2008年8月18日月曜日
心身バラバラの極意2
▼『兵法家伝書』には、弓を射るときは、弓を射ようと思うな、と説明している。言い換えれば「弓を射る」という一つの動作を、ふたつに切り分けなさいということである。つまり、「弓を射る」という身体の動きと「弓を射る」という心の動きをリンクしてはいけないということである。不安や恐怖を身体能力の低下に結びつける回路は技法的に切断できる。伝書は「心と体はばらばらに使え」「精神と身体を切り離せ」と教えている。心と身体がばらばらに動けば、心がいくらマイナス思考をしても、運動能力に悪い影響を及ぼさない。この状態を伝書は「木人花鳥に対するが如し」というメタファーを使って説明する。目の動き、形の動き、足の動きなど、身体の徴候が「いまから攻撃します」という合図を出してから動いたのでは、物理的にどんなに早い動きも捕捉され、回避され、反撃されてしまう。だから武道では、絶対に身体的な動きの前に予備動作を行ってはならない。ごく日常的な身体の動きがなめらかに連続しているうちに、予告なしに、動きの質が「いきなり」変化する。これが「無拍子の動き」なのである。▼私の荷物は他人に担いでもらい、他人の荷物は私が担ぐ。これが、burden sharing である。多くの人は、他人の荷物は重たく、自分の荷物は軽い、と思っている。それは違う。逆である。自分の荷物は重たいが、他人の荷物は軽い。レヴィ=ストロースがそう言っている。「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることはできない」とも言っている。この先生はつねに明晰な人です。だから、楽になりたかったら、自分の荷物を放り出して、他人の荷物を担げばいいのです。▼霊的、というのはその人個体の生命を超えたものに価値を見出すということだと思います。宇宙のなかのあなた、人類の歴史におけるあなたを意識する、ということが霊的である、ということでしょう。「人生五十年」という閉じられた時間のなかに自分の存在を限定しないで、もっと、時間、空間的に個体を超えた広がりを持った生命のあり方を想定しているんだと思います。DNAなどもそうですが、人間は個体であると同時に、脈々とつながっている存在でもあるわけです。ある長いリンクのなかの一片なわけです。その長い流れのなかで自分はいったい何なのか、どういう価値があるのかを考えるということでしょう。人間元気がでるのは「死んだらおしまい」という物語ではなくて、「君は死ぬ前も死んだ後も、ずっと連続しているし、死んだ後も他者とつながってるんだよ」っていう物語ですからね。サッカーでいうと、皆がゴールする必要はないわけです。いいアシストをすれば、次に誰かがゴールを決めてくれる。そのことを「自分に関係ない」と思うか、ともに喜べるかが分かれ目ですね。そういうパッサーとしての位置づけを喜んで受け入れるようになることが「霊性を高める」ことだと思います。自分の個体の生命の枠を超えて、自分自身の位置づけや意味を考える、そういう習慣ってなかなかないと思うんですが、とても大切なことだと思います。▼自分の荷物も、他人の荷物もさほど担がずにきてしまった。八月十八日(月)
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