2008年10月27日月曜日

侵略の手口

『反米大陸』(伊藤千尋・集英社新書)から。▼米国の領土拡大の先兵となったのが海兵隊だ。海軍は海上で戦闘するが、海兵隊は海軍の艦艇で運ばれて敵地に上陸し、陸上で戦う。日本では江戸幕府に開港を迫ったペリー提督の船に乗り込んでいた海兵隊200人がその途中に琉球に上陸し、首里城を占領した。だが、海兵隊がもっとも多く出動したのは中南米だ。最初は1806年、当時スペイン領のメキシコで、その後は手近なカリブ海はもちろん、1832年には「アメリカ市民の生命と財産の保護」を理由に、アルゼンチン沖のフォークランド諸島に上陸している。帝国主義時代に入った20世紀初頭には、武力介入が増え、とくに運河をねらった中南米のニカラグアとパナマ、カリブ海の通商権をねらってのドミニカやキューバ、ハイチへの上陸、占領など、毎年どこかの国を侵略した。中南米だけでも150回近くも出動している。▼アメリカの侵略と軍事介入の手口。①アメリカに都合の悪い政権を非難する。その口実は共産主義、あるいはテロリスト、悪の枢軸、民族浄化などのキャッチコピーだ。②反政府放送局を設けて、謀略宣伝を流す。③アメリカの言うなりになる兵士を集めて、傭兵として反政府ゲリラを組織し、自分の手は汚さずに気に入らない政権をつぶす。兵士の多くは元の独裁政権の軍人だ。指導者にはアメリカ人、あるいはアメリカで訓練された軍人を充てる。④ゲリラに周辺から侵攻させる。ゲリラの兵力が少なく頼りないときは、米軍が軍事顧問団として支援する。⑤領土の一部を占拠すると、アメリカの言うことに従う人を代表にして、傀儡政権を樹立させ、その政権からアメリカに支援要請させる。⑥その要請に応える形で海兵隊が出動し、武力で制圧する。▼中南米がたどってきた「反米」、日本がたどってきた「従米」。十月二十七日(月)

2008年10月22日水曜日

viba じぶんち

内田樹のブログから。▼そのあと6、7回パリに来ているが、いずれも語学研修の付き添いであり、日程の最後の頃にはつねに疲弊し果てており、早く日本に帰って、「viva じぶんち」でごろごろしたいと涙ぐむ。今回も同じ。別にパリに文句があるわけではない。これがハワイでも、バリでも同じである。私に1週間以上海外旅行をさせることに無理がある。地上に3分間しかいられないウルトラマンと同じく、私も「じぶんち」を離れては長く生きていられない人間なのである。しかし、幸いに今の自分には「仕事」という逃げ道がある。ipod でモーツァルトを聴きながら、Mac Book Air のキーボードを叩き、心に浮かぶよしなしごとを書き連ねてゆけば、いつのまにか日は暮れている。▼自分の家にいれば幸せなのである。朝、大学に行くのが面倒だなあと思うこともしばしばある。むろん大学が嫌いなわけではない。行けば行ったで、楽しいのである。しかし、それも我が家でごろごろしている幸福には比較すべくもない。ごろごろと掃除をし、ごろごろと洗濯をし、ごろごろとアイロンをかけ、ごろごろと本を読み、ごろごろとご飯を作り、ごろごろと仕事をし、ごろごろと酒を飲み、ごろごろと映画を見て、ごろごろと漫画を読みつつ眠りに就く。「ごろごろと昼寝をし」というのが抜けているのではないかと疑問に思われる方もおられるであろうが、上記の文中の「ごろごろ」は擬態語ではなく、総じて「昼寝をしつつ」という意味なのである。私はほんとうに「昼寝をしながら飯を作る」というようなことをするのである(蕎麦をゆでている間にソファーで3分間のまどろみ…というように)。アイロンかけはさすがに危険があるので昼寝は避けているが、「縫い物」などの場合は、しばしば途中でふと気づくと、手に針を持ったまま眠っている。世間の人は私のことをハイパーアクティヴな人間のように思いなしているが、実は私は「ハイパーごろごろ」の人なのである。この「ごろごろ」の間に、私は夢を見、よしなき想像をめぐらせ、半睡半覚の夢幻境にある。私が「変わったことを言う人間」だと思われている理由の過半は、実は私が「半睡半覚の夢幻境」において得たアイディアをそのまま紙に書いているからなのである。「現実から離脱する」ことが現実を解析する上できわめて重要であると信じる点で、私は荘子に深く同意するものである。▼そうなのである。十月二十二日(水)

2008年10月12日日曜日

ダークサイト

『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(内田樹・角川文庫)から。▼権力や威信には必ずその「ダークサイド」がついて回ります。余禄があり、インサイダー情報があり、収賄のチャンスがあります。そういう部分込みで社会ポストというものはあるわけです。▼漱石の小説は、そのほとんどすべて連載小説でした。新聞連載ですから、毎回読みきりでオチがないといけません。そういう制約の中で、『虞美人草』『それから』『こころ』などの傑作が生まれたわけです。無条件より制約を受けた方が創作意欲が湧くというのは人間の場合にはあるのです。それに、定型があるものの方が「飽きない」のです。▼仮に本が一冊もなく、全部の情報がパソコンに入っているとしたら、自分自身の知的なストックってどれくらいあるのか、ほんとうのところ確信が持てなくなるのではないでしょうか。だけど、本棚に何百冊かずらっと並んでいると、毎日何とはなしに、ほんの背表紙と顔を合わせることになります。そうすると、マルクスとかフロイトとかサルトルとかいう文字をみるたびに、ああ自分はこういう本を読んで大きくなってきたんだよな、という自分の精神史を確認できます。自分自身の知的なポジションとか、発達プロセスをビジュアルに確認できます。▼ある著者の愛読者というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて本を買うんだと思います。志ん生の落語を聴きに来る人は、「前に聴いたのと同じの」を聴きにくるわけです。「まくら」が同じだと言って喜び、「落ち」が同じだと言って喜ぶ。現に、志ん生が「まっ、ここはあたしに任しておいて下さい」というと会場はわっと湧きます。音楽も麻薬みたいなもので、同じ曲想の音楽を何度も聴きたいんです。同一のものが微妙な差異を含みつつ反復することのうちに快楽があるわけです。同じものの反復服用が快感なんですね。▼「できるけど、やらない」というのが「らしさ」の節度であり、そこからにじんでくるものが、「身の程をわきまえている」人間だけが醸し出す「品格」というものなのです。自分のありのままをむき出しにするという作法は、その人にどれほどの才能があろうと能力があろうと、「はしたない」ふるまいです。▼他人に対して優しくするにはいろいろなやり方がありますが、「ほっっといてあげる」というのは、その中でも一番難しい接し方です。でも、適切なしかたで「ほっといてもらう」ことほど人間にとって心休まることはないのです。ほんとうに親しい人たちの間では、ときに「何もしない」ということが貴重な贈り物になることもあるのです。でも、こういうことには、「コミュニケーションとは贈与である」という、ものごとの基本が分かっていないと、なかなか理解が及ばないでしょうね。▼身も蓋もない言い方をすれば、人間は期待していたよりバカだったのです。「もう制約をしないから、これからは自分の好きな生き方をしてごらん」と言ったら、みんなお互いの顔色を窺い出して、お互いを真似し始めたのです。人間の欲望は本質的に他人の欲望を模倣するものです。変態で猟奇的な犯罪も、先行する犯罪を「コピー」している。人間は自由であればいいのですが、うっかり自由にしてしまうと、人間のあり方が全部同じになってしまいます。多様性を確保するためには、固体を一人ひとり好き勝手にさせておく方がいいのか、それともある程度の固体をひとまとめにして「型」で縛る方がいいのか。「オリジナルな欲望」というものが存在しないから、誰かの欲望を模倣し、誰かに自分の欲望を模倣されるというかたちでしかコミュニケーションを立ち上げることができないからです。これが自由と制約をめぐるすべての問題の起源にある人間的事実です。十月十二日(日)

2008年10月3日金曜日

rentier

『街場の現代思想』(内田樹・文春文庫)から。▼酒井順子『負け犬の遠吠え』は、フランスのrentier(ランティエ/国債による金利生活者)を連想させた。ヨーロッパではデカルトの時代から1914年までは、貨幣価値がほとんど変わらなかった。ということは、先祖の誰かが小金をためて、それでアパルトマンと国債を買って遺産として残すと、相続人は、贅沢さえ云わなければ、無為徒食することができた。そういう人々がフランスだけで何十万人か存在した。仕事をしないでひねもす肘掛椅子で妄想に耽っている。なにしろ彼らは暇である。しかたがないので、本を読んだり、散歩をしたり、劇場やサロンを訪れたり、哲学や芸術を論じたり、殺人事件の犯人を推理したりして生涯を終えるのである。もちろん結婚なんかしない。せいぜい同性の友人とルームシェアするくらいである。ホームズとワトソンのように。しかるに、このランティエこそヨーロッパにおける近代文化の創造者であり、批評者であり、享受者だったのである。▼それも当然である。新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆくとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのような冒険に嬉々としてつきあう人間は「扶養家族がいない」「定職がない」「好奇心が強い」「教養がある」などの条件をクリアしなければならない。「ねえ、来週から北極に犬橇(そり)で出かけるんだけど、隊員が一人足りないんだ」「あ、オレいく」というようなことがすらっと言える人間はなかなかいない。ブルジョアジーは金儲けに忙しく、労働者たちはその日暮らしと革命の準備で、そんな「お遊び」につきあっている暇はない。残念ながら、このランティエという遊民たちは1914-18年の第一次世界大戦によって社会階層としては消滅した。インフレのせいで金利では生活できなくなってしまったからである。彼らはやむなく「サラリーマン」というものになり、世界からホームズたちは消えてしまった。▼「ありあまる時間と小金の欠如」という理由から、今日の人々に「ランティエ」的生き方を禁じている。これが現代の文化的衰退の大きな原因であることはどなたにもお分かりいただけるであろう。しかし、ここに「負け犬」という新しい社会階層が登場したのである。彼女たちは「パラサイト」であるか一人暮らしか、同性の友人とルームシェアしているか、とにかく「扶養家族」というものに縛られていない。職業についても男性サラリーマンに比べて、はるかに流動性が高く、「定職」というものに縛られていない。扶養家族がなく、定職への固着がなく、ある程度の生活資源が確保されていると、人間は必ず「文化的」になる。「衣食足りて礼節を知る」いうが、「時間と小金」があると人間は、学問とか芸術とか冒険というものに惹きつけられてゆくものなのである。▼人間の体はリアルタイムで動いているのではない。ちょうどリールが釣り糸を巻き込むように、「未来」が「現在」を巻き取るような仕方で動くのである。私たちは、輪郭の鮮明な「未来像」をいわば「青写真」に見立てて、その下絵のとおりに時間をトレースしてゆく。だからネガティブな未来像を繰り返し想像する習慣のある人間は、その想像の実現に向かってまっすぐ突き進んでゆくことになる。▼強く念じたことは必然する。それに暇と小金です。十月五日(金)