2009年1月27日火曜日

シューベルトの「ばらけ」

『意味がなければスイングはない』(村上春樹・文藝春秋)から。▼真摯で誠実な、気骨のあるマイナー・ポエト(minor poet)というのが、僕がその夜のシダー・ウォルトンから受けた印象だった。吉行淳之介氏がよく「僕は本質的にマイナー・ポエトなんだよ」と言われていたが、それに通じるところがあるかもしれない。時代を画する巨大な長編小説を書くことはないけれど、鋭敏な感覚で細部を穿つ短編小説や、淡色のヴェールがかかった親密な空間を描きあげる中編小説の領域にあっては、余人に真似のできない持ち味を発揮する。あえて言うまでもないことだが、人の心に届く音や言葉は、その物理的な大きさで計量できるものではないのだ。何もミュージシャンや小説家に限らずとも、数としてはそれほど多くはないにせよ、世の中には、こういうタイプの人が存在する。普段はおとなしくて、積極的に前に出て発言することもないから、そんなに目立たないけれど、大事なときがくると立ち上がって、言葉少なに、しかし整然と正論を述べる。その言葉にはたしかな重みがある。しゃべり終えると席につき、また静かにほかの人の意見に耳を傾ける。そういう人がいればこそ、世界のおもりみたいなものが、しかるべき位置に微調整されて収斂するのだという印象がある。シダー・ウォルトンはまさにそういうタイプのミュージシャンで、彼のような実力のある「隠し味」的な人がいてこそ、ジャズの世界も陰影と奥行きが生まれてくるのではないだろうか。▼シューベルトのピアノ・ソナタには、「冗長さ」や「まとまりのなさ」や「はた迷惑さ」がある。ベートーベンやモーツァルトにはない、心の自由なばらけのようなものがある。スピーカーの前に座り、目を閉じて音楽を聴いていると、そこにある世界の内側に向かって自然に、個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を素手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くまま描いていける。そのような、いわば融通無碍な世界が、そこにはあるのだ。ベートーベンやモーツァルトのピアノ・ソナタでは、僕らはその音楽の流れに、造形性に、あるいは宇宙観のようなものに身を任せるしかない。しかしシューベルトの音楽はそうではない。目線がもっと低い。むずかしいこと抜きで、我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる。そこにあるのは、中毒的と言ってもいいような特殊な感覚である。▼シューベルトの「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」なんかを聴いていると気持ちがばらける。まとまりはない。それがまたいい。一月二十七日(火)

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