2009年6月21日日曜日

シカゴ学派の席巻2

▼世界の為替市場で取引される年間300兆ドル、1日当たり1小ドルにも上る資金移動の、実に90%以上が投機を目的とする短期の取引なのです。貿易などの決済に本当に必要なドルはいくらかというと、8兆ドルあれば足りるといいます。にもかかわらず、300兆ドルという余剰マネーが自己増殖を狙って世界を駆け回っている。この短期資金の移動を抑制することで、世界経済はより安定し、実体経済を中心とした姿にかわっていくはずだというのが、トービン税の基本的な考えです。▼アメリカでは、サブプライムローンによって低所得者層に到底返済できない借金を負わせ、住宅を買わせていました。それによって住宅の値段はどんどん上がっていく。値段が上がっているうちはいいのです。購入価格との差額を元手に、クレジットカードを作り、それでまた消費をする(中国と日本はそこに輸出する)。そうしてこうした借金自体を証券化し、小口化し、他の金融商品と組み合わせ、日本を含む世界中の金機機関と政府に売っていました。つまり、世界中に借金をすることで、アメリカは消費の宴に酔い、それによって世界経済は維持されていた。見た目は派手だが、近づいてみると何もない、蜃気楼のような宴です。▼このサイクルが行き詰まったことで、すべて辻褄があわなくなってしまった。アメリカのGDPのうち、工業、建設業など価値創造する産業の占める割合は、23%しかありません(2005年)。他はサービス産業、いってみれば形のないものです。蜃気楼が蜃気楼であるうちは、この経済システムは維持されますが、実はそこには何もないということに気づいたとき、このシステムは破綻するのです。この過程でさらに重要なのは、マネー自体が収縮していくということです。▼マネーは信用によって膨張する。信用を失ったとき、一気に収縮する。つまり、今回の危機が深刻なのは、もう頼りにできるマネー自体が消えてなくなってしまったということです。その証拠に、原油から、穀物から、不動産から、証券から、債券から、世界中のあらゆるものの値段が08年9月を境に落ちている。マネーは逃げたのではなく、蒸発していったのです。つまり、いくら規制を取っ払って外資、つまりマネーを呼び込もうとしても、マネーはどこにもない。これが今回の危機の実相です。▼私はかねて、F(フーズ・食糧)、E(エネルギー)、C(ケア)の地域自給圏(アウタルキー)を形成を、ひとつの理想としてきました。もともと地元に豊かにあるものを、輸送エネルギーを使ってまで海外から運んでくるという社会は、どこか間違っている、歪んでいると感じます。六月二十一日(日)

2009年6月20日土曜日

シカゴ学派の席巻1

『悪夢のサイクル・ネオリベラリズム循環』(内橋克人・文春文庫)から。▼100万ドル以上の資産をもつ日本の富裕層は年々増え続け、今日では141万人。世界の富裕層の16.2%(メリルリンチ調)。一方で、かつては中流の暮らしを楽しんでいた家族は中流から脱落し、ギリギリの生活をしている。▼ケインズ学派とシカゴ学派の争い。ケインズが唱えた公共政策とは、資本家や大企業がその優越的な力で市場をほしいままに利用することを政府が規制し、不況に対しては政府が財政投資と公共事業によって雇用を確保することでその悪影響を緩和し、累進課税を強化し社会福祉を充実することで、富者から貧者への富の再配分をおこなう、といったものです(⇒ルーズベルトのニューディール政策)。しかし、ケインジアンが困ったのは、失業率とインフレの関係でした。失業率を低下させようとすればインフレが発生し、インフレを抑制しようとすれば失業率が高くなるというトレードオフの関係でした。これを「フィリップス曲線と呼びます。この曲線によれば、インフレ率が上がれば、失業率が下がるはずなのに、70年代は必ずしもそうならず、失業率も上昇した。しかし、シカゴ学派のミルトン・フリードマンは違いました。インフレを退治するためには、貨幣の供給量を減らすしかないと考えました。公共事業や福祉事業による需要創出効果は無駄である、というこの考え方をマネタリズムとも呼びます。規制はいらない、フリーマーケットにしろ、という新自由主義(ネオリベラリズム)たちの主張であり、この新古典派経済学はレーガン政権の主軸になります。▼しかしこのネオリベラリズム・サイクル(新自由主義経済循環、佐野誠新潟大教授)では、ケインズのいう一定のサイクルでの需給調整が起こらず、一般的な意味での景気循環とはならない。つまり自由化によって、海外からの資金が集まりバブルが起きるのです。このバブルがくせもので、企業だけでなく自治体も国も借金をしまくるわけです。経済が膨張していますから借金をしてもすぐに返せると考え、財政規律がゆるみます。そしてバブルがはじけます。このとき、資本は一斉に海外に逃避し、国、自治体、銀行、企業は一挙に不良債権をかかえます。そしてリストラを始めるのです。このときに、さまざまな規制緩和などの「改革」がされます。そして国や自治体、その国の価値が、安く評価されるときをねらって、一気に海外資金がなだれこむ。この繰り返しが果てもなく続くということなのです。その過程では、弱小企業の淘汰、雇用の喪失、貧富の差の拡大、外資の進出などが起こり、人心は荒廃します。日本は、ネオリベラリズム・サイクルがちょうど一巡しようとしているところなのです。六月二十日(土)

2009年6月2日火曜日

ユダヤ人の受難

『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹・文春新書)から。▼「ユダヤ人」というシニフィアン(意味するもの)を発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。▼ユダヤ人問題は私たちの社会に構造的にビルトインされているので、ユダヤ人問題は終わらないだろう。▼ユダヤ人はなぜ知性的なのか。ひとつは、ユダヤ人が反ユダヤ主義者に「捕食」されないために、ビジネスマインドや学術的才能を「やむなく」選択的に向上させていった。サバンナの草食動物が肉食獣に捕食されないために視力や脚力を発達させたのと同様に。もうひとつは、民族的に固有の聖史的宿命ゆえに彼らが習得し涵養せざるを得なかった特異な思考の仕方の効果である。歴史を超えて、あらゆる時代、あらゆる場所でユダヤ人は迫害されてきた。第二次大戦のホロコースト受難でも神から見捨てられた。ユダヤ人は非ユダヤ人より世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならなかった。神はそのためにユダヤ人を選ばれからである。レヴィナスはそう考えた。だから受難はユダヤ人にとって信仰の頂点をなす根源的状況なのであり、受難という事実を通じてユダヤ人はその成熟を果たすことになる。▼ユダヤ的思考の特異性とは「知性的な」ものであり、ユダヤ人に対する欲望とユダヤ人に対する憎悪はそういうことに継起している。サルトルには申し訳ないけど、ユダヤ人をつくり出したのは反ユダヤ主義者ではない。やはりユダヤ人が反ユダヤ主義者を作り出したのである。この行程を逆から見ると、反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎むのは、それがユダヤ人に対する欲望を亢進させるもっとも効果的な方法だからという理路がみえてくる。▼ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは「遠き神」についての弁神論を語り終える。この屈折した弁神論は、フロイトの「トーテム宗教」ときれいに天地が逆転した構造になっている。▼どうしてこのような文明的なスケールの断絶が古代の中東で生じてしまったのか。私たちに分かっているのは、このような不思議な思考習慣を民族的規模で継承してきた社会集団がかつて存在し、今も存在し、おそらくこれからも存在するだろうということだけである。六月二日(火)