2009年2月7日土曜日

なつめろ読み

『「甘えの」の構造・増補版』(土居健夫・弘文堂)から。▼人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛るということもできる。義理人情が支配的なモラルであった日本の社会はかくして甘えの瀰漫した世界であったといって過言ではない。▼伊丹十三が、日本人論は土居健夫「甘えの構造」と川島武宜の「日本人の法意識」を読めばいいとう話を思い出し増補版を再読。甘えの例証・傍証が多様かつ膨大でありました。図式化すれば数ページで収まりそうでした。ということで、さらに思い起こせば、70年代は、イ・オリョン「縮み志向の日本人」とか中根千枝「タテ社会の日本人」などの日本人論が盛んでした。二月七日(土)

2009年1月28日水曜日

色彩に乏しい生活

『意味がなければスイングはない』(村上春樹・文藝春秋)のづづき。▼「ジャズというのはね」と彼(スタン・ゲッツ)は晩年、あるインタビューの中で、まるで家庭の不快な秘密を打ち明けるように語った、「夜の音楽(night music)なんだ」。▼ブルース・スプリングスティーンはニュージャージー州の小さな町に生まれた。家は貧しく、両親は月々の支払いをし、テーブルの上に日々の食事を並べ、なんとか生き延びていくことで精一杯だった。子供たちはハイスクールを卒業したら(うまく卒業したらということだが)父親や祖母と同じ工場に就職し、ユニオン・カードを手に入れ、父親や祖母と同じような(色彩に乏しい)人生を送るのが当然と見なされていた。大学に進学するものはきわめて稀だった。多くの若者はワイルドで気ままな青春時代を送りはするが、そのような輝かしい日々もすぐに終わり、二十代初めには結婚して家庭を持ち、生活に追われながらそれぞれに退屈な大人になっていく。毎朝ピックアップ・トラックに乗って工場に出かけ、代り映えのしない仕事をし、日が暮れるとバーに寄って仲間とビールを飲み、相も変わらぬ昔話をする。それがアメリカの無数の小さな町で、世代から世代へと送り継がれてきた人生のパターンだった。そこには出口もなく、見るべき夢もない。その閉塞感は、名曲「グローリー・ディズ」の中で実に切々と語られている。▼ジャズは、日にちを跨ぐmidnight music。一月二十八日(水)

2009年1月27日火曜日

シューベルトの「ばらけ」

『意味がなければスイングはない』(村上春樹・文藝春秋)から。▼真摯で誠実な、気骨のあるマイナー・ポエト(minor poet)というのが、僕がその夜のシダー・ウォルトンから受けた印象だった。吉行淳之介氏がよく「僕は本質的にマイナー・ポエトなんだよ」と言われていたが、それに通じるところがあるかもしれない。時代を画する巨大な長編小説を書くことはないけれど、鋭敏な感覚で細部を穿つ短編小説や、淡色のヴェールがかかった親密な空間を描きあげる中編小説の領域にあっては、余人に真似のできない持ち味を発揮する。あえて言うまでもないことだが、人の心に届く音や言葉は、その物理的な大きさで計量できるものではないのだ。何もミュージシャンや小説家に限らずとも、数としてはそれほど多くはないにせよ、世の中には、こういうタイプの人が存在する。普段はおとなしくて、積極的に前に出て発言することもないから、そんなに目立たないけれど、大事なときがくると立ち上がって、言葉少なに、しかし整然と正論を述べる。その言葉にはたしかな重みがある。しゃべり終えると席につき、また静かにほかの人の意見に耳を傾ける。そういう人がいればこそ、世界のおもりみたいなものが、しかるべき位置に微調整されて収斂するのだという印象がある。シダー・ウォルトンはまさにそういうタイプのミュージシャンで、彼のような実力のある「隠し味」的な人がいてこそ、ジャズの世界も陰影と奥行きが生まれてくるのではないだろうか。▼シューベルトのピアノ・ソナタには、「冗長さ」や「まとまりのなさ」や「はた迷惑さ」がある。ベートーベンやモーツァルトにはない、心の自由なばらけのようなものがある。スピーカーの前に座り、目を閉じて音楽を聴いていると、そこにある世界の内側に向かって自然に、個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を素手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くまま描いていける。そのような、いわば融通無碍な世界が、そこにはあるのだ。ベートーベンやモーツァルトのピアノ・ソナタでは、僕らはその音楽の流れに、造形性に、あるいは宇宙観のようなものに身を任せるしかない。しかしシューベルトの音楽はそうではない。目線がもっと低い。むずかしいこと抜きで、我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる。そこにあるのは、中毒的と言ってもいいような特殊な感覚である。▼シューベルトの「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」なんかを聴いていると気持ちがばらける。まとまりはない。それがまたいい。一月二十七日(火)

2009年1月16日金曜日

水はバイブル

『メメント・モリ(改訂版)』から。▼水はバイブルである。火はアナキズムである。▼眠りは、成仏のための、日々の練磨のようなもの。一月十六日(木)

2009年1月6日火曜日

宇宙はどこから

『宇宙論入門』(佐藤勝彦・岩波新書)から。▼宇宙がうまれたときには、この世界にはある一つの力しかなかった。まず重力という力が生まれた。さらに温度が下がり、大統一理論に対応する力が生まれ、そこから強い力が分岐した。またしばらく経つと弱い力と電磁力とが分岐した。こうして現在われわれの宇宙を支配している四つの力が生まれてきた。▼私は大統一理論が予言する、宇宙の温度10の28乗度で起こる相転移が第一次相転移ならば、どのように宇宙の進化が変わるかを調べた。まず、相転移が遅れる効果により宇宙は過冷却を起こす。しかし、相転移が起こらないための真空のエネルギーは高いままである。真空が相転移を起こす前の宇宙の状態は、現在の真空よりエネルギーが高い。このエネルギーの差を「真空のエネルギー」と呼ぶ。真空のエネルギーは、アインシュタイン方程式の宇宙項と同じように、空間を押し広げる斥力のはたらきをする。宇宙の初期には、この真空のエネルギーの巨大な斥力が生じ、指数関数的な膨張が起こったのである。いわば倍々ゲームの膨張である。宇宙が素粒子のような小さな大きさから始まったとしよう。水素原子の中心にある陽子の半径は10のマイナス15乗メートルである。宇宙が最初この陽子の大きさだったとして、倍々ゲームを100回繰り返すとこの宇宙は太陽系を超え、140回繰り返すと現在見えている宇宙の大きさを超える。▼この急激な加速膨張はいつまでも続くものではない。真空の相移転の終了とともに、何百桁と増大した真空のエネルギーは潜熱として開放され、ふつうのエネルギーとなる。これは水蒸気が水になるとき、また水が氷になるときと同様である。このエネルギーによって、いろいろな素粒子(クォーク、レプトン、光子など)が生まれ、宇宙は過冷却の状態から一挙に火の玉宇宙が生まれる。ビックバン宇宙の誕生である。▼われわれの太陽は、あと50億年もすれば、大きな赤色巨星になって、地球も呑み込んでしまうであろう。いや、その前に、「知的生命体の社会は、高度な文明を獲得したときに100年程度で不安定になり自滅する」とイタリア生まれの原子核物理学者フェルミはいう。▼となると、今世紀が人類の「Our Final Century」 ということですね。一月六日(火)

2008年12月20日土曜日

よかったね 2

▼人類は葬礼という習慣をもつことによって他の霊長類と分かれた。ではなぜ、葬礼を行うのか?理由はひとつしかない。それは葬礼をしないと死者が「死なない」からだ。死者は生物学的に死んでも、私たちのまわりにとどまる。私たちは、死者の使った道具にその「魂魄」を感じ、死者のいた部屋に入ると、その気配を感じ、死者に祈ると、その声がきこえる。私たちは死者の祟りで苦しめられ、死者の気づかいで護られる。旧石器時代に、私たちの祖先は死者と生者のあいだに境界線を引くために葬礼の制度をつくった。▼死者という概念を私たちの祖先がつくりだしたのは、死んだ人間は「モノ」ではないという人間特有の幽かな感覚を基盤にして、「他者」という概念を導出するためではなかったか。「他者」という概念をもつものだけが共同体を構築することができ、「他者」を感知できるものだけが交換や分業や欲望や言語を創出することができるからである。▼親子や夫婦の関係のほんとうの価値は、「楽しい時代」にどれほどハッピーだったかではなく、「あまりぱっとしない時代」にどう支え合ったかに基づいて考量される。政治運動だってある意味それと同じである。落ち目のときに誰がどんなふうにその運動に付き合い、誰がどんなきちんと「葬式」を出したかということは運動の価値に決定的に関与するのである。▼原理主義者は「リソースは無限である」ということを前提にして、至純にして最高のものを求める。機能主義者は「閉じられた世界、有限の時間、限られた資源」の中で、相対的に「よりましなもの」を求める。どちらがよりよい生き方であるかは決しがたい。けれども、無人島に漂着したとき、どちらが生き延びる確率が高いかはすぐわかる。▼私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくら身体の動きがなめらかか、そういったさまざまな基準にもとづいて、私は人間を「格づけ」している。▼「女性的なもの」の本質は「無償の贈与」である。見返りを求めない贈物のことである。ユダヤ神秘主義の創造説話によると、神の最初の行動は「おのれ自身のうちに退去し、そこに空間を作った」ことである。つまり、神さまが席を立って、その空席に「はい、どうぞ」と被創造物を贈ったことによって天地は始まったと教える。レヴィナスはこの「女性的なもの=神的なもの」のうちに、人間と社会性、つまり共生のチャンスを根源的に基礎づける「倫理の最初の一撃」を見いだした。しかし、この「無償の贈与」という考想はいまのフェミニズムからずいぶん遠いものであるように私には思われる。▼むかし原理主義、いま機能主義。十二月二十日(土)

2008年12月7日日曜日

よかったね (380)

『こんな日本でよかったね-構造主義的日本論』(内田樹・バジリコ)から。▼私が二十二歳の時に書き飛ばしたアジビラの主張のほとんどに一片の共感も覚えもなかった。にもかかわず「人を挑発する仕方」、措辞の選択、語調やリズム感は、まぎれもなく私のものであるが、それが伝える「メッセージ」は、当の私でさえ覚えていないくらいだから、たぶんそこらで聴いた誰かの話の受け売りである。ということは、そういう「言い方」こそが私にとっては一次的なものであり、「言いたいこと」、コンテンツの方が副次的、派生的なものだということになる。▼強い言葉があり、響きのよい言葉があり、身体にしみこむ言葉あり、脈拍が早くなる言葉があり、頬が紅潮する言葉があり、癒しをもたらす言葉がる。現に、そうやって読み手書き手の身体を動かしてしまうのが「言葉の力」である。たくみな「言葉づかい」になるためには、子どものときからそのような「力のある言葉」を浴び続けることだけが重要なのである。その経験を通じて、はじめて「諧調」とは何か、「響き」とは何か、「論理性」とは何か、「抒情」とは何かということが実感としてわかるようになる。論理的な文章は「気持ちがよい」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」から、わかるのである。それを判定するのは身体的な感覚である。それは幼いころから美しい音楽を浴びるように聴いてきた子どもが演奏の半音のずれを「不快な音」として聴き咎めてしまうのと同じである。論理性を身につけるためには、論理の運びが美しい文章を浴びるように読む以外に手だてはない。「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する。国語教育とは畢竟それだけのことである。▼創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。それが言葉の力である。▼カランによれば、私たちが語るとき私たちの中で語っているのは他者の言葉であり、私が他者の言葉を読んでいると思っているとき、私たちは自分で自分宛に書いた手紙を逆向きに読んでいるにすぎない。▼母国語運用というのは、平たく言えば、ひとつの語を口にするたびに、それに続くことのできる語の膨大なリストが出現し、その中の最適の一つを選んだ瞬間に、それに続くべき語の膨大なリストが出現する、というプロセスにおける「リストの長さ」と「分岐点の細かさ」のことである。「海の香りが…」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。分岐点のないストックフレーズだと、ある語の次に予想通りの語が続くということが数回繰り返されると、私たちはその話者とのコミュニケーションを継続したいという欲望を致命的に殺がれる。「もう、わかったよ。キミの言いたいことは」というのはそういうときに出る言葉である。▼ストックフレーズを大量に暗記し適切なタイミングで再生することと、言語を通じて自分の思考や感情を造形してゆくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プログラムに身を投じることは、どちらも巧みにある言語を操ることだけれど、実はまったく別のことである。十二月七日(日)