2008年8月12日火曜日
心身バラバラの極意1 (366)
『私の身体は頭がいい』(内田樹・文春文庫)から。▼ですから中枢的な運動はダメなのです。武術的な身体運用とは「現場処理」する身体です。仕事をする身体部位だけが仕事をして、とりあえず用がない部位は「じゃあ、ひまだから別の仕事でもすっか」というばらけた働きをすると、その身体が「何をしょうとしているのか」ということが予測できなくなります。身体を中枢的に統御せず、個別的に仕事をしてもらう、ということが大切だ。おおわくの指示だけ出しておいて、「あとは、現場でよろしく」ということになると、現場には一種の「自己完結」性が求められます。それが「群雄割拠」的身体図式とおらずなるわけです。これまで中央の指示に従ってツリー状に組織されていた身体各部が、「地方自治」的、「軍閥割拠」的にランダムな動きをするようになります。▼「絶対的な稽古」というのは、いわば「交響楽に身を委ね、それに乗って演奏する」ような身体の使い方を学ぶことである。誰がどの音を演奏しているのかというようなことはどうでもよろしい。奏者の仕事は、「結界」に入ってくる楽音に「乗る」ことだけである。それは「反撃する」でもないし、「防御する」でもないし、「躱(かわす)」でもないし、「捌(さば)く」でもない。応じてはいるけれど、囚われてはいない。聴き取ってはいるけれども、固執してはいない。楽音に合わせて、自在に先を取り、拍子を合わせ、気が向けば裏に入る。そういう自在な応接は、「宇宙的な和音」のなかに「私」も「敵」も、すべてが、かけがいのないファクターとして含まれているというふうに考想することによってしか達成できないのである。私たちがめざしているのは、この「絶対的な稽古」である。そのためには、剣や杖を稽古することはたいへんに効果的なのである。▼澤庵禅師の武道の極意を説いた『不動智神抄録』でこう論じている。「〈止まる〉とは、なにごとによらずあることに意識が固着することである。あなたの武芸に関連して言うと、打ち込んでくる刀を見て、それに合わせて反撃しようとすると、相手の刀に意識が固着して、自分の動きが相手に筒抜けになってしまい、切られてしまう。これを〈止まる〉というのである」。意識が身体に局所的に徴候化することが武道においては絶対の禁忌であることは、これでお分かり頂けると思う。▼武道の身体所作の奥義をもっと知りたい。何か掴めそうです。 八月十二日(火)
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