2008年10月12日日曜日
ダークサイト
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(内田樹・角川文庫)から。▼権力や威信には必ずその「ダークサイド」がついて回ります。余禄があり、インサイダー情報があり、収賄のチャンスがあります。そういう部分込みで社会ポストというものはあるわけです。▼漱石の小説は、そのほとんどすべて連載小説でした。新聞連載ですから、毎回読みきりでオチがないといけません。そういう制約の中で、『虞美人草』『それから』『こころ』などの傑作が生まれたわけです。無条件より制約を受けた方が創作意欲が湧くというのは人間の場合にはあるのです。それに、定型があるものの方が「飽きない」のです。▼仮に本が一冊もなく、全部の情報がパソコンに入っているとしたら、自分自身の知的なストックってどれくらいあるのか、ほんとうのところ確信が持てなくなるのではないでしょうか。だけど、本棚に何百冊かずらっと並んでいると、毎日何とはなしに、ほんの背表紙と顔を合わせることになります。そうすると、マルクスとかフロイトとかサルトルとかいう文字をみるたびに、ああ自分はこういう本を読んで大きくなってきたんだよな、という自分の精神史を確認できます。自分自身の知的なポジションとか、発達プロセスをビジュアルに確認できます。▼ある著者の愛読者というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて本を買うんだと思います。志ん生の落語を聴きに来る人は、「前に聴いたのと同じの」を聴きにくるわけです。「まくら」が同じだと言って喜び、「落ち」が同じだと言って喜ぶ。現に、志ん生が「まっ、ここはあたしに任しておいて下さい」というと会場はわっと湧きます。音楽も麻薬みたいなもので、同じ曲想の音楽を何度も聴きたいんです。同一のものが微妙な差異を含みつつ反復することのうちに快楽があるわけです。同じものの反復服用が快感なんですね。▼「できるけど、やらない」というのが「らしさ」の節度であり、そこからにじんでくるものが、「身の程をわきまえている」人間だけが醸し出す「品格」というものなのです。自分のありのままをむき出しにするという作法は、その人にどれほどの才能があろうと能力があろうと、「はしたない」ふるまいです。▼他人に対して優しくするにはいろいろなやり方がありますが、「ほっっといてあげる」というのは、その中でも一番難しい接し方です。でも、適切なしかたで「ほっといてもらう」ことほど人間にとって心休まることはないのです。ほんとうに親しい人たちの間では、ときに「何もしない」ということが貴重な贈り物になることもあるのです。でも、こういうことには、「コミュニケーションとは贈与である」という、ものごとの基本が分かっていないと、なかなか理解が及ばないでしょうね。▼身も蓋もない言い方をすれば、人間は期待していたよりバカだったのです。「もう制約をしないから、これからは自分の好きな生き方をしてごらん」と言ったら、みんなお互いの顔色を窺い出して、お互いを真似し始めたのです。人間の欲望は本質的に他人の欲望を模倣するものです。変態で猟奇的な犯罪も、先行する犯罪を「コピー」している。人間は自由であればいいのですが、うっかり自由にしてしまうと、人間のあり方が全部同じになってしまいます。多様性を確保するためには、固体を一人ひとり好き勝手にさせておく方がいいのか、それともある程度の固体をひとまとめにして「型」で縛る方がいいのか。「オリジナルな欲望」というものが存在しないから、誰かの欲望を模倣し、誰かに自分の欲望を模倣されるというかたちでしかコミュニケーションを立ち上げることができないからです。これが自由と制約をめぐるすべての問題の起源にある人間的事実です。十月十二日(日)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿