06.町を使おう
内容
01.子どもの絵... 1
02.自由時間を考える... 1
03.遊び学ぶ・動物園... 3
04.(補論)シマウマはなぜ家畜にならなかったのか... 9
05.(補論)動物たちの自己治療... 10
06.学び遊ぶ・図書館... 13
07.学び遊ぶ・博物館... 15
08.もう一つの学校... 16
09.自由時間の三種目... 18
10.資料編... 19
01.子どもの絵
▼まず、ウォーミングアップとして、子どもの絵を覗いてみましょう。これは帯広動物園の動物画コンクールでの入賞作品のいくつかです。対象がフレーミングされています。それにズーミングです。気持が動かされ、気に入ったところを、楽しく強く描いています。子ども達は、虫眼鏡を持ち歩いているわけです。両眼でパノラマしてから、虫眼鏡で拡大して捉える作業をしています。そのズーム力が凄いところに驚かされます。小さな虫でも、大きく見える経験は誰でもあります。小さい頃は皆がファーブル昆虫記なのです。視野をパノラマしてからズームする気持を忘れず、です。
▼では、子どもの絵を具体的に見てみましょう。特にネコ科の動物たちが生き生き描かれています。この絵はマンドリルですが、まるでゴロニャーの猫です。実はネコ科といえばライオンも動物園では、昼間は丸太を枕に寝ていたり、足四本を壁に立てかけて、猛獣とは思えないシドケナイ仕草です(アフリカのサバンナでも同様)。「シマウマ」も良く描けていますね。この縞はライオンから身を隠すために役立ちます。ライオンは色を識別できないので、この縞々が草木に紛れてしまいます。また彼らが群れると一頭一頭の区別がつかず、狩が難しくなる。そこでオスが一頭を追い出し、メスが狩をすることになります。この「フクロウ」は賢そうです。よくミネルバのフクロウと言われますね。調べたことありますか。ミネルバはローマ神話の知恵と文化の女神でしたね。ギリシア神話ではアテナにあたり、アテネ市の守護神として名高い。ゼウスの頭の天辺から誕生した永遠の処女神で、フクロウを使いの鳥としていたからですが、いつかは神話に出てくる動物を解き明かしてみようと思っています。と言うように神話や物語にも動物が、よく出てくるので知っておくと楽しみが広がります。
02.自由時間を考える
▼さて、今回は「町を使う」ことと「自由時間を使う」ことを関連させて、動物園・図書館・博物館の三ヵ所を取り上げてみます。町にあるミュージアムをどう使うといいのかを考えます。その「使い方」が、「遊びながら学ぶ・学びながら遊ぶ」ことに繋げればいいだろうなあ、といつも考えていました。それと遊びの方が広がりを持っているように感じますから、今回の主題は「遊びながら学ぶ」でやってみます。▼ということで、ワタクシゴトから入りますが、私は市役所の仕事についてからは都市計画とか町づくり政策の分野をずーっと担当してきましたが、その後半には図書館・博物館・動物園というミュージアム分野に携わることになりました。まあ、裏方ではいろいろなことがあるんですが、楽しい職場でした。子供じゃないのに動物園にですよ、毎日ですよ、六年間も通っていたのですから、生きているといろんなことに巡り合います。そこで今日は、この三つの分野で知り得たことを皆さんにお話します。経験なくして理論(語り)なしですからね。
▼でも、チョッとその前に、「遊びながら学ぶ」上で前提となる、私たちが自由に使える10万時間の話をしておきます。まずは、自由にならないのは労働時間です。1年間の労働時間はどのくらいなのかと言いますと、狩猟時代は8百時間、農耕時代は1千時間、現代都市社会は2千~2千5百時間、日本の場合は一部の中小企業は残業が多く4千時間も働いています。そんな時代ですから、子供らしい原体験というか原っぱで遊ぶ暇もなく、若者は学歴競争社会に追い込まれ、やがてウサギ小屋の団地を与えられて核家族になり、ハイ・モビリティ社会のなかで転勤しながら働き続けるのです。そして1年4千時間の忙しさのなかにすり減って定年。自分の長い人生スパンに「もう一つの自分を設計」をする暇もなかったことに気づいたのが今の日本人なのです。ですから個人としての日本人はもちろん、とりわけ定年後の男性は退屈さに加えて、周りから持て余されているのです。人生の自由時間に遊んだり、学んだりが不得手なため、何のための人生だったのかという大きな問題を抱えてしまいます。ですから医療や年金も問題ですが、「中高年文化」も大問題なのです。しかも、これは小さい頃からトレーニングが要ることは、これから話します。
▼そこで、チョッと遊びに関係する余暇のこぼれ話を紹介します。よく聞く話です。ゴーギャンが描いたタヒチあたりの風景を想像してください。北半球の文明人が南の島にやってきて、土地の貧しい裸の若者に話かけた。「君もっと働いたらどうなんだ、働けばお金だって手に入るぞ」、若者は言う「お金あるとどんなことできるんで?」、文明人は答える「私のように豪勢な休暇がとれて、燦々とした太陽を浴びて、ゆったりと昼寝ができるじゃなか」、若者つまらなそうに「それなら、おいら、毎日やっているよ」、という小話です。皆さんはどう思いますか。どちらが羨ましいですか。▼さて、仏人はバカンスを楽しむと言われていますね。それを羨む日本人は多いけれど、実態は安宿に泊まって自炊しつつ、普段と同じ生活をしていつもより本を多く読んでいるだけのことで、恐らくは、日本人はこのゆとりというか、自由時間を持て余すだろうなという問題もありますね。私たちの遊び方は、最近の中高年のトレッキングでも見られますが、気楽に始めても、やがて深田久弥の日本百名山を征服しようとし、無理して遭難しえ新聞ダネになってしまいます。求道者のようにその道を究めがちで、ゆっくりできない性分がありますからね。ここをどう考えるか、です。
▼さて、次は今日の主題の一つで、私たちにとって自由になる「10万時間」の話です。これもよく聞く話ですが、人生80年の総時間数は70万時間です。睡眠は1日8時間で25万時間、食事や通勤など生活必要時間は1日8時間で25万時間、労働は30年間で7万時間、学習時間は小学校から大学までで3万時間と意外に少ない。これらを引くと、残り10万時間なんです。かつて将棋の故米長王将は「プロになるには1日3時間くらい、毎日やることが大事なんですよ。まあ、一人前になるには5千時間から1万時間だと思う」。とすると、計算だけなら10万時間あれば一人十の芸を身に着けることができる。ともかく、プロは1万時間、趣味なら5千時間、といったところでしょうか。ここを押さえて置いて下さい。大リーグのイチローだって、フィギアの浅田真央も、少し古いですがサッカーのナカタ、ゴルフの丸山茂樹も努力を続ける天才ですね。世界を舞台に活躍するには、まず続けることです。
▼少し見方を変えます。地方都市に住むと通勤時間はわずかで、都会の人達より1日2時間は得しているな、と都会に出掛けるとつい思ってしまいます。この余った時間を、上手に使い始めたら、個人も、お互いも、もっと楽しくなる筈です。地方都市は自由時間が財産です。通勤時間2時間×250日×30年=1万5千時間の計算になります。趣味三つ分です。通勤時間の得は朝起きの三文より大きいかもしれないという話でした。自由時間の要点の一つ、「地方時間の発見」です。
▼ということで、もう一度、人生80年を整理すると、社会に出るまでの20年という人生第一期、社会に出て30年から40年間働く第二期、リタイアしてから20年間の第三期。その20年を、年老いて二人で、あるいは一人で生き続ける淋しさに耐えることが、普通の日本人に出来るだろうか、という問題です。12年あるいは16年間の学校教育を終えたあとを、生涯学習の面からは、どう考えておくといいのか。身近な図書館・博物館・動物園にどう関わると楽しいのかを、考えてみようということです。美術館も話したいけれど、職場経験がないので今回は除きます。まずは、動物園の話からスタートします。10万時間を過ごすネタは果たして見つかるのでしょうか。始めます。
03.遊び学ぶ・動物園
《導入》
▼おびひろ動物へは行ったことありますか? 当園の動物コレクションは70種類400点と中規模です。その外にキリンなどの死亡動物の骨格標本などもあります。行事はいろいろあります。冬の動物園や夜の動物園などが人気です。飼育体験などで動物を観察できる機会もありますから、HPを見て参加しするといいでしょう。さて、動物園の裏方を支えるのが飼育係(10名)です。長靴・デッキブラシ・バケツをもち、獣舎の清掃や糞を片づけ、餌を与える。ゾウなどの大型猛獣の担当は動物との付き合いを深めるため、あまり替えないようにしています。さて、皆さん方は、飼育係に遠慮なく尋ねるとよいと思います。孔雀の羽が欲しいとか、カバが口を開けたところを見たいとか、象の鼻に触りたい、アザラシに餌をやってみたい、と飼育係に言ってみるといい。意外と黙って応じてくれるものです。動物園で遠慮は禁物。図々しさも学ぶための一つの能力なのです。
▼さて、動物園のよく知られた昔話を一つ披露します。上野動物園の象の「インディラ」の話です。ご存じの方もいるでしょうが、戦時中、食料難で猛獣類は毒殺され象は餓死しましたが、敗戦後すぐに身近なブタ、アヒル、ニワトリ、ウサギたちで開園しました。でもそれは動物園でないので「ブタ園」と揶揄されそうです。昭和21年に東京の子供たちがインドのネール首相に手紙を書いたところ、自分の娘と同じ名前の象「インディラ」が送られてきて、手紙も添えられていました。そこにはこう書いてありました。「世界中の子供は皆似かよっているが、大人になると異なってきて時々喧嘩をする。インディラはインドの子供たちからの愛情と好意の使者です。象は賢く、辛抱強く、力はあるが優しい。この性質を身につけたいものです」とのメッセージを添えられていました。いい話ですね。動物を通じての国際交流はいいものです。パンダの交流もありますね、パンダはいまは、上野(東京)、王子(神戸)、アドベンチャーワールド(和歌山)です。当園ではオーストラリアとの親善交流からアカカンガルー、探検家植村直己との縁でエスキモー犬の子孫2頭がいましたが、これは亡くなりました。
▼次は「カバ」の話ですが、これは動物園の裏面史でもあります。ともかく、明治期には上野・京都・大阪天王寺の三大動物園からはじまり、その後全国におよそ百カ所が誕生します。ですが動物の側からみると、動物保護のためのワシントン条約が動物の輸出入を難しくさせたことで、国内での繁殖がにわかに多くなりその血を濃くさせています。カバの場合ですが、名古屋の東山動物園にいたアフリカ生まれの重吉・福子夫婦の子孫が全国の動物園にもらわれていきました。帯広にもゆかりの一頭がいましたから、重吉の訃報をききあわてて弔電を打ったこともありました。動物を介しての慶弔もあるんですね。ということで、今では日本ばかりでなく世界の動物園でも七割は動物園生まれなのです。でもオリの中で野性を発露できない後継世代とはいえ、やはりナゼ・ドウシテこういう動物がいるのだろうという驚きが湧いてきます。こういう動物にタッチあるいは観察して野生世界への入り口にたつ人が増えています。これは事実です。動物を感じて、地球の生物を感じているのでしょうか。なぜか獣医をめざす人も微増しているそうです。
▼もう少し、動物園の話を続けます。「四度訪れる動物園」の話です。誰もが動物園に生涯四度訪れます。一度目は子供の頃に親に手を引かれて、二度目はカップルで、三度目は子供を連れて、四度目は孫に手を引かれて。その動物園も二十世紀には人気を博しましたが、これからどこへ向かおうとしているのでしょうか。▼多くの人が動物園とは、アフリカのサバンナから連れてこられ、オリに閉じ込められた「見世物小屋」だと感じています。これは人間の身勝手さともいえますがが、新たな情報系の動物園への動きもあります。東京の上野動物園は、どこの動物園にどんな動物がいて、保護や繁殖はどうなっているのかなどの大事なデータを世界中から集めています。▼国内を束ねる日本動物園水族館協会は動物保護のため失われゆく「種の保存」に力を注いでおり、各地の動物園・水族館に担当する動物がいます。おびひろ動物園はオジロワシが担当。当園の個体は数年前に死んだが、その後も札幌・円山、釧路など全国二十二の動物園にいるこの希少動物の保存のためにデータを集め、繁殖計画を立てている。ですから帯広で「オオワシ・オジロワシの繁殖地サハリンと越冬地北海道の現状」という研究会を開いてもいるのです。▼野生生物はどのくらい絶滅の危機にあるのか。世界中に生息する野生生物で学名をもつものが約百四十万種。このうち絶滅危惧種がレッドデータブックに載っており、哺乳類の17%(五百九十八種)、鳥類の11%(千四十七7種)あります。▼そういう動物たちを動物園はどう展示しているのか。当園ではまだオリの中ですが、横浜ズーラシアはオリがなく、双眼鏡でウォッチできる最先端の動物園です。擬似的サファリであるため楽しく人気があり、生息環境をとり込んだ試みとして評価も高い。その先駆的動物園の増井光子園長(元上野動物園長)は「動物園は勉強にきても楽しめる、遊びにきても学べると考えればとてもステキな場所。楽しみながら自然界の不思議を体験してほしい」と話されていましたが、動物園は、生涯にわたって学習する市民や子供にとって「もう一つの学校」の役割もありそうです。▼動物園は人が動物に気軽に出会える広場です。かつて十勝平野の人々と動物は親しく身近な関係にありました。野生のヒグマが山を下りて民家をウロウロする話はよく耳にしたし、馬・豚・羊・山羊はもちろんのこと、鶏やウサギは軒下で飼っていた。サケも近くの川で産卵できるほど、農村も自然も健康だった。しかし十勝の農業人口が一割をきり大型農業へ変わる頃から、動物たちが姿を消し、農村も都市的な生活様式へと大きく舵をきることになります。このことで人々が失ったものは何か。▼来園者で「馬とヒグマに会いに来た」というお婆ちゃんがいました。懐かしい家畜や動物たちに会いたいという接触欲が残っていたのだろうと思います。でも当園では馬といえばシマウマ、クマとはホッキョクグマだったので落胆していました。▼さて子ども達は、なぜ教えもしないのにトンボを捕るのか考えてみれば不思議です。それに視野を宇宙全体に広げてみれば、太陽系が冷たくなるまで、あと45億年。地球の生き物たちは、折り合いをつけて生き続けることが出来るのだろうか。動物園に行くとそんなことも考えてしまいます。
《動物の食事》
▼動物たちの食事を見たことありますか。動物園では朝の10時台はキリン・シマウマ・バイソン・ゾウなどの草食動物にミネラルたっぷりの青草を与えますが、こちらの方は穏やかな風景です。一方、海の哺乳類たち、アシカにはダイエット運動のためにジャンプさせながら餌をやります。繁殖期のアシカのオスは縄張りを主張するための鳴声がうるさいんですね。潜ったままで鳴いているのを目撃もしました。余りにうるさく鳴くので、通りかかりのオバサンが「あんたウルサイわよ、静かにしなさい」といったら、黙りましたね。ホントですよ。回りの人達も黙ってしまいましたが。わかったのですね、オバサンの何というかスゴサを。でも、これもコミュニケーションの一つです。さて、午後は四時前後にライオンやシロクマの食事が見られます。五キロ骨付きの肉やレバーなどを与えますが、バリバリと砕いて食べています。こちらは肉食動物のスゴサが味わえます。野生の食べる動物たちを知りたければ、竹田津実『食べられるシマウマの正義・食べるライオンの正義』(新潮社)を覗くといいでしょう。このように動物園では、できるだけ動物の食事風景を見せるようにしています。食べる動物からは何かが伝わってきます。
《動物とのコミュニケーション》
▼動物とのコミュニケーションといえば、バイソン・シカ・トナカイなども目が合いますね。ゾウもそうですし、キリンも同じです。チンパンジーなんかはもっと出来る。中型大型の草食動物はなぜかアイ・コンタクトが可能と思われます。カバだって三分もすれば息継ぎの「プファー」がありますから、その時にチラッと目が合ってコミュニケーションができたような気分になります。ウサギやヤギはどちらかというと、通じないかもしれません。それに動物の気取りというかポーズもありますね。大型の草食動物でも肉食動物でも、子ども達が絵を描いたり、写真のバックに撮られるとなると、彼らはポーズをとっているのではと、思われる仕草をします。確かではありませんが、そう感じます。動物園で写真教室や絵画教室をしますが、指導に当たられた先生方もそう言っていました。これも不思議なことの一つです。見られるなら、格好よく美しく見られたいということでしょうか。
《動物の目》
▼少し踏み込んで、動物の目の話をします。鳥の目はまん丸。ヘビの目もまん丸。そうです、鳥は爬虫類の子孫だからです。イヌ・ネコ・ウマなどの哺乳類も爬虫類の子孫。ただし鳥は恐竜の生き残りで、鳥類だけを残して絶滅した。哺乳類は爬虫類を先祖とするが、爬虫類とはかなり違う方向に進化した。体に鱗もなく、卵でなく赤ン坊を生んだり、目も切れ長に改造した。瞳孔の形もいろいろになった。ネコのように瞳孔が垂直についていて、光が強いと糸のように細くなり、暗くなるとまん丸になる。それがかわいいという人もあれば、気味悪いという人もいる。脊椎動物は皆こうやって瞳孔の開閉で光の量を調整している。昆虫の場合は瞳孔はなく、光量調節は目の中の色素を移動して行っている。さて次はヤギの目です。瞳孔は細い長方形ですよ。この目をみていると、われわれはヤギが何を考えているのか解らなくなりませんか。まさかパノラマ写真のように、横に長く見えている訳でもないでしょう。▼ここで「猫の目」をもっと観察します。イヌが臭いで世界を見ているのとは違い、ネコは目で世界を見ている。ネコが目を大きく開いてこちらを見ているときは、関心と警戒心を示しており、瞼を半分閉じているときは、こちらを信用しているときである。目のコミュニケーションがこの動物にはある。サル山では、サルの目を見つめてはいけないと、いわれる。ネコもサルも顔が平たく両眼で見ることが出来るので、人間が見つめることには敏感であるからです(ちなみに鳥は相手を見つめるときは片目で睨みます)。そこでネコと仲良くなろうと思ったら、まずネコの目をジッと見つめて、それからゆっくりと目をつぶる。こちらが目をつぶっている間はネコはそれ程警戒しない。目をつぶっている時は攻撃がないと思っているからです。それからゆっくり目を開く。その時ネコも目を開けていたら、もう一度ゆっくり目をつぶる。これを辛抱強く繰り返していると、ネコもゆっくり目をつぶるようになる。こうなったら、ネコとコミュニケーションが成立したと思ってよいです。この分野は皆さんの方が詳しかったかも知れません。
《動物の性格》
▼さて、次は動物の性格を話題にしますが、興味ありますか。イヌとネコが身近でいいですね。この動物たちは観察しても、付き合っても、飽きることがありません。昔のわが生家は家畜で生業をたてていたがイヌやネコも数匹ずついました。ウシは大勢いましたが気が合うのは子牛の時だけで、成牛になると給餌の時しかなつかない。ウマとは話したことありませんが大雪の時は背中に乗せてもらい通学しましたから分かるんですが、こちらの気持は理解しています。いつも下向いて餌を食べているニワトリやブタやヒツジとは話したことはありません。しかしイヌとは目を見ながら話ができる。ネコは通じるけれども通じない面もある。イヌはタレントのように何でもヤルが、ネコは役者のように何かをやってしまう。ただイヌは何でもやるから忙しくて自分を変える暇がない。尻尾はふるわお座りはするわ、お手もする。ネコはこんなこと一切やらない。いったん目を覚ますと何かをやりたいネコだから、ヒトのオカズは取るわ障子は破るわで、自分も周りもまったく変えてしまうんですね。そして雨の日はとことん眠いネコ。片や人の心を読むイヌ。動物と生活するのはいいものです。
《博物誌》
▼さて、ここで二人の作家を紹介します。まずジュール・ルナールです。『博物誌』(新潮文庫)が知られています。「蝶、二つ折りの恋文が、花の番地を探している」の名文句がその中にあります。博物誌という分野も楽しいものです。もう一人は開高健(小説家)です。奥本大三郎『開高健の博物誌』(集英社新書)に詳しいです。魚の話が多いんですが、ネコの部分を抜粋します。「ネコ」は人の生活と感情の核心へ忍び込んでのうのうと昼寝をするが、ときたまうっすらとあける眼はぜったいに妥協していないことを語っている。媚びながらけっして忠誠を誓わず服従しながら独立している。気ままに人の愛情をほしいだけ盗み、味わい終わるとプイとそっぽを向いてふりかえりもしない。爪の先まで野生である。これだけ飼いならされながらこれだけ野獣でありつづけている動物はちょっと類がない。ペリカンのところもチョッといいですよ、「ペリカン」はさびしくて、強健で、不屈である。さて、奥村大三郎は開高健を、彼は本来のナチュラリストではないという。そもそも何か物が好きという子供は、はじめのうちは誰でも機関車やおもちゃやカブトムシ、ザリガニなどと遊んでいるが、やがて機械や「乗り物」が好きな子と「生き物」の好きな子とに分かれる。それがやがて生涯の職業や趣味になるという。物が好きでない子供の場合はいずれ抽象的なものを弄ぶようになる。つまりそれが文学者、思想家、芸術家、政治家に向かうのだろうという訳です。開高健という人は七歳になってから郊外の池や川で遊びますが、やはり元々都会の人で、生まれながらの言葉の人で、物を詳しく見るより、それについての印象を言葉にして頭の中で練り上げる人であったと思われる、とのことです。
▼ネコやイヌの話が続きましたが、これは町を見る視点にも繋がります。ニューヨークやモスクワはイヌの町、パリとリオデジャネイロはまだネコの町だろうと言われています。十勝はどうでしょうか?牛ですか。他にも応用できそうですね。町や人物を、動物に例えるのは、楽しいものです。でも的確だと、怒り出す人もいますから、なるべく陰で楽しむことです。インターネットでは動物占いも盛んなようです。
《鳴声》
▼次は鳥の鳴声の話です。私は、夜の鳥が好きなのです。鳥の鳴き声をバーコードにした本を機械でなぞることも出来ます。フクロウやコノハズクの声を真似て一芸にしてはどうですか。では聞いてみましょう。聞き做しは「フクロウ」が「ボロ着て奉公」、「コノハズク」が「仏法僧」。でもブッポウソウという鳥は別にいて「ゲゲゲ」と鳴くので、間違わずに。フクロウ類は大きな目なのでわずかな光で物を見る能力があり、さらに顔の前に目があるため物を立体的に見ることもできます。そこで音を立てずに近づきネズミなどを捕るのです。夜鳥ばかりでなく昼間の野鳥も真似して、鳥を呼ぶのは楽しいではありませんか。バードコールもやってみる価値はあります。
《動物の不思議》
▼さて、次は「動物の不思議さ」に思い巡らしてみましょう。動物たちが自然淘汰のなかで進化してきたと思っても、なお不思議さが残るものです。▼「クジャク」の羽の目玉は何個あると思いますか。150個です。デジカメ写真をパソコンで番号を振って数えたんです。鳥のオスはどうしてあんなに過剰に派手でなくてはならないのでしょうか。それはですね、鳥類は色識別できるからだと、密かに思っているのですが、皆さんはどう考えますか。▼「フラミンゴ」はなぜピンク色なのか。実は赤い色素の調理済みの飼料を与えて、あのピンク色を維持しているんです。放っておくと色があせます。野生のフラミンゴはカロチンを含む藻を食べています。雛は他の鳥と違い、食道のそ嚢で作られる赤いフラミンゴ・ミルクで育ちます。▼「キリン」は昔の恐竜時代ならいざ知らず、現在の生き物の中で一番背が高い。首の長さが三メートル。高いところの食べ物を取るには都合よいですが、心臓から血を送るのはどう考えても大変であり合理的でありません。足の先だって血の巡りが悪くなりそうですが、動物園でもアフリカのサバンナでもゆったり生きている。動物学者は心臓のポンプが強いだけで不思議でも何でもないと言う。ではキリンの網目の意味はどうか。孫引きになりますが、寺田寅彦(1878-1935、物理学者・随筆家。漱石『三四郎』の野々宮宗八のモデル)があれは乾いた地面にできる割目と同じ模様で、それ自体には何の意味もないが、あの網目模様がキリンの姿をアカシヤの茂みに消し去ってしまうそうです。▼次は「ラクダ」。人間なら何日も水を飲まずにいると血液が濃縮し死んでしまうが、ラクダは長い間水を飲まずに生きる。でも一度オアシスの水にありついたら猛烈に飲み貯めできる。それを胃袋に貯めるのではなく、水分を失った細胞組織に貯えていくのでラクダはみるみる元の太った体に戻る。こちらは神秘的です。付け加えるなら、動物個体は種族維持など考えておらず、自分のためにだけ生きているというのが、一般的な見方ということです。
▼生き物の中では昆虫も不思議です。「チョウの道」の話をします。モンシロチョウなどは花が沢山あるところは急にゆっくりフラフラと飛ぶ。しかも上下左右と目まぐるしい乱舞にパターンはあるのだろうか。ずーっと気になっていました。この直接の回答ではないがチョウの道というのが解りました。チョウは日の当たっている木の葉に沿ってゆっくり飛ぶそうです。でも光や木の葉とだけ関係があるのではなく、温度とも関係ある。春のように気温がそれほど高くないときは、日の当たっている場所を結ぶ線になる。ところが夏になり気温が上がると、こんどは日陰の涼しいところを飛ぶ。道は一定ではなく、季節によって、天候によって、一日の時間によって、そして気温によって、さまざまに変わる。飛ぶ好みの順序は、裸地より草地、草地より木、日陰より日向である。チョウの道は風か何かで決るのではなく、またナワバリでもなく、食物の在り処でもない。「日の当たるチョウの道」を飛びながら、そこで見つけた花のミツを吸い、見つけたメスと交尾し、見つけた草に卵を産む。チョウの生活は随分とゆきあたりばったりなのである。日高敏隆『チョウはなぜ飛ぶか』(岩波書店)から教えていただきました。夏の原っぱに出て確かめたいですね。それと、この話を知っていれば、公園や街路樹のプランづくりに役立つかもしれません。
▼最後に、ご存じ「アリは働き者か」の話をしましょう。アリは一見働き者のように見えまするが、実は最も怠け者の昆虫です。アリの集団の中で働く固体は2割に限られ、あとの8割は完全に怠けている。では働く2割を隔離した場合はどうなるかというと、やはりその中の8割が怠け始める。その怠けている8割の固体を隔離した場合、その中の2割が働き始める。こうなると生物集団の生命維持原理が見えてきます。このことは仕事に就くとよーく分かります。ということで、我々の肉体でもDNAなどは9割以上は重複情報であり、実用性からいえば全く役にたっていないといいますから、怠け者や役立たずの八割の部分にも生物の存在理由が認められることになるということでしょうか。あなたはどちらのグループがいいですか。もちろん怠けグループがいいとは思いますが、若い頃に働いて、老後に楽しくはどうですか。「先憂後楽」ということもあります。と言うことで「生物の多様性」の話もしました。このことが解るだけでも楽しくありませんか。要点2、動物を知ると「自分も解る」でした。
04.(補論)シマウマはなぜ家畜にならなかったのか
▼つぎは『銃・病原菌・鉄 一万三千年にわたる人類史の謎』(ジャレド・ダイアモンド、草思社)からです。▼動物の家畜化にも「アンナ・カレーニナの原則」がある。家畜化できている動物はどれも似たものだが、家畜化できていない動物はいずれもそれぞれに家畜化できないものである。これはトルストイ(帝政ロシアの小説家)の小説『アンナ・カレーニナ』の書き出しの部分「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」をなぞったものである。さて、いままでに人類が家畜化に成功した動物は大半がユーラシア産の動物で、シマウマやヘソイノシシなどの大型哺乳類は家畜化できそうで、できなかった。アフリカで野生のシマウマが家畜化されなかったのは、アフリカ先住民に原因があったのか、それとも野生のシマウマに原因にあったのかを考えてみましょう。▼由緒ある家畜14種のうち、大型草食哺乳類の家畜で、メジャーな5種は羊、山羊、牛、豚、馬。マイナーな9種はヒトコブラクダ、フタコブラクダ、ラマおよびアルパカ、ロバ、トナカイ、水牛、ヤク、バリ牛、ガヤルで、南米のラマとアルパカ以外は、ほとんどがユーラシア大陸です。▼ユーラシア大陸では野生の馬が家畜化されたのに、アフリカ大陸ではシマウマが家畜化されていない。ユーラシア大陸で家畜化されたメジャーな5種についていえば、サハラ砂漠以南では、これらの動物が伝わってくるや、さまざまな部族がそれらを家畜として飼育しはじめている。こうした事実は土着の哺乳類が家畜化されなかった原因が、その土地の人々の特性にあるのではなく、それらの地域に生息していた哺乳類の側にあることを示唆している。▼人類が動物を家畜化した年代は、考古学的証拠が見つかっているものについていえば、紀元前八千年から紀元前二千五百年頃に集中している。これは最終氷河期後に定住型の農耕牧畜社会が登場してから数千年内のことである。大型哺乳類は、まず羊、山羊、豚が家畜化され、紀元前二千五百年頃に最後にラクダが家畜化された。それ以降、大型哺乳類で家畜化された重要な動物はいない。家畜化可能と思われる148種の大型哺乳類がそのときまで何度となく試され、その結果、少数だけが実際に家畜化され、家畜化に適さない動物だけが残ってしまったからだと思われる。
▼(つづき)シマウマやその他の家畜化できそうで、できなかった動物について考察すると、つぎの六つの理由がある。▼①「餌の問題」。動物は餌として食べる動植物の一割しか血肉とならない。つまり一千ポンド(450キロ)の牛を育てるには一万ポンド(4.5トン)のトウモロコシが必要である。さらに体重一千ポンドの肉食動物を育てるには、十万ポンド(45トン)のトウモロコシで育てた草食動物が10頭(一万ポンド)必要になる。したがって大型肉食獣は家畜化には向いていない。経済効率が悪いですね。▼②「成長速度の問題」。草食性で、比較的何でも食べ、肉もたくさんとれるのに、ゴリラやゾウが家畜化されないのは、成長に時間がかかりすぎるからである。一人前の大きさになるまで15年も待たなくてはならない動物は飼育できない。▼③「繁殖上の問題」。例えばビクーニャはアンデスの野生のラクダで、その毛は動物の中では最も上質で軽く珍重されている。古代インカ人は、この野生のビクーニャを囲い込んで毛刈りした後は放していた。この動物の雄は別の雄と一緒にされることを嫌う。ビクーニャには年間を通じて、食料をとるナワバリと寝るナワバリとが別々でなければならないことから、繁殖させる試みは成功していない。また、シカやレイヨウの多くは、繁殖期になるとなわばりを主張し、他の個体が自分のなわばりに入ることを極端に嫌う。アフリカ大陸の動物として知られているレイヨウが家畜化されなかった理由はここにある。繁殖期になると群れから離れて自分のなわばりをつくり、雄同士で激しく戦うため、囲いの中で飼うことはできない。▼④「気性の問題」。気性が家畜化に向いていないのが、アフリカに生息している四種類のシマウマである。彼らを荷車につなぐことができたというのが、家畜化の試みにおいてもっとも成功した例である。しかし、シマウマは歳をとるにつれ、どうしようもなく気性が荒くなり危険になる。いったん人に噛みついたら絶対に離さないという不快な習性がある。また、シマウマを投げ縄で捕まえることは不可能に近い。投げ縄が飛んでくると、ひょいと頭を下げてよけてしまうのだ。つまりシマウマに鞍をつけることが無理なのである。南アフリカで熱心に試みられたシマウマの家畜化も、しだいに関心がうすれていった。最初は見込みがあると思われたワピチやエランドも、彼らが大型で危険な動物であり、いつ攻撃的な行動に出るのか予測がつかない動物だったことが影響している。▼⑤「パニックになりやすい性格の問題」。大型の草食性哺乳類は、捕食者や人間に対してそれぞれ異なる反応を示す。動きは素早いのだが、神経質でびくびくしていて、危険を感じるや一目散に駆けはじめるものもいれば、さほど神経質ではなく、動きものんびりしていて、危険を感じたら群れをつくり、それが去るまでじっとしているものもいる。シカやレイヨウの仲間の草食性哺乳類の大半は、トナカイを例外として前者のタイプであり、羊や山羊は後者のタイプである。神経質なタイプの動物の飼育はむずかしい。彼らは囲いの中に入れられるとパニック状態におちいり、ショック死してしまうか、逃げたい一心で死ぬまで柵に体当たりを繰り返す。▼⑥「序列性のある集団を形成しない問題」。実際に家畜化された大型哺乳類は、どの種類も次の三つの社会性を共有している。群れをつくって集団で暮らす。集団内の固体の序列がはっきりしている。群れごとのなわばりを持たず、複数の群れが生活環境を一部重複しながら共有している。シカやレイヨウのように群れをつくって暮らす動物の多くは、はっきりした序列を集団内で持っておらず、リーダーを本能的に刷り込み記憶する習性がない。したがって、人間を群れのリーダーとして刷り込み記憶するようなこともない。▼野生哺乳類のうち、ほんのわずかの動物だけがこうした問題をすべてクリアでき、家畜となって人間といい関係を持つにいたったのである。トルストイは、マタイの福音書二十二章十四節の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉を引いているようですが、そういうことです。
05.(補論)動物たちの自己治療
▼つぎは、「動物たちは植物を食べて自己治療している」話です。食事療法ですね。『動物たちの自然健康法』(シンディ・エンジェル、羽田節子訳・紀伊国屋書店)から引きます。▼動物は生きていくのに必要な化学物質をつくれないので、植物に依存することになる。緑色植物は日光、大気、土壌中の水から、炭水化物、タンパク質、脂質、ホルモン、ビタミン、酵素など、成長や傷の治癒、繁殖に必要なものをつくりだす。この薬理のはたらきのほかに、草食の動物などの捕食から身を守るための毒性もつくる。▼キリンがアカシアを食べると揮発性の物質を発散する。近隣のアカシアはそれを感知し、自分の葉にも渋いタンニンを送りこむ。味がまずくなると、キリンは次を探して遠く移動する。植物は保身のため、さまざまな化学物質をつくる。リンゴの場合だと153種類の化学物質を含み、そのうち67種類に薬効が認められている。▼次は、タンザニアのセレンゲティ平原の話。子連れのヌーの群れは、土や植物にふくまれるミネラルをもとめて、北部から南部の平原に移動し、火山の麓に育つ草を食べる。この火山灰地には、乳の分泌に欠かせないカルシウムと燐酸が豊富。▼さて、ナトリウムはあらゆる陸生動物にとって貴重である。これは尿や汗として失われるので、たえず補充しなくてはならない。それは人間にとっても重要で、ローマの兵士は給料を塩で支払われていた。「サラリー」はラテン語の塩を指す「サラリウム」。草食動物は塩への渇望が強く、それを手に入れるためなら死の危険をもいとわない。猟師たちは獲物をおびきだすために塩の塊を利用してきた。▼動物の食餌は、そのときの気分で選んでいるのだが、自然淘汰は、それなりの感覚を養ってきた。つまり、エネルギー豊かな食物であることをうかがわせる甘い味を好み、毒性を感じさせる苦い味を嫌い、大事なミネラルであるナトリウムの存在をほのめかす塩味をおいしく感じる動物が生き残ってきた。▼動物は動物にではなく、植物に依存してきたことを、つい忘れてしまう。
▼つぎは、「土を食べて毒を消す動物たち」の話です。▼ネコが草を食べ嘔吐するのは知られている。動物が毒を処理するもう一つの方法が、「土食」である。これは草食動物に多くみられる。植物の二次化合物の解毒や、新陳代謝でナトリウムを失うため、ナトリウムをふくむ土を食べて補充する。粘土は昔から料理でも伝統薬でも、解毒作用のある材料として使われてきた。古代文明でも現代でも、粘土は毒を含む食物にまぜて食べてきたし、アメリカ先住民は、昔からタンニンたっぷりのドングリに粘土をまぜてパン用の粉をつくってきた。▼タンザニアの野生チンパンジーは、シロアリの蟻塚の土を口に放り込むし、崖面や河岸にあらわれた下層の土をすくいとるが、キリン、ゾウ、サル、サイなども同じように利用している。これは薬剤師が人間の胃腸障害用に買いつける粘土と同じ種類である。ただし、表土は寄生虫の卵、有害なバクテリア、重金属などで汚染されているので、古い下層土の方が、有害物質がすくない。いろいろな動物が利用する蟻塚の土は、シロアリが地表にもちあげた下層土である。主成分はカオリンで、胃腸障害の特効薬でもある。▼野生動物は、山火事や落雷のあとの、こげた炭に集まる。ミツバチまで焼け跡に群がる。これも消化器の障害を直すためのものらしい。「炭食」は、アメリカ先住民が炭を砕いて水に混ぜて飲んだり、先史時代のネアンデルタール人も炭を食べていたことが、糞の化石からわかっている。かたや家畜や動物園動物には土を与えることはめったにないから、慢性胃腸炎になりやすい。▼人間の私たちも、嘔吐と下痢という中毒にたいする効果的な反応を、投薬によって抑えない方がいいのかもしれない。それに、炭のドリンクや粘土の錠剤、ミネラルウォーターを、自然からの薬としていただくのは、人間も動物も同じ。ともかく、世界中の救急箱に粘土の錠剤を備えることは容易である。
▼つぎは、動物たちが病気になった場合の話です。▼病気になった動物は奥まったところに引っ込み、回復するまで断食する。人の場合でも、伝統医学の薬草医は、絶食は病気に対する自然な、意味のある反応だと考える。感染した身体は、病原菌が必要とする鉄分を減らそうとする。それが断食である。だから病気の動物や患者にむりやり食べさせることは逆効果であり、病気を長引かせることになる。▼動物は痛みを隠す。ウマは激しい痛みにみまわれても、ほんのちょっと姿勢を変えることでしか苦痛をあらわさない。鼻にちょっと皺をよせるか、まぶたを下げるだけである。負傷したキツネは鳴き声をあげることもなく、追手のハンターから逃げつづける。歯に痛い膿瘍ができたイヌもやはりじっとしたままである。このように痛みを表に出さないため、私たちは痛みを感じていないと受け取りやすい。しかし怪我をしたり病気をしたりした動物は、捕食者に気づかれないようにそれを隠す。生き延びるためには、元気であるだけでなく、元気そうに見えなくてはならない。飼われている動物でも、合併症で死ぬまで飼育係や獣医に気づかれないほどうまく隠し通すことがよくある。鳥は傷を隠すのがとりわけ巧妙で、前触れもなく死んでいるのに、飼育係がびっくりすることが多い。▼唾液の効能。イヌが熱心に傷口をなめると、その傷口は清潔になり細菌感染がおこらないことが知られている。イヌの唾液にはブドウ球菌、大腸菌、連鎖球菌などの細菌を殺すことのできる抗菌物質が含まれている。▼ということで、哺乳類の唾液はもっとも身近な消毒剤となる。ベロベロ薬です。
▼つぎは、ゾウの話です。▼アフリカやアジアのゾウたちは、傷口に泥をのせたり、自分の背中に泥を吹きかけたりして、傷口の殺菌をしている。動物たちは、病気の仲間の世話をするが、とりわけ看護上手なのはゾウである。ゾウたちはお互いに刺さっている槍や矢を抜きあい、立ち上がるのを手伝い、密猟者の急襲にあうとお互いに救助しあうことすらある。▼砂浴びは、鳥がよくやる。砂地にうずくまって羽毛と皮膚に土砂をふりいれて砂浴びをする。砂は余分な羽毛の脂肪をぬぐい、皮膚の表面を乾かして、細菌がすみにくい状態にする。土の粒子は、寄生虫の外骨格を壊す。哺乳類のなかでも、ゾウは砂浴びが大好きである。▼動物は独りになって死ぬといわれる。自分の運命を知っているのかも知れません。ネコの飼い主は、愛猫が知らぬ間に姿を消し、屍体を遺さないので弔ってやることもできないと嘆く。死を目前にしたゾウの場合は、群れからはなれてゾウの墓場に行くという説が主流です。しかし、長年野外研究がされてきたにもかかわらず、ゾウの墓場に行くところを見た者はいない。ただ、アフリカの平原の一か所にたくさんのゾウの骨が散らばっていたり、積み重なっているところがある。そこは、木陰や水が近くにあって柔らかく消化のいい植物が生えた場所である。これがほんとうなら、ゾウはいわゆる墓場に、死ぬためではなく生きようとして行くことになります。▼ゾウはゾウの死骸を見かけたら埋葬する。枝や砂をかける。それは、ハエがむらがり感染症をひろげないためといわれる。人間の目からは、弔いの行為にみえますが、それにつけてても、ゾウの生涯に自分を重ねてみたくなりませんか。
▼つぎは、「私たち人類は何を食べてきたか」という話です。▼旧石器時代の人たちは、野生のチンパンジーやゴリラと同じようなものを食べていた。新鮮な果物と水、種子、葉、昆虫、脂肪の少ない野生動物の肉などである。1年間100種類から300種類を食べていたと推定される。現代では健康を意識している人であっても、20殻あるいは30種類以上の植物を食べる人はいないだろう。多様な植物の摂取からは、ビタミンやミネラルだけでなく、予防薬や治療薬のもととなる植物性二次化合物を得ることができる。私たちの体は数百万年にわたって、アフリカの平原で小さな群れをつくって狩猟採取生活をするようにつくられてきた。私たちの遺伝子も、狩猟採取時代の食事をベースに進化してきた。進化と適応は続いているが、狩猟採取民で少なくとも10万世代、農業に依存するようになってからは500世代で、産業革命後は10世代にすぎず、調理済みのファーストフードで育ったのは2世代。もしかすると私たちの体はこの急激な変化に適応してないのではないか。現代病の多くは、私たちの体が進化しきれず、現代の食事および環境との落差から生じているとも言えます。▼今日の栽培作物は、世界の食物の75%がわずか12種と、少ない品目になってしまった。くわえて工業製品ともいわれる加工食物は、栄養価でも薬効面でも質が落ちて、エネルギーとタンパク質しか得られない。▼アフリカのマサイ族は、唯一のタンパク源として牛や山羊の肉を食べ、その血液とミルクを飲んでいるが、西欧人より心臓病が少ない。それには訳がある。動物性食品を摂るときにはかならず苦い抗酸化性の薬草をまぜる。肉のスープには28種類、ミルクには12種類もの薬草をくわえる。マサイ族は、酸化化合物と抗酸化化合物をバランスよく摂取しているのです。▼野生動物たちは、何百万年にもわたる自然淘汰のすえに、健康維持の仕方を身につけてきたということと同じく、私たちもいろんな野草(野菜)を欲しているはずです。野菜・薬草の一坪畑をつくるのもいいでしょう。お互いに交換すれば種類が増えます。
06.学び遊ぶ・図書館
▼次の停車駅は図書館です。皆さん、図書館はどうも足が向かない。と感じていませんか? あの教訓師・相田みつお(よくトイレの暦に掛っている)言っていますよ。本心、本気、本腰、本物、本願、本の字のつくものはいい。さて、その本のことなら図書館です。帯広市図書館の場合、本のコレクションは40万冊。いまは十勝圏の130万冊がネット化され動いています。大学図書館で50万冊あればかなり充実していると言われますから、それと比較しても遜色ありません。ただ、各町村の本の傾向が似ていて、差し引くと実質ダウンします。でも、もし町村で集める本を分担していくことが出来ればということで、広域図書館ネットワークへの期待が高まっています。▼さて、図書館には一般図書以外にも、自宅の書斎では収納しきれない美術本、写真集、絵本などの変形・大型・重量本も備えられています。蔵書構成は文芸が圧倒し、社会科学、芸術、自然科学と続きますが、各分野の基本図書といいますか、基本になる人達の本を揃えないと、一人前の図書館とはいえません。哲学・歴史・社会科学・自然科学・産業・芸術・語学・文学、それに今だと、環境や町づくりの分野も大事ですね。それぞれの分野の基本図書で五万冊位づつ揃えることが、ライブラリー・ミニマムと踏んでいます。それだけあればまず、第一次資料としては耐えられます。それも地域の皆で選んだらいいですね。選書の目を養うんです。選び取るという作業が、情報蓄積にもつながりますから、一挙両得です。
▼さて、図書館を支えている人達は、「司書」という本を扱うプロたちです。40万冊の本の整理や新しい本の購入、子どもの宿題の問合せ、おばあちゃんの話し相手としてのコミュニケーション(予め知っていることを問合せている人もいる)、道立・国立図書館への照会、レファレンスの対応など、日常業務は多岐にわたり、多忙を極めています。しかし、動物園のように、ちょっと図々しく尋ねてみよう。この本はどこにある、こんな本を読みたい、こんなテーマに関する資料はないか。経験を積んでいますから、大体の見当はつきます。これはあの図書館、これはあの大学、この研究所とかね。だから、調べるときのフレンドとして付き合ってもらったいい。海外資料だって時間をかければ可能です。小さくたたけば小さく響き、大きくたたけば大きく響く「西郷隆盛」のような人達です。司書は優しいお姉さん方がほとんどですが、西郷さんのような体形ということではありませんからね、誤解しないで下さい。あっ、それに、皆さんは一方ではインターネットで調べる方法はもう日常ですよね。これはいろんな補足情報がとれるので、ハードコピーせず、CD‐ROMなどに貯めておき、テーマが終わるまで使うといいですね。こちらのパソコン利用も今となっては大事な道具です。
▼ところで、皆さんは自分で本を買って読みますか? 本屋さんにも図書館にも欲しい本がないことが多いですね。本屋さんに言わせると、店頭陳列期間は三か月で、代理店が主導権を握り書店の自由にはならない。注文しても元締めの代理店から「版元品切れ再版予定不明」と回答があっても、実際には出版社の倉庫に死蔵されていることが珍しくないと言われています。かたや本を書く立場の側からは、林望が文藝春秋01年12月号で「図書館は無料貸本屋か」と問うている。図書館で借りたり、知人から借覧した書物のことは、もうみな忘れてしまった。そんなものなのだ。一夕ビールを呷るなら「本は買って読め」です。書斎派は図書館を頼りにしていませんね。▼ただ、林望はこうも言っている。図書館は同じ流行本を何冊も何十冊も所蔵するものではない。娯楽本は自分で買って読むというのが当たり前。図書館は次第に無料貸本屋の様相だとしたら、館員は納税者たる市民に顔向けできるのだろうか。ですから重複本を制限し別の本を揃え、どんな要望にでも応えられる多面的重層的な蔵書とすべき。全国の公共図書館二千六百館が地道な良書を選書するとしたら、それだけで二千六百部の有効需要が生まれ、流行本の陰で書店からすぐ姿を消す小部数発行本が救われる。図書館が、出版界の衰退を助長し、良書の普及を妨げ、著作権の無料使用をさせているだけの「タダ読み館」だとしたら、これは何とかしなければなりません。図書館にも大きな課題が横たわっています。
▼最後は、図書館のもう一つの顔である「郷土資料室」の話です。少しだけ、地域の歴史を勉強しましょう。1800年伊能忠敬がトカチ沿海を測量調査。1891(明治24)年、十勝最初の地域計画である殖民区画を設定。1893(明治26)年、帯広最初の都市計画である市街地区画を設定。▼この都市設計の特徴は、斜めに幅12間の火防線という防火道路が設けられていること、また斜路の交差地に数ヵ所の広場を設けており、これは他の都市に類例がない。単調な都市形態と景観をうちやぶる設計となっている。またこの斜路と広場の組合せデザインは、大正時代に鉄道の南市街地へ継承されている。1944(昭和19)年には全市の街路網が都市計画決定される。これが帯広の近代都市計画としての最初のプランである。札幌のような公園系統の考えはなく、19世紀の古典的な都市計画の再現といってよい。戦争末期にこのような都市計画が実際に決定されていた事実は驚きます。これは図書館が所蔵していた古い地図から判明したことです。この土地での出来ごとを集めていますから、文芸はもとより、写真、新聞、年鑑、出版物、社史などが、本棚にびっしりとあり、地域の歴史を知ることも出来るし、地域の歩みの広がりやその厚みに、驚くはずです。地域の大事な資料を保管するも図書館の存在理由の一つという話でした。要点3、「調べで困ったら図書館」です。
▼ところで、調べる時は、発想をいくつも持ちながら、やることが良いようです。3+5=8だと答えは一つ。8がどんな数字の組み合わせかというと、それは答えが多様ですね。組合せをあれこれと考えるのが、調べ方のコツだと常々思います。
07.学び遊ぶ・博物館
▼さて次は、博物館です。博物館は生きていない死んだ展示資料の館と思っていませんか。でもそれは現代に生き延びた資料たちなのです。帯広百年記念館のコレクションは、40万点です。考古38万点、美術450点、植物動物15000点、生活4000点で、いま盛んにパソコンにデータを入力しています。この博物館を支えているのは、学芸員です。考古・民俗・歴史・アイヌ文化・生活民具・生物などの専門の担当者がいます。その他に市民ボランティアがいますから、裾野は人材の分だけ限りなく広いことになります。▼ここでも、調べるためには「学芸員」との付き合い方を知っておいた方がいいでしょう。何でも訊ねれば徹底して調べ対応する人達が学芸員です。博物館の展示室では、ボタンを押しまくり、解説の紙を集める人も多いです。でも理解がその場限りで、わかったような気にはなるのですが、一つもの足りませんよね。その時こそ、博物館の人に聞くのがコツ。電話・ファックス・メールだっていいのです。直接訪問なら、徹底して時間を惜しまず付き合ってくれます。展示はホンの一部で奥にたくさんの資料があり、もしかしたら、見せてもらえるかも知れません。ハンズオンもできるかも知れません。
▼これからの帯広百年記念館は、百年に拘らない「十勝二万年館」のような内容と名称に変わる時期が来るでしょう。これからの記念館の魅力はなんといっても人です。研究も館内外の活動も広報もこなすサービス力のある人材が求められます。記念館の主な五分野は、民族歴史、考古、動植物、民俗生活、美術で、それを学芸員と市民ボランティアとの協力で増幅させています。さらに五分野のデータを集めた「歴史情報館」や市民参加の「五分野地域講座」をより広げ深め、一方では図書館・大学などとのネットワークづくりをしながら、地域のもう一つの学校としての役割を果たすことも大事な課題です。
▼さて、十勝の歴史をさらっと知っておきましょう。北海道は考古学から見ても、縄文・続縄文・擦文・アイヌという2万年の狩猟時代のみで、日本史で大きく扱われる弥生や中世はまったくない歴史特性を持ちます。しかも北海道は、明治以降に本州からの新住民が集まり、日本の伝統様式に無頓着な形で、一世紀の間に一気に地域形成をした。その意味で、この地域は本州(日本)の歴史の発展段階を踏まず「超加速社会」であった。文化・産業面でも隙間だらけの無頓着文化産業といえる。経済的にはもう親というべき国からの仕送りは細ってきましたから、一人立ちのグランド・デザインを描いておかなければならない。公共事業優先の20世紀だったので、公共の地域装備はかなり進みましたが、なんといっても個人装備は充実していない。アメリカ社会は五人に一人はクラフトマンであるといいます。家一軒を作ってしまう。この地域は人口集積からしてもアラスカの人口希薄地帯でありますから、一人一芸を超えて一人が二役も三役もこなさなければ多様な社会は作れません。そのためにはバレーセクション(地形・地理に沿った形での生活・生産形態を見直す~イギリスの社会学者ゲデス提唱)でのコミュニティ・プロダクツを創り出すことが大事とおもわれます。一村一品どころか一村多品、一人多芸をめざす。そこに都市と農村の、つまり北海道・十勝の百年のフロンティアと二万年の狩猟時代を結びつける歴史的課題と展望があります。そのためには、「野生、自立、連携」がこれからの人達にとって必要な資質となります。
▼百年目を迎えた十勝の開拓者たちは、次のような特徴を持っていると言われます。第一に、自然環境が豊かなこともあって、「野性的」である。大きな筏を作って川下りを楽しむ。凍った湖の上に氷の家を作って住む。そういう野性的な遊びを次々考え出している。第二に、十勝の開拓を始めた人たちが福沢諭吉の門下生だったこともあって、独立自尊、あるいは「自立」の気風が強い。気持ちだけそうなのではなく、自分の手足を使って何でもやってしまう実学派の独立人である。岩波文庫の「フランクリン自伝」で知られるベンジャミン・フランクリンのような人間だと考えてよい。第三に、歴史の浅い開拓地だけに一人で出来ることには限りがあるので、「連係」プレイがうまい。このように「野生・自立・連携」という三つ気質が、十勝の開拓者たちから受け継いでいるものである。これは21世紀の十勝人にも日本人にも必要な性質でしょう。
▼何かを探したいなら、地域の宝物探しでも、自分探しでも、何かを感じたくなったら、博物館に足を運んでみて下さい。2万年の歴史巡ると、必ず得る物がありますから、それを大事にして自分の中に育てることです。要点4、「地域を知り、地域を創る」です。
08.もう一つの学校
さて、一通り、動物園・図書館・博物館の三つの駅に各駅停車してきました。学習社会はスクールを出発点としますが、ギリシア語のスコーレに相当し、余暇までの広い意味を含みます。この学習社会メニューとしては、他に美術やスポーツの分野がありますが、今回は割愛です。さて、今までの話で10万時間を過ごすヒントはありましたか? 新聞にも一面の広告で百項目はあるかと思われるカルチャー講座がありますね。あれも一つの手がかりです。ですから民間カルチャー講座とは違い、「地域文化のストック」を考えているのがこの三つの公共の文化施設なのです。皆さんの自由なテーマを持ち込んで、付き合ってくれるのは、これらの施設しかありません。だから市民が拠り所とし、また市民を大事にする理由がここにあります。皆さんが旅で、どの町に行っても、どこの国に行っても、地域を語る施設として案内されるのは、この三つのミュージアムです。他の地域と比較する。この比較文化こそ、独りよがりでない自分の位置を確かめる作業になります。もう一つの学校の役割を理解していただけましたか。ガッテンですか。簡単に言えば動物の学校、本の学校、歴史の学校、人生を楽しむための学校の充実です。市民文化が盛んなところは、外れなくこれらの施設も充実しています。国内でも外国でも、旅の後は皆そう言います。
▼さて、三つの施設の特徴をもう一度比較しておきましょう。何かの参考になるかもしれません。
区分
Education教育
Study研究
Enjoy楽しみ
備考
動物園
△
×
○
飼育技術員
博物館
△
○
×
学芸員
図書館
△
△
△
司書
▼これらの文化施設は、皆さんの「調べる、発見する、深め拡大する」などをお手伝いしますが、これらの施設の専門家は、情報提供好きというか、いわゆる説明好きの人が多いので、情報を受信する人は一時的満足に陥りやすいとも言えます。ですから、自分で更に踏み込んで探検というか、そういったワールドに入り込まないと楽しくならないことを付け加えておきます。そして、何か一つを徹底して調べる、まとめる、発表するのもいいですね。手段としてはHPに載せるのもいいですね。一つ始めると、いろんな話が舞い込み、励みになります。始めさえすれば上手く循環する法則がありそうです。生物の多様性を学び、さまざな書物で調べ、地域の歴史遺産から学び、発信するのは楽しい作業となるはずです。
《ちょっぴり歴史1》
▼それでは、ここで皆さんが今まで学校で何度も学習してきた、歴史と現在の問題整理に付き合って下さい。このことを共通にしておくと、いろんな人や出来事との認識のズレ少なくなります。▼まずは、日本列島一万年史を一分で語ると、こうなります。字数は3百字くらいです。一万年前に溯ると、日本人はこの国土で縄文という山岳地帯を中心にした焼畑農業で高い文化水準をもっていた。それが三千年前ぐらいから稲作技術の弥生文化が入ってきて、生活のスタイルや考え方も変化し、日本人に同化してきた。さらに三世紀から十世紀(平安時代)ぐらいまで、中国とか朝鮮半島の文化を取り入れて科学技術を伴って日本の生活が変わってきた。十世紀は、外国からの交流を断ち切って日本独自の文化をつくり、十六世紀(室町時代)になると国際的な交流や国内の激しい開発があって、激動の歴史であった。江戸になると、今度は日本文化を独自に育て、停滞していると言われるけれども、その地域なりの文化をつくる時代が来た。まちづくりは江戸時代にも当然あった。その後、明治以降はドイツの制度とイギリス・アメリカの科学技術と商業を中心とするスタイルが日本に入ってきて、日本が変わっていくと言う具合です。
《ちょっぴり歴史2》
▼さて、この日本列島一万年後の尻尾の一世紀に注目したいのです。20世紀の変化です。この1世紀で人口が3倍、都市人口が10倍。20世紀には極東の島国だった国が世界の10%経済を維持する国にのし上がった。戦争も沢山あった。日清・日露に始まり最後には原爆まで落ちてしまうという1世紀は、日本の歴史に二度とないだろう。20世紀初頭に75%を占めていた第1次産業は20世紀末には7.5%以下になる。聖徳太子が律令国家をつくって以来、20世紀まで70~80%を維持してきた1次産業が突然7.5%になるということは容易ならざること。子供の産み方も20世紀初頭9~10人だったのが、20世紀末は0~1人。20世紀初頭に42歳だった平均寿命が20世紀末には80歳になる。1世紀間に寿命が2倍になることも脅威。前世紀には金持ちや権力者の子供くらいしか中等教育を受けなかったのが、今ではほぼ全員が高等学校にいき、大学にも40%近くが行く。江戸は2百万人だったのが、千葉・埼玉・神奈川を含めた首都圏は2千5百万人の機関車となり日本を引っ張ってきた。20世紀初頭の横浜・神戸は漁村であり、札幌は人の住めるところではなかった。これを線で表すと、横の時間軸、縦に社会変化をとると、グラフが右端だけ垂直に立ち上がるほど、激しい世紀でした。
《ちょっぴり歴史3》
▼その今の日本と言えば、ほんとに「何もかも」、右を向いても左を向いても何もいいことはない。しかし、天を仰げば月が照り、地には虫が鳴き紅葉が燃える。四季のある島国は台風の通路になったり、崖が崩れたり、雨が雪がと大変だ。季節の移りのたびにカゼも流行る。しかし日本人はこの国の自然をこよなく愛してきた。鎖国を解いてからは諸外国の文化をどっと取り入れて、それを日本流に器用にこなして独自の文化を築き、優れた人材も輩出してきた。政治の愚や侵略戦争の過ちも犯したが、とにかくここ半世紀は戦争がない。何もいいことが無いが、いい国だ。という人もいますが、あなたはどう思いますか? ここをこれからどう考えるかなのです。「これまで」の歴史と「これから」の可能性のために、あえて話しました。
09.自由時間の三種目
▼さあて、終着駅です。その前に、忘れないうちに言っておきたいことは、人から学ぶ時の、大事な約束事があります。相手の話を「ふむふむ、なるほど、それで、それから」と続けて、相手を倒さずに続けることです。これは、なだいなだ氏(医師・小説家)から教わった『絡み学入門』(角川書店)の極意です。使ってみて下さい。それにもう一つあります。それは「動かない」ことです。じっとしていると相手や事柄が向こうから語ってくれます。鳥などのウォッチングでもこちらが動いてはだめです。相手が動くまで待つのです。でも焦れて遂にこちらが先に動いてしまいますね。これは歳を取らないと難しいかもしれませんから、人生の後半にでも試して下さい。
▼これからは、学校教育に頼らず、「自分で」ですよ、自分の経験から学び、状況にポジティブに対処していくことのできる人間でないと、まずい訳です。実践的で実務的な学び方は画一的な「横並び教育」では身につきません。世間に通用するレベルかどうかは、成長のステップ毎に他人の目によるアセスメントが必要です。これが「発表」です。世に問うということです。「発表なくして成長なし」です。方法は先ほどのHPもありますが、仲間同士の伝え合いもありますし、レポートで認めておく方法、もっとグループ志向したければ、研究会、同好会などを作る手もあります。▼そこまでしなくても、私やあなた方がいきなりプロの領域を目指さなくとも、先ずは趣味とか素人の領域でもいいと思います。とりあえず、気に入ったことを楽しんだ後、他の分野に進んでも、それは選択段階ですからいい訳です。ただ、このことは覚えておきたいことです。三つ子の魂百までなどと言いますが、たとえば前の国連難民高等弁務官であのアフガンで活躍している当時75歳を過ぎた緒方貞子先生がいましたね(今はもう八十何歳でしょうか)。彼女のテニス歴は半世紀以上にわたるが、いまでも激務のあいだに時間を見つけてはテニスをなさっていたそうです。たまには緒方杯というテニス大会をしますが、いつも優勝してしまうのは緒方先生という事です。幼少のときに叩き込まれた基本は一生もの、なのですね。だから子どもの頃なら、一番いいのですが、でなければ、それぞれの段階で自分に光るものが見つかったときには、しっかりとそれを磨くことです。いつから始めても10万時間は約束されている訳ですから楽観して下さい。上手ければ上手いほど面白くなるのが「学び」であり、広い意味での「遊び」です。おもしろく遊ぶことができれば、人生も自動的に楽しくなり、周りの人たちも集まってきます。
▼次は、「発信なくして受信なし」の話です。情報はギブアンドテイクです。仲間や友達関係も同じですね。メールだって出さなきゃ返事はありません。送信機がこわれた受信機だけの人間では、いい話やいい事が舞い込んできません。しかも個性を持たない人は国際社会では尊敬されないのです。多くの日本人には意外と思われていますが、世界では、度胸、愛嬌、機転、馬力といった性格と、表現力がものをいうようです。また、横並びの心理ではなく、他と意見や行動を異にしても気にしない習慣を身につけたいですね。私は歳のせいか、どうせ人間、有能か無能かなんて紙一重、この世で決定的な差は上機嫌の人か不機嫌な人か、だけではないかと、いう気のすることがよくあります。欠点があっても一つ目玉商品がある人の方が伸びやすいこともある。友達選びでも、良い所悪い所の差引きで、プラスならいい友達として付合っていいのではなかと思います。
▼さて、もしも話ですが、私がもう一度人生を繰り返せるならと仮定したら、三つしたいと思うことがあります。「語学」を一つ完全にものにしておく、何か一つの「スポーツ」で卓越する、「楽器」を一つマスターしますね。語学とスポーツと音楽に秀でていると、どんな職業につき、どんな所で暮らしていても「得意淡然、失意泰然」という心境になれるような気がします。調子のいい時はあっさりとした気分で、落ち込んでる時は動じないということです。これは、松山幸雄『勉縮のすすめ』(朝日文庫)で読めます。
▼要は、自分を知り、住んでいる地域も知る。自分をデザインし、住んでいる地域もデザインする。この基本形ができればいい訳です。何はともあれ気に入ったことを仕事の合間や勉強の合間にやってみる。やってみたい事であっても、面白くなかったら、それは止める、才能がなかったのです。面白く感じれば伸びます、伸びれば面白くなるのが、遊びと同じ意味で学びと言うことだと思います。私もあなた方も、人生24時間の連続です。「24時間の中で出来ないことは一生かかっても出来る訳がありません」。ということで、要点5、1日24時間の中でやる。これが最後のまとめです。
今日は、これで終わります。「町を使おう」というテーマでした。
10.資料編
▼写真資料/ライオン、シマウマ、梟、象、カバ、猫、山羊、孔雀、フラミンゴ、キリン、ラクダ、蝶、蟻の13点。
▼書籍資料/ルナール『博物誌』、奥本大三郎『開高健の博物誌』、竹田津実『食べられるシマウマの正義、食べるライオンの正義』。
▼AV資料/『声で聞く野鳥図鑑』(フクロウとコノハズクの鳴き比べ)。
2010年3月16日火曜日
2010年3月13日土曜日
市民が変わる (MA-5)
05.市民が変わる
内容
1.三億人の先住民族... 1
2.アイヌ民族を知ろう... 2
3.国際化と市民... 3
2.高齢化社会と市民... 6
3.地域社会と市民... 7
4.地域経済と市民(第四講再掲)... 9
5.町づくり人・故Yさん... 11
6.町づくり人・故Kさん... 12
7.町づくり人・Sさん... 14
8.町づくり人・Mさん... 15
9.資料編... 17
▼今回は、町づくりにおいて市民はどういう風になっていけばいいのか、「これからの市民」を考えてみます。とくに国際化、高齢化、地域社会、地域経済といった四つの視点でとらえてみます。それと後半には、これまでどのような人々がこの町づくりに関わってきたかのかを、四人の方を紹介しながら考えてみます。
1.三億人の先住民族
▼まず、国際化と市民の視点ですが、その前に「国際化と結びつく先住民」の話をしておきます。地球上の先住民族は70カ国に合計3億人いて、いま絶滅の危機の瀕している民族がアフリカの森林にすむ狩猟民など50近くあるとみられています。いま地球規模で彼らを大事にしなければという時代になってきたわけですが、どうしてだと思いますか。世界がかれらを必要としだしたからです。いま歴史のパラドックスといわれる現象が起きつつあります。地球環境の危機に対する認識が、かつて先住民族に勝つために使われた技術文明の行き詰まりとして理解され、そこで先住民の知恵を新しい世界観のための精神的・象徴的な支柱にせざるをえなくなりつつある、ということですね。
▼では、先住民はどんな知恵をもっているのでしょうか。日本での先住民としてはアイヌの人たちがいますね。アイヌとは「人間」を意味しますが、それは彼らに親しいクマなどの動物など、それに神々も含めた万物が等しく生きていて、彼らの精神世界の中で自分たちを相対化して「人間」と呼びました。また、もともと「生肉を食べる人」を意味した北米のエスキモーという民族は、最近はイヌイットと呼ばれていますが、彼らも「人々」の意味なんだそうです。たぶんアイヌの人と同じ世界観をもっているのでしょう。自然界で人間だけを特別扱いしない、人間だけに特権を与えない世界観・宇宙観だと言ってよいでしょう。それが先住民族の核心です。▼ですから、狩猟で確保した動物は神の世界から頂いたもので、それにお土産をつけてお返するのが、イヨマンテというわけです。(※資料「アイヌ文化の基礎知識」に詳しい)。▼米国のインディアン(今はネイティヴ・アメリカン)、カナダのハイダ族、南米のアンデス高原のインディオ、オーストラリアのアボリジニ、中国の少数民族(中国の場合少数民族といってもチベット族だけで500万人)の自然観も多分同じでしょう。調べてみようと思っています。
▼ここでは、池澤夏樹『パレオマニア』からカナダのハイダ族の話だけ引用しておきます。▼文化は人が住むすべてのところにあるが、文明は都会を中心に集権的に分布する。中央の文明が地方の文化を押さえ込む。カナダ先住民のポトラッチを禁止し、アイヌの人々に鮭漁を禁止した。男は大英博物館を基点とする旅でいくつもの滅びた文明を見てきた。文明は滅びれば遺跡しか残さないが、文化はその土地の環境に合わせてしなやかに変わり、それによって生きる人々と共に生き延びる。バンクーバー・アイランドの海では、遠大な生命の連鎖が見えた。氷の海から植物プランクトンが湧き、それを食べる動物プランクトンが増え、オキアミ、ニシンあるいはサケあるいはハリバットあるいはタラがそれを食って、その上にカワウソやトドやウミスズメやクジラやヒトがいる。そういう自然の恵みを表現したいという意図が、最終的にトーテムポールを作り出した。人は自然から文化を紡ぐ。
2.アイヌ民族を知ろう
『アイヌ文化の基礎知識』(アイヌ民族博物館監修・草風館)から。▼ことば~身近なアイヌ語には、ラッコ、トナカイ(樺太アイヌ語)、シシャモ(柳の葉の意)など。北海道の地名に名残がある。▼日本史に登場~神武天皇やヤマトタケルの記事は伝説だが、『古事記』『日本書紀』が書かれた8世紀初めころの蝦夷(えみし)に対するシサム(和人)認識からみて、少なくともこの頃にアイヌの人々の存在が日本史に登場とみていい。▼シサム(和人)との戦い~1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起。▼アイヌ文化の起源~北海道では0世紀頃に続縄文文化、7世紀に擦文文化、平行して5世紀にオホーツク文化、14世紀にアイヌ文化が成立。▼狩猟の知恵~クマ猟では冬ごもりをねらう。穴を丸太で塞ぎ、トリカブトの毒矢でしとめる。シカ猟では鹿笛でおびき寄せたり、崖から追い落として捕まえる。サケ猟は道具(マレク:突き鉤)かカゴの仕掛けでとる。▼装う~獣皮衣はクマ・シカ・アザラシ・ラッコなどを利用。樹皮衣(アツトウシ)はオヒョウ・ハルニレで、幹の皮を下からはぎ上げ、流水でさらし、天日に干してから、糸に紡ぐ。木綿衣は本州との交易で手に入れた木綿の古裂でつくるが、四種類のアイヌ文様がうつくしい。▼食べる~シカなど獣類、カモなど鳥類、アザラシなど海獣類、ニシンなど魚類、サケ・マスなど川魚と、ギョウジャニンニクなど山菜、ヒエ・アワ・イナキビなど栽培作物などの食料があった。毎日の食べ物では「オハウ」が一般的。ギョウジャニンニクなどの山菜やイモ・ダイコンなどの野菜、鳥獣肉や魚肉を鍋で煮て塩や獣・魚油を入れて味付けした鍋物。家の外の高床式保存庫には、2・3年分の保存食が常備されていた。保存方法は炉の煙り干しによって乾燥させていた。▼住まう~チセは寄棟造りで、柱は腐りにくいハシドイ・カシワを使い、壁や屋根はカヤ・ヨシ・ササで葺いていた。コタン(集落)の人たちが総出で建てる。▼チセの暮らし・シキタリ~狩猟は男、家事・栽培は女の役割。チセでは男は猟具の手入れやイナウなど信仰用具つくり、女は着物・茣蓙つくりや食事の支度、子供たちは水汲みや子守などの手伝いをしていた。チセは三つの座がある。入り口から炉に向かい左がシソ(右座)、右がハリキソ(左座)、正面奥がロルンソ(上座)。シソは上手が主人、下手が主婦の座。ハリキソは子供、来訪者の座。ロルンソは神々の通り道で神聖な場所。徳人でなければ座ることができなかった。▼信仰~アイヌの人々にとって、人間のまわりに存在する多くの事象にはすべて「魂」が宿っているものと考えられている。ですから動物や植物などは、天上の神の国からある使命を担って舞い降りてきて、この地上に住んでいると考えられた。▼カムイノミ~豊かな自然のいたるところに、それぞれこの世でつとめを担った神々に感謝し、その庇護と生活の糧を得るために、イナウ(木幣)やサケ(酒)、ハル(食料)を捧げながら神に祈ることをカムイノミ(神への祈り)という。▼祈り用具~祈るとき、人間は立てられたイナウ(木幣、ヤナギをマキリ/小刀で薄く削る)に対し、左手で酒の入ったトウキ(杯)をもち、右手でイクパスイ(酒捧箆、彫刻を施す)をもち、この先に酒をつけ、それをイナウに軽く触れるようにつけながら祈り言葉を唱える。そうすると人間の言葉はイクパスイに伝わり、イクパスイはその言葉をイナウに伝え、イナウは、次のイナウを従え、人間の言葉と供物を伴って神の国に向かう。人の目に見えずとも、鳥の姿になって向かうのだといいます。▼クマ祭り~アイヌ語でいうとイオマンテ、「熊の霊送り」のこと。クマは神の国からやってきてこの世でクマの形に化身し、訪れた食料の神です。そのクマを捕獲し解体する段階で、魂は肉体から離れる。その魂をコタンや家の客人として招き入れる。客人を稲の上坐側に安置し、コタンの人々が集まり酒宴をくりひろげ、ユカラや舞踊をおこない、その客人を数日にわたって手厚くもてなす。その後、丹念に彫刻した矢や、きれいに削り上げたイナウ、多くの食料や酒、太刀などの土産品をたくさん持たせ、自分たちのコタンを訪問してくれたことへの謝辞とまたの再訪を願う長老の祈り言葉とともに、客人の親・兄弟が住まう神の国に旅立たせるのです。▼コタン~一つのコタン(むら)が一つのエカシイキリ(祖父の系統)でかたまる「自然コタン」、和人との交易上からできた「強制コタン」がある。イウオルは資源調達の場。▼誕生~子供は生まれてもすぐ名前はつけない。早くから名前をつけると、悪い神様に名前を覚えられ悪さをされるので、固有の名前は少し大きくなって抵抗力がついてから、その子供のしぐさや癖などの特徴をもとにして名前がつけられた。▼歌と踊り~コタンの平和のため、多くのまつりごとを通して、神への感謝の踊りがおこなわれた。「ウポポ(座り歌)「リムセ(踊り歌)」を基本として、多くは集団で踊られます。▼楽器~ムックリ(口琴)、トンコリ(竪琴)、太鼓、拍子木、草笛、鹿笛(狩猟道具)などがある。▼口承文芸~ユカラは、英雄叙事詩といわれ、拍子木で炉縁を叩きながら、節をつけて語られる冒険物語です。長いものは三日三晩のものもある。聞く人たちも拍子木で調子をとり、語りの合間に「ヘッ、ホッ」などの掛け声を巧みに入れながら、語る人とともに物語のなかに参加します。
3.国際化と市民
▼ここにきて先進国では、先住民が営んでいるような生活様式を単に「遅れた生活」としてみるのではなく、環境適応型の生活様式モデルとして評価しようとする考えが広がっています。それは、市場経済に対する計画経済という対立図式に代わって、市場経済に対する「生態経済」というカウンター・エコノミクスが登場してきましたことからも分かります。生態経済というのは、今は大学では環境経済学とも呼ばれていますが、環境への負担を極小化する省資源・省エネルギー型の経済システムとか、地球全体での持続可能な成長など、市場経済システムの中で付加されるべき新しい視点が必要とされる時代だということです。
▼そこで、地球環境の「容量」というような考えを導入すると、第三世界や発展途上国がすべて先進国モデルの経済発展をめざせば地球がパンクするという予測がある一方で、途上国の指導者の多くは現実に先進国型の経済成長をめざしているという困難な問題があります。先住民族が採用しているような「生態経済」を先進国に住む人々が評価したとしても、それを後発国に強要はできない。先住民族は発展途上国でも少数民族ですから、やはり強要はできません。ですから、この問題は経済問題としてだけでは解けないだろうと思います。経済に文化を加味するといいますか、経済学に文化人類学を加えたような新しい理論で対処しないと、どうにもならないでしょう。▼おそらく、私たちにとってはシューマッハの仏教経済学の考え方が参考になると思います。著書『スモール・イズ・ビューティフル/人間中心の経済学』(講談社学術文庫)は「極小の消費で極大の満足」や「巨大技術より中間技術の可能性」を提起しています。ぜひ手にとって読んでみてください。
▼ですから、発展途上国は、自然破壊を抑え外貨をかせげる観光産業で産業発展させるのが妥当な政策だとおもわれます。本来の観光は、その国の光を観ることですから、原生林や自然のままの海岸、場合によっては先住民族の生活そのものが「光」になります。生態系や土地の大きな改変を伴うような開発事業と比べれば、観光客が原始的な自然にアクセスできる最小限の交通を確保すれば成り立つ観光は、自然破壊を抑えながら外貨をかせげる産業になります。▼私の体験では、ケニアのマサイ族のある村の事例がそうでした。
▼実際、観光で成り立っているとこもあります。フィジー共和国(人口73万人)、途上国ではありませんがモナコ王国(人口3万人)、タイも工業化が進んでいますが観光産業はGNPの7%を占め外貨を稼いでいます。▼スペインの観光産業はすごいですよ。この国は外国人観光客をもっとも多く受け入れていますが、地中海の海岸の沿ったコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の道路沿いに、といってもそれは延々100キロ以上にわたってホテルや貸別荘などの宿泊施設が連続しています。しかもこのコスタ・デル・ソルはスペインの地中海側の1000キロを超える海岸の一部にすぎないのです。欧州の北の人々が、物価が安く滞在費が少なくてすむスペインへ大挙して押しかけるのがよく分かります。
▼そのようなわけで、発展途上国の自然、とくに地球の「環境インフラ」といってよいような生態系が残っている地域は、工業開発が将来とも入ってこないような観光を経済発展として探るべきです。日本のODAもそのような政策に協力すべき時です。▼今世紀は、世界経済において巨大市場をもつ中国が注目されるのと同じくらい、世界文化においてはアフリカが注目されるでしょう。音楽だけでなく、美術とか映画とかも含めてです。赤道直下のサバンナやジャングルで、現地の集落の中に彼らの住居と同じスタイルのコテージがあってそれがホテルになっていて、打楽器の音楽で現地の人と一緒に踊れるような旅行ができたら、なんてことを考えると、もうどうしょうもなく血が騒ぎますね。▼ケニア自然保護区でテント宿泊体験したことありますが、そこでは踊りこそありませんでしたが、その片鱗は感じとることができました。
▼さて、町づくりにとっての国際化のやり方に移ります。自治体の国際交流は、海外の姉妹都市との交流はしていますが、いずれもマンネリ化していますから、日本の国際貢献という面からも自治体が途上国援助活動を行うことが期待されます。その場合は行政に十分なノウハウがありませんから、既存のNGOと提携したり青年海外協力隊の体験者を取り込むなどして、理念や計画づくりから始める必要があります。狙うところは、発展途上国の将来を担う人材の育成をやや長期にわたって、つまり長い目で支援することです。人材育成という点でみると、東南アジアの子供たちが中学校などに行けるよう奨学金を送る活動とか、ネパールの山奥に学校を建設するとかの市民団体の活動がすでに動いていますね。▼地元のJICAの活動からヒントを得ることもできそうです。
▼ですから、自治体だからこそできる息の長い人材支援事業を行うことを狙いにして、将来その国を動かすような特定の人材を自治体が育てあげることは有意義だと思います。古くは中国の魯迅、台湾の総統になった李登輝は、いずれも日本の植民地時代に日本の大学で学んでいます。▼発展途上国の英才を探しだし日本に連れてきて、高度な教育を与えるような事業を行うべきです。もし日本に適当な教育機関がないなら、奨学金を与えて欧米で学べるようにしてもよいです。日本の地方自治体がこれから挑戦するにふさわしい価値ある国際貢献策のひとつとなるでしょう。
▼次に、国際化と地方分権とがセットになった「日本国土のビジョン」を想定してみまましょう。いまもこれからも「東京」を経由しないで地方が世界とつながる時代に差し掛かっています。ですから、アジアや欧米の主要都市と直接つながった、国際空港をもつ地方中核都市を核にした地方圏の再編によって、分権的な政治・行政体制を、具体的には連邦制国家の州政府にあたる新しい地方政府をつくることです。▼札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡、那覇の8都市想定し、国土を八つの地方政府とします。これは道州制の考え方と似ていますが、上から見下ろして国土の線引きをするという発想ではないところが違います。▼それと各地方政府は人口規模が同じでなくてよろしい。東京を中心とする地方政府は関東地方のほかに静岡、山梨、長野、新潟、福島を含め4~5千万人、沖縄は150万人、北海道は500万人ですね。米国だってカリフォルニアやテキサスのような人口の多いところと、ハワイやアラスカや東部の小さな州のような人口の少ない州が共存しています。▼その際中央政府は、通貨、外交、国防、連邦警察、皇室機能などと、最小限の地方政府との調整機能を残してスリム化します。公務員数が2割くらいになれば東京・霞が関にあっても構いません。これで従来の遷都論は吹き飛んでしまいます。▼これに対して、市町村自治体は、住民の日常的な自治活動の拠点ですから、できるだけ現状のまま残すのがよいでしょう。行政の効率から市町村合併を進められていますが、しかしこの方向ではなくコミュニティのことを考えるなら、ドイツのようにもっと市町村自治体はもっと細かくてもよいと考えます。▼こういう話は、皆さんにもそれぞれ一家言あるでしよう。十勝は一つ、という広域一市論が話題を呼んでいますが、どう考えますか。
2.高齢化社会と市民
▼さて次は、がらりと話が変わります。高齢化社会の問題です。平成16年で全国の65歳以上の人口は19.5%ですが、あと10年後には25%に達すると推計されています。これは日本史上かつてなかったことです。でもこれはカラ騒ぎです。数字のマジックですね。高齢者を75歳以上とすると、かなり氷解します。しかも、いわゆる寝たきり老人はそのうち3%程度ですから、総人口に占める割合は0.4%ほどです。まあそのほか痴呆老人とか何らかの介護を必要とする高齢者もいますが、65歳以上の大部分は元気といっていいでしょう。それがよくわかるのが空港です。羽田とか成田にいくと高齢者が目立ちます。海外の旅先にも高齢者があふれています。ですから今の高齢者世帯は貯蓄も高い水準にありますし、旅まで行かなくてもゲートボールに興じ、高齢者福祉センターでお風呂やカラオケで昼ひなかから元気に遊んでいれば喜ばれるわけですから、健康なお年寄りにとってはわが世の春といった時代です。
▼ともかく、寝たきり老人が総人口の0.4%というのは、人口1万人の町で考えると40人ということです。多めにみても100人でしょう。名前を全部覚えられるくらいの数です。残り9900人の元気な住民が100人の困っている老人を助けられないはずはありませんよね。ですから高齢者社会はメディアが騒ぐほど怖くはないのです。
▼もっとも国全体で考えると、20年後には働けない65歳以上の高齢者1人を、働ける若者が2~3人で支えるといわれていますが、しかしこれも65歳以上は働けないということを前提にしいるからです。また高齢者の年金問題も難問のようですが、無い袖は振れないわけで落ち着くところに落ち着くしかありませんね。これから高齢者になる人はそれ以前の人より幾分不利になる、といったところでしょうか。楽観すぎますか。▼高齢者を若い世代が支えられなければ、団体旅行やゲートボールをやっていた元気な高齢者は必要なだけ働くようになります。企業も若い世代が減るわけですから女性や高齢者を適正な賃金で活用せざるを得なくなります。▼それと、高齢者になる人は、生活費のかからない自分なりのライフスタイルを用意しておくことです。森永卓郎『大不況!!年収120万円時代を生きる』(あ・うん))は参考になります。これもぜひ読んでみてください。
▼再度申し上げますが、総人口のせいぜい1%、30年後でも2%そこそこの本当に困って救いを求めているお年寄りを皆で助けてあげるのが福祉事業です。これはきちんとやらなければだめです。しかしそれ以外の高齢者は、あるいは助けを求めざるを得なくなる前の元気な高齢者は、一人前の成人として、幼児のようにではなく人生の先達として尊敬の念をもって接するのがいいわけです。
▼それに、長寿は必ずしも美徳ではありません。▼まず私の体験を話します。10年ほど前食道がんになり手術と放射線治療をしました。退院してから半年いや1年間ふらふらしながら考えるともなく考えたことは、自分個人としては50年間生きてきて、本当は生かされてきて、人生というものがだいたいわかったような気がするから、まあ十分だ、よくやった、昔から人生50年というではないか、というようなことでした。しかし他方で、まだ十分に世の中に恩返しをしていないというか、社会に貢献をしたという実感がもてない。死んでもそんなに悔いはないけれども、できたらもう少し生きていたいというのが一応の結論でした。私の世代でしたら同じような場面に出くわしたら、だいたい同じように考えるのではないでしょうか。戦争生き残りの体験を持つ人なら、人生もっと大事にせよといわれるかもしれません。そんなことがありましたので、その後、私の知っている50代、60代の人が亡くなったりしました、悔やむとか惜しむとか、そんな風には思わなくなりました。生物の歴史も、運の良い個体が生き延び、不運の個体が死ぬというようなことを繰り返しながら生き延びてきました。人間も生物ですからそれでいいわけです。長生きをめざすことが本人にとっても社会にとっても一番重要な目標だとは思わなくなりました。
▼話は元に戻って、自治体の審議会の市民参加の状況を見てみましょう。地方自治体での10カ年計画の審議会などでは、その町の各界の代表が委嘱されて出席しますが、20~30人のメンバーのうち60代と70代が半分、50代を加えると9割を占めており、明らかに老害現象です。そのことは結果として地域の未来への展望の足を引っ張る役割を演ずることになります。ちょっと暴論になりますが、第二次世界大戦後なぜ敗戦国であった日本とドイツが飛躍的な経済成長をなしとげたかという質問に対するいちばん納得できる理由は、敗戦によって古い世代が一掃されたからとういうものです。歳をとったら社会に貢献したいと私も思いましたが、これからの地域づくりはどうするかというような未来を考える仕事は若い人に任せるべきだと思います。そこで、審議会とか自治会長とかは委嘱型代表者は、55歳ないし60歳になったら行政が地域功労賞を与え退いていただく代わりに、地域アドバイザー人材バンクに登録していただき、会議に招聘されたときだけ助言をする。議決権は持たない。そうすれば停滞ムードの地域は元気になれるかと思います。それでもがんばりたい高齢者は市町村長や議員に立候補すればいいのです。
3.地域社会と市民
▼さて、地域社会と市民の話です。地域社会(コミュニティ)は、自然発生的に住民の相互依存や役割関係を生み出し、そして役割が多様であるほど、人々は「束」にされにくくなります。国家から発想するとどうしても「束」になります。しかし地域の人と人とが日常的に顔を合せる社会では、困った人たちをどう助けてあげるかを、こまめに具体的に福祉政策として組み立てることができます。この目に見える社会は、心地いいですし、やさしさ、人間らしさを感じます。欧米の小さな単位の町、アジアやアフリカの農村集落なども、町のたたずまい、集落の姿までがとても美しいのです。▼このようなコミュニティの心地よさはどこからきているのかといいますと、広い意味での経済関係あるいは交易関係から来ているに違いありません。マーケット、バザール、スーク、市(いち)などの名で物資を売買する場所は地球に普遍的にあります。そこでもちつもたれつ(ギブ・アンド・テイク)の経済的な相互依存関係や役割が生まれ、人間が一人あるは一家族では生まれない社会的な価値が生まれるのでしょう。▼一般的にいって、役割が多様にある町がいい町だろうと思います。一様な住宅地よりさまざまな業種のある混在型の下町の方がおもしろいですね。
▼十把ひとからげの束にされにくい社会からは、偉大な個性を持った人物が現れる度合いが大きいだろと考えます。日本ではアジアのトップランナーのような人がでにくいようです。現代史にでてくるアジアの政治家は、インドのガンジーやネール、中国の孫文や毛沢東、チベットのダライラマなどですね。アジアで初のノーベル賞をもらった文学者はインドの詩人タゴールでした。インドや中国の古代文明以来の伝統の厚みだといえば、そうかもしれません。経済大国になりながら世界史上まれな平等社会(今は格差社会ですが)を実現した日本社会は、国の顔である政治家を含め、個人の個性が希薄な社会です。それを地域から改良してくというのがここでの視点です。
▼日本がこれからめざすべき価値は「エクセレンス(excellence)」です。卓越したという意味ですが、すぐれたもの、気品や品格のあるものに対して使う言葉です。物質的に豊かになった後はどうしても気品や品格が欲しい。最近は、藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)など、○○の品格といった本が出ているようですが。▼さて、革命家であった毛沢東は、田舎の出身でしたが歴代の中国皇帝や高官のように立派な詩や書を残しています。以前、フランスと大統領と西ドイツの首相とが夜間に長電話をしているので、政府の諜報機関は何事が起ったかと盗聴したところ二人は音楽やオペラの話をしていたそうです。イラクのサダム・フセインの話もあります。彼がアラブ・イスラム世界の指導者に思われることはないだろうといわれていました。それは朗々とした声でコーランを唱えられないからです。ガラガラ声でした。かつてエジプトのナセル大統領はとても美しい声の持ち主で、アラブ・イスラム世界の指導者として崇められたそうです。このように第一級の政治家には実務能力を超えたエクセレンスが要求されるのです。みんなが一様にエクセレンスになれませんから、少数のエクセレンスな人が現れ、その人が周りに影響を与え、そうしたことから地域が、全体がエクセレントになっていくしかありません。
▼つまり地域には先導者が必要だということに置き換えますが、その地域おこしには「キーパースン」が必ずいましたし、これからも必要です。大分県大山町のウメクリ農業を導入した矢幡治美さん、湯布院町を映画祭や音楽祭で文化的な温泉リゾートにした溝口薫平さんや中谷健太郎さん、十勝ワインの丸谷金保さん、宮城県中新田町にバッハホールをつくった本間俊太郎さん(宮城県知事になるも収賄容疑で逮捕)、岐阜県のオークビレッジの稲本正さん、帯広のランチョ・エルパソの平林英明さんもその中に入るでしょう。みなさんはどんな人をご存じですか。▼地域おこしという観点からみたとき、他の人にはない独自の能力や技術、情報や人脈をもつキーパーソン候補者は、だいたい人口千人に一人の割合だと直感します。このことを福沢諭吉がどこかで言っていたように記憶しています。人口1万人の町なら10人、10万人の町なら100人ですね。そういう潜在的なキーパーソンに目を向けるのです。▼村瀬章『北のパイオニアたち』(はる書房)には、十勝のキーパースンたちについて書かれているので、ぜひ一読をしてみて下さい。そこで書かれていることを引いておきます。地域のキーパーソンがたちを素晴らしいと思うのは、その人自身が能力をもっているからだけでなく、その人の能力を生かしている周りの人たちがいるということです。キーパースン本人も、自分のやるべきことを地位や特権とは考えず、たまたまその時点、その場所で自分の知識や能力を生かせる場面があるからそうしているだけで、時と所が変われば別の人が中心になり自分は側面から協力しようと、というようなスタンスをもっているんですね。このような人がキーパーソンです。決してリーダーではないのです。これは地位志向ではなく役割志向の地域社会と言っていいと思います。▼(⇒人口希薄地域では一人二・三役を)
▼生活環境が新しくなれば文化が活性化するというのは間違いです。文化創造のためには、安定的な生活環境が必須です。長期にわたってあまり変わらない安定的な生活環境があってこそ、人々の生活感情も安定し、内面的に深い文化活動、あるいは斬新な、ときには革命的な創造性が生まれるようです。よく引き合いに出されますが、大英図書館の古色蒼然とした書棚のある部屋からマルクスの著作が生まれ、バロック時代の佇まいを残したウィーンの街からフロイトの精神分析が生まれてきました。いまだって、欧米の古く静かな大学都市の建物の中からノーベル賞級の急進的・根源的な研究が生まれているのです。▼日本の場合はちょうど逆で、騒々しい環境の中で凡庸なことを考えています。30年たつと建て替えられるような安手のピカピカ建築で、底の浅い実利的な頭脳活動が量産されているのです。
▼人材論について補足的に話しますが、地方分権に関しては、判断力や政策の立案・実行力を含め、都道府県や市町村の役所には50~100人に1人の割合で中央官庁のキャリア組官僚に匹敵する潜在的能力をもった人がいるとみています。▼それと、町づくりにおいては住民の意識傾向も知っておかなくてはなりません。住民は日常の身辺空間と惰性的時間の中に生きています。広い地域の将来がテーマになるような場面で、日常的惰性の中にいる住民の声をそのまま未来に反映させるのはとても危険です。十分は情報を提供し勉強してもらって上でなければ、住民の声は将来を決める有効な意見とはなりません。「情報なくして参加なし」です。ですから行政の住民アンケートは直ちに政策には結びつかないということです。
4.地域経済と市民(第四講再掲)
▼ここでは、地域経済にとってヒントいっぱいのボローニヤ方式を紹介します。博物館と職業教育と人材蓄積が、三位一体になっている見事さがあります。『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)からです。▼人口38万人のボローニヤには、たくさんのミュゼオがあります。ミュゼオとは、美術館や博物館や陳列館のことをいいますが、それが市内に三十七もあります。ついでですから、ほかの施設の数もあげておくと、映画館が五十、劇場が四十一、そして図書館が七十三です。さて、この三十七のミュゼオは、どれをとっても第一級で、半端なものは一つもありませんが、ここの産業博物館は、その独特なおもしろさにおいてほかに類をみないもののように思いました。そしてこの産業博物館は、使われなくなった煉瓦工場が使われていますが、徹底的に改造され、まったく新しく蘇って、底光りするような頼もしい建物になっています。▼それとこの博物館には三つの原則があります。一つは、展示は二カ月ごとに変えること。これは工業専門学校の生徒たちが、授業の一環としてやっている。なにをどう展示するかは、デザイン科の生徒たちがいつも知恵を絞っているので、お金はそれほどかかりません。ボローニヤには、イタリア最初のアルディーニ・ヴァレリアーニ工業専門学校があります。設立は1844年ですから歴史は古い。もっというとこの産業博物館そのものがこの学校の付属施設なのです。▼博物館の第二の原則は、ここの展示はほとんどが動くというものです。例えば、「シルク都市時代のボローニヤ市街」という、十五、六世紀ころの惚れ惚れするほど精密精巧につくられたミニチュアの模型があります。アペニン山脈の麓のなだらかな斜面に旧市街が広がり、遠くにポー川の支流のレノ川が流れているのが見える。まるで五百メートル上空に浮かんだ気球から眺め下ろしているようです。赤いボタンを押すと、軽い機械音とともに、街全体がぐんぐん上にあがっていき、その下から街の地下一階の模型がゆっくり迫(せり)上がってくる。そのころ、大抵の家の地下に紡績機がありました。つまり地下一階が小さな紡績工場になっていたのです。赤いボタンをもう一度押すと、すると、またもや街全体の地下一階が持ち上がって、その下から地下二階のミニチュア模型が迫上がってきました。その地下二階はまるで運河の網の目模様でした。遠くのレノ川から導かれてきた青い水が、街の下を右へ左へと巡りながら建物の地下を通り抜け、やがてレノ川下流へ流れ込む様子が手に取るように分かるのです。レノ川の水を導いて得た動力のおかげで、ここは世界一の絹の産地になりました。そしてボローニヤの絹はベネチアへ運ばれ、全ヨーロッパに輸出されたのです。さてこの展示館では、まだ見ごたえのある展示があります。ここの二階と三階をぶち抜いて、当時の紡績機が陳列されていました。上から下まで木で精巧に作られていて、赤いボタンを押すと、木琴でも奏でているような、気持ちの良い音を出しながら回り始めました。大小何千個もの木製部品が、大中小の歯車で調整されながら各自さまざまな速さで動いて、何千本という糸を見る見る紡いでいきます。見事なものです。地下を走る運河の網の目模様と、この紡績機を見るだけでも、成田・ボローニヤ間の航空運賃を払う値打ちがあります。この博物館はいきいきと生きていました。▼博物館の第三の原則は、この博物館がこの専門学校の卒業生の同窓会館の役割を果たすということです。ここの卒業生のほとんどが地元の職人企業に就職しますが、彼らは足繁くここに通って、たがいに親睦をはかったり情報を交換しあったりしています。こうして産業博物館を中心に分厚くて親密で巨大な情報網が形成されていることになる。同時にこの学校は技術研究所でもありますから、卒業生を対象にした集中講義が初中終(しょっちゅう)行われています。つまり、ボローニヤの職人たちは生涯ここで勉強するわけです。そしてその中心になっているのが、この産業博物館なのです。▼ここで少し注釈を加えると、職人企業とは、製造業では従業員が二十二名以下、伝統産業では四十名以下の、小さな企業のことです。ここで働いてやがて熟練工になると、いつでも独立できます。
▼シルク都市時代からの技術の集積、熟練工たちの巨大な情報網、職人を大切にしようという意思、そして生まれた土地で育ち、学び、結婚し、子供を育て、孫の顔を見ながら安らかに死ぬのが一番の幸せという生き方、そういったこの土地の精霊がボローニヤに、フェラーリといった高性能自動車や、ドゥカーティといったものすごいオートバイを生み出したのです。ちなみにセリエAのサッカーチーム「ボローニヤ」を財政的に支えているのも、この産業博物館を中心とする職人企業のネットワークだそうです。▼そして今、ボローニヤは世界の包装機械の中心地になっておリ、パッケイージングバレーと呼ばれています。ティーバッグと薬品の充填包装システム機械では世界一のIMA社を訪問し話を聞くと、この会社は1924年に設立されたACMAというチョコレートの「包装機械メーカーがあって、それがIMA社の母会社となそうです。戦後1947年にあの工業専門学校を卒業したロマニョーリという青年がここで熱心に仕事をして熟練工となり、1961年に母会社から独立し、IMA社を設立した。この時に大切なことは、「母会社の技術を持ち出すことは許されるのですが、母会社と同じものを作ってはいけない」ということです。ですから、チョコレートの自動包装機械の技術をもとに、自動ティーバッグ包装システムを開発し、つづいて自動薬品充填システムを完成して、世界市場を制覇したわけです。もちろん、買い手の工場に機械を納めたら、それでおしまいというのではなく、しばらくの間、機械と一緒に暮らします。そして買い手の要望を聞きながら、機械の微調整を行います。買い手側の技術者がその機会を完全に使いこなせるまで、その地に留まっているのです。▼このように母会社のACMAから包装機械作りのノウハウを持って分かれて行った企業は、戦後から現在までに、五十社以上にも及んでいるそうです。そして、この五十の包装機械企業のネットワークを、部品を供給する三百社が取り巻き、ボローニャに包装機械についてのありとあらゆる技術を集積させている。こうなったら強い。パッケイージングバレーといわれる所以です。▼IMA社では日本茶の自動ティーバッグも作っているそうです。注文主は伊藤園だそうです。日本人の舌は敏感で、最初はリプトン紅茶などと同じに、ティーバッグをホッチキスで止めていましたが、どうも金気を嫌うことが分かりました。そこで糸を使うことにしたわけですが、これが技術的にむずかしい。ティーバッグの口を糸で結わえる装置を考え出すのに三年かかりました。それでもこれが好評で、いまではリプトン紅茶などもこのやり方です。つまり日本人の敏感な舌が、世界の紅茶バッグの味を向上させたわけです。▼こうして、ボローニヤの地域産業が生まれ育ってきました。ここには貰えるヒントがたくさんありますし、その流れが感動的です。
5.町づくり人・故Yさん
ここでは、この十勝・帯広の地域づくりを支えてきた方(四人)を紹介します。私が影響を受けた人たちでもあります。まず、故吉村博さんからです。▼明治四十四年池田町に生まれる。旧制帯広中学校卒、水戸塾中退後、父の吉村木材会社に入社、同社専務。その後会社が倒産。帯広市公安委員長、公民館運営委員長、消防団副団長を経て、昭和30年に社会党公認で帯広市長に当選、以後五期連続。革新市長の最古参。趣味は魚釣りと、若者と酒を飲むこと。ゴルフ嫌いで有名。昭和四十九年市長を辞任。昭和五十八年死去。人間的な魅力は、なお市民の記憶に新しい。吉村冬俳句集に「白玉の味なき味をこのむなり」「覇を去りて雪の故山に帰りませ」「くさめして小さき悟り落としたり」がある。▼『これが本当の町づくりさ。鋳型の25万都市なんて話にならねえー』(昭和47年11月号「月刊エコノミスト」);二十万人都市人口制限論の根拠は、その町が飯を食っていける一つの経済単位である。大学や教授など人材温存、音楽堂・美術館・博物館など文化施設の維持、きめこまかい行政ができる単位である。また、公害の線は人口が二十万人辺りから急に立ち上がるような気がする。…オレはとことんロマンチストだ。非常にピンが甘いんだ。そこでね。逆にうんと科学的な行政をやろうとした訳だな。企画室をつくり自前の総合計画をつくった。全国でも早かったな。町の看板として「近代的田園都市」を提案したが、説明するとなると時間がかかって訳が分からなくなる。その頃は、大体が畑の中の町ですから、田園都市なんて言うと馬糞を思い出して泥臭いんだ。すごく。後に山形市が「文化的田園都市」を提唱したので、同憂の士ここにありと勇気づけられた。…町というのは個性が嫌になるくらい、泥臭いくらい個性が出ているものだとオレは思う。日本列島改造論の、あんな型でつくったようなもので、三十も五十もあちこちできたら、鋳型町だな、これは。そんなの駄目さ。…国の打ち上げた政策に直ぐに飛びつくべきでない。利益あるのもいいけど、いきなり自分を無にして飛びつくなんて話にならない。少なくとも首長のなす役割ではないな。首長はもっと偉いもの。そしてもう少しサムライになっていなきゃ。
▼『グリーンベルトに囲まれた街づくり』(昭和47年11月号「中央公論」);近代的田園都市を支える「緑の工場公園」とは、グリーンベルトで囲まれた百八十万坪の内陸工業団地で、煙と汚水はタブー。さらに「帯広の森」は、二十万人の街を包む六百八十六㌶の面積で幅五百五十㍍、長さ十一㌔の緑地構想。十勝川と札内川の堤外地四百九十㌶をあわせると一千㌶を超える。これが帯広のグリーンプランである。…地方都市、自治体というのは個性ふんぷんとした泥臭いもの。そこに住む人の意思、感情の内側まで入り込んでいくことなしに、地方政治はない。ここが「列島改造論」の最も欠けたところである。▼『帯広のまちづくりとその姿勢』(1973年10月号「地域開発」;数年前の田園都市は肥やし臭いなんだか惨めな印象がありましたが、最近はいかにも緑の滴る、空気のいい、水のきれいなというイメージに変わってきた。じっと十年辛抱すれば、何かいいことあるものです。…計画は自分の手で作り上げ、それを学者に監修してもらう位がいい。…自分の町を二十万人という具合にきちっとした目処をたてて、その目処の中で施策をしておけば手戻りがないわけです。…なぜ人が多ければいいかというと、それは経済的な問題でしょ。経済的な視野で町づくりを考えられたらかなわない。町づくりはそんなものではない。…何か日本一をひとつ作っておかなければ話にならない。嘘でもいいから一つや二つ日本一を作って、一・二年言っておれば、本当になります。この事を考えて下さい。
▼『街づくりを考える-市民定員論』(昭和46年「北海道自治研究」);海のないところに港はつくれない。山のないところで登山はできない。そうした自然の条件や環境を無視してはどんな良い考えも夢想に終る。…二十万人都市定員論の意味は、一つは人口と都市公害の問題である。二つには都市を整備したり都市に必要な種々の施設の維持管理がやや可能なこと。三つには経済的にもある程度充実がはかられるだろうし、かつさまざまな情報も集積できるだろう。四つには大方の分野に相当の人材が居着いて貰えるだろう。五つには行政関係でも目の届く、いわゆるきめ細かい行政ができるだろう。住民との意思交流ができるだろう。…新しい街は伝統らしいものが何もない。伝統の気質を何にするか。私は子供と老人を大切にする。この考えを固定化してそれを伝統に仕立て上げたいと思う。単純な、素朴な、そして泥臭いものほど、伝統としては呼吸が長いと思うのだ。動きの激しい時代だから、地方色がローカルなものが、逆に光を増す。であるから、われわれは道産子の持つ良さ、抜けているもの、大まかなもの、泥臭いもの、開放的で積極的なもの、そういった気質を大事に保存し、それをよい方向に凝固させたいものだと思う。▼『豊かな緑に囲まれた都市づくり』(昭和48年10月号「公園緑地」第34巻1号);将来帯広に住むであろう二十万人の豊かな生活空間を保障する市街化区域を、文字通りすっぽりと包み込む「帯広の森」は、莫大な資金と歳月が必要となる。しかし、こうした事業は時代の社会的要請となることは必死であり、長期的展望のもと英断を持って実行する必要がある。…この土地に開拓の鍬を下ろして、依田勉三のちょうど裏返しの夢を九十年後の子孫たちが待望を抱いて、これから歩みだす。歴史とは面白いものだ。…小さな庭に、朝から小鳥が来手いる。やがて見る限りの樹林に小鳥が鳴きあい、小さな獣が走り回るであろう。おそらく私は、それを見ることはできない。だが、子供たち、子孫たちは。
6.町づくり人・故Kさん
つぎは故木呂子敏彦さんです。▼大正3年(1914)十勝管内池田町に生まれる。旧制帯広中学卒。教員、十勝農業学校研究科生、道庁勤務を経て上京。雑誌編集に携わり、応召。昭和23年公選制初の道教育委員に当選し二期八年努めた。道農業自立推進協議会常務理事を経て、昭和35年帯広市役所入り。昭和46年から49年助役。勇退後、村おこし運動に奔走。音更町在住。博学で行動の人である。▼『ヨーロッパの地域開発』(1971年「工業立地」第10巻2号・日本立地センター);ヨーロッパの近代には中世があり、アメリカの近代には中世がない。…都市と道路の関係でその国の性格が決定する。アウトバーンは絶対に都市の中には導き入れず、むしろスプロールをこの道路で救済している。一方、日本の国道一号線は銀座の真ん中を走り、アメリカではアラスカ・カナダへのフリーウェイがサンフランシスコの中央を通り抜ける。ニューヨーク、シカゴなどは白痴的都市。…ヨーロッパの市役所を訪問すると、古くからの都市景観の歩み、あるいは古い市街地図から説明が始まる。必ず都市計画の歴史から説明が始まることに感動した。彼らは都市の歴史性から、都市計画の未来を語ろうとしている。…加藤秀俊はゲルマン共有地の延長であるパーク(公園)と地中海文化としてのプラザ(広場)を比較しているが、どこの都市にも「へそ」があることに驚いた。…中世を欠落させた日本の近代化は、土着を破壊することになる。連続性のあるヨーロッパの近代化と、非連続性のアメリカの近代化にはっきりした相違がある。
▼『水耕の土壌肥料学から地球にやさしい土壌肥料学へ』(1990年旭川大学地域研究年報第13号);中村桂子の「土なし農業」を批判。…土壌管理の原則は、堆きゅう肥の施用、微量要素の施用、土壌診断の活用である。一般的な微量要素の欠乏は、ルーサンではホウ素、トウモロコシでは亜鉛、果樹・牧草では鉄である。▼『森が土を作り水をつくる』(1989年旭川大学地域研究年報第12号);熊本県阿蘇山麓の七滝村(現朝日村)では、土地を切り開こうとしたが水がない。そこで半世紀にわたって吉無田国有林(旧細川家領地)に部落総出で植林し、枯れ川に滔々と水が流れるようになった。▼『柳田國男・北海道の旅を追って上中下』(1985年年旭川大学地域研究年報第7・10・11号);昭和8年8月7日から9月5日に、網走・釧路・帯広を経由。吉田巌日記によると21日夜帯広駅下車、信陽館に宿泊。翌22日昼過ぎの列車で旭川に向かう。…十勝の団体入植の出身地は、焼畑農耕地帯が圧倒的であったが、五年輪作(むつがえし)と空中窒素を固定させるハンノキなどマメ科の樹木を植林するなど地力維持体系を確立していた。不合理な焼畑農法であったとすれば数千年も続くはずはない。…昭和3年、帯広伏古コタンのアイヌ酋長伏根父子と柳田は朝日新聞社屋上で写真。
▼『私の土地利用開眼』(昭和56年旭川大学地域研究年報第3・4号);伊丹と羽田の間の夜間便で、驚いた。漆黒の闇に、東海道は光の帯で鈴鹿峠だけが寸断。こんな狂気じみた都市構造をもつ国なんて、世界のどこにある。都市というものは構造的に、点と線にとどまり、面として凝縮するものという意識の欠如の結果である。…氏の戦時体験であるロシアの森林労働。▼『欠かせぬ道東の視点』(昭和50年2月「北海道を考えなおす」シンポジウム);ソクラテスは「汝を知れ」と言っているが、十勝・道東の特性、可能性を徹底的に考え抜く時であり「二眼レフ論」を提唱したい。十勝圏を考える場合、帯広を中心主義になれば、浦幌や陸別は偏狭になる。ところが道東一体でとらえれば、十勝圏の入口になる。例えば農業の場合、牧草の生産力が低く冬の飼料確保に困っている根室の酪農地帯に、十勝のビート・豆作地帯から副産物飼料(葉と茎)を送り、地域連携を重視したい。▼『日本の土地利用を考える/鳥の目・ミミズの目から』(1980年8月号「技術と経済」);森林と農業の基本視点からの土地利用展望。…農地は農民的土地利用者集団の公益的共有法人の管理所有とし、私有財産としての移転を排除すべき。その上で耕作利用権を保護する。農地も水系別に一種から三種までの用途を指定。
▼雑誌ユリイカ『総特集・宮沢賢治』(昭和15年5月)の座談会の冒頭に「自己紹介、私は神田の木呂子俊彦です」とある。氏の目に見えない師は賢治。その他文献は以下の通り。『弱肉強食の論理から棲み分けの理論へ』(1982年5月「ふるさと十勝」)、『アメリカ農業視察報告』(1983年10月「ふるさと十勝」)、『東ドイツ農業と矢島理論』(1981年10月「農事組合だより」)、『小規模な農協をめざして・中札内』(1981年11月「地域開発」)、『日高の水資源』(1983年3月「ふるさと十勝」)、『十勝から北海道を考える』(昭和53年旭川大学地域研究年報第1号)、『技術革新と教育』(「北方農業」)、『私のなかの歴史』(1992年8月20日~31日北海道新聞夕刊)。
7.町づくり人・Sさん
つぎは、下河辺淳さんです。▼1923年東京生まれ。国土事務次官など国土政策に長く携わる。新全総の水系単位の開発は、十勝圏をモデルにしたと言われる。『戦後国土計画への証言』(1994年日本経済評論社)から;一つの国の土地利用を見ていくと、一番奥に山があって、山を下りると、森がずうっと続いていて、この森というのは、水と木材を供給しているだけではなくて、信仰の対象でもあった。そしてそれを下りると里山があって、里山というのは薪炭林の供給地であったり、あるいは小動物の生きる場所であったり、情緒的には小川のせせらぎとか、仲秋の名月のススキであったりという情緒深いものがあって、そして紅葉があって、日本人の情緒を支えていた地域があって、それを下りると畑が出てきて、それを下りると水田があって、お米を作って、しかも面白いことに、大名の偉さを何万石という石高で表現するようになっていて、いい水田を持っていなかったらいい大名ではないというようなことになる。水田を去ると、今度は城下町が出てきて、城下町は、軍事基地や行政が中心であったけれども、その周辺には、職人がいっぱい存在して、手作り型の手工芸品のメッカだったり、文化や音楽の中心でもあった。そしてそれを下りると海があって、船舶が経済を支えているという構造なんです。つまり、いま申し上げた山から海までを一貫していたものは水系なんです。だから、上流から下流までの水系の一貫管理という形を土地利用として、こんなに上手くつかまえていたということは、すごいと思うのです。国土管理史に学ぶべきことはとても多いという感じがする訳で、そういう国土政策をやってきたという歴史があることは、もっと勉強すべきことだと思うわけです。…江戸には水系主義があったが、明治はどちらかというと交通主義になった。交通主義というのは、道路でも鉄道でも、日本の地形では海岸線に並行することが原則であって、水系と垂直に交わる。そのことは、土地利用の混乱要因でもあるわけで、もう一回水系に戻って、森の管理から都市の管理まで考え直してみようという根本的な提案を国土政策としてはやりたいと思っているわけです。そういう発想からいうと、二十世紀の巨大都市主義を否定することにさえなっていくのではないか。巨大都市は、生態系がどうしても受けて立てない要素がぬぐいきれないという気があって、生態系と人工系が共存できるものはどんなものかを探っていくことに、一番関心が大きい。…瀬戸内海だってちょっと太い川でしかない、と豪胆なことをいう人です。
▼プランナーという人材は、現場で訓練しなければだめなんです。出世する人ほど人事のタイミングが早い。それが人材が育たない最大の理由です。私のように十年も続けてやらされていれば、プランニングできるようになる。そんな難しい話ではない。専門なんていう難しさよりも、相手の話をよく聞くことがプランナーのテーマなんです。それで納得のいったことだけを言えばいいので、自分にアイデアなんて要らないのです。ただ、十年もバカバカしいことをやる元気があるかどうかだけの選択の問題です。…先祖が植えた木を現在使って、子孫のために木を植えるのが人生五十歳の哲学なのです。ところが人生80歳の時代になると、小学校の時に植えた木が、自分の還暦の時に自分の家の木材になるというようなことになると、人間と森の関係がちょっと違って見えてくるのではないか。…計画の期間については、経済の時間軸とドッキングさせると五年・十年とうことになるが、空間計画としては二十年・五十年、長期の未来像は百年から五百年、場合によると千年というように三段階になっていて、根本的に違った思想体系を持たざるを得ないと思っている。
8.町づくり人・Mさん
最後に村瀬章さんです。▼1943年岐阜県郡上八幡町に生まれる。1966年京都大学建築科卒業、1971年東京大学都市工学科博士課程中退、現在村瀬都市研究所を主宰し各地の都市計画に参加。▼『山梨県地域づくりフォーラム-21世紀への地域づくり』(平成2年11月22日);日本社会のどこかに気品、気位、あるいは洗練のようなものが欲しい時代になってきました。そういうエクセレントなものがないと、われわれ日本人は本当の満足感や自尊心を持つことができなくなってきている。…国や地域のリーダーにもエクセレントが必要です。音楽や絵画など文芸百般に通じる感覚・感性・素養が求められている。これがないと先端的まちづくりができなくなってきている。…これからはヨーロッパが手本になる。どこでも都市景観が美しく、農村に行くとことさら美しい。さらに生活様式に関しては、大変落ち着きのある生活をしていることである。▼エクセレントな地域づくりとしての国際化。国際化という視点から見ると、日本の地域をよくする課題が山ほど出てくる。都市の騒音(防災無線の公共放送)・騒色が農村まで押し寄せ、小鳥の声や川のせせらぎも聞こえない。望遠レンズでトリミングしないと日本の農村の景色はビューティフルではない。▼エクセレントな地域づくりとしての芸術文化。活性化のためには、地域も異質なものと出会う必要がある。かっての閉鎖的な農村共同体でも村人は客人(まれびと)あるいは祝人(ほいと)といった外からやってくる人々を歓迎した。地方にとってもう一つの異質は、高度な芸術文化である。なぜ異質かというと、高度な芸術というのはよく分からないからである。クラッシク音楽は聴く度に新しい発見がある。分かろうとする努力することが精神を活性化させる。気持ちよく分かる演歌では村おこしはできない。大都市が若者を惹きつける最大の要因は芸術文化に触れる機会である。「地方は東京の真似をするな」などという言葉を信じるな。東京にあるエクセレントな部分を積極的に導入すべき。▼エクセレントな地域づくりとしての地域教育。地域の大人たちがインストラクター(指導者)になって地域の自然や施設その他を活用した地域教育プログラムをつくり、子どもたちのグループを指導。…地域の人々が地域の伝統に自信を持つことができれば、外からくる異質なものを堂々と受け入れることができる。その一点で過去が未来の資源になる。
▼『原点からの都市計画』(昭和52年北海道自治研究99号);家族はデザインできる。殺人事件の四割が肉親関係で生じている。父親というのは人間の発明品でたかだか二百年の歴史しかないが、母親は一億年の歴史を持つ。家族の機能は、子供の「社会化」と大人の「安定化」の二つである。…劇作家の木下順二氏は朗読の習慣を復活させようという。「話す・聞く」という原始的コミュニケーションが団欒の中心になる。家族が個人にとって最初の「公」であるような関係においては、明確な言葉できちんと話さなければならない。話すことが楽しみであるためには、機知や気取りも必要であろう。そこで磨かれるのは社交のセンスといってよいものである。そういうものがあるところには他人も入り込みやすいであろう。居間は公共空間であるからプライバシーがなくてもよい。…日本の家屋がもう少しオープンであったなら、近隣との団欒は合奏、合唱、小劇場と多種目になろう。これは地域社交生活といえるものである。▼『北のパイオニアたち』(1983年はる書房);百年目を迎えた十勝の開拓者たちは、次のような特徴を持っている。第一に、自然環境が豊かなこともあって、野性的である。大きな筏を作って川下りを楽しむ。凍った湖の上に雪の家を作って住む。そういう野性的な遊びを次々考え出している。第二に、十勝の開拓を始めた人たちが福沢諭吉の門下生だったこともあって、独立自尊、あるいは自立の気風が強い。気持ちだけそうなのではなく、自分の手足を使って何でもやってしまう実学派の独立人である。岩波文庫の「フランクリン自伝」で知られるベンジャミン・フランクリンのような人間だと考えてよい。第三に、歴史の浅い開拓地だけに一人で出来ることには限りがあるので、連係プレイがうまい。このように「野生・自立・連携」という三つが、十勝の開拓者たちがいま持っている特質である。これは二十一世紀に向かう日本人に必要な性質だと、わたしは思う。…イーストコースト型都市計画は132~141頁に詳しい。
▼『みちのく・高らかルネッサンス』(日本経済新聞1989年9月13日);明治以降の芸術家などの輩出を調べると、芸術、工芸などの造形芸術(空間芸術)では西日本が圧倒的な優位に立つのに対し、文学、音楽、芸能などの無形芸術(時間芸術)では、東北も優れた人材を多数輩出している。『東北は唱う』(筑摩書房1989年);バリ島のガムラン音楽の演奏で銅製の打楽器がぶつかりあうと可聴域帯を超えた高い周波数の倍音を生む。それが人間の脳に作用すると快感のために恍惚状態になり失神する人も出てくる。アフリカのピグミーたちは森の中で木々のざわめきや動物の鳴声など自然が発する高周波数の音をいつも聞いているのでストレスはない(大橋歩)。…人間が生理的快感を最高に得る方法は三つあって、一人でできるのが「食」、二人でできるのが「性」、三人以上でできるのが「祭」である。…ポリフォニーの深淵:ルネッサンス期のポリフォニー合唱曲は、それ以降の時代の音楽に比べるとテンポも穏やかで、とくに宗教合唱曲は深い憂愁の情感に浸されている。…時代の病理(宮本忠雄;精神医学者)でみると、中世はヒステリー、ルネッサンス期から16・17世紀まではメランコリー、19世紀はパラノイア(妄想症)、20世紀は分裂症。…あえてモノに拘泥しないその高度に形而上的な志向がリベラル・アーツの教示である。東北で歌う人達は、ここが深く地域性と歴史性にとらわれた土地であったゆえに、そこから垂直に突き抜けようとしているのである。地は分有され天は共有される。ポリフォニーの彼方に、開かれた精神の王国、魂の宇宙都市が望見される。
▼他文献『まちづくり教育の理念と展望』(昭和56年6月「都市計画」)、『現代建築はいかに可能か』(建築文化241号)、『開拓都市・帯広の形成』(都市計画80号)、『住宅建設と都市計画』(北海道自治研究56号)、『帯広・未来の住人たち』(「都市と住宅」1972年12月号)。
以上で、地域における「これまで」の市民、「これから」の市民の話をしました。終わります。
9.資料編
▼書籍資料/『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)。
▼印刷資料/「(資料)アイヌ文化を知ろう」。
▼写真資料/「マサイ族村の観光(ケニア)」。
内容
1.三億人の先住民族... 1
2.アイヌ民族を知ろう... 2
3.国際化と市民... 3
2.高齢化社会と市民... 6
3.地域社会と市民... 7
4.地域経済と市民(第四講再掲)... 9
5.町づくり人・故Yさん... 11
6.町づくり人・故Kさん... 12
7.町づくり人・Sさん... 14
8.町づくり人・Mさん... 15
9.資料編... 17
▼今回は、町づくりにおいて市民はどういう風になっていけばいいのか、「これからの市民」を考えてみます。とくに国際化、高齢化、地域社会、地域経済といった四つの視点でとらえてみます。それと後半には、これまでどのような人々がこの町づくりに関わってきたかのかを、四人の方を紹介しながら考えてみます。
1.三億人の先住民族
▼まず、国際化と市民の視点ですが、その前に「国際化と結びつく先住民」の話をしておきます。地球上の先住民族は70カ国に合計3億人いて、いま絶滅の危機の瀕している民族がアフリカの森林にすむ狩猟民など50近くあるとみられています。いま地球規模で彼らを大事にしなければという時代になってきたわけですが、どうしてだと思いますか。世界がかれらを必要としだしたからです。いま歴史のパラドックスといわれる現象が起きつつあります。地球環境の危機に対する認識が、かつて先住民族に勝つために使われた技術文明の行き詰まりとして理解され、そこで先住民の知恵を新しい世界観のための精神的・象徴的な支柱にせざるをえなくなりつつある、ということですね。
▼では、先住民はどんな知恵をもっているのでしょうか。日本での先住民としてはアイヌの人たちがいますね。アイヌとは「人間」を意味しますが、それは彼らに親しいクマなどの動物など、それに神々も含めた万物が等しく生きていて、彼らの精神世界の中で自分たちを相対化して「人間」と呼びました。また、もともと「生肉を食べる人」を意味した北米のエスキモーという民族は、最近はイヌイットと呼ばれていますが、彼らも「人々」の意味なんだそうです。たぶんアイヌの人と同じ世界観をもっているのでしょう。自然界で人間だけを特別扱いしない、人間だけに特権を与えない世界観・宇宙観だと言ってよいでしょう。それが先住民族の核心です。▼ですから、狩猟で確保した動物は神の世界から頂いたもので、それにお土産をつけてお返するのが、イヨマンテというわけです。(※資料「アイヌ文化の基礎知識」に詳しい)。▼米国のインディアン(今はネイティヴ・アメリカン)、カナダのハイダ族、南米のアンデス高原のインディオ、オーストラリアのアボリジニ、中国の少数民族(中国の場合少数民族といってもチベット族だけで500万人)の自然観も多分同じでしょう。調べてみようと思っています。
▼ここでは、池澤夏樹『パレオマニア』からカナダのハイダ族の話だけ引用しておきます。▼文化は人が住むすべてのところにあるが、文明は都会を中心に集権的に分布する。中央の文明が地方の文化を押さえ込む。カナダ先住民のポトラッチを禁止し、アイヌの人々に鮭漁を禁止した。男は大英博物館を基点とする旅でいくつもの滅びた文明を見てきた。文明は滅びれば遺跡しか残さないが、文化はその土地の環境に合わせてしなやかに変わり、それによって生きる人々と共に生き延びる。バンクーバー・アイランドの海では、遠大な生命の連鎖が見えた。氷の海から植物プランクトンが湧き、それを食べる動物プランクトンが増え、オキアミ、ニシンあるいはサケあるいはハリバットあるいはタラがそれを食って、その上にカワウソやトドやウミスズメやクジラやヒトがいる。そういう自然の恵みを表現したいという意図が、最終的にトーテムポールを作り出した。人は自然から文化を紡ぐ。
2.アイヌ民族を知ろう
『アイヌ文化の基礎知識』(アイヌ民族博物館監修・草風館)から。▼ことば~身近なアイヌ語には、ラッコ、トナカイ(樺太アイヌ語)、シシャモ(柳の葉の意)など。北海道の地名に名残がある。▼日本史に登場~神武天皇やヤマトタケルの記事は伝説だが、『古事記』『日本書紀』が書かれた8世紀初めころの蝦夷(えみし)に対するシサム(和人)認識からみて、少なくともこの頃にアイヌの人々の存在が日本史に登場とみていい。▼シサム(和人)との戦い~1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起。▼アイヌ文化の起源~北海道では0世紀頃に続縄文文化、7世紀に擦文文化、平行して5世紀にオホーツク文化、14世紀にアイヌ文化が成立。▼狩猟の知恵~クマ猟では冬ごもりをねらう。穴を丸太で塞ぎ、トリカブトの毒矢でしとめる。シカ猟では鹿笛でおびき寄せたり、崖から追い落として捕まえる。サケ猟は道具(マレク:突き鉤)かカゴの仕掛けでとる。▼装う~獣皮衣はクマ・シカ・アザラシ・ラッコなどを利用。樹皮衣(アツトウシ)はオヒョウ・ハルニレで、幹の皮を下からはぎ上げ、流水でさらし、天日に干してから、糸に紡ぐ。木綿衣は本州との交易で手に入れた木綿の古裂でつくるが、四種類のアイヌ文様がうつくしい。▼食べる~シカなど獣類、カモなど鳥類、アザラシなど海獣類、ニシンなど魚類、サケ・マスなど川魚と、ギョウジャニンニクなど山菜、ヒエ・アワ・イナキビなど栽培作物などの食料があった。毎日の食べ物では「オハウ」が一般的。ギョウジャニンニクなどの山菜やイモ・ダイコンなどの野菜、鳥獣肉や魚肉を鍋で煮て塩や獣・魚油を入れて味付けした鍋物。家の外の高床式保存庫には、2・3年分の保存食が常備されていた。保存方法は炉の煙り干しによって乾燥させていた。▼住まう~チセは寄棟造りで、柱は腐りにくいハシドイ・カシワを使い、壁や屋根はカヤ・ヨシ・ササで葺いていた。コタン(集落)の人たちが総出で建てる。▼チセの暮らし・シキタリ~狩猟は男、家事・栽培は女の役割。チセでは男は猟具の手入れやイナウなど信仰用具つくり、女は着物・茣蓙つくりや食事の支度、子供たちは水汲みや子守などの手伝いをしていた。チセは三つの座がある。入り口から炉に向かい左がシソ(右座)、右がハリキソ(左座)、正面奥がロルンソ(上座)。シソは上手が主人、下手が主婦の座。ハリキソは子供、来訪者の座。ロルンソは神々の通り道で神聖な場所。徳人でなければ座ることができなかった。▼信仰~アイヌの人々にとって、人間のまわりに存在する多くの事象にはすべて「魂」が宿っているものと考えられている。ですから動物や植物などは、天上の神の国からある使命を担って舞い降りてきて、この地上に住んでいると考えられた。▼カムイノミ~豊かな自然のいたるところに、それぞれこの世でつとめを担った神々に感謝し、その庇護と生活の糧を得るために、イナウ(木幣)やサケ(酒)、ハル(食料)を捧げながら神に祈ることをカムイノミ(神への祈り)という。▼祈り用具~祈るとき、人間は立てられたイナウ(木幣、ヤナギをマキリ/小刀で薄く削る)に対し、左手で酒の入ったトウキ(杯)をもち、右手でイクパスイ(酒捧箆、彫刻を施す)をもち、この先に酒をつけ、それをイナウに軽く触れるようにつけながら祈り言葉を唱える。そうすると人間の言葉はイクパスイに伝わり、イクパスイはその言葉をイナウに伝え、イナウは、次のイナウを従え、人間の言葉と供物を伴って神の国に向かう。人の目に見えずとも、鳥の姿になって向かうのだといいます。▼クマ祭り~アイヌ語でいうとイオマンテ、「熊の霊送り」のこと。クマは神の国からやってきてこの世でクマの形に化身し、訪れた食料の神です。そのクマを捕獲し解体する段階で、魂は肉体から離れる。その魂をコタンや家の客人として招き入れる。客人を稲の上坐側に安置し、コタンの人々が集まり酒宴をくりひろげ、ユカラや舞踊をおこない、その客人を数日にわたって手厚くもてなす。その後、丹念に彫刻した矢や、きれいに削り上げたイナウ、多くの食料や酒、太刀などの土産品をたくさん持たせ、自分たちのコタンを訪問してくれたことへの謝辞とまたの再訪を願う長老の祈り言葉とともに、客人の親・兄弟が住まう神の国に旅立たせるのです。▼コタン~一つのコタン(むら)が一つのエカシイキリ(祖父の系統)でかたまる「自然コタン」、和人との交易上からできた「強制コタン」がある。イウオルは資源調達の場。▼誕生~子供は生まれてもすぐ名前はつけない。早くから名前をつけると、悪い神様に名前を覚えられ悪さをされるので、固有の名前は少し大きくなって抵抗力がついてから、その子供のしぐさや癖などの特徴をもとにして名前がつけられた。▼歌と踊り~コタンの平和のため、多くのまつりごとを通して、神への感謝の踊りがおこなわれた。「ウポポ(座り歌)「リムセ(踊り歌)」を基本として、多くは集団で踊られます。▼楽器~ムックリ(口琴)、トンコリ(竪琴)、太鼓、拍子木、草笛、鹿笛(狩猟道具)などがある。▼口承文芸~ユカラは、英雄叙事詩といわれ、拍子木で炉縁を叩きながら、節をつけて語られる冒険物語です。長いものは三日三晩のものもある。聞く人たちも拍子木で調子をとり、語りの合間に「ヘッ、ホッ」などの掛け声を巧みに入れながら、語る人とともに物語のなかに参加します。
3.国際化と市民
▼ここにきて先進国では、先住民が営んでいるような生活様式を単に「遅れた生活」としてみるのではなく、環境適応型の生活様式モデルとして評価しようとする考えが広がっています。それは、市場経済に対する計画経済という対立図式に代わって、市場経済に対する「生態経済」というカウンター・エコノミクスが登場してきましたことからも分かります。生態経済というのは、今は大学では環境経済学とも呼ばれていますが、環境への負担を極小化する省資源・省エネルギー型の経済システムとか、地球全体での持続可能な成長など、市場経済システムの中で付加されるべき新しい視点が必要とされる時代だということです。
▼そこで、地球環境の「容量」というような考えを導入すると、第三世界や発展途上国がすべて先進国モデルの経済発展をめざせば地球がパンクするという予測がある一方で、途上国の指導者の多くは現実に先進国型の経済成長をめざしているという困難な問題があります。先住民族が採用しているような「生態経済」を先進国に住む人々が評価したとしても、それを後発国に強要はできない。先住民族は発展途上国でも少数民族ですから、やはり強要はできません。ですから、この問題は経済問題としてだけでは解けないだろうと思います。経済に文化を加味するといいますか、経済学に文化人類学を加えたような新しい理論で対処しないと、どうにもならないでしょう。▼おそらく、私たちにとってはシューマッハの仏教経済学の考え方が参考になると思います。著書『スモール・イズ・ビューティフル/人間中心の経済学』(講談社学術文庫)は「極小の消費で極大の満足」や「巨大技術より中間技術の可能性」を提起しています。ぜひ手にとって読んでみてください。
▼ですから、発展途上国は、自然破壊を抑え外貨をかせげる観光産業で産業発展させるのが妥当な政策だとおもわれます。本来の観光は、その国の光を観ることですから、原生林や自然のままの海岸、場合によっては先住民族の生活そのものが「光」になります。生態系や土地の大きな改変を伴うような開発事業と比べれば、観光客が原始的な自然にアクセスできる最小限の交通を確保すれば成り立つ観光は、自然破壊を抑えながら外貨をかせげる産業になります。▼私の体験では、ケニアのマサイ族のある村の事例がそうでした。
▼実際、観光で成り立っているとこもあります。フィジー共和国(人口73万人)、途上国ではありませんがモナコ王国(人口3万人)、タイも工業化が進んでいますが観光産業はGNPの7%を占め外貨を稼いでいます。▼スペインの観光産業はすごいですよ。この国は外国人観光客をもっとも多く受け入れていますが、地中海の海岸の沿ったコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の道路沿いに、といってもそれは延々100キロ以上にわたってホテルや貸別荘などの宿泊施設が連続しています。しかもこのコスタ・デル・ソルはスペインの地中海側の1000キロを超える海岸の一部にすぎないのです。欧州の北の人々が、物価が安く滞在費が少なくてすむスペインへ大挙して押しかけるのがよく分かります。
▼そのようなわけで、発展途上国の自然、とくに地球の「環境インフラ」といってよいような生態系が残っている地域は、工業開発が将来とも入ってこないような観光を経済発展として探るべきです。日本のODAもそのような政策に協力すべき時です。▼今世紀は、世界経済において巨大市場をもつ中国が注目されるのと同じくらい、世界文化においてはアフリカが注目されるでしょう。音楽だけでなく、美術とか映画とかも含めてです。赤道直下のサバンナやジャングルで、現地の集落の中に彼らの住居と同じスタイルのコテージがあってそれがホテルになっていて、打楽器の音楽で現地の人と一緒に踊れるような旅行ができたら、なんてことを考えると、もうどうしょうもなく血が騒ぎますね。▼ケニア自然保護区でテント宿泊体験したことありますが、そこでは踊りこそありませんでしたが、その片鱗は感じとることができました。
▼さて、町づくりにとっての国際化のやり方に移ります。自治体の国際交流は、海外の姉妹都市との交流はしていますが、いずれもマンネリ化していますから、日本の国際貢献という面からも自治体が途上国援助活動を行うことが期待されます。その場合は行政に十分なノウハウがありませんから、既存のNGOと提携したり青年海外協力隊の体験者を取り込むなどして、理念や計画づくりから始める必要があります。狙うところは、発展途上国の将来を担う人材の育成をやや長期にわたって、つまり長い目で支援することです。人材育成という点でみると、東南アジアの子供たちが中学校などに行けるよう奨学金を送る活動とか、ネパールの山奥に学校を建設するとかの市民団体の活動がすでに動いていますね。▼地元のJICAの活動からヒントを得ることもできそうです。
▼ですから、自治体だからこそできる息の長い人材支援事業を行うことを狙いにして、将来その国を動かすような特定の人材を自治体が育てあげることは有意義だと思います。古くは中国の魯迅、台湾の総統になった李登輝は、いずれも日本の植民地時代に日本の大学で学んでいます。▼発展途上国の英才を探しだし日本に連れてきて、高度な教育を与えるような事業を行うべきです。もし日本に適当な教育機関がないなら、奨学金を与えて欧米で学べるようにしてもよいです。日本の地方自治体がこれから挑戦するにふさわしい価値ある国際貢献策のひとつとなるでしょう。
▼次に、国際化と地方分権とがセットになった「日本国土のビジョン」を想定してみまましょう。いまもこれからも「東京」を経由しないで地方が世界とつながる時代に差し掛かっています。ですから、アジアや欧米の主要都市と直接つながった、国際空港をもつ地方中核都市を核にした地方圏の再編によって、分権的な政治・行政体制を、具体的には連邦制国家の州政府にあたる新しい地方政府をつくることです。▼札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡、那覇の8都市想定し、国土を八つの地方政府とします。これは道州制の考え方と似ていますが、上から見下ろして国土の線引きをするという発想ではないところが違います。▼それと各地方政府は人口規模が同じでなくてよろしい。東京を中心とする地方政府は関東地方のほかに静岡、山梨、長野、新潟、福島を含め4~5千万人、沖縄は150万人、北海道は500万人ですね。米国だってカリフォルニアやテキサスのような人口の多いところと、ハワイやアラスカや東部の小さな州のような人口の少ない州が共存しています。▼その際中央政府は、通貨、外交、国防、連邦警察、皇室機能などと、最小限の地方政府との調整機能を残してスリム化します。公務員数が2割くらいになれば東京・霞が関にあっても構いません。これで従来の遷都論は吹き飛んでしまいます。▼これに対して、市町村自治体は、住民の日常的な自治活動の拠点ですから、できるだけ現状のまま残すのがよいでしょう。行政の効率から市町村合併を進められていますが、しかしこの方向ではなくコミュニティのことを考えるなら、ドイツのようにもっと市町村自治体はもっと細かくてもよいと考えます。▼こういう話は、皆さんにもそれぞれ一家言あるでしよう。十勝は一つ、という広域一市論が話題を呼んでいますが、どう考えますか。
2.高齢化社会と市民
▼さて次は、がらりと話が変わります。高齢化社会の問題です。平成16年で全国の65歳以上の人口は19.5%ですが、あと10年後には25%に達すると推計されています。これは日本史上かつてなかったことです。でもこれはカラ騒ぎです。数字のマジックですね。高齢者を75歳以上とすると、かなり氷解します。しかも、いわゆる寝たきり老人はそのうち3%程度ですから、総人口に占める割合は0.4%ほどです。まあそのほか痴呆老人とか何らかの介護を必要とする高齢者もいますが、65歳以上の大部分は元気といっていいでしょう。それがよくわかるのが空港です。羽田とか成田にいくと高齢者が目立ちます。海外の旅先にも高齢者があふれています。ですから今の高齢者世帯は貯蓄も高い水準にありますし、旅まで行かなくてもゲートボールに興じ、高齢者福祉センターでお風呂やカラオケで昼ひなかから元気に遊んでいれば喜ばれるわけですから、健康なお年寄りにとってはわが世の春といった時代です。
▼ともかく、寝たきり老人が総人口の0.4%というのは、人口1万人の町で考えると40人ということです。多めにみても100人でしょう。名前を全部覚えられるくらいの数です。残り9900人の元気な住民が100人の困っている老人を助けられないはずはありませんよね。ですから高齢者社会はメディアが騒ぐほど怖くはないのです。
▼もっとも国全体で考えると、20年後には働けない65歳以上の高齢者1人を、働ける若者が2~3人で支えるといわれていますが、しかしこれも65歳以上は働けないということを前提にしいるからです。また高齢者の年金問題も難問のようですが、無い袖は振れないわけで落ち着くところに落ち着くしかありませんね。これから高齢者になる人はそれ以前の人より幾分不利になる、といったところでしょうか。楽観すぎますか。▼高齢者を若い世代が支えられなければ、団体旅行やゲートボールをやっていた元気な高齢者は必要なだけ働くようになります。企業も若い世代が減るわけですから女性や高齢者を適正な賃金で活用せざるを得なくなります。▼それと、高齢者になる人は、生活費のかからない自分なりのライフスタイルを用意しておくことです。森永卓郎『大不況!!年収120万円時代を生きる』(あ・うん))は参考になります。これもぜひ読んでみてください。
▼再度申し上げますが、総人口のせいぜい1%、30年後でも2%そこそこの本当に困って救いを求めているお年寄りを皆で助けてあげるのが福祉事業です。これはきちんとやらなければだめです。しかしそれ以外の高齢者は、あるいは助けを求めざるを得なくなる前の元気な高齢者は、一人前の成人として、幼児のようにではなく人生の先達として尊敬の念をもって接するのがいいわけです。
▼それに、長寿は必ずしも美徳ではありません。▼まず私の体験を話します。10年ほど前食道がんになり手術と放射線治療をしました。退院してから半年いや1年間ふらふらしながら考えるともなく考えたことは、自分個人としては50年間生きてきて、本当は生かされてきて、人生というものがだいたいわかったような気がするから、まあ十分だ、よくやった、昔から人生50年というではないか、というようなことでした。しかし他方で、まだ十分に世の中に恩返しをしていないというか、社会に貢献をしたという実感がもてない。死んでもそんなに悔いはないけれども、できたらもう少し生きていたいというのが一応の結論でした。私の世代でしたら同じような場面に出くわしたら、だいたい同じように考えるのではないでしょうか。戦争生き残りの体験を持つ人なら、人生もっと大事にせよといわれるかもしれません。そんなことがありましたので、その後、私の知っている50代、60代の人が亡くなったりしました、悔やむとか惜しむとか、そんな風には思わなくなりました。生物の歴史も、運の良い個体が生き延び、不運の個体が死ぬというようなことを繰り返しながら生き延びてきました。人間も生物ですからそれでいいわけです。長生きをめざすことが本人にとっても社会にとっても一番重要な目標だとは思わなくなりました。
▼話は元に戻って、自治体の審議会の市民参加の状況を見てみましょう。地方自治体での10カ年計画の審議会などでは、その町の各界の代表が委嘱されて出席しますが、20~30人のメンバーのうち60代と70代が半分、50代を加えると9割を占めており、明らかに老害現象です。そのことは結果として地域の未来への展望の足を引っ張る役割を演ずることになります。ちょっと暴論になりますが、第二次世界大戦後なぜ敗戦国であった日本とドイツが飛躍的な経済成長をなしとげたかという質問に対するいちばん納得できる理由は、敗戦によって古い世代が一掃されたからとういうものです。歳をとったら社会に貢献したいと私も思いましたが、これからの地域づくりはどうするかというような未来を考える仕事は若い人に任せるべきだと思います。そこで、審議会とか自治会長とかは委嘱型代表者は、55歳ないし60歳になったら行政が地域功労賞を与え退いていただく代わりに、地域アドバイザー人材バンクに登録していただき、会議に招聘されたときだけ助言をする。議決権は持たない。そうすれば停滞ムードの地域は元気になれるかと思います。それでもがんばりたい高齢者は市町村長や議員に立候補すればいいのです。
3.地域社会と市民
▼さて、地域社会と市民の話です。地域社会(コミュニティ)は、自然発生的に住民の相互依存や役割関係を生み出し、そして役割が多様であるほど、人々は「束」にされにくくなります。国家から発想するとどうしても「束」になります。しかし地域の人と人とが日常的に顔を合せる社会では、困った人たちをどう助けてあげるかを、こまめに具体的に福祉政策として組み立てることができます。この目に見える社会は、心地いいですし、やさしさ、人間らしさを感じます。欧米の小さな単位の町、アジアやアフリカの農村集落なども、町のたたずまい、集落の姿までがとても美しいのです。▼このようなコミュニティの心地よさはどこからきているのかといいますと、広い意味での経済関係あるいは交易関係から来ているに違いありません。マーケット、バザール、スーク、市(いち)などの名で物資を売買する場所は地球に普遍的にあります。そこでもちつもたれつ(ギブ・アンド・テイク)の経済的な相互依存関係や役割が生まれ、人間が一人あるは一家族では生まれない社会的な価値が生まれるのでしょう。▼一般的にいって、役割が多様にある町がいい町だろうと思います。一様な住宅地よりさまざまな業種のある混在型の下町の方がおもしろいですね。
▼十把ひとからげの束にされにくい社会からは、偉大な個性を持った人物が現れる度合いが大きいだろと考えます。日本ではアジアのトップランナーのような人がでにくいようです。現代史にでてくるアジアの政治家は、インドのガンジーやネール、中国の孫文や毛沢東、チベットのダライラマなどですね。アジアで初のノーベル賞をもらった文学者はインドの詩人タゴールでした。インドや中国の古代文明以来の伝統の厚みだといえば、そうかもしれません。経済大国になりながら世界史上まれな平等社会(今は格差社会ですが)を実現した日本社会は、国の顔である政治家を含め、個人の個性が希薄な社会です。それを地域から改良してくというのがここでの視点です。
▼日本がこれからめざすべき価値は「エクセレンス(excellence)」です。卓越したという意味ですが、すぐれたもの、気品や品格のあるものに対して使う言葉です。物質的に豊かになった後はどうしても気品や品格が欲しい。最近は、藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)など、○○の品格といった本が出ているようですが。▼さて、革命家であった毛沢東は、田舎の出身でしたが歴代の中国皇帝や高官のように立派な詩や書を残しています。以前、フランスと大統領と西ドイツの首相とが夜間に長電話をしているので、政府の諜報機関は何事が起ったかと盗聴したところ二人は音楽やオペラの話をしていたそうです。イラクのサダム・フセインの話もあります。彼がアラブ・イスラム世界の指導者に思われることはないだろうといわれていました。それは朗々とした声でコーランを唱えられないからです。ガラガラ声でした。かつてエジプトのナセル大統領はとても美しい声の持ち主で、アラブ・イスラム世界の指導者として崇められたそうです。このように第一級の政治家には実務能力を超えたエクセレンスが要求されるのです。みんなが一様にエクセレンスになれませんから、少数のエクセレンスな人が現れ、その人が周りに影響を与え、そうしたことから地域が、全体がエクセレントになっていくしかありません。
▼つまり地域には先導者が必要だということに置き換えますが、その地域おこしには「キーパースン」が必ずいましたし、これからも必要です。大分県大山町のウメクリ農業を導入した矢幡治美さん、湯布院町を映画祭や音楽祭で文化的な温泉リゾートにした溝口薫平さんや中谷健太郎さん、十勝ワインの丸谷金保さん、宮城県中新田町にバッハホールをつくった本間俊太郎さん(宮城県知事になるも収賄容疑で逮捕)、岐阜県のオークビレッジの稲本正さん、帯広のランチョ・エルパソの平林英明さんもその中に入るでしょう。みなさんはどんな人をご存じですか。▼地域おこしという観点からみたとき、他の人にはない独自の能力や技術、情報や人脈をもつキーパーソン候補者は、だいたい人口千人に一人の割合だと直感します。このことを福沢諭吉がどこかで言っていたように記憶しています。人口1万人の町なら10人、10万人の町なら100人ですね。そういう潜在的なキーパーソンに目を向けるのです。▼村瀬章『北のパイオニアたち』(はる書房)には、十勝のキーパースンたちについて書かれているので、ぜひ一読をしてみて下さい。そこで書かれていることを引いておきます。地域のキーパーソンがたちを素晴らしいと思うのは、その人自身が能力をもっているからだけでなく、その人の能力を生かしている周りの人たちがいるということです。キーパースン本人も、自分のやるべきことを地位や特権とは考えず、たまたまその時点、その場所で自分の知識や能力を生かせる場面があるからそうしているだけで、時と所が変われば別の人が中心になり自分は側面から協力しようと、というようなスタンスをもっているんですね。このような人がキーパーソンです。決してリーダーではないのです。これは地位志向ではなく役割志向の地域社会と言っていいと思います。▼(⇒人口希薄地域では一人二・三役を)
▼生活環境が新しくなれば文化が活性化するというのは間違いです。文化創造のためには、安定的な生活環境が必須です。長期にわたってあまり変わらない安定的な生活環境があってこそ、人々の生活感情も安定し、内面的に深い文化活動、あるいは斬新な、ときには革命的な創造性が生まれるようです。よく引き合いに出されますが、大英図書館の古色蒼然とした書棚のある部屋からマルクスの著作が生まれ、バロック時代の佇まいを残したウィーンの街からフロイトの精神分析が生まれてきました。いまだって、欧米の古く静かな大学都市の建物の中からノーベル賞級の急進的・根源的な研究が生まれているのです。▼日本の場合はちょうど逆で、騒々しい環境の中で凡庸なことを考えています。30年たつと建て替えられるような安手のピカピカ建築で、底の浅い実利的な頭脳活動が量産されているのです。
▼人材論について補足的に話しますが、地方分権に関しては、判断力や政策の立案・実行力を含め、都道府県や市町村の役所には50~100人に1人の割合で中央官庁のキャリア組官僚に匹敵する潜在的能力をもった人がいるとみています。▼それと、町づくりにおいては住民の意識傾向も知っておかなくてはなりません。住民は日常の身辺空間と惰性的時間の中に生きています。広い地域の将来がテーマになるような場面で、日常的惰性の中にいる住民の声をそのまま未来に反映させるのはとても危険です。十分は情報を提供し勉強してもらって上でなければ、住民の声は将来を決める有効な意見とはなりません。「情報なくして参加なし」です。ですから行政の住民アンケートは直ちに政策には結びつかないということです。
4.地域経済と市民(第四講再掲)
▼ここでは、地域経済にとってヒントいっぱいのボローニヤ方式を紹介します。博物館と職業教育と人材蓄積が、三位一体になっている見事さがあります。『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)からです。▼人口38万人のボローニヤには、たくさんのミュゼオがあります。ミュゼオとは、美術館や博物館や陳列館のことをいいますが、それが市内に三十七もあります。ついでですから、ほかの施設の数もあげておくと、映画館が五十、劇場が四十一、そして図書館が七十三です。さて、この三十七のミュゼオは、どれをとっても第一級で、半端なものは一つもありませんが、ここの産業博物館は、その独特なおもしろさにおいてほかに類をみないもののように思いました。そしてこの産業博物館は、使われなくなった煉瓦工場が使われていますが、徹底的に改造され、まったく新しく蘇って、底光りするような頼もしい建物になっています。▼それとこの博物館には三つの原則があります。一つは、展示は二カ月ごとに変えること。これは工業専門学校の生徒たちが、授業の一環としてやっている。なにをどう展示するかは、デザイン科の生徒たちがいつも知恵を絞っているので、お金はそれほどかかりません。ボローニヤには、イタリア最初のアルディーニ・ヴァレリアーニ工業専門学校があります。設立は1844年ですから歴史は古い。もっというとこの産業博物館そのものがこの学校の付属施設なのです。▼博物館の第二の原則は、ここの展示はほとんどが動くというものです。例えば、「シルク都市時代のボローニヤ市街」という、十五、六世紀ころの惚れ惚れするほど精密精巧につくられたミニチュアの模型があります。アペニン山脈の麓のなだらかな斜面に旧市街が広がり、遠くにポー川の支流のレノ川が流れているのが見える。まるで五百メートル上空に浮かんだ気球から眺め下ろしているようです。赤いボタンを押すと、軽い機械音とともに、街全体がぐんぐん上にあがっていき、その下から街の地下一階の模型がゆっくり迫(せり)上がってくる。そのころ、大抵の家の地下に紡績機がありました。つまり地下一階が小さな紡績工場になっていたのです。赤いボタンをもう一度押すと、すると、またもや街全体の地下一階が持ち上がって、その下から地下二階のミニチュア模型が迫上がってきました。その地下二階はまるで運河の網の目模様でした。遠くのレノ川から導かれてきた青い水が、街の下を右へ左へと巡りながら建物の地下を通り抜け、やがてレノ川下流へ流れ込む様子が手に取るように分かるのです。レノ川の水を導いて得た動力のおかげで、ここは世界一の絹の産地になりました。そしてボローニヤの絹はベネチアへ運ばれ、全ヨーロッパに輸出されたのです。さてこの展示館では、まだ見ごたえのある展示があります。ここの二階と三階をぶち抜いて、当時の紡績機が陳列されていました。上から下まで木で精巧に作られていて、赤いボタンを押すと、木琴でも奏でているような、気持ちの良い音を出しながら回り始めました。大小何千個もの木製部品が、大中小の歯車で調整されながら各自さまざまな速さで動いて、何千本という糸を見る見る紡いでいきます。見事なものです。地下を走る運河の網の目模様と、この紡績機を見るだけでも、成田・ボローニヤ間の航空運賃を払う値打ちがあります。この博物館はいきいきと生きていました。▼博物館の第三の原則は、この博物館がこの専門学校の卒業生の同窓会館の役割を果たすということです。ここの卒業生のほとんどが地元の職人企業に就職しますが、彼らは足繁くここに通って、たがいに親睦をはかったり情報を交換しあったりしています。こうして産業博物館を中心に分厚くて親密で巨大な情報網が形成されていることになる。同時にこの学校は技術研究所でもありますから、卒業生を対象にした集中講義が初中終(しょっちゅう)行われています。つまり、ボローニヤの職人たちは生涯ここで勉強するわけです。そしてその中心になっているのが、この産業博物館なのです。▼ここで少し注釈を加えると、職人企業とは、製造業では従業員が二十二名以下、伝統産業では四十名以下の、小さな企業のことです。ここで働いてやがて熟練工になると、いつでも独立できます。
▼シルク都市時代からの技術の集積、熟練工たちの巨大な情報網、職人を大切にしようという意思、そして生まれた土地で育ち、学び、結婚し、子供を育て、孫の顔を見ながら安らかに死ぬのが一番の幸せという生き方、そういったこの土地の精霊がボローニヤに、フェラーリといった高性能自動車や、ドゥカーティといったものすごいオートバイを生み出したのです。ちなみにセリエAのサッカーチーム「ボローニヤ」を財政的に支えているのも、この産業博物館を中心とする職人企業のネットワークだそうです。▼そして今、ボローニヤは世界の包装機械の中心地になっておリ、パッケイージングバレーと呼ばれています。ティーバッグと薬品の充填包装システム機械では世界一のIMA社を訪問し話を聞くと、この会社は1924年に設立されたACMAというチョコレートの「包装機械メーカーがあって、それがIMA社の母会社となそうです。戦後1947年にあの工業専門学校を卒業したロマニョーリという青年がここで熱心に仕事をして熟練工となり、1961年に母会社から独立し、IMA社を設立した。この時に大切なことは、「母会社の技術を持ち出すことは許されるのですが、母会社と同じものを作ってはいけない」ということです。ですから、チョコレートの自動包装機械の技術をもとに、自動ティーバッグ包装システムを開発し、つづいて自動薬品充填システムを完成して、世界市場を制覇したわけです。もちろん、買い手の工場に機械を納めたら、それでおしまいというのではなく、しばらくの間、機械と一緒に暮らします。そして買い手の要望を聞きながら、機械の微調整を行います。買い手側の技術者がその機会を完全に使いこなせるまで、その地に留まっているのです。▼このように母会社のACMAから包装機械作りのノウハウを持って分かれて行った企業は、戦後から現在までに、五十社以上にも及んでいるそうです。そして、この五十の包装機械企業のネットワークを、部品を供給する三百社が取り巻き、ボローニャに包装機械についてのありとあらゆる技術を集積させている。こうなったら強い。パッケイージングバレーといわれる所以です。▼IMA社では日本茶の自動ティーバッグも作っているそうです。注文主は伊藤園だそうです。日本人の舌は敏感で、最初はリプトン紅茶などと同じに、ティーバッグをホッチキスで止めていましたが、どうも金気を嫌うことが分かりました。そこで糸を使うことにしたわけですが、これが技術的にむずかしい。ティーバッグの口を糸で結わえる装置を考え出すのに三年かかりました。それでもこれが好評で、いまではリプトン紅茶などもこのやり方です。つまり日本人の敏感な舌が、世界の紅茶バッグの味を向上させたわけです。▼こうして、ボローニヤの地域産業が生まれ育ってきました。ここには貰えるヒントがたくさんありますし、その流れが感動的です。
5.町づくり人・故Yさん
ここでは、この十勝・帯広の地域づくりを支えてきた方(四人)を紹介します。私が影響を受けた人たちでもあります。まず、故吉村博さんからです。▼明治四十四年池田町に生まれる。旧制帯広中学校卒、水戸塾中退後、父の吉村木材会社に入社、同社専務。その後会社が倒産。帯広市公安委員長、公民館運営委員長、消防団副団長を経て、昭和30年に社会党公認で帯広市長に当選、以後五期連続。革新市長の最古参。趣味は魚釣りと、若者と酒を飲むこと。ゴルフ嫌いで有名。昭和四十九年市長を辞任。昭和五十八年死去。人間的な魅力は、なお市民の記憶に新しい。吉村冬俳句集に「白玉の味なき味をこのむなり」「覇を去りて雪の故山に帰りませ」「くさめして小さき悟り落としたり」がある。▼『これが本当の町づくりさ。鋳型の25万都市なんて話にならねえー』(昭和47年11月号「月刊エコノミスト」);二十万人都市人口制限論の根拠は、その町が飯を食っていける一つの経済単位である。大学や教授など人材温存、音楽堂・美術館・博物館など文化施設の維持、きめこまかい行政ができる単位である。また、公害の線は人口が二十万人辺りから急に立ち上がるような気がする。…オレはとことんロマンチストだ。非常にピンが甘いんだ。そこでね。逆にうんと科学的な行政をやろうとした訳だな。企画室をつくり自前の総合計画をつくった。全国でも早かったな。町の看板として「近代的田園都市」を提案したが、説明するとなると時間がかかって訳が分からなくなる。その頃は、大体が畑の中の町ですから、田園都市なんて言うと馬糞を思い出して泥臭いんだ。すごく。後に山形市が「文化的田園都市」を提唱したので、同憂の士ここにありと勇気づけられた。…町というのは個性が嫌になるくらい、泥臭いくらい個性が出ているものだとオレは思う。日本列島改造論の、あんな型でつくったようなもので、三十も五十もあちこちできたら、鋳型町だな、これは。そんなの駄目さ。…国の打ち上げた政策に直ぐに飛びつくべきでない。利益あるのもいいけど、いきなり自分を無にして飛びつくなんて話にならない。少なくとも首長のなす役割ではないな。首長はもっと偉いもの。そしてもう少しサムライになっていなきゃ。
▼『グリーンベルトに囲まれた街づくり』(昭和47年11月号「中央公論」);近代的田園都市を支える「緑の工場公園」とは、グリーンベルトで囲まれた百八十万坪の内陸工業団地で、煙と汚水はタブー。さらに「帯広の森」は、二十万人の街を包む六百八十六㌶の面積で幅五百五十㍍、長さ十一㌔の緑地構想。十勝川と札内川の堤外地四百九十㌶をあわせると一千㌶を超える。これが帯広のグリーンプランである。…地方都市、自治体というのは個性ふんぷんとした泥臭いもの。そこに住む人の意思、感情の内側まで入り込んでいくことなしに、地方政治はない。ここが「列島改造論」の最も欠けたところである。▼『帯広のまちづくりとその姿勢』(1973年10月号「地域開発」;数年前の田園都市は肥やし臭いなんだか惨めな印象がありましたが、最近はいかにも緑の滴る、空気のいい、水のきれいなというイメージに変わってきた。じっと十年辛抱すれば、何かいいことあるものです。…計画は自分の手で作り上げ、それを学者に監修してもらう位がいい。…自分の町を二十万人という具合にきちっとした目処をたてて、その目処の中で施策をしておけば手戻りがないわけです。…なぜ人が多ければいいかというと、それは経済的な問題でしょ。経済的な視野で町づくりを考えられたらかなわない。町づくりはそんなものではない。…何か日本一をひとつ作っておかなければ話にならない。嘘でもいいから一つや二つ日本一を作って、一・二年言っておれば、本当になります。この事を考えて下さい。
▼『街づくりを考える-市民定員論』(昭和46年「北海道自治研究」);海のないところに港はつくれない。山のないところで登山はできない。そうした自然の条件や環境を無視してはどんな良い考えも夢想に終る。…二十万人都市定員論の意味は、一つは人口と都市公害の問題である。二つには都市を整備したり都市に必要な種々の施設の維持管理がやや可能なこと。三つには経済的にもある程度充実がはかられるだろうし、かつさまざまな情報も集積できるだろう。四つには大方の分野に相当の人材が居着いて貰えるだろう。五つには行政関係でも目の届く、いわゆるきめ細かい行政ができるだろう。住民との意思交流ができるだろう。…新しい街は伝統らしいものが何もない。伝統の気質を何にするか。私は子供と老人を大切にする。この考えを固定化してそれを伝統に仕立て上げたいと思う。単純な、素朴な、そして泥臭いものほど、伝統としては呼吸が長いと思うのだ。動きの激しい時代だから、地方色がローカルなものが、逆に光を増す。であるから、われわれは道産子の持つ良さ、抜けているもの、大まかなもの、泥臭いもの、開放的で積極的なもの、そういった気質を大事に保存し、それをよい方向に凝固させたいものだと思う。▼『豊かな緑に囲まれた都市づくり』(昭和48年10月号「公園緑地」第34巻1号);将来帯広に住むであろう二十万人の豊かな生活空間を保障する市街化区域を、文字通りすっぽりと包み込む「帯広の森」は、莫大な資金と歳月が必要となる。しかし、こうした事業は時代の社会的要請となることは必死であり、長期的展望のもと英断を持って実行する必要がある。…この土地に開拓の鍬を下ろして、依田勉三のちょうど裏返しの夢を九十年後の子孫たちが待望を抱いて、これから歩みだす。歴史とは面白いものだ。…小さな庭に、朝から小鳥が来手いる。やがて見る限りの樹林に小鳥が鳴きあい、小さな獣が走り回るであろう。おそらく私は、それを見ることはできない。だが、子供たち、子孫たちは。
6.町づくり人・故Kさん
つぎは故木呂子敏彦さんです。▼大正3年(1914)十勝管内池田町に生まれる。旧制帯広中学卒。教員、十勝農業学校研究科生、道庁勤務を経て上京。雑誌編集に携わり、応召。昭和23年公選制初の道教育委員に当選し二期八年努めた。道農業自立推進協議会常務理事を経て、昭和35年帯広市役所入り。昭和46年から49年助役。勇退後、村おこし運動に奔走。音更町在住。博学で行動の人である。▼『ヨーロッパの地域開発』(1971年「工業立地」第10巻2号・日本立地センター);ヨーロッパの近代には中世があり、アメリカの近代には中世がない。…都市と道路の関係でその国の性格が決定する。アウトバーンは絶対に都市の中には導き入れず、むしろスプロールをこの道路で救済している。一方、日本の国道一号線は銀座の真ん中を走り、アメリカではアラスカ・カナダへのフリーウェイがサンフランシスコの中央を通り抜ける。ニューヨーク、シカゴなどは白痴的都市。…ヨーロッパの市役所を訪問すると、古くからの都市景観の歩み、あるいは古い市街地図から説明が始まる。必ず都市計画の歴史から説明が始まることに感動した。彼らは都市の歴史性から、都市計画の未来を語ろうとしている。…加藤秀俊はゲルマン共有地の延長であるパーク(公園)と地中海文化としてのプラザ(広場)を比較しているが、どこの都市にも「へそ」があることに驚いた。…中世を欠落させた日本の近代化は、土着を破壊することになる。連続性のあるヨーロッパの近代化と、非連続性のアメリカの近代化にはっきりした相違がある。
▼『水耕の土壌肥料学から地球にやさしい土壌肥料学へ』(1990年旭川大学地域研究年報第13号);中村桂子の「土なし農業」を批判。…土壌管理の原則は、堆きゅう肥の施用、微量要素の施用、土壌診断の活用である。一般的な微量要素の欠乏は、ルーサンではホウ素、トウモロコシでは亜鉛、果樹・牧草では鉄である。▼『森が土を作り水をつくる』(1989年旭川大学地域研究年報第12号);熊本県阿蘇山麓の七滝村(現朝日村)では、土地を切り開こうとしたが水がない。そこで半世紀にわたって吉無田国有林(旧細川家領地)に部落総出で植林し、枯れ川に滔々と水が流れるようになった。▼『柳田國男・北海道の旅を追って上中下』(1985年年旭川大学地域研究年報第7・10・11号);昭和8年8月7日から9月5日に、網走・釧路・帯広を経由。吉田巌日記によると21日夜帯広駅下車、信陽館に宿泊。翌22日昼過ぎの列車で旭川に向かう。…十勝の団体入植の出身地は、焼畑農耕地帯が圧倒的であったが、五年輪作(むつがえし)と空中窒素を固定させるハンノキなどマメ科の樹木を植林するなど地力維持体系を確立していた。不合理な焼畑農法であったとすれば数千年も続くはずはない。…昭和3年、帯広伏古コタンのアイヌ酋長伏根父子と柳田は朝日新聞社屋上で写真。
▼『私の土地利用開眼』(昭和56年旭川大学地域研究年報第3・4号);伊丹と羽田の間の夜間便で、驚いた。漆黒の闇に、東海道は光の帯で鈴鹿峠だけが寸断。こんな狂気じみた都市構造をもつ国なんて、世界のどこにある。都市というものは構造的に、点と線にとどまり、面として凝縮するものという意識の欠如の結果である。…氏の戦時体験であるロシアの森林労働。▼『欠かせぬ道東の視点』(昭和50年2月「北海道を考えなおす」シンポジウム);ソクラテスは「汝を知れ」と言っているが、十勝・道東の特性、可能性を徹底的に考え抜く時であり「二眼レフ論」を提唱したい。十勝圏を考える場合、帯広を中心主義になれば、浦幌や陸別は偏狭になる。ところが道東一体でとらえれば、十勝圏の入口になる。例えば農業の場合、牧草の生産力が低く冬の飼料確保に困っている根室の酪農地帯に、十勝のビート・豆作地帯から副産物飼料(葉と茎)を送り、地域連携を重視したい。▼『日本の土地利用を考える/鳥の目・ミミズの目から』(1980年8月号「技術と経済」);森林と農業の基本視点からの土地利用展望。…農地は農民的土地利用者集団の公益的共有法人の管理所有とし、私有財産としての移転を排除すべき。その上で耕作利用権を保護する。農地も水系別に一種から三種までの用途を指定。
▼雑誌ユリイカ『総特集・宮沢賢治』(昭和15年5月)の座談会の冒頭に「自己紹介、私は神田の木呂子俊彦です」とある。氏の目に見えない師は賢治。その他文献は以下の通り。『弱肉強食の論理から棲み分けの理論へ』(1982年5月「ふるさと十勝」)、『アメリカ農業視察報告』(1983年10月「ふるさと十勝」)、『東ドイツ農業と矢島理論』(1981年10月「農事組合だより」)、『小規模な農協をめざして・中札内』(1981年11月「地域開発」)、『日高の水資源』(1983年3月「ふるさと十勝」)、『十勝から北海道を考える』(昭和53年旭川大学地域研究年報第1号)、『技術革新と教育』(「北方農業」)、『私のなかの歴史』(1992年8月20日~31日北海道新聞夕刊)。
7.町づくり人・Sさん
つぎは、下河辺淳さんです。▼1923年東京生まれ。国土事務次官など国土政策に長く携わる。新全総の水系単位の開発は、十勝圏をモデルにしたと言われる。『戦後国土計画への証言』(1994年日本経済評論社)から;一つの国の土地利用を見ていくと、一番奥に山があって、山を下りると、森がずうっと続いていて、この森というのは、水と木材を供給しているだけではなくて、信仰の対象でもあった。そしてそれを下りると里山があって、里山というのは薪炭林の供給地であったり、あるいは小動物の生きる場所であったり、情緒的には小川のせせらぎとか、仲秋の名月のススキであったりという情緒深いものがあって、そして紅葉があって、日本人の情緒を支えていた地域があって、それを下りると畑が出てきて、それを下りると水田があって、お米を作って、しかも面白いことに、大名の偉さを何万石という石高で表現するようになっていて、いい水田を持っていなかったらいい大名ではないというようなことになる。水田を去ると、今度は城下町が出てきて、城下町は、軍事基地や行政が中心であったけれども、その周辺には、職人がいっぱい存在して、手作り型の手工芸品のメッカだったり、文化や音楽の中心でもあった。そしてそれを下りると海があって、船舶が経済を支えているという構造なんです。つまり、いま申し上げた山から海までを一貫していたものは水系なんです。だから、上流から下流までの水系の一貫管理という形を土地利用として、こんなに上手くつかまえていたということは、すごいと思うのです。国土管理史に学ぶべきことはとても多いという感じがする訳で、そういう国土政策をやってきたという歴史があることは、もっと勉強すべきことだと思うわけです。…江戸には水系主義があったが、明治はどちらかというと交通主義になった。交通主義というのは、道路でも鉄道でも、日本の地形では海岸線に並行することが原則であって、水系と垂直に交わる。そのことは、土地利用の混乱要因でもあるわけで、もう一回水系に戻って、森の管理から都市の管理まで考え直してみようという根本的な提案を国土政策としてはやりたいと思っているわけです。そういう発想からいうと、二十世紀の巨大都市主義を否定することにさえなっていくのではないか。巨大都市は、生態系がどうしても受けて立てない要素がぬぐいきれないという気があって、生態系と人工系が共存できるものはどんなものかを探っていくことに、一番関心が大きい。…瀬戸内海だってちょっと太い川でしかない、と豪胆なことをいう人です。
▼プランナーという人材は、現場で訓練しなければだめなんです。出世する人ほど人事のタイミングが早い。それが人材が育たない最大の理由です。私のように十年も続けてやらされていれば、プランニングできるようになる。そんな難しい話ではない。専門なんていう難しさよりも、相手の話をよく聞くことがプランナーのテーマなんです。それで納得のいったことだけを言えばいいので、自分にアイデアなんて要らないのです。ただ、十年もバカバカしいことをやる元気があるかどうかだけの選択の問題です。…先祖が植えた木を現在使って、子孫のために木を植えるのが人生五十歳の哲学なのです。ところが人生80歳の時代になると、小学校の時に植えた木が、自分の還暦の時に自分の家の木材になるというようなことになると、人間と森の関係がちょっと違って見えてくるのではないか。…計画の期間については、経済の時間軸とドッキングさせると五年・十年とうことになるが、空間計画としては二十年・五十年、長期の未来像は百年から五百年、場合によると千年というように三段階になっていて、根本的に違った思想体系を持たざるを得ないと思っている。
8.町づくり人・Mさん
最後に村瀬章さんです。▼1943年岐阜県郡上八幡町に生まれる。1966年京都大学建築科卒業、1971年東京大学都市工学科博士課程中退、現在村瀬都市研究所を主宰し各地の都市計画に参加。▼『山梨県地域づくりフォーラム-21世紀への地域づくり』(平成2年11月22日);日本社会のどこかに気品、気位、あるいは洗練のようなものが欲しい時代になってきました。そういうエクセレントなものがないと、われわれ日本人は本当の満足感や自尊心を持つことができなくなってきている。…国や地域のリーダーにもエクセレントが必要です。音楽や絵画など文芸百般に通じる感覚・感性・素養が求められている。これがないと先端的まちづくりができなくなってきている。…これからはヨーロッパが手本になる。どこでも都市景観が美しく、農村に行くとことさら美しい。さらに生活様式に関しては、大変落ち着きのある生活をしていることである。▼エクセレントな地域づくりとしての国際化。国際化という視点から見ると、日本の地域をよくする課題が山ほど出てくる。都市の騒音(防災無線の公共放送)・騒色が農村まで押し寄せ、小鳥の声や川のせせらぎも聞こえない。望遠レンズでトリミングしないと日本の農村の景色はビューティフルではない。▼エクセレントな地域づくりとしての芸術文化。活性化のためには、地域も異質なものと出会う必要がある。かっての閉鎖的な農村共同体でも村人は客人(まれびと)あるいは祝人(ほいと)といった外からやってくる人々を歓迎した。地方にとってもう一つの異質は、高度な芸術文化である。なぜ異質かというと、高度な芸術というのはよく分からないからである。クラッシク音楽は聴く度に新しい発見がある。分かろうとする努力することが精神を活性化させる。気持ちよく分かる演歌では村おこしはできない。大都市が若者を惹きつける最大の要因は芸術文化に触れる機会である。「地方は東京の真似をするな」などという言葉を信じるな。東京にあるエクセレントな部分を積極的に導入すべき。▼エクセレントな地域づくりとしての地域教育。地域の大人たちがインストラクター(指導者)になって地域の自然や施設その他を活用した地域教育プログラムをつくり、子どもたちのグループを指導。…地域の人々が地域の伝統に自信を持つことができれば、外からくる異質なものを堂々と受け入れることができる。その一点で過去が未来の資源になる。
▼『原点からの都市計画』(昭和52年北海道自治研究99号);家族はデザインできる。殺人事件の四割が肉親関係で生じている。父親というのは人間の発明品でたかだか二百年の歴史しかないが、母親は一億年の歴史を持つ。家族の機能は、子供の「社会化」と大人の「安定化」の二つである。…劇作家の木下順二氏は朗読の習慣を復活させようという。「話す・聞く」という原始的コミュニケーションが団欒の中心になる。家族が個人にとって最初の「公」であるような関係においては、明確な言葉できちんと話さなければならない。話すことが楽しみであるためには、機知や気取りも必要であろう。そこで磨かれるのは社交のセンスといってよいものである。そういうものがあるところには他人も入り込みやすいであろう。居間は公共空間であるからプライバシーがなくてもよい。…日本の家屋がもう少しオープンであったなら、近隣との団欒は合奏、合唱、小劇場と多種目になろう。これは地域社交生活といえるものである。▼『北のパイオニアたち』(1983年はる書房);百年目を迎えた十勝の開拓者たちは、次のような特徴を持っている。第一に、自然環境が豊かなこともあって、野性的である。大きな筏を作って川下りを楽しむ。凍った湖の上に雪の家を作って住む。そういう野性的な遊びを次々考え出している。第二に、十勝の開拓を始めた人たちが福沢諭吉の門下生だったこともあって、独立自尊、あるいは自立の気風が強い。気持ちだけそうなのではなく、自分の手足を使って何でもやってしまう実学派の独立人である。岩波文庫の「フランクリン自伝」で知られるベンジャミン・フランクリンのような人間だと考えてよい。第三に、歴史の浅い開拓地だけに一人で出来ることには限りがあるので、連係プレイがうまい。このように「野生・自立・連携」という三つが、十勝の開拓者たちがいま持っている特質である。これは二十一世紀に向かう日本人に必要な性質だと、わたしは思う。…イーストコースト型都市計画は132~141頁に詳しい。
▼『みちのく・高らかルネッサンス』(日本経済新聞1989年9月13日);明治以降の芸術家などの輩出を調べると、芸術、工芸などの造形芸術(空間芸術)では西日本が圧倒的な優位に立つのに対し、文学、音楽、芸能などの無形芸術(時間芸術)では、東北も優れた人材を多数輩出している。『東北は唱う』(筑摩書房1989年);バリ島のガムラン音楽の演奏で銅製の打楽器がぶつかりあうと可聴域帯を超えた高い周波数の倍音を生む。それが人間の脳に作用すると快感のために恍惚状態になり失神する人も出てくる。アフリカのピグミーたちは森の中で木々のざわめきや動物の鳴声など自然が発する高周波数の音をいつも聞いているのでストレスはない(大橋歩)。…人間が生理的快感を最高に得る方法は三つあって、一人でできるのが「食」、二人でできるのが「性」、三人以上でできるのが「祭」である。…ポリフォニーの深淵:ルネッサンス期のポリフォニー合唱曲は、それ以降の時代の音楽に比べるとテンポも穏やかで、とくに宗教合唱曲は深い憂愁の情感に浸されている。…時代の病理(宮本忠雄;精神医学者)でみると、中世はヒステリー、ルネッサンス期から16・17世紀まではメランコリー、19世紀はパラノイア(妄想症)、20世紀は分裂症。…あえてモノに拘泥しないその高度に形而上的な志向がリベラル・アーツの教示である。東北で歌う人達は、ここが深く地域性と歴史性にとらわれた土地であったゆえに、そこから垂直に突き抜けようとしているのである。地は分有され天は共有される。ポリフォニーの彼方に、開かれた精神の王国、魂の宇宙都市が望見される。
▼他文献『まちづくり教育の理念と展望』(昭和56年6月「都市計画」)、『現代建築はいかに可能か』(建築文化241号)、『開拓都市・帯広の形成』(都市計画80号)、『住宅建設と都市計画』(北海道自治研究56号)、『帯広・未来の住人たち』(「都市と住宅」1972年12月号)。
以上で、地域における「これまで」の市民、「これから」の市民の話をしました。終わります。
9.資料編
▼書籍資料/『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)。
▼印刷資料/「(資料)アイヌ文化を知ろう」。
▼写真資料/「マサイ族村の観光(ケニア)」。
2010年3月8日月曜日
地域経済のデザイン (MA-4)
04.地域経済のデザイン
内容
01.産業政策より職業政策を... 1
02.地方の中小企業が活躍する時代... 3
03.ちょっと寄道、シカゴ学派... 4
04.地域収支論から考える... 5
05.地域おこしの失敗と成功... 7
06.産業別デザイン・農業... 8
07.産業別デザイン・工業... 9
08.産業別デザイン・商業... 10
09.産業別デザイン・観光... 12
10.地域経済と人材蓄積(講義5再掲)... 14
11.地域経済の最近の動き... 16
(1)葉っぱを商品にお年寄りが一千万円も稼ぐ町(徳島県上勝町)... 16
(2)商社勤めのUターン経営者が家具産業を復活(福岡県大川市)... 16
(3)脱公害と環境技術の開発が進む(三重県四日市市)... 17
(4)農業+加工+流通=6次産業を推進(島根県桜江町)... 17
(5)一人の市民による観光都市の再生... 18
12.資料編... 18
01.産業政策より職業政策を
▼まず、産業政策より職業政策をという話から始めます。成熟社会においては、個人の職業から地域づくりを考えることも可能です。住民一人ひとり、つまり個人の立場に立って考えると、どんな職業を選択し、そのためどんな学習や訓練をするのか。しかもどんな職業に生きがいを見出すかということは人生設計にかかわる大きな問題です。大人にとっても村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬舎)はとても参考になります。動物、スポーツ、映画、音楽、料理など、いろいろな「好き」を入口に514種の職業を紹介しています。派遣、起業、資格など、雇用の現状をすべて網羅した仕事の百科全書です。この本は13歳だけでなく53歳の人たちにも人気があるようです。どんな人だと思いますか。それはリストラされた人達です。そこでもう一度、仕事とは何かを見つめるそうです。
▼では、どんな職業が魅力的なのかというと、第一に、個人の個性や才能を表現できる仕事です。広い意味で芸術家、アーティストの類ですね。詩人や小説家もこれに入りますし、研究者や発明家などもそうです。▼第二に、社会を変えていく仕事も、面白く生きがいが実感できる仕事です。昔なら、あるいは今でも特定の国や地域でなら革命家がその代表ですね。テロではありませんよ。革命家までいかなくとも社会改良家という仕事は幅広くあります。政治的指導者にも本来はそのような役割があります。でも日本の政治家にこのタイプは少ないように感じます。また、一般市民がNGOやNPO活動に参加すれば第三世界や発展途上国で社会改良家としての仕事を行うことができます。自分の意思決定が社会に影響を与えられる企業の経営者もこれに加えてよいかもしれません。が、これも今の日本には少ないでしょう。ところで、この分野の職業でとくに重要なのは教育者、つまり教師です。本来教育というのは未来の世代である子供に託して社会を変えていくことにあります。若い人で、もしも世が世なら革命家や社会改良家になったのに、などと考えている人は教師になるべきです。
▼第三の分野としては、社会を維持していく仕事も重要であり、そこに意義を見出す人も多いでしょう。民間の企業や商店も社会の維持に必要ですが、ここでは儲けることよりも社会的使命感が期待される職業を想定します。社会を維持していく仕事としては、国・地方の行政職員、裁判官、検察官、警察官、消防士、保健婦(士)、それに兵士(日本は自衛隊)などの公務員がまず考えられますね。民間人としては弁護士、公認会計士、助産婦、医師、葬儀屋(おくりびと)、大工、左官、建築士、電気・ガス・水道の保守技術者、ごみ収集業などがこれに相当します。社会を維持していく仕事は、総じて何らかの専門的技術や資格を必要とする職業であることが多いと言えます。
▼長期的に考えると、第一の自分の個性や才能を表現する仕事、第二の社会を変えていく仕事は、コンピューターを含め機械に置き換えることが不可能な分野ですから、将来有望な職業だといえます。第三の社会を維持していくこの分野は、部分的には機械に置き換えられますが将来とも人間が中心であることに間違いはないでしょう。また、人と人が対面することによって信頼感が生まれ、社会が安定して楽しくなるような仕事が機械化されるのは好ましくありませんから、商業やサービス業の多くは将来とも成り立つでしょう。それと生命を相手にする仕事もできるだけ人間がかかわるべきです。それは何だと思いますか。農林水産業です。
▼以上が、とりあえずの職業分類なのですが、このようなことを考え研究し、住民やその子供の意思なども調査して、各地域で「職業振興長期ビジョン」を作成するのとよいでしょう。これは産業ではなく「職業」を軸にしたその町の住民のライフスタイル計画ともなります。このような計画をつくることによって、地域の施設整備、余暇施設とか産業施設などを整備する根拠がはっきりしてきます。また、それに基づいて将来その地域に必要で望ましい職業を担う人材を育成する教育・研修機関を整えていくことです。産業振興より職業振興を考えることは、人間の顔の見える、夢のある話です。日本の場合は、どこかで手掛け、成功すれば一気に全国にはやるでしょうね。でもこれは、地元でしっかり取り組んでいてよいことです。▼これからの成熟社会では、個人の職業から地域の産業構造、ひいてはその町の都市像をデザインしていくようなアプローチが大事なのです。
▼ちょっと寄り道になりますが、村上龍『13歳のハローワーク』には、こんな職業も紹介されていて目を引きました。「何も好きなことがない、とがっかりした子供のための特別編」に普通はいけないこととされる「ケンカが好き」「戦争が好き」なら、「傭兵(ようへい)」という職業を案内している。「外国の軍隊に雇われて働く兵士。フランスの外人部隊が世界的によく知られている。フランス外人部隊の場合、20歳から40歳の男子で、国籍は問われない。偽名での申し込みも可能だが、指紋でインターポール・国際警察に手配されていないかチェックされる。もちろん犯罪者が紛れ込むのを防ぐためだ。訓練は過酷を極め、フランス語のトレーニングもある。武器の扱いを覚えるために日本の暴力団員が応募することもあるらしいが、たいていはフランス語のトレーニングに付いていけず挫折するという。拷問を受けたり、重傷を負ったり、死んだりしてもいっさい文句は言わない、ということが記してある契約書にサインしたのちに入隊する。フランス軍の海外出兵時に、先兵として投入される。近年は、アフリカの紛争・内乱への参加が多く、多くの傭兵が、部族間抗争に巻き込まれ、目をくり抜かれたり、耳をそぎ落とされたり、性器を切り落とされたり、内臓をライオンやハゲタカに食べさせられたり、残忍な方法で拷問されたあと、殺されている」。とありました。
02.地方の中小企業が活躍する時代
▼中小および中堅企業のガンバリについては、よく米国が例にあげられますが、巨大産業のIBM社などの業績がふるわないと、その隙間をうめるようにコンパックとかデルとかの中堅コンピューター企業がでてきます。あるいはアップル・コンピューターがガレージ・カンパニーから成長してくるといった具合です。ですが、この日本では大企業をスピンアウトして自分の会社をつくる人やベンチャー・キャピタル(将来に向けて資金を提供してくれる金融組織)が、とても貧弱なのです。で、そういうことがこれから日本で起きるとすれば、それは地方からだとおもわれます。というのは、大企業をスピンアウトする場合の動機が郷里の親が高齢化したからというようなことがUターンのきっかけになりますし、また東京のような大都市では土地や労働力が限界状況にあります。金融も大企業中心です。それに大都市では新しい発明を考えられるような静かでフレッシュな環境が失われてしまいました。
▼ところで、日本企業の寡占が目立っているもう一つの分野にビール業界があります。大蔵省いまの財務省の規制によって中小規模のビール会社が成り立たない制度になっていました。もっとも今は一部規制緩和されてきているとはいうものの、ビールのように内容物の95%が水で容器もガラスや金属というような重くてバルキー(かさばる)な商品は、できるだけ地方ごとに生産・消費のサイクルするのがイイわけです。欧米ではバドワイザーやハイネッケンのような世界ブランドもあるかわりに、州ごとにビール会社があり、またパブ・ブルワリーといいましてレストランの自家製ビールがあります。日本はこのタイプが多いですね。道内では帯広や北見が先駆です。▼地方産業といえば、これはエコノミストの日下公人さんに教えていただきましたが、北海道の人たちが使う手袋の多くは四国で生産されているそうです。西日本とくに四国・中国地方にベンチャー的な企業が多彩にみられるそうです。
▼そこで企業のタイプを見てみますと、富士山型とアルプス型があるようです。海外、とくにイタリアでは中堅・中小企業が多いのですが、世界的ブランドとなっている企業もたくさんあります。北イタリアのコモ湖周辺からミラノにかけてのファッション産業がとくに有名ですね。中小企業・地場産業論に詳しい清成忠男さんは、英米などの「アングロサクソン型資本主義」や日本などの「東アジア型資本主義」に対して、イタリヤやアルプス山麓の企業群を「アルペン・アドリア型資本主義といっていました。▼もっと言うと、日本は富士山型産業だと思います。頂点の大企業とそれを支える系列化した中小企業群のことです。系列は「ケイレツ」と発音すれば、「スシ・スキヤキ」と同じく外国でも通じるそうです。片やイタリアはまさにアルプス山脈、つまり中小企業が群生する連山・アルプス型だと言われています。
▼これからは、大企業全盛の時代ではなくなります。これは労働力の供給サイドからもいえます。地方から中央への人材供給が枯渇するからです。理由は、長男長女の時代ですから、地元に残るか、あるいはいったん大都市に出たとしてもUターンする確率が高いわけです。事実、地方の高校生が東京の大学に進学する割合が少なくなっています。ですから、地元に根づいたセンスの良い若者たちが、大都市に対してハンディキャップを感じないで、のびのびと多様な職業を開発していければいいわけです。それに、就職するならできるだけ小さくてイキのよい企業を選ぶべきです。
03.ちょっと寄道、シカゴ学派
地域経済に及ぼすのは国際経済ですから、ここでちょっと寄り道してプチ学習しておきましょう。『悪夢のサイクル・ネオリベラリズム循環』(内橋克人・文春文庫)からです。▼100万ドル以上の資産をもつ日本の富裕層は年々増え続け、今日では141万人。世界の富裕層の16.2%(メリルリンチ調)。一方で、かつては中流の暮らしを楽しんでいた家族は中流から脱落し、ギリギリの生活をしている。▼ケインズ学派とシカゴ学派の争い。ケインズが唱えた公共政策とは、資本家や大企業がその優越的な力で市場をほしいままに利用することを政府が規制し、不況に対しては政府が財政投資と公共事業によって雇用を確保することでその悪影響を緩和し、累進課税を強化し社会福祉を充実することで、富者から貧者への富の再配分をおこなう、といったものです(⇒ルーズベルトのニューディール政策)。しかし、ケインジアンが困ったのは、失業率とインフレの関係でした。失業率を低下させようとすればインフレが発生し、インフレを抑制しようとすれば失業率が高くなるというトレードオフの関係でした。これを「フィリップス曲線と呼びます。この曲線によれば、インフレ率が上がれば、失業率が下がるはずなのに、70年代は必ずしもそうならず、失業率も上昇した。しかし、シカゴ学派のミルトン・フリードマンは違いました。インフレを退治するためには、貨幣の供給量を減らすしかないと考えました。公共事業や福祉事業による需要創出効果は無駄である、というこの考え方をマネタリズムとも呼びます。規制はいらない、フリーマーケットにしろ、という新自由主義(ネオリベラリズム)たちの主張であり、この新古典派経済学はレーガン政権の主軸になります。▼しかしこのネオリベラリズム・サイクル(新自由主義経済循環、佐野誠新潟大教授の提起)では、ケインズのいう一定のサイクルでの需給調整が起こらず、一般的な意味での景気循環とはならない。つまり自由化によって、海外からの資金が集まりバブルが起きるのです。このバブルがくせもので、企業だけでなく自治体も国も借金をしまくるわけです。経済が膨張していますから借金をしてもすぐに返せると考え、財政規律がゆるみます。そしてバブルがはじけます。このとき、資本は一斉に海外に逃避し、国、自治体、銀行、企業は一挙に不良債権をかかえます。そしてリストラを始めるのです。このときに、さまざまな規制緩和などの「改革」がされます。そして国や自治体、その国の価値が、安く評価される時をねらって、一気に海外資金がなだれこむ。この繰り返しが果てもなく続くということなのです。その過程では、弱小企業の淘汰、雇用の喪失、貧富の差の拡大、外資の進出などが起こり、人心は荒廃します。日本は、ネオリベラリズム・サイクルがちょうど一巡しようとしているところなのです。
▼世界の為替市場で取引されるのは年間300兆ドル、1日当たり1兆ドルにも上る資金移動の、実に90%以上が投機を目的とする短期の取引なのです。貿易などの決済に本当に必要なドルはいくらかというと、8兆ドルあれば足りるといいます。にもかかわらず、300兆ドルという余剰マネーが自己増殖を狙って世界を駆け回っている。故にこの短期資金の移動を抑制することで、世界経済はより安定し、実体経済を中心とした姿にかわっていくはずだというのが、トービン税の基本的な考えです。▼アメリカでは、サブプライムローンによって低所得者層に到底返済できない借金を負わせ、住宅を買わせていました。それによって住宅の値段はどんどん上がっていく。値段が上がっているうちはいいのです。購入価格との差額を元手に、クレジットカードを作り、それでまた消費をする(中国と日本はそこに輸出する)。そうしてこうした借金自体を証券化し、小口化し、他の金融商品と組み合わせ、日本を含む世界中の金機機関と政府に売っていました。つまり、世界中に借金をすることで、アメリカは消費の宴に酔い、それによって世界経済は維持されていた。見た目は派手だが、近づいてみると何もない、蜃気楼のような宴です。▼このサイクルが行き詰まったことで、すべて辻褄があわなくなってしまった。アメリカのGDPのうち、工業、建設業など価値創造する産業の占める割合は、23%しかありません(2005年)。他はサービス産業、いってみれば形のないものです。蜃気楼が蜃気楼であるうちは、この経済システムは維持されますが、実はそこには何もないということに気づいたとき、このシステムは破綻するのです。この過程でさらに重要なのは、マネー自体が収縮していくということです。▼マネーは信用によって膨張する。信用を失ったとき、一気に収縮する。つまり、今回の危機が深刻なのは、もう頼りにできるマネー自体が消えてなくなってしまったということです。その証拠に、原油、穀物、不動産、証券、債券、世界中のあらゆるものの値段が08年9月を境に落ちている。マネーは逃げたのではなく、「蒸発」していったのです。つまり、いくら規制を取っ払って外資、つまりマネーを呼び込もうとしても、マネーはどこにもない。これが今回の危機の実相です。
▼私はかねてから、F(フーズ・食糧)、E(エネルギー)、C(ケア)の地域自給圏(アウタルキー)の形成を、ひとつの理想としてきました。もともと地元に豊かにあるものを、輸送エネルギーを使ってまで海外から運んでくるという社会は、どこか間違っている、歪んでいると感じます。
04.地域収支論から考える
▼さて話は戻って、地域経済の基礎理論としての域際収支論を考えてみます。これは国際収支論の国内版です。ある地域を一つの国とみなしてその境界でモノ・ヒト・カネの出入りから地域経済のあり方を考えるものです。例えば、皆さんが住んでいる市町村を一つの国だとします。その地域の内外での輸出入という現象があります。実際は国ではないので「移出・移入」という言葉を使いますが、地方の市町村はたいてい「貿易赤字国」です。移入が多いのです。皆さんが毎日生活に使っているものの殆どは移入品ですね。自動車、家電製品、衣類から建材や加工食品の大部分まで、その町では生産しておらず、町の外から移入されたものがほとんどです。これに対し、地方の市町村から地域外へ移出できるのは、農産物、木材、水産物、とその加工品ぐらいしかありません。▼この域際収支の赤字額はどのくらいか。大きな工場のない地方の市町村の場合、人口1人当たり年間40万円前後でしょう。これは1990年代前半の十勝圏の所得推計調査からわかりました。北海道では2兆円の赤字国ですが、北海道の人口は500万人ですから、1人当たりではこれも40万円程度になります。そうすると、人口1万人の町は年間40億円の赤字国となります。
▼こんなに赤字があるのに、地方の経済はなぜ破綻しないのでしょうか。それは中央政府つまり国から地方へ回される財政資金、つまり地方交付税、国の各省庁の補助金、起債に対する優遇措置、社会保障などに関する所得移転などが、地方の赤字を補てんする仕組みになっているからです。細かくみれば国や県の直轄事業、中央機関からの融資、あるいは地域外に通勤している住民の給与、出稼ぎ収入や仕送り収入なども地域の赤字を補てんしています。▼しかし、日本経済が下降成長になり、国の予算はゼロあるいはマイナスシーリング、あるいは行財政改革で、市町村の赤字を埋める補てん機能も弱体化しました。その危機から「村おこし」が起きてきたのです。この域際収支の赤字を改善するには発展途上国と同じように、輸入(移入)を減らし輸出(移出)を増やすしかありません。何もしなければ若い世代を中心に人口がどんどん減少するわけです。日本国内には国境がありませんから、より豊かな地域つまり都市へ自由に移動し、地方の人口が減るわけです。
▼ということで、移出できるものを増やし外貨を稼ぐために、昭和50年代以降に「村おこし」や「一村一品運動」が展開されました。多くの農山村で味噌、漬物、焼酎といった村おこし御三家がつくられました。でも結果は「一損一貧」とでした。理由は二つあります。これは後ほど話します
▼ここでは「移入代替産業」を考えます。地域の赤字を改善するため、移入するものを地域で自給する産業を「移入代替産業」といいます。低開発国ではこの代替産業が盛んです。まだまだ伝統的な手工業が生き残っていて、近代的な輸入品なしでも済ませられる生活様式になっているわけです。
▼日本の市町村を想定した場合、この代替産業は農産物のほかさまざまな農産加工品が考えられます。先ほどの味噌、醤油、漬物、豆腐、納豆、こんにゃく、清酒、焼酎その他です。食品以外でも竹などの木工道道具、家具、染め織物製品などもあります。村おこしではこれらの製品を移出しようとしたわけで、そのような技術が農村を基盤とする地域には存在していたということになります。
▼ですから、こうした潜在的に自給可能なものが地域外からどれだけ移入されているのかの実態を調査し、その割合を減らすように代替産業を興していくことが、いきなり移出産業をめざす前にやることです。その際、移入されるものより安いとか新鮮であるとか、美味しいとか健康に良いとかの差異化をはからなければ移入品に太刀打ちできません。味付けを地域の好みに合わせることもできますね。そのあと、ゆくゆくは大都市の市場に出荷するということです。
▼ここでのポイントは、移出産業としては相手の嗜好に合わせることです。大分県のメザシ加工メーカーは、東京向けと関西向けとでは塩加減を変えているそうです。ですらから、よく「地元の人が美味しくないものは他の地域の人が美味しいと思うはずはない」いいますが、これは半分真理で半分は間違いです。▼移入代替産業には限界もあります。車や家電製品はムリですが、衣食住ならある程度可能です。例えば地域に洋服屋があれば生地は移入するとしても縫製加工賃の域外流出は防げます。また住宅産業は、地元の材木などを使い地元の大工や工務店が建築をすれば移入割合を小さくできます。グローバル化する経済に対してあまりに微力と思われるでしょうが、ここに地域づくりの重要なテーマが隠されています。それは、「衣食住にかかわる地域の生活様式を自前の技術で再建」するというテーマです。
▼だたし、世界の経済状況も知っておくことです。世界経済はいままでは欧米日の三極体制でしたが、これからは欧米中になります。中国の13億の人口、それは労働力であると同時に市場でもあります。商売のノウハウと豪華主義の美学をもつ国外の華僑・人民資本、それにアメリカの大学や研究機関でハイテク研究にたずさわっている中国人留学生や中国系アメリカ人が協力すれば、日本の工業や経済をさっと抜き去るでしょう。事実、日本の生活雑貨・電化製品のほとんどはメイド・イン・チャイナですね。そのことも踏まえて地域経済を組み立てることだと思います。
05.地域おこしの失敗と成功
▼次は地域おこしの話ですが、一連の地域おこしの失敗した理由は二つあります。経済行為というのは「抜け駆け」の論理にもとづいています。地場開発産品は市場で競合しないもの、競合する場合は差異化することが、原則です。しかし、村おこしは住民みんなが納得するようなもの、あの味噌、漬物、焼酎の御三家です。平均的・常識的なものしか発想できず突出した商品を開発できませんでした。企業的なセンスを持った人とか、変わり者の住民とかが少数精鋭主義で商品企画してはじめて市場に対して訴求力のあるものができるのです。▼ですから、失敗の第一原因は、「住民総ぐるみで常識的商品」になってしまったことです。第二の理由は、「地域資源という供給サイドにこだわりすぎた」ことです。地域特性を生かしてという言葉のもとで、原材料調達に限界がありました。市場からの発想が抜け落ちてしまったのです。「供給側の地域特性より需要側の市場特性」が大事ということです。
▼それでは、成功のよく知られた二つの事例を紹介します。北海道の池田町と大分県の大山町です。耳にタコができるほど聞いたでしょうが、これはいまだに東の横綱、西の横綱です。▼池田町の話はこうです。いまから40年以上前、冷害に脅かされ続けていたこの町の町長になった丸谷金保さんは、町内の山野に自生していた山ブドウに注目します。調べてみるとこれは旧ソ連でアムレンシス系と呼ばれるブドウでした。それなら普通のブドウも栽培できるのではないかと考えて山梨県からブドウの苗を取り寄せて栽培を始めました。何度も失敗しましたがそのうち成功し、はじめ考えていた生食用つまり果物としてではなく、ワインをつくろうという風に発展して、十勝ワインが生まれたのです。▼大山町の話も似ています。農協の組合長であった八幡治美さんは、大山町のような山間の土地はコメで勝負しても平野部の農村にかなわないと見切りをつけ、ウメとクリによる農業再建を企図して「ウメクリ植えてハワイへ行こう」と農民に訴えました。栽培に適した品種を町外から導入します。それがここの特産品となり、農民がハワイへ行けるようになったのです。
▼いずれも特産品の「開発のヒントは地域内部にありましたが、資源は外から」です。また、技術がなければ外の地域から導入し住民が学べばよいのです。こうなると特産品開発はとても自由な発想で開発できると思いませんか。地域は外からの人材や資源を持ち込んで、その土地の歴史が進んできた結果が、今日なのです。そうでなかったら縄文時代のままでしょう(※北海道は縄文時代→続縄文(弥生×)→擦文→アイヌ文化→明治)。一般的に言って、過疎地域であればあるほど、地域に「あるもの」より「ないもの」の方が多いですね。わずかの「あるもの」にしがみついて心中するより、「ないもの」を思い切って取り入れる方が容易で成功しやすいのです。▼脇道にそれますが、地域づくりの言語として「ふれあい」「うるおい」「ふるさと」「ロマン」がありますね。よく計画や看板にもパンフにも刷り込まれています。この四語は思考停止言語です。ああ、いい表現と思い、それ以上つき詰めなくなり、どうでもよくなります。これを使わないで、地域を表現することです。
06.産業別デザイン・農業
▼次は、地域経済を部門別に考えます。まず「農業」からです。日本の農業を守るということは、国内自給率を高めることなのか、農民の所得向上なのか、国土保全としての農地保全なのか、などの議論をしなくてはいけませんが、ここでは国土保全の面を強調したいと思います。▼それと既に故人になりました木呂子敏彦さんの考えを皆さんに伝えます。木呂子さんは戦争直後、民選時代に北海道の教育委員になり、のちに帯広市の助役も勤めましたが、戦後一貫して北海道の土づくりに取り組んできました。移動大学という名で道内の青年を連れて全国の先進的な農村や農場を見学させ、木呂子さんが農業の基本であると信じている「土づくり」を学ばせる運動をしてきました。移動大学の卒業生は8千人に及びます。▼木呂子さんによりますと、「農業は土づくりが基本」といいます。これからいちばん大事なことは地球上の土の生産力が保たれることです。土の中にはバクテリアなどの微生物がいっぱい生きていて、これがさまざまな食物連鎖を介して農産物を生育させます。地表でもっともよい土は、天然の雑木林など森林の土だそうです。森林は肥料をやらなくても自前で再生産します。いまから120年前に十勝地方に開拓団が入植し森林を伐採して畑に変えたとき最初の三年間は、いま十勝で改良された品種を使い化学肥料を加えてつくっているのと同じ反収のジャガイモの生産量があったそうです。それくらい森林の土地生産性は高いわけです。日本列島で何千年も続けられてきた焼畑農業はこの原理を生かした農法だったのです。農業のための土のモデルとしても森林を保護すべきことがこれでわかります。また、水田稲作という農業は毎年同じ作物であるコメを作っているのに連作障害が起きません。これは有機物やミネラルをたっぷり含んだ栄養価の高い水が川や水路を通って上流の森林から常時供給されるからです。漁民たちも今は森を大事にしていますね。
▼農業政策については、長期的には環境を重視する方向がいいと思います。「土」自体がもつ生産力を高めることにより、農薬や化学肥料をできるだけ使わない農法、つまり「健康な農業」を全国で広げることが課題です。こう考えると、大規模で粗放な農業より零細で集約的な農業がよいことになります。市民農園などを含め自家用の農産物を作る農業です。これは中核農業に土地を集めて大規模化し国際競争力をもった農業を育成するという国の方針とは逆の方向です。国の方向も理解はできますが、片や零細農家・兼業農家を良い方向に育成していくことがとても大事です。収穫したもののうち自家用の部分を差し引いて残りを販売に回すというような農業です。その部分を健康な農業にしていくのです。その地域の非農家や都市住民には、有機農産物や低農薬の農産物を欲しがりますから、やや高額な農産物でもビジネスとしての可能性は大きいのです。そのような農家と消費者を結ぶ流通経路を、農協や行政は手を貸すべきです。
▼農業の話のついでに、農村リゾートの可能性を考えてみましょう。2回目のときフランスの事例を紹介しましたので、今回は。ドイツの例を引きます。ドイツでは年間労働時間が1600時間で、世界でもっとも余暇の多い国です。長期休暇が季節に分けて年間6週間ぐらいあり、農家民宿に2週間滞在といった「農村で休暇」制度があります。例えばこんな風です。ヘッセン州のある農家では2階を客室に改造しました。1組しか泊まれない規模ですが、主人がこれからミルクを売りに行くから車に乗れといって、町のレストランまで連れていきます。農家民宿に滞在するドイツ人家族は、農家の手伝いをしたり森を散策したりして毎日を過ごすのだそうです。村では夏のシーズンに都市から演奏家を呼んできて小さなコンサートを開いたりしています。別の農家民宿では、2階に5室の客室をもち、中年主婦が1人で切り盛りしています。村には居酒屋を兼ねたレストランがありますから、昼食や夕食はそこで食べます。だから主婦1人でもできるわけです。料金は1泊朝食付きで1人2、3千円程度だそうです。▼欧州の農村景観は、広い牧場とかブドウ畑とかの向こうに、それを包みこむような森林が見えます。森があってこそ農村が成り立つのです。日本の農村は裏山が杉林か、北海道ならカラマツ、あるいはハゲ山ですね。本来の雑木林に戻したいものです。ドイツでは「私たちの村を美しくしよう」という運動が展開され、そのコンクールさえあります。昔のままの保存されていたわけではなかったのです。私もシュバルツ・バルト(ドイツの黒い森)のキュルシュ酒(果樹酒)でよく知られた小さな村を訪れたことがあります。山あいの美しい村でした。名前は失念しましたが。▼ドイツでも、イギリスでも都市住民が余暇にやってくるだけでなく、農村から都市に通勤する人もかなり多いのです。農村が住環境としても素晴らしいからです。
07.産業別デザイン・工業
▼つぎは、地域における工業の振興、特に技術移転をねらった企業誘致政策について少しだけ話しておきます。市町村の工業開発とか工業振興とかの施策はこれまで、伝統的・手工業的な地場産業がある場合はその振興策が、そうでない場合は地域外からの工場誘致が主たる課題でした。昭和40年代以降、地方への工場誘致のために適地の指定や工業団地の造成、誘致運動や用地の斡旋などの施策が行政によって行われてきました。そうした場合、公害の恐れさえなければ工業の内容や業種などについては総じて無関心で、もっぱら地域にたいする雇用効果、所得効果、税収効果などを期待していたわけです。▼これからは、地方の小さな自治体でも、どんな内容の工業を導入し育成していくかを考えるべきです。その際、重要なポイントは、新しい工場が立地することによって従業員となる住民が何らかの生産技術を習得できるという視点をもつことです。地域外から地域内への技術移転(テクノロジー・トランスファー)をねらうのです。
▼地方で工業生産技術が蓄積されてきたのは、何といっても長野県の諏訪地域です。ここでは戦前は製紙・紡績など繊維工業が集積していましたが、戦後これが斜陽化すると、空気がきれいであるというような理由から時計などの精密機械工業に置きかわりました。時計にエレクトロニクスが組み込まれるようになって高度な電子技術が導入され、小型テレビや液晶製品を製造する先進地域となりました。セイコーエプソンなど全国的なメーカーがあります。技術を住民が獲得した、つまり地域に技術が根づいたといえます。それと、静岡県の浜松周辺も独創的な工業技術を蓄積し世界的な企業を生み出しています。ホンダ、ヤマハ、カワイそれにトヨタもここが発祥地です。
▼地方自治体は、大企業の工場の誘致が最大目標であるといった従来の考えから脱して、Uターン者を含む住民がどんな技術をもっているかを調査したり、地域の技術蓄積を目的にした工業導入をねらうなど、新しい視点からの工業振興が大事です。もっとも、これからは狭い意味での工業誘致だけでなく、研究所やソフトハウスなど頭脳労働型の地方への進出もありますから、ハードな生産技術だけでなく経営・情報・研究などソフトな技術も含めた技術の移転・蓄積をするということです。
08.産業別デザイン・商業
▼さて次は、商業の問題に入ります。大都市では新しい商店や飲食店が次々と生まれていますから商業は産業の中でいちばん自由度が大きい分野だと思われていますが、地方の古くからある中心商店街はそのほとんどが衰退に向かっています。農業化しているのです。というのはまず兼業商家が増えています。主人はサラリーマンでおかみさんが店を任され、しかも高齢化し後継ぎもいない。後継ぎはいても嫁さんが来ない。地域の商業は農業と同じように行政の保護の対象になりつつあります。商業近代化事業など国が助成する制度がありますから、ますます行政の保護下に入ってしまい、商店主の中には行政の人たちに「お客を連れてきてくれ」と頼む人さえいるのです。ホントですよ。▼しかし、商業は農業とは違っています。農業は客が来るところで行う必要がありませが、商店は客が来なければ成り立ちません。地方の中心商店街が衰退している原因として誰もがあげるのが自動車に不便だからというものです。しかしですね、農業は農地を移転させることはできませんが、商業なら客の来るところに移転できます。ですから、もし交通が不便であることが不振の原因なら、自動車に便利な街道沿いとか郊外に店を移せばよいわけですが、そうする元気もない。
▼20年前ですと大型量販店が既存商店とって脅威でしたが、いまは実にさまざまな種類の店が次々と現れています。簡単に飲食できるファーストフード店、持ち帰り料理のテイクアウト店、現代のよろず屋コンビニエンス店、自動販売機を集めた無人店舗、日曜大工のDIY店、特定業種のディスカウント店、売れ残ったブランド品を安く売るアウトレット店などの花盛りで、これらは郊外の街道沿いに立地するロードサイド店が多いといえます。それに書店、AV店、ビデオレンタル、パチンコ店まで郊外型・街道型になっています。▼地方の中心商店街はこうした新しい業態をもった商店の出現に危機感を募らせていますが、業態の違いが新しい立地を必要とし新しい客層を開拓していることには気づかず、あちらは自動車利用が便利だという点しか見えないんですね。郊外立地の商店の多くは、全国展開のチェーン店なども含め、その町の既存の商業者とは別の新規参入者による開業がほとんどです。
▼そのようなわけで、地方の中心商店街はどこでも公共による道路拡幅と駐車場整備を強く求めています。近くに人が集まる公園・広場をという要望も加わります。しかし道路拡幅は店が削られますし、店舗の改装も必要になります。そうすると、そうしてもよい商店主もいれば、後継者のいない商家などは新しい投資はしたくないということになり、にっちもさっちもいかないのが現状です。▼ですから、集団としての商店街の整備という行政施策は破綻したといえます。もうやめた方がいいわけです。これからは、農業政策と同じく「中核商家」の育成です。事実、自動車利用客には不便なのに繁盛している店も結構あります。飲食店や喫茶店の類に多くみられますが、飲食店は商品である料理がその店にしかないものですから、それを食べたい人は歩いてでもやってきます。モノを売る店でも、その店固有の商品とか品揃えとか情報提供のサービスをして客を集めているわけです。▼地元にも事例がありますから、調べてみてください。中札内村の高台にレストラン「百鬼」、市内の「らーめん美鈴」なんかもそうですね。
▼また、住民は安さと便利さだけを動機で買い物をするのではありません。あたりまえのことですが、ちょっといいもの、気に入ったものがあれば買うのです。そのことを古い商店街の人たちはコロッと忘れているかもしれません。▼地方でも専門店の気の利いた小さな店、店主や店員に見識と個性があって客を識別してくれるような店に人気が出てきます。それは郊外店より中心商店街の方がふさわしいと考えられます。そういった店がポツリポツリと出始めやがて集積していくように、商店街活性化ビジョンを作って欲しいのです。
▼買い物空間はおおらか空間ですし、そのうちでも「屋台」は魅力ある小売業の一つの業態です。屋台は九州の福岡あたりまでを含めて、東アジア、東南アジアが本場だろうと思います。屋台街の面白いところは、昼間は何もない路上に夜になると花が咲いたように小さな仮設店舗が無数に現れることですね。業種としては飲食関係が多いのですが、衣料品、お土産品や骨董品、怪しげなブランド物、そうしたことも含め屋台街にはデタラメサとアナーキーさを飲み込んだような活力が感じられます。台湾・中国に魅力的な屋台街があります。中国では朝ご飯をそこに食べに行くと聞きましたが。▼皆さんは、帯広の「北の屋台」を体験しましたか。どうでした? ▼イスラム圏ではバザール(ペルシャ語)とかスーク(アラビア語)と呼ばれる市場、商店街、露店街がみられます。テレビでもよくみかけますね。▼カナダのエドモントン市のウェスト・エドモントン・モールは世界最大のショッピング・センターですが、造波プールなどのアミューズメントを組み込んだ現代感覚の商業空間でした。日比谷公園3個分を有するモール内には、ベイやイートンズなどのデパートをはじめ、900棟以上のショップやレストラン、そして、カジノや映画館、ホテルもある。世界一の屋内遊園地のギャラクシーランド、屋内プールのワールド・ウォーターパーク、人口湖を潜水艦で回る深海アドベンチャー、一年中アイススケートとが楽しめるアイス・パレス Ice Palace 、バンドウイルカのショーがみられるドルフィン・ラグーン Dolphin Lagoon などアトラクションも充実している。何でも揃っています。とても全部見切れませんでした。▼アメリカではサンフランシスコのフィッシャマンズ・ワーフ(漁師桟橋)が有名ですね。これは釧路でも再現しましたが、いまはどうでしょうか。
▼このように商業空間は地球上、人々の住む場所に普遍的に分布し、人々が集まってくること自体が目的であるかのように「人が集まる空間」として機能しています。ですからモノを安く早く便利に買おうというような単細胞的な動機はどうでもいいという気持ちになりませんか。地球上の商業空間はとてもおおらかな人々の交流の場ですね。そのあたりに、これから日本の商店街を元気づける大事なヒントがあると考えてよいでしょう。
09.産業別デザイン・観光
▼日本では観光は成り立たないのだろうか、ということで、次は観光産業の話です。まず初めに需要側、つまり観光に出かける人について考えます。これまでの観光の歩みといいますか、観光の流れを見てみます。
▼戦後の日本人の観光は、昭和20年代、30年代の観光は職場などの男性中心の団体旅行が大部分で、温泉と名勝をセットにして選ばれました。温泉街はもちろん男性本位でそれにふさわしいアトラクションもありました。いまでもありますけどね。また、日本三景など景色のよいところなど相場が決まっていました。そのころは温泉も含めた自然資源が主な観光対象であったわけです。修学旅行やお年寄りは京都や奈良、伊勢などの神社仏閣が主なところです。
▼昭和40年代に観光は大きく変わりました。当時の国鉄が「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを張って、鉄道で行ける新しい観光地を浮かび上がらせました。▼あの、山口百恵の「いい日旅立ち」というわけです。この頃は飛騨高山、倉敷、津和野など地方の城下町や天領だったところ、つまり自然資源に代わって「町」が観光対象になりました。歌ばかり紹介しますが、小柳ルミ子の「わたしの城下町」という歌も流行りました。そしてアンノン族と呼ばれる若い女性が観光の主役として登場し、中年女性や高齢者のグループも同じようなところに行くようになりました。
▼昭和50年代も若い女性が日本の観光をリードです。軽井沢や清里など、今いうところの高原リゾートが脚光を浴びるようになり、高原地帯でテニスやサイクリングをするのがナウいということになったのです。もちろん、若い男たちもその後を追っかけます。他方、中年男性たちはゴルフ旅行をするようになりました。リゾート・ブームの前夜です。これらの現象は突出した部分で、量的にはあいかわらず団体旅行が観光の主要部分を占めておりました。今も変わっていませんが。
▼昭和60年代に入ると、リゾート法などができ日本列島はリゾート開発に向かいます。しかし大資本によって開発されたリゾートは、家族で滞在するにはコストがかかりすぎました。それに、日本人は自然の中で一日静かに過ごすような生活様式を身につけていないこともわかりました。別荘地に来る人は、別荘は夜の宿泊用で昼間はゴルフかテニスかドライブか、とにかく何か活動していないと退屈でしょうがないんです。じっとしていれば安く済むのに、とにかくいろいろ遊びをするから高くつくことになります。▼フランスのバカンスは、ただご飯を食べて本を読んで、すこし遊んで寝るだけ。これを2週間から1カ月ですからね。皆さんはこんな風にできますか。
▼団体客には職場団体、地域団体、趣味同好会やクラブ、地方議会議員団体などありますが、年1、2回みんなでどこかへ行くことが事前に決まっていて、では今年はここにという話になります。どこの何を見たいという動機ではないんですね。ですから本来の意味の観光は付け足しで、「みんなで旅することが最大の楽しみ」であり、バスの中でカラオケ、夜は宴会でまたカラオケ、とこうなるわけです。こういう動機で旅行する人が、旅先の土地やそこに住む人に敬意や共感や愛情をもって接することはありませんね。▼そのような意味で、日本人には観光を成り立たせる需要側の契機がないと思います。もちろん本当の意味で全国のよいものを見て歩く人たちはいるわけですが、少数でしょう。それなのに自治体の観光振興は、観光バスが次々とやってくるようなイメージでプランを立てるのです。
▼供給側にも観光を成り立たせる契機がありません。地域の宝ものが自然資源だと、こうなります。北海道の層雲峡とアメリカのグランド・キャニオンとでは、また日光の華厳の滝とナイアガラの滝とでは、すごさが違います。日本人の海外旅行は年間1千万人以上が渡航している時もありました。海外のすごいところを知っていますから、まあ、テレビで知っている人もいますが、その意味では、行き先がどこでもよい団体旅行は筋が通っています。というわけで、日本にはたいした観光資源はないと断言できます。外国人が一番喜ぶのは東京・秋葉原の電気街なんですね。あとは隠れた観光資源としては、吉野ヶ里遺跡のようなものはありますが。
▼さてそろそろ本題に入ります。「ビジネスとして成り立つ観光開発の条件は何か」に絞りましょう。これからは地方自治体が産業政策や地域活性化策として観光開発は考えない方がいいですね。日本には観光を成り立たせる供給側、需要側の契機がなく、行政が公共的に観光開発する論拠をみつけることができません。そのかわり住民のための文化事業や教育事業として博物館を建てるか、現存の施設をさらに拡充したりして、その結果として地域外の人々にも注目の観光施設として機能するようになったということなら歓迎です。▼そこでもう一歩進んで、地域の過去の文化をきちんと整理したら、地域の未来のために新たに導入すべき文化を探るのです。そうすると、これまでの地域とはおよそ関係のないような内容の博物館を建てることになるかもしれません。どうせ地域外の資源を使った施設をつくるなら日本の他の地域にないような斬新な内容の、しかも研究専門の学芸員がいるような本格的な博物館にするといいですね。そうするとこれは小さくとも質的には国レベルの価値をもつ博物館となり、全国から大勢見学に来て、やがてその町にレストランや喫茶店や民宿が住民のビジネスとして成り立つようになるかもしれません。
▼次に、民間つまり地域住民や企業が観光開発する場合のノウハウについてです。観光客が観光地でお金を落とす原理は四つです。「ねる」「くう」「かう」「はらう」です。▼そのうち「ねる」がもっとも効果があります。宿泊すれば飲食も伴いますから1人1万円の桁のお金が地元に落ちます。とにかく客を泊めることを優先した開発をすることです。あとは今の子供や若者は個室でベッドです。若者とくに若い女性に来てほしかったら、ペンションを少し大きくしたようなプチ・ホテルでよいですから、ベッドと洋式便器つきの浴室を持つ客室がある宿泊施設を設けることです。▼「かう」については、日本人は観光旅行で特別に買物が好きな民族です。新潟県の寺泊町の漁家が街道沿いで始めた魚屋街ですが、観光バスやマイカーが次から次へとやってきます。初めは三軒で安売り合戦を始めたのですが、やがて10軒になり年間売り上げが100億円を超えるようになりました。この成功の秘密は、地元でとれる魚にこだわらなかったからです。ここでは三陸海岸のイキのよい魚まで売っています。▼地元資源から発想するから失敗することは前にも話しました。成功事例のすべては、地元資源からの発想ではないことを再度確認しておきます。
▼観光を産業やビジネスの問題だけで捉えるのは、もったいないと感じます。ある土地の人が別の土地の人と出会うことに最上の楽しみがあるような、そんな観光を考えるといいでしょう。以上、地域経済のデザインについて話しましたが、最後に日本全国の動きを少しだけ紹介して終わります。
10.地域経済と人材蓄積(講義5再掲)
▼ここでは、地域経済にとってヒントいっぱいのボローニヤ方式を紹介します。博物館と職業教育と人材蓄積が、三位一体になっている見事さがあります。『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)からです。▼人口38万人のボローニヤには、たくさんのミュゼオがあります。ミュゼオとは、美術館や博物館や陳列館のことをいいますが、それが市内に三十七もあります。ついでですから、ほかの施設の数もあげておくと、映画館が五十、劇場が四十一、そして図書館が七十三です。さて、この三十七のミュゼオは、どれをとっても第一級で、半端なものは一つもありませんが、ここの産業博物館は、その独特なおもしろさにおいてほかに類をみないもののように思いました。そしてこの産業博物館は、使われなくなった煉瓦工場が使われていますが、徹底的に改造され、まったく新しく蘇って、底光りするような頼もしい建物になっています。▼それとこの博物館には三つの原則があります。一つは、展示は二カ月ごとに変えること。これは工業専門学校の生徒たちが、授業の一環としてやっている。なにをどう展示するかは、デザイン科の生徒たちがいつも知恵を絞っているので、お金はそれほどかかりません。ボローニヤには、イタリア最初のアルディーニ・ヴァレリアーニ工業専門学校があります。設立は1844年ですから歴史は古い。もっというとこの産業博物館そのものがこの学校の付属施設なのです。▼博物館の第二の原則は、ここの展示はほとんどが動くというものです。例えば、「シルク都市時代のボローニヤ市街」という、十五、六世紀ころの惚れ惚れするほど精密精巧につくられたミニチュアの模型があります。アペニン山脈の麓のなだらかな斜面に旧市街が広がり、遠くにポー川の支流のレノ川が流れているのが見える。まるで五百メートル上空に浮かんだ気球から眺め下ろしているようです。赤いボタンを押すと、軽い機械音とともに、街全体がぐんぐん上にあがっていき、その下から街の地下一階の模型がゆっくり迫(せり)上がってくる。そのころ、大抵の家の地下に紡績機がありました。つまり地下一階が小さな紡績工場になっていたのです。赤いボタンをもう一度押すと、すると、またもや街全体の地下一階が持ち上がって、その下から地下二階のミニチュア模型が迫上がってきました。その地下二階はまるで運河の網の目模様でした。遠くのレノ川から導かれてきた青い水が、街の下を右へ左へと巡りながら建物の地下を通り抜け、やがてレノ川下流へ流れ込む様子が手に取るように分かるのです。レノ川の水を導いて得た動力のおかげで、ここは世界一の絹の産地になりました。そしてボローニヤの絹はベネチアへ運ばれ、全ヨーロッパに輸出されたのです。さてこの展示館では、まだ見ごたえのある展示があります。ここの二階と三階をぶち抜いて、当時の紡績機が陳列されていました。上から下まで木で精巧に作られていて、赤いボタンを押すと、木琴でも奏でているような、気持ちの良い音を出しながら回り始めました。大小何千個もの木製部品が、大中小の歯車で調整されながら各自さまざまな速さで動いて、何千本という糸を見る見る紡いでいきます。見事なものです。地下を走る運河の網の目模様と、この紡績機を見るだけでも、成田・ボローニヤ間の航空運賃を払う値打ちがあります。この博物館はいきいきと生きていました。▼博物館の第三の原則は、この博物館がこの専門学校の卒業生の同窓会館の役割を果たすということです。ここの卒業生のほとんどが地元の職人企業に就職しますが、彼らは足繁くここに通って、たがいに親睦をはかったり情報を交換しあったりしています。こうして産業博物館を中心に分厚くて親密で巨大な情報網が形成されていることになる。同時にこの学校は技術研究所でもありますから、卒業生を対象にした集中講義が初中終(しょっちゅう)行われています。つまり、ボローニヤの職人たちは生涯ここで勉強するわけです。そしてその中心になっているのが、この産業博物館なのです。▼ここで少し注釈を加えると、職人企業とは、製造業では従業員が二十二名以下、伝統産業では四十名以下の、小さな企業のことです。ここで働いてやがて熟練工になると、いつでも独立できます。
▼シルク都市時代からの技術の集積、熟練工たちの巨大な情報網、職人を大切にしようという意思、そして生まれた土地で育ち、学び、結婚し、子供を育て、孫の顔を見ながら安らかに死ぬのが一番の幸せという生き方、そういったこの土地の精霊がボローニヤに、フェラーリといった高性能自動車や、ドゥカーティといったものすごいオートバイを生み出したのです。ちなみにセリエAのサッカーチーム「ボローニヤ」を財政的に支えているのも、この産業博物館を中心とする職人企業のネットワークだそうです。▼そして今、ボローニヤは世界の包装機械の中心地になっておリ、パッケイージングバレーと呼ばれています。ティーバッグと薬品の充填包装システム機械では世界一のIMA社を訪問し話を聞くと、この会社は1924年に設立されたACMAというチョコレートの「包装機械メーカーがあって、それがIMA社の母会社となそうです。戦後1947年にあの工業専門学校を卒業したロマニョーリという青年がここで熱心に仕事をして熟練工となり、1961年に母会社から独立し、IMA社を設立した。この時に大切なことは、「母会社の技術を持ち出すことは許されるのですが、母会社と同じものを作ってはいけない」ということです。ですから、チョコレートの自動包装機械の技術をもとに、自動ティーバッグ包装システムを開発し、つづいて自動薬品充填システムを完成して、世界市場を制覇したわけです。もちろん、買い手の工場に機械を納めたら、それでおしまいというのではなく、しばらくの間、機械と一緒に暮らします。そして買い手の要望を聞きながら、機械の微調整を行います。買い手側の技術者がその機会を完全に使いこなせるまで、その地に留まっているのです。▼このように母会社のACMAから包装機械作りのノウハウを持って分かれて行った企業は、戦後から現在までに、五十社以上にも及んでいるそうです。そして、この五十の包装機械企業のネットワークを、部品を供給する三百社が取り巻き、ボローニャに包装機械についてのありとあらゆる技術を集積させている。こうなったら強い。パッケイージングバレーといわれる所以です。▼IMA社では日本茶の自動ティーバッグも作っているそうです。注文主は伊藤園だそうです。日本人の舌は敏感で、最初はリプトン紅茶などと同じに、ティーバッグをホッチキスで止めていましたが、どうも金気を嫌うことが分かりました。そこで糸を使うことにしたわけですが、これが技術的にむずかしい。ティーバッグの口を糸で結わえる装置を考え出すのに三年かかりました。それでもこれが好評で、いまではリプトン紅茶などもこのやり方です。つまり日本人の敏感な舌が、世界の紅茶バッグの味を向上させたわけです。▼こうして、ボローニヤの地域産業が生まれ育ってきました。ここには貰えるヒントがたくさんありますし、その流れが感動的です。
11.地域経済の最近の動き
(1)葉っぱを商品にお年寄りが一千万円も稼ぐ町(徳島県上勝町)
〈清流に恵まれた上勝町〉
標高700mに位置する過疎の町で、たった一人の農協職員が起こした奇跡の町興し。地元で採れる葉っぱを、料亭の料理に添えるツマ物として出荷することで、お年寄りの仕事を生み、地域の意識を元気にしていった。この町興しは住民意識と農協職員のぶつかり合いが始まりだった。
地元の人たちの、「どうせ自分らの町はつまらん」という住民意識と戦い、苦労の末に葉っぱビジネスを成功させると、地元の人たちの意識が前向きに変わっていった。高齢者がパソコンを駆使して市場動向を睨み、収穫する葉っぱを選定する姿は、仕事という生きがいがあれば介護の必要がないことを証明している。
(2)商社勤めのUターン経営者が家具産業を復活(福岡県大川市)
〈神棚と世界時計の微妙なバランス〉
400年以上の家具つくりの歴史がある街で、家具工場を経営する父親を見て育った境さんは、大学卒業後は家業を継がずに商社マンとして活躍していたが、心機一転してUターン。厳しい経営環境の建て直しに商社で積んだノウハウを生かし始めた。
東南アジアの工場に自社の職人を派遣して、日本向け家具作りの指導を行い、そこで製造して輸入した家具を大川市内の家具流通システムに乗せて国内販売に向けた。しかし自社の工場でも製造は行い、家具作りの技術を維持している。境さんの地方論は、地方の町は大都会を模倣するのでなく、海外の地方都市と姉妹関係を結んで交流し、国際化を進めることで個性ある街づくりを推奨している。境木工の事務室には神棚があるが、その横に、それぞれ示す時間の違う掛け時計が3つ並んでいる。海外の取引先の現地時間を知るためのものだった。
(3)脱公害と環境技術の開発が進む(三重県四日市市)
〈燃料電池の耐久性試験装置〉三重県工業試験場
戦前の海軍燃料基地から一転して、戦後は重化学工業が集積するコンビナートとして栄えたが、関連企業が使う資源のエチレン製造が中止されることになった。従来の規制を特区の活用で撤廃運用して産業の活性化を進めた。この発想が三重県の企業誘致ノウハウになって液晶テレビの生産地にもなっていった。三重県出身で地元大学に招聘された電機メーカーの副社長、霞ヶ関から出向してきたキャリア官僚、それに県庁マンの三者がチームとなって走り出す。
(4)農業+加工+流通=6次産業を推進(島根県桜江町)
〈桑のハーブ茶農業を創設した古野さん〉
明治から昭和40年代にかけて養蚕業で栄えたが、安価な中国産生糸の輸入を受けて廃業に追い込まれ、過疎化の影響もあって、荒れた桑畑の再生に苦慮していた。野菜畑に開墾する土木費用が膨大で、町の財政ではどうにもならない。その一方で荒れ続ける桑畑。古野さんは、人生二毛作の後半を過ごそうと、自然が豊かな桜江町にやってきた。町役場の鎌瀬課長と親しくなった古野さんは、地元の人が愛着を持つ桑畑の再生を、ハーブティーで思いつく。健康ブームにも後押しされて桜江町の桑茶は直ぐに売れ出した。
桑のハーブ茶が売れ出すと、その売上げで桑畑の再生が進み、公共事業の減少に悩む建設の会社も農業に参入するようになり、町全体が活性してきた。Iターン者の新しい視点で町の再生ができた。
(5)一人の市民による観光都市の再生
〈地元FM局で映画の魅力を語る安元さん〉
鎖国時代の坂本竜馬や伊藤博文に海外視察の機会を与え、明治維新に影響を与えたシーボルトが住んだ長崎は日本の幕開けの街だった。さらにキリスト教の歴史と原爆被爆地という戦争遺産も併せ持つ観光都市であったが、最近は観光客が急減しており、ランタン祭りや長崎おくんち祭りの外は、小学生の修学旅行が目に付く程度になっている。長崎港の一角に、世界最大の豪華客船も建造する造船所がある。その職場を定年まで勤めた安元さんは生粋の長崎人である。地元のFM局で映画の魅力を語りながら、商店街に隣接した映画館での映画祭を4年続けている。最近は離島での芸術体験型観光の開発や、軍艦島などの産業施設を見ながら歴史を学ぶ、新しい観光スタイルを模索している。
長崎は、いろんな歴史と遺産を備えた観光都市だが、芸術文化を市民生活に浸透させることで地域を知的に活性し、新しい観光客を誘いたいと考えている。
以上で、地域経済のデザインを終えます。
12.資料編
▼書籍資料/村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬舎)。
▼写真資料/「北の屋台」(帯広)。
内容
01.産業政策より職業政策を... 1
02.地方の中小企業が活躍する時代... 3
03.ちょっと寄道、シカゴ学派... 4
04.地域収支論から考える... 5
05.地域おこしの失敗と成功... 7
06.産業別デザイン・農業... 8
07.産業別デザイン・工業... 9
08.産業別デザイン・商業... 10
09.産業別デザイン・観光... 12
10.地域経済と人材蓄積(講義5再掲)... 14
11.地域経済の最近の動き... 16
(1)葉っぱを商品にお年寄りが一千万円も稼ぐ町(徳島県上勝町)... 16
(2)商社勤めのUターン経営者が家具産業を復活(福岡県大川市)... 16
(3)脱公害と環境技術の開発が進む(三重県四日市市)... 17
(4)農業+加工+流通=6次産業を推進(島根県桜江町)... 17
(5)一人の市民による観光都市の再生... 18
12.資料編... 18
01.産業政策より職業政策を
▼まず、産業政策より職業政策をという話から始めます。成熟社会においては、個人の職業から地域づくりを考えることも可能です。住民一人ひとり、つまり個人の立場に立って考えると、どんな職業を選択し、そのためどんな学習や訓練をするのか。しかもどんな職業に生きがいを見出すかということは人生設計にかかわる大きな問題です。大人にとっても村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬舎)はとても参考になります。動物、スポーツ、映画、音楽、料理など、いろいろな「好き」を入口に514種の職業を紹介しています。派遣、起業、資格など、雇用の現状をすべて網羅した仕事の百科全書です。この本は13歳だけでなく53歳の人たちにも人気があるようです。どんな人だと思いますか。それはリストラされた人達です。そこでもう一度、仕事とは何かを見つめるそうです。
▼では、どんな職業が魅力的なのかというと、第一に、個人の個性や才能を表現できる仕事です。広い意味で芸術家、アーティストの類ですね。詩人や小説家もこれに入りますし、研究者や発明家などもそうです。▼第二に、社会を変えていく仕事も、面白く生きがいが実感できる仕事です。昔なら、あるいは今でも特定の国や地域でなら革命家がその代表ですね。テロではありませんよ。革命家までいかなくとも社会改良家という仕事は幅広くあります。政治的指導者にも本来はそのような役割があります。でも日本の政治家にこのタイプは少ないように感じます。また、一般市民がNGOやNPO活動に参加すれば第三世界や発展途上国で社会改良家としての仕事を行うことができます。自分の意思決定が社会に影響を与えられる企業の経営者もこれに加えてよいかもしれません。が、これも今の日本には少ないでしょう。ところで、この分野の職業でとくに重要なのは教育者、つまり教師です。本来教育というのは未来の世代である子供に託して社会を変えていくことにあります。若い人で、もしも世が世なら革命家や社会改良家になったのに、などと考えている人は教師になるべきです。
▼第三の分野としては、社会を維持していく仕事も重要であり、そこに意義を見出す人も多いでしょう。民間の企業や商店も社会の維持に必要ですが、ここでは儲けることよりも社会的使命感が期待される職業を想定します。社会を維持していく仕事としては、国・地方の行政職員、裁判官、検察官、警察官、消防士、保健婦(士)、それに兵士(日本は自衛隊)などの公務員がまず考えられますね。民間人としては弁護士、公認会計士、助産婦、医師、葬儀屋(おくりびと)、大工、左官、建築士、電気・ガス・水道の保守技術者、ごみ収集業などがこれに相当します。社会を維持していく仕事は、総じて何らかの専門的技術や資格を必要とする職業であることが多いと言えます。
▼長期的に考えると、第一の自分の個性や才能を表現する仕事、第二の社会を変えていく仕事は、コンピューターを含め機械に置き換えることが不可能な分野ですから、将来有望な職業だといえます。第三の社会を維持していくこの分野は、部分的には機械に置き換えられますが将来とも人間が中心であることに間違いはないでしょう。また、人と人が対面することによって信頼感が生まれ、社会が安定して楽しくなるような仕事が機械化されるのは好ましくありませんから、商業やサービス業の多くは将来とも成り立つでしょう。それと生命を相手にする仕事もできるだけ人間がかかわるべきです。それは何だと思いますか。農林水産業です。
▼以上が、とりあえずの職業分類なのですが、このようなことを考え研究し、住民やその子供の意思なども調査して、各地域で「職業振興長期ビジョン」を作成するのとよいでしょう。これは産業ではなく「職業」を軸にしたその町の住民のライフスタイル計画ともなります。このような計画をつくることによって、地域の施設整備、余暇施設とか産業施設などを整備する根拠がはっきりしてきます。また、それに基づいて将来その地域に必要で望ましい職業を担う人材を育成する教育・研修機関を整えていくことです。産業振興より職業振興を考えることは、人間の顔の見える、夢のある話です。日本の場合は、どこかで手掛け、成功すれば一気に全国にはやるでしょうね。でもこれは、地元でしっかり取り組んでいてよいことです。▼これからの成熟社会では、個人の職業から地域の産業構造、ひいてはその町の都市像をデザインしていくようなアプローチが大事なのです。
▼ちょっと寄り道になりますが、村上龍『13歳のハローワーク』には、こんな職業も紹介されていて目を引きました。「何も好きなことがない、とがっかりした子供のための特別編」に普通はいけないこととされる「ケンカが好き」「戦争が好き」なら、「傭兵(ようへい)」という職業を案内している。「外国の軍隊に雇われて働く兵士。フランスの外人部隊が世界的によく知られている。フランス外人部隊の場合、20歳から40歳の男子で、国籍は問われない。偽名での申し込みも可能だが、指紋でインターポール・国際警察に手配されていないかチェックされる。もちろん犯罪者が紛れ込むのを防ぐためだ。訓練は過酷を極め、フランス語のトレーニングもある。武器の扱いを覚えるために日本の暴力団員が応募することもあるらしいが、たいていはフランス語のトレーニングに付いていけず挫折するという。拷問を受けたり、重傷を負ったり、死んだりしてもいっさい文句は言わない、ということが記してある契約書にサインしたのちに入隊する。フランス軍の海外出兵時に、先兵として投入される。近年は、アフリカの紛争・内乱への参加が多く、多くの傭兵が、部族間抗争に巻き込まれ、目をくり抜かれたり、耳をそぎ落とされたり、性器を切り落とされたり、内臓をライオンやハゲタカに食べさせられたり、残忍な方法で拷問されたあと、殺されている」。とありました。
02.地方の中小企業が活躍する時代
▼中小および中堅企業のガンバリについては、よく米国が例にあげられますが、巨大産業のIBM社などの業績がふるわないと、その隙間をうめるようにコンパックとかデルとかの中堅コンピューター企業がでてきます。あるいはアップル・コンピューターがガレージ・カンパニーから成長してくるといった具合です。ですが、この日本では大企業をスピンアウトして自分の会社をつくる人やベンチャー・キャピタル(将来に向けて資金を提供してくれる金融組織)が、とても貧弱なのです。で、そういうことがこれから日本で起きるとすれば、それは地方からだとおもわれます。というのは、大企業をスピンアウトする場合の動機が郷里の親が高齢化したからというようなことがUターンのきっかけになりますし、また東京のような大都市では土地や労働力が限界状況にあります。金融も大企業中心です。それに大都市では新しい発明を考えられるような静かでフレッシュな環境が失われてしまいました。
▼ところで、日本企業の寡占が目立っているもう一つの分野にビール業界があります。大蔵省いまの財務省の規制によって中小規模のビール会社が成り立たない制度になっていました。もっとも今は一部規制緩和されてきているとはいうものの、ビールのように内容物の95%が水で容器もガラスや金属というような重くてバルキー(かさばる)な商品は、できるだけ地方ごとに生産・消費のサイクルするのがイイわけです。欧米ではバドワイザーやハイネッケンのような世界ブランドもあるかわりに、州ごとにビール会社があり、またパブ・ブルワリーといいましてレストランの自家製ビールがあります。日本はこのタイプが多いですね。道内では帯広や北見が先駆です。▼地方産業といえば、これはエコノミストの日下公人さんに教えていただきましたが、北海道の人たちが使う手袋の多くは四国で生産されているそうです。西日本とくに四国・中国地方にベンチャー的な企業が多彩にみられるそうです。
▼そこで企業のタイプを見てみますと、富士山型とアルプス型があるようです。海外、とくにイタリアでは中堅・中小企業が多いのですが、世界的ブランドとなっている企業もたくさんあります。北イタリアのコモ湖周辺からミラノにかけてのファッション産業がとくに有名ですね。中小企業・地場産業論に詳しい清成忠男さんは、英米などの「アングロサクソン型資本主義」や日本などの「東アジア型資本主義」に対して、イタリヤやアルプス山麓の企業群を「アルペン・アドリア型資本主義といっていました。▼もっと言うと、日本は富士山型産業だと思います。頂点の大企業とそれを支える系列化した中小企業群のことです。系列は「ケイレツ」と発音すれば、「スシ・スキヤキ」と同じく外国でも通じるそうです。片やイタリアはまさにアルプス山脈、つまり中小企業が群生する連山・アルプス型だと言われています。
▼これからは、大企業全盛の時代ではなくなります。これは労働力の供給サイドからもいえます。地方から中央への人材供給が枯渇するからです。理由は、長男長女の時代ですから、地元に残るか、あるいはいったん大都市に出たとしてもUターンする確率が高いわけです。事実、地方の高校生が東京の大学に進学する割合が少なくなっています。ですから、地元に根づいたセンスの良い若者たちが、大都市に対してハンディキャップを感じないで、のびのびと多様な職業を開発していければいいわけです。それに、就職するならできるだけ小さくてイキのよい企業を選ぶべきです。
03.ちょっと寄道、シカゴ学派
地域経済に及ぼすのは国際経済ですから、ここでちょっと寄り道してプチ学習しておきましょう。『悪夢のサイクル・ネオリベラリズム循環』(内橋克人・文春文庫)からです。▼100万ドル以上の資産をもつ日本の富裕層は年々増え続け、今日では141万人。世界の富裕層の16.2%(メリルリンチ調)。一方で、かつては中流の暮らしを楽しんでいた家族は中流から脱落し、ギリギリの生活をしている。▼ケインズ学派とシカゴ学派の争い。ケインズが唱えた公共政策とは、資本家や大企業がその優越的な力で市場をほしいままに利用することを政府が規制し、不況に対しては政府が財政投資と公共事業によって雇用を確保することでその悪影響を緩和し、累進課税を強化し社会福祉を充実することで、富者から貧者への富の再配分をおこなう、といったものです(⇒ルーズベルトのニューディール政策)。しかし、ケインジアンが困ったのは、失業率とインフレの関係でした。失業率を低下させようとすればインフレが発生し、インフレを抑制しようとすれば失業率が高くなるというトレードオフの関係でした。これを「フィリップス曲線と呼びます。この曲線によれば、インフレ率が上がれば、失業率が下がるはずなのに、70年代は必ずしもそうならず、失業率も上昇した。しかし、シカゴ学派のミルトン・フリードマンは違いました。インフレを退治するためには、貨幣の供給量を減らすしかないと考えました。公共事業や福祉事業による需要創出効果は無駄である、というこの考え方をマネタリズムとも呼びます。規制はいらない、フリーマーケットにしろ、という新自由主義(ネオリベラリズム)たちの主張であり、この新古典派経済学はレーガン政権の主軸になります。▼しかしこのネオリベラリズム・サイクル(新自由主義経済循環、佐野誠新潟大教授の提起)では、ケインズのいう一定のサイクルでの需給調整が起こらず、一般的な意味での景気循環とはならない。つまり自由化によって、海外からの資金が集まりバブルが起きるのです。このバブルがくせもので、企業だけでなく自治体も国も借金をしまくるわけです。経済が膨張していますから借金をしてもすぐに返せると考え、財政規律がゆるみます。そしてバブルがはじけます。このとき、資本は一斉に海外に逃避し、国、自治体、銀行、企業は一挙に不良債権をかかえます。そしてリストラを始めるのです。このときに、さまざまな規制緩和などの「改革」がされます。そして国や自治体、その国の価値が、安く評価される時をねらって、一気に海外資金がなだれこむ。この繰り返しが果てもなく続くということなのです。その過程では、弱小企業の淘汰、雇用の喪失、貧富の差の拡大、外資の進出などが起こり、人心は荒廃します。日本は、ネオリベラリズム・サイクルがちょうど一巡しようとしているところなのです。
▼世界の為替市場で取引されるのは年間300兆ドル、1日当たり1兆ドルにも上る資金移動の、実に90%以上が投機を目的とする短期の取引なのです。貿易などの決済に本当に必要なドルはいくらかというと、8兆ドルあれば足りるといいます。にもかかわらず、300兆ドルという余剰マネーが自己増殖を狙って世界を駆け回っている。故にこの短期資金の移動を抑制することで、世界経済はより安定し、実体経済を中心とした姿にかわっていくはずだというのが、トービン税の基本的な考えです。▼アメリカでは、サブプライムローンによって低所得者層に到底返済できない借金を負わせ、住宅を買わせていました。それによって住宅の値段はどんどん上がっていく。値段が上がっているうちはいいのです。購入価格との差額を元手に、クレジットカードを作り、それでまた消費をする(中国と日本はそこに輸出する)。そうしてこうした借金自体を証券化し、小口化し、他の金融商品と組み合わせ、日本を含む世界中の金機機関と政府に売っていました。つまり、世界中に借金をすることで、アメリカは消費の宴に酔い、それによって世界経済は維持されていた。見た目は派手だが、近づいてみると何もない、蜃気楼のような宴です。▼このサイクルが行き詰まったことで、すべて辻褄があわなくなってしまった。アメリカのGDPのうち、工業、建設業など価値創造する産業の占める割合は、23%しかありません(2005年)。他はサービス産業、いってみれば形のないものです。蜃気楼が蜃気楼であるうちは、この経済システムは維持されますが、実はそこには何もないということに気づいたとき、このシステムは破綻するのです。この過程でさらに重要なのは、マネー自体が収縮していくということです。▼マネーは信用によって膨張する。信用を失ったとき、一気に収縮する。つまり、今回の危機が深刻なのは、もう頼りにできるマネー自体が消えてなくなってしまったということです。その証拠に、原油、穀物、不動産、証券、債券、世界中のあらゆるものの値段が08年9月を境に落ちている。マネーは逃げたのではなく、「蒸発」していったのです。つまり、いくら規制を取っ払って外資、つまりマネーを呼び込もうとしても、マネーはどこにもない。これが今回の危機の実相です。
▼私はかねてから、F(フーズ・食糧)、E(エネルギー)、C(ケア)の地域自給圏(アウタルキー)の形成を、ひとつの理想としてきました。もともと地元に豊かにあるものを、輸送エネルギーを使ってまで海外から運んでくるという社会は、どこか間違っている、歪んでいると感じます。
04.地域収支論から考える
▼さて話は戻って、地域経済の基礎理論としての域際収支論を考えてみます。これは国際収支論の国内版です。ある地域を一つの国とみなしてその境界でモノ・ヒト・カネの出入りから地域経済のあり方を考えるものです。例えば、皆さんが住んでいる市町村を一つの国だとします。その地域の内外での輸出入という現象があります。実際は国ではないので「移出・移入」という言葉を使いますが、地方の市町村はたいてい「貿易赤字国」です。移入が多いのです。皆さんが毎日生活に使っているものの殆どは移入品ですね。自動車、家電製品、衣類から建材や加工食品の大部分まで、その町では生産しておらず、町の外から移入されたものがほとんどです。これに対し、地方の市町村から地域外へ移出できるのは、農産物、木材、水産物、とその加工品ぐらいしかありません。▼この域際収支の赤字額はどのくらいか。大きな工場のない地方の市町村の場合、人口1人当たり年間40万円前後でしょう。これは1990年代前半の十勝圏の所得推計調査からわかりました。北海道では2兆円の赤字国ですが、北海道の人口は500万人ですから、1人当たりではこれも40万円程度になります。そうすると、人口1万人の町は年間40億円の赤字国となります。
▼こんなに赤字があるのに、地方の経済はなぜ破綻しないのでしょうか。それは中央政府つまり国から地方へ回される財政資金、つまり地方交付税、国の各省庁の補助金、起債に対する優遇措置、社会保障などに関する所得移転などが、地方の赤字を補てんする仕組みになっているからです。細かくみれば国や県の直轄事業、中央機関からの融資、あるいは地域外に通勤している住民の給与、出稼ぎ収入や仕送り収入なども地域の赤字を補てんしています。▼しかし、日本経済が下降成長になり、国の予算はゼロあるいはマイナスシーリング、あるいは行財政改革で、市町村の赤字を埋める補てん機能も弱体化しました。その危機から「村おこし」が起きてきたのです。この域際収支の赤字を改善するには発展途上国と同じように、輸入(移入)を減らし輸出(移出)を増やすしかありません。何もしなければ若い世代を中心に人口がどんどん減少するわけです。日本国内には国境がありませんから、より豊かな地域つまり都市へ自由に移動し、地方の人口が減るわけです。
▼ということで、移出できるものを増やし外貨を稼ぐために、昭和50年代以降に「村おこし」や「一村一品運動」が展開されました。多くの農山村で味噌、漬物、焼酎といった村おこし御三家がつくられました。でも結果は「一損一貧」とでした。理由は二つあります。これは後ほど話します
▼ここでは「移入代替産業」を考えます。地域の赤字を改善するため、移入するものを地域で自給する産業を「移入代替産業」といいます。低開発国ではこの代替産業が盛んです。まだまだ伝統的な手工業が生き残っていて、近代的な輸入品なしでも済ませられる生活様式になっているわけです。
▼日本の市町村を想定した場合、この代替産業は農産物のほかさまざまな農産加工品が考えられます。先ほどの味噌、醤油、漬物、豆腐、納豆、こんにゃく、清酒、焼酎その他です。食品以外でも竹などの木工道道具、家具、染め織物製品などもあります。村おこしではこれらの製品を移出しようとしたわけで、そのような技術が農村を基盤とする地域には存在していたということになります。
▼ですから、こうした潜在的に自給可能なものが地域外からどれだけ移入されているのかの実態を調査し、その割合を減らすように代替産業を興していくことが、いきなり移出産業をめざす前にやることです。その際、移入されるものより安いとか新鮮であるとか、美味しいとか健康に良いとかの差異化をはからなければ移入品に太刀打ちできません。味付けを地域の好みに合わせることもできますね。そのあと、ゆくゆくは大都市の市場に出荷するということです。
▼ここでのポイントは、移出産業としては相手の嗜好に合わせることです。大分県のメザシ加工メーカーは、東京向けと関西向けとでは塩加減を変えているそうです。ですらから、よく「地元の人が美味しくないものは他の地域の人が美味しいと思うはずはない」いいますが、これは半分真理で半分は間違いです。▼移入代替産業には限界もあります。車や家電製品はムリですが、衣食住ならある程度可能です。例えば地域に洋服屋があれば生地は移入するとしても縫製加工賃の域外流出は防げます。また住宅産業は、地元の材木などを使い地元の大工や工務店が建築をすれば移入割合を小さくできます。グローバル化する経済に対してあまりに微力と思われるでしょうが、ここに地域づくりの重要なテーマが隠されています。それは、「衣食住にかかわる地域の生活様式を自前の技術で再建」するというテーマです。
▼だたし、世界の経済状況も知っておくことです。世界経済はいままでは欧米日の三極体制でしたが、これからは欧米中になります。中国の13億の人口、それは労働力であると同時に市場でもあります。商売のノウハウと豪華主義の美学をもつ国外の華僑・人民資本、それにアメリカの大学や研究機関でハイテク研究にたずさわっている中国人留学生や中国系アメリカ人が協力すれば、日本の工業や経済をさっと抜き去るでしょう。事実、日本の生活雑貨・電化製品のほとんどはメイド・イン・チャイナですね。そのことも踏まえて地域経済を組み立てることだと思います。
05.地域おこしの失敗と成功
▼次は地域おこしの話ですが、一連の地域おこしの失敗した理由は二つあります。経済行為というのは「抜け駆け」の論理にもとづいています。地場開発産品は市場で競合しないもの、競合する場合は差異化することが、原則です。しかし、村おこしは住民みんなが納得するようなもの、あの味噌、漬物、焼酎の御三家です。平均的・常識的なものしか発想できず突出した商品を開発できませんでした。企業的なセンスを持った人とか、変わり者の住民とかが少数精鋭主義で商品企画してはじめて市場に対して訴求力のあるものができるのです。▼ですから、失敗の第一原因は、「住民総ぐるみで常識的商品」になってしまったことです。第二の理由は、「地域資源という供給サイドにこだわりすぎた」ことです。地域特性を生かしてという言葉のもとで、原材料調達に限界がありました。市場からの発想が抜け落ちてしまったのです。「供給側の地域特性より需要側の市場特性」が大事ということです。
▼それでは、成功のよく知られた二つの事例を紹介します。北海道の池田町と大分県の大山町です。耳にタコができるほど聞いたでしょうが、これはいまだに東の横綱、西の横綱です。▼池田町の話はこうです。いまから40年以上前、冷害に脅かされ続けていたこの町の町長になった丸谷金保さんは、町内の山野に自生していた山ブドウに注目します。調べてみるとこれは旧ソ連でアムレンシス系と呼ばれるブドウでした。それなら普通のブドウも栽培できるのではないかと考えて山梨県からブドウの苗を取り寄せて栽培を始めました。何度も失敗しましたがそのうち成功し、はじめ考えていた生食用つまり果物としてではなく、ワインをつくろうという風に発展して、十勝ワインが生まれたのです。▼大山町の話も似ています。農協の組合長であった八幡治美さんは、大山町のような山間の土地はコメで勝負しても平野部の農村にかなわないと見切りをつけ、ウメとクリによる農業再建を企図して「ウメクリ植えてハワイへ行こう」と農民に訴えました。栽培に適した品種を町外から導入します。それがここの特産品となり、農民がハワイへ行けるようになったのです。
▼いずれも特産品の「開発のヒントは地域内部にありましたが、資源は外から」です。また、技術がなければ外の地域から導入し住民が学べばよいのです。こうなると特産品開発はとても自由な発想で開発できると思いませんか。地域は外からの人材や資源を持ち込んで、その土地の歴史が進んできた結果が、今日なのです。そうでなかったら縄文時代のままでしょう(※北海道は縄文時代→続縄文(弥生×)→擦文→アイヌ文化→明治)。一般的に言って、過疎地域であればあるほど、地域に「あるもの」より「ないもの」の方が多いですね。わずかの「あるもの」にしがみついて心中するより、「ないもの」を思い切って取り入れる方が容易で成功しやすいのです。▼脇道にそれますが、地域づくりの言語として「ふれあい」「うるおい」「ふるさと」「ロマン」がありますね。よく計画や看板にもパンフにも刷り込まれています。この四語は思考停止言語です。ああ、いい表現と思い、それ以上つき詰めなくなり、どうでもよくなります。これを使わないで、地域を表現することです。
06.産業別デザイン・農業
▼次は、地域経済を部門別に考えます。まず「農業」からです。日本の農業を守るということは、国内自給率を高めることなのか、農民の所得向上なのか、国土保全としての農地保全なのか、などの議論をしなくてはいけませんが、ここでは国土保全の面を強調したいと思います。▼それと既に故人になりました木呂子敏彦さんの考えを皆さんに伝えます。木呂子さんは戦争直後、民選時代に北海道の教育委員になり、のちに帯広市の助役も勤めましたが、戦後一貫して北海道の土づくりに取り組んできました。移動大学という名で道内の青年を連れて全国の先進的な農村や農場を見学させ、木呂子さんが農業の基本であると信じている「土づくり」を学ばせる運動をしてきました。移動大学の卒業生は8千人に及びます。▼木呂子さんによりますと、「農業は土づくりが基本」といいます。これからいちばん大事なことは地球上の土の生産力が保たれることです。土の中にはバクテリアなどの微生物がいっぱい生きていて、これがさまざまな食物連鎖を介して農産物を生育させます。地表でもっともよい土は、天然の雑木林など森林の土だそうです。森林は肥料をやらなくても自前で再生産します。いまから120年前に十勝地方に開拓団が入植し森林を伐採して畑に変えたとき最初の三年間は、いま十勝で改良された品種を使い化学肥料を加えてつくっているのと同じ反収のジャガイモの生産量があったそうです。それくらい森林の土地生産性は高いわけです。日本列島で何千年も続けられてきた焼畑農業はこの原理を生かした農法だったのです。農業のための土のモデルとしても森林を保護すべきことがこれでわかります。また、水田稲作という農業は毎年同じ作物であるコメを作っているのに連作障害が起きません。これは有機物やミネラルをたっぷり含んだ栄養価の高い水が川や水路を通って上流の森林から常時供給されるからです。漁民たちも今は森を大事にしていますね。
▼農業政策については、長期的には環境を重視する方向がいいと思います。「土」自体がもつ生産力を高めることにより、農薬や化学肥料をできるだけ使わない農法、つまり「健康な農業」を全国で広げることが課題です。こう考えると、大規模で粗放な農業より零細で集約的な農業がよいことになります。市民農園などを含め自家用の農産物を作る農業です。これは中核農業に土地を集めて大規模化し国際競争力をもった農業を育成するという国の方針とは逆の方向です。国の方向も理解はできますが、片や零細農家・兼業農家を良い方向に育成していくことがとても大事です。収穫したもののうち自家用の部分を差し引いて残りを販売に回すというような農業です。その部分を健康な農業にしていくのです。その地域の非農家や都市住民には、有機農産物や低農薬の農産物を欲しがりますから、やや高額な農産物でもビジネスとしての可能性は大きいのです。そのような農家と消費者を結ぶ流通経路を、農協や行政は手を貸すべきです。
▼農業の話のついでに、農村リゾートの可能性を考えてみましょう。2回目のときフランスの事例を紹介しましたので、今回は。ドイツの例を引きます。ドイツでは年間労働時間が1600時間で、世界でもっとも余暇の多い国です。長期休暇が季節に分けて年間6週間ぐらいあり、農家民宿に2週間滞在といった「農村で休暇」制度があります。例えばこんな風です。ヘッセン州のある農家では2階を客室に改造しました。1組しか泊まれない規模ですが、主人がこれからミルクを売りに行くから車に乗れといって、町のレストランまで連れていきます。農家民宿に滞在するドイツ人家族は、農家の手伝いをしたり森を散策したりして毎日を過ごすのだそうです。村では夏のシーズンに都市から演奏家を呼んできて小さなコンサートを開いたりしています。別の農家民宿では、2階に5室の客室をもち、中年主婦が1人で切り盛りしています。村には居酒屋を兼ねたレストランがありますから、昼食や夕食はそこで食べます。だから主婦1人でもできるわけです。料金は1泊朝食付きで1人2、3千円程度だそうです。▼欧州の農村景観は、広い牧場とかブドウ畑とかの向こうに、それを包みこむような森林が見えます。森があってこそ農村が成り立つのです。日本の農村は裏山が杉林か、北海道ならカラマツ、あるいはハゲ山ですね。本来の雑木林に戻したいものです。ドイツでは「私たちの村を美しくしよう」という運動が展開され、そのコンクールさえあります。昔のままの保存されていたわけではなかったのです。私もシュバルツ・バルト(ドイツの黒い森)のキュルシュ酒(果樹酒)でよく知られた小さな村を訪れたことがあります。山あいの美しい村でした。名前は失念しましたが。▼ドイツでも、イギリスでも都市住民が余暇にやってくるだけでなく、農村から都市に通勤する人もかなり多いのです。農村が住環境としても素晴らしいからです。
07.産業別デザイン・工業
▼つぎは、地域における工業の振興、特に技術移転をねらった企業誘致政策について少しだけ話しておきます。市町村の工業開発とか工業振興とかの施策はこれまで、伝統的・手工業的な地場産業がある場合はその振興策が、そうでない場合は地域外からの工場誘致が主たる課題でした。昭和40年代以降、地方への工場誘致のために適地の指定や工業団地の造成、誘致運動や用地の斡旋などの施策が行政によって行われてきました。そうした場合、公害の恐れさえなければ工業の内容や業種などについては総じて無関心で、もっぱら地域にたいする雇用効果、所得効果、税収効果などを期待していたわけです。▼これからは、地方の小さな自治体でも、どんな内容の工業を導入し育成していくかを考えるべきです。その際、重要なポイントは、新しい工場が立地することによって従業員となる住民が何らかの生産技術を習得できるという視点をもつことです。地域外から地域内への技術移転(テクノロジー・トランスファー)をねらうのです。
▼地方で工業生産技術が蓄積されてきたのは、何といっても長野県の諏訪地域です。ここでは戦前は製紙・紡績など繊維工業が集積していましたが、戦後これが斜陽化すると、空気がきれいであるというような理由から時計などの精密機械工業に置きかわりました。時計にエレクトロニクスが組み込まれるようになって高度な電子技術が導入され、小型テレビや液晶製品を製造する先進地域となりました。セイコーエプソンなど全国的なメーカーがあります。技術を住民が獲得した、つまり地域に技術が根づいたといえます。それと、静岡県の浜松周辺も独創的な工業技術を蓄積し世界的な企業を生み出しています。ホンダ、ヤマハ、カワイそれにトヨタもここが発祥地です。
▼地方自治体は、大企業の工場の誘致が最大目標であるといった従来の考えから脱して、Uターン者を含む住民がどんな技術をもっているかを調査したり、地域の技術蓄積を目的にした工業導入をねらうなど、新しい視点からの工業振興が大事です。もっとも、これからは狭い意味での工業誘致だけでなく、研究所やソフトハウスなど頭脳労働型の地方への進出もありますから、ハードな生産技術だけでなく経営・情報・研究などソフトな技術も含めた技術の移転・蓄積をするということです。
08.産業別デザイン・商業
▼さて次は、商業の問題に入ります。大都市では新しい商店や飲食店が次々と生まれていますから商業は産業の中でいちばん自由度が大きい分野だと思われていますが、地方の古くからある中心商店街はそのほとんどが衰退に向かっています。農業化しているのです。というのはまず兼業商家が増えています。主人はサラリーマンでおかみさんが店を任され、しかも高齢化し後継ぎもいない。後継ぎはいても嫁さんが来ない。地域の商業は農業と同じように行政の保護の対象になりつつあります。商業近代化事業など国が助成する制度がありますから、ますます行政の保護下に入ってしまい、商店主の中には行政の人たちに「お客を連れてきてくれ」と頼む人さえいるのです。ホントですよ。▼しかし、商業は農業とは違っています。農業は客が来るところで行う必要がありませが、商店は客が来なければ成り立ちません。地方の中心商店街が衰退している原因として誰もがあげるのが自動車に不便だからというものです。しかしですね、農業は農地を移転させることはできませんが、商業なら客の来るところに移転できます。ですから、もし交通が不便であることが不振の原因なら、自動車に便利な街道沿いとか郊外に店を移せばよいわけですが、そうする元気もない。
▼20年前ですと大型量販店が既存商店とって脅威でしたが、いまは実にさまざまな種類の店が次々と現れています。簡単に飲食できるファーストフード店、持ち帰り料理のテイクアウト店、現代のよろず屋コンビニエンス店、自動販売機を集めた無人店舗、日曜大工のDIY店、特定業種のディスカウント店、売れ残ったブランド品を安く売るアウトレット店などの花盛りで、これらは郊外の街道沿いに立地するロードサイド店が多いといえます。それに書店、AV店、ビデオレンタル、パチンコ店まで郊外型・街道型になっています。▼地方の中心商店街はこうした新しい業態をもった商店の出現に危機感を募らせていますが、業態の違いが新しい立地を必要とし新しい客層を開拓していることには気づかず、あちらは自動車利用が便利だという点しか見えないんですね。郊外立地の商店の多くは、全国展開のチェーン店なども含め、その町の既存の商業者とは別の新規参入者による開業がほとんどです。
▼そのようなわけで、地方の中心商店街はどこでも公共による道路拡幅と駐車場整備を強く求めています。近くに人が集まる公園・広場をという要望も加わります。しかし道路拡幅は店が削られますし、店舗の改装も必要になります。そうすると、そうしてもよい商店主もいれば、後継者のいない商家などは新しい投資はしたくないということになり、にっちもさっちもいかないのが現状です。▼ですから、集団としての商店街の整備という行政施策は破綻したといえます。もうやめた方がいいわけです。これからは、農業政策と同じく「中核商家」の育成です。事実、自動車利用客には不便なのに繁盛している店も結構あります。飲食店や喫茶店の類に多くみられますが、飲食店は商品である料理がその店にしかないものですから、それを食べたい人は歩いてでもやってきます。モノを売る店でも、その店固有の商品とか品揃えとか情報提供のサービスをして客を集めているわけです。▼地元にも事例がありますから、調べてみてください。中札内村の高台にレストラン「百鬼」、市内の「らーめん美鈴」なんかもそうですね。
▼また、住民は安さと便利さだけを動機で買い物をするのではありません。あたりまえのことですが、ちょっといいもの、気に入ったものがあれば買うのです。そのことを古い商店街の人たちはコロッと忘れているかもしれません。▼地方でも専門店の気の利いた小さな店、店主や店員に見識と個性があって客を識別してくれるような店に人気が出てきます。それは郊外店より中心商店街の方がふさわしいと考えられます。そういった店がポツリポツリと出始めやがて集積していくように、商店街活性化ビジョンを作って欲しいのです。
▼買い物空間はおおらか空間ですし、そのうちでも「屋台」は魅力ある小売業の一つの業態です。屋台は九州の福岡あたりまでを含めて、東アジア、東南アジアが本場だろうと思います。屋台街の面白いところは、昼間は何もない路上に夜になると花が咲いたように小さな仮設店舗が無数に現れることですね。業種としては飲食関係が多いのですが、衣料品、お土産品や骨董品、怪しげなブランド物、そうしたことも含め屋台街にはデタラメサとアナーキーさを飲み込んだような活力が感じられます。台湾・中国に魅力的な屋台街があります。中国では朝ご飯をそこに食べに行くと聞きましたが。▼皆さんは、帯広の「北の屋台」を体験しましたか。どうでした? ▼イスラム圏ではバザール(ペルシャ語)とかスーク(アラビア語)と呼ばれる市場、商店街、露店街がみられます。テレビでもよくみかけますね。▼カナダのエドモントン市のウェスト・エドモントン・モールは世界最大のショッピング・センターですが、造波プールなどのアミューズメントを組み込んだ現代感覚の商業空間でした。日比谷公園3個分を有するモール内には、ベイやイートンズなどのデパートをはじめ、900棟以上のショップやレストラン、そして、カジノや映画館、ホテルもある。世界一の屋内遊園地のギャラクシーランド、屋内プールのワールド・ウォーターパーク、人口湖を潜水艦で回る深海アドベンチャー、一年中アイススケートとが楽しめるアイス・パレス Ice Palace 、バンドウイルカのショーがみられるドルフィン・ラグーン Dolphin Lagoon などアトラクションも充実している。何でも揃っています。とても全部見切れませんでした。▼アメリカではサンフランシスコのフィッシャマンズ・ワーフ(漁師桟橋)が有名ですね。これは釧路でも再現しましたが、いまはどうでしょうか。
▼このように商業空間は地球上、人々の住む場所に普遍的に分布し、人々が集まってくること自体が目的であるかのように「人が集まる空間」として機能しています。ですからモノを安く早く便利に買おうというような単細胞的な動機はどうでもいいという気持ちになりませんか。地球上の商業空間はとてもおおらかな人々の交流の場ですね。そのあたりに、これから日本の商店街を元気づける大事なヒントがあると考えてよいでしょう。
09.産業別デザイン・観光
▼日本では観光は成り立たないのだろうか、ということで、次は観光産業の話です。まず初めに需要側、つまり観光に出かける人について考えます。これまでの観光の歩みといいますか、観光の流れを見てみます。
▼戦後の日本人の観光は、昭和20年代、30年代の観光は職場などの男性中心の団体旅行が大部分で、温泉と名勝をセットにして選ばれました。温泉街はもちろん男性本位でそれにふさわしいアトラクションもありました。いまでもありますけどね。また、日本三景など景色のよいところなど相場が決まっていました。そのころは温泉も含めた自然資源が主な観光対象であったわけです。修学旅行やお年寄りは京都や奈良、伊勢などの神社仏閣が主なところです。
▼昭和40年代に観光は大きく変わりました。当時の国鉄が「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを張って、鉄道で行ける新しい観光地を浮かび上がらせました。▼あの、山口百恵の「いい日旅立ち」というわけです。この頃は飛騨高山、倉敷、津和野など地方の城下町や天領だったところ、つまり自然資源に代わって「町」が観光対象になりました。歌ばかり紹介しますが、小柳ルミ子の「わたしの城下町」という歌も流行りました。そしてアンノン族と呼ばれる若い女性が観光の主役として登場し、中年女性や高齢者のグループも同じようなところに行くようになりました。
▼昭和50年代も若い女性が日本の観光をリードです。軽井沢や清里など、今いうところの高原リゾートが脚光を浴びるようになり、高原地帯でテニスやサイクリングをするのがナウいということになったのです。もちろん、若い男たちもその後を追っかけます。他方、中年男性たちはゴルフ旅行をするようになりました。リゾート・ブームの前夜です。これらの現象は突出した部分で、量的にはあいかわらず団体旅行が観光の主要部分を占めておりました。今も変わっていませんが。
▼昭和60年代に入ると、リゾート法などができ日本列島はリゾート開発に向かいます。しかし大資本によって開発されたリゾートは、家族で滞在するにはコストがかかりすぎました。それに、日本人は自然の中で一日静かに過ごすような生活様式を身につけていないこともわかりました。別荘地に来る人は、別荘は夜の宿泊用で昼間はゴルフかテニスかドライブか、とにかく何か活動していないと退屈でしょうがないんです。じっとしていれば安く済むのに、とにかくいろいろ遊びをするから高くつくことになります。▼フランスのバカンスは、ただご飯を食べて本を読んで、すこし遊んで寝るだけ。これを2週間から1カ月ですからね。皆さんはこんな風にできますか。
▼団体客には職場団体、地域団体、趣味同好会やクラブ、地方議会議員団体などありますが、年1、2回みんなでどこかへ行くことが事前に決まっていて、では今年はここにという話になります。どこの何を見たいという動機ではないんですね。ですから本来の意味の観光は付け足しで、「みんなで旅することが最大の楽しみ」であり、バスの中でカラオケ、夜は宴会でまたカラオケ、とこうなるわけです。こういう動機で旅行する人が、旅先の土地やそこに住む人に敬意や共感や愛情をもって接することはありませんね。▼そのような意味で、日本人には観光を成り立たせる需要側の契機がないと思います。もちろん本当の意味で全国のよいものを見て歩く人たちはいるわけですが、少数でしょう。それなのに自治体の観光振興は、観光バスが次々とやってくるようなイメージでプランを立てるのです。
▼供給側にも観光を成り立たせる契機がありません。地域の宝ものが自然資源だと、こうなります。北海道の層雲峡とアメリカのグランド・キャニオンとでは、また日光の華厳の滝とナイアガラの滝とでは、すごさが違います。日本人の海外旅行は年間1千万人以上が渡航している時もありました。海外のすごいところを知っていますから、まあ、テレビで知っている人もいますが、その意味では、行き先がどこでもよい団体旅行は筋が通っています。というわけで、日本にはたいした観光資源はないと断言できます。外国人が一番喜ぶのは東京・秋葉原の電気街なんですね。あとは隠れた観光資源としては、吉野ヶ里遺跡のようなものはありますが。
▼さてそろそろ本題に入ります。「ビジネスとして成り立つ観光開発の条件は何か」に絞りましょう。これからは地方自治体が産業政策や地域活性化策として観光開発は考えない方がいいですね。日本には観光を成り立たせる供給側、需要側の契機がなく、行政が公共的に観光開発する論拠をみつけることができません。そのかわり住民のための文化事業や教育事業として博物館を建てるか、現存の施設をさらに拡充したりして、その結果として地域外の人々にも注目の観光施設として機能するようになったということなら歓迎です。▼そこでもう一歩進んで、地域の過去の文化をきちんと整理したら、地域の未来のために新たに導入すべき文化を探るのです。そうすると、これまでの地域とはおよそ関係のないような内容の博物館を建てることになるかもしれません。どうせ地域外の資源を使った施設をつくるなら日本の他の地域にないような斬新な内容の、しかも研究専門の学芸員がいるような本格的な博物館にするといいですね。そうするとこれは小さくとも質的には国レベルの価値をもつ博物館となり、全国から大勢見学に来て、やがてその町にレストランや喫茶店や民宿が住民のビジネスとして成り立つようになるかもしれません。
▼次に、民間つまり地域住民や企業が観光開発する場合のノウハウについてです。観光客が観光地でお金を落とす原理は四つです。「ねる」「くう」「かう」「はらう」です。▼そのうち「ねる」がもっとも効果があります。宿泊すれば飲食も伴いますから1人1万円の桁のお金が地元に落ちます。とにかく客を泊めることを優先した開発をすることです。あとは今の子供や若者は個室でベッドです。若者とくに若い女性に来てほしかったら、ペンションを少し大きくしたようなプチ・ホテルでよいですから、ベッドと洋式便器つきの浴室を持つ客室がある宿泊施設を設けることです。▼「かう」については、日本人は観光旅行で特別に買物が好きな民族です。新潟県の寺泊町の漁家が街道沿いで始めた魚屋街ですが、観光バスやマイカーが次から次へとやってきます。初めは三軒で安売り合戦を始めたのですが、やがて10軒になり年間売り上げが100億円を超えるようになりました。この成功の秘密は、地元でとれる魚にこだわらなかったからです。ここでは三陸海岸のイキのよい魚まで売っています。▼地元資源から発想するから失敗することは前にも話しました。成功事例のすべては、地元資源からの発想ではないことを再度確認しておきます。
▼観光を産業やビジネスの問題だけで捉えるのは、もったいないと感じます。ある土地の人が別の土地の人と出会うことに最上の楽しみがあるような、そんな観光を考えるといいでしょう。以上、地域経済のデザインについて話しましたが、最後に日本全国の動きを少しだけ紹介して終わります。
10.地域経済と人材蓄積(講義5再掲)
▼ここでは、地域経済にとってヒントいっぱいのボローニヤ方式を紹介します。博物館と職業教育と人材蓄積が、三位一体になっている見事さがあります。『ボローニヤ紀行』(井上ひさし・文芸春秋)からです。▼人口38万人のボローニヤには、たくさんのミュゼオがあります。ミュゼオとは、美術館や博物館や陳列館のことをいいますが、それが市内に三十七もあります。ついでですから、ほかの施設の数もあげておくと、映画館が五十、劇場が四十一、そして図書館が七十三です。さて、この三十七のミュゼオは、どれをとっても第一級で、半端なものは一つもありませんが、ここの産業博物館は、その独特なおもしろさにおいてほかに類をみないもののように思いました。そしてこの産業博物館は、使われなくなった煉瓦工場が使われていますが、徹底的に改造され、まったく新しく蘇って、底光りするような頼もしい建物になっています。▼それとこの博物館には三つの原則があります。一つは、展示は二カ月ごとに変えること。これは工業専門学校の生徒たちが、授業の一環としてやっている。なにをどう展示するかは、デザイン科の生徒たちがいつも知恵を絞っているので、お金はそれほどかかりません。ボローニヤには、イタリア最初のアルディーニ・ヴァレリアーニ工業専門学校があります。設立は1844年ですから歴史は古い。もっというとこの産業博物館そのものがこの学校の付属施設なのです。▼博物館の第二の原則は、ここの展示はほとんどが動くというものです。例えば、「シルク都市時代のボローニヤ市街」という、十五、六世紀ころの惚れ惚れするほど精密精巧につくられたミニチュアの模型があります。アペニン山脈の麓のなだらかな斜面に旧市街が広がり、遠くにポー川の支流のレノ川が流れているのが見える。まるで五百メートル上空に浮かんだ気球から眺め下ろしているようです。赤いボタンを押すと、軽い機械音とともに、街全体がぐんぐん上にあがっていき、その下から街の地下一階の模型がゆっくり迫(せり)上がってくる。そのころ、大抵の家の地下に紡績機がありました。つまり地下一階が小さな紡績工場になっていたのです。赤いボタンをもう一度押すと、すると、またもや街全体の地下一階が持ち上がって、その下から地下二階のミニチュア模型が迫上がってきました。その地下二階はまるで運河の網の目模様でした。遠くのレノ川から導かれてきた青い水が、街の下を右へ左へと巡りながら建物の地下を通り抜け、やがてレノ川下流へ流れ込む様子が手に取るように分かるのです。レノ川の水を導いて得た動力のおかげで、ここは世界一の絹の産地になりました。そしてボローニヤの絹はベネチアへ運ばれ、全ヨーロッパに輸出されたのです。さてこの展示館では、まだ見ごたえのある展示があります。ここの二階と三階をぶち抜いて、当時の紡績機が陳列されていました。上から下まで木で精巧に作られていて、赤いボタンを押すと、木琴でも奏でているような、気持ちの良い音を出しながら回り始めました。大小何千個もの木製部品が、大中小の歯車で調整されながら各自さまざまな速さで動いて、何千本という糸を見る見る紡いでいきます。見事なものです。地下を走る運河の網の目模様と、この紡績機を見るだけでも、成田・ボローニヤ間の航空運賃を払う値打ちがあります。この博物館はいきいきと生きていました。▼博物館の第三の原則は、この博物館がこの専門学校の卒業生の同窓会館の役割を果たすということです。ここの卒業生のほとんどが地元の職人企業に就職しますが、彼らは足繁くここに通って、たがいに親睦をはかったり情報を交換しあったりしています。こうして産業博物館を中心に分厚くて親密で巨大な情報網が形成されていることになる。同時にこの学校は技術研究所でもありますから、卒業生を対象にした集中講義が初中終(しょっちゅう)行われています。つまり、ボローニヤの職人たちは生涯ここで勉強するわけです。そしてその中心になっているのが、この産業博物館なのです。▼ここで少し注釈を加えると、職人企業とは、製造業では従業員が二十二名以下、伝統産業では四十名以下の、小さな企業のことです。ここで働いてやがて熟練工になると、いつでも独立できます。
▼シルク都市時代からの技術の集積、熟練工たちの巨大な情報網、職人を大切にしようという意思、そして生まれた土地で育ち、学び、結婚し、子供を育て、孫の顔を見ながら安らかに死ぬのが一番の幸せという生き方、そういったこの土地の精霊がボローニヤに、フェラーリといった高性能自動車や、ドゥカーティといったものすごいオートバイを生み出したのです。ちなみにセリエAのサッカーチーム「ボローニヤ」を財政的に支えているのも、この産業博物館を中心とする職人企業のネットワークだそうです。▼そして今、ボローニヤは世界の包装機械の中心地になっておリ、パッケイージングバレーと呼ばれています。ティーバッグと薬品の充填包装システム機械では世界一のIMA社を訪問し話を聞くと、この会社は1924年に設立されたACMAというチョコレートの「包装機械メーカーがあって、それがIMA社の母会社となそうです。戦後1947年にあの工業専門学校を卒業したロマニョーリという青年がここで熱心に仕事をして熟練工となり、1961年に母会社から独立し、IMA社を設立した。この時に大切なことは、「母会社の技術を持ち出すことは許されるのですが、母会社と同じものを作ってはいけない」ということです。ですから、チョコレートの自動包装機械の技術をもとに、自動ティーバッグ包装システムを開発し、つづいて自動薬品充填システムを完成して、世界市場を制覇したわけです。もちろん、買い手の工場に機械を納めたら、それでおしまいというのではなく、しばらくの間、機械と一緒に暮らします。そして買い手の要望を聞きながら、機械の微調整を行います。買い手側の技術者がその機会を完全に使いこなせるまで、その地に留まっているのです。▼このように母会社のACMAから包装機械作りのノウハウを持って分かれて行った企業は、戦後から現在までに、五十社以上にも及んでいるそうです。そして、この五十の包装機械企業のネットワークを、部品を供給する三百社が取り巻き、ボローニャに包装機械についてのありとあらゆる技術を集積させている。こうなったら強い。パッケイージングバレーといわれる所以です。▼IMA社では日本茶の自動ティーバッグも作っているそうです。注文主は伊藤園だそうです。日本人の舌は敏感で、最初はリプトン紅茶などと同じに、ティーバッグをホッチキスで止めていましたが、どうも金気を嫌うことが分かりました。そこで糸を使うことにしたわけですが、これが技術的にむずかしい。ティーバッグの口を糸で結わえる装置を考え出すのに三年かかりました。それでもこれが好評で、いまではリプトン紅茶などもこのやり方です。つまり日本人の敏感な舌が、世界の紅茶バッグの味を向上させたわけです。▼こうして、ボローニヤの地域産業が生まれ育ってきました。ここには貰えるヒントがたくさんありますし、その流れが感動的です。
11.地域経済の最近の動き
(1)葉っぱを商品にお年寄りが一千万円も稼ぐ町(徳島県上勝町)
〈清流に恵まれた上勝町〉
標高700mに位置する過疎の町で、たった一人の農協職員が起こした奇跡の町興し。地元で採れる葉っぱを、料亭の料理に添えるツマ物として出荷することで、お年寄りの仕事を生み、地域の意識を元気にしていった。この町興しは住民意識と農協職員のぶつかり合いが始まりだった。
地元の人たちの、「どうせ自分らの町はつまらん」という住民意識と戦い、苦労の末に葉っぱビジネスを成功させると、地元の人たちの意識が前向きに変わっていった。高齢者がパソコンを駆使して市場動向を睨み、収穫する葉っぱを選定する姿は、仕事という生きがいがあれば介護の必要がないことを証明している。
(2)商社勤めのUターン経営者が家具産業を復活(福岡県大川市)
〈神棚と世界時計の微妙なバランス〉
400年以上の家具つくりの歴史がある街で、家具工場を経営する父親を見て育った境さんは、大学卒業後は家業を継がずに商社マンとして活躍していたが、心機一転してUターン。厳しい経営環境の建て直しに商社で積んだノウハウを生かし始めた。
東南アジアの工場に自社の職人を派遣して、日本向け家具作りの指導を行い、そこで製造して輸入した家具を大川市内の家具流通システムに乗せて国内販売に向けた。しかし自社の工場でも製造は行い、家具作りの技術を維持している。境さんの地方論は、地方の町は大都会を模倣するのでなく、海外の地方都市と姉妹関係を結んで交流し、国際化を進めることで個性ある街づくりを推奨している。境木工の事務室には神棚があるが、その横に、それぞれ示す時間の違う掛け時計が3つ並んでいる。海外の取引先の現地時間を知るためのものだった。
(3)脱公害と環境技術の開発が進む(三重県四日市市)
〈燃料電池の耐久性試験装置〉三重県工業試験場
戦前の海軍燃料基地から一転して、戦後は重化学工業が集積するコンビナートとして栄えたが、関連企業が使う資源のエチレン製造が中止されることになった。従来の規制を特区の活用で撤廃運用して産業の活性化を進めた。この発想が三重県の企業誘致ノウハウになって液晶テレビの生産地にもなっていった。三重県出身で地元大学に招聘された電機メーカーの副社長、霞ヶ関から出向してきたキャリア官僚、それに県庁マンの三者がチームとなって走り出す。
(4)農業+加工+流通=6次産業を推進(島根県桜江町)
〈桑のハーブ茶農業を創設した古野さん〉
明治から昭和40年代にかけて養蚕業で栄えたが、安価な中国産生糸の輸入を受けて廃業に追い込まれ、過疎化の影響もあって、荒れた桑畑の再生に苦慮していた。野菜畑に開墾する土木費用が膨大で、町の財政ではどうにもならない。その一方で荒れ続ける桑畑。古野さんは、人生二毛作の後半を過ごそうと、自然が豊かな桜江町にやってきた。町役場の鎌瀬課長と親しくなった古野さんは、地元の人が愛着を持つ桑畑の再生を、ハーブティーで思いつく。健康ブームにも後押しされて桜江町の桑茶は直ぐに売れ出した。
桑のハーブ茶が売れ出すと、その売上げで桑畑の再生が進み、公共事業の減少に悩む建設の会社も農業に参入するようになり、町全体が活性してきた。Iターン者の新しい視点で町の再生ができた。
(5)一人の市民による観光都市の再生
〈地元FM局で映画の魅力を語る安元さん〉
鎖国時代の坂本竜馬や伊藤博文に海外視察の機会を与え、明治維新に影響を与えたシーボルトが住んだ長崎は日本の幕開けの街だった。さらにキリスト教の歴史と原爆被爆地という戦争遺産も併せ持つ観光都市であったが、最近は観光客が急減しており、ランタン祭りや長崎おくんち祭りの外は、小学生の修学旅行が目に付く程度になっている。長崎港の一角に、世界最大の豪華客船も建造する造船所がある。その職場を定年まで勤めた安元さんは生粋の長崎人である。地元のFM局で映画の魅力を語りながら、商店街に隣接した映画館での映画祭を4年続けている。最近は離島での芸術体験型観光の開発や、軍艦島などの産業施設を見ながら歴史を学ぶ、新しい観光スタイルを模索している。
長崎は、いろんな歴史と遺産を備えた観光都市だが、芸術文化を市民生活に浸透させることで地域を知的に活性し、新しい観光客を誘いたいと考えている。
以上で、地域経済のデザインを終えます。
12.資料編
▼書籍資料/村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬舎)。
▼写真資料/「北の屋台」(帯広)。
2010年3月6日土曜日
都市と文化 (MA-3)
03.都市と文化
内容
1.都市文化を考える... 1
2.文化は辺境から... 3
3.異質なものを導入する... 5
4.社会教育の時代は終り、地域教育と国際教育へ... 8
5.(補論)低所得社会の市民文化(第5・7講再掲可)... 11
6.(補論)市民文化のリロン整理... 12
(1)自治体の今日的文化状況... 12
(2)都市型社会における三文化形態... 13
(3)市民文化の三政治文脈... 14
(4)市民文化活動の自立と水準... 16
(5)自治体による地域文化戦略... 17
7.資料編... 19
1.都市文化を考える
▼今日は、都市文化あるいは市民文化についてお話します。地方自治体行政で、文化が問題なるのは、たいてい学校の統廃合や建て替え、教育委員会行事とか学校行事、おもに制度にかかわることです。文化や教育の内実そのものが地方行政レベルで深く問われることはありませんでした。戦後の教育委員会制度も、その実際は教育行政の承認機関であって、その土地独自の教育文化を生み出すことはできませんでした。▼教育委員会は、GHQ指導のもと「教育は政治の上にあり」といったプラントンの考え方のように、行政に介入されない教育をということでしたが、いまは、行政の下請け教育の模様です。本来はもっと独自に地域型の教育を考えていいのですが。ドイツのシュタイナー教育で実践している「エポック授業」なども参考になります(子安美知子)。また北海道の開拓史とかアイヌ文化を調べ・発表する、とった歴史の調べ方・学び方の方法を知ることがポイントになります(参考「アイヌ文化の基礎知識」引用)。▼しかしながら行政が人間個人の内面に介入したり、介入しすぎるのは住民の精神的自由を損う恐れがあります。「内面の自由」の保障はしなくてはなりません。▼さて、文化には生活のための「生活文化」と、心を満たすための「芸術文化」とがありそうです。他の動物と違って人間は芸術文化を持ちます。これは生活文化の高度化したものとも云えるかもしれません。よく「文化で飯が食えるか」と言われますが、仮に空腹であったとしても心を満たすものが欲しいのが人間です。
▼ここで、モーツアルト曲を聴いたつもりになってください。評論家の小林秀雄『モーツアルト』ではこう言ってます。ト短調の弦楽五重奏曲K516の譜例を出して、「モーツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡(うら)に玩弄(がんろう)するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モーツアルトの後にも先にもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の生涯を駆け抜ける」。これはよく知られた一節ですね。▼おなじくト短調のシンフォニー第40番K550の譜例を示し、「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいのかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニーの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたのか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう。兎も角、街の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏したように鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄えた。百貨店に駆け込み、レコオドを聞いたが、もはや感動は還って来なかった」。
▼このように、モーツアルトの音楽は、どんなに苦しいときでも、ひもじいときにも静かに心を満たしてくれます。私はベートーベンの弦楽四重奏を好みますが、皆さんはどんな曲ですか。▼ということで、視聴覚機材を用意しましたので、ここはやはりモーツアルトの「ト短調の弦楽五重奏曲第4番K516」のアレグロをだけ聴くことにしましょう(約10分)。演奏はアルバン・ベルク四重奏団、1986年録音です。
▼さて、ともかく文化というからには日本の文化状況をざっと見ておきましょう。皆さんにも言い分はあるでしょうから「ああだこうだ」と発言してください。日本の文化創造力が衰えてきたのは、戦後の経済至上主義のせいばかりでなく、おそらくは「内省的環境」が失われてきたためと思われます。その証拠の一つは、芸術文化に属する種目のうち、その国の社会状況をもっとも直接的に反映するのは「映画芸術」であるといえます。映画は工学的技術を使う近代的な芸術メディアで、世界の大量の享受者に同時発信できる市場性をもった芸術文化です。日本の首相の名は知らなくても、黒澤明の名を知っている外国人は大勢います。▼日本映画はかつて異例の輝きを示しました。1950年代前半でした。「羅生門」「七人の侍」「生きる」の黒澤明、「雨月物語」「近松物語」の溝口健二、「麦秋」「東京物語」の小津安二郎など、世界の映画史上に残る白黒映画の傑作を矢継ぎ早に送りだしました。その後も今村昌平や大島渚など新世代の映画監督が1960年代までは、“世に問う”という感じの映画をいくつか発表しました。その熱気も失せて30年を経て、1992年周防正行の「シコふんじゃった」など特殊日本的な感覚の映画がいくつかありましたが、世界に問いかけるというような志を持ってというものは出てきませんでした。でもここにきて、宮崎駿監督の「千と千尋」、07年カンヌ国際映画祭では河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」、09年米国のアカデミー賞で滝田洋二郎監督・本木雅弘主演の「おくりびと(デバーチャーズ・旅立ち)」が記憶に新しいですね。いずれも死者を送る映画で、静謐というか、静かな「Q型人間」の映画です。これが世界基準になりつつあるということでしょうか。
▼内田樹の正月の小津映画で、Q型の静かさを知る人間になろうということについては前回話しました。それと、作家・監督・音楽家などはまず十中八九、必ず静かなところ、山麓とか海とか田舎で思考作業をしていますね。それは間違いありません。ただし発表は都会です。ですから東京や大阪の大都市は、コミュニケーションにはいいですが、思考に向きません。▼「発表は集中すべし、思考は分散すべし」「情報は分散すべし、権力は分散すべし」ということで文化も政治も地方分権型
に向かっているようです。
▼一方、アジアの隣人たち、つまり中国、台湾、香港、それにインドなどの新しい映画が、ベネチアやベルリンの映画祭で次々とグランプリを獲得しています。中国映画では個人的ですが「山の郵便配達」がよかったです。これも静かな映画です。▼世界的にはいろいろ試みているようですが、どちらかというと静謐なQ型に向っているのでしょうか。
▼一方、映画以外の「音楽芸術」も衰弱しています。日本のレコードやコンサートの市場は極めて大きく、またピアノなど楽器の普及率はアジア諸国のなかで抜きん出ています。音楽の裾野の広さは、韓国や中国に比べものにならないくらい広大です。しかし、世界のトップ・クラスの音楽家に注目しますと、日本も韓国も中国も同じくらいです。ここでは、裾野が広いと頂点が高いという、原則が当てはまりません。▼国内外で堅実な活動をしている日本人演奏家が多数いますから、あまり市場性ばかりで判断はできませんが、ドイツ・グラモフォンとか、オランダ・フィリップとか、英国のEMIやデッカなどの世界的なレコード会社からCDが出ている演奏家を指標にすると、日本人ではオーケストラ指揮者の小澤征爾とピアニストの内田光子(個人的には全CD所蔵)がいて、韓国人にバイオリニストのチョン・キョンファと指揮者のチョン・ミュンフン姉弟がいて、中国人にチェロのヨーヨー・マとバイオリンのチョーリャン・リンなどがいます。まだ、日本人にはバイオリンの五嶋みどりが評価を高めつつありますが、トップだけを拾うと日韓中同じくらいです。▼それと日本には若くして演奏技術にはすぐれた層がとても厚く、国際的な新人コンクールでもしばしば入賞するんですが、大演奏家にはなかなかなれない。日本の若い演奏家は譜面どおりにうまく弾くけれど、例えばクレッシェンドになるとき、なぜこの曲のこの部分でクレッシェンドになるかを考えずに弾いている。技術の向上には邁進するけれど、芸術の内奥あるものを見つけようと志向や環境が、いまの日本には失われている。▼先ごろの話題になりました、「第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール」で日本人初の優勝を果たした全盲のピアニスト、辻井伸行(20)の快挙がありました。超絶技巧と音楽性の両方を具えていたように思いますが、今後の評価が待たれます。
▼「文学」でも1970年に三島由紀夫が45歳で割腹自殺して以降(辞世の句「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へし今日の初霜、散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と小夜嵐(さよあらし)」)、わが国で世界の文学史に残るような小説が一編でも書かれましたか。いやノーベル賞候補の村上春樹がいましたね。彼の「ノルウェーの森」にしても政治とか国家や戦争の問題が出てこないのが特徴だという人もいますが、これも静かな小説です。
2.文化は辺境から
▼そこで、これからの芸術文化というか、日本の文化創造を東京だけに任せておくのは危ない、という話をします。東京はたしかに芸術文化を享受するには便利です。展覧会や演奏会などのマーケットという点でも世界的都市です。しかしじっくりと芸術の創造活動を行うのにふさわしい場所ではありません。▼「活動は地方で、発表は中央で」。「情報は集中すべし、権力は分散すべし」は、先ほど話しました。これは辺境と中心の問題です。そして、辺境から動きが始まることが多いのです。
▼海外をみるとニューヨークやロンドンやパリには、まだ内省的になる都市環境があるんです。東京は皆無でしょう。だから、高度な芸術創造の場を地方で生み出していく必要があります。文化創造の場は、欧米では国土にあまねく分散しているのが普通です。典型的なのはドイツです。ドイツの地方都市は小さくて魅力的ですね。小型分散しています。▼米国だと文化芸術以上に、文化産業が分散されています。ニュース専門テレビ局のCNNやコカ・コーラ本社がアトランタに、スーパーコンピューターの代表的メーカーであるクレイ社はミネソタ州に本社があり、西海岸のロサンゼルスには、ご存じ映画産業がある、という具合です。
▼いま芸術文化の世界でもっとも興味深いのはパフォーミング・アーツつまり「舞台芸術」でして、その中でも刺激的なのは「舞踊」だといいます。それも古典的なバレエではなく、モダン・バレエとかモダン・ダンスとかの新しい音楽と新しい振付の舞踊です。言葉がないため万国共通に楽しめます。「パフォーミング・アーツ」には、日本の歌舞伎、能、文楽、中国の京劇などの伝統劇、バリ島のガムラン音楽を伴うバロン・ダンスや合唱劇のケチャ、アフリカの芸能など地球規模の多彩な種目を加えていいわけです。これらは時間芸術ですから、観る者に強烈なカタルシス(感情の解放・浄化)を与えるという特徴があります。
▼地方での文化振興が必要な一番目の理由は、日本もいまの欧米のように芸術文化や文化産業は「地方都市に多極分散」し、静かな空間で思考・芸術することです。古典芸能や伝統美術・工芸が関西など西日本にあることは当然として、秋田県田沢湖畔のわらび座、佐渡の鬼太鼓座や鼓童、富山県利賀村の劇団SCOT(旧早稲田小劇場)、長野県松本市の小澤征爾指揮による臨時編成の「サイトウ・キネン・オーケストラ」、舞踏家の田中泯は山梨県の白洲町を拠点に活動するなど、舞台芸術や音楽が地方分散に向かっています。十勝には、どんな人たちが来ているか調べてみるといいですね。音楽家ではクニ河内、名前は失念しましたが絵本作家の方もいます。▼ということでこれまでの事例は、音楽、舞踊、芸能などの時間芸術でしたが、空間芸術である美術はどうなっているのか。海外の評価からみると、平山郁夫(前芸大学長)、加山又造らに代表されるように日本画が主なもので、油絵は裾野が広いものの世界の潮流を作っていくような突出した画家はなかなか現れにくいようです。美術は音楽演奏などの再生芸術以上に芸術家の思想が問われる分野で、少しくらいうまく描いたからってどうということはない世界なんですね。技法の点で日本人に有利な日本画はともかく、美術家には困難な時代と言えます。
▼地方での文化振興が必要な二番目の理由は、「地域の活性化」ということです。この活性化というと、だいたいは地域の伝統や文化を調べ、それを掘り起こそうとします。しかしそれだけでは元気になりません。その地域が異質な文化と遭遇しなければ活性化は起きません。まちづくりに、「よそ者、若者、バカ者」が必要といったことと同じです。▼例えば、西洋史におけるルネッサンスは中世の伝統社会がイスラムの技術文明と出会って花開いたものです。20世紀のアメリカで黒人が生み出した音楽は、ゴスペル音楽、ブルース、ジャズへと変容してきた音楽であり、あるいはソウル・ミュージックもそうですが、元々はアフリカから新大陸へ連れてこられた黒人の文化がキリスト教と出会って生まれたものです。
▼わが国でも民族学の知見によると、近代化以前のきわめて閉鎖的な農村においては、マレビト(客人)、ホイト(祝人)などは、村人につねに歓迎されています。自分たちのもっている文化や情報とは異質なものを潜在的に求めていたということです。▼折口信夫と柳田國男のマレビトの違いが、中沢新一の『古代から来た未来人 折口信夫』に詳しいのでちょっと引用します。柳田國男が共同体に同質な一体感をもたらす霊を求めていたのにたいして、折口信夫はそれと反対のことを考えていた。折口は神観念のおおもとにあるのは、共同体の「外」からやってきて、共同体になにか強烈に異質な体験をもたらす精霊の活動であるにちがいない、と考えたのである。そこから折口の「まれびと」の思想は、生まれた。▼芸能者は死者たちの息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命であるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴(しるし)を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる、「まれびと」としての性格を持つことになったのだ。折口は村々に残された古い芸能のかたちを深く探求しながら、芸能者の原像を描き出そうとした。▼そのような「芸能者の原像」を「鬼」があざやかに表現している。鬼は共同体の外からやってきて、死の息吹を生者の世界に吹きかけ、そこに病や不幸をもたらすこともある。しかし、荒々しい霊力を全身から放ちながら出現してくる鬼の存在を間近に感じるとき、共同体の人々は、自分たちの世界に若々しい力が吹き込まれ、病気や消耗から立ち直って、再び健康な霊力にみたされ、生命のよみがえりを得ることができたように感ずるのである。
▼このように、人間の社会はつねに、あるいは時々異質な人や文化と出会い、異質な時間を導入しなければ活力を維持できない仕組みになっております。ですから今日、地域の活性化をめざすとき、自分たちが慣れ親しんでいる地域の文化をことさら発揚したとしても、それだけでは地域は動かないということです。
3.異質なものを導入する
▼こうしたことから、地方が文化事業を行うときは、その地域にこれまでなかったような異質なものを導入することが効果的です。地域に縁もゆかりもないものを何故やるのかという人も一部にはいますが、それでよいのです。東京から文化人や評論家がきて「地方は東京のマネをするな」とよく言いますね。そういう人は決して地方には住まないと思いますが、これは間違っています。だいたい東京には何でも、新しいものは特に何でもあります。▼いま時の地方の若者は、たとえ東京に住みたいとは思わなくても東京にある面白い情報はちゃんと入手しています。アンテナを張って東京発のイキのよい情報をいち早く手に入れるのが地方の活性化に有効です。ですから、むしろ「東京のマネをせよ」です。今は国際化時代ですから、ニューヨークの情報もロンドンの情報も手に入れやすくなっています。東京を経由しないでニューヨークやロンドンのマネをできたらもっとイイわけです。
▼かたや、西洋クラシックやオペラ、現代美術とかは分らないという人もいます。しかし、外からやってくるような文化はそもそも分かりません。分らないからよいのです。おそらく音楽の専門家でも複雑な構成のクラシック音楽を一度聴いて全部分ったといえる人はいないでしよう。聴くたびに新しい発見がある。それがいいのです。つまり、分ろうとして精神の活性化が起こるのです。人々の精神の活性化という過程を含まないで地域の活性化ということはあり得ません。▼ベートーベンの弦楽四重奏のCD8枚組を10年聴いていますが、いまでもあちこちに発見があり、新鮮。それも同じ曲を三つの四重奏団で聴くんです。ブタペスト四重奏団、スメタナ四重奏団、アルバンペルク四重奏団といった具合です。
▼これが西洋のクラシック音楽ではなく、日本の演歌や民謡だったらどうか。演歌や民謡はだれにでも気持よく聴けますし、全部わかったような気がします。気持よくはあっても、心の中での格闘はありませんから精神の活性化が行われません。ですから演歌では村や町おこしはできないと思います。同様にスポーツでも村おこしはできません。スポーツは、プロのトレーニングは別にして、気晴らしになり生理的に気持ちがよいものです。いわば放電型の行為です。これに対して古典音楽を聴くような芸術的な行為は充電型です。いまの若者には日本の古典芸能も異質な文化ですし(実は私も同様ですが)、放電型の遊びに飽き足らない若者が歌舞伎をみる傾向が出てきているそうです。
▼全国には住民によるイベントが盛んな地域がたくさんあります。それが地域の活性化に結びつかないのは充電型のイベントをやっていないからです(地域コミュニケーション研究所の鈴木信次の指摘)。
▼温泉も気晴らしになり生理的に気持ちのよいものですが、充電型にならないから地域の活性化に役立ちません。でもこの温泉地のパターンを塗り替えたのが別府の奥座敷の由布院町で、音楽祭や映画祭などの充電型文化を導入して成功しました(亀の井別荘の中谷健太郎がキー・パースン)。それと、住民がそこを訪れた客の召使(サーバント)になるような村おこしはダメです。ホスト(主人)がゲスト(客)を迎えるような関係でなければ、地域のほんとうの活性化などはできません。客に尊敬されるような観光地で、かつ従来の遊興型・非紳士的な行楽地を転換しなければ、子供の教育にもよくありません。尊敬されるというのは、充電型の文化活動つまり文化創造がそこで行われているということです。
▼自信があれば外の文化を受け入れられます。パリと京都を引き合いに出すと、パリは中世以来、欧州の文化の中心としての自負がありますし、外からどんなものが入ってきても怖くない風土があります。19世紀末から20世紀初頭にかけてさまざまな美術運動がパリを中心に起きています。▼エコール・ド・パリと日本の画家たちの話です。1920年代から30年代にかけて、多くの日本人画家がパリに渡航しています。最盛期は数百人の画家が滞在していたといわれます。美術留学生はもちろん、大家と呼ばれるような画家や、伝統的な日本画家もパリの街に引き寄せられました。当時のパリでは、美術だけでなく音楽や演劇、文学など、さまざまな芸術が花開き、世界の文化の中心としての様相を呈していました。画家たちにとってパリは、憧れの場所だったのです。萩原朔太郎のパリに行きたし思えど、の詩がありますね。時代はまさしくエコール・ド・パリ。シャガールやキスリング、パスキン、ユトリロなど、世界各地から集まった画家が、華やかで魅力に富んだ作品を描き、それぞれの個性を競い合っていました。日本人の画家の中には、藤田嗣治のようにその渦中に飛び込んで一躍エコール・ド・パリの寵児となった者がいたかと思うと、一方ではエコール・ド・パリの喧噪に背を向けた者も少なくありませんでした。また、次々と日本に帰国する美術留学生たちは、新しい美術思潮を持ち帰り、日本の美術界に新たな時代を画しました。
▼日本では、京都がこれ近いかもしれません。千年間首都であった京都には町衆(まちしゅう)と呼ばれる市民階級が形成されるなど、今日まで固有の都市文化をもっています。地元の人たちはそれなりに自信がありますから閉鎖的ではありません。全国からどんどん人材を呼び寄せ京都の人材にしてしまいます。学者や文化人の類もそうですが、産業でもその成果が表れています。ハイテクの京セラ、オムロン、村田製作所、バイオテクノロジーのタキイ種苗、ファッションのワコール、テレビゲームの任天堂など人口130万人程度の都市に全国的・国際的な先端産業がたくさん生まれています。
▼ここで、地域に異質な文化を導入するための手だてを考えてみましょう。文化施設をつくってコンサートや美術展などの催事をするのもいいのですが、高度な芸術文化は原則として個人、つまり特定の名前のある人が担っているので、「ひと」に注目するのが有効です。生活文化は無名な人々が担い、芸術文化は特定の人によって担われているといっていいでしょう。芸術文化は、高度なものに接しなければ、高度な文化は生まれません。あの才能がうなるピカソやダリでさえ、若い時は文化的環境を求めてパリに出ています。▼そう考えると、日本の地方でもアーティストを輩出するような地域づくりをめざすなら、本物のアーティストに身近に出会えるような機会を増やすべきで、アーティストを地域に招いて住んでもらうのが地域の文化振興の一番の早道です。▼そんなアーティストは何人いるか。個人名が看板になって生計を立てている音楽、演劇、美術、工芸、デザイン(建築デザインであれば象設計のような)、写真、映画、テレビなどの分野のアーティスト、あるいは小説家や脚本家その他の文学者などは、全国に5万人から10万人くらいでしょう。▼欧米ではアーティストの地方住居が当たり前になっていますが、日本でもこうしたアーティストのうち、やや余裕のある層が地方にも自分の拠点を持ちたいと考えるようになってきています。つまりアトリエやスタジオなどの仕事場を地方に持ちたいという欲求が出てきたわけです。▼コンピューターでロマンチックな音楽をつくっている「喜多郎」は長野県の田舎に住んだあとアメリカのコロラド州へ移住しました。いまはどこにいますかね。
▼このように芸術家の地方住居が進行していきますから、アーティストの定住ないし季節的住居を受け入れることが、地方の文化振興にとって戦略的に有効と思います。これを「地域帰化人方式」と呼んでみます。コミュニティとのつきあいの中から、地域の文化活動の教師になって面倒をみてくれることもあるでしょうし、地域の子供たちがこうした芸術家と日常的に接することで、隠れた才能が開花する機会が増えます。地方であろうと農村であろうと、千人に一人くらい、特別の個性や能力を持った人がいると、福沢諭吉がどこかで言っていました。▼大都市のアーティストが定住ないし季節居住したくなる理由のひとつは、その地域の人々とのインフォーマルな繋がりがもてることがあります。仙人みたいに人けのない大自然に住みたいというのではなく、地方のコミュニティつまり地場の人との交流を望んでいます。地元に多少ともそのアーティストの専門分野の話を知っている人や、少なくともそうした知識を得ようとする前向きの人がいるとか、あるいは世話好きな人がいることがきっかけになります。役場が土地と家屋を斡旋するだけではだめで、民間人がかかわる必要があります。それと、夜遅くまで開いている飲み屋があることも大事な要素です。
▼地域の農産物を加工して味噌、漬物、焼酎などをつくっても、子供や若者の目が輝くような未来が見えてくるわけではない。地域の個性や魅力が未来のために異質な人材を外から呼び寄せられるようにすること、地域をそのように変えていくことが、いまの段階ではいちばん大事なわけです。
4.社会教育の時代は終り、地域教育と国際教育へ
▼さて、これから話すことの結論を先に申し上げます。「社会教育は終焉」しその役割は終わったということです。地域の文化振興は戦後ずっと社会教育という範疇で各自治体で進められてきました。そのハードウェアが公民館です。社会教育のソフトウェアとしては、住民の生活を文化的にするという目的で、公民館活動や各種講座などが啓蒙という視点で行われました。啓蒙が主眼ですから講座などには多くの住民を集め、いわば広く浅く知識を伝える必要がありました。そうした観点から公民館は市町村に一カ所の中央公民館と各地区ごとの分館が設けられるようになりました。このように戦後長く、文化と啓蒙がくっついた概念でしたし、憲法の前文が、あの文化的生活の保障ですから、これが後押ししました。
▼この社会教育に対して「学校教育」という分野があります。その地域の学校教育と社会教育を統括する組織として教育委員会が設けられ、主に民間人から教育長や教育委員が任命される仕組みになっています。教育長の任命権は市町村長にあり、また教育委員会の予算も行政が措置しますが、建前上、教育委員会は市町村行政から独立した存在となっています。不可侵の聖域という雰囲気がありますから、そのため地域の教育文化行政は社会の変化に対応しにくい体質になっています。
▼しかし、昭和40年代からは公民館とは別に、より高度な文化活動の住民欲求にこたえるため、文化会館とか文化センターが作られるようになります。また、昭和50年代には、民間の社会教育施設という色彩をもったカルチャー・センターが大都市を中心に展開されます。お金を払ってでも学びたいという新しい学習ニーズです。西武デパートの「池袋コミュニティ・カレッジ」などは大学の教養課程以上のカリキュラムでした。これはいずれ地方都市にも波及します。▼また、NHKなどの放送メディアは「教育セミナー」「人間大学」なども動き始め、社会教育は「生涯学習」へと変貌します。戦後、公民館が担ってきた社会教育は役割を終えました。
▼さてここで、「地域教育」とは何か。地域を支える人材の養成を考えてみます。いわば「国家人材」を養成するために制度として学校教育があったわけですが、しかし今日必要なのは、国家人材のほかに、「地域人材」と「国際人材」の養成が必要です。学校教育の場で、地域で生きていくのにどん能力が必要なのかが問われたことはありませんでした。そのツケが例えば地域の産業とくに農業を若者が軽んじるということに現れたと思われます。これが地域人材を養成する教育が必要な理由です。いまの小中学校及び高等学校のカリキュラムつまり国家教育の部分を半分にして、四分の一を地域教育、四分の一を国際教育に充てることです。
▼日本に限らず国民教育のための学校モデルは軍隊です。大勢の生徒に一斉に何かを教える方法は、それ以前には軍隊しかなかった。もちろん大学のモデルは違います。西洋では今から千年も前に修道院のようなところから大学が生まれ、古典的な学問を継承する機関として機能してきました。まずは聖書の書き写し、いわば写経ですね。社会教育の社教ではありませんよ。▼国民教育の学校モデルが軍隊だといわれてみると、確かに合点がいく。昔の木造校舎は軍隊の兵舎に造りでしたし、男子生徒が着用している詰襟の黒い学生服は戊辰戦争や西南戦争の兵士の服のようです。女子生徒のセーラー服も文字通り水兵服ですね。こちらはまあ可愛らしいですが。でも、生徒たちが望まないなら廃止した方がよいでしょう。
▼欧州にあっては、特にドイツのシュタイナー教育のような個人授業が主です。欧州では、小学生の場合は、登下校時はかならず親が付き添います。学校の門を出たら責任はすべて親にあるわけで、先生たちは学校内部のことだけを考えていればよいわけです。親の授業参観はありません。先生たちは最良の授業をやっているので親に見せる必要も親の意見を聴く必要もないということです。その代り、子供の躾に類することは学校ではいっさい面倒をみません。仮に生徒が騒いで授業を妨害するようなことがあると、先生は親に連絡して直すようにと伝えます。それでも直らなければ、学校に来ないようにと親に申しつけます。いいシステムです。▼それに、生徒を集団としてまとめて面倒をみるという雰囲気が全くなく、先生が生徒一人ひとりを相手にしています。▼フランスの絵画授業では、石膏デッサンはないそうでうす。石膏像をみてデザインさせると、価値観を画一化させる恐れがありますし、一つの対象にすると互いに描いたものを比べて、優劣を競うのはいいことではありません。だいたい、三十人の子どもが一つの死んだ生物を眺める姿は美しくありません。フランスには哲学教育の伝統があるため、最高の知性が高校の哲学教師になっている。ボーボワールやサルトルも、みな高等師範卒で高校哲学の教師の経験があります。
▼ところで、アジアのネパール南部の、インドに近いバイラワ市とルンビニ(釈迦の生地)をつなぐ道路を走っていましたら、道路沿いの牧草地の大きな菩提樹の木陰が野外の学校になっていました。そばに牛が寝そべっており、菩提樹に黒板をくくりつけて若い男の先生が五十音のような文字を教えていました。粗末な紙に印刷されたものでしたが、どの子供も教科書をもっていました。みたところ五、六歳の子供も十歳を超えた子供も一緒です。教育というのは、かくも自由、いろんなスタイルでやれるものだなと感心しました。▼こう見てくると、日本の子供が世界でいちばん不幸かもしれません。学校では医務室や保健室に避難する子供が多いですが、たぶん医務室や保健室が欧州の学校のように扱ってくれるのでしょう。
▼ここで学歴社会の終焉ということにもちょっと触れておきます。21世紀になってもまだ学歴社会の影を感じますね。大学で何を学んだかより、どの大学を卒業したかがまだ問題にされています。でも、いずれ若い人たちや子供の意識が変わるはずです。難しい大学に入り大企業・一流企業に就職しても、その本社のほとんどは東京の都心部、丸の内や大手町にあります。比較的若い時期に家を持てば、片道二時間、往復四時間の鮨づめ通勤(痛勤)は避けられません。しかし、いまの若者は無理と不自然が嫌いでしょうから、その通勤をイヤだと思う人が増えるでしょう。
▼さて、いよいよ地域教育と国際教育のソフトウェアをどのように作り出すかを、中間的にまとめてみます。市町村立の小中学校といっても、市町村が立てたのは学校の建物つまりハードウェアだけです。市町村立といいながらソフトは国と県です。教員の人件費と教科書代は国が持ち、教員の人事権は都道府県の教育委員会が握っています。▼これからの教育を考えるなら、市町村「営」小中学校を構想すべきです。市町村が私立学校のように学校法人をつくり、独自に教師を雇用して児童・生徒を募集すればいいのです。モデル的に各自治体に一つか二つの市町村営小中学校をつくり、その地域にほんとうにふさわしい教育の理念と方法を生み出すのです。これも何度も言いますが、国家教育を二分の一、地域教育と国際教育をそれぞれ四分の一といったバランスが望ましいと思います。
▼まず、「地域教育」から話します。読み書きソロバン、つまり国語(藤原正彦、水村美苗の言い分参照)、算数・数学、日本史、世界史、地理、とある程度科学的な知識などは国家教育(国レベルの教育と表現しますか)としますと、基礎的な部分は国家教育でかなりカバーできますから、地域教育としては具体的で実地の教育がふさわしいということになるでしょう。▼子供が将来その地域で人生を送るための基礎として地域にどんな産業があり、将来どんな職業があるかを学ぶことです。地域のさまざまな職場を見学するカリキュラムです。そこで働いている大人たちの仕事の苦労や喜びをじかに語ってもらう。将来その地域で成り立ちそうな職業については、経済的な先進都市に見学に連れて行きます。このようなことを小中学生のうちに体得しておけば、農業はイヤだとか、3Kは避けたいとかの漠然としたホワイトカラー志向はかなり改善されます。▼職業とともに大事なのは社会奉仕です。例えば二、三人のグループを組ませて高齢者の世帯を訪ねさせ、まずしばらく一緒に過ごさせて、そのお年寄りが何に困っているかを子供たちに発見させ、それを自分たちで解決する方法を考えさせるような地域教育プログラムです。こうした経験はのちのち成人した後もごく自然に高齢者を助けようとする気持ちが動きます。よって、交差点のあのウルサイ信号音は不要となり、やっと欧州並みになり、静かな町を取り戻せという話につながります。
▼先駆的なドイツの事例を紹介します。ミュンヘン市にあるバイエルン州立美術館の中に博物館教育センターという機関があり、そこで開発された地域教育プログラムをお伝えします。これはミュンヘンにあるいくつかの博物館を生かした校外教育のプログラムです。学校が休みの日に自由に参加できるもの、市内の学校と提携して授業時間の中で行えるものなど、さまざまなものがあります。▼その一つは、子供に中世の絵画を見学させて、これと同じように描いてみようというものです。模写ですね。子供たちは当時の絵具がどんなものであったかを研究し、それが岩石を水で溶かしたものであるとわかる。そうすると色の出る石を探しに山に行こう、となるわけです。こうした推理と行動を子供ができるようにするのがインストラクター(指導者)の役割です。▼また、古代のパンを焼いて食べようというのもあります。科学博物館のような施設に行って古代に栽培された品種の麦を手に入れ、半年かけて畑で栽培し収穫します。さらに古代のパン焼き窯をつくりパンを焼くのです。▼ほかには、「ミュンヘン都市四重奏団というのがあります。子供を四人組にして市内の歴史的な建造物などを探検・調査させるものです。▼子供たちがギリシャ・ローマ時代の演劇を当時の服装でやるものもあります。▼まさにシュタイナーのエポック授業です。日本と世界の子供たちは、この地域教育で差がつきます。国際交流したら話題と行動に当然差が出てくるでしょう。▼大人たちが知恵を出してその地域にふさわしい地域教育プログラムを作ることです。地域でのそうした主体的な取り組みがないと、地域の教育状況は変わりようがありません。
▼最後は地域で行う「国際教育」です。異文化理解教育ですから、外国人と交わる機会を与えることです。儀礼的な交流ではなく生活を共にするようなプログラムが望ましい。外国人との交流はできるだけアジアの人々、韓国、中国、台湾、香港、東南アジアなど近くから始めるのもいいでしょう。ですから地元JICAの協力がポイントになります。▼外国語(英語限らず中国語や韓国語などアジア語)の慣れも、そういった人たちとの日常的な接触から学んでいくことは、いまの地域の状況では十分可能です。
▼これまで国民教育に加えるべき市町村の地域主権としての、地域教育と国際教育を強調しました。自分の地域に自信と誇りをもつ人材が東京を経由しないで直接世界とつながる活動を行える状況をつくっていくことが、日本の各地方がこれからも生き延びていくための決め手になること間違いありません。ということで一応中間的な「都市と文化」の話を終えますが、補論として「市民文化」をどう理解したらいいのかを理論整理しておきたいと思います。
5.(補論)低所得社会の市民文化(第5・7講再掲可)
『年収崩壊』(森永卓郎・角川新書)から。▼結局、構造改革で何が起こったかと言えば、大企業が従業員をどんどん非正社員に置き換え、中小下請け企業への発注単価を引き下げ、利益を増やし、その利益を使って役員報酬や株主への配当を増やした。その結果、中小企業は出口のない不況に追い込まれ、すでに働く人の三人に一人を超えた非正社員は、年収120万円台という低所得を強いられている。▼ヨーロッパの労働時間が短いもう一つの理由は、そもそも彼らが長時間労働を好まないからです。いかに人生を楽しむかとうことを真剣に考えた結果、彼らがたどり着いたのが、「なにもしないでボーッとしていることこそ、最大の幸福なのだ」という結論でした。パリのカフェには、カフェオレ一杯で、ただ道行く人を眺めている中高年がたくさんいます。実はそうした時間の使い方こそが、最高の贅沢なのです。▼ヨーロッパのサラリーマンの標準年収は300万円程度です。ただ、彼らはそれ以上を望んでいません。それで十分に暮らしていけるからです。成功への夢を追いかけ、明日に向かって走り続けるアメリカ型と、貧しいながらもゆったりと夕日のなかでうたた寝するヨーロッパ型。知り合いのギリシャ人は言う。「ギリシャは貧乏だけど、ほとんどの人が、おいしい料理とおいしい酒とステキな恋人をもっている。これ以上働いて、いったい何が欲しいと言うんだい」。▼お金持ちは働いて稼いだ人ではなく、お金に働かせて稼いだ人なのです。欧米ではお金持ちは働かないというのが常識です。日本では稀でしたが、格差社会に入ってからは増えてきています。▼定期預金は、セブン銀行・ソニー銀行・イーバンク銀行や信金などのキャンペーンによる高金利銀行へ短期運用、5年満期の固定金利型個人向け国債、主要国のソブリン債への分散投資としての投資信託、老後資金の安定のための分散した株式投資などあり。▼私が携わった高齢者生活の調査の経験では、いつまでも元気で生き生きと老後を過ごしている高齢者の特徴は、自分の活躍できる場、あるいは自分を必要としてくれる場を持っていることです。会社で培った人間関係は驚くほど早く消え去ってしまします。定年後には定年後の人間関係を築かなくてはいけないのです。定年後にどのような場を築くのかは、その人の人生観に依存します。自分でビジネスを立ち上げたい、田舎暮らしをしてみたい、ミニコミ誌をやりたい、大学に入り直したい、海外に留学したいなど。お金のかからない生きがいであればよいのですが、たいていのことにはまとまった資金が必要になります。だから、まず定年後にやることの資金計画を作るべきなのです。ある程度の退職金の額があるなら、預貯金、株式、債券、外貨に分散投資して、公的年金で生活費が不足するようになった場合に、少しずつそのとき有利なものを売っていくというのが効率がいいでしょうが、ただある程度の金融知識は要ります。▼勝ち組はプール付きの豪邸に住んでいるかもしれませんが、プールサイドでゆったりと本を読む暇などはまったくないのです。最初から勝ち組になろうなどと思わなければ、年収300万円あれば、人並みに食事はできるし、普通の服も着られ、家電製品もひととお揃えることができる。マイカーも持てる。何が勝ち組と違うかといえば、見得の部分が違うだけです。勝ち組は高級スポーツカーに乗りますが、負け組みは大衆車に乗る。勝ち組は高級スーツですが、負け組みは紳士服の量販店で買う。勝ち組はシステムキッチンですが、負け組みは流し台。それだけのことです。▼節約は、住宅費、生命保険、教育費、電話代、自動車関係費、電気代などで工夫すべし。スモールビジネスや趣味で小遣い稼ぎをし、トカイナカ(都会と田舎)生活。▼私はシンクタンクの研究員時代、多くの高齢者の方々と話をしてきました。そのなかで痛感したことは、定年後の幸福を決めるのは、お金よりも生涯を通じてやることを持っているかどうかだということでした。なんでも構いません。自分が生きがいを感じて、自分を必要としてくれる場を持つことが、幸せな定年後を迎えるために必要なのです。▼それにしても、ここにきて資源と食料の双子の高騰は、著者のいう低所得社会をも崩壊させるのだろうか。低所得社会の生き方と文化は、現在の大きなテーマとなりましたので、敢えて取り上げました。
6.(補論)市民文化のリロン整理
さてここでは、「市民文化のリロン整理」(別途資料配布)をしてみます。窮屈な言い回しや、退屈なところも仰山ありますが、まあ、耳だけは起きていて下さい。いつかは役立ちますよ。日本はまだ市民文化成熟への過渡期の段階なわけですから、戦後から引きづってきた「社会教育の終焉」を確認し、「市民文化成熟」への展開といった視点で話を進めてみます。松下圭一『自治体再構築』(公人の友社)の中の「市民文化と自治体の文化課題」という論文を下敷きにレジュメを作りました。
(資料)市民文化のリロン整理
(1)自治体の今日的文化状況
▼日本は今日、都市型社会に移行して先進国段階に入りはじめたために、「夢」を見る時代は終わりました。夢をみることができるのは、先進国を未来モデルにできる後・中進国段階で、その状況はといえば、暗中模索が毎日で先が見えず文化も政治もまだ時代錯誤の官治・集権型の傾向にあります。では、今の日本の自治体の文化状況の現実はどうか。①緑が少なく、広告の氾濫から林立する電柱、赤茶けた道路フェンス、劣悪な公営バスのデザインなどから街並みをふくめて、みじめな地域景観です。②赤字垂れ流しの文化ホール、博物館、美術館、音楽ホール、スポーツ施設など、また暴落した美術品をもっている場合もあります。③公民館から国民体育大会、国民文化祭をふくめて、文化施策をめぐる中進国型オカミ主導といったありさまです。▼日本の各自治体は競って、各省庁の補助金などに煽られて借金をかさねながら、単品の文化施設をつくりましたが、地域の文化状況は前述のような悲惨な状態なわけです。21世紀になっても、まだ日本の地域生活のみすぼらしさは、日本の市民自体がこの実情に無関心で、ともすれば地域づくりはオカミないし土建業のシゴトとみなしてきたからです。しかし、地域づくりは農村をふくめ、市民がつくりだす政策・制度であり、とくに市民文化の成熟との関係で考えることが不可欠です。
(2)都市型社会における三文化形態
▼長いながい採取狩猟段階をへて、1万年前に私たち人間は定着農業がはじまり、やがてメソポタミア、エジプト、インド、中国の四大文明、つづいてインカなど地球各地が地域文明となる「農村型社会」に移行しました。ついで、16~17世紀にはヨーロッパが、また18世紀末にはアメリカが「国家(state)」を形成し、工業化・民主化をおしすすめ、農村型社会の共同体・身分を崩壊させていきます。国家を媒介ないし推力としたこの工業化・民主化が、いわゆる「近代化」だったのです。この欧米からはじまった工業化・民主化の結果、やがて20世紀後半には、市民型人間を大量醸成する、新しい文明段階としての「都市型社会」を生みました。日本も19世紀末の明治国家の形成によって、この近代化をすすめてきましたが、1960~1980年にかけてこの都市型社会に移行します。
▼この都市型社会の特性は、①工業化によって農業人口は10%を切りやがて数%になり、サラリーマンを大多数とする個人が、都市化のなかで「民主化」の主体となる市民化を推し進めます。②また、都市型生活様式は、農業地区をふくめ全般化します。③100万人単位から1000万人単位の巨大都市の出現によって、鉄道・航空・高速道路、電気・ガス、電話・マスコミ、ゴミ・下水道など、社会の工学的組織技術が一変します。社会のこの新しい組織技術は、戦争・テロ、災害、犯罪、感染症などにはモロイため、危機管理という新たな課題を作り出します。
▼都市型社会の生活様式は、農村型社会の共同体・身分の習慣を切り崩すため、政策・制度によるシビル・ミニマムの公共整備を必要とします。しかしこのシビル・ミニマムの公共整備は国だけではできず、自治体の「発見」、国際機構の「新設」となり、政府は自治体、国、国際機構へと三分化します。この政府の三分化のため、絶対・無謬とされてきた近代国家の観念は崩壊し、そこには国レベルの政府があるだけとなります。政府の三分化とみあって、文化形態も相互に移行・変容をふくみながら、「地域個性文化」「国民文化」「世界共通文化」の三類型に分化します。文化といえば「日本文化」といったような国民文化単位のみで考える時代は終わりました。
A 地域個性文化/農村型社会の数千年の時代のなかで、各地域につちかわれる「伝統文化」「風土文化」あるいは「エスニック文化」などの、いわゆる「基層文化」が地域個性文化です。しかしこれも時代の推移とともにゆっくり変容します。現在は地域特性をもつエコロジー、地域史、デザインという現代的座標軸で、地域個性文化を作ろうとする市民文化活動や自治体文化戦略によって、地域個性文化の再評価・見直し活性化が加速しています。具体では、自然保護、町並み保存、再開発による多様な地域空間・景観の再生から、さらには地域雇用力、地域生産力の整備・拡充をめざす新しい地域産業の形成にとりくみ始めています。
B 国民文化/日本の場合、近代化以前の多様な各地の地域個性文化を基盤として、中国やインド、あるいは「南蛮」などの外来文明をたえずとりいれ、そこからの刺激もあって、奈良・平安以降の寺院、雅楽、仮名文学など、室町以降のお茶、お花、能など、織豊以降の城郭、武士道、国学など、それぞれの時代の支配層文化が、明治になって「日本文化」の精華というかたちで、国家神話にくみこまれるわけです。庶民レベルでも明治以降は新しく、和食、和服、邦楽などといった範疇がつくられます。近代に入って成立する国民文化は、近代国家や建国に参加した政治家・官僚・知識人が「和」や「禅」を神秘化して、人工的に国民文化をつくりだすということをした。これは共同幻想ですね。ですから「日本人」とか「日本文化」とは何かと問われたら、まとまった共通理解での答えはできません。この点は、どこの国でも同じです。ということで、都市型社会に入った今日では、いわゆる国民文化自体の分解あるいは空洞化が、社会の分権化・国際化にともなう「地域個性文化」の自立、「世界共通文化」の展開のなかで進行します。
C 世界共通文化/世界共通文化は、今日の不変文明原理となった工業化・民主化を原型としている文化形態です。とくに20世紀の第二次産業革命による大量生産・大量交通・大量消費の展開が世界共通文化を生み出します。さらに今日の第三次産業革命にともなう大型ジェット機、IT技術などがこの世界共通文化をさらに加速し、地球規模での生活様式の平準化をつくりだします。事実、国連による「国際人権規約」から、ジュネーブ条約やラムサール条約、対人地雷禁止条約などの国際条約など、世界共通文化が成立し始めています。また、市民団体や企業は国境を越えて、環境問題、危機管理、災害救助をはじめ、突発する新型感染症対策など地球規模の世界共通課題にとりくんでおり、国際政治機構の国連や数十の国際専門機構による「世界政策基準」としての国際法の立法が進んできています。これらの世界政策基準なくして、私たちの日常生活がなりたたなくなってきているのです。▼かつては日本の江戸前の地域個性文化であった「握りずし」は今や世界共通文化ですし、日本の年末のクリスマスやベートーベンの第九はヨーロッパの地域個文化であったわけです。こうして三文化形態は相互に移行し転換しあい国際共通文化へとなっていくのです。
(3)市民文化の三政治文脈
▼市民文化の発生条件は、①工業化に伴う人口のサラリーマン化を基盤に、大量生産・大量交通・大量消費から促がされる生活様式の平準化です。②民主化に伴う自由と平等という価値意識の定着と選挙からくる政治における個人権利の平等化です。次いで、市民文化の成立条件は、①人々の「教養と余暇」の拡大、②シビル・ミニマムの公共整備です。都市型社会での生活条件の整備には、農村型社会におけるような共同体・身分の慣行によってではなく、「政策・制度」による「シビル・ミニマム」の公共整備が不可欠になります。この公共整備をめざした、市民ないし市民活動の品性・力量は「教養と余暇」に伴う活動ないし参加によって訓練されます。ですから農村型社会で、朝には星をいだいて出て、夕には月を仰いで帰る、では日常の市民活動はできません。実は、いまのモーレツ社員も同じなんですが。それはともかく、2000年の地方分権改革によって、「機関委任事務」方式という、明治国家が作り出し、戦後も再編されてつづいてきた官治・集権のトリックの廃止がきまり、各市町村、各都道府県それぞれが、政策・制度改革の発生源となる、自治・分権段階へと移行がはじまりました。日本でも「市民政治」への枠組みが整いました。この政治文脈を踏まえて、次の三つの文化的緊張をもたなくてはなりません。
A 自治文化/「発想形態」をめぐっては、自治文化と官治文化の緊張が基本です。さしあたり、20世紀のマスメディアがつくりだした国民神話ともいうべき大衆ドラマをめぐって、自治文化ではアメリカの「西部劇」、官治文化では日本の「水戸黄門」を想起してください。▼西部劇では、先住民への過酷な迫害の歴史がくみこまれていますが、白人の世界だけでみれば、問題解決をめぐってアメリカ人は「いつでも、どこでも政府をつくる」と、かつてJ.S.ミルが述べたように、失敗をかさねながらも自己武装による庶民の自治能力を示しています。原始民主政治における自治の幻影がそこにはたえず再生して描かれます。▼これに対して、水戸黄門では、黄門の既成権威によって官僚の助さん、格さんがたちまち問題を解決します。だが、そこにいる庶民は問題解決についての自治能力もなく、ただただペコペコ土下座しているだけではありませんか。自治の誇りなき、いわば日本原人の姿が大衆ドラマの作りだした「土下座」です。日本における政治としての自治の歴史としても、一時、政治が分権化する室町・戦国時代前後の惣村・惣町、とくにこの系譜にある一揆、あるいはいくつかの自治都市のかすかな記憶が残るだけです。
B 公共文化/「空間感覚」では公共文化(イクステリア文化)と私文化(インテリア文化)の対比となります。▼日本人は花や緑を愛するという伝説がありますが、街には花や緑はありません。この伝説は床の間の切花あるいは塀に囲まれた庭の中での私文化幻想にすぎません。いわば、市民の公共生活をかたちづくる公共文化という発想がなく、個人として内向きとなる私文化に閉じ込められています。戦前は知識人の「教養」、庶民の「趣味」というかたちでの私文化でしたが、戦後はマスコミによる私文化感覚の相互同調としての「大衆文化」への埋没となります。▼公共空間では、最近再開発などの特定地区では変わり始めましたが、しかし依然として町並み、広場、歩道、駅、バスストップの貧者さ、また電柱の林立、広告の氾濫、デザイン水準の低い道路フェンスというのが、今日も日本のみじめな中進国型の地域景観の実態です。公共空間が官僚を中核とした政官業複合に統御されるとともに収奪され、その底辺ではムラを行政が再編した町内会・地区会にがんじがらめにされているかぎり、市民の誇りを示す公共空間を造形できなかったのは当然でした。個人は「鬼は外、福は内」とならざるを得なかったのです。これが私文化です。▼日本ではまだ、市民のヨコの相互性が公共であり、政府は公共つまり市民がいつでも作り変えうる「道具」にすぎないという、先進国系譜の「市民社会論」型の発想が育っておりません。個人の相互性、つまり市民自治・市民共和の文脈による公共善ないし共通規範の構想から、新しい多元・重層の市民型「公共」が成立します。
C 寛容文化/「生活態度」では、まだムラ型の横ナラビ、先オクリを基礎において、マス型のミンナオンナジという同調性が広がっています(頂点同調主義)。テレビ番組、マスコミ論調や学説までをふくめて、その著しい画一化、あるいは経済における省庁主導の護送船団方式を想起してください。日本の政治でも、まだ複数政党制による政権交替が未熟という中進国段階にとどまります。最近はようやく、都市型社会の成立から、市民参加型政治家あるいは逆に大衆追従型(迎合)政治家(ポピュリスト)の登場を時折みるものの、全体としてはまだ、市町村・都道府県、国を問わず、国の官僚を中核に各政府レベルでの官治・集権型の政官業複合が政治を実質掌握しています。▼この政官業複合をささえるミクロ政治のムラ型と、それと重なるマクロ政治のマス型の同調文化は、市民の自立ついで経済・政治・文化の多元性・重層性、つまり「分節社会」をめぐる「寛容文化」とは異質です。しかも、寛容こそが、多元・重層の分節社会における合意手続きである「討論」の土壌なのです。▼ですが、市民活動を可能とする「言論の自由」が基調にあるはずのこの個人自由ないし寛容が、たえず復調するムラ型ついでマス型の同調性の前で危機にたつのが、都市型社会におけるマス・デモクラシーの問題性です。ここから、基本的人権、ついで社会分権・地方分権、また権力分立によって、多元・重層構造をもつ「分節政治」をかたちちづくっていく自治体・国・国際機構の各政府レベルでの「基本法」の策定、ついでそのたえざる再認識が、都市型社会ではつねに要請されます。▼日本での「公共」とは、これまでは、市民のヨコの相互性を排除した、市民と対立するタテのオオヤケなしオカミ、あるいは「官」ないし「国家」でした。だから、明治以降つい最近まで、日本の思想軸は、分節政治をかたちづくる「現代」以前、つまり「近代」の「国家対個人」にとどまってしまったのです。公共事業も「市民自治」からの地域づくりではなく、今日も「国家統治」による行政の土建事業あるいは景気対策にすぎないわけです。
(4)市民文化活動の自立と水準
▼1960年代以降、市民活動の出発段階では、①国の政治・行政ないし法制が「農村型社会」を原型とする時代錯誤のままのため何でもハンタイ型、あるいは②都市型社会への移行にともなうシビル・ミニマムの量的充足をめざしたモノトリ型とならざるを得ませんでした。しかし2000年代の今日ともなれば、①では、市民活動ついで自治体改革がおしすすめてきた機関委任事務の廃止という地方自治法大改正による法制改革が第一歩を踏み出します。また②でも、シビル・ミニマムの量充足はムダヅカイをした自治体の下水道をのぞいてほぼ終わるため、その質的整備があらたに課題となります。この①と②から、都市型社会本来の市民文脈がもつ、政治・行政、経済・企業、文化・理論の再編、つまり官治・集権型から自治・分権型への政策・制度改革が新たな課題となります。官僚組織を中核におく明治以来の「国家論」という虚妄は終わって、各レベルの政府にたいする「市民管理」つまり市民主体の「公共政策」再編という「実学」に転換すべきなのです。
▼ついで、明治以来、国の政治・行政による文化の制度化の終りにも注目すべきです。明治の教育勅語以降、帝国憲法とあいまって、いわゆる国家という名で政治・行政が文化統制の大枠をかたちづくり、最後には戦時中の国民精神総動員となったことはご承知のとおりです。だが、日本国憲法の戦後でも、旧来のムラ文化を基盤に、行政が主権者市民を教育するという官治型の倒錯した考え方を、「社会教育行政」がになってきました。1960年代以降の市民活動の出発は、それゆえ、社会教育行政つまり「国家」ないしオカミに対する、市民文化活動の自立となっていきます。このことを中心論点に松下圭一は1986年『社会教育の終焉』(筑摩書房)を著し、その直後の1988年、当時の文部省は実態は変わらないのにもかかわらず、社会教育局を生涯教育局と看板を書き換えます。
▼こうした背景から、市民文化活動を起点に、たえざる自治体改革、つまり既成自治体体質の自治・分権型への転換、さらに国自体の政治・行政の分権化・国際化が急務となっていくのです。とくに自治体では、行政の文化水準を上げるため、①「行政(自体)の文化化」という行政文化の見直し、ついで世界共通文化を視野にいれた地域個性文化の創出と、これにともなう②「地域文化戦略」としての地域雇用力・生産力の拡大が求められました。しかも、この地域文化戦略には、地域個性をもつエコロジー、地域史、デザインをふくみながら、その結集としての自治体計画による展開が求められます。▼文化の政官業複合とは、たとえば市民が自主性をもって開いているはずの展覧会などにも、情けないのですが、オカミからの総理大臣賞、文部科学大臣賞など、また知事賞などが出ているではありませんか。あるいはイベントなどでは教育委員会後援がアタリマエになっている政治風土(文化風土)がそこにあります。
▼1980年代頃の政治行政の基本課題は、国の通達・補助金を基本手法とするシビル・ミニマムの量充足をめざした大型土木・建築による新開発はほぼ終わります。ついで財政緊迫の2000年代に入り、ようやく各自治体独自の「地域文化戦略」による、人材やハコモノなど既存政策資源の再活性化によるシビル・ミニマムの質整備に課題が変わります。農村地区では近くの川や海を豊かにするエコ森林の造成、都市地区では防災、景観、環境の水準上昇をめざした大小の緑の導入といった、市民生活の質整備こそが市民ついで自治体の戦略の基本になります。
▼もちろん、行政の文化化では、長・議員、また官僚・職員それぞれの文化水準も問い直されます。自治体職員も、自治・分権型の発想による地域個性文化をかたちづくるプランナー型・プロデューサー型へと変わらざるを得ません。
(5)自治体による地域文化戦略
▼前述した都市型社会の市民文化活動が成熟すれば、政治行政から、あるいは企業からも自立し、サークル型ないしクラブ型を原型とした、地域からの自由な市民文化活動が基本となります。また加えて、①文化団体の自立、②文化産業の成立がつづきます。①については、スポーツをふくめて文化団体の類型化がむつかしいほど多様です。②の文化産業(日下公人氏が提起)については、マスコミ、出版、音楽、映像あるいは企画、デザインなどの企業、さらには美術館、博物館など、また研究所、大学、文科系専門学校などだけではありません。農林漁業をふくめ多くの産業が文化関連産業となっています。とくに建設・土木産業、緑化産業、看板・印刷業、IT産業、観光・レジャー産業、流通産業、飲食産業、服装産業あるいは交通・自動車産業など、広く考える必要があります。地域金融もありますね。つまり、私たちの今日の生活様式自体が文化であるため、産業の文化水準は市民あるいは地域の文化水準、市民あるいは地域の文化水準は産業の文化水準という循環関係にはいります。
▼松下圭一氏は1986年の『社会教育の終焉』で、社会教育課あるは社会教育行政を廃止し、行政全体の文化水準をおしすすめる、「行政の文化化」と「地域文化戦略」の構築をめざした文化行政を、長の部課に新設する「文化室」の担当とすることを提起するとともに、教育委員会を緊急性をもつ学校問題に特化させることを合せて提起しました。
▼その『社会教育の終焉』では戦後再編された社会教育行政について、次の五つの問題提起をした。
①主権者である成人市民を、行政が子供モデルで教育するというのはマチガイである。生涯学習と名称を変えても社会教育行政の温存をはかるにすぎない。
②社会教育行政の講座は広く浅い。思いつき型のナンデモヤにとどまる。もし子育て講座、地域づくり講座など市民が必要な講座の設置であれば、長の専門各部課が担当すべきで、そうなれば講座で発言する市民と自治体政策との間に市民参加の連携・緊張が可能となる。
③小型の公民館は文化室担当の貸し部屋に徹し、専従職員をおかず、市民運営・市民管理とする。この市民参加自体が市民の文化・政治塾度を高める。
④大型・中型の専門文化施設も、当然、市民参加を基本とし、タテ割り文部科学省から解放されている文化室の担当にする。
⑤長期・総合の自治体計画のなかに、地域の文化アセスメントを踏まえた、自治体による地域文化戦略の構築、位置づけが不可欠である。
▼くわえて以下の三論点は争点として公開されるべきであろう。
A 既成資源である旧来のハコモノの再活性化
①少子高齢段階への移行によって、人口急増地区をのぞき、子ども向けの保育園、幼稚園、学校は余りますが、高齢者向け施設が足りませんから、すでに旧厚生省・文部省の通達がでているように、空き教室などは改修したうえでの転用が求められます。
②世代別・階層別の児童用、婦人用、老年用などの多様な施設は、世代・階層ごとに活用時間などが特定されアキ時間が多く不効率になっているため、設置目的の見直し・再編が不可欠です。専従行政職員の必要性も改めて問題とすべきで、市民管理・運営に移行してよい分野です。
③専門施設としての音楽ホール、美術館、博物館、図書館、スポーツ施設などでは、その運営管理をめぐって市民参加の導入、これにともなう専門スタッフ、研究スタッフの資源ないし熟度、また責任が改めて問い直されるべきです。しかも、いずれも公立である必要はありません。個人や団体、企業がすでに設置していますし、あるいは民設公営、公設民営でもよいのです。
④ハコモノの運営管理は、人件費をふくめて毎年各施設ごとに、原価計算、事業採算の公開をすすめて市民とともに討議し、さまざまな手法の検討、あるいは廃止もふくめて、その管理運営方法の検討が緊急になっています。
B オマツリ型の文化イベントの見直しとその再活性化
▼ここでの再活性化の基本は、「文化行事」から「市民文化活動」への転換にあります。自治体からの補助金あるいは職員派遣によってしか維持できない文化行事はマンネリ化そのものです。自治体文化戦略からみて不可欠である特定のイベントあるいは文化財保護関係をのぞいて、自治体による「支援」ないし「協働」の廃止は当然となります。市民文化活動は、本来、行政からの自立が基本です。※この市民と行政の協働という言葉は、課題や責任の分担・ネットワークづくりは当然なのですが、最近はいつのまにか、行政による支援に化け、最後には行政による指導・育成にという官治スタイルに逆流しているのが実態です。
C 文化関連の自治体資源の見直しあるいは廃止
▼国による必置規制の廃止、緩和とあいまって、従来の社会教育主事、公民館主事、学芸員や司書など、また各種指導員などの資格要件についても、市民文化活動の活発となった今日、国基準をふくめて、各自治体独自の見識による実質廃止をふくめた見直しは当然です。資格要件と専門熟度とは別です。最近は熟度の高い中高年専門家の公募もはじまりましたが、従来の「資格職」養成・採用ルートとは異なった市民型発想の専門家は、市民型発想の大学教授と同じくいまだ少ないとしても、今後急速に登場してくるでしょう。
▼それと、これまで地域景観の貧しさを述べてきましたが、公共空間の公共設計という問題意識も1970年までは未熟だったため、建築という「点」中心の建築学科、道路や堤防などの「線」中心の土木学科が主流だった日本の大学では、地域を「面」としてとらえる公共設計にかかわる学科編成がたちおくれ、造園とともに、いまだに理論未熟・人材不足といってよいでしょう。この公共設計にかかわる職種は、法務・財務とともに、これからの自治体の戦略職種を担います。
▼地域個性をもち生活の質をかたちづくる地域文化戦略というこの課題領域は、遠く離れている国レベルの政府・官僚では対応できません。そこでは地域の文化活動をめぐる熟度やスキルを市民・自治体が身につけるといった「市民文化」の力量が問われているのです。
▼都市型社会にはいりますと、文化をめぐっては、市民活動の自由・自治を基本に、時間のゆとり、空間の豊かさを、生活ないし地域にいかにつくるかが問われます。人間は地球規模での仕事や観光、研究などで飛び回っていても、地域から解放されることはありません。人間は結局大地に帰ります。地域に帰るのです。以上で、市民文化の理論整理を終えます。
7.資料編
▼写真資料/「ルンビニの野外学校(ネパール)」、「劇団SCOT(富山県利賀村)」。
▼音楽資料/モーツアルト「ト短調の弦楽五重奏曲第4番K516」アレグロ(約10分)。
▼印刷資料/「(補論)市民文化の理論整理」。
内容
1.都市文化を考える... 1
2.文化は辺境から... 3
3.異質なものを導入する... 5
4.社会教育の時代は終り、地域教育と国際教育へ... 8
5.(補論)低所得社会の市民文化(第5・7講再掲可)... 11
6.(補論)市民文化のリロン整理... 12
(1)自治体の今日的文化状況... 12
(2)都市型社会における三文化形態... 13
(3)市民文化の三政治文脈... 14
(4)市民文化活動の自立と水準... 16
(5)自治体による地域文化戦略... 17
7.資料編... 19
1.都市文化を考える
▼今日は、都市文化あるいは市民文化についてお話します。地方自治体行政で、文化が問題なるのは、たいてい学校の統廃合や建て替え、教育委員会行事とか学校行事、おもに制度にかかわることです。文化や教育の内実そのものが地方行政レベルで深く問われることはありませんでした。戦後の教育委員会制度も、その実際は教育行政の承認機関であって、その土地独自の教育文化を生み出すことはできませんでした。▼教育委員会は、GHQ指導のもと「教育は政治の上にあり」といったプラントンの考え方のように、行政に介入されない教育をということでしたが、いまは、行政の下請け教育の模様です。本来はもっと独自に地域型の教育を考えていいのですが。ドイツのシュタイナー教育で実践している「エポック授業」なども参考になります(子安美知子)。また北海道の開拓史とかアイヌ文化を調べ・発表する、とった歴史の調べ方・学び方の方法を知ることがポイントになります(参考「アイヌ文化の基礎知識」引用)。▼しかしながら行政が人間個人の内面に介入したり、介入しすぎるのは住民の精神的自由を損う恐れがあります。「内面の自由」の保障はしなくてはなりません。▼さて、文化には生活のための「生活文化」と、心を満たすための「芸術文化」とがありそうです。他の動物と違って人間は芸術文化を持ちます。これは生活文化の高度化したものとも云えるかもしれません。よく「文化で飯が食えるか」と言われますが、仮に空腹であったとしても心を満たすものが欲しいのが人間です。
▼ここで、モーツアルト曲を聴いたつもりになってください。評論家の小林秀雄『モーツアルト』ではこう言ってます。ト短調の弦楽五重奏曲K516の譜例を出して、「モーツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡(うら)に玩弄(がんろう)するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モーツアルトの後にも先にもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の生涯を駆け抜ける」。これはよく知られた一節ですね。▼おなじくト短調のシンフォニー第40番K550の譜例を示し、「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいのかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニーの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたのか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう。兎も角、街の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏したように鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄えた。百貨店に駆け込み、レコオドを聞いたが、もはや感動は還って来なかった」。
▼このように、モーツアルトの音楽は、どんなに苦しいときでも、ひもじいときにも静かに心を満たしてくれます。私はベートーベンの弦楽四重奏を好みますが、皆さんはどんな曲ですか。▼ということで、視聴覚機材を用意しましたので、ここはやはりモーツアルトの「ト短調の弦楽五重奏曲第4番K516」のアレグロをだけ聴くことにしましょう(約10分)。演奏はアルバン・ベルク四重奏団、1986年録音です。
▼さて、ともかく文化というからには日本の文化状況をざっと見ておきましょう。皆さんにも言い分はあるでしょうから「ああだこうだ」と発言してください。日本の文化創造力が衰えてきたのは、戦後の経済至上主義のせいばかりでなく、おそらくは「内省的環境」が失われてきたためと思われます。その証拠の一つは、芸術文化に属する種目のうち、その国の社会状況をもっとも直接的に反映するのは「映画芸術」であるといえます。映画は工学的技術を使う近代的な芸術メディアで、世界の大量の享受者に同時発信できる市場性をもった芸術文化です。日本の首相の名は知らなくても、黒澤明の名を知っている外国人は大勢います。▼日本映画はかつて異例の輝きを示しました。1950年代前半でした。「羅生門」「七人の侍」「生きる」の黒澤明、「雨月物語」「近松物語」の溝口健二、「麦秋」「東京物語」の小津安二郎など、世界の映画史上に残る白黒映画の傑作を矢継ぎ早に送りだしました。その後も今村昌平や大島渚など新世代の映画監督が1960年代までは、“世に問う”という感じの映画をいくつか発表しました。その熱気も失せて30年を経て、1992年周防正行の「シコふんじゃった」など特殊日本的な感覚の映画がいくつかありましたが、世界に問いかけるというような志を持ってというものは出てきませんでした。でもここにきて、宮崎駿監督の「千と千尋」、07年カンヌ国際映画祭では河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」、09年米国のアカデミー賞で滝田洋二郎監督・本木雅弘主演の「おくりびと(デバーチャーズ・旅立ち)」が記憶に新しいですね。いずれも死者を送る映画で、静謐というか、静かな「Q型人間」の映画です。これが世界基準になりつつあるということでしょうか。
▼内田樹の正月の小津映画で、Q型の静かさを知る人間になろうということについては前回話しました。それと、作家・監督・音楽家などはまず十中八九、必ず静かなところ、山麓とか海とか田舎で思考作業をしていますね。それは間違いありません。ただし発表は都会です。ですから東京や大阪の大都市は、コミュニケーションにはいいですが、思考に向きません。▼「発表は集中すべし、思考は分散すべし」「情報は分散すべし、権力は分散すべし」ということで文化も政治も地方分権型
に向かっているようです。
▼一方、アジアの隣人たち、つまり中国、台湾、香港、それにインドなどの新しい映画が、ベネチアやベルリンの映画祭で次々とグランプリを獲得しています。中国映画では個人的ですが「山の郵便配達」がよかったです。これも静かな映画です。▼世界的にはいろいろ試みているようですが、どちらかというと静謐なQ型に向っているのでしょうか。
▼一方、映画以外の「音楽芸術」も衰弱しています。日本のレコードやコンサートの市場は極めて大きく、またピアノなど楽器の普及率はアジア諸国のなかで抜きん出ています。音楽の裾野の広さは、韓国や中国に比べものにならないくらい広大です。しかし、世界のトップ・クラスの音楽家に注目しますと、日本も韓国も中国も同じくらいです。ここでは、裾野が広いと頂点が高いという、原則が当てはまりません。▼国内外で堅実な活動をしている日本人演奏家が多数いますから、あまり市場性ばかりで判断はできませんが、ドイツ・グラモフォンとか、オランダ・フィリップとか、英国のEMIやデッカなどの世界的なレコード会社からCDが出ている演奏家を指標にすると、日本人ではオーケストラ指揮者の小澤征爾とピアニストの内田光子(個人的には全CD所蔵)がいて、韓国人にバイオリニストのチョン・キョンファと指揮者のチョン・ミュンフン姉弟がいて、中国人にチェロのヨーヨー・マとバイオリンのチョーリャン・リンなどがいます。まだ、日本人にはバイオリンの五嶋みどりが評価を高めつつありますが、トップだけを拾うと日韓中同じくらいです。▼それと日本には若くして演奏技術にはすぐれた層がとても厚く、国際的な新人コンクールでもしばしば入賞するんですが、大演奏家にはなかなかなれない。日本の若い演奏家は譜面どおりにうまく弾くけれど、例えばクレッシェンドになるとき、なぜこの曲のこの部分でクレッシェンドになるかを考えずに弾いている。技術の向上には邁進するけれど、芸術の内奥あるものを見つけようと志向や環境が、いまの日本には失われている。▼先ごろの話題になりました、「第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール」で日本人初の優勝を果たした全盲のピアニスト、辻井伸行(20)の快挙がありました。超絶技巧と音楽性の両方を具えていたように思いますが、今後の評価が待たれます。
▼「文学」でも1970年に三島由紀夫が45歳で割腹自殺して以降(辞世の句「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へし今日の初霜、散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と小夜嵐(さよあらし)」)、わが国で世界の文学史に残るような小説が一編でも書かれましたか。いやノーベル賞候補の村上春樹がいましたね。彼の「ノルウェーの森」にしても政治とか国家や戦争の問題が出てこないのが特徴だという人もいますが、これも静かな小説です。
2.文化は辺境から
▼そこで、これからの芸術文化というか、日本の文化創造を東京だけに任せておくのは危ない、という話をします。東京はたしかに芸術文化を享受するには便利です。展覧会や演奏会などのマーケットという点でも世界的都市です。しかしじっくりと芸術の創造活動を行うのにふさわしい場所ではありません。▼「活動は地方で、発表は中央で」。「情報は集中すべし、権力は分散すべし」は、先ほど話しました。これは辺境と中心の問題です。そして、辺境から動きが始まることが多いのです。
▼海外をみるとニューヨークやロンドンやパリには、まだ内省的になる都市環境があるんです。東京は皆無でしょう。だから、高度な芸術創造の場を地方で生み出していく必要があります。文化創造の場は、欧米では国土にあまねく分散しているのが普通です。典型的なのはドイツです。ドイツの地方都市は小さくて魅力的ですね。小型分散しています。▼米国だと文化芸術以上に、文化産業が分散されています。ニュース専門テレビ局のCNNやコカ・コーラ本社がアトランタに、スーパーコンピューターの代表的メーカーであるクレイ社はミネソタ州に本社があり、西海岸のロサンゼルスには、ご存じ映画産業がある、という具合です。
▼いま芸術文化の世界でもっとも興味深いのはパフォーミング・アーツつまり「舞台芸術」でして、その中でも刺激的なのは「舞踊」だといいます。それも古典的なバレエではなく、モダン・バレエとかモダン・ダンスとかの新しい音楽と新しい振付の舞踊です。言葉がないため万国共通に楽しめます。「パフォーミング・アーツ」には、日本の歌舞伎、能、文楽、中国の京劇などの伝統劇、バリ島のガムラン音楽を伴うバロン・ダンスや合唱劇のケチャ、アフリカの芸能など地球規模の多彩な種目を加えていいわけです。これらは時間芸術ですから、観る者に強烈なカタルシス(感情の解放・浄化)を与えるという特徴があります。
▼地方での文化振興が必要な一番目の理由は、日本もいまの欧米のように芸術文化や文化産業は「地方都市に多極分散」し、静かな空間で思考・芸術することです。古典芸能や伝統美術・工芸が関西など西日本にあることは当然として、秋田県田沢湖畔のわらび座、佐渡の鬼太鼓座や鼓童、富山県利賀村の劇団SCOT(旧早稲田小劇場)、長野県松本市の小澤征爾指揮による臨時編成の「サイトウ・キネン・オーケストラ」、舞踏家の田中泯は山梨県の白洲町を拠点に活動するなど、舞台芸術や音楽が地方分散に向かっています。十勝には、どんな人たちが来ているか調べてみるといいですね。音楽家ではクニ河内、名前は失念しましたが絵本作家の方もいます。▼ということでこれまでの事例は、音楽、舞踊、芸能などの時間芸術でしたが、空間芸術である美術はどうなっているのか。海外の評価からみると、平山郁夫(前芸大学長)、加山又造らに代表されるように日本画が主なもので、油絵は裾野が広いものの世界の潮流を作っていくような突出した画家はなかなか現れにくいようです。美術は音楽演奏などの再生芸術以上に芸術家の思想が問われる分野で、少しくらいうまく描いたからってどうということはない世界なんですね。技法の点で日本人に有利な日本画はともかく、美術家には困難な時代と言えます。
▼地方での文化振興が必要な二番目の理由は、「地域の活性化」ということです。この活性化というと、だいたいは地域の伝統や文化を調べ、それを掘り起こそうとします。しかしそれだけでは元気になりません。その地域が異質な文化と遭遇しなければ活性化は起きません。まちづくりに、「よそ者、若者、バカ者」が必要といったことと同じです。▼例えば、西洋史におけるルネッサンスは中世の伝統社会がイスラムの技術文明と出会って花開いたものです。20世紀のアメリカで黒人が生み出した音楽は、ゴスペル音楽、ブルース、ジャズへと変容してきた音楽であり、あるいはソウル・ミュージックもそうですが、元々はアフリカから新大陸へ連れてこられた黒人の文化がキリスト教と出会って生まれたものです。
▼わが国でも民族学の知見によると、近代化以前のきわめて閉鎖的な農村においては、マレビト(客人)、ホイト(祝人)などは、村人につねに歓迎されています。自分たちのもっている文化や情報とは異質なものを潜在的に求めていたということです。▼折口信夫と柳田國男のマレビトの違いが、中沢新一の『古代から来た未来人 折口信夫』に詳しいのでちょっと引用します。柳田國男が共同体に同質な一体感をもたらす霊を求めていたのにたいして、折口信夫はそれと反対のことを考えていた。折口は神観念のおおもとにあるのは、共同体の「外」からやってきて、共同体になにか強烈に異質な体験をもたらす精霊の活動であるにちがいない、と考えたのである。そこから折口の「まれびと」の思想は、生まれた。▼芸能者は死者たちの息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命であるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴(しるし)を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる、「まれびと」としての性格を持つことになったのだ。折口は村々に残された古い芸能のかたちを深く探求しながら、芸能者の原像を描き出そうとした。▼そのような「芸能者の原像」を「鬼」があざやかに表現している。鬼は共同体の外からやってきて、死の息吹を生者の世界に吹きかけ、そこに病や不幸をもたらすこともある。しかし、荒々しい霊力を全身から放ちながら出現してくる鬼の存在を間近に感じるとき、共同体の人々は、自分たちの世界に若々しい力が吹き込まれ、病気や消耗から立ち直って、再び健康な霊力にみたされ、生命のよみがえりを得ることができたように感ずるのである。
▼このように、人間の社会はつねに、あるいは時々異質な人や文化と出会い、異質な時間を導入しなければ活力を維持できない仕組みになっております。ですから今日、地域の活性化をめざすとき、自分たちが慣れ親しんでいる地域の文化をことさら発揚したとしても、それだけでは地域は動かないということです。
3.異質なものを導入する
▼こうしたことから、地方が文化事業を行うときは、その地域にこれまでなかったような異質なものを導入することが効果的です。地域に縁もゆかりもないものを何故やるのかという人も一部にはいますが、それでよいのです。東京から文化人や評論家がきて「地方は東京のマネをするな」とよく言いますね。そういう人は決して地方には住まないと思いますが、これは間違っています。だいたい東京には何でも、新しいものは特に何でもあります。▼いま時の地方の若者は、たとえ東京に住みたいとは思わなくても東京にある面白い情報はちゃんと入手しています。アンテナを張って東京発のイキのよい情報をいち早く手に入れるのが地方の活性化に有効です。ですから、むしろ「東京のマネをせよ」です。今は国際化時代ですから、ニューヨークの情報もロンドンの情報も手に入れやすくなっています。東京を経由しないでニューヨークやロンドンのマネをできたらもっとイイわけです。
▼かたや、西洋クラシックやオペラ、現代美術とかは分らないという人もいます。しかし、外からやってくるような文化はそもそも分かりません。分らないからよいのです。おそらく音楽の専門家でも複雑な構成のクラシック音楽を一度聴いて全部分ったといえる人はいないでしよう。聴くたびに新しい発見がある。それがいいのです。つまり、分ろうとして精神の活性化が起こるのです。人々の精神の活性化という過程を含まないで地域の活性化ということはあり得ません。▼ベートーベンの弦楽四重奏のCD8枚組を10年聴いていますが、いまでもあちこちに発見があり、新鮮。それも同じ曲を三つの四重奏団で聴くんです。ブタペスト四重奏団、スメタナ四重奏団、アルバンペルク四重奏団といった具合です。
▼これが西洋のクラシック音楽ではなく、日本の演歌や民謡だったらどうか。演歌や民謡はだれにでも気持よく聴けますし、全部わかったような気がします。気持よくはあっても、心の中での格闘はありませんから精神の活性化が行われません。ですから演歌では村や町おこしはできないと思います。同様にスポーツでも村おこしはできません。スポーツは、プロのトレーニングは別にして、気晴らしになり生理的に気持ちがよいものです。いわば放電型の行為です。これに対して古典音楽を聴くような芸術的な行為は充電型です。いまの若者には日本の古典芸能も異質な文化ですし(実は私も同様ですが)、放電型の遊びに飽き足らない若者が歌舞伎をみる傾向が出てきているそうです。
▼全国には住民によるイベントが盛んな地域がたくさんあります。それが地域の活性化に結びつかないのは充電型のイベントをやっていないからです(地域コミュニケーション研究所の鈴木信次の指摘)。
▼温泉も気晴らしになり生理的に気持ちのよいものですが、充電型にならないから地域の活性化に役立ちません。でもこの温泉地のパターンを塗り替えたのが別府の奥座敷の由布院町で、音楽祭や映画祭などの充電型文化を導入して成功しました(亀の井別荘の中谷健太郎がキー・パースン)。それと、住民がそこを訪れた客の召使(サーバント)になるような村おこしはダメです。ホスト(主人)がゲスト(客)を迎えるような関係でなければ、地域のほんとうの活性化などはできません。客に尊敬されるような観光地で、かつ従来の遊興型・非紳士的な行楽地を転換しなければ、子供の教育にもよくありません。尊敬されるというのは、充電型の文化活動つまり文化創造がそこで行われているということです。
▼自信があれば外の文化を受け入れられます。パリと京都を引き合いに出すと、パリは中世以来、欧州の文化の中心としての自負がありますし、外からどんなものが入ってきても怖くない風土があります。19世紀末から20世紀初頭にかけてさまざまな美術運動がパリを中心に起きています。▼エコール・ド・パリと日本の画家たちの話です。1920年代から30年代にかけて、多くの日本人画家がパリに渡航しています。最盛期は数百人の画家が滞在していたといわれます。美術留学生はもちろん、大家と呼ばれるような画家や、伝統的な日本画家もパリの街に引き寄せられました。当時のパリでは、美術だけでなく音楽や演劇、文学など、さまざまな芸術が花開き、世界の文化の中心としての様相を呈していました。画家たちにとってパリは、憧れの場所だったのです。萩原朔太郎のパリに行きたし思えど、の詩がありますね。時代はまさしくエコール・ド・パリ。シャガールやキスリング、パスキン、ユトリロなど、世界各地から集まった画家が、華やかで魅力に富んだ作品を描き、それぞれの個性を競い合っていました。日本人の画家の中には、藤田嗣治のようにその渦中に飛び込んで一躍エコール・ド・パリの寵児となった者がいたかと思うと、一方ではエコール・ド・パリの喧噪に背を向けた者も少なくありませんでした。また、次々と日本に帰国する美術留学生たちは、新しい美術思潮を持ち帰り、日本の美術界に新たな時代を画しました。
▼日本では、京都がこれ近いかもしれません。千年間首都であった京都には町衆(まちしゅう)と呼ばれる市民階級が形成されるなど、今日まで固有の都市文化をもっています。地元の人たちはそれなりに自信がありますから閉鎖的ではありません。全国からどんどん人材を呼び寄せ京都の人材にしてしまいます。学者や文化人の類もそうですが、産業でもその成果が表れています。ハイテクの京セラ、オムロン、村田製作所、バイオテクノロジーのタキイ種苗、ファッションのワコール、テレビゲームの任天堂など人口130万人程度の都市に全国的・国際的な先端産業がたくさん生まれています。
▼ここで、地域に異質な文化を導入するための手だてを考えてみましょう。文化施設をつくってコンサートや美術展などの催事をするのもいいのですが、高度な芸術文化は原則として個人、つまり特定の名前のある人が担っているので、「ひと」に注目するのが有効です。生活文化は無名な人々が担い、芸術文化は特定の人によって担われているといっていいでしょう。芸術文化は、高度なものに接しなければ、高度な文化は生まれません。あの才能がうなるピカソやダリでさえ、若い時は文化的環境を求めてパリに出ています。▼そう考えると、日本の地方でもアーティストを輩出するような地域づくりをめざすなら、本物のアーティストに身近に出会えるような機会を増やすべきで、アーティストを地域に招いて住んでもらうのが地域の文化振興の一番の早道です。▼そんなアーティストは何人いるか。個人名が看板になって生計を立てている音楽、演劇、美術、工芸、デザイン(建築デザインであれば象設計のような)、写真、映画、テレビなどの分野のアーティスト、あるいは小説家や脚本家その他の文学者などは、全国に5万人から10万人くらいでしょう。▼欧米ではアーティストの地方住居が当たり前になっていますが、日本でもこうしたアーティストのうち、やや余裕のある層が地方にも自分の拠点を持ちたいと考えるようになってきています。つまりアトリエやスタジオなどの仕事場を地方に持ちたいという欲求が出てきたわけです。▼コンピューターでロマンチックな音楽をつくっている「喜多郎」は長野県の田舎に住んだあとアメリカのコロラド州へ移住しました。いまはどこにいますかね。
▼このように芸術家の地方住居が進行していきますから、アーティストの定住ないし季節的住居を受け入れることが、地方の文化振興にとって戦略的に有効と思います。これを「地域帰化人方式」と呼んでみます。コミュニティとのつきあいの中から、地域の文化活動の教師になって面倒をみてくれることもあるでしょうし、地域の子供たちがこうした芸術家と日常的に接することで、隠れた才能が開花する機会が増えます。地方であろうと農村であろうと、千人に一人くらい、特別の個性や能力を持った人がいると、福沢諭吉がどこかで言っていました。▼大都市のアーティストが定住ないし季節居住したくなる理由のひとつは、その地域の人々とのインフォーマルな繋がりがもてることがあります。仙人みたいに人けのない大自然に住みたいというのではなく、地方のコミュニティつまり地場の人との交流を望んでいます。地元に多少ともそのアーティストの専門分野の話を知っている人や、少なくともそうした知識を得ようとする前向きの人がいるとか、あるいは世話好きな人がいることがきっかけになります。役場が土地と家屋を斡旋するだけではだめで、民間人がかかわる必要があります。それと、夜遅くまで開いている飲み屋があることも大事な要素です。
▼地域の農産物を加工して味噌、漬物、焼酎などをつくっても、子供や若者の目が輝くような未来が見えてくるわけではない。地域の個性や魅力が未来のために異質な人材を外から呼び寄せられるようにすること、地域をそのように変えていくことが、いまの段階ではいちばん大事なわけです。
4.社会教育の時代は終り、地域教育と国際教育へ
▼さて、これから話すことの結論を先に申し上げます。「社会教育は終焉」しその役割は終わったということです。地域の文化振興は戦後ずっと社会教育という範疇で各自治体で進められてきました。そのハードウェアが公民館です。社会教育のソフトウェアとしては、住民の生活を文化的にするという目的で、公民館活動や各種講座などが啓蒙という視点で行われました。啓蒙が主眼ですから講座などには多くの住民を集め、いわば広く浅く知識を伝える必要がありました。そうした観点から公民館は市町村に一カ所の中央公民館と各地区ごとの分館が設けられるようになりました。このように戦後長く、文化と啓蒙がくっついた概念でしたし、憲法の前文が、あの文化的生活の保障ですから、これが後押ししました。
▼この社会教育に対して「学校教育」という分野があります。その地域の学校教育と社会教育を統括する組織として教育委員会が設けられ、主に民間人から教育長や教育委員が任命される仕組みになっています。教育長の任命権は市町村長にあり、また教育委員会の予算も行政が措置しますが、建前上、教育委員会は市町村行政から独立した存在となっています。不可侵の聖域という雰囲気がありますから、そのため地域の教育文化行政は社会の変化に対応しにくい体質になっています。
▼しかし、昭和40年代からは公民館とは別に、より高度な文化活動の住民欲求にこたえるため、文化会館とか文化センターが作られるようになります。また、昭和50年代には、民間の社会教育施設という色彩をもったカルチャー・センターが大都市を中心に展開されます。お金を払ってでも学びたいという新しい学習ニーズです。西武デパートの「池袋コミュニティ・カレッジ」などは大学の教養課程以上のカリキュラムでした。これはいずれ地方都市にも波及します。▼また、NHKなどの放送メディアは「教育セミナー」「人間大学」なども動き始め、社会教育は「生涯学習」へと変貌します。戦後、公民館が担ってきた社会教育は役割を終えました。
▼さてここで、「地域教育」とは何か。地域を支える人材の養成を考えてみます。いわば「国家人材」を養成するために制度として学校教育があったわけですが、しかし今日必要なのは、国家人材のほかに、「地域人材」と「国際人材」の養成が必要です。学校教育の場で、地域で生きていくのにどん能力が必要なのかが問われたことはありませんでした。そのツケが例えば地域の産業とくに農業を若者が軽んじるということに現れたと思われます。これが地域人材を養成する教育が必要な理由です。いまの小中学校及び高等学校のカリキュラムつまり国家教育の部分を半分にして、四分の一を地域教育、四分の一を国際教育に充てることです。
▼日本に限らず国民教育のための学校モデルは軍隊です。大勢の生徒に一斉に何かを教える方法は、それ以前には軍隊しかなかった。もちろん大学のモデルは違います。西洋では今から千年も前に修道院のようなところから大学が生まれ、古典的な学問を継承する機関として機能してきました。まずは聖書の書き写し、いわば写経ですね。社会教育の社教ではありませんよ。▼国民教育の学校モデルが軍隊だといわれてみると、確かに合点がいく。昔の木造校舎は軍隊の兵舎に造りでしたし、男子生徒が着用している詰襟の黒い学生服は戊辰戦争や西南戦争の兵士の服のようです。女子生徒のセーラー服も文字通り水兵服ですね。こちらはまあ可愛らしいですが。でも、生徒たちが望まないなら廃止した方がよいでしょう。
▼欧州にあっては、特にドイツのシュタイナー教育のような個人授業が主です。欧州では、小学生の場合は、登下校時はかならず親が付き添います。学校の門を出たら責任はすべて親にあるわけで、先生たちは学校内部のことだけを考えていればよいわけです。親の授業参観はありません。先生たちは最良の授業をやっているので親に見せる必要も親の意見を聴く必要もないということです。その代り、子供の躾に類することは学校ではいっさい面倒をみません。仮に生徒が騒いで授業を妨害するようなことがあると、先生は親に連絡して直すようにと伝えます。それでも直らなければ、学校に来ないようにと親に申しつけます。いいシステムです。▼それに、生徒を集団としてまとめて面倒をみるという雰囲気が全くなく、先生が生徒一人ひとりを相手にしています。▼フランスの絵画授業では、石膏デッサンはないそうでうす。石膏像をみてデザインさせると、価値観を画一化させる恐れがありますし、一つの対象にすると互いに描いたものを比べて、優劣を競うのはいいことではありません。だいたい、三十人の子どもが一つの死んだ生物を眺める姿は美しくありません。フランスには哲学教育の伝統があるため、最高の知性が高校の哲学教師になっている。ボーボワールやサルトルも、みな高等師範卒で高校哲学の教師の経験があります。
▼ところで、アジアのネパール南部の、インドに近いバイラワ市とルンビニ(釈迦の生地)をつなぐ道路を走っていましたら、道路沿いの牧草地の大きな菩提樹の木陰が野外の学校になっていました。そばに牛が寝そべっており、菩提樹に黒板をくくりつけて若い男の先生が五十音のような文字を教えていました。粗末な紙に印刷されたものでしたが、どの子供も教科書をもっていました。みたところ五、六歳の子供も十歳を超えた子供も一緒です。教育というのは、かくも自由、いろんなスタイルでやれるものだなと感心しました。▼こう見てくると、日本の子供が世界でいちばん不幸かもしれません。学校では医務室や保健室に避難する子供が多いですが、たぶん医務室や保健室が欧州の学校のように扱ってくれるのでしょう。
▼ここで学歴社会の終焉ということにもちょっと触れておきます。21世紀になってもまだ学歴社会の影を感じますね。大学で何を学んだかより、どの大学を卒業したかがまだ問題にされています。でも、いずれ若い人たちや子供の意識が変わるはずです。難しい大学に入り大企業・一流企業に就職しても、その本社のほとんどは東京の都心部、丸の内や大手町にあります。比較的若い時期に家を持てば、片道二時間、往復四時間の鮨づめ通勤(痛勤)は避けられません。しかし、いまの若者は無理と不自然が嫌いでしょうから、その通勤をイヤだと思う人が増えるでしょう。
▼さて、いよいよ地域教育と国際教育のソフトウェアをどのように作り出すかを、中間的にまとめてみます。市町村立の小中学校といっても、市町村が立てたのは学校の建物つまりハードウェアだけです。市町村立といいながらソフトは国と県です。教員の人件費と教科書代は国が持ち、教員の人事権は都道府県の教育委員会が握っています。▼これからの教育を考えるなら、市町村「営」小中学校を構想すべきです。市町村が私立学校のように学校法人をつくり、独自に教師を雇用して児童・生徒を募集すればいいのです。モデル的に各自治体に一つか二つの市町村営小中学校をつくり、その地域にほんとうにふさわしい教育の理念と方法を生み出すのです。これも何度も言いますが、国家教育を二分の一、地域教育と国際教育をそれぞれ四分の一といったバランスが望ましいと思います。
▼まず、「地域教育」から話します。読み書きソロバン、つまり国語(藤原正彦、水村美苗の言い分参照)、算数・数学、日本史、世界史、地理、とある程度科学的な知識などは国家教育(国レベルの教育と表現しますか)としますと、基礎的な部分は国家教育でかなりカバーできますから、地域教育としては具体的で実地の教育がふさわしいということになるでしょう。▼子供が将来その地域で人生を送るための基礎として地域にどんな産業があり、将来どんな職業があるかを学ぶことです。地域のさまざまな職場を見学するカリキュラムです。そこで働いている大人たちの仕事の苦労や喜びをじかに語ってもらう。将来その地域で成り立ちそうな職業については、経済的な先進都市に見学に連れて行きます。このようなことを小中学生のうちに体得しておけば、農業はイヤだとか、3Kは避けたいとかの漠然としたホワイトカラー志向はかなり改善されます。▼職業とともに大事なのは社会奉仕です。例えば二、三人のグループを組ませて高齢者の世帯を訪ねさせ、まずしばらく一緒に過ごさせて、そのお年寄りが何に困っているかを子供たちに発見させ、それを自分たちで解決する方法を考えさせるような地域教育プログラムです。こうした経験はのちのち成人した後もごく自然に高齢者を助けようとする気持ちが動きます。よって、交差点のあのウルサイ信号音は不要となり、やっと欧州並みになり、静かな町を取り戻せという話につながります。
▼先駆的なドイツの事例を紹介します。ミュンヘン市にあるバイエルン州立美術館の中に博物館教育センターという機関があり、そこで開発された地域教育プログラムをお伝えします。これはミュンヘンにあるいくつかの博物館を生かした校外教育のプログラムです。学校が休みの日に自由に参加できるもの、市内の学校と提携して授業時間の中で行えるものなど、さまざまなものがあります。▼その一つは、子供に中世の絵画を見学させて、これと同じように描いてみようというものです。模写ですね。子供たちは当時の絵具がどんなものであったかを研究し、それが岩石を水で溶かしたものであるとわかる。そうすると色の出る石を探しに山に行こう、となるわけです。こうした推理と行動を子供ができるようにするのがインストラクター(指導者)の役割です。▼また、古代のパンを焼いて食べようというのもあります。科学博物館のような施設に行って古代に栽培された品種の麦を手に入れ、半年かけて畑で栽培し収穫します。さらに古代のパン焼き窯をつくりパンを焼くのです。▼ほかには、「ミュンヘン都市四重奏団というのがあります。子供を四人組にして市内の歴史的な建造物などを探検・調査させるものです。▼子供たちがギリシャ・ローマ時代の演劇を当時の服装でやるものもあります。▼まさにシュタイナーのエポック授業です。日本と世界の子供たちは、この地域教育で差がつきます。国際交流したら話題と行動に当然差が出てくるでしょう。▼大人たちが知恵を出してその地域にふさわしい地域教育プログラムを作ることです。地域でのそうした主体的な取り組みがないと、地域の教育状況は変わりようがありません。
▼最後は地域で行う「国際教育」です。異文化理解教育ですから、外国人と交わる機会を与えることです。儀礼的な交流ではなく生活を共にするようなプログラムが望ましい。外国人との交流はできるだけアジアの人々、韓国、中国、台湾、香港、東南アジアなど近くから始めるのもいいでしょう。ですから地元JICAの協力がポイントになります。▼外国語(英語限らず中国語や韓国語などアジア語)の慣れも、そういった人たちとの日常的な接触から学んでいくことは、いまの地域の状況では十分可能です。
▼これまで国民教育に加えるべき市町村の地域主権としての、地域教育と国際教育を強調しました。自分の地域に自信と誇りをもつ人材が東京を経由しないで直接世界とつながる活動を行える状況をつくっていくことが、日本の各地方がこれからも生き延びていくための決め手になること間違いありません。ということで一応中間的な「都市と文化」の話を終えますが、補論として「市民文化」をどう理解したらいいのかを理論整理しておきたいと思います。
5.(補論)低所得社会の市民文化(第5・7講再掲可)
『年収崩壊』(森永卓郎・角川新書)から。▼結局、構造改革で何が起こったかと言えば、大企業が従業員をどんどん非正社員に置き換え、中小下請け企業への発注単価を引き下げ、利益を増やし、その利益を使って役員報酬や株主への配当を増やした。その結果、中小企業は出口のない不況に追い込まれ、すでに働く人の三人に一人を超えた非正社員は、年収120万円台という低所得を強いられている。▼ヨーロッパの労働時間が短いもう一つの理由は、そもそも彼らが長時間労働を好まないからです。いかに人生を楽しむかとうことを真剣に考えた結果、彼らがたどり着いたのが、「なにもしないでボーッとしていることこそ、最大の幸福なのだ」という結論でした。パリのカフェには、カフェオレ一杯で、ただ道行く人を眺めている中高年がたくさんいます。実はそうした時間の使い方こそが、最高の贅沢なのです。▼ヨーロッパのサラリーマンの標準年収は300万円程度です。ただ、彼らはそれ以上を望んでいません。それで十分に暮らしていけるからです。成功への夢を追いかけ、明日に向かって走り続けるアメリカ型と、貧しいながらもゆったりと夕日のなかでうたた寝するヨーロッパ型。知り合いのギリシャ人は言う。「ギリシャは貧乏だけど、ほとんどの人が、おいしい料理とおいしい酒とステキな恋人をもっている。これ以上働いて、いったい何が欲しいと言うんだい」。▼お金持ちは働いて稼いだ人ではなく、お金に働かせて稼いだ人なのです。欧米ではお金持ちは働かないというのが常識です。日本では稀でしたが、格差社会に入ってからは増えてきています。▼定期預金は、セブン銀行・ソニー銀行・イーバンク銀行や信金などのキャンペーンによる高金利銀行へ短期運用、5年満期の固定金利型個人向け国債、主要国のソブリン債への分散投資としての投資信託、老後資金の安定のための分散した株式投資などあり。▼私が携わった高齢者生活の調査の経験では、いつまでも元気で生き生きと老後を過ごしている高齢者の特徴は、自分の活躍できる場、あるいは自分を必要としてくれる場を持っていることです。会社で培った人間関係は驚くほど早く消え去ってしまします。定年後には定年後の人間関係を築かなくてはいけないのです。定年後にどのような場を築くのかは、その人の人生観に依存します。自分でビジネスを立ち上げたい、田舎暮らしをしてみたい、ミニコミ誌をやりたい、大学に入り直したい、海外に留学したいなど。お金のかからない生きがいであればよいのですが、たいていのことにはまとまった資金が必要になります。だから、まず定年後にやることの資金計画を作るべきなのです。ある程度の退職金の額があるなら、預貯金、株式、債券、外貨に分散投資して、公的年金で生活費が不足するようになった場合に、少しずつそのとき有利なものを売っていくというのが効率がいいでしょうが、ただある程度の金融知識は要ります。▼勝ち組はプール付きの豪邸に住んでいるかもしれませんが、プールサイドでゆったりと本を読む暇などはまったくないのです。最初から勝ち組になろうなどと思わなければ、年収300万円あれば、人並みに食事はできるし、普通の服も着られ、家電製品もひととお揃えることができる。マイカーも持てる。何が勝ち組と違うかといえば、見得の部分が違うだけです。勝ち組は高級スポーツカーに乗りますが、負け組みは大衆車に乗る。勝ち組は高級スーツですが、負け組みは紳士服の量販店で買う。勝ち組はシステムキッチンですが、負け組みは流し台。それだけのことです。▼節約は、住宅費、生命保険、教育費、電話代、自動車関係費、電気代などで工夫すべし。スモールビジネスや趣味で小遣い稼ぎをし、トカイナカ(都会と田舎)生活。▼私はシンクタンクの研究員時代、多くの高齢者の方々と話をしてきました。そのなかで痛感したことは、定年後の幸福を決めるのは、お金よりも生涯を通じてやることを持っているかどうかだということでした。なんでも構いません。自分が生きがいを感じて、自分を必要としてくれる場を持つことが、幸せな定年後を迎えるために必要なのです。▼それにしても、ここにきて資源と食料の双子の高騰は、著者のいう低所得社会をも崩壊させるのだろうか。低所得社会の生き方と文化は、現在の大きなテーマとなりましたので、敢えて取り上げました。
6.(補論)市民文化のリロン整理
さてここでは、「市民文化のリロン整理」(別途資料配布)をしてみます。窮屈な言い回しや、退屈なところも仰山ありますが、まあ、耳だけは起きていて下さい。いつかは役立ちますよ。日本はまだ市民文化成熟への過渡期の段階なわけですから、戦後から引きづってきた「社会教育の終焉」を確認し、「市民文化成熟」への展開といった視点で話を進めてみます。松下圭一『自治体再構築』(公人の友社)の中の「市民文化と自治体の文化課題」という論文を下敷きにレジュメを作りました。
(資料)市民文化のリロン整理
(1)自治体の今日的文化状況
▼日本は今日、都市型社会に移行して先進国段階に入りはじめたために、「夢」を見る時代は終わりました。夢をみることができるのは、先進国を未来モデルにできる後・中進国段階で、その状況はといえば、暗中模索が毎日で先が見えず文化も政治もまだ時代錯誤の官治・集権型の傾向にあります。では、今の日本の自治体の文化状況の現実はどうか。①緑が少なく、広告の氾濫から林立する電柱、赤茶けた道路フェンス、劣悪な公営バスのデザインなどから街並みをふくめて、みじめな地域景観です。②赤字垂れ流しの文化ホール、博物館、美術館、音楽ホール、スポーツ施設など、また暴落した美術品をもっている場合もあります。③公民館から国民体育大会、国民文化祭をふくめて、文化施策をめぐる中進国型オカミ主導といったありさまです。▼日本の各自治体は競って、各省庁の補助金などに煽られて借金をかさねながら、単品の文化施設をつくりましたが、地域の文化状況は前述のような悲惨な状態なわけです。21世紀になっても、まだ日本の地域生活のみすぼらしさは、日本の市民自体がこの実情に無関心で、ともすれば地域づくりはオカミないし土建業のシゴトとみなしてきたからです。しかし、地域づくりは農村をふくめ、市民がつくりだす政策・制度であり、とくに市民文化の成熟との関係で考えることが不可欠です。
(2)都市型社会における三文化形態
▼長いながい採取狩猟段階をへて、1万年前に私たち人間は定着農業がはじまり、やがてメソポタミア、エジプト、インド、中国の四大文明、つづいてインカなど地球各地が地域文明となる「農村型社会」に移行しました。ついで、16~17世紀にはヨーロッパが、また18世紀末にはアメリカが「国家(state)」を形成し、工業化・民主化をおしすすめ、農村型社会の共同体・身分を崩壊させていきます。国家を媒介ないし推力としたこの工業化・民主化が、いわゆる「近代化」だったのです。この欧米からはじまった工業化・民主化の結果、やがて20世紀後半には、市民型人間を大量醸成する、新しい文明段階としての「都市型社会」を生みました。日本も19世紀末の明治国家の形成によって、この近代化をすすめてきましたが、1960~1980年にかけてこの都市型社会に移行します。
▼この都市型社会の特性は、①工業化によって農業人口は10%を切りやがて数%になり、サラリーマンを大多数とする個人が、都市化のなかで「民主化」の主体となる市民化を推し進めます。②また、都市型生活様式は、農業地区をふくめ全般化します。③100万人単位から1000万人単位の巨大都市の出現によって、鉄道・航空・高速道路、電気・ガス、電話・マスコミ、ゴミ・下水道など、社会の工学的組織技術が一変します。社会のこの新しい組織技術は、戦争・テロ、災害、犯罪、感染症などにはモロイため、危機管理という新たな課題を作り出します。
▼都市型社会の生活様式は、農村型社会の共同体・身分の習慣を切り崩すため、政策・制度によるシビル・ミニマムの公共整備を必要とします。しかしこのシビル・ミニマムの公共整備は国だけではできず、自治体の「発見」、国際機構の「新設」となり、政府は自治体、国、国際機構へと三分化します。この政府の三分化のため、絶対・無謬とされてきた近代国家の観念は崩壊し、そこには国レベルの政府があるだけとなります。政府の三分化とみあって、文化形態も相互に移行・変容をふくみながら、「地域個性文化」「国民文化」「世界共通文化」の三類型に分化します。文化といえば「日本文化」といったような国民文化単位のみで考える時代は終わりました。
A 地域個性文化/農村型社会の数千年の時代のなかで、各地域につちかわれる「伝統文化」「風土文化」あるいは「エスニック文化」などの、いわゆる「基層文化」が地域個性文化です。しかしこれも時代の推移とともにゆっくり変容します。現在は地域特性をもつエコロジー、地域史、デザインという現代的座標軸で、地域個性文化を作ろうとする市民文化活動や自治体文化戦略によって、地域個性文化の再評価・見直し活性化が加速しています。具体では、自然保護、町並み保存、再開発による多様な地域空間・景観の再生から、さらには地域雇用力、地域生産力の整備・拡充をめざす新しい地域産業の形成にとりくみ始めています。
B 国民文化/日本の場合、近代化以前の多様な各地の地域個性文化を基盤として、中国やインド、あるいは「南蛮」などの外来文明をたえずとりいれ、そこからの刺激もあって、奈良・平安以降の寺院、雅楽、仮名文学など、室町以降のお茶、お花、能など、織豊以降の城郭、武士道、国学など、それぞれの時代の支配層文化が、明治になって「日本文化」の精華というかたちで、国家神話にくみこまれるわけです。庶民レベルでも明治以降は新しく、和食、和服、邦楽などといった範疇がつくられます。近代に入って成立する国民文化は、近代国家や建国に参加した政治家・官僚・知識人が「和」や「禅」を神秘化して、人工的に国民文化をつくりだすということをした。これは共同幻想ですね。ですから「日本人」とか「日本文化」とは何かと問われたら、まとまった共通理解での答えはできません。この点は、どこの国でも同じです。ということで、都市型社会に入った今日では、いわゆる国民文化自体の分解あるいは空洞化が、社会の分権化・国際化にともなう「地域個性文化」の自立、「世界共通文化」の展開のなかで進行します。
C 世界共通文化/世界共通文化は、今日の不変文明原理となった工業化・民主化を原型としている文化形態です。とくに20世紀の第二次産業革命による大量生産・大量交通・大量消費の展開が世界共通文化を生み出します。さらに今日の第三次産業革命にともなう大型ジェット機、IT技術などがこの世界共通文化をさらに加速し、地球規模での生活様式の平準化をつくりだします。事実、国連による「国際人権規約」から、ジュネーブ条約やラムサール条約、対人地雷禁止条約などの国際条約など、世界共通文化が成立し始めています。また、市民団体や企業は国境を越えて、環境問題、危機管理、災害救助をはじめ、突発する新型感染症対策など地球規模の世界共通課題にとりくんでおり、国際政治機構の国連や数十の国際専門機構による「世界政策基準」としての国際法の立法が進んできています。これらの世界政策基準なくして、私たちの日常生活がなりたたなくなってきているのです。▼かつては日本の江戸前の地域個性文化であった「握りずし」は今や世界共通文化ですし、日本の年末のクリスマスやベートーベンの第九はヨーロッパの地域個文化であったわけです。こうして三文化形態は相互に移行し転換しあい国際共通文化へとなっていくのです。
(3)市民文化の三政治文脈
▼市民文化の発生条件は、①工業化に伴う人口のサラリーマン化を基盤に、大量生産・大量交通・大量消費から促がされる生活様式の平準化です。②民主化に伴う自由と平等という価値意識の定着と選挙からくる政治における個人権利の平等化です。次いで、市民文化の成立条件は、①人々の「教養と余暇」の拡大、②シビル・ミニマムの公共整備です。都市型社会での生活条件の整備には、農村型社会におけるような共同体・身分の慣行によってではなく、「政策・制度」による「シビル・ミニマム」の公共整備が不可欠になります。この公共整備をめざした、市民ないし市民活動の品性・力量は「教養と余暇」に伴う活動ないし参加によって訓練されます。ですから農村型社会で、朝には星をいだいて出て、夕には月を仰いで帰る、では日常の市民活動はできません。実は、いまのモーレツ社員も同じなんですが。それはともかく、2000年の地方分権改革によって、「機関委任事務」方式という、明治国家が作り出し、戦後も再編されてつづいてきた官治・集権のトリックの廃止がきまり、各市町村、各都道府県それぞれが、政策・制度改革の発生源となる、自治・分権段階へと移行がはじまりました。日本でも「市民政治」への枠組みが整いました。この政治文脈を踏まえて、次の三つの文化的緊張をもたなくてはなりません。
A 自治文化/「発想形態」をめぐっては、自治文化と官治文化の緊張が基本です。さしあたり、20世紀のマスメディアがつくりだした国民神話ともいうべき大衆ドラマをめぐって、自治文化ではアメリカの「西部劇」、官治文化では日本の「水戸黄門」を想起してください。▼西部劇では、先住民への過酷な迫害の歴史がくみこまれていますが、白人の世界だけでみれば、問題解決をめぐってアメリカ人は「いつでも、どこでも政府をつくる」と、かつてJ.S.ミルが述べたように、失敗をかさねながらも自己武装による庶民の自治能力を示しています。原始民主政治における自治の幻影がそこにはたえず再生して描かれます。▼これに対して、水戸黄門では、黄門の既成権威によって官僚の助さん、格さんがたちまち問題を解決します。だが、そこにいる庶民は問題解決についての自治能力もなく、ただただペコペコ土下座しているだけではありませんか。自治の誇りなき、いわば日本原人の姿が大衆ドラマの作りだした「土下座」です。日本における政治としての自治の歴史としても、一時、政治が分権化する室町・戦国時代前後の惣村・惣町、とくにこの系譜にある一揆、あるいはいくつかの自治都市のかすかな記憶が残るだけです。
B 公共文化/「空間感覚」では公共文化(イクステリア文化)と私文化(インテリア文化)の対比となります。▼日本人は花や緑を愛するという伝説がありますが、街には花や緑はありません。この伝説は床の間の切花あるいは塀に囲まれた庭の中での私文化幻想にすぎません。いわば、市民の公共生活をかたちづくる公共文化という発想がなく、個人として内向きとなる私文化に閉じ込められています。戦前は知識人の「教養」、庶民の「趣味」というかたちでの私文化でしたが、戦後はマスコミによる私文化感覚の相互同調としての「大衆文化」への埋没となります。▼公共空間では、最近再開発などの特定地区では変わり始めましたが、しかし依然として町並み、広場、歩道、駅、バスストップの貧者さ、また電柱の林立、広告の氾濫、デザイン水準の低い道路フェンスというのが、今日も日本のみじめな中進国型の地域景観の実態です。公共空間が官僚を中核とした政官業複合に統御されるとともに収奪され、その底辺ではムラを行政が再編した町内会・地区会にがんじがらめにされているかぎり、市民の誇りを示す公共空間を造形できなかったのは当然でした。個人は「鬼は外、福は内」とならざるを得なかったのです。これが私文化です。▼日本ではまだ、市民のヨコの相互性が公共であり、政府は公共つまり市民がいつでも作り変えうる「道具」にすぎないという、先進国系譜の「市民社会論」型の発想が育っておりません。個人の相互性、つまり市民自治・市民共和の文脈による公共善ないし共通規範の構想から、新しい多元・重層の市民型「公共」が成立します。
C 寛容文化/「生活態度」では、まだムラ型の横ナラビ、先オクリを基礎において、マス型のミンナオンナジという同調性が広がっています(頂点同調主義)。テレビ番組、マスコミ論調や学説までをふくめて、その著しい画一化、あるいは経済における省庁主導の護送船団方式を想起してください。日本の政治でも、まだ複数政党制による政権交替が未熟という中進国段階にとどまります。最近はようやく、都市型社会の成立から、市民参加型政治家あるいは逆に大衆追従型(迎合)政治家(ポピュリスト)の登場を時折みるものの、全体としてはまだ、市町村・都道府県、国を問わず、国の官僚を中核に各政府レベルでの官治・集権型の政官業複合が政治を実質掌握しています。▼この政官業複合をささえるミクロ政治のムラ型と、それと重なるマクロ政治のマス型の同調文化は、市民の自立ついで経済・政治・文化の多元性・重層性、つまり「分節社会」をめぐる「寛容文化」とは異質です。しかも、寛容こそが、多元・重層の分節社会における合意手続きである「討論」の土壌なのです。▼ですが、市民活動を可能とする「言論の自由」が基調にあるはずのこの個人自由ないし寛容が、たえず復調するムラ型ついでマス型の同調性の前で危機にたつのが、都市型社会におけるマス・デモクラシーの問題性です。ここから、基本的人権、ついで社会分権・地方分権、また権力分立によって、多元・重層構造をもつ「分節政治」をかたちちづくっていく自治体・国・国際機構の各政府レベルでの「基本法」の策定、ついでそのたえざる再認識が、都市型社会ではつねに要請されます。▼日本での「公共」とは、これまでは、市民のヨコの相互性を排除した、市民と対立するタテのオオヤケなしオカミ、あるいは「官」ないし「国家」でした。だから、明治以降つい最近まで、日本の思想軸は、分節政治をかたちづくる「現代」以前、つまり「近代」の「国家対個人」にとどまってしまったのです。公共事業も「市民自治」からの地域づくりではなく、今日も「国家統治」による行政の土建事業あるいは景気対策にすぎないわけです。
(4)市民文化活動の自立と水準
▼1960年代以降、市民活動の出発段階では、①国の政治・行政ないし法制が「農村型社会」を原型とする時代錯誤のままのため何でもハンタイ型、あるいは②都市型社会への移行にともなうシビル・ミニマムの量的充足をめざしたモノトリ型とならざるを得ませんでした。しかし2000年代の今日ともなれば、①では、市民活動ついで自治体改革がおしすすめてきた機関委任事務の廃止という地方自治法大改正による法制改革が第一歩を踏み出します。また②でも、シビル・ミニマムの量充足はムダヅカイをした自治体の下水道をのぞいてほぼ終わるため、その質的整備があらたに課題となります。この①と②から、都市型社会本来の市民文脈がもつ、政治・行政、経済・企業、文化・理論の再編、つまり官治・集権型から自治・分権型への政策・制度改革が新たな課題となります。官僚組織を中核におく明治以来の「国家論」という虚妄は終わって、各レベルの政府にたいする「市民管理」つまり市民主体の「公共政策」再編という「実学」に転換すべきなのです。
▼ついで、明治以来、国の政治・行政による文化の制度化の終りにも注目すべきです。明治の教育勅語以降、帝国憲法とあいまって、いわゆる国家という名で政治・行政が文化統制の大枠をかたちづくり、最後には戦時中の国民精神総動員となったことはご承知のとおりです。だが、日本国憲法の戦後でも、旧来のムラ文化を基盤に、行政が主権者市民を教育するという官治型の倒錯した考え方を、「社会教育行政」がになってきました。1960年代以降の市民活動の出発は、それゆえ、社会教育行政つまり「国家」ないしオカミに対する、市民文化活動の自立となっていきます。このことを中心論点に松下圭一は1986年『社会教育の終焉』(筑摩書房)を著し、その直後の1988年、当時の文部省は実態は変わらないのにもかかわらず、社会教育局を生涯教育局と看板を書き換えます。
▼こうした背景から、市民文化活動を起点に、たえざる自治体改革、つまり既成自治体体質の自治・分権型への転換、さらに国自体の政治・行政の分権化・国際化が急務となっていくのです。とくに自治体では、行政の文化水準を上げるため、①「行政(自体)の文化化」という行政文化の見直し、ついで世界共通文化を視野にいれた地域個性文化の創出と、これにともなう②「地域文化戦略」としての地域雇用力・生産力の拡大が求められました。しかも、この地域文化戦略には、地域個性をもつエコロジー、地域史、デザインをふくみながら、その結集としての自治体計画による展開が求められます。▼文化の政官業複合とは、たとえば市民が自主性をもって開いているはずの展覧会などにも、情けないのですが、オカミからの総理大臣賞、文部科学大臣賞など、また知事賞などが出ているではありませんか。あるいはイベントなどでは教育委員会後援がアタリマエになっている政治風土(文化風土)がそこにあります。
▼1980年代頃の政治行政の基本課題は、国の通達・補助金を基本手法とするシビル・ミニマムの量充足をめざした大型土木・建築による新開発はほぼ終わります。ついで財政緊迫の2000年代に入り、ようやく各自治体独自の「地域文化戦略」による、人材やハコモノなど既存政策資源の再活性化によるシビル・ミニマムの質整備に課題が変わります。農村地区では近くの川や海を豊かにするエコ森林の造成、都市地区では防災、景観、環境の水準上昇をめざした大小の緑の導入といった、市民生活の質整備こそが市民ついで自治体の戦略の基本になります。
▼もちろん、行政の文化化では、長・議員、また官僚・職員それぞれの文化水準も問い直されます。自治体職員も、自治・分権型の発想による地域個性文化をかたちづくるプランナー型・プロデューサー型へと変わらざるを得ません。
(5)自治体による地域文化戦略
▼前述した都市型社会の市民文化活動が成熟すれば、政治行政から、あるいは企業からも自立し、サークル型ないしクラブ型を原型とした、地域からの自由な市民文化活動が基本となります。また加えて、①文化団体の自立、②文化産業の成立がつづきます。①については、スポーツをふくめて文化団体の類型化がむつかしいほど多様です。②の文化産業(日下公人氏が提起)については、マスコミ、出版、音楽、映像あるいは企画、デザインなどの企業、さらには美術館、博物館など、また研究所、大学、文科系専門学校などだけではありません。農林漁業をふくめ多くの産業が文化関連産業となっています。とくに建設・土木産業、緑化産業、看板・印刷業、IT産業、観光・レジャー産業、流通産業、飲食産業、服装産業あるいは交通・自動車産業など、広く考える必要があります。地域金融もありますね。つまり、私たちの今日の生活様式自体が文化であるため、産業の文化水準は市民あるいは地域の文化水準、市民あるいは地域の文化水準は産業の文化水準という循環関係にはいります。
▼松下圭一氏は1986年の『社会教育の終焉』で、社会教育課あるは社会教育行政を廃止し、行政全体の文化水準をおしすすめる、「行政の文化化」と「地域文化戦略」の構築をめざした文化行政を、長の部課に新設する「文化室」の担当とすることを提起するとともに、教育委員会を緊急性をもつ学校問題に特化させることを合せて提起しました。
▼その『社会教育の終焉』では戦後再編された社会教育行政について、次の五つの問題提起をした。
①主権者である成人市民を、行政が子供モデルで教育するというのはマチガイである。生涯学習と名称を変えても社会教育行政の温存をはかるにすぎない。
②社会教育行政の講座は広く浅い。思いつき型のナンデモヤにとどまる。もし子育て講座、地域づくり講座など市民が必要な講座の設置であれば、長の専門各部課が担当すべきで、そうなれば講座で発言する市民と自治体政策との間に市民参加の連携・緊張が可能となる。
③小型の公民館は文化室担当の貸し部屋に徹し、専従職員をおかず、市民運営・市民管理とする。この市民参加自体が市民の文化・政治塾度を高める。
④大型・中型の専門文化施設も、当然、市民参加を基本とし、タテ割り文部科学省から解放されている文化室の担当にする。
⑤長期・総合の自治体計画のなかに、地域の文化アセスメントを踏まえた、自治体による地域文化戦略の構築、位置づけが不可欠である。
▼くわえて以下の三論点は争点として公開されるべきであろう。
A 既成資源である旧来のハコモノの再活性化
①少子高齢段階への移行によって、人口急増地区をのぞき、子ども向けの保育園、幼稚園、学校は余りますが、高齢者向け施設が足りませんから、すでに旧厚生省・文部省の通達がでているように、空き教室などは改修したうえでの転用が求められます。
②世代別・階層別の児童用、婦人用、老年用などの多様な施設は、世代・階層ごとに活用時間などが特定されアキ時間が多く不効率になっているため、設置目的の見直し・再編が不可欠です。専従行政職員の必要性も改めて問題とすべきで、市民管理・運営に移行してよい分野です。
③専門施設としての音楽ホール、美術館、博物館、図書館、スポーツ施設などでは、その運営管理をめぐって市民参加の導入、これにともなう専門スタッフ、研究スタッフの資源ないし熟度、また責任が改めて問い直されるべきです。しかも、いずれも公立である必要はありません。個人や団体、企業がすでに設置していますし、あるいは民設公営、公設民営でもよいのです。
④ハコモノの運営管理は、人件費をふくめて毎年各施設ごとに、原価計算、事業採算の公開をすすめて市民とともに討議し、さまざまな手法の検討、あるいは廃止もふくめて、その管理運営方法の検討が緊急になっています。
B オマツリ型の文化イベントの見直しとその再活性化
▼ここでの再活性化の基本は、「文化行事」から「市民文化活動」への転換にあります。自治体からの補助金あるいは職員派遣によってしか維持できない文化行事はマンネリ化そのものです。自治体文化戦略からみて不可欠である特定のイベントあるいは文化財保護関係をのぞいて、自治体による「支援」ないし「協働」の廃止は当然となります。市民文化活動は、本来、行政からの自立が基本です。※この市民と行政の協働という言葉は、課題や責任の分担・ネットワークづくりは当然なのですが、最近はいつのまにか、行政による支援に化け、最後には行政による指導・育成にという官治スタイルに逆流しているのが実態です。
C 文化関連の自治体資源の見直しあるいは廃止
▼国による必置規制の廃止、緩和とあいまって、従来の社会教育主事、公民館主事、学芸員や司書など、また各種指導員などの資格要件についても、市民文化活動の活発となった今日、国基準をふくめて、各自治体独自の見識による実質廃止をふくめた見直しは当然です。資格要件と専門熟度とは別です。最近は熟度の高い中高年専門家の公募もはじまりましたが、従来の「資格職」養成・採用ルートとは異なった市民型発想の専門家は、市民型発想の大学教授と同じくいまだ少ないとしても、今後急速に登場してくるでしょう。
▼それと、これまで地域景観の貧しさを述べてきましたが、公共空間の公共設計という問題意識も1970年までは未熟だったため、建築という「点」中心の建築学科、道路や堤防などの「線」中心の土木学科が主流だった日本の大学では、地域を「面」としてとらえる公共設計にかかわる学科編成がたちおくれ、造園とともに、いまだに理論未熟・人材不足といってよいでしょう。この公共設計にかかわる職種は、法務・財務とともに、これからの自治体の戦略職種を担います。
▼地域個性をもち生活の質をかたちづくる地域文化戦略というこの課題領域は、遠く離れている国レベルの政府・官僚では対応できません。そこでは地域の文化活動をめぐる熟度やスキルを市民・自治体が身につけるといった「市民文化」の力量が問われているのです。
▼都市型社会にはいりますと、文化をめぐっては、市民活動の自由・自治を基本に、時間のゆとり、空間の豊かさを、生活ないし地域にいかにつくるかが問われます。人間は地球規模での仕事や観光、研究などで飛び回っていても、地域から解放されることはありません。人間は結局大地に帰ります。地域に帰るのです。以上で、市民文化の理論整理を終えます。
7.資料編
▼写真資料/「ルンビニの野外学校(ネパール)」、「劇団SCOT(富山県利賀村)」。
▼音楽資料/モーツアルト「ト短調の弦楽五重奏曲第4番K516」アレグロ(約10分)。
▼印刷資料/「(補論)市民文化の理論整理」。
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