する幻想が強かったですが、今の若い子にはそれがない。最初から茶飲み友達。セックスに対する考え方もずいぶん違ってきました。▼家族になることや子どもをもつことは趣味としてあっていいが、規範であってはおかしい。


▼「間取り見て寝室別と知る夫」。八〇年代半ばに夫婦別寝室の流れが顕在化しはじめた。子育てを終えた四〇代以上の人たちは、子どもが出ていった後の空き部屋を、妻が寝室にしたり、あるいは夫が書斎にソファベッドを持ちこみ棲みつく。年配の夫婦の別寝室化は、だいたい妻からの要求です。家庭内別居で婚姻は継続、そこまでして関係に執着する理由は、妻は「食べていけない」から、夫の側は老後の「みとり保障」がほしいからです。▼「家族である」ことは二四時間営業です。それに対して「家族をする」ことはパートタイム、サムタイム(時々)でしかない。男性は、通勤途中は市民、会社では会社員、不倫をしていれば男、と二四時間のうち人格が分割されています。今は女性も同じで、専業主婦でも「サムタイム・ミセス」、一歩外にでれば「ライク・ア・シングル」(独身のように)。家族全員が虚構を演じているわけです。▼少子化と子ども部屋のおかげで、他人との距離をおく子どもが育ってきた。ひとりっ子どうしの結婚が増えると、「結婚したいが同居したくない」という空間感覚をもつのは不思議じゃない。密着してセックスする関係より、最初から「茶飲み友達」。結婚はこれまでのように生活保障ではなく、「癒し」としての要求はあると思う。親世代が考えていた結婚の姿、「身も心も」の一体化とはだいぶ違いますが、それでいいじゃないですか。同寝室や同居が夫婦の条件でなくてもいい。

▼「家族・ハコ・街」。パラサイトシングルがなぜ結婚しないかというと、結婚するとソンだから。そのココロは、男はお金の自由を失い、女は時間の自由を失う。▼近代家族を入れる居住空間を考えると、食寝分離、すなわち近代住宅の中でセックスの空間をいかに確保するか。近代住宅のモデル、nLDKは、家族の人数マイナス1であると。ここに近代家族を入れるハコの謎があります。つまり、マイナス1というのは夫婦同寝室が前提となっていて、現実に夫婦の間にセックスがあろうがなかろうが、規範としてやってますと外に示す必要があった。性別分離、食寝分離という、性に対して意識的な空間デザインが西山卯三の悲願だったわけです。しかしそれも解体してきたと。住宅という空間が、セックスと必ずしも結びつく必要がなくなってきた。その機能がアウトソーシング(外部委託)化してきたといってもいい。▼個室群住居の極限的な形態は、寮とか刑務所です。つまり独房、つまりシングルセルにパブリックスペースが直接つながっているというタイプです。それに対して、「イエスの箱舟」的な暮らし方のスタイルがあります。雑魚寝型というか、コミューン型ですね。シングルセルになればなったで、パブリックとプライベートが直接むき出しに接するホテル型ではなく、寮の共用キッチンのようなコモンの空間に対するニーズは高まるでしょうし、その集団が、家族である必然性はなくなるでしょう。▼家族が多様化し標準世帯が少数化していることからも、「住宅の選択肢」がもっと増えていい。実際には高齢者世帯や単身者世帯が多いのだから。建築家の世界には作家主義、作品主義があるが、住宅のモデルに個性なんかなくていい。家族の拡大期にだけ対応するのではなく、家族の縮小期にも対応するモデルをつくっていただきたい。住宅は今も、食って、寝て、育てる場所としか考えられていない。それだけでなく、生産のための空間、さまざまな作業場であるとか工房の機能、ラボ(研究室)機能を含むものであってほしい。今や女性向けの就労機会が近くに組み込まれていないようなニュータウンには誰も引っ越してきません。なぜかというと、どこに住むかを決めるのは主として妻がもっているからです。パートタイムのような就労形態をとる女性は、通勤時間がだいたい三十分までで、職住の近接を組み込まないと、ニュータウンに居住者が入ってくれない。また、標準世帯が少数化したということは、育児・介護の機能は住宅の内部にとどめることができなくなったということを意味します。介護保険は介護の社会化を実現しました。つまりコモンの空間に育児・介護の機能を組み込まざるを得ません。いいかえれば、住宅というユニットは、もはやユニットとして完結しないということです。そのようなコモンの空間は、もはや地縁ではなく、選択縁とならざるを得ないのです。

▼「ダブルベッドとツインベッド」。住宅の中の夫婦寝室そしてダブルベッドというのは、一夫一婦制とセックスは絶対一致の、西欧的な近代家族の規範の中心にあった。それが日本の住宅の場合は洋風化しているようですが、夫婦寝室では、西欧化というコードに従えばダブルベッドでなければならないのに、その普及率は低い。狭くてもツイン型なのです。そこには家族のタテマエと現実のズレがあり、タテマエでは夫婦はセックスをしなければならない。ところが現実では日本の夫婦の結びつきの中心にセックスはない。妥協策として「寝室空間は共有、ベッドは分離」というツイン型の解決になったのではないかという仮説をもっています。

▼「建築再考」。コミュニティの原形は家族ですが、その家族は破綻しています。「気の合わん隣と仲良うせんでもええやろう」「家族やからというても仲良うせんでもええやろう」という話までいきます。介護保険制度は、家族が仲良くなくても成立するシステムです。▼住宅の作品よりモデルをつくってほしい思う理由は、介護保険でこれからどんどん他人が家の中に入ってくる。そのとき家の仕様が標準化され、だれでも使えないと困る。最近の住宅はまさに装置で、分厚いマニュアルを読まないと風呂ひとつ入れない。これではお年寄りは住めません。スイッチの位置や空間配置など、だれが来ても推測できるようにしないと他人は入れません。だから私は建築家に個性的な住宅なんか作ってほしくないのです。▼マンションの住人は、財産コミュニティという考え方をしている。居住者は、過去も経験も人生観も共有していない。共有しているのは財産としてのマンションだけなのだが、これを廊下を街路と考えて、ラボやオフィスの機能を廊下に面したり、お年寄りのグループホーム的なものを、廊下に面する側に配置したり、その奥に個室があるような配置の住宅設計は考えられないのか。▼社会学ではソシオグラムという社会関係図がありますが、同じマンションのネットワークをみますと、必ずしも階段室同士とか、同じ住戸の単位ではつながっていない。住居の近接とは別の原理で選択されています。これを「選択的コミュニティ」と呼びたい。地域という言葉は誤解されやすいので、これを使わずにすむ方法として「選択縁」を考えた。

▼「持ち家制度と家族」。著者が社会主義圏に行ったとき、団地を見ました。まさに労働者住宅、家畜小屋です。実に見事に、何の粉飾もなくむき出しの姿で労働者住宅が林立しているのが社会主義圏で、資本主義圏はそれをパッケージデザインで粉飾して労働者の欲望の対象にしましたが、理屈は同じことです。結局は自分の一生を抵当に入れた社畜すなわち労働奴隷でしょう。働かされているのに、自発的に働いているとカン違いしているだけで。住宅の価格の設定の仕方が生涯賃金とちょうどうまくバランスがとれるようになっていて、何という巧妙な装置であろうかと思いました。日本にも隈研吾(予算や敷地などの「制約」を逆手にとって独創的な建物を生み出す建築家)さんの「一生を抵当にいれて、持ち家を取得する」住宅私有本位制資本主義という卓抜な命名がありますが、そういうことです。▼八〇年代の家族論で出てきたのは、家族の個人化という議論でした。独立した個人の集合からなる家族という概念は一時期トレンドでした。特に近代的自我の確立とか、個の自立とか言われましたが、私は早い時期から、自立、自立っていいすぎると「ジリツ神経失調症」になるよ、といってきました。すべてが個別化した果てには、個人化したセル、つまりワンルーム・プラス公共施設があればそれでいいのか。そうじゃあるまと思います。セックスなんて特定のパートナーに限定される必要はありませんから、必ずしも家の中でやる必要はない。隠すべきはセックスではないわけです。「私」の領域に、封じこめられたものは実は育児・介護、つまり再生産機能です。子どもや老人という依存的な存在を抱えこまなければ、家族は個族的存在でありえます。夫婦だって別居した二つの単身世帯だってかまわない。となると最後に残る問題は、依存的な弱者をどうするかということだけです。人が共に暮らさなければならない意味は、最後にはもうそこだけという話です。▼家族という単位が自己充足していたら、その家族がさらに集まる意味なんかどこにもない。家族が破綻しているからこそ、その家族が集まることに意味があるのではないかという逆説もありますが。▼近代家族というものは、それがスタートした時点から「積みすぎた箱舟」だった。ココロは出帆したときから、座礁が運命づけられていた。家族は昨日今日、機能不全になったわけではなく、かつてだって機能していたとはいえません。▼計画学の「計画」というのは、社会主義の思想ですよね。市場原理というのは計画をギブアップした人たちが思いついた、自動制御のメカニズムですよね。計画というものは、必ずや現実によって裏切られ、うまくいかないものです。▼戦後の持ち家政策の中では、住宅の価格設定が、誰かの陰謀ではないかと思うくらいよくできていますよね。年収の三倍から五倍で、金利を入れると生涯賃金の約三分の一くらい。ローンを払いおわるまでは、絶対会社をやめられない。家族を解散できない。実にうまくできたシステムだと思います。▼私たちはいろいろな予測をする時に、見えない未来に網をかけるよりも、現実のなかにすでに登場している変化の芽を見抜くように努力します。戦略的なターゲットを設定して、マクロな市場調査ではなくて「パイロット・サーベイ」をやる。▼つくり手にとってはハコは完成したときが終わりだが、住み手にとってはそれからが始まりである。しかし、住宅の住み手と住み方が、ここにきて急速に変化してきた。ということです。

14.つばた+しゅういち(事例研究)
▼名古屋圏にある高蔵寺ニュータウンを設計した津端修一さんを紹介します。クライン・ガルテンで知られていますが、自由時間の研究家でもあります。では、東海テレビ収録でタイトル「キッチンガーデン」をDVDで紹介します(約25分)。

15.資料編 
▼書籍資料/『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)。『キラリとおしゃれ-キッチンガーデンのある暮らし』(津端英子・津端修一/ミネルバ書房)。
▼AV資料/東海テレビ収録「キッチンガーデン」。