2008年12月20日土曜日
よかったね 2
2008年12月7日日曜日
よかったね (380)
『こんな日本でよかったね-構造主義的日本論』(内田樹・バジリコ)から。▼私が二十二歳の時に書き飛ばしたアジビラの主張のほとんどに一片の共感も覚えもなかった。にもかかわず「人を挑発する仕方」、措辞の選択、語調やリズム感は、まぎれもなく私のものであるが、それが伝える「メッセージ」は、当の私でさえ覚えていないくらいだから、たぶんそこらで聴いた誰かの話の受け売りである。ということは、そういう「言い方」こそが私にとっては一次的なものであり、「言いたいこと」、コンテンツの方が副次的、派生的なものだということになる。▼強い言葉があり、響きのよい言葉があり、身体にしみこむ言葉あり、脈拍が早くなる言葉があり、頬が紅潮する言葉があり、癒しをもたらす言葉がる。現に、そうやって読み手書き手の身体を動かしてしまうのが「言葉の力」である。たくみな「言葉づかい」になるためには、子どものときからそのような「力のある言葉」を浴び続けることだけが重要なのである。その経験を通じて、はじめて「諧調」とは何か、「響き」とは何か、「論理性」とは何か、「抒情」とは何かということが実感としてわかるようになる。論理的な文章は「気持ちがよい」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」から、わかるのである。それを判定するのは身体的な感覚である。それは幼いころから美しい音楽を浴びるように聴いてきた子どもが演奏の半音のずれを「不快な音」として聴き咎めてしまうのと同じである。論理性を身につけるためには、論理の運びが美しい文章を浴びるように読む以外に手だてはない。「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する。国語教育とは畢竟それだけのことである。▼創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。それが言葉の力である。▼カランによれば、私たちが語るとき私たちの中で語っているのは他者の言葉であり、私が他者の言葉を読んでいると思っているとき、私たちは自分で自分宛に書いた手紙を逆向きに読んでいるにすぎない。▼母国語運用というのは、平たく言えば、ひとつの語を口にするたびに、それに続くことのできる語の膨大なリストが出現し、その中の最適の一つを選んだ瞬間に、それに続くべき語の膨大なリストが出現する、というプロセスにおける「リストの長さ」と「分岐点の細かさ」のことである。「海の香りが…」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。分岐点のないストックフレーズだと、ある語の次に予想通りの語が続くということが数回繰り返されると、私たちはその話者とのコミュニケーションを継続したいという欲望を致命的に殺がれる。「もう、わかったよ。キミの言いたいことは」というのはそういうときに出る言葉である。▼ストックフレーズを大量に暗記し適切なタイミングで再生することと、言語を通じて自分の思考や感情を造形してゆくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プログラムに身を投じることは、どちらも巧みにある言語を操ることだけれど、実はまったく別のことである。十二月七日(日)